水牛のように

2001年6月 目次


Like a Water-Buffalo(1)  御喜美江
英雄達 カラワン(1)     A-DOON
音と音楽(5、6)       三橋圭介
書きかけのノート(2)     高橋悠治


fishイラストLike a Water-Buffalo  御喜美江

"Like a Water-Buffalo" は1985年1月に高橋悠治さんが書いてくださった、アコーディオン・ソロのための曲です。日本語訳は「水牛のように」です。85年3月東京文化会館の小ホールで初演され、それから今日までわたくしはこの曲をずっと弾き続けております。その16年間を今ちょっとふりかえってみますと……

80年代は、コンサートで演奏すると必ず誰かが楽屋にきて「"Like a Water-Buffalo" の楽譜はどうしたら購入できますか?」ときかれました。郵便ポストに知らない人からの手紙が入っているとそれは大抵 "Like a Water-Buffalo" の譜面の問い合わせでした。電話での問い合わせも多いので留守電を買いました。字と声をとおしてアコーディオンの知り合いが突然増えました。

ところでこの譜面、作曲者の希望で出版されず「手から手へ」それを弾きたい人に渡されるというものでした。知っている人からも知らない人からも注文が殺到しました。当時はドイツ最西端の古都アーヘンに住んでおり、アパートはコピー屋の3階にあったのでコピーは簡単でしたが、郊外に引っ越してからはそれも大変になったので、町に出ると一度に何十部もコピーしてきて、封筒とペンとセロテープを机の横にワンセットにして下準備をしておき、注文をさばいていきました。

「譜面を送ってくれたらこちらからもきっとあなたが知らない新曲の譜をおくります」という人もいたし、「コピー代、郵便代はどうしたらいいでしょうか」と聞いてくれる人もいたけど、まあほとんどは、うんともすんともいってこないケースが多かったです。でも確実に譜面は届いていて受取人は演奏を試みていたようです。そしてここでまた「手から手へ」と譜面は旅を続けていきました。

そして注文は相変わらず続き、いったいどこできいたのかな? と思うような国からの問い合わせもあって、はじめちょっと面倒くさかったこの仕事もそのうち楽しくなってしまいました。リトワニア、スウェーデン、フィンランド、カナダ、ノルウェー、スイス……。

それが90年代に入ると、注文は少し減ったけど、"Like a Water-Buffalo" があちこちで演奏されるようになりました。モーゲンス・エレガート(デンマーク)、フリードリヒ・リプス(ロシア)も弾いたので北欧とロシアの人たちも沢山弾き始めました。コンサートで、コンテストで、セミナーで、大学の試験で、その頃わたしが行くところ行くところ必ず誰かさんがこの曲を弾くのです。それも私自身が譜面を送った相手でないことも多いので知りたいことあります。「ちょっと譜面を見せて」「誰からこの譜面もらったの?」「どこでこの曲を知ったの?」とたずねます。その経由が実にゆかいなのです。友達から、これがまあ一番多いのですが、その他にセミナーで知り合った人から、友達の友達のその先生の同僚から、コンテストで聴いてその後でコピーさせてもらった、などなど、まあ本当にいろいろなヴァージョンがありました。

しかしこんなに「売れる」楽譜を出版社は放っておかない。ドイツでアコーディオン譜を扱っているいくつかの出版社からなんだかんだ言ってきて90年代もけっこうビジーでした。

でも時々困ったこともありました。コピーがあまりに薄くて読みづらいからと、コンピューターで譜面を作った人がいた。この製作者が誰かいまだにわからないのですが、こんどはこのコピーが「手から手へ」わたってしまった。ベルリンでセミナーをした時この譜面に出会いびっくり、それもうつし間違いがあったのです! 音が違ってる!! 即、私の譜面をコピーしてその受講生に渡し、言いました。「この譜面をくれた人にすぐこのオリジナル・コピーを送って、そこからまたず〜っときた道をさかのぼるように」と。でもこの間違いヴァージョン、それ以来聴きも見もしないので大きな被害はなかったようです。

90年代の中頃からいろいろな人たちがCDにも入れるようになりました。私自身もこれまでに4枚のCDに録音しました。

"Like a Water-Buffalo" の譜面にはテンポやダイナミクスの指示がありませんので、弾く人はそれを自由にしています。だから北欧風、ロシア風、ドイツ風のWater-Buffaloが自然と出来上がってこれは本当に面白い。でも、レジスター(ストップ)の指示は細かくあるので、アコーディオンの音色変化は誰の場合もちょっと似ています。

今までほんとうに沢山のいろいろな "Water-Buffalo" を聴いてきましたが、いつも思い感じることがあります。それは、みんな心をこめて「語るように」、「うたうように」弾いているということです。そんな指示は譜面に書いてないし、私からも言ったことは一度もないのに。それは全く国籍を問わず、有名なソリストが弾いても、ものすごく速い指を持った人が弾いても、普段はでっかい音ばっかりを好む人が弾いても、生徒、学生が弾いても、100kgの大男が弾いても、40kgの少女が弾いても、中学生が弾いても、老人が弾いても、演奏する人の心がじかに感じられる、ほんとうに不思議な曲だということです。

初演から16年経った今でも、注文、問い合わせは絶えません。幸い今ではもうこの内職、熟練作業となり手早いものです。演奏も16年間続けてきたけれど、少しずつそれも変化していて昔の録音を聴くのも楽しいです。私の人生も「水牛のように」です。


(2001年5月27日オランダ・ラントグラーフにて)



fishイラスト英雄達 カラワン(1)  A-DOON

70年代 世界中で自由のための戦争が起こった タイにも起こった 何の自由かというと 自分の生きる道を選ぶ自由だ それは権力者と民衆との対戦だった

結果は民衆の勝利だった

この戦争は歴史的に非常に大きな意味を持つものだった 多くの人々があらゆる方法で戦い たくさんの人が死んでいった 生き残った人も少なくないが その中で英雄がうまれた

カラワンも英雄だ 民衆の英雄だ 真の英雄だ

カラワンとの出会いはいつのことか覚えていないが 小さいときから 彼らの歌を耳にしていた テレビでも何度か見かけたことがあった 実際に本人達に会えたのは大学時代の文化祭 そこでスラチャイさんや モンコンさんに 会うことができた ちょっと挨拶をした程度だが 嬉しかった

それから時が経ち 一昨年 東京の同じ舞台で 演奏をすることができて とても光栄に思った

カラワンのどこがすごいのか それは本人達と話ができるまでわからなかった スラチャイさん モンコンさんと話ができて 初めてそのすごさがわかってきた ひゃ〜 大先輩達はすごいんだな と心から思った

英雄達の 豊かな人間性 優しさは心に染みる 一見 ただの酔っ払いに見えるかもしれないが 彼らの目の中には 計り知れない勇気が秘められている しかも 今 感じられるのはただの氷山の一角に過ぎない もっと感じるようになれるには 時間が必要だなという気がする

しかし「英雄は女に弱い」ということは 彼らにとっても また 逃げられない定めだ





fishイラスト音と音楽(5、6)  三橋圭介

   その5

「世界の屋根」といわれるチベット、ヒマラヤの麓の厳しい自然に抱かれながら、人々は笑顔をたやさずたくましく生きている。かれらを支えているのは、自然への深い尊敬と厚い信仰心だ。ときに何百キロ離れた聖地をめざし、何ヶ月もかけて大地にひれふし、全身全霊を仏になげだす巡礼(五体投地)の旅におもむく。そんな険しい道のりに潤いをあたえ、平原、山地の生活を彩るのが歌や踊りだ。

一般にチベットの音楽としてしられる僧侶たちの荘厳な声明とはことなり、その音楽は人々の屈託ない笑顔のように素朴で親しみやすい。巡礼の旅から農作物の収穫、ヤクの放牧、結婚、祝日、そして祭りに歌をうたい、踊る。それは自然との共生の証であり、信仰厚い人々の日々の生活とともにある「生きるための音楽」だろう。

ここでチベットの音楽を収めた2枚のディスクを2回にわけて紹介する。1枚目は「Tibetan Folk Music〜Traditional songs & instrumental music from the roof of the world」と題されたアルバム。チベット自治区の都ラサの歌から、ジョカン寺に巡礼に訪れた山地の遊牧民ナクチュや農民のシガツェの人々などの伝統的な歌をラサで録音(1997−98年)した記録である。

山岳地方の歌、農村の歌、都の音楽などがあり、詩は愛や空、草原、仏を讚え、祭を祝う。山岳地方の遊牧民の歌はア・カペラによる装飾をともなうメリスマを特徴として、ひろい音域を自由リズムで即興的に歌をつむいでいく(ナクチュ)。農村の歌はダムニャン(三味線に似た六弦の撥弦楽器)のリズムに乗ってうたう民謡調で、どこかなつかしささえかんじさせる(シガツェ、中央チベット)。そしてラサの音楽はヤンジン(箱状の弦楽器)、リンボ(竹の笛)、ダムニェンなどで伴奏される歌ないしは器楽で、遊牧民の歌よりも華やかで洗練された味わいがある。

これら色とりどりの歌をチベットの自然に咲くちいさな花にたとえてもいい。素朴でたくましく生きる花々が大地によって力強く支えられるように、歌もきびしい自然や信仰のなか、精神的に豊かな生活に支えられて深い呼吸をしている。

自分の生活を省みるなら歌は生活とともにあるとは決していえない。近代化した文化の枠のなかで音楽(=歌)はただ消費すべき対象になっている。チベットの人々の溌溂としてよどみない声のあらわれに身をゆだねてみると、かたちのないものが心を低く広がりすぎ、かたく結ばれていたものが、ゆっくりとほつれていくような時間をかんじることができる。

だが、そのチベットも1949年から翌年にかけての中国の侵略以降、「自治」とは名ばかりの干渉と差別が行われている。うつくしい花々はすこしずつ消えようとしている。

   その6

「おれたちの子は歴史の教科書のなかで、かつてこういう民族がいたことを学ぶのだ」。

中国の侵略にたいしてインドにのがれた亡命チベット人は現在約100000人におよぶ。チベットでの「自治」が名ばかりのもので、中国の干渉と抑圧がつづく現在、亡命チベット人は自国の伝統文化を保護せざる得ない状況にある。

伝統文化の保護とは廃れるまえに「絶滅寸前のオリジナルなもの」を残していこうという近代的な運動だ。冒頭のことばにあるように、チベットからインドに逃れたチベット人にとってチベットの危機は民族の危機にひとしい。だが伝統文化の保護はかれらの過酷な現実と密接にむすびついている。

1958年、ダライ・ラマ十四世の加護のもと、自国の伝統文化を次世代に伝えていくために、北インドの亡命チベット居住区ダラムサラにTibetan Institute of performing Arts(チベット伝統芸能研究所、以下TIPAと略記)が設立され、オペラをはじめとして民謡、歌舞などが教育されている。ここで紹介するのは日本に住むチベット人のケルサン・タウワがつくったアルバム「DRA YANG(ダヤン)」である。TIPAが昨年7月に来日した折に東京で録音された。

ラツェ地方のインドへの巡礼の歌、ペ・ルー地方の両親や故郷をたたえる歌、コンポ地方のうつくしい山々の歌からチベットの正義のために命をささげた人々の追悼歌、ダライ・ラマ法王を讚える現代の歌、さらにダライ・ラマ法王の亡き先生が作曲した歌はギターのコードに乗せたフォーク調もきかれる。裏声をコロコロところがすようなその節回しは、まるで日本の仕事歌をきいているように親しみ深く語りかけてくる。

民謡にあるように「目のまえには雪山、背後には氷の川、チベットの子供たちは氷雪のなかでおおきくなる」。農作物の収穫、寺や家屋の建設、ヤクの放牧、きびしい自然状況のなかで労働を祭事のように彩っていくのが歌だ。歌を失った労働は苦役であり、生活に潤いをあたえるひとつの知恵のひとつだろう。そして本来、日々の生活のなかでうたわれる歌こそもっともいきいきとした表現と力をもっている。しかし亡命チベット人にとってかつての環境や生活はない。インドのきびしい生活のなかで歌は、見果てぬ思いや日々の現実として守っていかなければならない大切な何かだ。

チベット舞台芸術団は世界中を旅しながら、さまざまな地方の伝統の歌や踊りを一同にあつめ、いつか自由に帰れるかもしれないチベットを夢見ながら、歌をうたいつづけなければならない。かれらにとって「生きるための音楽」はチベット人として生きる証であり、同時に戦うことでもある。そして忘れてならないのはケルサンが日本でこのCDを作らなければならなかったことだ。かれもまたアルバムをつくることで無言に戦っている。
 
いま、はりさけんばかりの元気な歌声が、チベットの空の青さに突き抜けていくように鳴り響いている。



fishイラスト書きかけのノート(2)  高橋悠治

なにかを思う。これはどうにもならないことだ。
思わないようにする。だが、それは思わないようにしている、まさにそのことをまず思わなければ、できるわけがない。思わないようにすればするほど、それを思わなければいられなくなる。
たとえば、何を思ってもいい、二という数以外は、と言われて、二を思わずに、二以外のことを思うことが、どうしてできるだろう。

我思う、ゆえに我あり。そうだろうか。なにかを思う、そのときに、これを思おうとして思っているのだ、とは言えないだろう。これを思うまいとして思っている、とも言えない。
気がつくと、ある思いのなかにいた。思いはじめた瞬間は、いつだかわからない。思いにふけっていたことに気づくその瞬間に、その思いは止まり、思いの外に放りだされる。
すると、思っているという状態は存在しないのか。思いは過去のなかにしかないのか。だが、思っているという状態がなくて、どうして思っていたことに気づけるのか。

なにかを思っている、そういう状態があり、そのときは、その思いの外からそれを操ることはできない。思いは起こってしまう。意志とかかわりなく。そこに我はいない、他のだれもいない、思いが思いによって思っている、それだけだ。思いは思いのままにならないもの、そういうものとして思いである。

なにかを思う、あるいは、思いとは、なにかについての思いである。そのなにかをもたない思い、なにについてでもない思いというものが、ありうるだろうか。
一ということば、あるいは文字のかたち、そのひびき、どれでもいいが、あるひとつの対象を決めて、あらためてそれを思ってみる。
一という思いがはじまる直前には、なにを思っていたか。それを思っても、わからない。だが、思いはあったはずだ。思いという場がなくては、どうして一を思えるだろう。
一を思いつづける。これも不可能に思える。思うプロセスを観察していると、一は連続していない、持続してはいない。一は思いのなかで、あるいは、一という思いは、明滅している。ある瞬間、一はもう消えている、あるいは、それを思っていないことに気づく。
では、その瞬間に、なにを思っているのか、といえば、なにも思っていないとしか、言いようがない。それが、なにについてでもない思いというものであるだろう。

思いは、なにかについての思いである。だがそれは、そう思っているだけのことだ。なにも思っていないというかたちの思いの場があり、それは見ることでもなく、聴くことでもなく、身体感覚でもなく、あいまいなひろがりとしかいえない場で、そこになにかが入ってくるとき、それはなにかについての思いという、方向をもった場のように思われる。思いの場を心と呼ぶならば、心とは、なにかが点滅しつつ、たえずちがうものになりかわる、薄暗い空間だ。

心には、なにといえるものならなんでも、入れることができる。ことば、絵、身体感覚、感情、論理、だが、それらはなんとたよりないもの、とらえがたいもの、色褪せたものになってしまうのか。
青いボールを見る、そして目をそらし、青いボールを思いえがく。訓練すれば、目をとじて、青いボールを思いのままに出現させたり、消すことができるようになるだろう。それを大きくも小さくもできる。そういうことができるのは、この青いボールが現実ではないからだ。

それでは目をあけて、青いボールを見る。それは青い、それはボールだ、そう言えるのはなぜだろう。それを青いボールとして見ているからではないだろうか。青いボールとしてではなく、そこに見えるものを見るとなにが見える。
それを説明することはできない。
青いボールがあれば、それを見る目があり、見る人がいる。ところが、そこに見える光景は、まったくちがう。青もなければボールもない、さまざまな彩りにかがやく深みのある空間、それを見ている目もなく、見ている人もなく、見えるものが見えているとしか言いようのない、どんな思いにも汚染されていないなにかが、顕れている。

     *

思想とは、だれかが考えたことだ。考えるとは、明滅することばの残像で、現在形ではとらえることもできず、コントロールすることもできない。この無人称のプロセスを、後から辿りながら論理によって組み立てるとき、考える人が考えたこと、思想が生まれる。この意味で、あらゆる思想は、はじめからにせものだ。それは考えるプロセスに対応していないばかりか、そこで考えられている、と思われている現実と、どこまでもずれている。

だから、思想が現実を分析して、ある判断をした場合、逆の判断をすることもできる。だれかがこう言えば、かならず反対のことを言う人たちがいる。ちがう思想のために、ひとは殺し合うことがある。おなじ思想がみんなに強制されるときも、あるいはもっと危険なかたちとしては、みんながすすんでおなじ思想を受け入れるときも、その思想が現実の前に崩れるまで、崩れるとき、その後にも、無意味な生と死がつづく。

だれかが考えたことではなく、だれでもないものが、たえず考えなおすプロセス、それが人間の生きている時間だった。

     *

ことばを書くことは、紙を尖ったペンでひっかくことを意味していた時代があった。
scratchという英語は走り書きすること、ひっかき傷をつける、という意味で、おなじことを指している。カフカが自分の書きものについて言ったkritzelnも似たようなドイツ語だが、もうすこし不器用さが感じられる。日本語の「書く」も、「掻く」に由来する。紙の前には石や煉瓦の表面を掻き取ってかたちを彫り込んでいたのだから、ペンが活字のキーに替わって、文字がtypeつまり押しつけられ、打たれることになるまで、ことばは物の表面を掻きむしっていた。

ところで、掻くのは、痒いからだが、痒みとはなんだろう。それは掻きたくさせる感じ、としか定義されない。皮膚から脳に送られる信号に異常が見られるとき、それが痒みとして感じられるという説がある。すると、掻くという動作は、異物を払いのけようとする往復運動なのだ。

すこしの痛みはこらえることができる。痛みが激しければ、それに対抗できる動作はない。ついには気を失うことになる。ところが、痒みはほんのわずかでも、がまんすることがむずかしい。考える余裕もなく、自動的に手がそこに行って、掻いている。掻いているあいだは痒みはない。痒みが感じられないのに自動的に手が掻いているのに気がついて、手を止めると、周囲の皮膚まで傷ついて、痒みはひろがっている。そればかりか、痒くもない場所をためしに掻いてみると、たちまち痒みがふくれあがってくる。

痒みがあると、不必要なまで身体を意識する。身体を意識すると、そこここがもっと痒くなる。痛みの場合は、身体から分離することができる。身体があり、そこからわずかに離れた空間に痛みがあって、身体とはちがうリズムで脈を打っている。その波のあいだの痛みのない空間に入りこむことができれば、痛みは遠のいていく。

痒みは、自己主張かもしれない。はっきりした対象のない、掻くことによって拡散する痒みは、実体のない異物に対して、掻きむしりながら自己の境界をきわだたせようとする。ふだんはあいまいのままになっている内と外との境界が、燃えるようないらだちで人体のかたちに彫り出される。

内と外の境界は、たとえばこういうことだ。立っていると、床のかたさを感じる。だが、かたさの感覚はたしかにあるのに、どこからが床で、どこまでが足の裏か、はっきり境界線を引くことはできない。

文字を書くことは、とらえがたい思いをとらえ、うすれる記憶をとどめ、プロセスを実体化し、根拠のないものに根拠をあたえ、現実に違和感をもつ心の痒みを、書くことによって拡散する。

書くことは、石や煉瓦の時代には、王権や神権の確定のためにあった。竹や木、皮、絹、やがて紙とともに、だれでもが記録し、主張する権利をもつようになる。書くことによるストレスはひろがっていく。ペンが紙にひっかからず、書くのに力がいらなければ、たくさんのことばを書くことができる。ことばがことばを生み、非現実の世界をつくりあげる。
紙にひっかからないペンは、掻く力も弱くなっている。だから、ことばもすべっていく。いくら書いても、心がみたされることはない。

書くことのなめらかさが、準備と作法で抑制されたこともあった。墨を磨る、巻紙をひろげて固定する、筆をただしく持つ。から、から、準備に時間をかけるうちに、心の疼きは冷えていく。不安定な筆をささえる腕が、書かれることばの意味にではなく、文字を書くという運動そのものに意識を向き変える。

キーでタイプされることばは軽い。指だけがうごいている。どんなことばが打たれるときも、指はおなじ運動をくりかえす。タイプライターの時代が終わった今、文字はディスプレイに映しだされる虚像にすぎない。機械のどこかに蓄えられていく0と1のパルスの列を、文字のかたちで見せているだけだ。テクストファイルの情報量は小さい。いくらでも書くことができる。このように。

これでは、書くことの力はどうなってしまうのか。

掻くためのことばではないことば。痛みに心をひらく吐息のようなことば。どこかに。


(これまでに書いたテキスト、スケジュールなどは、「楽」にあります)



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