2002年3月 目次
いよいよ3月 御喜美江
しいなまち・カフェノート(2) イナン・オネル
回文/怪文三題 松井 茂
モンコン・ウトックのCDブックから(1) 荘司和子
つばめノート 長縄 亮
しもた屋之噺(3) 杉山洋一
書きかけのノート(11) 高橋悠治
「パンダ来るな」(現代詩手帖より) 小沼純一
いよいよ3月 御喜美江
いつの頃からだろうか、3月が日本における演奏会の期間となったのは。
演奏家のなかには演奏生活・・周年記念の行事、などする人も多く、そんな案内をもらうたびに、「は〜……」と感じ入る。「ところで私はいつから演奏してんだっけ?」と数えてみるけど、どこから勘定するのかわからないから、「そのうちマネージャーと相談してみよう」と思っているうちに忘れてしまう。結婚は婚姻届を出した日付がちゃんと書いてあるから、去年の9月22日は“結婚20周年”を二人で自覚することができた。この日(も)、赤ワインを飲んで、「おめでとうございます」なんて両親に言われた。自分は2歳のお誕生日にトイピアノを買ってもらって、4歳からアコーディオンを習い始めた。それ以前の記憶というのはあまりない。1歳でやっと歩けるようになった頃、家族旅行である温泉に行き、お湯の中に立ってスイカの形をしたビニールのボールで遊んだことをおぼえているのだが、「あとで誰かがそんな話をしたんでしょう、1歳でおぼえてるわけないでしょう」と母はいつも言う。でも私はおぼえているのです、本当に。そこは広くてきれいで、スイカのボールが大きくて、誰かがすぐそばにいて……と。でもやっぱり幻想かな。
トイピアノのことは、鮮明に覚えていて、これは家族も信じてくれてるみたい。
ラジオから聴く童謡を真似てポンポン鍵盤を鳴らしていた。ちょっと迷惑だったのは兄で、外の遊びから帰ってくると腹ぺこなのに、よく母から「みえちゃんがまた新しい曲を弾けるようになったから、そこに座って聴いて」と言われたそうだ。まあ、今でも私のリサイタルに来て、仕事からの駆けつけで腹ぺこでも文句も言わず、座って聴いてくれているが。自分の“演奏活動”は、だから記憶にあるかぎり行われていたような、いないような、もやもやしたもの。それに比べ、作品についての年月は、よく覚えている。高橋悠治の「谷間へおりていく」が今年20周年、「Le double de Paganini」 が15周年、「夢応の鯉魚」がちょうど10周年、「白鳥が池をすてるように」が7周年。ところで不朽の名曲、「水牛のように」は2005年が20周年。そこで2005年まで元気にアコーディオンを弾いていたら、この時こそ 何か記念の行事をしよう、と心に決めた。それは私にとって40代最後のコンサートともなるから、今から感無量……。でも“40代最後のコンサート”なんて全然宣伝文句にはならないから、他では見たこともない。ちなみに、その年は「み」の5周年。時間はまだあるから、マネージャーの“み”さんとこれからゆっくり相談しようと思う。
「アコーディオン・ワークス」というタイトルで毎年3月に行っている私のリサイタルは、委嘱新作の初演が必ずあるし、ソロもちょっと冒険に挑戦するので、一年のうちで最も緊張するコンサートだ。だいたい本番2週間前くらいからは、毎朝目覚めた時「あ〜、大丈夫だろうか、できるだろうかアソコ、またまた自分の能力を自覚しない欲張りプログラムにしたのではないか」とあせる。しかしもう変更はできないから、とにかく起きて練習に通う。それ以前の2月(今)はもっと悪い。どの曲もまだほやほやで、大学で、スーパーで、汽車の中で、幾たびか はっとして緊張する。どうしてなんだろう、計画の段階では、「あれもしたい、これもしたい」と胸がふくらむのに。それに、2月は28日しかない、この他の月よりたった2、3日短いことが、一週間くらい短いように感じられる。
世の中には、本番で全然あがらない人もいるらしい。この「アコーディオン・ワークス」に限らず、演奏会はどれもこれも緊張する、わたしは。どんなに小さなコンサートでも、どんなド田舎でも、充分練習してないと恐ろしいし、指示された時間より早く会場に到着していないと落ち着かない。そして本番前はバナナとミネラルウォーターしか胃には入れない。もちろん、沢山弾きこんだ曲、何度も同じプログラムが続くとき、その緊張はやわらぐけど、「全然あがらない」という演奏家は、心底うらやましい。
でも数年前、上野文化会館の楽屋エレベーターに乗り込んできたピアニストのポリ―二が、ものすごく緊張してて、階を示すボタンをなかなか押せなかった。まさにガタガタ震えていたのだ。しかしその夜の彼のコンサートは、素晴らしかったらしい。自分は小ホールで弾いていたので行けなかったけど、人からあとで聞いた。あがること、緊張すること、ガタガタ震えること、全て普通なのかもしれない。それによって普段持っていないエネルギーがでてくるのかも。
聴覚がより敏感になって、集中力が高まって。う〜ん……。そうならいいな!
(2002.2.17. ラントグラ―フにて)----------------------------------------
[編集部注]
御喜美江さんの「アコーディオン・ワークス2002」は
3月22日 東京カザルスホール 19時開演 4000円(全指定席)
共演はパーカッションの吉原すみれさんです。
演奏曲目
J. S. バッハ イタリア協奏曲ヘ長調BWV971 第一楽章
M. C. レーデル Visions Fugitives Op.46 (1993)
R. P. サントス SIMOY
山口恭範 コナンドラム
タンゴ集
A. ヴィヴァルディ(寺嶋陸也編曲) 四季より「冬」
お問合せはコレクタ(03-3239-5491 mails@collecta.co.jp)へ。
しいなまち・カフェノート(2) イナン・オネル
貴方の声を追って行く
囀る車輪の音を追って行く
遥かなる海へと快走する
街にこだまする貴女の声:
「ついてこい!」
ハニワのシールをたくさん貼ったハンドルを握り締めて:
「ついてく!」
遥かなる海はまだ見えない
商店街の照明の間を
夕暮れの憂いの間を
踏み切りの信号の間を
子供たちの遊ぶ公園の間を
通って
公園にこだまする貴女の声:
「ついてこい!」
バラック小屋の間を通って:
「ついてく!」
(カフェ・ギャラリー「BE-INN」にて)
回文/怪文三題 松井茂
小池純代の歌集『梅園』(2002年 思潮社)に「刹那の夏瀬」という一連がある。タイトルから推測がつきそうな気もするが、これは回文の一連だ。例えば、「言葉どこ/言葉の場どこ/ここよここ/此処よ来よここ/言の葉のとこ」(/は筆者)というように、57577の各句が回文になっているという作品。回文作品というよりは、回文を使用した怪文というところか。無意味だけど法則性があるのが怪しくて面白い。
藤井貞和の「チェーン」は、2001年9月11日以来の国際情勢に関わる内容を持つ回文だ。最後に10月12日という製作日が書かれている。これは、アフガニスタンへの空爆が開始された日付。そういった時事と詩がいかに向き合うかはむつかしい。何を書いても、文字を起こしたとたんに何かに荷担してしまう。それが目的ならでもよいが、普遍的な立場から何か言おうとすれば、右も左も、前も後ろもないような怪文を書くしかないのかもしれない。もっとも日付によって、正確な回文ではなくなっているのだが。この作品は、文字面でなにか言ってるのではなく、形式で何か言おうとしているのだ。つまり、いつもとは違う書き方をしたら怪文になったということだろう。仮に毎日回文を書いていたとしたら、藤井の回文は怪しくなくなり意味がなくなる。ちなみに藤井の「チェーン」は、テロ直後に大量に出回ったチェーン・メールからついたタイトルらしい。つまり怪文書なのだ。
エンツェンスベルガーの『数の悪魔 算数・数学が楽しくなる12夜』(1998年 晶文社)は、夜な夜なロバート少年の夢の中に現れる“数の悪魔”の説教集である。エンツェンスベルガーはドイツの高名な詩人だが、数学者ではない。おそらくは、数の法則性と詩の法則性の相同性に反応してこういう本を書いたのではないだろうか? そして、なにしろ第1夜「1の不思議」では回文というか、回数(!?)について語られるわけだから、詩人はこういうのが気になるんだとつくづく思う。曰く、
「1×1=1、11×11=121、111×111=12321、1111×1111=1234321、11111×11111=123454321、111111×111111=12345654321……」。数学の世界にも回文があるわけだ。エンツェンスベルガーに回文の詩があるのかは知らない。仮にあっても、そうむやみに回文の詩なんて書かないだろう。
きっと、誰の発明でも持ち物でもない存在として回文はあるわけで、世界のルールの一つにちがいない。だから、困ったときには回文に自分の名前や日付、タイトルをつけて提示する。回文の対称性が壊れて怪文書としての詩ができあがる。それが誰かの手元に届いたとき、その文字面に意味が無くても「怪文がでまわっている。世の中でなにかが起こっているんだ」などと気づくこともあるだろう。古代の童謡(ワザウタ)のようなものだ。火の無いところに煙=詩は立たないのかもしれないが、ほんとは火のないところで詩を書きたい。
回文によって時事と向きあう詩が書けるわけじゃないし、時事と向きあう詩の是非はいつだってある。大体、回文って、ほんとに詩なのかしらネ(笑)。
モンコン・ウトックのCDブックから(1) 荘司和子
昨年の11月ごろカラワンのモンコンとスラチャイが小さいコンサートを開くと聞いたので行かれなかったわたしは、八巻美恵さんに2人から水牛にメッセージでももらってきてくれたら訳します、とメールしました。そうしたらなんとモンコンが始めて本を出した、ということでメッセージどころか本を訳すはめになってしまった。今年になってから美恵さんに渡されたその本、タイトルは『プノムプライのピンの歌』(直訳)。ピンは彼の弾く東北タイの弦楽器でプノムプライは彼の故郷です。
それにしても美恵さんはタイ語を20年も前に集中講座で20回習っただけなのに彼らとちゃんとタイ語ではなしが通じているのだからたいへんな能力です。当時モンコンが彼女の家に3カ月居候していたので先生はやはりモンコン。この本をぱらぱら読んでみてモンコンが雲南省西双版納タイ族自治区でタイ共産党の子どもたちに絵を教えたり歌を教えたりしているところをみつけました。子どもといっしょに楽しんでいるいい先生で、意外な素質発見です。
本は彼の作った歌の歌詞が50くらい。それぞれにできたときのエピソードが書いてあります。CDにあるのはそのうちの11曲。ライブでスラチャイたちも出演しています。今月選んだのはCDに収録されている曲のひとつで、タイ共産党のラオスの根拠地からだたひとり中国の昆明にあるタイ人民の声放送局に行かされていたとき出来た曲です。昆明湖の近くだったそうで、寂しくて寂しくて歩いてでもタイへ帰りたいと思った、と昔何度も聞かされたのを思い出します。
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空が白みはじめる前 モンコン・ウトック(荘司和子訳)
夜更けに 空を見上げる
月はもう傾いて
昴ももうはるかかなた
空が白みはじめる前
真の闇がやってくる
夜露がひとしずく
涙のしずくのように
どっちを向いても
月なしの闇
ひんやり冷たい風が吹いてくる
夜が明けていく兆し
もうすぐだっ
金色の輝きが訪れるのは
月も星もない闇は
あとほんのわずか
鶏が時をつくり
さわやかな朝を祝福する
夜が終わるとき
星は行ってしまう
太陽が別れを告げるとまた帰ってくる
そして小鳥たちはねぐらへ
そんなに遠くへ行かないで
もう一度帰って来いよ
悲嘆にくれていないで
さあ 元気をだそう
この歌はぼくが1979年中国雲南省の昆明にいたときに書いたものだ。幹部や上の人たちがよくこんなことをぼくたちに言ったものだっけ。夜が明ける前は真っ暗闇になるんだ、革命と同じだよ、勝利を獲得するまでは困難を極める、と。だから人民が勝利する日を明け方の空に喩えて、空が金色に染まるときとか、暁、 夜明けは近い、なんていう歌や詩がたくさんあったな。
ある晩スタジオからの帰りがずいぶんと遅くなったことがあった。タイ人民の声に出す歌を作っていたのさ。スタジオから宿舎まではいくらもない距離で、道の脇に焼却された古いゴミの山みたいなのが続いている。足元の道もその辺りは黒くなっていた。それに夜なんだから余計黒いわけ。だけどその夜は月明かりがいくらかあってぼくが踏んでいく足元で何かがきらきら光っているのよ。
そう、その古いゴミの中にまじっている小さな小さなガラスのかけらなんだね、光を反射しているのは。ん〜、あぁ、これって地上の星だよね、空の星の方はもう傾いていくところだけれど。その夜ぼくは眠れなかったんだ。歌がわいてきて。はじめ僕の頭上には昴(イサーンでは小さい鶏の星って呼ぶ)が見えていた。それがどんどん遠くへ去って行く。夜露がしっとりおりてきて夜明け前のひんやりした風が吹いてくる。そしてぼくは革命が成功するまでのつらくて困難な長い道のりを思ったの。
そう、この歌は自分を元気づけるために書いたのさ。
つばめノート 長縄亮
見ることによって
見えなくなるものがある
「ちょっとそこどいてくれ
君のかげにあるものを
見たいんだ
君のかげにあるものが
見えるのか見えないのか
見えなくなるんだ」
異国の町の
テラスのカフェで
ぼくはつばめノートをひらく
大きなものが
遠いところから
やってくるのを
待っている
しもた屋之噺(3) 杉山洋一
2月に入り、街ゆく人々が浮き足だって見えるのは、謝肉祭の季節が巡ってきたからです。ゼウスに追われたクロノスがギリシャからローマまで落ち延び、農耕神サティルヌスとなりましたが、彼に捧げられた冬至祭(サティルナーリア)が、未だに聖誕祭(クリスマス)や謝肉祭(カーニヴァル)として残っているのですね。この無礼講が何時しかキリスト教の行事にすっかり溶け込んだ辺り、日本の神仏習合にそっくりです。ところで、ミサの典礼文がミラノだけ違うのはご存じでしたか。
313年、初めてキリスト教を公に認めたコンスタンティヌス帝の勅令がミラノで出されたように、当初ここはキリスト教の中心でした。面白いのは、宗教がらみの権力争いは初めから酷くて、漸く正教として認められても最初の教皇を選ぶのに骨を折り、ドイツの田舎からアンブロージョ(アンブロギウス)がミラノに招かれ教皇となったのは374年のこと。実に60年も費やされています。公平で信望に長けていたからと聞いたことがありますが、確かに、彼が亡くなるとすぐ、聖地はラヴェンナに移されて、ミラノは頽廃の一途を辿りました。そんな伏線から、ミラノの守護聖人として聖アンブロージョが選ばれたのは、自然の流れでした。聖アンブロージョの日、12月7日はミラノは祭日となり、ミラノのスカラ座が初日の幕を上げる習わしです。今もミラノの聖アンブロージョ教会では、第一代教皇の聖骸が見られます。
その聖アンブロージョが定めた古い典礼文があって、アンブロージョ典礼文(rito ambrogiano)と呼び、ローマ典礼文(rito romano)と区別しています。ローマ典礼文がイタリア語で統一されたのに対し、アンブロージョ典礼文は古いギリシャ語の文句が残っていたりしますが、このアンブロージョ典礼文を今も使うのはミラノ近郊に留まっていて、謝肉祭の日程もミラノだけ違います。どんな経緯があったのか分り兼ねますが、ローマに迎合しなかったのは明白でしょう。
ところが、拙宅のあるモンツァ、ミラノの北12キロにある古都ですが、周辺一体どこもアンブロージョ典礼を使うものを、このモンツァだけがローマ典礼文を用いていて、謝肉祭もミラノと違う日に行ないます。モンツァは古くからミラノに反発して、ロンバルディアの首都をミラノから奪回しようと企んでいたそうですから、その名残りが伝えられているのでしょうか。
謝肉祭の乱痴気騒ぎで思い出すのが日本の歌垣で、宮廷で詠み交わされた後代のものでなく、豊穣祭として無礼講が許された頃の、素朴で大らかな歌垣です。人々の営みが五穀豊穣に繋がり、音楽が媒体となるのも似ています。その昔、人々がより本質的で豊かに暮らしていた頃は、無理に世界を纏めなくとも、誰もが同じ思いを抱きつつ、日々をやり過ごしていたのかも知れません。中学生で「水牛通信」の愛読者だった時に、思い立って悠治さんに電話した事があります。ピアノとアンサンブルのための「歌垣(カガヒ)」の楽譜が見たくて仕方がなかったのです。突然、どこの馬の骨だかも分からぬ若造が電話して来たと言うのに、とても親切に色々教えてくださった記憶があって、今も感謝しています。結局、楽譜は紛失して行方知れず、というお話だった気がしますが、あれから「歌垣」が再演される機会はあったのでしょうか。今でも是非、一度聴いてみたいと思うのですが。
当時は未だ初々しくて、今更ながら少し羨ましく感じます。作曲がしたくて仕方がなかった頃で、どんな現代音楽の楽譜にも、嬉々として齧りついたものでした。何故そうした素朴な喜びが消えてしまったのか、自分でも不思議です。何かに幻滅したのかも知れないし、単純に歳を重ねただけかも知れない。
そんな気持ちと共に年を越して、自分でも歌垣を書いてみようと思い立ちました。幻滅した部分やら妙に色目を見せる部分を、自分から丹念に排除するのに、殆どの時間が費やされましたが、要らない部分を払拭してみると、音楽は存外に懐かしい手触りがして、驚きました。
題名をどう付けようと迷った末、自分も「歌垣」では能がないかと英訳を試みましたが、直訳の"Song Hedges"では全く駄目ですし、意訳しても"Song Lines"程度しか浮かばない、拙い英語をいじくっても埒があかないとアメリカの友人に相談すると、"Floating Whispers"やら"Sending Letter"、果ては"Night Whispers(歌垣は夜するものと言った覚えはないのですが)"はどうかと、随分智恵を絞ってくれました。
こればかりは致し方なく、今回は"Aria"と抽象化させ、おしまいにしましたが、今もアジア各地に残る歌垣を英語では何と言うのでしょう。どなたか教えて頂けたら幸いです。
(2月11日 モンツァにて)
書きかけのノート(11) 高橋悠治
時間をどのように感じているのか 世界は燃えている 過去はもうない 未来はまだ来ない たよれるものが何もないとき 世界について考えるのは あせりといらだたしさでしかないだろう
関係のなかにある時間 人間と自然との関係 人間と人間との関係のなかのちがった時間の過ごし方 季節のちがいや 限られた人とのつきあいのあいだでは 時間はめぐり 周期的 あるいは花を摘むようにランダムに更新される 世界がひろがり 関係の鎖が延びてゆき 行為の結果が見えるかたちで還ってこないで そのまま無限の彼方に消えてしまうように思われるとき 歴史が書かれることになったのだろうか そこにはちいさな声はとどかない 足下から吸い込まれていくような不安を隠して 何も変ったことがなかったようにふるまう帝国の支配者の 決して宛名に届くことのない指令をはこぶ使いの者が駆けていく
歴史は 戦争の歴史だった 平和には歴史はない 時間もない なにごともなく ただあることの 瞬間から瞬間への変化に集中して生きるだけ そう思っても そんなことはかんたんにできない
**
踊る足がたどる ゆれるリズム トルコでアクサクといわれるリズムを書こうとすれば 2+2+3の7拍子かもしれない もっとこまかい単位をとれば 4+4+5の13拍子かもしれない とバルトークが書いていた これは20世紀の音楽科学の見方 それとも3つのステップの3番目がすこし長いだけの3拍子か それならショパンのようにテンポルバートということになるが 19世紀以来の西ヨーロッパは ルバートを身体のうごきではなく 感情表現だと思いこんでいる
踊り手と音楽家はどう感じているのだろう 二人のあいだで何が起こっているのか 踊り手は楽器に合わせるが 楽器は踊りにつけていく 相手のうごきに注意しながらつづけていくなら そこにはたえずわずかな逸脱がある 踊りの激しさや音楽の速さにもかかわらず 時間はゆっくりすすむ
おなじようなことが 西アフリカの太鼓の踊りでもバリ舞踊でもあるのではないだろうか そこでは音楽のリズムも 一人ではなりたたない すくなくとも二人が組になって入れ子になったリズムを叩きだす そこに波があり そのうねりにのって踊りがなりたつ うごきが細かくなればなるほど 波はゆるやかになり 個々の波は組になって さらにゆるやかな波の一部になる
打楽器のリズムは踊りの足場になる 踊りは音楽を導いていく この関係では感情表現の入る余地はない 踊り手が燃えれば 全体のバランスがくずれる 踊り手の額は冷たくなければならない と言われる
ガーナの太鼓のリズムを分析して 2分割と3分割のずれから基本単位を6分の1にとれば全部が割り切れる 両方の周期がさらにずらされていれば 単位はさらに分割されて アフリカ人はほとんど8分の1秒単位でリズムを感じている ということになる
こういう考え方では 個々のリズムは独立したものではなく 関係性から導き出されていることは 見えないのだろう
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ポップが4ビートから8ビートに変わったのは朝鮮戦争の後だった 8ビートは世界のあらゆる音楽文化にあるという説さえあるが 3+3+2と書けるからと言っても それは8とおなじではない 4も西洋の4は軍楽隊の4 ジャズの4はドライブする4 タイやインドネシアの4はくつろぐ4
8ビートが16ビートになったのはいつだろう ベトナム戦争後か あるいは1968年の都市蜂起が失敗に終わった後からではないだろうか 文明の中心地では 十代のグループは集団のなかでおたがいに孤立している 激しくうごけばうごくほど 切り離され 感覚がなくなり 内側に閉じていく
**
武満の「ピアノディスタンス」(1960年)は1呼吸3秒で区切られていた クセナキスの「ヘルマ」(1961年)は1秒の5分割と6分割の枠を重ねてランダムな音の生起をよみとっていた 演奏するときは小節を区切る2秒を波のように感じていた 2秒や3秒を感じるときは 枠はその内側で生起する音のうごきとかかわって相対化される こうしてピアノを弾くことを習った
クセナキスの「エヴリアリ」(1972年)は16分音符の鎖からできていた 激しく空間になげうたれる音の鞭は 魔女メデアの髪であり 孤独に空を行く月でもあった
ケージの「ONE」(1987年)では 片手ずつ独立して はじまりも終わりもはっきりしない時間枠のなかでまばらな和音を弾く 和音のあいだに偶然の関係が生まれる ここにはリズムはない 時間の感覚もなく 空間と色彩があるだけ
------------------------------------ [編集部注]
高橋悠治さんのソロ・コンサートは
4月16日(火) 東京・カザルスホール 19時開演 4000円(全指定席)
演奏曲目
Federico Mompou「歌と踊り第8番」
中ザワヒデキ 「768個の装飾音符付楽音のあ る旋律」
高橋悠治 「子守歌」
石田秀実 「誄」
AYUO 「Ulysses and the City of Dreams オデュッセウスと夢の町」
Ramon Pagayon Santos「Klntang」
戸島美喜 夫 「桑摘む娘」
Chinary Ung 「Seven Mirrors 七つの鏡」
戸島美喜夫 「鳥の歌」
お問合せはコレクタ(03-3239-5491 mails@collecta.co.jp)へ。「パンダ来るな」 小沼純一
藤井貞和の自作詩朗読がCDになった。うまくない。うまくないのに、好んで人前で朗読する詩人より、はるかに、朗読する行為、朗読されるテクストを、生々しく感じさせる。そこには、はっきりと詩を書いている作者と、テクスト、それを朗読する者との分離があるからだ。
たとえば、作者がその詩を書いたときのさまざまな感情なりおもいなり思想なりを織り込んで、「感情移入」する、自分がもっともその詩を深く良く理解しているという姿勢がまったく、そう、まさにまったく、ないのが、この朗読なのだ。自分が書いたはずなのにあたかもどこからか発掘されたものであるかのように面し、徹底して「違和」を抱きつづけて、声をだして読んでみる。きっと藤井貞和は、万葉集や源氏物語を大学の講義やゼミのなかでも、まったく変わらずに朗読しているだろう。
それは、役者が朗々と、あるいは訥々と、あるいは語りかけるように、「朗読」する詩とは、まるでちがう。あたかも国語の先生が、教科書に載っている詩を、とりあえず生徒達に聞かせるために声をだすかんじ、か。
では、こうして読まれるテクストが、聴いていてすんなりと意味がとれるかといえば、なかなかにむずかしい。ほとんどのところは、日常で使われる語彙、シンタックスではあるのだが、文字で見てみないと正確にはわからないものもある。現代では使われない古語や特殊な言葉だったり、朗読者のアクセントによって、かえって、不正確に(!)に、というよりは、意味を宙吊りにされてしまうものもあるから。だが、そこがポイントでもある。書いた藤井貞和本人は当然意味内容を理解している。それでいて、はじめてそのテクストに面したかのように、妙に無垢に、さらには愚直に、文字そのものを、「朗読者」は読むのだ。そして、テクストそのものに書き込まれた言い換え、言い間違い、類似した音を、文字で何度も確認できない時間的特性にも、これはよっている。
もうひとつの特徴。藤井貞和の声はやさしい。やたらとやさしい。それは『パンダ来るな』が子供をそばにしているような内容だからではない。「おとうさん」「子供よ」という語が登場したり、呼び掛けたりするからではない。テクストを読む行為、文字に書かれた言葉を声にする行為、が、この詩人は口唇的な快楽以上の愛情をこめているかのようだから。こればかりは、テクストの距離が云々という話とは別で、否応なしに人格=声、あるいは顔=声と結びついてしまう。ゆえに、このCDで読まれる詩は、詩人藤井貞和によって書かれながら、その独特な読み方によって距離を保たれつつも、それが逆に声の質によって詩人に引き寄せられている――とでも言ったらいいだろうか。
収録されているのは、『パンダ来るな』や『ラブホテルの大家族』『ウォー』『つぎねぷと言ってみた』など、藤井作品として一般的にも知られているものがメインの十三篇。また、「エクストラ・トラック」として、電子本――藤井本人を含め、四人の筆者による文章――と朗読の光景を収めた映像が納められている。
なお、この「水牛」という名のレーベルは、ほかにも高橋悠治らが七〇年代にやっていた「水牛楽団」のアルバムもリリースしており、この藤井朗読アルバムは二枚目にあたっている。興味のある方は以下のアドレスにアクセスしてほしい(http://www.ne.jp/asahi/suigyu/suigyu21)。
(「現代詩手帖」2002年2月号に掲載されたものの完全版)
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