水牛のように

2001年4月


人生は水牛  八巻美恵
音と音楽(1、2)  三橋圭介



人生は水牛   八巻美恵

きっかけは何だったのだろう。ちょうど一年前の4月、三橋圭介さんといっしょに東京音大民族音楽研究所の社会人講座でガムランをまなぶことになった。毎週土曜日の午後、1時間半ほど夢中になってガムランに取り組む。楽しさは三橋さんが書いているとおり。クラスが終わると、その楽しさに引きずられるようにして、二人でコーヒーを飲みながら、授業よりも長時間あれこれしゃべるのがいつの間にかならわしとなり、ついにはそれをガムラン茶会と名づけるまでになった。「水牛のように」のコーナーは、だからガムラン茶会の延長でもある。そのうちゲストを呼んで、いろいろな話を聞いてみたい。

ガムラン茶会で問われるままに、水牛楽団や水牛通信のこと、カラワンのこと、などを話しているうちに、10年くらいのあいだ記憶の抽斗にしまわれていた「水牛」ということばが、またぽっかりと浮上してきた。「水牛」とは何だろう。忙しくあれこれやっていたことの細部は深い霧の中のようで、もはやまったく現実感はないけれど、あれこれやっていたことのエッセンスはいまのわたしをかたちづくっているものだと思うことはある。インターネットの図書館青空文庫に、呼びかけ人のひとりとして関わっていて、インターネットの世界はアジアそのものだとしみじみ感じたりするとき、ああこれは「水牛」だなと、ふと思うのだ。

はじめて水牛を見たのは沖縄でだったかな。「水牛通信」にかかわり始める少し前だった。大きくてかわいい目をしているおとなしい動物、名前に牛という字があるが、モ〜とは鳴かない。次に会ったのは、1981年、タイで。すでにわたしもりっぱな「水牛」で、クーデターで殺された人たちの大追悼集会に出かけていったのだった。長距離バスの窓から何頭もの姿を見つけると、名前が同じだというだけなのに、他人とは思えず、同行の「水牛」たちといっしょになって、歓声をあげてしまう。長距離バスの行き先はチェンマイ。そこでテプシリ・スークソパの主宰する「こども図書館――チェンマイ芸術センター」を訪ね、敷地内のゲストハウスに泊めてもらって、聞かせてもらったのはまたも水牛の話だった。これこそ人生は水牛です。読んでください。「水牛通信」1981年12月号からの転載です。


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水牛泥棒のはなし  テプシリ・スークソパ

水牛楽団の人たちを迎えて、ちょっと水牛の話をしたいと思います。水牛はバカだといわれています。百姓はバカだ。その百姓につかわれる水牛はもっとバカだ、と。でも、水牛はけっしてバカじゃないのです。よそに売られても、お腹が大きくなると、もとの家に戻ってくる。水牛をつれて道を歩いていると、雷になる。それで近所の家によるでしょう。そうすると、つぎのときにも、かならずその家によるんですね、自分から。こちらには「鼻輪がはずれてもおこるな、うたってやれ」というコトバがあります。水牛はバカじゃない。口がきけないだけなのです。

「水牛は大地に子をあずける」というコトバがあります。赤ん坊をうむとき、水牛はどこかにいっちゃうのですね。だれも見ていないところでお産をする。だから、大地に子をあずけるというわけ。愛するというのは水牛にサカリがついたのとおなじで、とめてもとめられるもんじゃない、という詩もあります。サカリがついたとき、メスが匂いを発する。一頭のメスをめぐって、五十頭のオスが喧嘩をすることもある。水牛泥棒がいますね。水牛泥棒はメスをつれていって、オスをさそいだす。母親をつれて迎えにいくとかね。

なんで私はこんなに水牛のことを知っているのか。それは、いま私が農民の小説を書いているからです。そのために、いろいろこまかいことを調べなくてはならない。たとえば水牛のウンコの色。雨期にはやわらかい、水っぽい、緑色のウンコをする。乾期はワラを食うから、黄色くて、かわいている。そういうことにも注意をはらわないと、いい小説はかけないのです。そのために水牛泥棒のこともたくさん調べた。五年まえには、おおぜいの水牛泥棒にインタヴューしました。

水牛は、太い竹に細い竹をくませた柵でかこって、杭をたてて、そこにクサリでつないでおくんです。で、泥棒はソッと柵にちかづいて、棒で水牛のアゴを叩く。すると、すごい勢いで首をひくので、クサリが切れる。ナイフで足をつつくと、柵をこえて逃げる。そこをつかまえる。アゴをあげさせて、ぶじにここにいるぞという証拠に、フンフンという鼻息をきかせる。それから音がしないように、ツマさきだちで村はずれまでいって、そこであちこちひっぱりまわす。川や運河にぶつかると、まがって逃げる。そうやって行方をくらますのです。

盗まれたほうはどうするかというと、だいたい二時ごろに盗まれて、四時ぐらいに気づく。そうすると村の全員が、男たちは水筒をかついで、ものすごい勢いで走りだし、女たちはゴハンを炊いて、それを竹筒につめて、男たちのあとを追いかける。

まず先発隊――はじめに気づいて走りだした人たちが五十人いたとすると、かれらは木の枝をもって、その枝の部分で水牛の歩幅をはかり、木の葉のほうは道に捨てて、あとからくる連中の目じるしにする。そうやって集まったり散ったりしてさがすわけです。水牛はゆっくりと歩くとき、走るとき、まがるとき、それぞれ重心のかかりかたがちがうから、足跡のふかさもちがうでしょう。それを手がかりにして、どこまでも追いかけるのです。

この先発隊のあとを、おくれた五十人が木の葉をたどって追いかける。こちらは速いから、すぐに追いつく。そして先発隊がバテてきたら、それと交代するわけです。泥棒のほうは、たとえばある部落までくると、水牛を売っちゃう、リレー式に売っていく。だから追いかけるほうは大変です。それでゴハンと水がいるのです。

泥棒はなんとかして追跡者をだまそうとします。ふつうの道をさけて、タンボや森のなかを歩いたり、ひとに会うと、「この村の水牛だよ」といったりします。牛車をひかせて、足跡を消すとかね。

それでも追いかけていく。歩幅をしつように計りながら、夜は足跡の上に寝て、ゆくえを見失わないようにする。ふつうは泥棒をつかまえるまでに三日はかかります。百人も二百人もだから、ゴハンもなくなって、草やバナナを食べる。そうやって、となりの県まで追いかけていく。水牛泥棒はたいてい二、三人ですから、みつかってしまえばもうおしまい。数がちがいます。銃なんかもっていても、なんの役にもたたない。追跡者のほうもくたくたです。半分ねむりながら、ビッコをひきひき帰る。そして隣村までくると、合図の鉄砲をうつのです。女たちはソレッとゴハンを炊き、お祝いになります。

いまはダメですね。こういうふうにはいかない。泥棒が車できて、水牛をつんでいっちゃう。だいいち、水牛がすくなくなった。何百年ものあいだ、人間といちばんしたしい動物だったのに、鉄の水牛――ニッポン製の耕運機にとってかわられた。農薬をつかいすぎて、水牛のエサだった草もなくなってしまった。したがって、いま話したのは昔の水牛泥棒の話です。おもしろかったですか?




音と音楽   三橋圭介

その1

人が集まって音楽をつくる。だれかのいいなりになるのではない。それぞれが個々の役割を果たし、たがいに親密な関係を結びながら、みんなでつくっていく。このようなあり方は、音を通してみんながいっしょに歩くことにたとえられるかもしれない。人がどのように歩くかを考えながら歩いたなら、歩みはぎこちなくなるだろう。へたをすれば足はもつれて一歩も前に進めなくなる。人の結びつきが可能にする音楽は、西洋音楽のようにいかに全員が歩調を合わせるかという理論ではなく、みんなでともに歩くことの実践の上に立っている。

インドネシアのガムラン音楽は、人と人との音のすきまに自分の音を置いていく。音と音の間に音を打つということは、打つべき場所を記憶していなければならない。しかし音を打つ場所はあるようでないにひとしい。ここに楽譜に書かれるような観念的なリズムはない。人が出会う音の場はその時々の間の取り方で微妙に変わる。その変化に応じて間合いをはかり、調整しながら音を置く。そしてその後にだれかが音を置き、人の連鎖が音楽の時間をうみだす。この時歩みはリズムで量かることはできないし、もちろん合理的な楽譜のようなものにとどめることはできない。

しかしガムランにも楽譜はある。それぞれの音をあらわす数字と簡単なリズムを書いた数字譜だ。ヨーロッパ音楽を学んだ人なら、書いてある楽譜を通して演奏すること自体、そんなに難しいことではない。リズムを量りながら、音を置いていけばいい。しかし人の関係を失ったリズムのガムランほど貧しいものはないだろう。たとえるなら、それは西洋音楽のミニマル・ミュージックにちかい。

ガムラン同様、繰り返しに基づくミニマル・ミュージックは、歩き方を考えること以上のものではない。書かれたリズムは、歩き方そのものであり、すべては決められた通り、滞りなく進む。それは予測の範囲を超えない。それ故、すこしづつ音のかたちを変化させていかなければ、やっているほうもきいているほうも飽きてしまう。

ガムラン音楽は、人と人とのつながりの音楽、楽譜に書けば単純な音の繰り返しでさえ、間や音色の微妙な変化が全体におおきく影響する。文字通りの繰り返しはない。楽譜は単なる覚書のようなものにすぎず、先生の演奏を生徒が注意深く模倣し、また時に先生が直接バチを動かしながら生徒を操って、打つべき動きを身体に記憶させる。そうすることで、音の動きやタイミングを身体に焼きつけていく。

今年の四月からジャワのガムランを習いはじめた。ここでは音楽大学で約十年間西洋音楽を学んだことは役に立たない。役に立たないどころか、楽器を打ちながら、拍の感覚に混乱し、書かれたリズムや分析的な聴取から逃れようともがいている。「いまのゴングの入りがよかった」。先生がいう。こちらはすこしズレていると感じている。すぐれた演奏ほど楽譜に書きあらわせない複雑さをもっている。

週に一度、十人ほどの人がガムランを学びに集まってくる。普段、みんながなにをやっているかもしらない。だが音楽をやっている時は、音を散歩する仲間だ。歩くことは理論ではない。倒れながらともに歩きつづけること。ひとりの生徒が教えてくれた。「力まずに、すこし脱力するくらいがいい」。

その2

異文化を理解することは、自分との決定的なちがいを知ることからはじまる。「歩くことの実践」とはその第一歩にすぎない。わたしたちは当然のことだが、ガムラン音楽を支えている文化的足場をもたない。足場もなく立ち、歩くことの難しさ。だがこの困難を実感するのは、音楽を演奏している時より、すぐれた演奏に出会う時だ。

ガムラン教室の課外授業として観たジャワの影絵芝居、キ・マンタプ・スダルソノとサンガル・ビモ楽団による「アルジュノの饗宴」(2000年9月30日、日暮里サニーホール)。公演は、通常の舞台と客席という距離を取り払い、観客は自由に影絵の表舞台とガムラン合奏の裏舞台を往復することができる。さらに開始前からすでに演奏ははじまっている。全員が演奏するのではなく、そこにいる人が参加したりしなかったり。力が抜け、よどみのない声が、これからはじまる芝居の空気をつくっていく。

開かれた空気を感じながら、会場をすこし歩きまわる。そこには影絵芝居ではきくことないいくつかの楽器があった。大太鼓とシンバルとシンセサイザー。かつてはけっして使われなかった。だが伝統というものが、博物館的な閉じた過去ではなく、変化の推移にあるなら、西洋楽器の追加は、変化の層にある影絵芝居の現在のすがただろう。そしてこのことは、当のかれらも歩き続けることで、生きた伝統の途上にいることを示している。

よくいわれるが、インドネシアの文化は新しさによって支えられている。古い伝統だけやっていては観客はついてこない。だから常に新しい装いをまとっていく。それでもかれらはその根にあるものは変わらないという自負がある。それはインドネシアの舞踏の伝統を引き継ぐサルドノ・クスモのモダン・ダンスもそうだし、若手の小説家のユディスティラ・ANM・マサルディも、影絵芝居の物語を風刺の効いたパロディに読み替えて、現代に呼び覚ます。そしてスダルソノは、普段は大太鼓やシンセだけでなく、エレキ・ギターも使ってロック風のものまで演奏する。

公演は海外公演ということもあって、よく知られた演目が並んだが、十分に刺激的な内容となった。人形を操る動きは、裏で見ていると一見無造作だが、影の世界では生きた人間のようにしなやかで、また効果的につかった多彩な光の効果が動きに豊かな陰影を与えていく。一方、ガムランの声は、さまざまなものが共生する世界のように、それぞれの楽器が固有の音色と動きをもち、つねに逸脱しながら渦巻くような時間をうみだしていく。またシンバルと大太鼓は戦闘の場面で、スパイスの効いた劇的な響きをつくりだし、物語におおきなドラマをつくりだした。

ここには、確かに近づきがたい独自の世界観がある。しかしかれらも道を切り開きながら歩き続けている。わたしたちにとって、それは足場のない遠い世界かもしれない。だが足早に答えをだす必要はない。あいまいなものを、あいまいなまま正しく学び、実践する。そうすることで、ふたつの歩みが交差するもう一本の通路が見えてくる。答えはどこかにある。



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