2002年2月 目次
しいなまち・カフェノート(1) イナン・オネル
湯炉と銭湯 御喜美江
線を2つ(1) 足立智美
メントール・ユーカリプト(1) 片岡義男
宇宙を感じる! 松井 茂
ジット・プミサクとワシット警察中将(4) 荘司和子
しもた屋之噺(2) 杉山洋一
書きかけのノート(10) 高橋悠治*** 「当日発表」など、今月の催しについて
しいなまち・カフェノート(1) イナン・オネル
誰も知らない私を、
草原へ向けて歩いている、
建物たちは
引きずりながらひさしを、
一軒一軒通り過ぎていく私のよこを、
貴女は微笑みながら手を振る、眠りの中で、
貴女、独りで眠る女、
貴女は両手をつけて唇に、
ひとつの赤いリンゴを差し出す、
眠りの中で。
誰も驚かない私を、
座っているとき自動販売機のよこに、
女たちが引きずりながら好奇心を、
通り過ぎていく私の前を絶えず、
貴女は地面を見る両手をポケットに入れて、
貴女、独りで歩く女、
視線をずらしながら歩道から、
一歩一歩に子供の声、
鳥の声。
(喫茶店「嵯峨」にて)
湯炉と銭湯 御喜美江
大晦日の夜は、ねむくてねむくて10時頃からベットに入り、目覚し時計を12時に合わせて寝てしまった。2時間後、眠い目をこすりながら起きて義母に「Happy New Year!」を電話で言って、外の花火をちょっと見て、再びまた寝てしまった。ヨーロッパに住んで今年でちょうど30年たつけれど、この花火をドカンドカンあげて大騒ぎするヨーロッパの大晦日には、いまだ馴染めない。これが日本だと年末はけっこう忙しくバタバタやってても、おせち料理作ったり大掃除したりってなんか楽しいし、年越しそばも大好き。そして新しい年がはじまる静かで厳粛なあの瞬間は、ほんとうに素晴らしかったな〜と、毎年思い出す。“除夜の鐘”なんて字を見ただけでじ〜んとくる。そうするとこの私でもホームシックムードになって“こんなうるさい花火なんか……”と思ってしまう。数日後、八巻美恵さんから新年のメールをいただいた。そこには、“裏のお稲荷さんに初詣”とか“長寿甘酒、御神酒、”なんて単語が並んでいた。そして“空には 満月のまわりを大きく囲む雲の輪”と。それらは私の中でひとつの絵なり、“来年はなにがなんでも日本で初詣すること。”と心に決めた。そうなればいいな。元旦は睡眠が足りていたので普通の時間に起きて朝食、テレビを見ながら2001年の残り物で昼食、このあとは散歩、といきたいところ、しかし外は寒すぎるので(-10度くらい)、家でぶらぶら。クリスマスにもらった本を読んだり、猫と遊んだり。ちょっと練習も。
さて今年から私達が生活するドイツもオランダもユーロというお金になった。ドイツ・マルクもオランダ・ギルダーもおしまい。オランダでは一月いっぱい、ドイツでは2月いっぱい、まだギルダーもマルクも使えるというが、これ以上財布が増えるのは重いし面倒くさいし、はやくそのユーロとやらも見たいし、というわけで2日さっそくオランダの銀行に行った。同じく通貨がユーロとなる国、フランス、フィンランド、スペイン、イタリア、オーストリア、ベルギーのお金が引出しに少し残っていたので、それらも両替しようとカバンに入れる。長い列に並んで約一時間、ギルダーもフランもシリングもペセタスもリラもみんなユーロとなった。硬貨はピカピカ、紙幣はモノポリー・ゲームのお金みたい。“お金”という実感がすぐには湧かない。
次は郵便局。ここでは一時間半も列に並んだ。幸い自分の前にかわいい黒人の赤ちゃんがいたので、ず〜っと一緒に遊んでいた。その子の母親は2m近い背丈と体重は100kgほどの巨人だったので、ちびの私にとって子供と話すほうが首のためにも楽だった。
さて翌、3日はドイツの銀行へ。ここの列では30分くらいで番がきた。硬貨と紙幣を窓口で出す。「全部でいくらありますか?」とめがねをかけた若い女性の銀行員から、きつい口調できかれる。「えっ? あの〜、ちょっとわかりません。勘定しませんでした」というと「ミスがあると困るでしょう、あなたと銀行側と両方で勘定するということ、ご存知じゃなかったんですか?」とおこられる。「知りませんでした、すみませんでした」と返事はしたものの、どうしてドイツ人ってすぐこういう調子で仕事するのかな〜と不快に思う。昨日のオランダ・ラボ銀行なんて7カ国ものお金を、それも子供の貯金箱程度のはした金まで、親切に両替してくれて、「お手数かけてごめんなさい」と言うと「全部あわせると、でもこんなになりましたよ」と相手をよろこばす優しい言葉のひとつもかけてくれる。一時間並んでこのほうが、30分並んで怒られるより、なんか疲れなかった。もしドイツであの“前もって勘定してない”7ヶ国のお金を両替しようとしたら、どんなこと言われたかな……、試しにちょっと聞いてやればよかったと思う。
この新しい紙幣と硬貨を、オランダでは『ユーロとセント』、ドイツでは『オイロとツェント』と発音する。『湯炉と銭湯』、響きがなんか日本風にきこえて、しかもあったかい感じのするオランダ風を私は好む。紙幣は真新しいので、本当にきれいですべすべしている。5ユーロ札と20ユーロ札は色も大きさも違うのに、なぜか時々まちがわれるそうだ。硬貨は裏を見ると、どの国で作られたか、その絵でわかるようになっている。ただまだピカピカに光っているので、支払う時まぶしくてよく見えないことがある。
換算はおおざっぱにみて半分だから、マルクでもらってたお給料は半額の数字となって紙に記される。これは非常につまらない。お給料だけイタリア・リラかなんかで記されたら「こんなに稼いだ!」とうれしくなるかもしれないのに。だからといって買物するとき半額に記されている品物を「安い」とは思わないから不思議。
先週パリのドゴール空港で喉が渇いてミネラルウオーター1本買ったとき、ユーロの支払いで「これは便利」とはじめて思った。今までは残ってしまった外国の硬貨って結局使えなかったから。
今月はあっという間に過ぎてしまいました。ここで遅ればせながら:
みなさま新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくおねがいいたします。
2002年が平和な年となりますよう、そして健康としあわせと夢に満ちた一年になりますよう、お祈りします。(2002.1.28. デュッセルドルフにて)
線を2つ(1) 足立智美
滝口修造はやはり「書く」人だったのだろう。その造形作品は有名なデカルコマニーにせよ、あるいは焼き焦がしにせよ、程良いセンスと豊かなディテールを欠かさないが、所詮は良い趣味の反映に過ぎないのだ。彼は戦後美術の最良の目撃者だったわけだが自分の作品についてはどう思っていたのだろう。だが1960年(彼が書き手から描き手に踏み込もうとした最初の時期)の日付を与えられた、文字とも絵ともつかない、万年筆やボールペンによる一連のドローイングは異彩をはなっている。「書く」ことから「描く」ことへとほんの少しだけ越境した状態、あるいは「書く」運動が損じて思わず「描いて」しまったような。彼が批評家として日々の労働としてきたペンで文字を書くこと、その文字がある日とつぜん線に見えてしまったような。しかしその線が「描く」ことを意識した瞬間に線は死に、色彩や構成を考えるようになると、もうそれはデザインでしかない。滝口の手が辿った線。それは同時に滝口の手の運動の記録となり記憶となる。それは造形ではない。ランダム・アクセスの可能なヴィデオテープが彼のスケッチブックの上に焼き付いていたのだ。(「滝口修造の造形的実験」渋谷区立松濤美術館1月19日)もう1つの線。日々の新聞紙に書きなぐられた線。正方形に切り取られそこから線が壁面へ天井へ分散する。鯨津朝子の線は子供のいたずら書きのようでいて、底知れぬ悪意を感じさせる。線の間の空間を強調するでもなく、空間を埋め尽くすでもなく。奔放でもデリケートでもなく雑然とある線。モノクロームだが禁欲的ではなくむしろ欲動に溢れている。素材を限定するという考えがあるのかどうか。この作家の仕事をそれほど良く見ているわけでもないし、どのように書いているのか知る由もないが、この線は自らの筆触の美しさに溺れず、かといって線という概念に回収されることをよしとしない。(「鯨津朝子展」巷房+Space Kobo and Tomo 1月15日)
しばらく概念で考えることを自分に課してきた。だが概念から出発したら概念以上のところに行き着くことはまずない。分かるのはせいぜい概念の貧しさだけ。概念なしなら概念以下にしかならないのか。とりあえず出発点を限定せず、といっても具体的な物事から始めるしかなく、そこで身体を基盤に据えるほど素朴にもなれない。
線とはさまざまな範疇の隙間をかいくぐる運動の軌跡である。ひとつの線の複数性を語るのも大事なことだが、ここではとりあえず2本の線から始めよう。連載の場合は(1)とせよ、とのことなので先のことは分からないけど、今回は「線を2つ(1)」。
メントール・ユーカリプト(1) 片岡義男
タイトル・ソング、予感のバラッド
真夏へフェイド・イン
彼女が走り抜ける夏
影が光を追いかける。
そしてある夜のこと
思いがけない不都合、ワルツの危機
出来る限りのことはした
その言葉を信じよう。
黒いインクの手紙、ほのかな望み
すぐに出来るはずの思い出
そこにいない人の名前、海からの風
陽の沈む音が聴こえる。
単なる経験不足、とても良い忠告
ブラック・コーヒーだけが正解
いまに夕立が来る
誰もいない真夏の庭、本質への近道。
宇宙を感じる! 松井茂
ある美術家が「縞々学」という言葉を教えてくれた。これは、川上伸一『縞々学 リズムから地球史にせまる』(東京大学出版会 1995年)という本によって提唱された言葉だ。この本は、地球上のあらゆる局面に現れる縞状の堆積から、地球の歴史を読み解くという壮大な内容だ。縞状の堆積とは、例えば、地層、木の年輪など。それらは、基本的には均等の間隔で堆積していくのだが、気候などの異変があると、その部分だけ間隔が拡がったり、狭まってしまうのである。つまり、地球は、リズムとハプニングによってできてきたのだという。しかも、その天候の異変=ハプニングは、太陽の黒点によって生じたり、宇宙からの影響だったりすることもあるそうだ。
宇宙の事象が地球の天候などに影響しているなんて話をきくと、喘息持ちの僕は、発作を起こしたときに「これも、宇宙の影響なのか!」などと思ってしう。なぜなら、喘息は、気圧の配置など天候の変化に敏感に反応してしまう病気なのだから。実際、朝の体調が悪いからと傘を持ってでかけて、これが当たったりする。喘息の人に会って同病相哀れむ要領で「調子悪いよね」とかいうと、やはりうなずかれたりする。喘息とは、実に宇宙からの波動を感受する病気なのか! なんて思ったりする次第。
話が大きくならないうちに断っておくと、気候変動に宇宙からの影響があるのは事実だが、気圧レベルのことは地球圏内のシステムの問題として説明が付いてしまうらしい。しかし、全く影響がないわけではないのだし、自分の身体のバイオリズムが宇宙に対応しているのだと思うと、どんな詩を書いても宇宙の責任というか普遍的なのではなどと、自分から引き離せるので嬉しくなる(たんなる無責任ともいえる)。だから、喘息でふせっているときに、詩のプランができたりするのは、宇宙に衝き動かされている(笑)、なんてわけない?
ときに、2001年が没後50年だった作曲家、シェーンベルクも喘息持ちだったそうだ。シェーンベルクといえば、もちろん12音音楽を発明した人だが、この論理にも、ひょっとしたら宇宙の力が及んでいるのかもしれない。三橋圭介によれば(*)、シェーンベルクの弦楽三重奏曲(厳格な12音技法で作曲されている)は、喘息で死にかけたときに着想されたものだという。僕にはなんかその作曲動機というか、感覚がわかる気がする(あ、三橋圭介も喘息持ちでした)。つまり、喘息による体調の変化は、先の例にならえば、宇宙の運行に従った普遍的な現象といえないこともないわけで、とシェーンベルクが思ったかはわからないけど、その状態が自身の私情を排した作品になるような気がしたのではないか?
また、シェーンベルクは、共感覚的を信奉していたらしいが、これも、ちょっと喘息持ち的な発想のような気がする(同時代の思潮である神智学的との関係で柴辻純子が解説したエッセー「響きと色彩」、中ザワヒデキ『西洋画人列伝』カンディンスキーの項は必見!)。喘息的共感覚は、「あ、きっと他の喘息持ちも、世界、否、宇宙中で大変なのだ。オレたちは宇宙の運行をこの身体で感じている!」とか、思ってしまうことを指すという、誇大妄想的な納得の方法だ。芸術性とは、まったく無縁の話のような気もするけど、シェーンベルクをはじめとする喘息持ちの人の作品には、宇宙からの作用の証拠として、リズムとハプニングに満ちた縞々があるのかもしれない。別になくてもいいんだけどさ。
(*)三橋氏によれば……正確にはあたらしい喘息の薬(ペンツェドリン)を飲んで、それが原因による心臓、胸の痛み。でも喘息の症状はあったと思われる。「夜の10時頃に目を覚まし、喘息の発作時にいつも使っていた安楽椅子のところに走っていった。そして胸と心臓のあたりに激痛がはじまった」(シェーンベルク)。
ジット・プミサクとワシット警察中将(4) 荘司和子
ワシット・デートグンチョンという作家を知ったのは『最後のパトロール』(野中耕一訳 燦々社 1991年)を読んだときでしたが、読み出したら止められないこんな面白い小説がタイにあったとは、知らなかった! と、一気に読み終えてしまいました。共産ゲリラと国境警備警察との迫真に迫る戦闘シーンも印象に残ったのですが、主人公の警察官と警察内部での抵抗がもうひとつの主題になっています。あの極悪タイ警察にこんな人がいたのだ、というショッキングな感動を覚えました。
社会的正義感というのにめっぽう弱〜いのがわたしの欠陥だと思うのですが、それでまたぞろこの作家に夢中になり、彼の別の作品をバンコクの本屋で探してきて読んでみました。その中の『ルアット・カウ・ター』(直訳すると血が目に入るという意味)という作品は、警察署長と地方マフィアの繋がりという、タイでは当たり前の闇の構造とそれに挑戦するひとりの青年警官の物語です。この青年警察官パンセンに惹かれてしまったわたしはどうしてもこれを翻訳したい、と思い始め、小さな出版社のおじさんとワシットさんを訪ねることにしました。
著者とはこのあとも2、3回会っていろいろな質問に答えてもらいました。警察に在職中からペンネームだったとはいえ、内部告発になるような小説をいくつも出版したのに消されてしまわなかったのは何故か、と訊いたところ、びっくるするような答えが返ってきました。「国王が助けてくれました」というのです。プロフィールを見ると1970−81年まで王宮警察長官を務めているのがそれです。国王は彼の小説の愛読者でそれでお声がかかったのだということ。
「ジット・プミサクはご存知ですか」という質問ももちろんしました。当然よく知っている、との事でしたが、在学中は知らなかったそうです。「わたしが彼を殺すことにならなかったのが救いです」ということばが耳にいつまでも残っています。(実際ワシット氏はゲリラ掃討の特殊警察である国境警備警察司令部に勤務していたことがあるが、年代的にはジットの死後)
タイの知性、タイの良心を代表するような2人が銃を取って殺しあうような立場に追い込まれたのは冷戦の悲劇でした。
ところでワシットさんは30年も以前から瞑想をやっているのだそうです。日本語では座禅を組む、というところタイでは瞑想をする(サマーティ)といいます。僧侶から教えてもらったそうで、瞑想中は身体も精神も完璧に休むので、1日に何回か時間のあるときに瞑想している、「わたしは夜は12時に休んで毎朝5時にはもう起きていますが、それで十分です」とおっしゃる。人生の3分の1以上も布団の中にいて、朝どうしても起きられないわたしとしては羨ましいやら、おそろしいやら。
定年退官後、ワシットさんはマティチョンという新聞社の編集顧問をしていて、週1回そこで希望者のために瞑想道場を開いているので、参加させてもらったことがあります。たしかにいいような気がしたのですが、怠け者のわたしには続けられそうもありません。
ジット・プミサクとワシット・デートグンチョンという2人、突然変異のタイ人かもしれません。あまりにもピユリタンだから。警察の高官で車を持っていない人なんて絶対いないのです、あの国では。
『ルアット・カウ・ター』という小説はどうなったかと申しますと、翻訳が終わったとき(97年末)には、出版を引き受けていた小さな出版社が赤字で、すでに出版から撤退していて日の目を見ず、ということになったのでした。
次回からは水の流れにたゆたうごとく自然体で生きている(突然変異でない)タイ人、モンコン・ウトックのCDブックから選んで翻訳します。ひさしぶりにモンコンの声が聞こえてくるように。
しもた屋之噺(2) 杉山洋一
「水牛」をイタリーでは「ブーファロ(Bufalo)」といいますが、有名なモッツァレルラ・チーズが水牛の乳から作られるのはご存じですか。モッツァレルラとは「ちぎられたもの」を意味して、水槽にうかべた塊を手でちぎりながら作ります。狂牛病に関連して食生活が大きく変化しましたが、水牛の乳を材料にしているモッツァレルラの消費は著しくのびたとのことです。さて、そんなイタリーですが、1月から欧州通貨統合が実施となりユーロが導入されました。昨年暮れのクリスマス・プレゼントの人気だったのは、クリスマス前後から郵便局で配付が始まった1700円相当のユーロ硬貨セットや、ユーロとリラとの換算機能つき電子計算機などでした。フランスやドイツと違って、何しろ今まで2000リラと4桁で考えていた物価が、1ユーロという1桁に替わられるのですから、通貨統合でのイタリーの生活ギャップは他の欧州各国にくらべ相当なものでしょう。1月に入り換金の殺到した銀行や郵便局が軒並み休業したり、街ゆくひとの挨拶もユーロの話題ばかりです。使う側は外国に出かけたつもりで支払えばよいのですが、今回は使われる側すら通貨を把握していないので、街全体ままごとをしているような、ユーモラスな光景が繰り広げられます。街の中は大分落ち着いてきましたが、自動販売機でコーヒーを買おうとして、ユーロで払うとリラで釣り銭をよこしたのには苦笑しました。
手元のリラを銀行でユーロに換えてもらうと、リラ札が銀行員の手にわたると、それまで貨幣だったものが、紙くずのように一瞬にして色褪せてしまうのです。随分はかない紙きれに左右されているものだと、思わず感慨をおぼえます。イタリーも国家統一からまだ100年たらず。以前はさまざまな通貨が混在していました。あと100年も経てば、今度は欧州にさまざまな通貨が混在していたと教わるようになるのでしょう。
そんな投げ出されたまま止まらない、絵巻のような時間が文化を育んできたとして、すべてを線でむすぶべきか、時として分からない気もするのです。子供のころ、森林鉄道や鉱山鉄道のトロッコが好きで、2万分の1の白地図を眺めていました。鉱山の周辺を丹念にさがし、かそけく走る点線をみつけるのが楽しみでしたが、文化をつなげるシナプスとは、ちょうどあんな形をしているように思えます。ほそい水脈のように不可視で、(まるでシナプスのように)互いに薄く関連づけられるもの。
100年ほど前のイタリー未来派のプロパガンダは、数名の日本人芸術家の名も冠していました。彼らはこの地で未来派の思想に傾倒し、当時の日本の洋画界にも影響をあたえたそうです。ムッソリーニと愛人が、スイス国境へ最後に逃避行した際、みずからの車に愛人をかくまったのは一人の日本人歌手でした(この話を実のお孫さんから聞きました)。そんな逸話は世界中に散在しているにちがいなく、ならばそんな無数のシナプスが不可視の礎として関係しあって、文化を培う不可視の時間軸をなすのかしら、とふと考えたりもします。
グロバリゼーションという言葉を日本でも耳にするようになりましたが、通貨統合を実施した欧州各国にとって、この言葉はとみに切実なひびきをもっているようです。もっとも、戦後早々、文化的にアメリカへ吸収された日本は、その意味でよほど急進的だったのかもしれません。
大企業がオリベッティ、フィアットなど数社しか存在せず、国のほとんどを中小企業が支えてきたイタリーにとって、今回のグロバリゼーションはまさに陣痛そのものです。イタリーのある音楽出版社など、ドイツの企業に買収されたのち、抱えていた大半の作曲家との契約を破棄し、あまった写譜屋を解雇して長年つとめた仲間の肩たたきもし、誰もいなくなったオフィスを売り払ってもまだドイツに計上する赤字が止まらず、残るは金庫にねむる貴重な手稿を売却しようかと考えるありさまで、結局これだけの犠牲をはらっても、グロバリゼーションの波を前にしては風前のともしびです。
しかし、文化が確かに生命を宿しているなら、たとえ波にのまれてもどこかで生き続けて、結びつき繋がってゆくに違いないとも思うのです。時間が呼吸しているのなら、吸込むことも吐き出すこともあってしかるべきです。ルネッサンス以後300年以上ものあいだ、イタリーは当時のグロバリゼーションの駒として数奇に操られる運命にありましたが、結局文化を頽廃させはしませんでした。これは歴史がのこしてくれた、大きな希望の証しだとも、勇気だとも思うのです。さて今から100年後、教科書で欧州通貨統合をならうころ、どんな文化が世界をおおっていることでしょう。
(1月14日 モンツァにて)
書きかけのノート(10) 高橋悠治
モロッコの未来学者Mahdi Elmandjraのサイト(http://www.elmandjra.org/)で こんな小話を見つけた(news>humourの項にある)
異文化交流にうってつけの実例(原文は英語)
最近おこなわれた国連による世界調査に次のような質問があった
世界の他の地域における食糧不足についてどうぞご意見をおきかせください
これは次の理由によりまったくの失敗だった なぜなら
アフリカでは「食糧」とは何かだれも知らず 西ヨーロッパでは「不足」とは何かだれも知らず 東ヨーロッパでは「意見」とは何かだれも知らず 南アメリカでは「どうぞ」とは何のことかだれも知らず そしてアメリカ合衆国では「世界の他の地域」とは何か だれも知らなかった
* *
1976年「きみたちにこの歌を」で ピアニストのリズムとタッチはinnocently uneven あどけなくむらに と指定したものの だれも何のことかわからなかっただろう ピアニストに ピアノを弾けない人のように弾くことを ピアノをはじめてさわる人のように弾くことを どうしたら伝えられるだろう 25年たったいまも わからない
初心者の心をもってやれ と言われても 心の問題は じぶんのつごうのいいように どのようにでも解釈できるのだから むしろ からだのしたがうべき型を決めて その不自由のなかからひらけていくものを認識するほうがいい だが 型がないということを どのように型にすればいいのだろう
あるやりかたで教育され 技術を身につけたものが なめらかに 慣れきったことを どうだこれを見ろ と やるというよりは見せつける このやりかたはいやだと ずっと思ってきた とくに ピアノのように さわれば音が出る どこを鳴らしても 同質の音が返ってくる楽器では コンクリートの舗道のように 足場を気にしないで走ることができる 思うように弾くことも わりあいすぐにできる だから ピアニストはだいたい 弾いてきかせてやる という態度に出る といっても いまさら 足場がぐらついているようには弾けないだろう
1850年代のプレイエル・ピアノでショパンを弾いたことがあった 今のピアノとちがって シングルアクションの鍵盤を押し下げていっても 抵抗がかんじられない 砂丘を歩いているように 一音ごとに指が沈み 底にとどかない それだからかえって ショパンの装飾音型は 足が地に着かないかのように 軽やかに舞うことができる
クラヴィコードをもっていたことがあった 鍵盤を押すと やわらかく張った弦を金属葉が押し上げる 指をかすかにふるわせるとヴィブラートがかかる指によって音に微妙な差が出る 音量はない すぐそばにいなければきこえない そのかわり 音量のわずかなちがいが ひろびろとした空間の遠近をあらわすこともできる クラヴィコードは家におく楽器 練習楽器だった
中国の古琴といわれる七絃の琴も 両手の指のせんさいなはたらきで さまざまな色合いを出すことができた つかわれる音のほぼ半分が 泛音 浮かぶ音蝶が花から花へ飛びうつるさま といわれる倍音奏法で 左手は糸に軽く触れ 右手が軽く弾く その他 音をふるわせる奏法にはたくさんの名がある 左手の薬指の先にある毛細血管の脈動を絃の上でかんじる というのさえあったらしい 琴は文人の楽器 ひとりで弾くか せいぜい同好の士二 三人にきかせるためのものだった
世界のどこの伝統にも このように 自分のためにひとりでやる音楽があった その楽器は 一種の機械になってしまった楽器を操作して力を誇示する現代の技術とはちがって 不安定な構造を せんさいな指があやつる 別な技術があった だが それも 選ばれた少数のものだ ここで問題にしているのは そのことではない
だれでもが わずかな訓練でできて 不安定な楽器を あやつるのではなく さぐりながら 何度やっても決しておなじ結果がでない 思い通りにならない むらのある そのむらをたのしむ そんな 技術でない技術がありうるのではないか 音楽家としてみれば 技術を持っている上さらに獲得する技術ではなく いらない技術を捨てていく そこに生まれる 技術
ホセ・マセダが注目したルソン島の山岳民カリンガの合奏音楽 ガンサ・トッパーヤとよばれる鍋型銅鑼の音楽 跪座し 膝に置いたゴングを平手で打つ 押さえる こする という一連の動作を 順々にずらしながらやっていくと 数人の音のあいだに浮かび上がるメロディー それはくりかえしのようで いつもすこしちがう 退屈なようで やっているうちに どんどん引き込まれていく 終わったときには 短かったような もっとやっていたかった気がする そんな音楽
ところが フィリピン大学の学生のグループがやるおなじ音楽をきくと どこかがちがう それぞれの関係を一度知性が分析し それを再現するときの ととのったかんじ 慣れた手さばき いったんこうなったしまったものは どうすればいいのか これが音楽家のつくる音楽をきいてかんじるのとおなじ問題だ
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