2002年7月 目次


カーン、カン!              御喜美江
野村誠                  三輪真弘
しもた屋之噺(7)            杉山洋一
京都案内・つるみさちよ編         通崎睦美
間違いだらけの即興演奏          三橋圭介
カステラ楽団               佐藤真紀
書きかけのノート(15)         高橋悠治



カーン、カン!  御喜美江




サッカーのワールドカップで興奮しているうちに、ふと気がついたら6月はもう終わろうとしている。ということは今月、あまり御多忙ではなかったということかな。そう、コンサートは一回もなかったし、CD録音のために入っていたリハーサルもキャンセルになったし。週末は庭とバルコニーに花を植えたり、のびた木の枝を切ったり、夜は11時ごろまで明るいので外で過ごす時間も多いひと月だった。

韓国と日本でサッカーのワールドカップが開催されることは、以前から知っていたけれど、今回のドイツチームはものすごく弱い(と報道されていた)から、こちらではあまり騒がれていなかった。開会式なんて全然興味なかったけど台所に置いてあるテレビはつけておいた。ところが開幕試合で、先回の優勝チームフランスがセネガルに負けた時、「おっと、これは面白そうだぞ」という気持ちになって、それからW杯を見始めた。ドイツは第一試合、8−0でサウジアラビアに勝った。そして日本がなんとベルギーと引き分けた!このあたりから突然W杯の熱が上がりはじめ、熱心に新聞を読み始める。

やがて日本とドイツの試合があるたびに何かとバタバタ忙しくなった。まず大学の授業時間をうまくやり繰りすること。開催地とは7時間の時差があるので、試合は午前6時半頃始まって、最低午後3時15分までかかる。そうすると大学の授業とフルに重なるのでけっこう大変。幸い今学期は個人レッスンのみなので電話で比較的簡単に授業時間変更ができた。学生諸君、ダンケ!

次に、午前中に行われる試合は普通のテレビでは放映されなくて、PremiereというPay-TVでしかやっていないため、どこでそれが見れるかも調べなくてはならない。この場合は移動時間も考慮に入れる。

母はサッカーなんて今まで全然興味なかったらしいが、ドイツと日本の試合の日には必ず電話をして「応援してね!」と彼女に頼む。本来ならどっちが勝ってもいいと思っているような人だから、この応援はけっこう効いたように思う。願望が強すぎると人生、かえってうまくいかないケースが多いから応援はなるべくあっさり、さっぱりタイプの人に頼むといいと自分で決める。

ポーランド対韓国は、ポーランド人学生2人を含めた6人で見た。ポーランドは残念ながら0−2で負けちゃったけれど、智美ちゃんがお昼ごはんにと、2種類のおにぎり、サンドイッチ、鳥のから揚げ(おいしい!)、麦茶を持参してきてくれたので、とても楽しいひとときとなった。

ところで、ドイツには多くのトルコ人が生活している。ベルリンだけでも二十万人のトルコ人がいるそうだ。デュッセルドルフ、ドルトムントにも多い。だからトルコが勝つと、真っ赤なトルコ国旗を掲げた何百台もの自家用車がクラクションを鳴らし続けながら町中走り回るので、数時間は路上で会話が出来ないくらいの大音響となる。「よっぽど嬉しいんだろうな〜」と思う。ブーブー、ブーブー、クラクションを鳴らす車に手を振ってこたえると、ものすごく喜んでますますブーブー、ブブー。ドイツにはドイツ人の人口よりトルコ人の人口のほうが多いのでは?と今回感じたほど、その数のすごさに圧倒される。

ドイツはと言えば、勝って進んでいるのに新聞ではさんざん“退屈でつまらない試合”“次の試合もこんな調子では思いやられる”など等、批判され続け、テレビのW杯特集番組を見ても、皆さんでドイツチームの無能さを喋っている。選手のインタビューも、ほとんどがネガティーブな質問ばかりで、「これでは可哀想……」とつくづく気の毒に思った。フェラー監督が一度「あなたの質問の裏はすでに読めてるから、“その”答えだけでいいだろう?」とコワイ顔でインタビューに応じていたのも印象的だった。ドイツのマスコミは一般にドイツ人を批判する。勝っても優勝してもスーパースターと言われても、まずはあれこれ分析して難点を指摘する。今回一度も批判されなかったのは、ゴールキーパーのオリバー・カーンくらいだ。しかしこの人、本当にすごいゴールキーパー、そしてチームキャプテン。カメルーンとの試合は10人だったので苦戦だったが、試合後のインタビューでカ−ンは「ほんの小さなところに相手の弱さが見えた。これなら大丈夫だと思った」と答えて私は「なるほど!」と感心した。

日本対トルコの試合はちょっと愉快だった。Premiereが見れるところを智美ちゃんが前もって調べてくれて、そのAOKという保険会社へ朝8時過ぎに到着。女2人でちょっと心配だったのでボディーガードに背の高いマルコを頼んだら、“朝食をご馳走してあげる”が条件だったので、すぐ引き受けてくれた。しかしここには少なくとも150人はトルコ人が観戦に来ていて、日本人は我々たったの2人。約2時間、暴風雨が吹きまくるようなすごいトルコ語の降るなか、小さくなって小さな声で日本を応援していたけれど、負けてしまった。残念!とは思ったけれど、これで授業時間変更のストレスが一つ減ってほっともした。

準決勝の韓国対ドイツは音楽大学のホワイエで観戦。これはものすごい光景だった。何しろ音大には約80人もの韓国人がいるから、真っ赤なシャツを着た韓国応援団と白いシャツを着たドイツ応援団が熱狂して(応援団は韓国側の方がず〜っと強かった)テレビの音は何も聞えなかった。この様子をWDR-テレビが録画に来ていて、夜のニュースでやったらしい。ちなみにドイツ人の夫は韓国を応援していたそう。あとで知ってギョッ!「いったいまたどうして?」と聞いたら「僕の韓国人生徒のために」と。しかし韓国は負け、ドイツ決勝進出決定!そしてこの日から “やっと”テレビも新聞もドイツチームを褒めだした。
26日の朝刊を見たとき思わず"Endlich!"(やっと!)と大きな声が出た。ドイツのマスコミがドイツチームを“やっと!” 応援し始めた。Endlich !!
バラックが出場停止のドイツチームにとって、ブラジルに勝つことは非常に難しい。でもカーンの目つきを見るとき、ドイツ優勝の奇跡が起こるような気もしてくる。それは飢えたライオンが獲物を狙うときのようなギラギラした目。ドイツ語では“できる”を“カン(kann)”という。それは英語の“can”。
力強くはっきり発音する。カーン カン!! 


(2002年6月28日 ラントグラ−フにて)


追伸:横浜におけるW杯決勝戦が終わりました。カーンは素晴らしいGKで、飢えたライオンではありませんでした……(涙〜。)
2006年のW杯はドイツ。ドルトムントでも試合が行われます。水牛&サッカーファンの方々、4年後よろしかったらどうぞ! 詳細は水牛2006年4月号で〜。
(今日初めてドイツを応援した夫は、カーンがあまりに気の毒で、試合後“寝る!”といって2階に消えました。)





野村誠  三輪真弘




最近、作曲家の野村誠さんの音楽をまとめて聞く機会があった。既に向井山朋子さんのCDに収録されているピアノ作品で、彼はぼくを音楽だけで本当に泣かせた唯一の日本人作曲家である。だから期待はいやでも高まる。一見、明るく無邪気。しかし、ユーモアやしばしば曲名に示唆される物語的な演出にノセられるほど、ぼくは素直な聴き手ではないつもりだ。それでも彼の音楽はどれも、他人事のような音楽ばかりが溢れる日本に咲くたった一輪の花のように力強く存在していた。小学校や老人ホームでの活動、アマチュア・プレーヤーによるおもちゃ楽器の演奏などの特徴ばかりが目立ってしまい「にぎやか楽団」などと紹介されて、彼も複雑な気持ちなのだろうが、作曲家である野村誠はどうして未だにあまり話題にならないだろうか?「しょうぎ作曲」と呼ばれる集団作曲の試み、最新の「お手紙楽譜」と呼ばれる(ぼくが勝手にそう呼ぶのだが)記譜法などその活動自体がユニークであるのはもちろんだが、音楽の可能性を模索する現代の作曲家がまぎれもなく作曲家であり続けながら、かつ音楽のもつ本来の喜びを逃すことなく作品を生み出すという離れ業を一体、彼以外のどの作曲家がやってみせてくれたというのだろう?

例えば「お手紙楽譜」ではアンサンブル全体のスコアというものが存在しない。楽譜は作曲家が演奏家に宛てた手紙のように「……しばらくすると隣のクラリネットがこのフレーズの演奏を始めるから、そうしたらこちらのフレーズに進んでください」と楽譜を交えた言葉で書かれている。それはまるで複数の人々が様々な場所に行くために「地図」を渡されるかわりに口述で指示を受けるようなものである。演奏家には自分と他のプレーヤーの相対的な位置や関係しか知らされず、通常とはまったく異なった時間感覚、つまり思考の方法と自由を与えられ、同時に文章によってその時々の繊細なニュアンスが伝えられるのだ。その際、今述べた、「地図」という全体の鳥瞰図こそヨーロッパ式のスコアのことであることは言うまでもないが、スコアと同様に正確に書かれ、再現性があるのに、「お手紙楽譜」はまったくスコアとは別の概念のものである。そしてそれは「どうして誰もそんなことしなかったのだろう」と思ってしまうほどに簡単なことだったのである。記譜法もさることながら彼のこの、シンプルであたりまえのことをそのままやってのける姿勢はそのまま、彼が自分の音楽の必然にだけ目を向け、それに忠実に従う驚くべき強さから来るものなのだろう。それによって彼の音楽は、リズム法や調性がどのようになっているかとか、現代的な技法はどのように使われているのかとかの分析的な攻撃を無化し、その実体を開示するのである。それはしばしば、即興演奏家の音楽のようでいながら、演奏の勢いを見事に統合した極めて知的な方法論によるコンポジションとして現れてくる……そんなことより、彼の多くの作品の特徴である、美しくも見事なボリュームとプロポーション、夢見るような音楽の持続を体験すれば、こんな感想文など無意味なのかもしれないとも思う。



しもた屋之噺(7)  杉山洋一


6月は本当に猛暑で、ミラノが毎日摂氏40℃を超える酷暑を観測したのは、1763年以来だとか。一度でも雨が降ってくれれば、気温も随分落ち着き、空気の汚れも雨が流してくれるところでしょうが、雨が降らないので、気温は上昇する一方で、毎日出される光化学スモッグと共に暮らさなければいけませんでした。光化学スモッグ警報が出されるようになると、悪化する大気汚染を押さえる為に、ここ数年、各都市では週末自家用車の使用が制限されるようになりました。

Domenica senza Auto ――車なしで日曜を過ごそう、というスローガンで、始めた当初は各市町村は市民に受け入れられるのか、半信半疑で始めたものの、実際に実施してみたところ、非常に成功しました。歩行者天国の大規模なものと思って頂ければ良いのですが、根本的に違うのは、街での自家用車使用を禁止する代わりに、環境保護団体や文化関係団体がさまざまなイヴェントを企画するところでしょう。自転車の無償貸し出しから、美術館の入場無料化、市電、市バスの値下げ等を同時に実施し、皆で力を併せて空気を綺麗にしましょうというわけで、市民が自主的に参加しやすく配慮されています。

雨が少なく空気が汚れる冬に多く行われていましたが、最近では市民の賛同を得て冬以外でも定期的に行われるようにもなりました。もっとも、Domenica senza Auto は、日曜の休暇を家族との交流の時間として大切にする、イタリア人の生活習慣に則ったものなので、これを東京で実施しても成功するかどうか分りません。
東京に住んでいた頃は夏の冷房でいつも具合を悪くしていたので、試しに半日、皆で扇風機とウチワを使おう、なんて日があったら、省エネにもヒートアイランド化にも良さそうなものですが、こればかりは実現不可能でしょう。昔と違って、道のアスファルトの照り返しもすごいでしょうから、水を撒くと言ってもたかが知れているのでしょうし、第一、東京で玄関先に水をまけるような一軒家も、今や少ないに違いありません。

昭和44年生まれなんて一番若い世代だと思っていましたが、今の子供達の生活環境に比べれば、未だ余程人間的な営みが残っていた、古き良き時代だったのだと気が付きます。塾なんて通った事もなく、毎日学校が終わると、近くのどぶ池で泥だらけになりながらざりがにを釣り、ちかん森なる近くの林にあれこれ持ち寄って「基地」を作り、子供なりに密かな独立心を満足させていました。今はどぶ池も、ちかん森ももう無い筈です。

ちかん森を抜けると線路が横切っていて、肝試しに走り抜けたりしました。線路に耳を押し付け、音が聴こえなかったらわっと駆け出すのですが、一度だけ、思いきり列車が目の前に迫ったことがあって、皆で肝をつぶして逃げ出しました。

日曜になれば、父親と連れ立って酒匂川辺りで毎週のように毛針を投げていましたが、土手から水際までゆくためには、自分より背の高い葦をかき分け、一際冷たい湧水辺りに自生したわさびを指差しながら、やっと辿り着いた覚えが有ります。あの辺りも奇麗に河川工事が行われて、今は何も残っていません。
 
あの手触りや匂いを覚えているか、身体の奥のどこかに染み付いているかどうか、自分が音楽をする上で、とても大切に感じます。全てが規格化され、統一され、マニュアル化されてしまった現在、音楽は何を意味するのでしょう。コンヴィニエンスストアは便利ですが、便利になることで私達は何かを忘れて来たのではないでしょうか。 

少なくとも音楽の本質は、簡便で規格化された、ニュートラルでポリッシュな世界では生きられない気がします。本質と呼べるものは黴菌みたいな存在であって、無菌状態では育たないと思うのです。人が握手をしたり頬を併せたり、様々なスキンシップの、(非衛生的)コミュニケーションの連鎖こそが、何を培うことを許していたのではないでしょうか。
 
食生活で人間の性格は大きく変化するそうです。或る刑務所で、半分の受刑者に「家庭的な食事」を、もう半分に「ファストフード中心の非家庭的な食事」を与えたところ、前者には明らかに性格の大幅な改善が見られたのに対し、後者では攻撃的な性格に拍車が掛かったと言います。実験後、後者のグループにも「家庭的な食事」を与えたところ、途端に性格の改善が見られたとのことです。

食事の問題に風呂敷を広げるつもりはなくて、音楽でも同じ事が言えると思っただけです。人間的な喜びや悲しみを理解出来なくて、何が表現出来るのでしょう。表現したいと思うこと自体、恐らく今では不衛生にさえ捉えられるのではないでしょうか。しかし、器用で経済的で、無駄もなく、衛生的でコンパクトな人間であれば、近い将来にはロボットが代替してくれるに違いありません。
 
音楽を教える際、porgereとgustareという動詞を多く使います。前者は、恭しく差し出す意で、後者は、味わう事です。私自身この言葉と共に音楽を習ってきましたけれども、人との人間的な繋がりを知らなければporgereすることは出来ないでしょうし、心から味わう余裕と喜びを知らなければgustareすることは不可能です。

何故音楽をするのかと言われれば、生きる喜びがあるからだ、と答えるでしょう。まだ自分が子供だった頃、悠治さんが次世代の知性のために作曲すると言われていて、その時はずいぶん恰好良いなと憧れて読んでいただけでしたが、少しニュアンスは違うものの、今となってはその言葉も妙に近しく感じられます。

暫く前に、当地の作曲家と共にに日本で作曲のセミナーに関わった事があります。何度かそうした経験をしながら、決まって尋ねられた事があります。どうして彼らは作曲をしているのだ。良く書いているが、別段作曲がなければ生きてけないようには見えない。

その時に自分の中で明確になった事があって、作曲をしたくなければ、しなくて良いという当然の事実です。音楽をしたくなければ、しなければ良いだけなのです。ただ、子供の頃から音楽と共に大切に育てられてきた環境の人間には、そんな当たり前の事すら分らなくなっているのです。
 
最近の日本では、顔が奇麗だったり片輪が音楽をやると売れる、と或る音楽プロデューサーが言っていましたが、それが本当なら、日本はどうなってしまったのでしょう。交通事故に遭ったので私にも指がありませんし、両耳が聴こえなくなったこともありますが、そんな事は音楽にとって本当にどうでもいいことです。顔が奇麗かどうか、音楽の本質とは全く関係ないでしょう。誰も音楽を真から欲してはいないのでしょう。欲していないのなら、無理に売る必要も、演奏会を開催する必要もないのです。

音楽には、まだ人間の真実が残っていると信じているので、自分にとってどうしても必要だと痛感するまで放っておけば、或る時、必ず音楽を聴きたいと誰もが耳を開く時が来ると思います。飽食で味わう喜びを忘れてしまったのなら、暫く食べなければ良いでしょう。もしかすると、人工的な食事が、既に私達の身体を十二分に蝕んでいるかも知れませんが。

(6月29日モンツァにて)




京都案内・つるみさちよ編  通崎睦美


作曲家つるみさちよさんに、マリンバ・ソロのための小品をお願いした。七夕の日に弾くので、七夕を意識したものを、とリクエスト。届いた作品のタイトルは「ササノハ」。マリンバで「トン・トト・トン・トン、トト・トン・トン・うん」と弾きながら、「サアー・うん・うん、サーサーノーハー」と歌う、そんな曲。
本番は聴けないけれど、福井県で行われる武生国際作曲ワークショップの帰りに京都へ立ち寄ることが可能とのこと。それならば大歓迎と、「ササノハ」を聴いてもらって、その後京都の町を案内することに。

2002年6月17日(月)曇り。つるみさんとの一日。

ちょうどお昼に京都着。昼食はせっかくなので、うちで一緒に食べる。内容は、私がいつも食べているもの。メニューは以下の通り。
 
・くみ上げ湯葉:近所の豆腐屋さんで購入。豆腐に比べ湯葉は、なぜかすました感じで売っているものが多い中で、この「まるまん」(下京区万寿寺通新町西入ル)のものはどこまでも普通。みんなから安すぎると言われたのだろうか、最近値上げした。でも、2人分タップリ入って150円。
 
・おぼろ豆腐:絶品、とわたしは思う「近喜」(下京区西木屋町通四条下ル)のおぼろ豆腐。店を拡張して、宅配注文を受けだした時には、これで終わりかと思ったけれど、それでも味が落ちなかった。よかった。ここのお店は、「おから」を無料でくれる。これも、美味。

・京風ラタトゥーユ:京都の野菜を使ってつくる、トマト味の野菜煮込み。例えばミドリ色の野菜は、ピーマンではなく、肉厚で甘みのある「万願寺とうがらし」。でも、かぼちゃは、メキシコ産だったりする...隠し味に昆布だし。

・焼きなすの煮浸し:もう少し暑くなると、さらにおいしくなるなす。ぎりぎりの薄味だしに浸し、きりっと冷やしたものにしょうがをのせて。

・牛肉の冷しゃぶ おくら添え:精進風にせめてみようかとも思ったけれど、今年のキーワードは「エロい」と「肉」、というつるみさんがお客さんだから、肉料理を一品。ごまだれで食べる。

・壬生菜と油揚げの煮物:吸い物代わりにたっぷりのだしで。

・炊き込みご飯:ほんとは、白いご飯の方がよかったかとちょっと後悔。なんだかうれしく、勢い余って作ってしまった炊き込みご飯。

お腹がふくれて一服したところで「ササノハ」を聴いてもらう。「トン・トト」のところは、「ズン・ド、コ、」調で。「ササササ」のところは「サッサッサッサッ」で。ちょっと照れるがやってみると、つるみさん「いいですねえ、そんな感じ」。じゃあ、そんな感じでやっておきます、と練習終了。つるみさんが是非行ってみたいという「法然院」に向けて、自転車でいざ出発。

家からまっすぐ東へ向かう。鴨川を越え、建仁寺を抜けて、祇園へ。七夕コンサート「星合いの集い」の会場となる「楽空間 祇をん 小西」をのぞいていく。ここは陶芸を中心に扱うギャラリーだが、元はお茶屋さん。建物にほとんど手が加えられていないので、まさに祇園の風情、が楽しめる。「ご自由にお入りください」と書かれているが、ちょっと自由には入りにくい雰囲気が、この土地独特の味。リモージュで勉強してきたという若い陶芸家の端正な作品を見た後、再び法然院をめざす。お決まり観光コースのように知恩院の山門を見上げ、平安神宮の大鳥居を通り抜け、どんどん東に進む。過酷な坂を乗り越え、哲学の道をすぎるとようやく鹿ヶ谷の法然院に到着。

法然院は、京都の数あるお寺のなかでも私が一番好きなお寺。なんといってもご住職がたいへん素敵な方。音楽、美術等々に幅広く通じておられ、それらに携わる人々とのおつきあいの中でお寺を開放されている。私も10年ほど前、音楽を通じて知り合いになった。よく、音楽には演奏者の「人」があらわれるというが、お寺もその佇まいに御住職の「人」があらわれるのだろうと思う。善気山の山麓にあるこのお寺は、私が書くとどうもいかがわしく聞こえる「自然との共存」、が見事になされ、なにもせずそこにいるだけで気持ちが洗われるような空間、これも私が書くとわざとらしいけれど本当にそう、が保たれている。

法然院を堪能したところで、近所に住む作曲家野田雅巳さんを呼び出し、カフェ「バターカップス」(白川通り錦林車庫北)でおやつの時間。つるみさんはミントソーダ、私と野田さんはコーヒー。そしてチェリー・チーズケーキを1つ、仲良くつっつきながら、次に行くところを相談する。法然院のように、コンサートが可能なおすすめスペースがあれば見ておきたいとのこと。それならばと野田さんの提案で、「茂庵」にむかう。茂庵は、京都大学の傍、吉田山山頂付近にあるカフェ。もう閉まっているかも、と言いながら3人、途中まで自転車に乗って、途中から自転車を押して、最後は自転車をあきらめて、ミニ登山。案の定、茂庵は閉まっていたが外から様子をうかがう。

吉田山から下りてきたところで、野田さんと別れ次へ移動。つるみさんのお友達推薦「バザール・カフェ」(木・金・土のみ営業)と「吉田屋料理店」(日曜定休、この日は臨時休業)は残念ながらお休み。私もよく行くお店なので残念。

ミニ登山の後、砂利道の京都御所を突っ切ったりと自転車で走り続けていたので、とにかく喉を潤そうと、最近私が一押しのBar、酒陶yanagino(中京区姉小路寺町西入ル南側路地奥)でビールを飲みながら夕食のメニューを考えることに。このBarの居心地のよさをうまく表現するにはかなりの労力を要するので、今回は省略。カウンターに8席ほどしかないので、ふられることもあるけれど、ぜひ一度行ってみてください。ほとんどお酒を飲めない人でも、なぜかお酒が楽しめます。

かなり疲れておなかもぺこぺこ。昼が和食だったので、夜は中華と決めて、力を振り絞り芙蓉園(下京区河原町四条下ル3筋目東入ル)へ。ここは、店のしつらいも食器も特に特徴はないが、真面目にシンプルに作られたお料理がとても美味しい。一皿平均600円くらい。ガツンと食べて満足した後は、「もうなにもしたくないね」と円山公園(八坂神社奥)に行く。ベンチで一服していると、突然手相見のおじさんが出現。私は「腹が立っても暴言をはかないように。」つるみさんは「うんと年上の男性と結婚するように。」と助言される。

つるみさんは22時半の夜行バスで東京へ。そろそろ家に荷物をとりに戻ろうか、と帰路についたのはいいが、途中で「おみやげ」。えっ、もうどこも閉まってるでしょ。頭をひねって、まだ開いているお蕎麦やさんで鰊の棒煮を買う。

ちょうどいい時間になった。
京都の町を自転車で走り回った一日。梅雨なのに雨が降らなくてよかった。曇り空はさえないけれど、汗だくにならなくて助かった。22時過ぎにつるみさんを見送る。    

☆つるみさちよさんについてはこちら



間違いだらけの即興演奏  三橋圭介



先月、三味線の高田和子さんと即興演奏で遊んだ。わたしははじめたばかりの大正琴。この楽器は指使いに慣れなければとても不自由な楽器だ。深いキー・アクションはピアノとちがい行く手をはばむ。だから指使いはめちゃくちゃ。ピックの弾き方だって前から後ろに弦をはじくのではなく、後ろから前。まったくデタラメだが、限られたなかでできることだけのことをやる。

即興はある曲のモードを下敷きにする。最初は自分勝手にモードを探りながら、どういう手があるか音をまさぐる。大正琴はいい加減な指使いで多様なことはできない。だからここに人差し指をもっていくとこんなことができる、あんなことができるというように、あらかじめ見つけている。

昔、バンドをやったり、シンセで多重録音をやっていたときも即興が主だった。バンドはサックス、ドラム、ベースに自分のピアノないしはエレキ・ギターの編成による即興。シンセのほうも即興に即興を重ねるやり方だった。どちらも即興なのに間違える。特にシンセのほうは録音するから、ある音が唐突と感じたり、気に入らなければ取り直せばいい。だから納得がいくまでやる。すると即興が即興でなくなる。結局、楽譜に書いて演奏するのとかわらない。

自由な即興でも間違えたと感じる瞬間がある。思っていた音ではなく、無意識に手がスリップすることもある。そんなとき間違える。でもあえて間違いを間違いでなくするには、間違い続ければいい。続けていれば間違いも間違いでなくなる。特にバンドではそういうことは考えず、間違いを間違いとして意識し続けていたように思う。

この日の遊びはフリーのインプロビゼーションではなかった。インドやギリシャなどの伝統音楽の即興にちかい。ある程度規制がある。そのなかで少しの逸脱はあるものの、フリーのように間違い続ければ音の磁場から逸脱する。モードの音だけを慎重に使えば問題ない。でもたくさん指がスリップしたのは、何かを仕掛けようなどと考えず、高田さんの音とバランスをはかりながら、指の位置から生まれる手すら忘れ、指のおもむくまま音を動かしたからだろう。
 
即興をダメにするのは間違いではない。工夫しようという作為的な意識だ。あれはどうか、これはどうかと考え、効果的なリズムや面白いパターンをひねりだそうとする瞬間、音楽が停滞し、全体に澱みが生じる。間違えなんて気にしない。意識で制御しないで、指がかってに動くのを待つ。今回それをかすかに感じることができたのは、逆説的だが、楽器を操る腕の未熟さがあったからだろう。工夫する余裕はなくとも、間違えながら指を自分なりに適当に動かすことはできた。やっているうちにどちらともなく歩み寄っていく。

あれでも、これでもない即興、それははじまりもおわりもなく、どちらかがやめない限り延々と続く。高田さんとは楽器を入れ替えたりして、とめどなく即興し続けた。わたしは間違い、間違い続けた。即興の善し悪しはどうでもいい。でもいっしょにやっているという瞬間があったし、なにより(高田さんには申し訳ないが、自分勝手に)楽しかった。





カステラ楽団  佐藤真紀



カステラ楽団というのができたそうだ。素人に毛の生えた人たちが集まって音楽を練習している。6月29日、早速東京のお寺、天光院というところで立ち上げコンサートをやるというので僕も見に行ってきた。この人たちは、日本国際ボランティアセンターのパレスチナの活動を知って、何とかパレスチナの子どもたちを助けたいとチャリティコンサートを企画した。

それで、なぜパレスチナでカステラなのかというと、連想ゲームのようなもので、パレスチナといえば、――紛争――大量虐殺――核兵器――長崎にたどりつき、長崎といえばカステラ! という風に見事につながるわけだ。

パレスチナの平和図書館では、毎年8月に、「原爆から平和を考える」というイベントを行ってきた。広島、長崎のパネル展示と、「裸足の元」などの映画なども紹介する。そして子どもたちも参加できる用に必ず仕掛けをしておく。歴史解釈だけで終わらせるのではなく、「平和の文化」を如何に作っていくのかが大きなテーマだった。それで、2000年には、子どもたちがジョン・レノンの「イマジン」を歌うことになった。平和コンサートといえば、イマジンというのは月並みに連想できよう。しかし、パレスチナで歌うのはちょっと趣が異なる。詩の内容が、パレスチナにはまりすぎている。ある人は、子どもたちがこの曲を歌うのを反対した。「理想と現実がかけ離れすぎている」「平和とは占領に甘んじることではないから、勇気を出して戦うことを子どもたちに教えなければいけない」というふうに考える人もいる。それは、ともかく、子どもたちはこの曲が大好きになったみたいだ。英語の歌が歌えるようになるというのが子どもたちの中で、楽しいことだったし、自信にもつながっていった。しかし、2000年9月末になると、シャロン(リクード党党首で元首相)がイスラム教の聖地を訪問したことがきっかけに、曲がりなりにも築き上げてきた和平は完全に崩壊し、紛争が激化していく。

イスラエル軍は、ヘリコプターや戦車、戦闘機を繰り出してのミサイル攻撃で難民キャンプを破壊していく。 そんな中で迎えた2001年8月、子どもたちは、長崎の原爆をテーマに「長崎ダンス」を踊った。そしたら、10月にはイスラエル軍の戦車が難民キャンプを包囲して、キャンプの住民を恐怖のどん底にたたき落とした。そんな、子どもたちを励まそうと、長崎の人たちが「カステラ」をパレスチナに届けた。甘いカステラが子どもたちにしばし平和なひと時を与えた。というのがパレスチナとカステラとの関係。そして、カステラダンボール5箱を日本から運び込むために投入されたのがカステラガールズでついでに、歌を歌って行ったのがカステラ楽団の起源とされている。

カステラはなんだか特別な響きがある。僕はちょうど長崎に行って、カステラ作り400年の歴史を持つ松翁軒へ行ってカステラを食った。女将に「カステラ楽団」ができましたよ。と伝えるとお土産にカステラをいただいた。

当日会場では、カステラが振舞われ、イマジンの演奏ではパレスチナの子どもたちの映像が流れた。そして「パレスチナの子どもたちの神様への手紙」の歌詞が朗読された。

このカステラ楽団。メンバーが一体誰なのか今後の活動などにいまだ不明瞭な点が多い。パレスチナにもあるし、長崎にもできるかもしれない。それはクローンのように増殖していく。平和を求めるパレスチナの子どもたちその遺伝子が、世界に広がる。ただ、カステラ楽団のレパートリーは3曲しかないのが苦しいところ。




書きかけのノート(15)  高橋悠治


JakArt@2002というフェスティバルに参加するのでジャカルタに行き 9日間に5回 のピアノリサイタルをした

JakArt は今年が2年目 毎年6月一ヶ月間に市内のさまざまな地域にアートをもってくる運動 映画 演劇 舞踊 音楽はもちろん 絵画や写真展 建築モデルの展示 討論会など300以上の催しがある 一千万を越える人口をもつ東南アジア最大の都市ジャカルタで芸術にたずさわり あるいはそれに触れる人びとは一万人程度にすぎない これは東京でもそんなに変わらないかもしれないが 人びとが来るのを待つのではなく 人びとのところにアートをもって出かけていこうというこの運動は ミハイル・ダヴィッドとアリ・ステジャ ギリシャ人とインドネシア人のカップルがはじめたもので 国家や自治体の支援もなく 今年は400人のボランティアに支えられていた コンサートのやりかたには不慣れではあっても それぞれのくふうにまかされた部分もあるらしく それは逆に言えば管理が行き届かないのかもしれないが 若者たちは朝から深夜までの雑務を けっこうたのしそうにやっていた

インドネシアではどこにでもあるとは言えない楽器ピアノを 毎日会場にはこぶためのステージトラックがあって 後部の荷台がそのままステージになる このトラックはヨーロッパやオーストラリアも巡業し もう一台はいまもジャズヴァイオリンのバンドをのせてアメリカの大学都市を回っているらしい 昔ゴダールの映画でトラックにピアノを積んだピアニストが畑のなかでモーツァルトを弾いている場面があった あの頃はマオイズトだったポリーニも工場まわりをやっていたらしいが 志も流行とともに消え失せたのだろう

しかしアートをもっていくといっても なんでもいいわけではないだろう とは思うが まだそんなことを論じる段階ではないようだ あらゆるものをためしてみる そのなかで 必要なものはおのずから浸透していくだろう それよりボランティアがおもしろがってやれるような条件をつくりだし 自然に組織化されていくプロセスのほうがたいせつなのだろう

ワールドカップのテレビ中継のあいまに あるいは試合終了にあわせて聴衆を待ちながら デパートのカフェで皿の音にまじって あるいはホテルのプールサイドで水音とともに聞こえてくる東や東南アジアの現代ピアノ音楽は 演奏するほうにとっても おもしろい経験だった はでなテクニックを見せるようなものは もちろんそれだけで注目される だが メロディーもなく まばらな音色が配置されているだけの音楽が かならずしも場違いというわけでもない はじめての聴き手も こどもたちも スラマット・アブドゥル・シュークルの繊細な音の変化に聴き入っていた

コンサートホールではない場所で コンサートに行く習慣もない聴き手が何を聴いたのか それが感じられるようになれば 音楽もちがうものになるだろう 用意された場所でいつもの聴衆に向かっていることに慣れてしまうと 音楽は対話の能力をうしなう

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ジャカルタのホテルで おなじJakArt@2002に参加しているデンマークのグループのメンバー マリ出身でいまはデンマークのどこかの島に住んでいるバシル・スソと知り合った スソはグリオの家系で21弦のハープであるコラを弾きながら叙事詩をうたう 伝統的にグリオは王や貴族の相談役として隣に座ってコラを弾いた いまでは一般の人びとの祝い事に招かれたり 生まれたこどもに名前をつけたり 村から村へ旅するのもグリオの役割になった

バシルはホテルの部屋で楽器を見せてくれた それからそれを弾きながら自作の歌をうたった すぐそばできくコラの音は コンサートやCDできいた音とはまったくちがう印象だった ヤギの皮を張ったひょうたんから伸びる長いネック 両側に埋め込まれた支柱に残りの指をあずけて 両手の親指と人差し指で弦を交互に弾く やわらかい響が水のように湧き出て うずを巻き それにつれて頭が左右に揺れはじめる コラのひょうたんがちょうど弾き手の胸のあたりにあり 音楽は胸から出て 喉を通って声になり やがてつぶやきになり 歌になる 聴き入っていると 心も揺れてだんだん鎮まってくる アフリカのリズムは西洋のリズムのように拍子を数えたりはしない ことばのように身体全体で感じるものだ それは瞑想とおなじだ 瞑想をするために ある人びとはブッシュに入り 鳥の声や自然のなかの音を聴く コラを弾いていると 何かがすぐそばでうごいているのを感じることがある そういうとき 意識ははっきりして 指が何を弾いているか完全にわかっている

バシルはコラを5歳の時から もう30年も弾いている 最初は指の使い方を習う それから音の進行パターンを覚える 音がどこへ向かっていくのかがわかれば そこに行くまでのうごきは自由に何でもできる 伝統的な歌を覚え 即興的に弾けるようになり 最後に自分の歌をつくれるようになる

こうして隣に座って歌をききながら グリオが王の相談役だったというのはどういうことか想像してみた それは忠告をあたえるというようなこと 智慧のことばを語るということではないだろう 心を鎮め 意識がめざめてくれば 智慧はおのずから顕れる 砂漠から来た少年ダビデがサウル王のテントで竪琴を弾いて王の悩みを癒したというのも そのようなことかもしれない アフリカにはダビデの使ったような竪琴がいまでも残っている それにくらべれば 眠れない夜にバッハのゴールドベルク変奏曲を聴くというのは ほとんど娯楽となってしまった音楽に残された意味の痕跡なのだろう 心は鎮められても そこから智慧が生まれることはもうない

アフリカのリズムが西洋のリズムとちがうように 音楽のかたちもちがう はっきりとしたはじまりや終わりはなく 地下水が現れるようにどこからともなく来て 波がかさなるように立ちのぼり 即興のあそびとなり また消えていく それは楽譜をもたない音楽のありかたで いったん楽譜を読んで音楽を視覚化することに慣れてしまうと こういう音楽をつくることはできなくなる 音楽学が分析するアフリカのリズムの複雑さが演奏の経験とはまったくちがうように 楽譜に定着されたアフリカ音楽が粗く硬直しているだけでなく スタジオで録音された音楽でさえ よそよそしい響をたててしまう



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