2002年11月 目次
貧者の出版(3) 浜野 智
新・青空文庫へようこそ LUNA CAT
悪夢 松井 茂
しもた屋之噺(11) 杉山洋一
“フロー”とは蚤のこと 御喜美江
結婚式 佐藤真紀
音楽をきく 三橋圭介
ラントヨ 冨岡三智
某月某日
印刷所の人が、わが社の最初の出版物となる本の「つか見本」を届けてくれた。つか見本というのは中身は空白のまま、実際に使う用紙とページ数で製本したサンプルである。「つか」は「束」で、本の厚みを意味する。かつて函入りの書籍が多かった時代には、つか見本がないと函の正確な寸法が出せなかった。いまも、背のデザインなどを決めるには必須である。
何も文字のない本を眺めていたら、このままでいいんじゃないか……と、思えてきた。インクのしみを各ページにつけていく必要はないんじゃないか。いま進めているのは「事業としての出版活動」の第一歩となる本なのだが、かたや、青空文庫の小熊全集は、僕個人にとっては「貧者の出版」の最初のステップとなるべきものだった。若い頃からずっとこだわりのある作家についていえば、原民喜全集は70年代末の青土社版以来全集が出ていないが、これに対し、小熊全集は90年代以降も出されている。版元は創樹社。規模の小さな出版社でありながら、大きな売れ行きはまず望めない作家の作品のとりまとめ作業を継続して実践していることに関しては、まずはその労を讃えなくてはならないだろう。
ただし、「質」の点については大いに問題がある。手元にあるのはこの全集の最初のシリーズ(のち、装幀や造本を変えて別のシリーズが発行された)なのだが、ともかく単純誤植と思われるものが目立つ。全集というのは、ある作家の作品を単に網羅するだけでなく、1つ1つの作品に校訂を加えてそれぞれの「本来の形」もしくは「あるべき形」を確定していくことに意味があるのだが、この全集はそれ以前の段階で問題があるといわざるをえないのである。
率直にいえば、青空文庫で小熊全集を作ろうと思い立った段階でそのことを意識していたわけではない。実態としては、作業を進めるために原本をチェックする。その過程で誤植その他に気づいたというのが正しい。しかし、それは、「青空文庫で小熊全集をつくること」をますます根拠づける事実の発見でもあった。青空文庫は、入力にしても校正にしてもファイルの整形にしても、所詮は素人の集まりである。充分に丹念に作業をしたつもりでいても数多くの漏れがあるのが素人であって、そのことを挙げていけばきりがない。青空文庫のファイルを使って商業出版をしたいという声を何度か聞いたが、僕はそのたびに「ちょっと待て。校正をもう一度念入りにかけろ」と言ってきた。実情がよくわかっているからこその警告である。
しかし、それでは青空文庫に登録されたテキストは市販の書籍に比べて遙かに価値が劣るのかとなれば、そんなことはない。多少のミスはあっても読むためには充分ということもあるが、それだけではない。それより、ミスがあることを自覚した上で、テキストの精度を少しでも高めるために、人から人へと作業が手渡されていくことのほうにこそ、この試みの真価はあるだろうと思っている。
一般の商業出版では、一度本の形にしてしまえば、あとは指摘された誤植その他を重版の機会に修正していくのがせいぜいである。しかし、ネットで誕生した青空文庫は違う。電子化されたテキストは、特定の担当者が現時点でこれでよしとしたテキストであっても、誰かが不具合を指摘すれば、いつでも修正を加えることができる。これを長い年月をかけて継続し、世代から世代へと作業を手渡していけば、原価計算につきまとわれる出版社の仕事の質を凌駕することは、充分に可能なのである。某月某日
調布から徒歩で15分ほどの場所にある、さる超大手ソフトウェア企業の開発センターへ行く。毎度のことで慣れてはきたが、ここのセキュリティ対策にはうんざりさせられる。外部の人間に社内をうろうろされては困るという発想なのだろう、1階の受付まで内部スタッフに同行してもらい、係の目の前でサインをもらわないことには、ビルを出ていくことすらできない。人間をまるっきり信じていない企業にはたして人間のためになるソフトウェアがつくれるものなのか……と、思わないではいられない。
インターネットもまた人間への信頼と不信とが混在したメディアだが、存在自体は「実社会の影」でありつつ、少なくともわれわれがいま生きている実社会よりは信頼に足るものが多くあるのではないか。日本のような高度資本主義社会に暮らしていて、あるときふと振り返ると、利害抜きの人間関係がほとんどなくなっていることに呆然とする。年齢も仕事も全く異なる人たちといろいろな形で利害抜きで言葉を交わし、つきあえるのは、所詮はバーチャルな世界であるだけに少しさびしくもあるが、インターネットの一番の美点だろう。
青空文庫もその1つであって、ここでできた人間関係を大事にし、年月をかけていけば、商業出版の世界にはない仕事ができるのではないかという期待は、いつもある。青空文庫版の小熊全集についていえば、現時点では「創樹社版の不具合を修正した」という範囲にとどまるだろうと思う。作業がなかなか進まない現状に業を煮やしたあげく、多数の参加を求め実現して以来、不安要素はさらに増えている。創樹社版にはなかったミスが混在している可能性を否定する自信はない。
にもかかわらず、これでいいという気持ちがある。極端にいえば、今後10年、20年という長い年月をかけてでも、その時々に誰かがテキストを読み、チェックし、誤りを発見し、指摘し、誰かがそれに応えていく。そういう仕組みが維持されれば、この全集は商業出版では望みにくいレベルにまで達していく可能性がある、そう思うからだ。
テキストの質レベルだけではない。最近になって、青空文庫のサブ・サイトである「ちへいせん」で「電子ルリユール教室」なるものを始めた。ルリユールとは「手製本」だが、パソコンのデスクトップ上のルリユールなら、経費を気にすることなく、だれでも気軽にチャレンジできる。しかも、試行錯誤を重ねながら、その作品に最もふさわしい「本の形」を発見することが、紙の本の時代以上に容易だろうという思いがある。
これらのことは、客観的に見れば、ごくごく小さな動きである。これで日本の出版界が様変わりするなどとは、到底思えない。そんなことを言ったら、狂ったか……と、笑われる。
しかし、何事も、その出発点は「1粒の種子」なのだ。その1粒の種子から何が生まれるかは、誰にも予測できない。(了)
青空文庫は、2002年夏、静かに5周年を迎えた。
そもそも、「創立記念日」が定かでないので、どこかの検索サイトと違って、バースデーケーキでお祝いするというようなこともなく、毎年、気づいてみれば「○周年」がすぎている。これからも、こうやって年をかさねていくのだろうと思う。それも何だか青空文庫らしくて、よいのではなかろうかという気がする。
そんな青空文庫にも、ひとつ「記念日」ができそうだ。2002年11月1日、青空文庫は、データベースを基盤とする新システムに移行し、リニューアルオープンの日を迎えた。いまだに鮮明に記憶に残る「縦書き画像トップページ」から5年、二度目の大きなリニューアルである。
二度の改装は、そのまま、青空文庫をとりまく状況を示しているように思える。「縦書き画像」当時は、「縦書きで読める電子本」であるエキスパンドブックを、柱に据えていた。その後、次第に作品数も増えて、「縦書き画像」を卒業した最初の改装のとき、ささやかな文庫は「図書館」を名乗るようになった。このころから次第に利用形態も多様化してきて、テキストブラウザなどのソフトが「青空文庫のルビ形式」に対応するようになりはじめる。青空文庫が、特定の形式の電子本から脱皮していく過程とも言えそうだ。さらに、ここ2年くらいは、大画面液晶からPDAまで、解像度が大きく異なるハードウェアが混在する状況となり、かっちりと作った「電子本」というもの自体が、なりたたなくなってきた。そういった事情を反映して、2002年5月からは、エキスパンドブックを基本のフォーマットから外し、公開するファイルを、テキストファイルとHTMLファイルのみに絞った。この時点で、青空文庫は、「電子本が読める図書館」から、「素材提供型のテキストアーカイブ」としての方向に、大きく舵をとったということになる。
いっぽう、利用者も協力者も増えるにつれ、手作業での維持管理に限界が見え始めるというマイナス要素もふくらんできた。青空文庫で作品をひとつ公開するには、テキストファイル、HTML、エキスパンドブックという三種類のファイルの準備はもとより、図書カードの作成、作家別と作品別それぞれの作品リストの更新、お知らせページの更新、トップページの更新、といったような、こまごまとした機械的作業が必要だ。人手に頼ってきたこれらの作業を、機械に任せて自動化していこうと考えるのは、自然な流れと言えるだろう。
青空文庫の二度目のリニューアルは、そういった大きな二つの流れの延長線上にあるものだ。新システムは、何よりもまず「探しやすさ」を最大の目標としている。最初の頃は、ふと立ち寄って、本棚の本を手にとって読む、というイメージが強かった。本が増えるにつれて、そこに「本を探す」という要素が加わり、さらに「目的を持って探す」局面も増えてくる。細かく分類した「総合インデックス」のシステムでは、まず何よりも、「探す」ことに重点を置いた。著作権の有無や、公開中・作業中の作品数を表示したり、作業中の作品に関するインデックスを充実させるなど、「探す」ための情報を充実させることも、心がけたつもりだ。「本を読む」だけではなく、「テキストを利用する」際にも、便利になったのではないかと思う。
細かく分類したり、情報を増やしたりすれば、更新の手間はさらに大きくなる。しかし、もう心配することはない。ここの部分は、文字通り「機械的作業」が得意なコンピュータに任せることにしたからだ。面倒な更新作業は、これからずっと、疲れ知らずのデータベースとプログラムが引き受けてくれる。
「探しやすさ」といえば、「いつでもそこにある」という要素も欠かせない。これまでに何度かディレクトリ構造を変更した際、図書カードへのリンクが切れてしまったケースもあったけれど、これからは、融通のきかないコンピュータが、自動的にURLを生成する。おいそれとは変えることができないので、リンク切れの心配もない。安心して、どんどんリンクを張ってもらうことができる。
さらには、作家単位の「図書カード」のようなものも作った。生没年などのデータと、公開作品、作業中の作品が並ぶページだ。個々の作品だけでなく、この「作家のページ」にリンクを張っていただくのも一案かもしれない。新しい青空が、また大きくひろがっていく。11月1日は、青空文庫の「もうひとつの誕生日」となった。
まずは新しい青空文庫を訪れて、新たな門出を共に祝っていただければ、何よりのバースデープレゼントとなることだろう。
映画『π』をビデオで観る(ダーレン・アロノフスキー 監督97年作品)。頭痛持ちの数学者が主人公で、見えるものが徐々に数列化していくというお話。それは、この世の物事に偏在するアルゴリズムというか、数学的描写というか……。モノクロームの映像と合わせてちょっと不気味な映画だ。日常の視覚風景とは、自分の思考が生活するために馴れて見ている見方なのだとすれば、きっかひとつで、日常は一変するのだということ。この主人公は、生活が数学により過ぎたにちがいない。その結果の悪夢! こういうのをパラダイム・チェンジというのだろう。
結果や目的はさておき、パラダイム・チェンジの願望が、映画を観るとか、文学を読むとか、芸術を鑑賞するとか、旅に行くとか……人間の生きる衝動になっているにちがいない、というのは言い過ぎではないだろう。また、作家が作品を作るということだって、何か世の中の枠組みや考え方に変革をもたらしたいとか、見えない物を見えるようにしたいとか、不可知なものの論理化という衝動が働いているように思う。その結果は悪夢となることは、ありえるのだが……それもまた、悪い夢とはいえひとつの真実。悪夢を知らないよりは知っている方が、日常を踏み外さないためにもよいのかも知れない。
そこでおあつらえ向きの小説。中島敦の『文字禍』。舞台はアッシリアの図書館。王の命を受けたナブ・アヘ・エリバ博士が、文字の霊の存在を調査するそのうちに「一つの文字を長く見つめている中に、何時しか其の文字が解体して、意味の無い一つ一つの線の交錯としか見えなくなって来る。単なる線の集まりが、何故そういう音とそういう意味とを有つことが出来るのか、どうしても解らなくなって来る」。そして「単なるバラバラの線に、一定の音と一定の意味とを有たせるのは何か? ここ迄思い到った時、老博士は躊躇なく、文字の霊の存在を認めた」のだった。そうなれば次に来るのは、悪夢! 文字がバラバラになるように彼の見るものすべてがバラバラになりはじめたのである。「人間の身体を見ても其の通り。みんな意味の無い奇怪の形をした部分部分に分析されて了う」。あげく、日常や習慣がみな、分解して意味が分からなくなっていくといのは、とてつもない悪夢!
じつは、文字を読んで意味が分かることほどの神秘は無いではないか! というのは、詩を書いていて僕も漠然と気づいていた。だから、純粋詩という「一」「二」「三」という文字だけで出来ている詩を書いているのです。というのは、ホントだろうか? これもまた悪夢? 人の悪夢を楽しむのと、自分がその渦中にいるのは大違いだ。
いずれにしても、『π』の主人公は、さいご頭にドリル突き刺して、悪夢と決別(?)したらしいし、ナブ・アヘ・エリバ博士は、文字霊に殺されてしまうようだ。詩人の運命やいかに!
(編集部注・中島敦の『文字禍』は青空文庫で読めます)
10月も末日に近づくと、周りにはそこはかなく冬の気配が漂います。この季節、太陽の光線が決まって黄金色に輝くのは、紅葉した落葉樹に光が透けて見えるからでしょうか。刈り入れの終った、禿げた田園地帯の彩りにも関係あるかも知れません。秋の夕日はとりわけ美しくて、毎夕、大空が内向的な深い紅に染まるのを見て、あの向うに冬が待っている、と薄く実感したりするのです。
忙しなかったこの一ヶ月、自分は一体何をしていたのかと日記を読み返してみました。
10月1日。中央駅にて、最終バスを待ちながら。
今まで、Accademia にコンフェレンスと演奏会に見えた湯浅譲二先生と、Alter Ego、Accademiaの連中と食事。インゲン豆のスープを頼み、ワインを呷る。先生はその他にパスタを頼んで、量の多さに驚いていらした。湯浅先生と、反アカデミズム、反スケマティズム。音楽を音楽の枠の外から眺め、自分の意志を、しっかり言語化する重要性。40歳前で初めてアメリカに武者修行に出た時、初めは若造がやって来たのかと訝しがられたが、録音を聞かせた途端、相手の対応がすっかり変わった事。湯浅先生のコンフェレンスには殆ど生徒がいなくて、申し訳ない。夜の演奏会には溢れる聴衆。めぼしいミラノの作曲家が顔を揃えて、錚々たる感じ。しかし、作曲の生徒は皆無。どうなっているのか。書き上げたばかりのフィンランドの合唱団の為の新作をコピー。明日ローマから送附されるとのこと。実直な筆致の清書譜に感激。パリのM嬢が湯浅先生のミラノ滞在に併せ、遊びに来る予定が、互いに忙しく断念。
Accademia の懇談会で、Rは教育改革の今後について情熱的に語った。語気に押されてか、ドラスティックな改革にも関わらず、余り大した質疑応答もなく終了。Rはこんなにすっきり話し合いが終るとは思わなかった、と笑った。4日、曇。Milano Garibaldi駅行、車中。
列車の中で日記を附けるのは、精神安定にはとても良い。朝は弦部会会議。ああでもないこうでもない、とカリキュラムの話。それはそれで面白いが、どうどう巡りで話は纏まらず。午後は打楽器の教師との会議。彼はスカラ座オケのティンパニのトップなので全く違う見解。レヴェルをどこに設定するか、根本的に午前中の会議と違う。彼を頼ってアメリカやヨーロッパから生徒が集まって来るのだから、当然だろう。イタリア南部に住む、日本人妙齢より電話。少々鬱気味なのか、もう全て辞めて、日本に帰りたいとの悲痛な話。一つ一つ目の前の用事を片付けてゆけば、自然に答えは出てくるでしょう、と随分平凡な励まし方をする。尤も、イタリアの様な好い加減な国に長く居るのは、余り良いとは思えず。長く住めば住む程、その実感は増すけれど、こちらで仕事をしていると、どうにもならない。5日、晴。ベットにて。
結局、今日も譜読みをする時間もなく一日が過ぎてしまった。朝、今月暮れに初演するGの楽譜を製本し直しに出かける。昨日は朝、中央警察署に行き、労働ビザ許可証発行の書類リストを貰う為だけで、午前中一杯並ばされる。
学校で些事を片付け、ミラノに長く住むデザイナーのKさんを訪ねる。彼は二年前に自営業の労働資格を取得しているので、ビザ書換えの事情に詳しい。6日、晴。ベットにて。
朝6時過ぎには起き、仕事のメールを片付ける。一日が過ぎるのは異常に早い。日曜だが、誰かに会いたいとは到底思わない。家でのんびり出来るのが本当に幸せ。服のほつれを縫ったりするのは、気分転換には丁度良い。今月末本番のSの新曲の譜読みを始めるが、つまらなくて、すぐにやる気を無くした。現在、現代音楽を必要としているものなど、何処かに存在するのだろうか。8日、曇。ベットにて。
朝からパガニーニの譜読みと和声分析。オーケストラの生徒で、今日になって楽譜をくれと言って来る者多し。譜面台を一つ用意するにしても、用務員は全く手伝わない。自分はその仕事内容を任されていない、必要なら労働組合に許可を貰え、との事。典型的イタリアの会社組織。結果として、全体が全く機能しない構造。
午後、税理士のV氏に昨年度の確定申告をでっち上げてくれないかと頼むが、実直なV氏には当然ながら断られてしまう。学生ビザから就労ビザの書き換えを申請する為に、前年度分の納税証明書が必要とされる矛盾。基本的に学生ビザでは働けない筈のものを、どうやって確定申告しろと言うのか。何とか就労ビザの発行を減らしたいイタリア政府の奇策。
夜は友人Bの演奏会へ。ミラノで唯一の大規模な現代音楽フェスティバルで、聴衆も溢れている。演奏会で久しぶりにMarisellaに会い、他愛も無い世間話。彼女は国立音楽院の教育改革委員会の長を務めていて、互いの今後の展望について話す。ベルルスコーニの右派政権になってから、教育改革もストップしたまま。10日、雨。ベットにて。
今日は朝から晩までさんざんな思い。朝、Accademiaの財政再建を任されている財団に出かけ、ビザの書き換えに必要な書類のリストを見せると、相手の顔色が突然変わる。商業会議所や労働局から発行される財団の証明書が必要とされているのだが、そんなものは財団からは申請出来ない。とんでもない、と息巻かれる。だから言った事ではない、最初から学生ビザを更新すれば良いとこちらが話したものを、全く取り合わなかったお陰で、とんだ厄介に巻き込まれてしまった。
途方に暮れて家に戻ると、二週間前に郵便で送った筈のオーボエのパート譜が、配達先不明で戻って来た。挙句の果てに、回送料金と言って、5ユーロも払わされる。オーボエ奏者に直に見せると、書いてあった住所は全く間違っていなかった。悪い事が続けば続くもので、コンピュータはウィルスに感染。馴れないウィンドウズの為、朝の3時迄駆除に掛かりきり。朝の9時からCastiglioniの合わせだと言うのに、何も準備出来ない。
朝、6時半に起きてぎりぎり迄譜読み、バスに切符なしに飛乗り、練習に間に合わせた。とにかく、少しづつ音楽がしなやかに聴こえる様、丁寧に練習。最初の練習は、演奏家達は、指揮者がどのように音楽を作っているのか、観察、寧ろ興味深々、吟味している。
Accademiaでは、財団のVから、滞在許可証はやはり学生ビザで、と言われる。更新出なければ、契約も今月限りで破棄、と脅され、改めてヨーロッパ人以外の立場の弱さを実感させられる。15日、曇。
Castiglioniのインタビュー・ビデオ上映会。彼が亡くなる直前の貴重な映像。田舎臭い酷いブリアンツァ訛の作曲家の純朴さと音楽に対する慈しみに感激する。一体、今、誰がここまで純粋に音楽だけを感じ取れるのだろう。好きな作曲家、と聞かれ、リゲティ、ペンデレツキとマックスウェル=デイビスと答えていたのが印象的。彼の興味は、構造ではなく、音そのものが構造と無関係に(無条件に)包含している喜び。シェーンベルグには音のマージナルな遊びの空間がないが、ウェーベルンにはそれがある、と言う。バッハとシューベルトに喩えた。高尚な単語と、子供の様な単語が交錯する会話体は、彼の音楽そのもの。自分が昔から抱いて来た彼の音楽に対するアプローチが間違っていなかった事に、改めて喜びを覚える。17日朝、雨。ベットにて。
これを書いたら起きて労働局へ出かける。昨日は朝から少し学校関連の仕事を片付け、午後かGP。Castiglioni、アンサンブル作品は今迄丁寧に練習していた成果あって、そこそこの演奏。ヴァイオリンとピアノの為の「ウエヌスの11の舞曲」は聴くに耐えない演奏。音楽的コンセプト、ゼロ。結局、何のファンタジーも楽譜から読み取られていない。不機嫌で、演奏会後、そそくさと家に帰る。
妙な夢を見る。イタリアの何処かの田舎にある、旧跡を訪ねた。その昔、イドメネオの物語があった処だと言う。どのようにイドメネオと関係あるのか分からないが、鉄格子で出来た門を押し開くと、昔の装束を纏った女の亡霊が手にナイフを持って、イドメネオ様の仇、と叫びながら切りかかって来る。が、亡霊なので、躯を通り抜けてゆく。そんな悪夢のせいで、朝起きても躯の疲れは取れない。19日、晴。中央駅行き、車中。
一昨日、CGIL(イタリア労働総同盟・労組のこと)に出向いた。外国人労働者の担当責任者と話して、イタリアの法律では、学生ビザで所属している学校でも、一定の時間内(一週間20時間以内)ならば働ける事が判明。午後、Accademiaに行き、財団のVに改めて理由を問うと、口篭もった挙句、単純に財団が嫌がっている事が分かる。さて、これから労働局へゆく。久しぶりの澄み切った青空で、気持ちが良い。22日、曇。ベットにて。
昨日、労働局へ出向いて、過日財団が呈示してきた、新しいイタリアの労働条件に関する法律の情報を貰う。何と言うことはない、法律はまだ認知されていなく、よって新しい契約書内容も無効。このままでは契約は今月で切れるが、どうなるのだろう。
12月、フリウリのオーケストラから頼まれた、ハイドンの「奇跡」を、ミラノのドームの前の石段に坐って暫く読む。毎日、やれ法律第何条だの、労働局の新回覧要項、第何項など、そんな話ばかり繰り返していると、こうして無心で楽譜を読む時間が本当に愛しい。ハイドンの楽譜を開く度、宝石のように輝いて見えるのは、こんな殺伐とした毎日だからか。勿論、それだけではないだろう。宝石の輝きだけでなく、子供の玩具箱を眺めるような安らぎが心をほぐしてくれる。23日、ベット。
昨日、財団のVより契約を10月一杯で打切るとのメール。契約更新に関する打開策がないからと言う一方的な理由。音楽院長から、Accademiaはお前を見捨てる事はないとメールがあるが、かと言って、どうなるものでもない。現在まで学校のオーケストラを仕切って来たDが、財団との個人的なコネクションで物事を秘密裏に進めてきたお陰で、今になって全ての問題が噴出している。尤も、この構造が変わらない限り、イタリアの典型的悪循環は何も変わらない。結果として悪い目ばかり見させられるのは、一番の弱者、つまり生徒達に他ならい。Marisallaより、労働省から新しい回覧要項が発行され、労働ビザ書換えの新規受入れ数が内密に発表された旨電話。明日、早速労組に電話してみようと思う。Pから電話で一切の顛末を話すと、財団が一度決定した事を覆せるかどうか、悲観的。26日、快晴。モンツァ駅。
昨日の演奏会は成功。国営放送のラジオが入るので、GPをしっかり準備した甲斐あって、5曲の新曲、それぞれ、本番は安定した演奏になった。演奏会後、作曲家達は一様に喜んでいたが、あれだけ練習したのだから、そりゃそうだろうと内心呆れる。
本番前日、オーガナイザーのLから電話。新作で面白い曲はあったかしら、と言われ、言葉に詰まる。皆、なかなか良いですよ、と答えると、つまり、その程度なわけね、と答えられてしまい、改めて言葉に詰まった。まあ良いのよ、正直に言ってくれて、との言葉を押し頂き、互いに苦笑しつつ電話を切る。作曲家達から後日、一様に丁寧なお礼のメールを貰ったので、終り良ければ全て良し、というところか。
さて、後数日で滞在許可証も切れ、Accademiaの契約書も切れる筈だが、これからどんな展開にあるのだろう。外国に暮らすストレスを比べると、日本が改めて恋しくなる。冬時間に戻って、急に底冷えの感があるが、さて、気のせいだろうか。
(10月31日 モンツァにて)
10月1日夜、雨のデュッセルドルフに着いた。
成田を発ってパリ経由でここまで、機中は見事なほどの満席だった。その上パリでの乗り換え時間がたいへん短く、荷物を持って走ったり人にぶつかったり、あやまったりで汗だくのまま、これもまた混んだ、しかも今回は小さな短距離便に乗せられたから、デュッセルドルフに着いた時は、まず外に出られたことに大きな開放感を感じた。飛行機の中からは外へ出ず、直接空港構内に入れるシステムが最近でほとんどだが、時たま“タラップを降りる + バスに乗る + 到着ビルに着いてまた階段を登る”というケースがあって、普段ならブーブー文句を言いたいところ、でもこのときはタラップで冷たい外気を胸一杯に吸い込み、空を仰いで雨で顔を濡らし、「あ〜、やっと着いたねー!」と我々夫婦はほっとする。ダンナは身長188cmさらに西洋人特有の足長だから、その開放感はさぞかし大きかっただろう。空港ロビーに入ると、そこは静かで明るく、どうしたら床がこうもピカピカに光るのかと思うほど清潔。人々の歩き方はとてもゆっくりで、アナウンスの声は、これも静か、女性の声だが低く落ち着いている。荷物受け取りの場所にたどり着くと、成田で預けたトランク3個、すでにベルトの上でぐるぐる回っている。人々の動きはゆっくりなのに、荷物の移動は早い。「早いわね〜、それにあの短い乗りかえ時間でよく荷物まで間に合ったわね。」と2人で感激。税関検査もなく、飛行機を降りてから15分足らずで、もうタクシーに乗っていた。8週間もドイツを留守にしたのは初めてだったので、何となくヘンな感じがした。というのは普段なんだかんだ些細なことでドイツ人やドイツの悪口を言う自分が、「あ〜、ここは実にいい!」と感じたから。
回りがドイツ語なのも何故か落ち着く、というかこの言葉、響きも内容も本当にわかりやすく、一度聞けばすぐわかる。これが日本だと私の場合、買物や駅やホテルなどで「えっ?」と相手の言うことが理解できず、困ることがとても多いし、気をつけて歩いていても、しょっちゅう人にぶつかる。しかしヨーロッパに戻っての“満足な時間”も、そう長くは続かなかった。
翌々日デュッセルドルフからラントグラ−フに戻ってきた。このオランダの田舎町には11年前から住んでいるが、2人の演奏家が平均的な収入を持って24時間音楽できる空間というのは、こんな田舎までこないとなかなか見つからない。でもまあ裏は森で空気はいいし、高台にあるので空も大きく、最近増えてきた“洪水”の心配もあまりない。何よりどんな大音響を出しても苦情は絶対に出ない。だから都会からは遠くても、けっこう暮しやすい。しかし楽器や絵画のために、温度&湿度は人間がいない時も、一定の数字に保たれている。
これが演奏家のみならず、動物にとっても“暮しやすい”環境らしい。
テン、雉、鶴、カモメ、モグラ、針ねずみ、リス、10種類以上の野鳥、かたつむり、カブトムシ、ねずみ、蜂、熊蜂、トンボ、犬、ネコ、うさぎ……みなさん、ここが“我が家”と思っているらしい。8週間以上も留守をしていたというのに、お隣のカーター(オス猫)が早速やって来た。ガラスドアの向こう側から中をのぞいている、その姿の可愛いこと。
郵便物、ファックス、留守電、いずれも山のようにあるのに、まずはおすちびくんと遊ぼう!と中に入れ、餌をやって、ブラッシングして、KitBitゲームをして、じゃれさせて、カーターのほうも、それはそれは嬉しそう!そのうちメス猫のコッツェも来た。この猫はスマートで別嬪なのにいつも空腹、ペチャペチャ音をたてながら餌をガツガツ食べる。この日も大きな缶をペロッと平らげ、カーターとの対面は極力避け、早足でダンナのほうに甘えに行った。夜もふけて2匹はまた外に出て行ったが、この頃から何となくあちこち痒い。
夜中の2時ごろ、痒くて目が覚める。バスルームに行って見ると案の定、首に何箇所か虫刺されの傷がある。ふと足を見るとこちらはもっといっぱい刺されている。悪い予感がしてパジャマを脱いでみると、あっ! すごい、腕の付け根に点々点々、お腹に、腿に、ひざ裏に、数えてみたら32箇所も。いったい何に刺された?噛まれた?のだろう。虫刺されの薬を縫って様子を見たが全く効かないし、3日もたつと傷は赤く腫れ上がって炎症を起こし始めた。心配になったのでドルトムントでの大学授業終了後、皮膚科に行った。医者は見るなり「あ〜、カッツェン・フロー(猫の蚤)ですね。」と。「猫や犬につく蚤(ノミ)は人間には普通つかないが、“間違って”人間を噛むことがある。それは数秒の出来事、一瞬にしてあちこち噛まれる。さらに蚤は麻酔効果を持って噛むので、いつ噛まれても人間は気がつかない。そして“痒い”と感じた時には蚤はもういない。」と、これ医者の話。う〜ん、“間違い”だったら、もう来ないだろうと、少しほっとする。塗り薬と飲み薬を1階で購入するように言われ、その薬屋へ降りていくと、ちょうど“創立500年記念”を店内で祝っていた。従業員全員が、中世の服をまとってシャンペンをお客にサービスしていたから、私も喜んでいただき「乾杯!」なんて心にもないことを言ってしばらくそこで飲んでいた。サービスカードとか食器とか化粧品とか、長居したぶんプレゼントも沢山もらい、ほろ酔い気分で帰宅。早速“痒み止め”の薬を飲もうと説明書を読んだら、アルコールと一緒に服用すると、場合によってはセントラル神経系にトラブルが生じるとある。「こんな恐ろしい薬は不要!」とすぐ引き出しにしまい、仕方なくこの夜も痒みには、“耐える”しかなかった。それから一週間後、ペットショップで植物性の“蚤退治スプレー”と猫の首につける“蚤防止バンド”を買い、木曜日再びラントグラ−フに戻ってきた。カーターにこのバンドをつけたら、ちっとも嫌がらず白と緑色の首輪が似合って、すごく可愛い。(飼い主がどう思うか心配だが、誰よりも猫本人が蚤の犠牲者なのだから、と付けさせていただいた)居間、寝室、絨毯等をスプレーし、窓とドアを閉めて数時間。その後空気を入れ替えることまた数時間。掃除機をかけて「これで大丈夫でしょう」と一安心。
しかしその翌日……、腕に2箇所新しい噛傷。数分後、足にも赤い点々。
「蚤は生きていたのだ! そして私(人間)をまた噛んだのだ。今度は復讐?
あ〜怖い……」と震える。着ている物は全部脱いで洗濯機へ放り込む。そしてまたまたスプレーをシューシュー!土曜日になると噛傷、さらに増える。どうも敵は私を人間と知って、あえて噛んでくるらしい。日曜日になると、胴の回りになんと赤い点々が数珠のように連なり、ダンナも唖然としてそれを見る。2日前の傷は腫れ上がり、それらは“痒み”をこえて、もう思考力ゼロの状態。この時点で蚤の噛傷すでに数限りなく、55箇所まで数えてやめた。
「これ以上ここにいたら、蚤に噛み殺されてしまう」と、夜になって荷物をまとめ、大急ぎでデュッセルドルフに逃げた。月曜日、今度は植物性なんて甘いものではなく、ケミカルの“蚤退治スプレー”を購入。ダンナは一箇所も噛まれていないからスプレーを嫌って「臭い、気持ち悪い、息苦しい」と苦情を言うけど、「蚤退治のためには仕方ない行為、許してください!」とお願いする。この日「敵に勝つには、まず敵を知ること」の言葉をふと思い出し、本屋に『蚤』に関する本を買いに行く。
ところでドイツ語で『蚤』のことをフローという。変換して出てくる漢字を見て驚いた。浮浪・不老・不労・降ろう・振ろう・どれもこれもお似合いの字。全くイヤになってしまう。さらに薬屋でAutanという虫刺され防止用の体に塗るローションを買う。我が家へ帰るというのに何と面倒なこと、何と出費の多いこと。そして昨日金曜日、再びラントグラ−フに戻ってきた。カーターはすぐやって来たけど、もうだっこしたり、撫でたりしないから、とても不満そう。ニャ−ニャ−言いながら私を見上げる。かわいそうだけれど今は非常事態だし、負傷度はすでに“高”なのでカーターは無視し、帰宅するなり音楽室に飛び込み(ここに蚤はいないらしい)体中にAutanを塗って、何とか無事一夜が明けた。
しかし敵はまだ近くに潜んでいるかもしれない。
目に見えないほど小さいから、よけい不気味だ。(2002年10月26日 ラントグラ−フにて)
「ここでは月曜日と木曜日に結婚式をすることになっているんだ。それがしきたりさ」
今日は45組のカップルがシェラトンとメリディアン(イラクではイシュタールホテル、パレスチナホテルと別の名前がついている)で式を挙げたという。
トランペットと太鼓が景気のいいリズムを奏でる。一時期は、経済制裁の影響で結婚式も控えがちだったそうだが、随分と派手にやっている。ともかく昼間はサダム・フセインの新しい肖像画の除幕式、夜はこうした結婚式と、この喇叭屋と太鼓屋は大繁盛している。結構トランペットがうまかったりするのでこういうお祭りも見ごたえがある。
サダム・フセインの100%信任にあやかり、結婚祝い金が支払われたとのうわさもある。
地元の新聞には、この日だけで、50,000組のカップルが5星ホテルでの2日間の宿泊とお祝い金を受け取ったという。「結婚式? 囚人釈放のお祝いさ! 新郎新婦の格好をしていて実は釈放された囚人だ」
といって笑い飛ばすのはテレビの修理をしているサイードさんだ。
サダム・フセインは100%を達成したお礼に、刑務所にいる囚人全員に恩赦を与えて釈放してしまった。刑務所は空っぽだという。
もう笑いが止まらない。
「なぜかって。我々はサダムを愛しているし、そしてイラクを愛している。そして戦争が始まったら、アメリカは原爆を落とすんだ。もう笑いが止まらないよ」
湾岸戦争では真横をトマホークミサイルが飛んできてすぐそこの電話局に着弾したという。しかも、ビルの谷間を練って、見事に命中した。
「たいしたものさ。神がすべてを決める」
「逃げないのかって? ここは俺たちの土地。アメリカが出て行くべきだろう。子どもたちはどうなるのかって? すべては神が決めることさ」
空爆が始まったら150万人の難民が出ると予想している人たちがいるが、イラクに残っている人たちの決心は固いようだ。神への信仰と、国家への忠誠と個人崇拝が複雑に絡み合って、彼らの強い意思を固めている。といいたいところだが結構短絡的に結びついているような気もする。(バグダッドにて)
音楽をきく。今日きいた音楽を書きだしてみる。朝起きて仕事関連で「ゴールドベルク変奏曲」を2回、シューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」はCDを探していて目に留まってかけた。あまりにも現代的で激しい表現にこれはだめだと思って止めた。12時にでかけて帰ったのが夜9時過ぎ。それから韓国の作曲家ヒョーシン・ナのCDと、これに関係する韓国の伝統音楽「シナウィ」を含むアルバムをききながら、ときどき大正琴で即興的につけたりした。あとはこの日買ったヨシフ・ブロツキイの「私人」を読みながら伝統音楽を風景のように流していた。今日あった友人が「最近は好きな音楽だけをきく」といっていた。かれはすこし前まで音楽関係の仕事をしていた。でも嫌いな音楽や業界とは関わりたくないと思ってこの仕事を辞めた。だから今は幸せなのかもしれない。晴れやかに「健康になりました」。
仕事で音楽をきくのが苦痛か、といわれればそういうときもたしかにある。いつも気分が一定ではないし、体調不良のときだってある。もちろんつまらない曲もある。クセナキスは自身の作曲について「運命の試練に耐える、存在への問いかけ」といった。運命までは感じないが、たしかに「存在への問いかけ」ではあるかもしれないと思ったりする。
ヨーロッパ音楽をながく学び、ある程度の演奏技術、分析方法、そして音楽のきき方を身につけた。きき方というものはだいたい2つくらいある。はじめてきく現代音楽のような場合は、とくに構造的にどうできているかを探る自分がいる。どういう要素があり、どう音が絡んで時間をつくりだしているか。もうひとつは全体の響きや音色をきくやり方で、こちらは音楽の全体の流れにそってきく。(ミクロとマクロのちがいは音楽の時間感覚をおおきく変える。ミクロは音の綾をきくから時間が長く感じられ、マクロの方は響きや音色だから時間はみじかく感じられたりする)。
人がどうやってきいているかは分からない。2つに分けてもそれをどう使い分けているがを厳密に認識することはできない。でもきく目的がはっきりしていればきき方も変わる。「ゴールドベルク変奏曲」はシトコヴェツキーによる弦楽三重奏版だから声部に注目し、3人が2声の対位法をどう処理しているかに焦点をあてる。これはミクロ・タイプ。シューベルトは曲よりも響きや全体のバランスが中心だからおおよそマクロ・タイプ。ヒョーシンの音楽は韓国の伝統音楽と深い関わりがあり、とくにシナウィの楽譜のない即興から互いにききあい、バランスを量るやり方を彼女の音楽と比較する。これは2つのタイプを行き来しながら、マクロに音をききながら大正琴で音をだしてためしてみたりもした。
ヒョーシンが「作曲家の旅日誌」で、伝統音楽を知識や理屈で勉強することは、「乗りもしない身分証がわりの運転免許をとるようなもの」と書いていた。そして「知識の障害なしに、伝統音楽を直に学ぶこと」で彼女は音楽への考えを変えた。これは自分自身ガムラン音楽をすこし学んで、おなじようなことを実感し、それはある種の洗礼であり、ヒョーシン同様、西洋音楽からの「脱教育」でもあった。
いつも新しい音楽を探している。クラシックや現代音楽だけでなく、いろいろな音楽をきき、書物からも学び、ときには音に直接ふれてもみる。この意味でヒョーシンの音楽や思想は韓国の伝統音楽でも現代音楽でもない、まさしく新しい音楽との出会いだった。ジャンルを越えて音楽という森に分け入り、探索する魅力はこうした出会いの誘惑があるからだ。その秘密を探ろうといつも感覚と知性の帆をいっぱいに張っていたいと願っている。友人ならいうだろう。「それは病気だね。」 だからかれのように、健康にはなれそうにない。
ここでは、私が学んでいるインドネシアのジャワ島中部にある古都・ソロ(ソロは通称で、正称はスラカルタ)の様式の舞踊について書く。ジャワ島中部はマタラム王国が栄えた所だが、1755年に同王国はスラカルタ王家とジョグジャカルタ王家に分裂した。以降両王家は競い合ってそれぞれの芸術様式を打ち出したので、ジャワ舞踊と総称されても、両都市では様式が異なっている。ソロ様式の舞踊では、舞踊作品を教える前に、基本的な動きを取りだして教えるラントヨという教授法がある。バレエほど複雑ではないにしろ、ラントヨでは姿勢や体の各部の動きを分解して1つずつ教え、それぞれに名前もつけられている。
私の乏しい知識では、民族舞踊で基礎練習があるというのはあまり聞かない。インドネシアでもソロ様式の舞踊だけで、バリ舞踊やジョグジャカルタ様式の舞踊などにはない。また日舞でもないという。それではどうするのかというと、初心者にはこれという作品が大体決まっていて、それをいきなり習うのだそうだ。技術的に容易だから、あるいは難しくとも基本的な振りが全部含まれているからということで、その作品、となるらしい。
ラントヨというのは、宮廷舞踊家にして1950年に設立されたコンセルバトリ(現在の芸術高校)の最初の舞踊教師・クスモケソウォ(1909〜1972)が編みだした、ソロ様式の舞踊のための基礎練習法である。ここで付け加えておくが、ソロにも様々な系統の舞踊がある。しかし、基本的にソロ様式と言えば、宮廷で発展した舞踊やそのテクニックを用いて作られた舞踊のことである。したがってラントヨでは宮廷舞踊のボキャブラリーを学ぶことになる。
クスモケソウォは1950年前後にまずラントヨ I を作り、しばらくしてからラントヨ II を加えたという。それ以降現在に至るまで、芸術高校でも芸術大学でも最初の学年ではラントヨが必修とされている。ソロ様式の舞踊には女性プトリ、男性優型アルス、男性荒型ガガーという三つの基本的な型があり、それぞれにラントヨがある。ラントヨの語源はわからないが、アジャラン・トヨ(アジャラン=教え、トヨ=舞踊、舞踊の教え)という語からきていると言う人もいる。
ラントヨで画期的なのは1、2、3……と拍を数えることを始めたことである。これは楽譜の成立などとも関係があるのかもしれない。実はラントヨの成立以前からラントヨ I に似たタユンガンというものは存在した。昔は生徒が集まるとまず音楽に合わせてルマクソノの練習をした。練習場を皆で輪になって廻り、これをタユンガンと呼んでいたという。その頃の舞踊教師というと、「はい、ここでクノン/ゴング」というように節目楽器が鳴る位置を教えていただけだそうだ。
さて、ソロ様式の舞踊作品はいろんなスカランをつなぎ用の振りでどんどんつなげていくという作られ方をしており、そのつなぎの振りは必ず音楽の節目で使われる。スカランとは一まとまりの振りのことで、その長さは8拍、16拍、32拍……とまちまちであり、繰り返すことも可能である(繰り返さないものもある)。またスカランの多くやつなぎの振りには名前がつけられている。
ラントヨ I では、まず基本のルマクソノ=足運びを学ぶことが重要である。それには手の動きもつける。同じ足運びでも手の動きには何種類かバリエーションがあって、女性舞踊の場合だと最初は右手だけ、次は左手だけ、次は両手を動かす……というように徐々に難しくなるように作られている。そしてつなぎの振りを何種類か学ぶと、歩いてはつなぎ、歩いてはつなぎ……を繰り返す。
ラントヨ II になると、スカランを学ぶ。ラントヨ I では足と手の動きだけだったが、そこに胴の動きが加わってより複雑になる。I で習ったつなぎを使って、スカランをやってはつなぎ……を繰り返す。
ラントヨでは普通、伴奏に周期の短いクタワンという形式を採用する。曲は何でも良い。ガムラン音楽は周期構造を持ち、クタワンだと16拍で1周である。周期の短い曲だと節目がすぐに回ってくるので、練習がしやすい。ラントヨでは何を何回繰り返すかは決まっていないが、つなぎの振りは必ず曲の節目で使わねばならないので、つなぎにうまく入れなければ、曲がもう1周するのを待って入ることになる。このような練習を通じて、基本的な振りを習得すると同時に、音楽にどのように振りを当てはめていけば良いのかも学ぶのである。
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