2013年3月 目次


もの書き(3)             スラチャイ・ジャンティマトン
翆槽にて100 真珠貝の湾                 藤井貞和
記憶のゆきを踏んで                   くぼたのぞみ
しもた屋之噺(134)                   杉山洋一
アジアのごはん(52) 半熟目玉焼きのユーウツ      森下ヒバリ
オトメンと指を差されて(56)              大久保ゆう
となりの部屋の猫                      植松眞人
国境を渡る船                        佐藤真紀
ジャワの二方位、四方位                   冨岡三智
ネットはゴミ捨てか?宝の山か?                大野晋
「想像ラジオ」再び                     若松恵子
トゥシビー(成年祝い)                   仲宗根浩
黄色と影                            璃葉
製本かい摘みましては(87)                四釜裕子
犬狼詩集                          管啓次郎
掠れ書き26 ペーネロペーの音楽              高橋悠治


  

 

  もの書き(3)  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子 訳



チェートが書くものはだいたい週刊誌用のアクションもの小説の類である。ときには一行に一語しか書いてないこともある。ボキッでなければ、ピシャッとかバ シバシとかいった類のことばだ。ヒットした初めての作品は『パヤックパンラーイ(千の縞の虎)』といった。

チェートは北部の出で、ラミー(トランプゲーム)がうまい。自分が書く小説みたいにヤクザっぽくて喧嘩好きである。ただしぼくらと一緒に いるようになって以来、誰かと喧嘩しているのは見たことがない。たまに一緒に飲みに行ったり遊びに出かけたりすると足をひっかけてころば そうとする。こういう下町のごろつきからはひたすら走って逃げるしかない。

こんなこともあった。ロイカトン(灯篭流し)の日に映画館脇の市場へみんなで飲みに行った帰り、チェートは映画館の前で大声を上げたの だ。
「おーい、この辺りに足は売ってねぇかよ〜」
もちろん10本以上の足がそろっていたわけだが、逃げおおせた。

来る日も来る日も書き物をしているわけだから、生活物資たとえば、靴、着るもの、食料などに事欠くことになるのも当然で、そうなるとぼく らへの要求が激しくなった。ぼくらのほうもほとんどの者が理想やイデオロギーに入れ込んでいたのだから、すきっ腹をかかえて背に腹がくっ つくというような塩梅だったのだ。家賃はとくに大問題で、たびたび借金をかかえることになり、夜逃げしたこともある。とはいえそうなる前 になんとかしようとがんばったものだ。それぞれが仕送りのない独り者で、なんとか自活しなければならなかった。

プラスートにはなにがしかコネがあった。年上の連中とのつきあいがあったからで、それは彼が酒飲みだったせいもある。先輩のもの書き連中 もだいたいが酒飲みだった。それで生活の糧を得る方法が広がったのだ。ある晩プラスートが言った、
「白表紙本書くなら簡単に書けて儲かるぞ」
白表紙本とは当時、闇で刷って闇で売った猥褻小説のことだ。簡単だというのはとりたててすばらしい内容である必要がないからで、刷り手も どこで印刷しているのか明らかにしないし、優れた書き手を求めているわけでもない。そう、誰にも想像がつく単純な内容でいいわけである。

その後わたしはもうひとりの友人と出会った。わたしが売るためにものを書くのか、社会的価値創造のために書くのかという分岐点に立ってい たころのことだ。その友は芸大という囲いを出て、もの書きになろうとしているアーティストだった。漫画や挿絵を描くほか、ジュンは質のい い短編小説の書き手でもあったのだ。そのころのぼくたちはそれで、本のはなしか飲み屋を回って歩いている日々を送ったものだった。飯を食 う金すらないこともしょっちゅうで、どこでもつけにしてもらったあげく、つけにできる店もなくなるありさまだった。

「ちょっと試してみたらどうかな、まずいことにはならないだろう」
と彼は言う。
「芸術的美しさというのをさ、猥褻文学をX指定の緩い数字かR指定の厳しい数字とかの段階で創造性を高めて、グレードの高いエロスへして いこうぜ」と、彼は付け加えたので、わたしは出口が見えたように思い彼の言うことに気持ちが傾いたのだった。(つづく)



   

翆槽にて100 真珠貝の湾  藤井貞和



若くしてわれ、東西を知らず、
芸能を見る目、またくなかりき。
「詩とドキュメンタリィ」、思潮社の一冊、
不意に手にして 乾武俊を知る。

「黒い翁」、歳月をへだてて、
ふたたびわれのまえに、天の雫か、
地湧(じゆう)の声か、深層の人、
思いを伝えて、今日に到る。

何びとぞ、山本ひろ子、「くどきの系譜」を、
コピーに作りて、われに呉れたり。
山本ひろ子、真珠貝の湾に、
3月2日より乾武俊のフォーラムをひらくと。

木村屋の座に集う若きら、若からぬらに、
伝えん意志の 仮面よ舞え、新作。
「カイナゾ申しに参りたり」、黒い媼の
花開きうらうら、和歌の浦々。


(乾武俊、91歳。「詩とドキュメンタリィ」に出会ったのは1960年代。90年代に「黒い翁」を見る。2013年春3月、和歌の浦に フォーラムをひらくと。)



   

記憶のゆきを踏んで  くぼたのぞみ



忘れない
春まだ浅いこの月に
記憶のゆきを踏む
むかし訳した自伝作品に
一行一行 愚直なまでに
手を入れる

古い戸棚にやすりをかけ
塗り直す家具職人のように
注意深く文字を削り
この時代からの
救命具となることを願って
ことばを置き替える

いま生きている
作家自身が望むなら
その改稿とひきくらべ
いま生きている
翻訳者が共感をもって 
木肌美しいことばの戸棚
しあげるために
ばかばかしいほどの愛をそそいで
記憶とことばに鑿をうつ

手のひらに積もる木屑はらうと
ちいさな抽き出しが
ぽんと開いて
暴虐におしだまる群島の
濁った空がすこし切れて
ひとつぶで 2度おいしい
飴色の光が射し込む

そんなときは 
これから生まれる
やわらかな命に向かって
記憶のゆきの雪原に 
凛々と 魂のつぶやきがこぼれ
落ちるのが見えるのだ





しもた屋之噺(134)  杉山洋一



イタリア総選挙の最中、国内がどんな様子だったかご存知でしょうか。さぞかし選挙色一色だったかと思いきや、投票所周辺に人が集まってい る以外は、むしろ本当に選挙中かと訝しくなるくらい、表面上選挙色が消えました。これは、選挙中一切選挙に関連する報道が禁止されるから でしょうか。
乗ったタクシーのラジオから聴こえてきたのは、ウミウシが交尾のあとに性器を切断する話と、日本の公園のミケランジェロのダヴィデ像に下 着を履かせるかどうかという話です。謂うまでもなく、ダヴィデ像の話ですぐに頭に思い浮かんだのは、アニタ・エグバーグの牛乳の看板に抗 議する、ペッピーノ・ディ・フィリッポ扮するアントニオ博士、ボッカチオ’70でフェリーニが監督した、「聖アントニオの誘惑」を焼直し 版、「アントニオ博士の 誘惑」でした。

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2月某日12:20 市立音楽院教室
日曜朝の演奏会は実に心地よい。悠治さんの「花がたみ」と「アフロアジア風バッハ」を家人が弾く。「花がたみ」は、聴くと、すっきりした 譜面との違いに戸惑うほど、表現が直裁で激しい。けれども音は決して激さない。それから、バッハのパルティータを抜き弾きしてから、「ア フロアジア風」の断片と照し合せた。拍感をずらして、その揺らぎのほんの隙間から別の空間を広げる。悠治さんが送って下さった「世界音楽 の本」のリズムの項を、フィレンツェから戻る車中で読みながら、何か見えた気がした。
「音の認識は1音でもできる だがリズムは音の属性ではない 音の出現から次の音の出現までの「間の領域」に向けられた注意からリズム認 識が立ち上がる」。

実際音を出さないので、リズムと「間の領域」を認識するには、指揮を例にとると分かりやすい。一見、指揮者が強く打点を出すところで演奏 者が強く演奏し、指揮者がレガートに振るところで演奏者がレガートになるようだが、実際は、音色や強弱など全て一拍前の打点と直後の「間 の領域」で指示するので、実際鳴っている音と振っている音は必ずしも一致しない。やってみると「間の領域」がかくも深いことにおどろく。 リズムはリズム構成に留まらず、時には音楽の香りまでもつかさどる。音楽が呼吸するためには、「間の領域」に空気が通るようにしておかな ければならない。えら呼吸とか、皮膚呼吸みたいなものか。


2月某日20:20 自宅にて
最近若い世代が忘れられていた現代作品を再評価するようになった、と中央駅の行先案内掲示板を見上げながらアラッラがいう。我々より前の 世代は、目の前で演奏を聴いて育ってきたが、我々の世代は音源も簡単には入手できず、自分で企画でもしない限り演奏に触れることもむつか しかった。本や楽譜でしか知り得ない名作も沢山あった。そんな、演奏も音源もなかった時代を過ぎて、インターネットで簡単に情報が手に入 るようになり、若い世代は何ら先入観なく耳にして、興味も持つようになったという。

尤も、それは現代音楽に限った現象ではないだろう。クラシックの演奏家でもそうだろうし、他のジャンルでもきっと同じに違いない。ただ、 ツールとして情報を求めてゆくと、情報は等列で並べられるようになるだろうし、質より量が必要になるかもしれない。個々の情報の時代性や 柵から解放され、手軽で身近に、悪く言えば薄っぺらく、情報と対峙しなければならない。

東京のK先生と電話。「最近巷では、愉しみながら勉強という言葉が流行っているけれど、本来勉強とはそういうものでしょうか。わたくし、 勉強はやはり辛いものだと思うんです。昔に比べ、イタリア語の教科書も溢れておりますけれど、日本語でそのまま言っても通じる程度の内容 など、勉強しても仕方がないと思われませんか」。先生の言葉に恥入りつつ、時代の変遷を思う。

無料電話やスカイプ、格安航空運賃はもとより、衣料品、食料品など自ら享受している便利で安価な生活は、技術革新と安い労働力に負ってい る。300円出していたものを、100円で買える時代なら、そこにどれだけ安い労働力が使われ、どれほどプロセスが簡略化され、どれだけ 余剰人員が切捨てられるのか。100円の商品を買うのは、その社会構造に加担する悪か、それとも生産に関わる全ての人へ還元するための社 会構造への参加なのか。搾取は悪だと言い切れるほど、清廉潔白な生活を自らが営むわけもなく、では感謝の心を持てばよいかと言われれば、 まるで畜産動物に感謝しながら嬉々として肉食に甘んじるようで、よほど自分の胸糞がわるい。豊かな生活、豊かな人生とは、何を意味するの か。一見無関係に見えるけれど、我々の関わる音楽もこうした社会構造と密接につながっている。


2月某日18:00自宅にて
朝レッスンに出かけると、部屋の電気も暖房も入らない。一帯が工事で停電だという。仕方なく学生と近くの喫茶店に出かけると、シャッター が下りたままになっていて「警察の管理下にあり休業」とぺらが貼ってある。
「お金が足りなくて」、と毎朝7時から夜の11時半まで、中国人の家族で日々まめまめしく営業していた。子供たちは息子と同じ市立小学校 に通っていたので、心配になり別の中国人の喫茶店で様子を尋ねたが、何も知らない、話したこともないと、すげない返事が返ってきた。後で 聞いたところでは、薬物中毒者が夜半、店にたむろしていたらしい。収入を考えると無下に追い出せなかったのだろう。

昭和12年頃の湯河原海岸のヴィデオをインターネットで見つけたので、父の誕生日にリンクを送った。街の風景はまるで違うけれど、海は今 も変わらない。その頃、母は横浜の間門に住んでいたというので、当時の間門の写真も探した。こちらは現在からは想像もつかないもので、埋 め立て前の間門の海水浴場は、人いきれが溢れかえる賑々しい写真が並んでいた。

海水浴といえば、息子の通うミラノの市立小学校で水泳の授業が始まった。日本の感覚では零下2度、3度の吹雪の日にわざわざ水泳の授業を させたいとは思わないので不思議である。その上、学校中でインフルエンザが猛威を振るっていて、24人学級中9人や10人ほどしか登校で きない日が1週間以上続いている。酷いときには3人しか出席者がいないクラスもあったそうだが、学校閉鎖にはならない。ちなみに月末の国 政選挙の際は、学校は休校になり、投票所として使われる。

大雪の中、朝8時に家の壁を直すため、砥の粉ぬりの寡黙なエジプト人職人が来た。対照的にへらへらと笑うイタリア人の親方が連れてきた が、一通り指図を出して親方は帰ってしまった。壁を乾かすために、窓を開け放し黙々と仕事をしていて、午前中には仕事は終わり、帰るとい う。大雪なので心配になって聞くと、後で親方が迎えにくる、それまでメシを食べて親方が来るのを待つから大丈夫だというので送り出した が、暫くしてから気になって外を見ると、家の前のベンチで目をつぶって寝ているので慌てて家に呼び込んだ。「さむいです」、とたどたどし いイタリア語で話した。


2月某日20:20 ペスカーラより車中
早朝ローマのアウレリア通りからサンピエトロ駅まで歩くと、朝焼けがとても美しい。
朝7時の駅の喫茶店は、芋を洗うような混みようで、どこで食べてよいかもわからない程だが、みなそれなりに順番が回ってくるようになって いる。ローマらしくて良いが、ミラノではこうは行かない。

ティブルティーナ駅から列車に乗ると、目の前を身なりのよい美しいジプシーの少女が、小さなコピーの紙切れを置いていく。物乞いだ。後で それを引き取りに来て、続いて目つきのよくない彼女の母親と姉と思しき女性が彼女の後ろをついてゆく。車窓には朝焼けに映える緑の野原が 広がっているが、このあたりの緑は北よりもずいぶん焼けた色にみえる。

ラクイラ駅から山を見上げると、雪をいただき、とても美しく、空気も澄み切っている。タクシーで中心街までのぼってゆくとき、道沿いのど の家にも大きな亀裂が走り、これが地震の爪痕なのは明らかだった。目にする建物の惨状にショックを受ける。再建されたばかりの真新しい建 物で、バルビエーリに会う。
「よく見ていってくれ。4年も経って、一体何が行われてきたかということを。ラクイラの市民が、自分たちが忘れ去られてきたのかと訴えた くなる気持ちがわかるだろう」。
歴史的中心街には、立ち入り禁止のテープが張り巡らされ、兵士が見張りに立ち、建造物は軒並み崩落している。

バルビエーリは悲しそうに言う。
「ラクイラに来た人は誰でもショックを受ける。もはや地震の話は街の人間も話したがらないが、いまでも無意識に彼らの口をついて出てくる 言葉は、地震前は、と、地震後は、ばかりさ」。
気持ちが塞いで、明るさのない彼らを元気づけたいのは、大災害に見舞われたばかりの地震国に生まれたためか、その災害に対して自分が何も していないことへの、罪滅ぼしの姿の単なる自己欺瞞か。

雪を頂くアペニンの山々は、アルプスとは全く違った魅力をもつ。グランサッソの麓を車で走り抜けると、まるで「砂の女」の掘立て小屋に取 り残されたかの錯覚を覚え、ときに荒涼とした風景は、地獄の火山の火口の底を進むかのごとく迫力をもつ。見上げる山の縁は磨きあがられた 刃のように薄く、尾根が厚く連なるアルプスと違い、すれすれのスリルすら覚える。

イングリット・バーグマンがイタリア語で演じたオネゲルとクローデルの「火刑台ジャンヌ・ダルク」は、ロッセッリーニがナポリのサンカル ロ劇場のために演出したものだが、映画にも焼直されているのを、最近漸く知った。最後に鎖を壊して昇天する場面で、天から後光を差した聖 人たちが揃って歌いながら彼女を迎えにくる。円状に彼女を取り囲み、ジャンヌはそのまま昇りつづけ、星になる。このステレオタイプのカト リックの宗教観には隔絶の感があるが、アペニンの谷底を走っていて、少しだけ彼らの気持ちが見える気がした。

(2月28日ミラノにて)




アジアのごはん(52) 半熟目玉焼きのユーウツ  森下ヒバリ



毎年、二月三月はずっと旅に出ていて日本にはいない。そんな暮らしを続けて長いが、今回おそらく十年ぶりくらいに、二月末の日本にいる。どう してもはずせない用事があって八日間だけ日本に戻ってきた。短いとはいえ、雪は連日降っているし、pm2.5 は飛びまくっているし、もうこちらの体調はめちゃくちゃである。寒いうえに、気管支はやられ、鼻水はだらだら、頭が重くてヘロヘロ。二度とこの時期に帰っ てこないぞ‥。

インドを旅して、いったんタイに二日間戻ってから日本に戻ってきたのだが、タイに着いて気をゆるめた途端、インドで何ともなかったお腹があっ さり崩壊した。原因は、食堂で食べた鶏肉バジル炒めのせご飯(目玉焼き付き)である。バジル炒めは好物のひとつなので、タイに戻ってすぐの昼 ごはんにチョイスしたわけだ。死ぬほど辛かった。でもこういう味に飢えていたので、半熟の目玉焼きを崩しながら混ぜて無理して食べたのがいけ なかったのだ。

バジル炒めという料理は、鶏肉や豚肉、シーフードなどを、生のバイカパーオ(ホーリーバジル)と炒め合わせ、中国醤油やオイスターソースなど などでこってり味付けしたものである。唐辛子とニンニクをたっぷり加えるのがポイント。ご飯の上にかけて、半熟の目玉焼きを崩して混ぜながら 食べるのが極上の食べ方だ。

一緒に同じメニューを食べた連れ合いは「え? お腹、何ともないで」。ということは‥。「君の目玉焼きはどうだった?」「あ、スックでした」 スックというのは完全に火が通っているという意味。つまりとろ〜り半熟目玉焼きではなかったということだ。なぜ二個同時に作って、ひとつは半 熟でひとつは完熟なのか‥。半熟目玉焼きに当たってしまったわが身の不運を呪う。

じつはタイでは、卵は生ではけっして食べない。この暑さで、流通時にも冷蔵もしないので卵には大腸菌が多い、ということで食中毒の原因になる からである。なので、納豆に生卵などという日本人好みのメニューは、タイ人には信じられない食べ物である。タイで生卵を食べたいときは、日本 食スーパーなどで「生食可」と表示された高級卵を入手しなければならない。

それはようく分かっていたが、どうも目玉焼きの半熟に関してはガードが甘かった。一度高温の油の中に泳いだ卵ならば、半熟でも大丈夫だろうと ずっと思っていたのである。これまでも半熟の目玉焼きはよく食べていた。しかし、今回は食べている途中で、たしかに何かもう食べたくない‥と 思ったのも事実。この身体の反応に素直でいなくてはならなかった。まあ、半熟というより、黄身は限りなく生に近かったが‥。

まず、食べてすぐに胃がもたれてきた。しまった、と思ったがもう遅い。このもたれはたくさんの唐辛子とバジルの葉っぱのせいだ。胃が弱ってい るときに、本当はバジルを食べてはいけない。消化が悪いのだ。胃がむかむかしているうちに、夕方になると今度は下した。それからは、水のよう な‥。途中で吐いた。

神業のような食中毒の薬、メディカルチャコールをすかさず飲んだが、ちっとも効かない。「おかしいな。それほど重篤な症状でもないんだけ ど」。このメディカルチャコールというのは、活性炭タブレットである。どういうわけか日本では売っていないが、食中毒の解毒に大変な効き目が ある薬だ。日本では市販されていないのに日本の病院の救急治療の現場では使われているらしい。

「も、もしかして、今まで飲んでいたのはタイのジェネリック薬ってことあるかな?」「あ、そういえばいつもよりかなり安かった」「え、これ効 かないんすけど!」壊れたお腹のまま日本に戻って、備蓄していたドイツ製の活性炭タブレットを飲んだら、するするとお腹は治ってしまった。す ばらしいぞ、メディカルチャコール(ドイツ製)!

タイの薬局で買うとき、ドイツ製のものと形が同じだったので、てっきりドイツ製と思っていたが、そういえば払ったお金は安かったもんな。じっ くり見ると、やはりタイ製ジェネリック薬であった。これ、もしや活性炭でなく、ただの炭の粉末だったりして。

メディカルチャコールを食中毒の初期に飲むことができれば、ノロウイルスなどで亡くなる人がずいぶん減ると思うのだが、どうして日本では売っ ていないのだろう。海外に行く人はぜひ、ドイツ製やアメリカ製のメディカルチャコールを入手して、家庭に備蓄しておいてはいかが。のどにひっ かかりやすいので、水で飲むとき一度口の中で水に少し浸す感じで、ひと呼吸おいてのみ込むのがコツ。1回に3〜4個。1日3回ものめば症状は 治まる。活性炭が細菌や毒素を吸収してくれるのだ。副作用は一切ありません。あ、出てくるものが炭で真っ黒になりますが、ご愛嬌ということ で。

少し落ち着いてきた呼吸器系の調子が、またひどくなってきたので、ふと検索して京都府各地のpm2.5の計測値の一覧を見てみたら、見事にヒ バリの体調の悪かった日の数値が突出していた。その数値も、国の環境基準の1日平均値35μg/m3どころか、20μg/m3を超えた日すべ てで具合が悪いのである。甘すぎだろう、この環境基準。横のラジオからは北京の数値は350μg/m3などという想像を超えた数値がニュース で流れてきた。中国は原発事故やダム崩壊などでより、先にpm2.5で崩壊するのではないか‥。

表だって症状が出ない人にも、このpm2.5 が影響を及ぼしていることはまちがいないので、みなさん外出するときは高機能マスクをつけて下さいね。今回、普通のマスクでは全く効果がないので、一袋だ け買い置きしてあったモースガードという高機能マスクをつけたら、ずいぶん楽だった。ただし、けっこう息苦しいのが悩みの種だ。ガスマスクみ たいなのよりは見た目に違和感がないので、いいのだが、いやはやまったく。四月に戻ってきたら、これに黄砂が加わって目も頭も痛くなるかと思 うと今から気が重い。




オトメンと指を差されて(56)  大久保ゆう



不振。不調。ぴりっとしない。地元方言にするなら何かあかん。

そういうことってありますよね。みなさんそれぞれそういったものに対して打開策 なり解消法なりがあると思われますが、わたくしの場合は基本的にどんなことも眠ってしまえば万事解決することが多く、そういった局面に出 くわすことがたいへん少ないのです。とはいえそんなわたくしであってもにっちもさっちもいかなくなることがごく稀にたまにあったりもしな いわけでもなかったりするのですが、そうなってしまうと(限界を超えた状態になってしまうと)甘い物を食べようとも回復するものではござ いません。

ではわたくしは何をするか。ふたつあります。

1.笑う
2.踊る

すごく簡単です。しかもこれをやるには、別にお酒を飲んでいるとかそういうこと もなく(わたくしお酒を飲んでも普段とあまり変化がないのです)、あくまで素面の状態で、何の脈絡もなく笑ったり踊ったりふたつ合わせた り致します。またその場合、大事なこともふたつあります。

1.唐突
2.無秩序

さきほど何の脈絡もなくと申しましたが、その笑いなり踊りなりは突発的で何の きっかけもつながりも流れもない感じでなくてはなりません。ごくごく普段通りで自分の心にも準備ができておらず「踊るぞ」とか「笑うぞ」 とかそういう意思のないような瞬間に始まってしまうような、そういう瞬時の刹那的な切り替えが必要であるというか何と言うか。

なおかつその踊りなり笑いなりに決まった型があってはいけません。ただひたすら にお腹とかお口とかお手々とかおみ足とかの動きに自分の全身全霊を委ねながら預けながら任せながら自動筆記のごとく涌いてくる変化してく る自分を感じて振り払うと思いきやむしろそんな自分のことを考えず忘れてしまうくらいの勢いでやっているとそのうち何か大丈夫になりま す。

なんでしたっけ、これって演劇でいうところの感情解放でしたっけ(違う)。

これはまったく意味がないわけではなくて、だいたいにおいてわたくしの不調とい うのは、演じようとするキャラなりペルソナなりにうまく合わない、といった状態が不振になるわけでして(翻訳の話ですよ)。色んなスタイ ルにあれこれその場で切り替えたり寄り添ったりしているうちに少しずつノイズみたいなものがおそらく澱のように自分の底に溜まっていっ ちゃうんでしょうね。そういうのは他者の要素であるので何かしらしんどいものなのでしょうか、積もっていくと何かを振る舞おうとする自分 の邪魔をしてくるわけです。

なのでそういった濁ったものをいったんゼロにして綺麗にすることが要るという か、そのための手っ取り早い方法が、何にも囚われず踊ったり笑ったりすることだという。ただし客観的にそれを見つめるとただマッドでクレ イジーなんでしょうけれど。(うひゃはやあへふふへははっひとか口にしながら身体くねくねしているわけですからね)

徒歩で動くのも好きなので、時々ひたすらに歩きに歩いてウォーカーズハイで無心 になることもあるのですが、それとはまた違うようで。それにあまり時間がかからず、だいたい5分〜10分くらいで終わります。しかしこ れ、誰にでもできることではあるのですが、誰にもすすめたくはなく、また誰かが私もやってるよみたいなことも耳にしたくはない、そういう ような気持ちになる方法ですね。

ちなみに今回は頭のなかがノイズまみれで文章が書けず、とりあえずいつものよう に笑ったり踊ったりして自分をほぐしていたら、それよりもこのことを書けばいいのかなと思って今に至ります。もはやオトメンでも何でもな いですよね。いいえそんなことありません!(自分つっこみ) これはきっとラフターヨガの一種なのです、みたいなことを強弁しておけばそ れっぽいのでみなさまがたにおかれましてはここはひとつそんな解釈でよろしくお願い申し上げます。




となりの部屋の猫  植松眞人



夜、しんと静まりかえるとこのアパートは、住む人の気配しかしなくなる。街の中心地から始発の急行に乗り込むと最初に飛ばされてしまう小さな 最寄り駅から歩いて十五分。大きなビルとビルの間に挟まれているからなのか、夜になるとこのアパートは周囲から切り離されたようになる。

この部屋に越してきてもうすぐ一年になるがとなりの部屋には最初の二月しか人がいなかった。荷物の少ない一人暮らしばかりがすんでいるからだ ろう。引っ越しの挨拶もなく、ある日帰ってきたらとなりが空き部屋になっていた。入り口に向かって右どなりの住人は越してきた日に挨拶もし て、休日にもたまに出会うのだが、左どなりの住人には一度も会ったことがなかった。それでも、夜遅く帰ってきて真っ先に、引っ越していたのだ と気付かされる程度に、壁越しに気配がしていたのだと思い知らされた。

壁の薄いアパートでは、上下左右の部屋からの気配のようなものがうまくこの部屋を包んでくれていて、妙なバランスをとってくれているらしい。 不思議なことに、左どなりの住人が引っ越してから、そちら側の壁の向こうが大きく広がっている感じがするのだ。目に見えるわけでもないのに、 暗い空間が広がっているのがわかる。

この部屋を紹介してくれた不動産屋の若い男は「壁が薄いから少しうるさいかもしれませんよ」と暗にもう少しいい部屋を借りてくれ、と言いたげ だったが、寝られれば充分だと考えていたので一件目の案内でここに決めてしまったのだった。

入居したその日に、ほとんどない荷物を段ボールに詰めたままで、畳の上に寝転がると、不動産屋の言うことがよくわかった。壁も床板も薄く、上 下左右から音が響いてくる。特に上の部屋の住人が歩くと、ドンドンと大きな音がして、ほこりが落ちてくるほどだ。

それでも、この部屋は不思議とうるさいとは思えなかった。なぜだろうと思っていたのだが、越してきて一週間ほどでその理由がわかった。人が動 いている音はするのだが、テレビやラジオなどの音が聞こえないのだ。誰も見ていないから聞こえないのか、それともテレビやラジオの音が響かな い不思議な作りになってしまっているのか。どちらにしても、テレビやラジオからの声や音楽が聞こえないだけで、日々の暮らしはこんなにも静か に感じるのか、というほどに落ち着いた暮らしを手に入れることができたのだった。

一年が経とうとする今でもその落ち着いた暮らしは変わらない。ただ、途中で越していった左どなりに面している壁だけがひんやりとしているだけ だ。

そんな左どなりの壁が今日、温かさを取り戻していた。ぼんやりとだが、壁の奥からこちら側に押し返してくるような力が感じられる。昨日までと 同じように何の物音もしない。けれど、確実に誰かがそこにいる。その空間に住む人がいる、ということがわかるのだった。

スーツを脱ぎ、下着一枚になってビールを飲むと、左どなりの壁にもたれる。すると、背中越しに何かが動く気配が伝わってきた。人ではない。 もっと小さな何か。たぶん、猫だろうと見当をつけた。壁に背中をつけたままで、壁を指先でひっかいてみた。カリカリと小さな音がする。猫のよ うなものはそのカリカリと音がするあたりに移動する。そして、鼻先を壁にすりつけているかのような気配がある。今度はもう片方の手で壁をひっ かいてみる。猫の気配はそちらに移動する。

ビールを飲みながら、そんな遊びを何度か繰り返していると、ちょうど壁にもたれている頭のあたりを壁越しにドンと叩かれた。




国境を渡る船  佐藤真紀


イラクのクルド人たちが、シリア難民の支援を始めたという。よく聞くと、難民ではなく、シリア国内だという。日本クルド友好協会のヌー リーさんが、古着とか、米、小麦粉などを集めて、シリア国内に送っている国境があるので見に行かないかと誘われた。それで、一体何がどう なっているのか、半信半疑でついていくことに。ちょうど日本から寄付してもらった古着があり、シリア難民が来たら渡そうと思った。

ヌーリーさんが、途中まで車を運転すると、ドホーク県の、ロビア市の市役所に友達がいるという。なんとここからは、市長さんのアミーン さんが自らの車を出して運転してくれた。国境に向かう道がひどい。凸凹である上に、対向車線には、荷を積んだトラックがスピードを出して 前の車を追い越すのだが、こちらの車線を越えてさらに路肩を走ってくる。挟み撃ちにされるような感じだ。

さらに2、3時間でこぼこ道を走ると、国境に近づいた。季節はすっかり春めいていて、気持ちがいい。雨が降ると、丘陵になった土漠にも 緑の草が生えて、ヨーロッパにいるような感じがする。子どもたちが草原を駆け廻って凧揚げをしていたり、楽しそうなのだ。そして、目の前 にはチグリス川。

国境を船で渡るという。クルド兵に交渉して中まで入れてもらうと、ちょうど、10人くらいが乗ったボートがやってきた。生まれたばかり の赤ちゃんを抱っこしているお母さんもいる。こんな簡単に転覆しそうな船に乗ってくるのか。矢切の渡しみたいだ。写真を撮らせてもらおう とするが、国境警備隊にダメだといわれる。今度は、スーツ姿のシリア人がわたってきた。クルド政党に属する政治家だという。イラクのクル ド自治政府に支援の要請に来たという。いろいろと歴史が作られている。

「衣服よりも、お金だ。米とか小麦、食糧がほしい」という。また、国境からイラクに出てこれるのは、ちゃんとパスポートを持った少し裕福 な人だから、洋服は、シリア国内に運ぼうという話になった。

1キロほど下流に行くと荷物を運ぶ国境があり、シリア人がたくさんいるという。今度はもう少し大きめのモーターボートが2艘止まってい て、シリア人が、小麦粉の袋をトラックから降ろして積んでいる。3キロ位先がシリアの対岸で、積荷を降ろしているのが見える。

イラク内のクルド人たちが集めた、小麦だけではなく、ガソリンや、灯油もクルド政府が支援しているという。よく見ると、黒と、青のホー スが対岸まで渡してあって、その中をオイルが流れているらしい。なんだか、これからまるでシンドバッドが大航海に出るような光景だ。と いっても、3キロをモータボートで行くだけなのだが。

そこで、段ボールの中を見せて、洋服を見せると、皆欲しがってよってきた。残りは船に積んでシリアへ運んでもらう。ヌーリーさんは、 「日本から救援物資を送ってくれれば、シリアに持っていくことができます」という。もし、東北で毛布や洋服などの支援物資が余っていれ ば、ぐるぐるとリサイクルして、シリアまで持っていくのはどうだろう。2年前、石巻では、援助物資が結構余っていたのを見た。適切な量っ て難しい。
「毛布がたくさんあってね。うちらも、大丈夫になったら、アフリカに送ったりできないかしらね。なんかいろんな国のひとから支援していた だいて恩返しがしたい」と、とある避難所のリーダーの人に言われたことがあったのを思い出した。

あれからあっという間に2年たった。JIM-NETのスタッフがお世話になっている小渕浜の漁師の木村さん。フジテレビや、毎日新聞の 取材も受けている。
http://blog.goo.ne.jp/jp280/e/ec08e1398903f5e7038a0282a3f29f9a
漁に出ていた時に、津波が来たので、沖まで避難して助かった。しかし、妻と息子が流されてしまった。

シリア難民の支援をfacebook で呼びかけたら、木村さんから電話がきて、「支援でもらった服があるんだけど、持って行ってくれないだろうか?」と申し出てくれたという。古着がたくさん あるという。おそらく、いろんなところに古着とか支援物資が余っていて、被災者の人たちがどうしていいか結構困っているのではないだろう か? 善意が詰まった洋服だし、かといって、もういらなくなってしまった。でもほかに転用するわけにも行かず。でも、シリアでは必要だ。 ぐるぐる回せば、新しい絆が生まれる。

木村さんに、シリアの船乗りたちが、チグリス川から援助物資を運んでいる姿を見てほしい。といっても、わずか300メートル位の航海だ が。

そういえば、写真を撮っていてチグリス川の水を触るのを忘れてしまった。僕の靴はチグリスの水でぬれていたので、そっと靴を触ってみ た。

  ***


JIM-NETでは、3月8日-3月13日まで ギャラリー日比谷で、イラクやシリアの写真や絵画展を開催します。是非、お越しくださ い。
http://www.jim-net.net/event2/2013/02/post-8.php





ジャワの二方位、四方位  冨岡三智



ジャワには、南北軸二方位の世界観と、東西南北の四方位を重視する世界観の2つがあって、二方位のほうはジョグ ジャカルタ(ジョグジャ)で、四方位のほうはスラカルタ(通称ソロ)で重視されている。どちらも新マタラム王国が分裂(1755年)して できた王都なのに、違う方位観を持っているのは、それぞれの都市の地理的要因に影響されているからだろう。もっとも、古マタラム王国は今 のジョグジャの地域で興ったから、後でも述べるように、そちらの方位観の方が基本だろうと思う。ちなみに、ソロは新マタラム王国の最後 の、ということはつまり、ジョグジャとソロに分裂する直前の王都である。(マタラム王国では内乱が続発したので、何度も遷都している。)

以前放映されたNHKスペシャル「アジア古都物語―ジョグジャカルタ―」でも二方位観が取り上げられていたが、北のムラピ山という活火山 と南のインド洋を結ぶ中軸の中心に王宮があるというのが、ジョグジャの方位観で、ムラピ山に棲む荒ぶる男神と南海に棲む女神ラトゥ・キ ドゥルがマタラム王国を守護していると信じられている。だからこそ、近年起こったジャワ島中部地震やムラピ山噴火によって都市ジョグジャ が被害をこうむると、ジョグジャの王があまりに開発を優先しすぎたからだとか、急激なイスラム化を南海の女王が不快に思っているからだと かいう噂が流れることになる。

この北に山、南に海というのは、わりとポピュラーな方位観ではないだろうか。バリ島ではどこにいても島の中心のグヌン山が北になるとよく 言われるのに、バリ島の方位観の説明で使われる地図は必ずバリ島南部のもので、北にグヌン山、南に海が描かれている。それは、北から南に 土地が開ける方が自然だという感覚がどこかしらあるからだと思う。

それに対してソロでは、北のクレンドワホノの森、南のインド洋、東のラウ山、西のムラピ山が、中心にある王宮を取り囲み、それぞれの地に はカンジェン・ラトゥ・バタリ女神(北)、ラトゥ・キドゥル(南海の女王の意味)ことカンジェン・ラトゥ・アユ・クンチョノ・サリ女神 (南)、マタラム王朝の祖先神=男神(東)、カンジェン・ラトゥ・スカル・クダトン=男神(王宮の神の意味、西)が棲んでいて、王国を守 護しているとされる。

このうち、ムラピ山とインド洋はどちらの世界観にも共通するから、どちらもマタラム王国には重要なアイテムのはずだ。南海については、マ タラムの代々の王はインド洋に棲む女王と結婚して王権の正統性を得たとされるのだが、実はソロは内陸部にあるので、南が海というのは ちょっと無理がある。それに、ムラピ山についてはソロでは西の山になっている――ソロはジョグジャの東側にあるから当然な――のだが、北 山・南海という世界観に比べて、南の海と西の山に護られた王国というのも変だ。最初にジョグジャの方位観の方が基本だろうと言ったのは、 そういうわけなのだ。

ところで、ソロの四方位で東のラウ山にマタラムの祖先神が棲んでいるとされるのは、ラウ山麓に有名なチャンディ・スクーやチャンディ・ チェトといったマジャパヒト王国末期のヒンドゥー遺跡があるからだろう。マタラム王国はマジャパヒト王国の後継者ということになってい る。ちなみに、ラウ山も昔は活火山だったらしい。実は、南海岸やソロの王宮では緑の服を着てはいけないと言われるが、ソロの王族で90歳 を過ぎて着付の大御所である人によれば、本当に緑の服を着てはいけないのは、ラウ山だという。緑はラトゥ・キドゥルと関係があるのではな くて、霊的な場所で着てはいけないのだという。20世紀初めにオランダ人が書いた文章にも、ラウ山で緑の服を着てはいけないことが書かれ ている。

もう1つ、クレンドワホノの森に棲んでいるバタリは、ヒンドゥー教の戦いの女神ドゥルガのことである。マタラム王国では南海の女神のラ トゥ・キドゥルがフィーチャーされる一方、バタリのことはほとんど言及されないが、ソロの王宮にはバタリに供物を備えるマエソ・ラウンと いう儀礼がある。ワヤンで、森を通る見目麗しい武将(アルジュノなど)が森の羅刹(チャキル)に邪魔され戦いになるというシーンがある が、その森こそがクレンドワホノで、チャキルは実はバタリの手下なのだ。ヒンドゥー時代のジャワにはドゥルガの石像も造られて信仰の対象 となっていたのに、なぜ、彼女は羅刹の親玉ごときに矮小化されてしまったのだろうか。それについて、私は次のように考えている。ソロの王 パク・ブウォノVI世は、ジョグジャの王子ディポネゴロが起こしたジャワ戦争(反オランダ戦争)に加担し、アンボン島に流刑されたが、 VI世はこのクレンドワホノの森で霊的な修行をしながら、ディポネゴロと連絡を取り合っていたという。そのため、ソロ王家は、宗主国オラ ンダに反逆者であるVI世のことを思い出させないよう、バタリの霊力を貶めるように位置づけたのではなかろうか…。このクレンドワホノの 森の霊力は強くて、強い霊力が宿った楽器を調律するには、この森に持ってくるのだと聞いた。この森に一晩だか放置しておくと、楽器は勝手 に調律されているのだそうだ。

ということで、ジャワの二方位であれ、四方位であれ、そこには古代からヒンドゥー時代に培われた荒ぶる霊的な自然への畏怖心が込められて いる。そして、王はこのような自然を総べる存在であり、だからこそ、ソロの王はパク・ブウォノ(世界の釘の意味)を、ジョグジャ王はハメ ンク・ブウォノ(世界を総べるの意味)を、称号としている。




ネットはゴミ捨てか? 宝の山か?  大野晋



以前から同様の議論はあったように記憶している。コンピュータの仕掛けに精通している業界人であれば、こんな問いにはうんざりとするのだろう が、一般の人々はそこまでよくわかっていないためにネットに過大な驚きを感じたり、その一方でおおいに恐怖に感じたりするようだ。

しかし、いろいろなメールが飛んで来たり、他人の仕掛けた罠にかかって犯罪者に仕立て上げられたりするのを考えると怖いという感情もわからな いこともない。

ネットを例えるとすると、道路のようなものと言えばいいだろうか。道路は車も通れば、自転車も通る。そこには交通事故も起これば、ときどきは 泥棒や空き巣、もっと恐ろしい犯罪者が通ってあなたの家の戸をノックしたりもする。しかし、往来は公共のものだから、よい人も悪い人もみな同 じように使うことができる。いやいや、悪いと思っている人だって、道路の向こうの生活では家庭の良き夫であり、良き親であるのかもしれない。 ネットだって、往来なのだからいろいろな人や情報が行き交っている。行き交う情報には良いとか、悪いとかいう色がついているわけではない。色 を付けるのはそれを使う人間なのだ。

ただし、道路と比べて明らかに歴史の短い通路だから、違和感を覚えるだろうし、そもそも、道路に備わっている機能もまだ備わっていないだけな のかもしれない。しかし、道路であれば、公共が税金で整備してくれるのだが、ネットはまだ市民が金を出し合って整備や警備をする機能は備わっ ていないというのも事実だ。そういえば、日本の海外への接続の窓口になっている企業の業績が苦しいらしい。ただ乗りで利用だけはどんどん増え るが、ボランティアを兼ねて、ネットのインフラを守っている企業のサービスには誰も利用料金を払わないのが原因らしい。道路はただで利用でき るがその整備はみんなの税金で賄われてる。そう考えてみると、そろそろ、民活などと言わずに税金でネットインフラの維持を考える時期なのかも しれない。そうでなければ、老朽化に耐えられず、いつネットが綱がらなくなるかもしれませんよ。

まあ、この文章もよく考えればネットに落ちているひとつの情報である。はたして、読者にとって宝になるのか、それともくだらないただのクズな のか? 恐ろしくて感想は聞く気にはなれない。




「想像ラジオ」再び  若松恵子


「文藝」2013年春号は、いとうせいこうの特集で、彼の16年ぶりの中編小説「想像ラジオ」が掲載されている。
同世代の信頼できる発言者として、彼の言葉をいつも楽しみにしてきた。

10年近く前になると思うが、煙草のCMで、きちんとスーツを着た彼の姿が新鮮で目をとめたのがきっかけだった。喫煙者の肩身がどんどん狭く なっていく社会状況のなかで、「私はマナーをまもってきちんと煙草を吸います」というメッセージは、かえって反抗的で良いなと感じてしまった のだった。

「想像ラジオ」については、以前水牛にも書いたことがあるが、3・11後、いとうせいこうがツイッターで行った文字によるラジオ放送だ。文字 に喚起されて、音は読む者の想像のなかで鳴る。電気がなくたって音楽を楽しむことはできるぜ!という心意気に、計画停電の頃とても励まされ た。
「被災地のみんな、心の被災をしているみんな、こんにちはDJせいこうです。」そんな言葉で放送は始まったのだった。

震災から2年近くたって、小説になった「想像ラジオ」は、「想像」の翼をさらに遠くへ広げるものになっていた。

小説の主人公、DJアークは「赤いヤッケひとつ」で高い杉の木のてっぺんにひっかかっている。どうやら津波で被災して、彼はもう死んでしまっ たのかもしれないとわかってくる頃から、物語にどんどん引き込まれた。高い杉の木のてっぺんにひっかかっている男、そういう姿を見たという話 がどうしても忘れられなくて、そういう心のこだわりが小説を生んだのだろう。木のてっぺんにひとり残された「彼の声」を聴くことができるのだ ろうか、というのが、いとうせいこうが差し出した問いだ。

「文藝」の特集の中で、いとうは小説家の星野智幸と対談しているが、「想像すれば絶対に聴こえるはずだ」という感覚は衝撃的で、「この言葉 が、震災後の文学そのものだったと思う。」と星野は語っている。
いとう自身も「まず僕は被災したわけじゃないから、絶対的な断絶がありますが、でも世界を自分ができる限り真正面から引き受けて、そのかわり 全部想像しますからね、という姿勢でした。」と言っている。被災した当事者にしかわからない、だから被災した当事者でないものは語るべきでは ないのか、という問いはさらに進んで、死者の思いを生者が聴く事(知ること)は無理なのかという問いに広がる。この2つの問いに対して「想像 すれば絶対に聴こえるはずだ」というのが、いとうせいこうの答えだ。文字が直接心に音楽を届けたように、想像する力によって、死者であっても その存在を今も傍らに感じることはできるのだ。と。

「聴きたい」と、いとうせいこうは願う。そして「想像ラジオ」が書かれた。DJアークやそのリスナーたちの物語は、幽霊の話ではない。生者 は、想像によって死者の思いを聴き、そのことによって死者を自分のなかに入れて生きることができるようになるという事なのだ。死者を遠く離れ て生きる者と読みかえることもできる。そして、それは生者このひとりの身で生きるよりも、何て自由で遠くまで行けることなのだろうと思った。




トゥシビー(成年祝い)  仲宗根浩



二月の末に届きました。ヴァン・ヘイレンのデイヴィット・リー・ロス在籍時の激安六枚組みボックス・セット。これを愛でながらの二月末、こち らの冬は終わりました。節分の日、最高気温二十五度、夏日でしょこの気温。これから暑い夏に向かうだけなんだろうなあ。滅入るなあ。でも家の 中は暖房もなく太陽もそんなに入らないので外よりは寒い。仕事場では半袖の上に適当な上っ張りを着てたけどそれも必要なくなる。

二月は仏壇行事が多い月でもある。旧正月、トゥシビー、旧十六日と続く。
今年の旧正月はちょうど日曜日にあたったのでいつもより盛り上がり、トゥシビーは干支生まれもの人をお祝いする。今年は巳年なので旧の正月か ら初めての巳の日である二月二十日がその日にあたる。母親がトゥシビーなので色々準備をした。お祝いに来ていただいた方をもてなす料理、お返 しなどなど。親戚の干支をちゃんと把握していないと失礼になる。今年は一軒、あとからわかり一週遅れてお祝いを持っていく。それが終わるとあ の世の方々のお正月である、旧暦一月十六日。去年亡くなった方へは行かなくてはならない、法事みたいなもの。その日は仕事のため奥様にお願い する。こちらは一軒、うちの母親は四軒。年中、カレンダーの旧暦の確認しなくてはいけない。



黄色と影  璃葉



にがい雨が降った後
陽は影を食べていった

黄色だけが抜け落ちた場所に
誰かが座っている 
水色の血管が通った手を下げて
黒い二つの石をこちらに向けて
影を喰われたと、つぶやいていた





製本かい摘みましては(87)  四釜裕子



ただいま朝の通勤電車はほぼ毎日座り中。25分本を読んだり眠りこけたり。終点近くでこの地下鉄は一瞬地上に出て、夏は強烈、冬は深く車内に 光が入り込む。うたたねしてても大丈夫、たいてい誰もがこの光で目を覚ます。目覚まし時計は音ではなくて光を発したほうがいいと思うがどうだ ろう。

左親指をそっと触れて頁をめくるスマフォ読書時間も増えた。シャカッツ、シャカッツと頁は一瞬で変わるが、んんん〜〜〜んと、ためにためて ゆっくりめくるのもおもしろい。このごに及んでどの読書アプリも「めくる」感じを採用し、またそれが一番読みやすいと感じるこの体が可笑し い。

読むのはほとんど青空文庫。三遊亭圓朝の『真景累ケ淵』や樋口一葉の『たけくらべ』、芥川龍之介の『秋』に海野十三の『蠅』などなど、青空文 庫とアプリとスマフォと着席通勤の環境がなかったら一生再び読むことはなかっただろう。ありがとうをひとりごちて、永嶺重敏さんの『モダン都 市の読書空間』を読み直す。

第一章 モダン東京の読書地理/四 読書装置の郊外化/3 通勤読物の発達。通勤大衆の「寸刻を争ふ読者意識」(『大阪の新聞売子』大阪市社 会部調査科 昭和6年)に合わせるために発達した通勤読物として、随筆・探訪・座談会・実話・手記等の「中間読物」=雑文と、昭和2年岩波書 店が始めた文庫本という形式、そして大衆小説があげられている。いまどきの通勤大衆にも等しくかけがえのないものばかりだが、”スマフォで無 料で読むことのできるすぐれた日本の文学”を加えたいとわたしは思う。



犬狼詩集  管啓次郎



  113

驚きをかたちに喩えるならそれはつらら
研ぎすまされた尖端で液体と固体が循環する
流動と静止が接し合う
沈黙と絶叫が重なり合う
その接合面を太陽がもういちど熱するとき
ぼくらの世界に飛行が帰ってくる
さあ夜が明けた、空はあきれるほど青い
この青に絹糸よりも細く白く
二羽の白鳥よ、鋭い刺繍をほどこしてください
ふるえるような湖面のしずけさから
突然に純白の飛行がはじまった
ダマスカスの明かり、シベリアの模様
ラピスラズリにおける青と白の乱れ
きみたちの翼が光と力を織り上げて
空のいくつかの層を切り分けてゆく
それは大きな明るい王国の約束


  114

ブーゲンヴィリアに埋めつくされた家に
無数の蜂鳥が群がっている
鈍い羽音を錐のように空中に立てながら
静止と摂餌を巧みに組み合わせて
おびただしい蜜が彼女たちの体を流れてゆく
たちまち消費され激しい運動へと転換されるために
長い針のような嘴は
花も果実も種子もなくただ
本質をまっすぐに汲み出す
だから彼女らが舞うとき、蜜が空中で奔流となって
砂漠にもそれだけ垂直の大河が生じている
そして一羽ごとのコリブリ、ハミングバードは
虹の輝きを真似るようなその体で
不在から正確な輪郭を切り抜いてゆく
強い、強い、濃密に存在する小さな鳥
心臓の灼熱がわかるほど激しい飛び方だ




掠れ書き26 ペーネロペーの音楽  高橋悠治



2002年から数年間つづいた『世界音楽の本』(2007)のための編集会議では、リズムと音色(ネイロ)から20世紀音楽の制度やそこから の逸脱としての創造を考えていた。音と音のあいだの時間が予想できない偶然からはじまって、反復する周期が感じられるようになると、パターン とその変化というかたちでリズムという時間のシステムが立ちあがる。それに対して、音の、ピッチや音量のように単純な数であらわせる部分だけ でなく、楽器とその演奏法や、音響内部のゆらぎや変化を含む複合的な部分を音色としてまとめてあつかってみた。リズムが時間だとすると、ネイ ロは音響空間の質的差異に基づいている。だがリズムは関係だが、ネイロは区別される独立体とも言える。

ここからもう一歩すすんで、音響というオブジェを関係の網目のなかに溶かしていくことができないか。全体図を目標に構造を設計するような終わ りから時間をさかのぼって作業スケジュールを作るかわりに、さまざまに撚り合わされた糸を結んで網を編む作業、それもクモの巣のように完成に 向かうだけの労働ではなく、織ってはほどくペーネロペーの織物のように、抵抗とアイロニーのプロセスであり、隙間だらけの織地の上に幻のよう なかたちが一瞬見えても、どこかの糸を引くと崩れてしまって、実体感のある印象を残さない、そういうプロセスと手にした楽器だけで、毎日のよ うにやり直される作業。

旋律と和声と低音でできている西洋近代音楽は、フランス革命や産業革命以前から近代社会を予告していたように聞こえる。そういう音楽を演奏す るための近代オーケストラは、高音と内声部と低音の階層組織によって、第1ヴァイオリン16に対してコントラバス4のように楽器の数や演奏位 置、さらに楽員の給料体系まで決められている。何度かの危機を乗り越えてきたオーケストラのような企業は、いまの格差社会のなかで、ますます 経営がむつかしくなっていくだろう。そのミニアチュア・モデルになっている弦楽四重奏も、おなじ階層構造がメンバーの心理や人間関係を日常的 なトラブルに追い込むことがある。

オーケストラや弦楽四重奏のように確立された組織のために作曲しても、レパートリーは20世紀前半でだいたい間に合っていて、新作は組織の存 在意義の口実作りと、スポーツ選手の国旗のように国外公演の時に自分の国の作曲家の作品が必要とされるようなときに初演され、すぐ忘れられ る。作品のなかでアイロニーをこめていくつかの小さな実験やパロディーを試みることはできるかもしれないが、オーケストラを書くという労力を 考えると、自分が参加できる場の小さな規模でできることをしたほうがいいような気もする。

音楽家の想像力のプロセスは、作曲というかたちなら、多様な場の条件のなかでも、制度の見直しに向かっていくらかでもすすむことができるだろ う。関係と距離がさきにあり、音はその結び目であるようなアクセントの置き替えで、たとえば旋律と和声のかわりに、順番にあるいは同時にあら われる音程が、結ぶ糸の強さと色のように相互作用するのを感じながら、糸を織り上げる、それをほどきながら、あちこちを引っ張ってかたちを変 えてみる、こんなプロセスを書きとめながら、受けついだ技術的な知識や遠い地域や過去の伝統が、おぼろげな記憶となって浮かび上がり、折り重 なって透けて見える。



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