2011年9月 目次
ふくしまのなし 佐藤真紀
むごうた――翠ぬ宝83 FJB48
夏休み 三橋圭介
犬狼詩集 管啓次郎
風と草 スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳
ムイファーが来た。 仲宗根浩
オトメンと指を差されて (39) 大久保ゆう
たまには 大野晋
「パンジー・スプー」上演 をめぐる問題 冨岡三智
言葉の花束を……。 若松恵子
しもた屋之噺(116) 杉山洋一
帰り道のお月さま 璃葉
製本かい摘みましては (72) 四釜裕子
雨の音に くぼ たのぞみ
掠れ書き16(漂う舟のよ うに) 高橋悠治
マフィンが売れないのは僕 のせいかな。 植松眞人
ふくしまのなし 佐藤真紀
むごうた――翠ぬ宝83 FJB48
われらありて、人力発電所を発明し、
子々孫々へ電気を送れ
ロンドンに飛ぶ火。怒れる若者の
怒りを集め、発電をなせ
死体から盗電われら― 引き込みて
明るく照らせ。裸電球
電熱のニクロム線を走らする
毛布。世界にたった一枚
日曜のあさ、静かなり。死体のかず―
夏の戸外に、累々と積む
熱風の泊原発、累々と
死者を積む 見え、小樽みなとに
放射線量 すでに致死。この国が
こうして滅ぶことを学んだ
静かなる朝陽さしくる日曜日。
放射線量 臨界を越ゆ
道路には死体散乱。どうやって
巣鴨駅までたどりつけるか
室内にいる私だけが助かって、
よいのだろうか。朝陽さしくる
(昔の連歌師たちが集まって連歌をなすのに、3日で1000句という、ものすごい勢いだったという。ひとりでなす場合もあり、それなら独吟 1000句だ。とても3日ではむりだとしても、どれぐらいできることか、八月の数日かけて短歌形式500余〈1000句あまり〉に挑戦する。 「うた」というのが内在化して、詩で言うとシュールレエルな支え方をしているのだな、というようなことは改めて発見したことどもであり、夢の 体験かもしれない。)
夏休み 三橋圭介
アメリカで書かれた現代音楽の本の翻訳を約7ヶ月間やっておりました。 アメリカの1950年代から1980年代の実験的な音楽を中心に、引用の織物のようにまとめられています。日本ではまったく知られて いない名前・作品も多数登場して、なかなか難儀な代物でした。前衛と実験というデンジャラスなフルコースを好き嫌いもいわずに食い散 らかし、腹痛と脳内爆発するスリリングな毎日は、今日で終わりました。本日、12時半に校了を迎え、原稿は出版者の方へとグッバイし たのであります。気が抜けて呆けて目はうつろというのはいい過ぎです。まだ意欲はあるようです。帰りに本を3冊買いました。一冊ア ヴァンギャルドと名前の付いた本もあります。日々の習性からか、思わず手が出てしまいました。一瞬ためらいましたが、この習性を生き るのもの人生かと思い、「エイ、ヤー」と買いました。もう一冊は森見登美彦の新釈「走れメロス 他四篇」です。「山月記」も入ってい るので買いました。中学生の頃、わたしはこれをすべて諳んじることができたのです(なぜか友人のなかで流行っていました)。「ろうせ いのりちょうははくがくさいえいてんぽのまつねんわかくしてなをこぼうにつらねせいけんかいたのむるとこすこぶるあつし…」、そして 虎の「あぶないところだった」というスリリング(?)なところが好きだったのです。新釈ではどんな風に表現されているか楽しみに読み ましたが、採り上げられていませんでした。残念です。もう一冊は秘密です。なぜって…。これから夏休み、精進しに京都にでもいきま しょうか。
犬狼詩集 管啓次郎
39
読むことがこれほど問題になった海岸はない
文字の海岸だ
文学の海岸だ
外国と外国語がさまざまなかたちで漂着する
陽光と砂と波の無限の演奏の中で
移民たちが生きるための説話を探している
そのころぼくはある言葉を発話してそれとは
まったく違うことをいうとか、同時にいくつもの
相反する意味を伝えることなどに没頭していたので
紫外線を浴びすぎることもまったく気にならなかった
そのうち自分が自分自身のメタファーでしかないような
人生に飽きてしまい、歩き出すことにした
海岸線とはそれ自体無限
一歩毎につま先がさす方向を変えるようにして歩きつづけた
魚の頭を嚙んでとどめをさす漁民たちに会った、その先に
ダイアモンドの頭を光らせて巨人が眠っていた
40
歩くことは穴に落ちることで
穴はときどきポータブルな海溝の深さをもっていた
まるで底が見えない怖さを反転させて
太陽ばかり見上げるようにした(見つめることができないものを)
水面下の一定のレベルで
マンモスが泳ぐところを想像してごらん
そんなふうに大きくひとつに群れた魚たちが
決然と一方向に泳いでゆくのだ
生命の回遊する層はいつでも頭上にある
そこでは聖アントニオが歴史的な説教をしている
やがて星から落ちてくるかけらを木の葉と思いこんで
にやにや笑う魚たちが上陸を計画する
それでぼくも水から上がることにした
熱い砂を裸足で歩くときがきた
その苦痛を乗り越えたとき空が紫色に光る
この苦痛を覚えておくため足首に墨を刺した
風と草 スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳
草がなびく
風が吹いてくるとき
風の行く方へと
草はなびく
こころがなびく
土地には歳月があり
天には星辰がある
風が還ってきて
ぼくはきみと出会う
草がなびく
眠りにつくとき
草は
じっとして
葉は 重なって並ぶ
冷気が
夜露が 涙をふりかける
魂のないやつのように
風もない まやかしもない
眠っているときは
時を超え 闇を超える
さわさわと風がわたる
おまえは流れに逆らわない
風は通り過ぎてゆく
おまえは風と戯れる
楽しげに
優しく揺れる力とともに
満たされたこころで
風 と 草
草 と 風 自由に
昼と夜は交替して
いつまでもめぐり続ける
風がかすかな音で ウィウ ウィー
草をなびかせてゆく
風がかすかな音で ウィウ ウィー
草をなびかせてゆく
マイタイおじさん、と同じアルバムに収録されている歌ですが、メロディに哀調があってひときわ印象に残ります。スラチャイの歌にはジャン グル時代の同士や田舎のおじさん、おばさんは出てきても女性が登場することがないので、貴重な歌です。うたっているのも女性歌手です。ス ラチャイが自分でうたっているのは「さわさわと風がわたる」で始まる一節だけ。ふたりめの奥さんとなった若い女性を暗示しているように聞 こえます。(荘司)
ムイファーが来た。 仲宗根浩
台風が来たのでいつものように仕事場はそれに備えて養生、最後の点検を終えて外に出た。腕や顔にあたる雨粒が痛い。駐車場へと歩いていると、 頬をたたかれたように一瞬、風で顔が振られた。雨と風の音の中で何かが転がっていく。メガネが飛ばされた。暗いので探すことができない。仕方 ないので車をメガネが飛ばされたところまで持って来て、ヘッドライトを照らし探す。なんとか見つかったのは左側半分。右側はあきらめ、車に乗 り込み、裸眼のまま運転する。前が見えない。仕方ないのでなんとか見つけ出した左側だけのメガネを左手で左目にあて、右手でハンドル、ウィン カーを操作しながらトロトロ運転をする。木は六月の台風でだいたい倒されたり、折れたりしたので道に大きな障害物は無い。停電で消えている信 号も無く家にたどりつく。
夜中、外はどんな具合かベランダの窓から見ると、逆さになったアンテナが一本のコードだけを頼りに風に揺れている。テレビはちゃんと映ってい るのでうちのアンテナじゃない。このまま風に飛ばされるのも危ないのでベランダの内側に入れて飛ばされないようにする。後日、アンテナを救っ たお礼に上の階のアンテナの持ち主からロールケーキをいただく。
朝になると会社から電話で本日休業とのこと。昼 間は二十分くらい停電があっただけでメガネ以外の被害はなく台風九号、ムイファーちゃんはゆっくりと沖縄を満喫していった。台風明けの旧暦七月七日、旧盆 前の墓掃除に風が少し強いなかでかける。墓に着いてもどうやって手をつけていいやら。できるものだけきれいにして、花を活け、線香をあげ、母 親と二人で旧盆を迎えることを伝える。
片方だけ残されたメガネは、もう右側のレンズだけ購入すれば済む。メガネ屋さんに行くと同じ型番のレンズは既に販売されてなく、結局新しく作 りなおすことになる。思わぬ出費。教訓、「台風のときはメガネを外せ!」
台風の後、七月に注文しておいた新しいパソコンが来る。ノートとデスクトップの二台。デスクトップはガキ用なので接続は本人にさせる。ガキの データファイルの移行も完了しおのれのノートタイプのパソコンのセッティング。まずメールのデータを移す。新しいOSに戸惑いながらもなんと か完了。使いにくいぞWindow 7。今まで使っていたプリンタ、スキャナーは十年選手なので対応のドライバがない。何か印刷するものがあればXPのパソコンにデータを移してやらなければ ならない。当分、新しい周辺機器は購入する予算がないので、XPのマシンにはもうしばらく働いてもらわないと。しかし新しいマシンは静かだ。 ファンがぶんぶん音をたてて回ることはない。データの移動はすべて終わり、あとは整理するのみ。
旧盆中、休みはなくしっかりと仕事。仕事前に親戚まわりをする。今年のお中元、お米の産地を気にする方々が多い。いま流通しているのは去年収 穫されたものなのに。これも放射能の影響。西表産の米を買い占める輩もいる。基地内で枯葉剤が使われていたことがニュースになり、戦闘機は飛 行中に燃料を垂れ流し、基地内のアスベストが使われた建築廃材が基地の外に出いつの間にか出され、久米島の北にある劣化ウラン弾をしこたま浴 びた鳥島の射爆場。沖縄のものだから安全、と必ずしもいえる状況じゃないとおもうけど。
オトメンと指を差されて(39) 大久保ゆう
長くお世話になった京都をついに離れることとなりました。浪人生の頃からなので、ええと、2001年――不穏な21世紀の始まり――ですか ら、およそ10年。もちろんそのあいだには色々とあったわけなのですが、特筆すべきは、あるいは特筆することがないがゆえ、とも言い換えられ ますが、(スーパーを除いて)とうとう〈行きつけ〉なるものができなかった、ということでしょう。
これはおそらく私の性格に起因するもので、そもそも自炊するので外食をほとんどしないことなどもあったりするのでしょうが、いつもふらふらふ わふわしていると申しましょうか、目に付いたお店に入って食べたり物を買ったりすることが多く、そのためいつも違うお店に行くことになるので す。もう一度そのお店へうかがうにしても、たいてい半年か一年か間隔があいたりしますので、もったいないことに、いわゆるポイントカードなる ものがまったく意味をなさないのであります。
なので、困る質問といえば「いつもどこで物(服や小物やスイーツなどなど)を買ってるの?」とか「行きつけのところにつれていってよ」といっ たものになりまして、それに対しては「いろいろ……かな」などとごまかしたり「う〜ん」などと悩む羽目になるというものです。
いつも一見さんであるわけですね。
こんなに京都にそぐわない人物であっていいのかしらとも思えるほどですが、基本的にはにこにこしていて害のない客なので、結局のところ私は京 都どころかあちこちのお店で誰にも顔を覚えられていないと思うのです。どこのお店にとっても、ふと現れて去っていく何でもないストレンジャー であるわけですね。まあでも、それは私が(おこがましいことではありますが)お店を評価する基準のひとつでもあります。
つまり、ふらりとやってきたにこにこ顔の人畜無害な相手に対して、そのお店がどう対応するかと申しましょうか、そういったときの初対面の印象 といったものをいつでも大事にしたいのです。すなわち、私も社交的であるからには、人にお勧めのお店を紹介することがあるのですが、そのとき 出すのは、だいたいがそういうファーストインプレッションの良かった店なのですね。
当たり前ですが、私に紹介された人もやはり、ふらりと初めて訪れるわけですから、私なんぞにもよく接してくれたお店ならば、きっとその人にも 気持ちよく応対してくれるであろう、という推測が働くわけですね。もちろんお店というものは常連さんに親しみを抱いてサービスしたりするので すが、近江の人間としては、異人に対しての歓待というものを、個人的にはより大事に見たいのですね。
なんと言いますか、私は閉鎖的なものに生理的な気持ち悪さを抱くらしく、たいへん申し訳ないことではありながら、この10年のあいだに受けた 会員制のあれやこれやのお誘いをその都度さまざまに考えたあげく、お断り申し上げて参りました。同じように、誰かのご紹介であらかじめ話をつ けて、という形での来店も、なんやかや理由をつけて、行かなかったというパターンが非常に多いです。(ちなみに誰かの付き添いという形でのお 誘いは、ほとんど受けています。もちろん、おすすめされたお店についてもちゃんと行きます。)
そんなわけで、ということでもないのでしょうが、私にとっては初対面の人も、昨日会った人も、一年前に会った人も、十年前に会った人も、今日 会ったからといって、接し方に大きな違いはありません。ところや人や場面によって、あんまり変わらない、と言いましょうか。というよりも、差 を付けるのがちょっと嫌なのかも。礼儀があるじゃないか、と言う人もあるでしょうが、たいていいつも品よくあろうとしているので、親しい人に 対してもそうじゃない人にも、だいたい私は丁寧だと思います。(口調が表面的に変わるくらい、かな。恩や義理のある方に対しては別の意味で違 いますけれども。)
たまに、「どうしていつもそんなに丁寧なのか、優しいのか(?)」と聞かれるのですが、自分ではあんまり意識していないのですよね。それはた ぶん、突き詰めれば、いつどこで誰と出会っても、相手を〈歓待すべき他人〉だと思っているからなんではないでしょうか。もちろん、相手の態度 にもよりますし、お人好しではないつもりではありますが。
万事がこんな調子ですから、他人からしてみれば、私はつかまえづらい人であるようです。相手を特別と思いたがる・特別にしたがる人(あるいは 自分を特別にしてほしい人)にとっては、どこまでもやりづらい人であるでしょうし、お誘いという側面では、声をかけられたらそれなりに顔を出 すけれども、それ以外のときはいつもふらりふわりしてますから、あえてつなぎとめないとすぐどこかへ行ってしまいますし、ある種の所有欲を満 たすには、かなり不適な対象でしょう。八方美人、というわけでもないのですが。
あ、いや、別に〈みんなの××〉みたいなのを目指しているわけではないですよ、その。
たまには 大野晋
たまには違う方向から物事を考えてみる。それが新しい姿を見せてくれることもある。
3月11日の地震は大きいとは思ったが被災地の被害はそれほどのことはないだろうと思った。日本の建物の耐震性は非常に高い。揺れただけでは 甚大な被害になるとは思えない。しかし、津波という単語を聞いた途端、私は奥尻の悲劇を思い起こして愕然とした。最近の地震で揺れで多数の人 間が死ぬということは滅多にない。特に耐震基準の厳しい日本では特にそれは言えている。しかし、大きな津波や火災など、地震の2次被害が大き なダメージを与えることになる。津波という単語を聞いて、マスコミは何も伝えなかったが、私は最悪を確信した。
被災地の様子を映像で見て、これは戦場だと直感した。人間相手ではないが、大きな破壊に対して、国民を守るにはそれ相応の装備と覚悟が必要 だ。日常で対応する警察や消防、ましてや住民のボランティアで成り立つ消防団ではこの大きな破壊には立ち向かえなかっただろう。自衛隊の周囲 の国に対するハデやかな武器の装備は役に立たなかったが、有事に対する意識と装備が今回、非常に役に立つと確信した。願わくば、この心意気が 多くの外国の人々にも理解されて、軍備に頼らず、有事に立ち向かう国として理解されれば、もっと、尊敬される国に成れるのかもしれない。ただ し、核被害にはなにも装備がないというお粗末さも垣間見た。核物質で汚染されたかもしれない場所で、巡視や住民、資材の移動に使える装備がな さそうだったのが問題に思えた。
原子力発電所の対応にも不満が残った。原子力発電所の推進派ではない(中立であったり、擁護したりするとすぐそう批判する多くの論評には辟易 とした)が、単純に核は怖いと逃げる気にもなれなかった。広島、長崎の方たちを考えても、大気圏内の核実験がハデヤカだった時代のことを考え ても、マスコミのただ不安を煽ればいいといった論調は不満だった。後にデータが出たが、やはり、私たちが生まれた頃の汚染状況の方が福島の事 故よりも悪かった。隣の韓国では、日本からの放射性物質だと騒ぎになったが、実は中国から黄砂とともに飛んできた放射性物質が降り注いでいた だけだった。それは同様に黄砂の降り注ぐ日本でも変わらないだろう。論理的にありえないといっても、ただただ、パニックになっていたのは Y2K騒ぎのときの世界と一緒だった。あの時、メーカの対応側にいた私は、今回も相変わらず繰り返す、不安をあおるマスコミの騒ぎに愛想を尽 かしていた。
それにしても、限りある対応策の中で最善の結果を導き出した原子力発電所の現場の方たちは立派だった。特に雑音を自らの職責でシャットアウト した所長は管理職として、技術者として立派だと思う。願わくば、あの経験と知識が後進に伝えられ、多くの原子力発電所の安全対策に生かせる立 場へ積極的に登用してもらえればと願いたい。おそらく、日本の組織では、あそこまで上にたてついた人間に昇進の目はないだろうから。(あれ ば、東電は立派な企業なのだろう)
全ての電源を喪失する。そうしたリスクに対する備えの貧弱さも気になった。おそらく、電源が十分に確保されていればベントの必要などない。電 源供給が十分ではない状態で、いかに安全に原子炉を守るかといった観点で、設備や装備、対策が見直されるべきだろう。
自然エネルギーだとか、再生可能エネルギーだとかに過大な期待をかけるのも間違いだ。だだっぴろい荒野を持たない日本ではメガソーラーだと か、巨大な風力発電だとかは用地の確保からして夢物語だろう。それこそ、東京の建物を7割削って、高層マンションをなくし、花火大会をあきら めて、隅田川の河川敷に数百本の風車を造るくらいの覚悟がなければ自然エネルギーは解決策にはなり得ない。むしろ、大都市のエネルギー問題 を、都市から離れた田舎に転嫁する、今の原子力発電と同じ構図を描くものだと心得た方がいい。おそらく、協力金といった富の再配分がない分、 自然エネルギーの方が原子力よりも地方にはむごい仕打ちになるだろう。
日本を分断する電力周波数の問題や、エネルギー利用地(大都市)の集中の問題、用地、適地の不足。他産業との利害の調整、四方を海に囲まれて しかも地震が多いというLNGパイプラインに不適な地理的な問題など、多くの問題を考えると、現状では原子力’も’使い続けるというのが現実 的な選択肢のように思える。
できる限り、安全な対策を施すことと、一から設計、運用できる人材を育て続けることで、世界から頼りにされる国になれば、それはそれでよいこ とのように思う。今、一番問題なのは原子力の問題から目を背け、もしくは問題を曲解し、もっているはずのきちんとした知恵を持たないことだ と、マスコミを賑わした自称専門家たちの様々な意見を聞きながら感じた。同じデータを使ってもバイアスがかかれば、自分たちのイデオロギーに 都合が良い正反対の結果が出る。
福島第一原子力発電所の安全はすれすれのところで、現場の技術者たちが守ったが、発電所の外は何も守れなかった。雑音(バイアス)が多すぎ て、むしろ信頼できる情報が埋もれてしまった。放射線と人間と医療の研究や知見、施術をどこが担うのか? 原子力を根本から理解し、現場にき ちんとアドバイスできるのはどこなのか? そういったところをひとつひとつ考えていく必要がある。
そのとき、反核も、原発推進も、お題目は必要ない。感情やイデオロギーを超越して、冷静に問題に対峙できる、そうした人たちがおおくいて欲し いと思う。日本は世界で唯一の原子爆弾の被爆国のはずである。そして、世界で数えるくらいしかない商業原子炉を作れる技術を持った国でもあ る。その国に、放射線医療や放射線対策、事故対応に長けた技術がないというのは理屈に合わない。本当に、理屈に合う国に成って欲しい。
生物は突然変異で進化してきた。
その突然変異には地球に降り注ぐ放射線が欠かせなかった。
今も古代の姿をとどめるシーラカンスなど古代の魚たちが深海で発見されるのは進化の仕組みとは無関係ではないだろう。放射線を遮蔽する水の底 だからこそ、古代の姿の生物がそのままに保存されたのではないだろうか? 反対に考えれば、私たちは常に放射線の中で生きている。放射線に天 然も、人工も違いはない。いや、原子力発電の仕組みも遠く太陽などの恒星の仕組みを真似しているに過ぎないのだ。無関心は問題だが、過度の拒 絶反応も必要ないだろう。一定レベルの放射線による被爆では、我々は影響を受けることはない。あればすでに滅びている。むしろ、必要以上に心 配するストレスの方が多くの問題のもとになる。
かつて、我々はもっとひどい放射能の中にいた。少なくとも1960年代以前から生きていた人たちはそんなひどい環境で生き延びてきている。過 度の心配の必要などないと判断する根拠はそんなところにもある。それでも騒ぐなら、それは広島や長崎出身だからといって、縁談を破談にした、 私の小さなときには結構いた、非論理的なわからずやたちと一緒だと言いたい。
結局、私の思考というものは、たまではなく、普段から斜め向きなのだと話をまとめていて、いま気が付いた。
「パンジー・スプー」上演をめぐる問題 冨岡三智
2011年8月12、13日、ジャカルタのサリハラ劇場で舞踊作品「パンジー・スプー」が上演された。この作品の公演プログラムからうかがえ る製作の問題について、私が書いた批評が全国紙コンパスの21面(芸術面)に8月21日(日)付で掲載され、それに対して、グナワン・モハ マッドが書いた反論が翌週28日のコンパス21面に掲載された。ちなみに、この論争はコンパス紙に掲載される前から今に至るまでフェースブッ ク上で続いているので、アカウントを持っている人でインドネシア語ができるという人は、ぜひのぞいて欲しい。今回は、この一連の論争について 書いてみる。
「パンジー・スプー」はスリスティヨ・ティルトクスモの作品で、1993年にジャカルタで初演され、1995年までの間に国内、およびオース トラリア、韓国で計23回上演された。ここまでが最初のプロデューサーによる製作である。その後、別のプロデューサーによって2006年にシ ンガポールで、今年ジャカルタで再演された。スリスティヨは2006年までは作品に出演していたが、今年は出演していない。最初から通して出 演しているのは男性舞踊家のパマルディのみで、最初の製作と2番目の製作とで女性舞踊家は総入れ替えとなっている。
私の批判の趣旨は、公演プログラムの書き方のいい加減さには、公演製作の問題が反映されているというものだ。
まず、一番の問題点は、ストラダラ(芸術監督、演出、振付などを兼ねた、作品のすべてに責任を持つ人)のスリスティヨの名前がクレジットされ ていないこと。演出家とプロデューサーが書いた記事の中でそれぞれ1度ずつ名前が出て来るが、正式なにクレジットがない。にも関わらず、ユ ディの演出は基本的にそれまでの場面構成や演出をほとんどすべて踏襲しているしかも、再演ならば、普通は元々どんな作品だったのかという説明 やそれまでの公演の舞台写真があったりするものだが、1993年に初演したという記述以外何もない。そのため、ぱっとプログラムを読んだだけ では、ユディの新作だと誤解されても不思議ではない書き方になっている。事実、公演を見ていない人にこのプログラムを読んでもらったら、やは りそんな風に誤解した。
さらに、演出家とプロデューサーの文章では、かつて、スリスティヨと作中の歌の歌詞を書いた文筆家のグナワンと作曲家が「パンジー・スプー」 をコラボレートしたと書かれている。この記述は今年のプログラムで初めて現れた。1993〜1995年のプログラムでは、この3人のコラボ レートだとは一言も書かれていないし、インドネシアの パフォーミング・アーツ事典でも、スリスティヨの作品として明記されている。さらに私が当時のオリジナルキャスト全員にヒアリングしたところでも、振付に 関してはスリスティヨと他の舞踊家がコラボレートしているが、あくまでも作品の責任者としての作者はスリスティヨである、後の2人は詩と曲を 提供しただけで、コラボレートしたと言えるような関わり方ではない、という見解で一致している。
また、初演からずっと出演している唯一の舞踊家で、作品の中で主役の王を演じるパマルディの名前が、サリハラ劇場が出している月間プログラム やブログサイトには出ていなかった。それなのに女性の踊り手の名前だけが出ている。これは全くおかしい。パマルディは現役芸大の先生で今年で 53歳。あとの出演者は20代から30代初めで、彼女たちは群舞である。さすがに公演プログラムに名前は入っていたが、格下の女性の踊り手、 男性の補佐的な役割をする出演者とまぎれるように名前が出ていて、これは失礼な扱いだ。
つまり、1993〜1995年の上演の歴史、上演に関わった人の名前が意図的に消される一方で、かわって、新たにコラボレーターを名乗る2人 が作品を乗っ取ろうとしているかのような印象がプログラムから読みとれてしまうのだ。なので、プログラムを作成するに当たっては、原作者と作 品の歴史を尊重して言及した上で、今回の再演についての情報を掲載すべきだと主張した。しかしそれに対するグナワンの反論記事はかなり感情的 で、「スリスティヨはパンジー・スプ―のストラダラではない」、「だれが"白鳥の湖"初演のストラダラのことなど気にする?」とはっきり書い ている。(しかし、"白鳥の湖"の初演情報はかなり残っているのだが…)
サリハラはグナワン・モハマッドがパトロンとなって作った芸術家集団が運営している。グナワンはスハルト時代に言論の自由を求めて闘争した ジャーナリストで、テンポ誌の創刊者の1人だ。芸術、メディアの先鋭的な集団であるサリハラが作ったプログラムとしてはいかにもお粗末だとい う以上に、サリハラにしてこのレベルというのが私には非常に残念だったし、言論の自由を求めるグナワン(の集団)が他の芸術家の作品を食い物 にするという現象に、皮肉なものを感じ取る。
私の記事が新聞に出て、思った以上に反応があった。私に賛同するという反応がメールやSMS(携帯電話のショートメール)や電話で数多く届 き、また、フェースブックでは友達リクエストが激増した。もっとも、プログラムの記述なんてどうでもいいじゃないか、という反応もあった が…。傑作だったのは、「インドネシアには、作品の経歴を大事にするという発想も、公演プログラムが大事だという発想もなかった。あなたの意 見はとても新しい!」という感想。
興味深いのは、私の記事に反応してくれた人の多くが美術家、作家、芸術イベントの製作に携わる人、ネットワーカーである一方、パフォーマー、 しかも伝統芸術分野の人の反応がとても鈍いことだった。美術家、作家が鋭く反応してくれたのは、著作権の概念が確立している分野だからだろ う。私が記事で書いたような事件はパフォーミング・アーツで起こりがちであるので、しかも実はこのスリスティヨというのは、インドネシア観光 文化省の芸術局長という、この分野では有名な人なので、舞踊家や音楽家がもっと反応してくれると期待していたのに、声をひそめている。自分の 問題として捉えていないのか、サリハラが恐いのか(事実、パフォーミング・アーツの人でサリハラを批判する勇気のある人はいない、と私に言っ た人もいる)、それがちょっと残念だ。
言葉の花束を……。 若松恵子
『いまだから読みたい本―3.11後の日本』(坂本龍一+編纂チーム選/小学館)という新刊を本屋でみかけた。ふと横を見ると『ろうそくの炎 がささやく言葉』(管啓次郎・野崎歓編/勁草書房)という新刊も並んでいて、本屋が並べたわけだけれど、震災後の同じような時期に出版された 2冊のアンソロジーに興味を覚え、両方とも買って帰ることにした。ついでに最近書評で知った『通勤電車でよむ詩集』(小池昌代[編 著]/NHK出版)も棚からみつけ出し、3冊のアンソロジーを手に入れたのだった。
『いまだから読みたい本―』の前書きのなかで、坂本龍一は、「3・11以降だからこそ胸にひびいてきた言葉」があると書いている。インター ネット上に誰かがポストした言葉や文章に刺激されて、自分でもいろいろな本を再読するなかで、こうした非常時だからこそ思い出した、あるいは 胸にひびいてきた本がたくさんあったというのだ。「友人たちとFaceBook上でたくさんの文章や本を挙げていくなかで、それを本にしよう という話が起こり、であるならば、ただ個人の関心を追及するばかりではなく、もっと多くの人に共感してもらえるような読書案内にしよう」、 「こういうときだからこそ、心にひびくたくさんの言葉を集めて、少しでもだれかの役に立てばと願って」編んだのが、この本であるという事だっ た。
『ろうそくの炎がささやく言葉』のあとがきで編者は、「人間のひとりひとりはあまりにも弱いので、私たちは感情をも言葉にして分かち合い、そ こから力を汲み上げる工夫をしなくてはなりません。その作業に直接役に立つ本を作ろう。たとえば、しずかな夜にろうそくの炎を囲んで、肉声で 読まれる言葉をみんなで体験するための本を。それがこの企画の出発点でした。」と述べている。「言葉だけでは復興は不可能だとしても、復興は 言葉の広がりの中で勢いを得るはず。」「復活を希求する言葉の広がりに、新たな響きを少しでもくわえられたらと願って」「ただ言葉の花束を編 もうと決め」つくったのがこの本だという。
坂本氏も管氏も、3・11の震災以降、言葉を失って呆然とする体験をし、災害を報道するマスメディアの言葉にむなしさを感じ、しかし、一方で 言葉によって再生をしたと語っている。
アンソロジーとは何か。まず、心に響き、忘れないようにと書きとめた言葉があり、やがて、それを誰かに贈りたいと思う。あの人なら受け取って くれるはずたという期待、この言葉を受け取ってくれる人を広い世の中から探したいという思い。受け手にとっては、その言葉を選んだ人を通し て、新たな言葉と出会うというおもしろさ。
『いまだから読みたい本―』の冒頭には茨木のり子の「大男のための子守唄」が掲げられている。この詩に触発されて、『茨木のり子集 言の葉 2』を読み返す。金子光晴について語ったエッセイは、「無造作に投げ出されている金子光晴の言葉は、出土品の玉のように美しい。手作りで、磨 き抜かれていて、とろっとしている。時の風化に耐えてきた、これからも耐え抜くであろう底光りがある。私はこれらを見つけるたび、ほくほくし ながら、だいぶひろってきたのだった。」という魅力的な文章からはじまる。そして、ひろってきた玉の、水晶だけ拾って貫けば「抒情詩人」、ト ルコ石だけ連ねれば「水の詩人」と、金子光晴の多様な魅力について、鮮やかなイメージで描き出している。
ほくほくしながらひろってきて、自分だけの首飾りをつくる。このイメージはアンソロジーを編むこととそのまま重なる。選ばれた言葉が唯一無二 なら、それを見つけ出した人も唯一無二という感じだ。見たてと配列の妙によって、作品の魅力もさらにひきたつというものだ。
そして管氏は、アンソロジーを、肉声によって届けたいと言っている。しかも、電燈ではなく、ろうそくの灯りのもとで。直接声が届く距離で伝え る大切さ。肉声で読まれる言葉をみんなで体験する大切さ。朗読には時に手拍子や、共感の合いの手(イエーィなんての)が入るかもしれない。言 葉の合間に、楽器が鳴らされれば、もうそれは音楽だ。
そういえば、夏フェスで、リスペクトに満ちたカバーを聴いて感動したのも、このアンソロジーとおなじようなことだったのだと気づく。
しもた屋之噺(116) 杉山洋一
みさとちゃんの「瀧の白糸」二回目の公演を終え、漸く就学児となり会場で演奏を聴けるようになった息子を連れ、先ほど帰宅しました。前回の公 演は、まんじりともせず画面に見入って、殺陣の場面が強く印象を残したようで、帰りしな繰り返し話してくれましたが、今回は、また見たいとせ がむので連れてゆくと、始まってすぐに「またこの映画なの!」と落胆を顕わにした後、ずっと眠りこけていたそうです。今回面白かった場面を尋 ねると、記憶にないと至極真っ当な返答が返ってきました。
ところで、みさとちゃんの「瀧の白糸」は、演奏する程に面白みが増して飽きることがありません。奏者それぞれに違った旨みが感じられる筈です が、指揮する立場からすれば、演奏の度に映画を相手に鬩ぎあう臨場感と心地よい緊張はこの曲独特のもので、同期に夢中になるより寧ろ、映画と 音楽が互いに影響し合ってきざはしを一段一段昇るのを確かめる感覚に近いと思います。前回の演奏から久しぶりに楽譜を開くと、それぞれの素材 が実に無駄なく、有機的に書かれていることに感嘆しました。
本番前、ふらりと楽屋を訪ねてくれたみさとちゃんと雑談しながら、作品が全体の構成から音の選び方まで、思いがけず論理的に書かれていること に気がついたと話すと、「そうなのよね。でもそれは実は偶然なの。実際のところ、どうやって書いたのか記憶にないのだけれど」と彼女らしく答 えてくれました。偶然であっても、透徹とした客観性は最後まで貫かれていて、映画に媚びずに、一定の距離を常に保ち続けて相手を見据えてい て、「だから旨く映画と音楽が融合するのかなあ」。そんな話をしていると会場の呼出しベルが鳴って、「ここにわたしのバッグを置かせておい て!」と慌てて客席に走っていきました。何と言っても今回は演奏家の皆さんが白眉で、ほんの少し顔を向けるだけで思った通りの音を返してくれ るのです。ですから本番中も驚くほど魅力的な音が沢山あって、冥利につきると思っていましたが、実際のところ「瀧の白糸」は指揮者は殆ど何も しないので、演奏者と作曲者の技がより際立ちます。
この一週間前まで、まるでジャンルの違う「ファルスタッフ」にかかりきりでしたが、「ファルスタッフ」の初演と「瀧の白糸」の原作、泉鏡花の 「義血狭血」は図らずも1年違いで発表されていて、「ファルスタッフ」と「瀧の白糸」の現代語からの距離感に、ちょうど似た部分を感じまし た。実は日本語の方がよほど変化が早い印象を持っていたのですが、近代から現代にかけての変化は、見たところ同じ程度で、なるほど「義血狭 血」を読む感覚で、現在のイタリア人はヴェルディのオペラを聴き、読み下しているのかと、ずいぶん乱暴な論法で溜飲を下げたのです。
この夏は地方に出掛けている時間が長く、インターネットでニュースを読むより、毎朝気に入った新聞を買って、くまなく読む習慣がついたのです が、膨大なインターネット情報を選んでいるより、新聞を一紙読みきる方が、ずいぶん充実感があるのに驚きました。休み時間には、本も駅の本屋 で買い込んだりして随分読みましたが、特に印象に残っているのが溜池山王駅の本屋で購入した内澤旬子さんの「世界屠畜紀行」だったのは、実は イタリアに住み始めてすぐの頃から、屠畜について気にかかっていたからでもあります。
留学して二年目くらい、仲の良かった近所の八百屋の親父に、とびきり美味くて安いステーキを買いにゆくからと連れて行ってもらった肉屋は、街 外れの野原にぽつねんと建つ看板すらない普通の一軒家で、細い道路を隔てて向い側には、2、30頭の肉牛が牛舎で飼われていました。不思議な 肉屋だと訝しがりながら友人の後をついてゆくと、玄関の扉の前に地下室に降りる細い階段があって、そこから胸を突き上げるむっとした生肉と血 の強烈な臭いが漂っていたのを覚えています。友人に分らないようにそっと息を止め階段を降りてゆくと、天井からぞんざいに吊り下げられた血も 滴る枝肉が並ぶ中で、赤く染まった白いツナギの作業服姿の、肉屋の主人が黙々と枝肉を切り分けていました。
痩せ型で少し頬もこけた主人は口数も少なく、不気味に感じたのは雰囲気に呑まれていたからに違いありません。友人は挨拶もそこそこに、嬉々と してどの肉でステーキを十枚、自家製ソーセージ十何本とごっそりと頼んでいましたが、「今朝屠ったばかりで、きっと旨いよ」と応えつつ、厚切 りのステーキを一枚一枚切り落としてくれました。初めて嗅ぐ強烈な臭いに食欲などとうに失せていたのですが、折角だからお前も買っていけと強 く勧められ、仕方なく2、3枚血の滴る生臭い肉の塊を包んで貰って持ち帰りました。帰りしな細い階段を昇って外に出ても、生臭い臭いは身体や 服にすっかり染み付いていて、吐き気すらこみ上げてくるのを我慢して友人の車に乗り込むと、牛舎の方からか、「パン」と乾いた銃の音が辺りに 響きました。
祖父が生前網元で、子供の頃から魚を食べて育ってきたせいか、元来肉食に特別な愛着もなく、ただ生臭い肉片を冷蔵庫に残しておきたくなくて、 その日の夕食に早速塩コショウをして調理したのです。正直なところ自分では臭くて食べられないのではないか、そんな危惧すら持っていました。 ところがどうでしょう。口に入れた瞬間、今まで食べたこともないほどの美味しいステーキの味に、思わず鳥肌が立ったのです。信じられないよう な肉汁と旨みに、官能的なほどの感激とえも言われぬ罪悪感との間で、人生が引っ繰り返る程の衝撃を覚えました。
あの時あの肉片を嫌悪感を持って口に運び続けていたなら、或いは後に菜食主義者になっていたかも知れませんが、ともかくあのステーキは理屈抜 きで自己嫌悪を覚えるほど美味だったのです。それ以来、ことあるたびに屠畜について考えるようになり、自分たちが日々頂いて暮らしている命に ついて考え、あの体験に深く感謝するようになりました。もう少し大きくなったら、普段スーパーマーケットのパックの肉片しか知らない息子に も、ぜひ同じ体験をさせてやりたいと思っています。
そうして「世界屠畜紀行」を読み終えたとき、ふと今まで自分が余りに無知だった、原発との関わりともどこか似通っている部分を薄く感じていま した。今回数ヶ月に亙り地方都市に通っていると、東京では見え難い様々な社会の構図が浮上って見えることもあり、たくさんのことを学びました が、その中で、原発問題は思いもかけず自分たちの仕事から遠い存在ではないことも知りました。何れにせよ自分のように外国で過ごす時間の長い 人間が考えたところで、誰に対しても無責任な発言しか出来ないのは明白で、自分に与えられた仕事を、せめても誠実に精一杯に勉めるより仕方が ないと思っています。
先述の通り、今回日本で仕事をするなかで、日本の演奏家の飛び抜けて高い技術や意識の高さに改めて感激しましたし、演奏家や作曲家だけなく聴 き手の存在も含め、音楽文化に関わり支えている全ての人に対して、心からの敬意を新たにしました。これだけ生活が豊かになったなら、ともすれ ば意識が希薄になって白けてしまいそうなところを、常に謙虚で弛まない向上心を持ち続けていることに強い感動を覚えたのです。それは自分に とって何にも代え難い未来への希望を体現していて、日本での無数の出会いにこれほど励まされるとは思いもかけませんでした。ミラノに戻ってそ の感謝の気持ちを些末であれ社会に対してどう還元してゆけるのか、そう考えれば襟を正さなければならない気もするし、不謹慎とは自覚しながら も、沢山の思い出を旅支度に詰めつつ少しばかり胸を躍らせてもいるのです。
(8月28日三軒茶屋にて)
帰り道のお月さま 璃葉
8月のまんまるな月は、深みのあるオレンジ色。
すっぽりと収まりたくなるような、まるい月。
いつも見慣れた、冷たく光る覗色(のぞきいろ)のそれとは違った、
暖かい色で、高級なチョコレートのよう。
チョコレートにはあんまり興味がないけれど、
あの丸く美味しそうな月なら、手をのばして
取って食べてしまいたい。
小さい頃読んだエリック・カール作の「パパ、お月さまとって!」
という絵本を頭に浮かべて、そう思った。
あの子供は、まさか月を食べたいとは、思わなかっただろうな。
製本かい摘みましては(72) 四釜裕子
新宿二丁目、階段であがったビルの四階の小さな部屋に入ると、うずたかく積まれた新聞に埋もれるようにして、床に座ったひとがいる。しゃばっ、しゃばっ、
と、新聞をめくる音。たまった古新聞を読み直している、らしい。壁の二面には新聞が几帳面に貼られており、手前のテーブルにはまとまった量の
新聞が置いてある。奥にノートパソコンとインクジェットプリンタ。新聞をめくっていたのは写真家の岸幸太さん。これまで東京の山谷、横浜の寿
町、大阪の釜ヶ崎でくりかえし撮影してきた写真を新聞紙に出力して、一冊の本を作っているのだ。写真展「The books with
smells」(2011年8月23日〜 9月30日)の会場である。
小さくプリントした写真を片手に、写真家は古新聞を延々めくる。記事の内容、レイ
アウト、色に、どの写真をどう重ねるか。決まったら、新聞は断裁することなく実物をそのままプリンタにセットして一部ずつ出力する。写真はす
べてモノクロだ。黒字に白で抜いた記事の太文字はどんな写真が重ねられてもよく目立つ。逆に写真の小さな白地が、小さな記事の小さな文字を引
き立たせることもある。広告写真と一体化したところもあるし、写真を重ねていないところもある。おもしろい。
とはいえなにしろ「新聞」だから、記事を読んでしまう。東日本大震災の記事が目立
つ。まもなく半年。忘れたつもりはない。だが、おはようを言い、コーヒーを飲みながら新聞を開く毎日の朝は、昨日までを忘れることに違いない
ことも知る。気が遠くなる。テーブルから離れて、壁に貼られた作品を見る。一歩二歩と後ろに下がると、写真に写るひとびとが飛び出して見えて
くる。新聞の文字がテレビのテロップ、というよりはナレーション、というよりは、雑踏のざわめきとして聞こえてくる。遠くなった「気」が戻さ
れる。
「The books with
smells」は最終的に、新聞紙100枚に両面出力した400ページ前後を糸でかがって本に仕上げるそうである。インクがのることで新聞紙には今のとこ
ろハリを感じるが、これから日々朽ちてゆく。期間中様子を見ながら、いくつかの選択肢からその方法を探すようだ。「本」に仕上げたあとの展示
については知らないけれど、めくられるための「本」であることに違いはない。大きな読み台のようなものに置かれてしゃばっ、しゃばっとめくら
れて、多くのひとの汗と脂を吸うのが似合う。本文を保護するとかまして飾るとか、そのための製本は不要だろう。
雨の音に くぼたのぞみ
しとど降る雨の音に
きみをおもう
もうすぐやってくる
九月をおもう
雨が多く
それでいて青空が突き抜ける
九月
ちいさな樹海の下り坂
抜けながら見あげると
暑熱に疲れた樹木が
黄ばみはじめた鱗片を
はらはら散らしていたのは
昨日 それとも
三月の
葉芽ふくらませていた枝は
花のない冷たい雨にうたれ
胸をかむ薫風に吹かれ
じれる熱風にさらされ
なかったことにしたい人たちの
おびただしい背中が
強引に築かれた崩壊寸前の壁のまえで
明晰さも倫理もなく
絡まる意識の濁りとなって
この土地を囲っている
それを
あわれと詠んではいけない
きみは裸足になるがいい
あれから半年
しとど降る雨の音に包まれ
夏の終わりの
青いりんごを食べながら
灰色の空の一点をにらみ
明日も食べる 容赦なく食べる
食べることが
細胞壁を突き抜け
きみの子どもたちの傷みとならぬよう
祈りながら
息をするやさしさを
抱きとめるばかり
掠 れ書き16(漂う舟のように) 高橋悠治
記憶は、崩れていく廃墟か、過去は偶然の出会いの堆積か。予想しなかった状況に出会い、切り抜けてきた経験が個人の歴史と行動様式をつくる。 それは一時的な安定だが、仮の足場として、隠れ家として、夢みるための繭として使えるだろう。
道は世界より前にうごきはじめていた。時間も空間もうごいていくものに追いすがる尺度にすぎない。この世界には構造も要素もあらかじめあたえ られていないから、うごきの軌跡が場をつくる、それを構造と呼ぼうか、要素はうごきを跡づけるとき、ところどころに打たれる目印、構造に先 立って選ばれ、構造を組み上げる素材となる実体というよりは、うごきの名残りとして燠火のように見え隠れする幻影ということになる。楽譜の上 では、まだ鳴っていない音もページの上で見えているから、空間配置のようにして音楽の構成を考えることもできる。音楽家のあいだで作曲家の地 位が上がるにつれて、紙の上の設計図にしたがって音楽の細部までが決められるようになった。だが音は記号ではないし、音楽は記号操作とはちが う。いま聞こえているメロディーは5分前に聞こえたものとおなじではない。いま聞こえているメロディーと言っても、じつは記憶がむすびつけて いる音の残像から立ち上がるイメージでしかないが、楽譜を離れて音を聞く体験とはこんなにも頼りないもので、それだからこそ心を惹きつけ、説 明できない出会いの印象が いつか思いがけなく遠い過去のように水中花となって立上ってくることもあるのかもしれない。
偶然は向こうから落ちかかるもの、それを避けようとして曲がり、あるいはそれに添ってめぐり、方向を変えて、行先のない旅になる。先が見えな くても「一瞬先は闇」の不安ではなく、日常はそこにいるだけなのがあたりまえで、いまここはどこかとあたりを見回す余裕もなく、次々に無意識 のトンネルに落ち込んで忘れられる瞬間があり、現在とはそういうこととするならば、地図の上でここからそこへと設定された目標と道筋をひたす ら 先へと辿るのではなく、歩くにつれて見知らぬ風景がすこしずつ現れてくるなりゆきのなかで、流れる水のように過ぎて帰らぬ線ではなく、記憶の なかを探り、浮かび上がる断片をそのつどの手がかりに迷い逸れて、追いついてくる時間や空間がさしだす線や枠からはずれる。
17世紀の日本には構造や全体から俯瞰されるのではない、プロセスの芸術があった。書院造、回遊式庭園、蕉風連句など、要素の配分や位置では なく、まず歩き出しうごきだすものが通りすぎる部屋の空間のちがい、視線をさえぎり方向を変えて回りこむと見えてくるものと隠れるものが、全 体を予感させないで、移ること、前の空間と次の空間のあいだに起こる連続と転換が、それぞれの空間を独立したものとしながらも、前の場の見え てない部分をきっかけとして次の場にひらき、次の場によって前の場をちがう文脈で見せる、これは庭や家ではなく、机の上の白紙に書き込まれる 瞬間に現れる連句の集団即興の場合、書きつづけて書き終わるまで全体は姿を現さないあそびには、ただ書きつづけるという以外に何の根拠も保証 もない。式目や句法は場の限界を消極的に監視する規則だとしても、規則にはいつも例外があり、プロセスの推進力のほうが優先して、そのたびに 伝統を組み直していく。
ここに西洋的な構成主義と日本的な感性の対立を見るのは意味のないナショナリズムで、老子の道もエピクロス派のクリナメンも、オートポイエー シスもラディカル構成主義も、アルチュセールの偶然の唯物論も、世界のなかにあり、不安定な大地と戦乱の時代に微かに見える隠れた小道の表現 かもしれない。それらは徴であり、兆しであり、それを指すことばのなかにではなく、そのことばの消えた余白に漂うなにか、だから言われたこと ばを信じることや示された方法に従うのではなく、文脈を転換しながら、その場で対応する以外にないプロセスを照らす闇の光のようなものだろう か。
それはそれとして、世界を見るみかたはそのなかでどうふるまうかとかかわっている。全体から部分へ、構造から要素へと分類するのは、全体を管 理し操作するための方法で、そういうシステムは細かくなればなるほど制御できない混乱のなかに解体していくだろう。現実世界に統一原理や目標 をもとめれば、いつも予期しない事態に足をすくわれる。原子のような孤立した静的な単位の関連のネットワークから全体を組み上げていく方法 も、部分をすべて合わせたものよりも全体は複雑だというだけで、対象と外側からの操作をあきらめようとはしない。人間の思い上がりから生まれ る論理は、理論として整っていても、現実とは遠い。
マフィンが売れないのは僕のせいかな。 植松眞人