2002年8月 目次


半世紀後の原民喜             LUNA CAT
ヨルダン川東岸にて望郷の思いを感じること  佐藤真紀
しもた屋之噺(8)             杉山洋一
アイルランドで暮らしても!          松井茂
ハーフタイムは超現実に           御喜美江
モンコン・ウトックのCDブックより(5) 荘司和子訳
書きかけのノート(最終回)         高橋悠治



半世紀後の原民喜  LUNA CAT




原民喜が世を去ってから、半世紀が過ぎた。この1月で著作権が消滅し、青空文庫で公開可能になっている。
一連の原民喜作品の入力希望が寄せられたのは、1999年秋のこと。「では、よろしくお願いします」と返事したときには、2002年というと、まだまだ先のことのように思えたけれど、時の過ぎるのははやいもので、2002年の年明け早々、著作権消滅を待ちかねたかのように、入力ファイルがまとめて届いた。
入力が進行中であった2年間、青空文庫では、それと並行するように、データベースの開発が、遅れを積み重ねながら進行していた。月日を重ねるごとに混乱が増幅していき、ファイルを受け取ってからの半年間は、50年目の8月6日が気になりつつも、「それどころではない」状況のまま、あっというまに過ぎていった。

8月6日の公開を半ばあきらめかけていた6月、青空文庫宛に、一通のメールが届く。「メーリングリストで校正者を募り、8月6日を目指してみては」という、工作員の大野晋さんからの提案だ。願ったりかなったり、というのは、まさにこのこと。もちろん大喜びで、提案に相乗りさせてもらった。大野さんとの共同名義で「原民喜プロジェクト」を立ち上げ、メーリングリストに呼びかけた結果、ありがたいことに、続々と校正に名乗りを上げていただいた。カナダからも名乗りが上がり、底本のスキャン画像をダウンロードしてもらうという「海を越えた校正」も経験した。まさに、インターネットならではの離れ業だ。原民喜も、半世紀後、自分の著書が画像となって電脳空間をカナダまで飛んでいくなどとは、夢にも思わなかったことだろう。
草葉の陰の原民喜に見守られつつ、作業は順調に進み、7月末には、めでたく全作品が校了を迎えることができたのである。

青空文庫に届くメールを日々読んでいると、何か不思議なシンクロを感じることがある。同じ作品の入力や校正の希望が、立て続けに届いたり、複数の人から、似たような提案をいただいたり、というのは、何度か経験してきた。インターネットという、目に見えない蜘蛛の糸でつながった者同士、何か不思議な力で、それぞれの思いを共有しているのかもしれない。
原民喜プロジェクトは、世話役チームの力だけでは、おそらく実現できなかっただろう。日々やってくる日常業務や、さまざまな問い合わせの谷間で、ひとりひとりの「気になること」や「やりたいこと」は、どこかに埋もれていってしまう。青空文庫を元気よく続けていくことこそが「やりたいこと」の最たるものではあるけれど、それだけで手一杯でもあるのは、どこか哀しい。
けれども、おおぜいの人たちが少しずつ力を分け合えば、願いはかなえられるのだということを、プロジェクトを通じて、改めて実感することができた。プロジェクトでは、引き続き、『ガリバー旅行記』の校正や、『遺書』の入力が進行中。これからも着実に発展していきそうだ。

8月6日当日、原民喜作品の特集ページが公開のはこびとなる。データベースが完成するまでは、仮住まいでの公開となるけれど、その間、背景画像のおまけ付き。とりあえず「ちへいせん」からリンクをたどり、原民喜プロジェクト第一弾の成果を味わってみてください。
作業に協力してくださったみなさん、本当にありがとうございました。これからも、どうぞよろしく。





ヨルダン川東岸にて望郷の思いを感じること  佐藤真紀




実は今、私はヨルダンの首都アンマンにいる。既にここに来て10日が経とうとしている。なぜかというとイスラエルに陸路でヨルダン川をこえて入国しようとしたら、拒否されてしまった。今、イスラエルへの入国は非常に難しくなっている。アンマンに7月20日について様子を見ながら、22日にタクシーでアレンビー橋まで出かけていった。

ともかく暑い。脳みそが湯だってしまいそうだ。医師や看護師、パレスチナよりの意見を言うと入国審査官を刺激する。女性の入国審査官は、随分と高いところに座っていて、横柄な態度で質問してくる。
「入国の目的は?」
「人道的な援助です」
「誰の?」
「占領地に住んでいる人」
「パレスチナ人ですか。それは?」
「おそらく、そのような人です。」

友人の医師は、パレスチナ人のために貢献したいと言ったがために入国拒否になった。それで、パレスチナという言葉はなるべく使わないようにしている。しばらくして同行の看護師が呼ばれる。
「あなたは以前入国拒否されていますね」

彼女も、一ヶ月前、人道的な支援をするためにパレスチナに入ろうとして拒否されていた。
しばらくして、セキュリティの男性が2名やってきて
「あなたたちは入国できませんので、これからヨルダンまで帰ってもらえます」
「なぜです?」
「内務省の決定です。」
というわけであっけなく戻されてしまった。
早速イスラエルの弁護士に連絡をとって異議申し立てをしてもらうことにした。それで結果が出るまでアンマンで時間をつぶしているというわけだ。

その夜、ホテルでテレビを見ていると、イスラエル空軍の戦闘機がガザを空爆したという。1トンの爆弾を落とし、イスラム原理主義ハマスの軍事部門のリーダー、つまりイスラエルが指名手配していたテロリストを暗殺した。これで、イスラエルは、新たなるテロを防ぐことができた。お手柄だ!というのがイスラエルの人々。

一方でガザの人々にとっては、15人のパレスチナ人が死んでしまった。しかも11人が子どもだという。その中に、指名手配の人物がいようがいまいがともかく、関係のない市民が死んでいった。この不条理はなんだろう。

ヨルダン川東岸。
友人が、青少年センターで子どもたちと遊んでいるというので見に行くことにした。川沿いの村。ヨルダンの子どもたちは、素朴だ。小さい時からジュネーブ協定を教わったりしているパレスチナの子どもたちとは随分と様子が異なる。川の向こうにはパレスチナの山が見える。望郷の思いに涙するパレスチナ難民の心境とはこのようなものだろう。

イスラエルの携帯電話を持っていたので、電話をしてみる。歌手のリム・バンナは病院のベッドにいた。双子の子どもが生まれたのだという。電波は弱く、私がおめでとうを言う前に電話は切れてしまった。

暑い。暑い。脳みそが干からびていく。




しもた屋之噺(8)  杉山洋一


イタリアにも蚊取り線香をZampironeと言いますが、いわゆる日本の渦巻状の蚊取り線香と色、香り、大きさ全て同じで、二つ繋がっていて、それを折って使う、アルミ製の線香立てが中に入っているところまで、全く一緒なのです。

日本人にとって蚊取り線香は夏の風物詩で、陶器の豚の線香立てと風鈴、と来れば、後は素麺なり、ざる蕎麦なり、ビールなりと幾らでも想像を逞しくすることが出来ます。ですから、初めてイタリアでZampironeを見て、おやまあ、どうしてイタリアで蚊取り線香か、と少々訝しく思ったものです。

かかる疑問は自分だけでは無くて、日本の友人が夏に訪ねてくる度、決まって同じ台詞を聞きましたから、日本人にとって蚊取り線香は格別の思い入れのあるものと感嘆しつつ、地味な日本の特産品が世界に広まるのもこいつは粋だと、内心ほくそ笑んでいました処、先日になって気になることを発見致しました。

演奏会が終わり、打ち上げを兼ねて友人宅でピザを食しておりますと、夕暮れで丁度蚊が盛んに我々を挑発していて、そんな流れで、Zampironeの話になりました。蚊取り線香は日本の夏の名物なんだ、日本が発祥の地なんだぜ、等と軽々しく口にしたの所が後の祭りで、それまで温和に微笑んで話に加わっていた上品な婦人に、いいや、Zampironeを世に送りだしたのはイタリアなのだ、と突如、毅然たる口調で嗜められてしまったのです。

彼女の説によると、Zampironeはイタリア人の発明者の名前から来た登録名称で、あれには某社の製品やら某社の製品やら様々な種類が存在しているが、とにかくあの形で登録したのがZamironeなのだ、と思い入れたっぷりに言い放ちました。

こちらとしてはどうでもいいのだけれど、と苦笑していると、婦人はまるでドイツ人よろしく、百科事典で白黒付けましょう、なんて言い始め、皆の失笑をものともせず、自らGarzantiの辞典を探しに、意気揚々と階下に降りてゆきました。

でもあの渦巻状の形状には深い東洋思想が垣間見られるね、と高名な建築家Fが尤もらしく呟きました。陰陽思想のシンボルと同じだと言うわけです。陰陽二元論と蚊取り線香の組み合わせは、流石に日本人でも思い付かない処ですが、言われてみれば、何も渦巻きでなくとも、形は様々に発明出来たとも思います。

そんな伏線からFがルコルビジェの建築デザイン等に蘊蓄を傾けている折、先の婦人が、歓声を上げました。ほうら私の言う通りだわ、Dal nome dell'inventore, Zampi roni, interpretato come s.m. pl!! つまり、発明者Zampironi氏の名前を採って男性単数名詞化したもの、と明記してあったわけです。おまけに辞典には、蚊やその他の昆虫を殺虫、もしくは遠ざける効果を持った煙を焚く渦巻き状のもの、とまで書いてあって、流石に反論の余地がありませんでした。

どうも合点がゆかず、帰宅して早速「蚊取り線香の歴史」でインターネットで検索してみると、(我々には取り分け親しみのある)「金鳥」社のサイト(http://www.kincho.co.jp/)に、次のように書いてありました。

明治18年、創業者上山英一郎氏は恩師・福沢諭吉の紹介でH・E・アモア氏と出会い、翌年、当時日本になかった除虫菊の種子を手に入れたことが金鳥の歴史のスタート。
英一郎はすぐに除虫菊栽培を開始、明治20年5月に最初の収穫。
乾燥させた除虫菊からノミ取り粉をつくり、これを粉末のまま使うほか火鉢などにくべて蚊遣り火として使用するのが当時の使い方。
夏に火鉢はいただけないと、 新しい除虫菊の利用法を思案していた英一郎氏は、東京で線香屋と同宿したのをきっかけに、明治23年、世界最初の棒状蚊取り線香を誕生させた。
しかし、棒状ゆえに細く煙も少ないうえに約1時間で燃え尽きてしまい、輸送時に折れやすいなど、さまざまな欠点があった。
解決のヒントとなったのは、夫人の「線香の棒を太く長くし、渦巻状にしてはどうか」というユニークな着想。
共感を得た英一郎氏は、さっそく試作にとりかかったが、渦巻型蚊取り線香の製品化には実に7年の歳月を要し、明治35年に「渦巻型蚊取り線香」が初のお目見え。
この時まだ金鳥のマークは誕生していない。「鶏口となるも牛後となるなかれ」を信条としていた英一郎氏は、鶏をかたどった「金鳥」のブランド名を商標登録。明治43年のこと。

これを読む限り、渦巻き蚊取り線香そのものは日本が発祥の地らしい安心したものの、明治初期には日本に除虫菊そのものが存在していなかった、という辺りが混乱の原因でしょうか。
Zampironi氏は何者だったのかと調べてみたのですが、何も確固たる答えが見つからず、結局そのまま。これ以上探索するより、多少のロマンを残しておく程度がいいかしらと思った次第です。恐らく、ヨーロッパどこでもこの蚊取り線香は存在しているでしょうから、実際の処はどうだったのでしょう。福沢が当時イタリアと直接関わっていたとは思えないので、色々経緯を調べるのも確かに面白いかも知れません。

この日の演奏会で特に嬉しかったのは、一緒に演奏した友人の招きで、聴覚障害者の女性が聴きに駆け付けて、演奏会後に大喜びしてくれた事でした。この子は聾(つんぼ)なんだけど、音楽が大好きなのよと、随分乱暴な口調で紹介され、初めはびっくりしましたが、実はそれが彼女の優しさなのだと、後になって気が付きました(イタリアでも現在、聾唖-sordomuto、盲-cieco等は差別用語とされて、聴覚障害者-non udente、視覚障害者-non vedenteと言い換えられるようになっていますが、逆にこの名称こそが差別なのだと当事者からの批判もあるようです)。

さて、今晩も蚊が煩いようです。殺虫用電気マットやら、東京と同じく様々な選択手があるものの、やっぱり蚊取り線香に愛着を禁じ得ないのは、そこはかなく郷愁をそそられるからでしょうか。

(7月9日モンツァにて)




アイルランドで暮らしても!  松井茂

7月27日(土)「アイルランド前夜祭」と題された朗読会へ行った。高橋睦郎と佐々木幹郎による朗読会だ。このふたりは、この8月にアイルランドで詩の朗読をするそうだ。数年前にも朗読をしに出かけたとのこと。
アイルランドは、文芸の国で、飛行場には広告の看板ではなく、文学者の写真が並んでいるという。ワイルド、イェイツ、パウンド、ジョイスなどなど……。文芸が生きている国ならではのことだ。また、長らく弾圧されていたゲール語が、昨今、詩の朗読などを通して復興してきているという事情をきいても、この国ならではの文化の形がかいま見られる。文学者が、言葉=文化の番人のような役割を果たしているというわけなのだから。

最近、アイルランドに関わりのある人の伝記を読んだ。それは、「波動方程式」を作ったエルヴィン・シュレーディンガー。中村量空著『シュレーディンガーの思索と生涯――波動のパラダイムを求めて』(工作舎)。彼の人生は、わかりやすく“波瀾万丈”だ。つまり、20世紀という時代に翻弄された人生ということだ。第1次世界大戦では、オーストリアの兵士として参戦し、赴任が決まっていた大学が、戦争の終結と共に他国の領土となり、失職するなど。「波動方程式」を完成し、ノーベル賞を受賞し故郷ウィーン大学の教授に就任するや、ナチスの台頭で、亡命を余儀なくされる。その後、オーストリアへ戻るものの、最終的にアイルランドに亡命する。そして、第2次世界大戦を挟んで、10年以上アイルランドで暮らすことになる(晩年にオーストリアへ帰国した)。かの地では、「波動方程式」以後の彼の重要な仕事が成された。分子生物学の古典となる『生命とは何か 物理的にみた生細胞』(岩波新書 96年)もこの地での講演をもとに書かれた。この本は、ワトソンとクリックが、遺伝子を研究するきっかけになった本だという。
ダブリンの研究所に招聘されたからとはいえ、シュレーディンガーがアイルランドに定住したということには、偶然でない意志を感じる。シュレーディンガーはもともと詩人だった。ドイツ語の詩集も出版している(らしい)。先の伝記にも、一編だけ冴えない詩が翻訳されている。彼は、詩では喰えないからと哲学へ転向し、さらに量子の世界へと向かったと自伝(『わが世界観』ちくま学芸文庫 2002年)に書いていた。古代インドのヴェーダンタ哲学に深い影響を受けている。そんな彼の中で終始一貫しているのは、世界を統一する理論を探求するという精神だ。そして、どうやらそれは、詩を書くと言うことから拡がった態度らしい。だから、文芸の国アイルランドへ、詩人としてシュレディンガーは、自ら赴いたのではないか? ひょっとしたら、ダブリンのパブで、彼が詩を朗読した晩があったりしたかもしれない。

「アイルランド前夜祭」のときに、佐々木幹郎が、アイルランドで購入した絵の話。その絵は、すべての描線がゲール語の文字列になっているというもの。そして、それを見ているうちにあらゆる風景が言葉から出来ているのだということに気がついたという話。
私は体験したことはないが、アイルランドの厳しい風景、荒涼とした景色は、神話が生きているということにも象徴されるような、文字と言葉で構成された景色を実感させてくれる時間と空間なののかもしれない。今のところ私が知っているアイルランドは、高村薫の小説『リヴィエラを撃て』(新潮社 92年)に出てくる、陰鬱で灰色な世界だけだ(いま、手許にこの本がないので、どんな描写だったか詳細には確認が出来ない)。
高橋睦郎は、アイルランドへ行くと滞在した日数の倍以上の詩が書けるのだそうだ。アイルランドでは詩の神様がおりてきやすいらしい。もっとも、どこにいたって書ける人は書けるということだけの話でもある。察するに、シュレーディンガーは、文字で書く詩はあまり得意ではかったのではないだろうか? たとえ、文芸の国アイルランドで暮らしてもそれは同じ。彼の詩は、ひとつの方程式と、いくつかの論文だったのだから。それはそれで、人類の叙事詩に他ならない。シュレーディンガーは偉大な詩人である。





ハーフタイムは超現実に  御喜美江


日本と韓国におけるW杯は、ブラジル優勝・ドイツ準優勝で幕を閉じ、3週間にわたるサッカーの熱狂ドラマも、なんかあっけなく終わってしまった。ドイツチームの帰国は延々6時間以上もテレビの生中継で放映され、タイマーで録画したそのビデオを夜中になってから見た。番組ではルフトハンザのジャンボ機がまだ空を飛んでいるところも写し、それがフランクフルト空港へかっこう良く滑らかに着陸すると、機長の窓からはドイツの国旗が大きく振られた。
5月、同空港を出発する時は笑顔が一つもないチームだったが、帰国は打って変わった華やかさ、まるでお祭り騒ぎだった。しかしオリバー・カーンの挨拶は人々の心を打った。喜びで熱狂する大観衆のものすごい騒音の映像に、突然音だけが消えたような数秒間の静寂があり、それがいつまでも印象に残った。

そして2002年もちょうどハーフタイムとなった。

月初めは大学の試験期間、我クラスは4人の学生が卒業して2人新しい学生が入学した。音楽大学には外国からの留学生も多く、その場合の入学試験は実技・筆記以外に、“ドイツ語テスト”というのもある。大抵、まず第一回目は皆さん落っこちる。このドイツ語テストの審査員に、どういうわけが日本人の私が入っている。他はドイツ人教授が2人で、なんだかんだ受験者に質問するけど、正直言って彼等の発音、あまりはっきりしていないし、内容も分かりにくい質問だな〜、と気の毒になることしばしば。そこで私が“はっきり”“わかりやすい”質問をするとほとんど全ての外国人、わかるのです。これ不思議。そしてまるで哀願する目つきで私の方を見る。「助けて〜!」と心で叫んでいる。そうなると私だって「ここは自分の出番!」と張り切って質問を続ける、と途中でドイツ人教授が割り込んできて邪魔をする。そしてまた“難しい”質問をする。
でも思えば昔、ロシア人のチェロ奏者、V・トンハ氏が来日していた時、友人の櫻井卓氏の喋るドイツ語はすぐトンハ氏に通じても、私の“正確なドイツ語”が全然通じなかったから、“言葉”は特殊な対象物。“ドイツ語テスト”は奇妙な対象物。

7月20日からデュッセルドルフのKunstsammlung NRWにおいて、史上最大といわれる規模の『超現実主義』展覧会が始まった。ここにはマックス・エルンスト、ダリ、マグリット、ピカソ、ミロ、ジャコメッティ等、1919から1944年までの、500点を超える作品が展示されている。世界中からこれだけの質と量の作品を集めてきたのは驚異だと、前評判もすごく良かった。
さて4日前の16日、この主催者から夫のところに電話が入り、「19日のVernissageでどうしても音楽がほしい、それもエリック・サティをライブで90分演奏してほしい。突然で申し訳ないが何とかしてくれ。」と言ってきた。半日あちこちを当たってみたらしいが大学は学期末で人も少ないし、近くに住んでいる演奏家でサティを弾く人が見つからず、結局妻の私に依頼がきた。サティは3曲しか弾いたことなかったけど、他の曲を混ぜてもいいと言われたので喜んでお引き受けした。せっかくだからと新しいサティの作品もいくつか探してきて、久しぶり3日間たっぷりと練習をした。

今までの経験で、展覧会における音楽会が私は大好き。素晴らしい絵画に囲まれて、ちらちらと横目でそれを見ながら弾くのは本当に楽しい。そして美術館というのは音響もアコーディオンにとても合っていて、何から何までが完璧だ。
2002年のハーフタイムは、思いがけず素晴らしいものになりつつ、胸が躍った。

当日会場に行ってみると、すでに外で支配人のビューマー氏が待っていて、ご丁寧な挨拶の後、荷物を持ってくれたり、150Fはあるだろう広い立派な応接室を楽屋に提供してくれたり、飲み物を取りにいってくれたり。
「世紀の展覧会とまで言われているこの催し物のVernissage本番の日に、たかが一人のアコーディオ二ストに何と親切!」と感激しつつも、ちょっと親切の度が過ぎてかえって心配になってくる。というか少々不吉な予感がしてきた。

「どこで弾くのですか?」と聞くと「どこでもお好きなところを選んでください。」と。これも演奏会では異例な返事。ちょっと戸惑いながらも「どこが一番響くかしらね〜?」と言うと「「え〜、あのあたりが一番よく目立つと思いますが。」と言われたところは、立食パーティー用のテーブルが沢山並んでいる広間の端角で絨毯敷き。天井は低く、真横はドリンクサービスのカウンター。ここでは絶対に響かないこと確実。「ところでどんな進行で何時ごろ弾けばいいのかしら?」と聞くと「挨拶がいくつかあって、まずは州政府総理大臣、次はここの館長、続いてパリ・ポンピドーセンター館長、スポンサーであるルノー社代表、その後展覧会を500人の招待客が見てまわり最後にここに戻ってきて、軽食とドリンク。その時バックミュージックとして、演奏してください。」と。「あ〜、そうだったのかー。でもここで聞えるのかな〜」とすごく心配。

8時過ぎに「そろそろ、お願いします。」といわれて、ソロソロとその椅子の場所に行って弾き出したが、何も聞えない。すでに多くの人々が集まっていて広間は満員ラッシュ。少なくとも近くの人には聞えるようにと一生懸命弾くけど、この騒音の中ではどんな努力も無駄。そのうち自分でも何を弾いているのか聞えないほどの大騒音で、むこうを見るとダンナまでが誰かさんと夢中で話しをしている。「もう何を弾いてもおんなじさ。」と開き直ってフランス・バロック音楽を弾き始めたら、夫がチラッとこっちを見たから、すぐやめてまたサティにした。途中何人かが寄ってきて「貴女がアコ−ディオン弾いているのは見えたけど、音は聞えないのね。」なんて。

以前、東京文化会館における『糸』のコンサートを聴いたとき、高橋悠治氏が「例えば喫茶店で流れるバックミュージックは、となりテーブルの話し声が聞えないようにするもの。音を消すための音楽。」とトークされ、それはものすごく印象的だった。聞くために音を出すのではなく聞かせないために音を出す。

約束の90分が過ぎてしばらくすると、さっきの支配人が再び現れ「楽屋を覗いたらまだ貴女の荷物があったので、まだいらっしゃると分かりました。どうも今日はありがとうございました。ちょっとうるさくてすみませんでした。実は私の父もアコーディオンを、それもホーナーを持っているんです。」と。はー。

演奏を終えて楽屋へ戻ったら、腰が猛烈に痛い!知らないうちに、自分でも大きな音を出そうと無理をしていたらしい。“腰の痛み”だけが演奏した証拠となって残った。「自分は確実に弾いたんだけど何も聞えなかった」という不思議なコンサート。ちょっとおかしくちょっとかなしい気分で椅子に座っていたらダンナが来たので「今日は音なしコンサートでした……」と言うと「今日のMieちゃんのコンサート、まさに“超現実主義”でした!」と。彼は展覧会を絶賛して上機嫌、それで私も何となくほっとした。

遅い夕食をとりながら、昔見たルイス・ブニュエルの映画「ブルジョアジーの秘かな愉しみ」で、内務大臣が警察に電話である命令を下す時、ちょうど飛行機が低空飛行し、ノイズで言葉は消され、口と手の動きだけがまるで取り残されたようにうつるシーンを思い出した。

そんなこんなで2002年のハーフタイムは終わり、「後半こそは現実主義で真面目に頑張ろう!」と指だけがキーボード上を動いているのも、“超現実”かな。

(2002年7月28日 ラントグラ−フにて 晴れ:気温19度)





モンコン・ウトックのCDブックより(5)『ピンの歌』  荘司和子訳



  指が弦をはじくままに
  ピンの奏でる調べとともに
  生きてきた
  この男 このこころ この手
  にあるのは 音楽だけ
     ピンは澄んだこころを伝える
     長年歌うたいの伴奏をしてきた
     ピンはこの男のからだとこころ
     いのちがあるかぎり 力はうしなわない
  
  山また山 ジャングルに次ぐジャングル
  ひたすら歩きつづけた
  いくつもの河 いくつもの海
  あえて越えていった
  作り話じゃないさ 越えていこうという意志(こころ)があったのさ
     ずっとむかし 貧しかったころ
     オンボロ牛車に揺られて
     明日の社会を夢見てる
     こころがあった
                   (ピンはタイ東北地方の弦楽器)

『ピンの歌』の歌詞を書いてくれたのはウィサー・カンタップ(詩人。1973年学生革命の際の『黄色い鳥』で有名)だった。1993年のことだ。ぼくとウィサーは家族ぐるみで付き合うことが多くて、いっしょにピクニックにでかけたり、ぼくたちが彼の家に行ったり彼らがこっちへ来ていっしょに飯を食べたりしたものだ。

ぼくの誕生日、ウォンハウス(モンコンのライブハウス)の開店やら1周年記念の日といった何か特別な日にはいつも詩を書いてきれいな額に入れて贈ってくれる。

あるときぼくと子どもたちがウィサーの長男ボムの誕生日に招待されたときのこと。彼の妻ポンピモンは以前食堂をやっていた腕前で例によってとびきりうまいジェオホン(東北タイの唐辛子みそのようなもの)を作ってくれた。そのときぼくの作っている新しいテープのアルバムのはなしになった。それでウィサーに一曲書いてくれないかと頼んだ。事情は、ある日目が醒めて唐突に歯も磨かずに歌を書き始めたのよ。それでこんな感じの歌を一曲作ってくれないかい? ウィサーはすぐ承諾してくれたけど、その代わりにぼくにも彼に歌を作ってくれるか、って言うのさ。それでぼくもオーケーした。

ウィサーはぼくに歌を書いてくれたが、ぼくはといえば未だに彼に歌を書いていない。なにしろぼくは仕事がのろい。ウィサーは作家で詩人だから頼めばたちどころにもらえる。すごくうまいし。

『ピンの歌』はリクエストが一番多い歌だ。あちこちのコンサートで「聴いていると元気が出る」とか「歌い手の人生が伝わってくる」とか言われる。歌い手、つまりぼく、は、ピンを弾きながらうたっている。聴いている人ひとりひとりの人生を重ね合わせて意味を感じているんだね。ぼくにとっても『ピンの歌』はメロディはシンプルで美しいし、歌詞がまた人と楽器が共に生きて、社会に正義を求める運動を共有していくという、つまりカラワンのピンの弾き手モンコン・ウトックとピンのはなしなのさ。

それにしてもぼくだったらこういうふうには書けないな。ウィサーだからこういう表現になる。とはいえうたってみてからところどころ変えたところがある。なんだか歌詞に束縛され過ぎって感じがして気になったので。たとえば初めの部分で「いのちある限り歌声は絶えない」とか最後の「輝かしいタイを夢見て」とかね。





書きかけのノート(最終回)  高橋悠治


このノートを書き出してから 1年3カ月がすぎた 音 あるいは 音楽について書くとき そこにないそれらを想像しながら書いている 想像のなかのそれらは 現実よりも色褪せて 平面的で 貧しい 音が響いているその場所で それにかかわりながら 音とそれとのかかわりを同時に観察しながら書くことは じっさいにはできない それでも 音について書くのではなく 音とのかかわりについての観察を書いているかぎり ことばの増殖によって かってな考えに逸れていく危険はすくない 問題は 観察はすでに過去になっていて おなじ観察は二度とありえない ということだろう 音がきこえるという状態はこういうものだと書くときは 同時に 書いているその時にきこえているものを意識しつづけながら 書きつづけなければならない そうでなければ これは観察ではなく 思考になってしまう それは書きながら 書いている状態を聴いている というような意識をたもつことでもあり 気がつくと 書いていることばに気を取られて 書いているこのからだや きこえてくる音を忘れている

じっさいには 書いているといっても 筆をうごかしているのではなく コンピュータのキーを打っているのだから ことば と からだはすでに分離しているのかもしれない 結果としての書き文字と 虚像にすぎないディスプレイ上のインターフェイスを比較すれば 石川九揚のように 電子文字には文体がない と言いたくもなるだろう しかし ここでは表現を問題にしているのではない 発言の質を問うのではない 「祈り」としてのことばの自制ではない どんなうごきであれ どのような手段であれ 主体も対象もない運動が 一瞬ごとに変化していくのを観察すること あるいは 判断なく うごきをききとりつづけることだけが 問題にされている

書くことの危険とともに いまの社会のなかで 音楽の場が 生活のなかにない 隔離されている ということも 忘れることができない いたるところで 音は鳴っている 電車の駅 レストラン 街路でも 音楽が流れている だが それは結果としての 固定された音 信号や操作としての音で その音は コンサートホール 練習や録音スタジオのように 外からの音がきこえない 外にも音が漏れない 隔離された場所でつくられる

音楽家の仕事場がそういう隔離された場所であるならば 音楽家が仲間と会うのがそういう場所ならば 雑音に汚染されていない音を操作して 消毒された無菌の音楽をつくっているうちに 音楽家は音をきかなくなり 音を考えるようになる

隔離され 管理された環境で音楽をつくっている そのなかで 音楽を考え 音を操作する部分が自立して 作曲家や指揮者という職能になる 音に直接触れることのない音楽家 音を固定した物体のように組み立てる設計図を書くだけ あるいは他人を使って自分の音をつくろうとする人びとが 隔離され 囲い込まれた場所で主人のようにふるまっている

音楽家は 音楽家のなかにいれば 技術をひたすらみがき そのことによって 思いがけず競争と対立にまきこまれても しかたがない これは阿修羅の領域だ 音楽のさかんな都市なら ニューヨーク サンフランシスコ パリ 東京 シドニー ソウル どこでも似たようなものだ

音楽家は音楽家とではなく 他の人たちといっしょにいたほうがいい そうすれば 音楽もすこしはひとの役に立つ

詩人たち 美術家たち 舞踊家たちとのコラボレーションによって 音楽家は すこしは息がつける もちろん 忘れてはいけない 詩人は紙の上に文字を書き 画家たちは額縁に絵をいれて それぞれのせまい場所で争ってきた まだ現実世界にたどりつけないとしても 声とからだをとりもどすのは 健全な方向だ

伝統的な音楽家の学習 楽器を習い うごきの型を身につけ 伝承されている歌をおぼえ 即興ができるようになり その上で 自分の歌をうたうようになっていく あたりまえのようだが これを現代に生かすことはむつかしい

音をきくことを忘れて 音を考えている それとおなじように 存在にきくことを忘れて ことばや思考にふける ついそうなっている それに気づいては また忘れる それをくりかえしながら 歳月はすぎる こうして未完のノートは終わる

来月からは「可不可3」の制作ノートをつづけることになるだろう



ご意見などは suigyu@collecta.co.jp へどうぞ
いただいたメールは著者に転送します

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