2002年12月 目次


イラク最後の日                佐藤真紀
ぼんやりと、ただ外を眺めて          三橋圭介
しもた屋之噺(12)             杉山洋一
ZOALS EEN WATER-BUFFEL         御喜美江
ジャワ・スラカルタの伝統舞踊(1)宮廷舞踊  冨岡三智



イラク最後の日  佐藤真紀




ネダはともかく立派に仕事をこなしてくれた。彼女は画家の癖に絵はそれほどでもない。それでも高く売りつけようとするので、みんなの顰蹙を買っている。彼女の一流の腕前はむしろハエたたきの腕前である。その辺の雑誌をくるくると丸め、ばしんばしんと机をたたく。するとかなりの確率で机にはハエがこびりついているという有様。時にはその辺でお絵かきをしている子どもの頭をバシンとやる。なんと見事なものだろう。それにしてもなんとハエが多いのか。ネダが暴れまわって、どんどん殺していくのにとこからとも無くやってくる。「ハエは私を怖がって寄り付かないわ」とネダは得意げである。おかげで私はハエに囲まれぱなし。

10月31日
今日は朝から雨が降ったりやんだり。
昨日の数滴で終わった雨とはことなり結構降った。タクシーでシンドバッドセンターへ向かう。ワイパーなんて壊れてしまっているから雨水で前が見えない。
「見えるか? 見えるか?」運転手はポンコツ車で得意そうだ。ぼろ布を取り出しては信号待つついでにフロントガラスを拭きに降りていく。後ろからはクラクションがけたたましい。

11月1日
バグダディーアホテル。このおんぼろホテルに私は2週間も滞在した。そこの連中はクルド人だったが、一言で表現すれば“いいやつら”だった。ホテルに泊まっていただけなのだが、「今日で最後だ」というと本当にさびしそうな顔をして「今度はいつ来るんだい? もう来ないのか」と聞いてくる。イラクなんてそう来るもんでもないから下手するとこれでもうおしまいなのかも知れない。
朝日もさわやかに、バグダッドを出発したのは良かったのだが、1時間もしないうちにタクシーのギアが一速しか入らなくなってしまう。仕方なく引き返し、違うタクシーを見つける。今度は調子よく1時間走る。バグダッドの郊外に出たところで今度はラジエターが故障してしまった。直すこと1時間。「こりゃダメだ」バグダッドに戻ってまた違うタクシーを捜す。今度こそはがんがん飛ばして、5時間かけてシリア国境にたどり着く。とっぷり日が暮れてしまった。「ガソリンがない。悪いけど国境は越えられない」
私は、車を降ろされて、タクシードライバーが交渉して別の車に乗せられる。なんとその車は密輸品を満載したトラックだった。さんざんな思いをしてようやくシリア側に入ることができた。アブ・カマルという国境の町には、ホテルなんてないという。「ないことはないが、とっても汚いホテルだ。やめたほうがいい」といわれても、夜の10時を過ぎてへとへとになってこれから一体どこへ行けばいいのだろう。唯一見つけたホテルも部屋が埋まっているという。待合室にマットレスを敷いてもらって何とか眠ることができた。

さて、日本に帰ってきて、イラクの人々の様子を伝えようとしたが、マスメディアはスポンサーのことを気にしている。「サダム・フセインのことを褒めるような記事は載せられないのです」
「いや、僕はサダム・フセインのことなんかはどっちでも良くて、子どもたちの笑顔を伝えたいのです」
「それは、サダム・フセインの戦略ではありませんか?子どもをもってきてイメージを良くしようとするという……」
日本のマスコミは、攻撃のために、イラクの悪いイメージを作ろうとしている。
「しょうがないんです。アメリカのことを悪く言うとスポンサーが降りてしまうんです」
マスコミ関係者も相当イライラしている。
日本もあぶない。



パソコンで握手! 世界の子どもたち

世界の子どもたちが描いた自画像と、日本の子どもたちが描いた自画像をパソコンの上で握手させてみよう…… JVCの活動地の子どもたちと日本の子どもたちがお互いの存在を知り、動き始めました。今回はカナダ、イラク、パレスチナの現地報告の他、朝鮮半島やタイ、南アフリカの子どもたちの作品も用意しました。この活動を通じて、あなたも子どもたちの平和を願う心をのぞいてみませんか?
                  

日時:2002年12月4日(水)19:00〜21:00
場所:文京シビックホール3F会議室1
   地下鉄三田線「春日」地下鉄丸ノ内線・南北線「後楽園」
   降りてすぐ
   JR総武線「水道橋」
参加費:800円


主催:特定非営利活動法人日本国際ボランティアセンター(JVC)
(担当)中山 ikuko-n@jca.apc.org
Tel:03-3834-2388 Fax:03-3835-0519
URL:http://www1.jca.apc.org/jvc 




ぼんやりと、ただ外を眺めて  三橋圭介




ヨーロッパの前衛とは一線を画し、ポーランドの主体的な実験精神を体現したトマシュ・シコルスキの「ぼんやりと、ただ外を眺めて(ZERSTREUTES HINAUSSCHAUEN)」(1971)。これはカフカのことばにもとづいて書かれたひとつの音の風景。

曲はおおきく3つの部分からなる。最初のAは跳躍する不連続な3つの音のまとまりをffとppで交互にくり返す。進もうとするff、影のようにまとわりつくpp、ffは影にじゃまされて身動きができない。行ったり来たりをくり返すが、けっして3つの音からでることはない。ながい沈黙のあと、装飾音をともなう静かな山なりの音形が、沈黙をはさんで9回(B)。そしてふたたびABをくり返す。最後のCはハーモニクスを伴う強度の音の房(クラスター)が10回演奏されて曲を閉じる。

この曲に展開という概念はない。ただ音の身振りがくり返される。それも徹底的に切りつめられた身振り。それは3つの領域を形づくる。3つはバラバラに置かれているのではなく、相互に浸透しあって内的な時間をつくる。そこからひとつの解釈を示すなら、「掟」の男と門番の対話のような、答えのない問いかもしれない。

田舎からきた男は何度も掟の門に入ろうとするが、門番に止められる。門が無限に連続して掟への参入を阻んでいることを門番から知らされる。ただ問いをくり返す男は衰弱しながら、むなしく待ちつづける。「ぼんやりと、外を眺めて」は、問いかけ、そして待つ男のように、その虚ろな眼差しがの向こうには、目には見えない壁が立ちはだかっている。問いかけ、拒絶され、衰弱し、最後にすべてを断ち切る強度のクラスターの共鳴が終わりを告げる。カフカは書いた。「ゴールはあるが道はない。われわれが道と呼ぶのはためらいのことである」。



しもた屋之噺(12)  杉山洋一
                     

慌しいままに過ぎた10月が祟ってか、11月に入り家人が日本に帰った途端、持病のメニエル氏病が発症。仕事に手が附けられぬまま、ベットに横臥する毎日を送る合間に思った事などを綴ってみましょう。

ご存知の通り、メヌエル氏病とは眩暈と吐き気の病気で、数日間、水も食物も受け付けないので、ただ布団にもぐって寝ているしかないのですが、そうして見る夢というのが、当初は、両親と一緒に新宿中村屋のカレーを食べて大喜び等という他愛もないもので、要するに幼少期に戻っていたのでしょう。食欲旺盛な夢を見る位だから治ったかと思いきや、目が覚めると目の前の風景がふらついて見えるのは、どうにも情けないものです。

次の日の夢はもっと現在に近づいて、家人やら親戚が賑々しく登場しましたが、それどころか、血だらけのパレスチナ解放機構の兵士が、イスラエルの兵士に向かって、自分達は兄弟なのに何故、と呟いて息絶えてしまったり、東南アジアの娼婦が、末期のエイズなの、助けてください、とぼんやりした眼をこちらに見開く様等が次々と出てきて、前日の安寧な夢とのギャップに少々うんざりさせられました。

メヌエル氏病のせいなのか、こうした夢に翻弄された為なのか、ただ寝ているだけで眼球が困憊して、何度となく目薬を差しました。目が覚めている間は、大した薬も呑んでいないので基本的に頭はしっかりしているのですが、躯も動かせず、目を開けると眩暈で世界が回ってしまうので、じっと目を閉じ、頭の中で楽譜を開いて音楽を鳴らし、時間をやり過ごしました。こういうのは便利と言えば便利で、安上がりでもあるが、だからどうと言う物でもない、等と独りごちていました。

家人が弾いていたムソルグスキの楽譜を思い出しつつ、プロムナードの某は、転調か旋法と辛気臭い事を考えたり、あんな大胆な保続音を鳴らせる才気に改めて感嘆したり(かかる勇気はチャイコフスキにも無かった)、それでも時間は存分に有り余っていて、先日合わせたばかりのシェーンベルグの楽譜を最初から順番に思い返し、ああここも注意し損ねた、ここも悪かった、へ調の和音がどうしても聴こえないのは、某のカデンツの聞かせ方が悪かったからか(と、頭の中で膝を打ち)、忘れぬ前にメモしておこうと目を開け、そのまま布団にひっくり返ったりする有様で、ストレスを忘れゆっくり静養せよ、というメヌエル氏病治癒の訓示とは、凡そかけ離れた毎日でした。尤も、傍から見れば、日がな存分寝ているだけなのですけれども。

何度となく頭に甦って来たのは、リパッティが弾くショパンの協奏曲で、特に第二楽章の静謐な演奏を思い起こすと、涙が込み上げて来ます。どうやったらあんな風に音楽が出来るものかと溜息がこぼれるものの、結局どう足掻いても自分に出来る筈はないとも思い、却って虚しくなります。いわゆるピアニストのロマンチシズム、センチメンタリズムを取り除いて、音楽の真実を丹念に磨いてゆくと、こんなに豊かな響きが生まれるのかしらと考えたりしました。
昨年、この協奏曲を勉強した頃は、オーケストレーションの悪さにびっくりし、足場を失った和音連結の浮遊感に(ワーグナーのそれとは根本的に意味が違うので)戸惑ったものです。マクロから眺めると、ショパンの音楽には何かが欠けているような気がしますが、一つ一つの(特にピアノパートの)フレーズを絡め取ろうとすると、途端に現れる瑞々しさとスケールの大きさに驚かされるのです。リパッティは、対極的な二つの点からこぼれた光線が、かすかに交わる一点を見事に見極めて、そこに佇んでいるように思えるのです。

それはともかく、一体何の因果でこんな地の果てに、独りで布団に横たわっているのか、流石にしばし考え込みました。イタリア人になりたいと思った記憶など一度もなく、常に自分とかけ離れた人種の中に暮らす意識が覚醒していて、それにも関わらず、ここで布団に伸びている自分が居る事を、改めて感慨深く思うのです。

今の所、持病から難聴になる兆しもなく、溜飲を下げましたが、でもこれで耳が聴こえなくなったら、漸くのんびり作曲をする時間も取れるかしらと、少々嬉しく思ったり、でもそれまでに多少の蓄えはしなければ干上がってしまうかと怯えてみたり、尤も全く何も聴こえなかったら、作曲しても詰まらないかしらと思ったり。時間があるというのは、色々と思いが駆け巡らせられて、それはそれで乙なものですし、何もするなと言われても、一寸した禅修業の様で、凡人にはなかなか達成出来ません。

ただ、こうして病気に乗じていると、本当に病人になってしまう、大した事はないのだから、さっさと起きて普通の生活をしよう、と躍起になるだけ、躯が明確な拒否反応を示します。こうして具合が悪い時に限って、仕事付き合いで大事な人から電話がありながら、声らしい声も出せず困ったりしました。人間はたったの丸二日、たかだか48時間呑まず喰わずで居るだけで、これだけ力がなくなるものか、とびっくりしたものです。三日目に日記を数行書こうとしたのですが、鉛筆を持つ手に、全く力が入りませんでした。尤も、食べていない為に躯が消耗しているのか、メヌエル氏病だから消耗しているのかの見分けもつかず、ただ、未だ食欲が湧かぬ自分を気持ち悪がっているだけでしたが、当人としては食欲よりも寧ろ、風呂にも入らず、病人然と無精髭が伸びているのが耐えられず、食事より先に風呂に駆け込んだのは、今となっては懐かしい思い出です。

こんな毎日が、後何日続くことやら。譜読みを待つ楽譜ばかりが積み上げられてゆくのを見ているだけで、症状は悪化しそうですが、譜面を開いても目がすぐに疲れてしまって、捗らないように思います。音楽家は体が資本だと、痛感させられる今日この頃です。

(11月11日 モンツァにて)




ZOALS EEN WATER-BUFFEL  御喜美江

11月1日、オランダの古都ブレダでソロリサイタルをした。
この町はブラバント地方の州都でベルギーに近く、人々の気質はのんびり、明るい。とても美しい町なので友人のアニタ&ベアト、ゲオルク(夫)も一緒に来た。ブレダには午後4時半に到着、コンサート開演は午後8時15分なので時間はまだたっぷり、そこで3人は「ちょっと旧市街をぶらぶらして、夕食でも食べてくる」と出かけていった。私はいつものとおりホールでリハーサル。本番前は“それしかしたくない”私の貧乏性に「シャーデ、シャーデ……(残念、もったいない……)」と仲間は言ったけど、でも誰もいないホールで一人静かに行うリハーサルが大好きなのだ、本当は。

アニタは、もう10年以上も我家で食事作り以外、家事のほとんど全てをやっていくれている元気で優しい女性。今年55歳かな。留守の多い我家に毎日姿をあらわす唯一の人。身長は180センチくらい、体重は90キロを越す。「健康だけが私のとりえよ」といつも言う彼女に10月、乳癌とリンパ癌が発見された。手術は11月3日。ベアトはアニタの夫。「しばらくは楽しい生活から遠ざかるから、その前に一緒にブレダに行きたい」と言われ、でもどう見ても超健康なその体格を、信じられない、たまらない気持ちでしばらくながめてしまった。そしてクラシック音楽なんてほとんど聴かないこの2人、はたしてブレダが“楽しい時間”になるのか心配で、正直のところ「どうしよう……」と困ってしまった。

以前にも書いたが、11年もオランダに生活していて、私はオランダ語を全く話せない。オランダ人は語学の天才で、誰でも最低2ヶ国語、平均4ヶ国語は完璧に話す。相手が外国人だと決してオランダ語では話しかけてこない。「オランダに住んでいるんだからオランダ語を話せ!」なんて一度も言われたことないし、下手なオランダ語を喋られて理解に苦しむよりは、英語かフランス語かドイツ語のほうがいい、みたいに感じていた。だからオランダ語の教材は買ったけど、埃にまみれて、そのうち消えた。

でもなぜかブレダのコンサートを前に、『水牛』の歌をオランダ語で語りたいな、と思った。そこでウェンディー・プサードの原詩(英文)をオランダ語に翻訳してもらい、標準語を話すベアトに発音の特訓を受けた。しかしこの“発音”が大変難しく、喉を使った子音や、喉を鳴らしながら“R”の発音をするなんて日本人の口には至難の業に、誰がこんな発音を言葉にしたのだろう、と苦労をした。

この日のリサイタルは、第2部のはじめが、高橋悠治作曲 『水牛のように』だった。
演奏するよりもっと、もっと緊張しながら、私はオランダ語の詩をゆっくり読み始めた。

"Zoals een water-buffel"
Woorden worden geboren uit menselijke angst
Uit tranen groeit de muziek
Ik kan niet uitleggen hoe vrijheid klinkt
Maar als ik het hoor, herken ik het.

Onze broeders werd de vrijheid ontnomen
Onze zusters treuren iedere dag
Wij reiken hen onze hand
Hoewel liefde sterk is, kunnen we hen niet bereiken
Daarom zingen we hun lied.

Een lied is een vraag en een herinnering
En heeft geen grenzen in zijn betekenis
De betekenis van de herinnering hangt af van jou
Het antwoord op de vraag is zoals jij je gedraagt.

Samen zingen we een lied, wandelend over de weg
We naderen het einde, hebben het warm en koud
Stoppen en gaan weer verder
Maar het lied gaat altijd door....
Zoals een water-buffel

(原詩:Wendy Poussard, 訳:Bert Vonk)


このあと拍手が数分、鳴り止まなかった。
それは詩の素晴らしさにおくられた拍手だろうけれど、でも必死でオランダ語を喋った外国人に対するご褒美の拍手でもあったみたい。オランダ人がこんなに喜ぶとは思ってもみなかったので私はとても驚き、また嬉しかった。しかしそのあと『水牛のように』を演奏し終えたときは、静寂がホールを包んでいた。うんうんうなずく人や涙ぐむ人がステージから見えた。コンサート後、楽屋に入ってきた夫に「どうだった? よかった? うしろまで聞こえた? 意味わかった?」と聞いたら、げらげら笑うので「そんなにおかしかった?」とちょっと不安になったら「ミエちゃんがそんなこと聞くのはじめてだから」と。そう、演奏会のあとで自分から積極的に感想を聞くなんて、やっぱりちょっとおかしいな。でも全然自信なかったから……

アニタもベアトもこのコンサートがとても気に入ってくれてなにより! 心底ほっとした。
同じプログラムで2週間後に再びリサイタルをしたが、ブレダほどのバカ受けはしなかった。ここもオランダだったがドイツ国境に近く、“オランダ語”の流行らない町らしい。

さて、3週間分の荷物を持って自宅を出た18日、カーター(オス猫)が家の中へ入りたがって、ガラスドアから覗いたり、ニャ−ニャ−鳴いたり、あれこれトライしてきたが、「ダメダメ、本宅へ帰りなさい!」とドアのところではっきり言ったら、それがすぐ分かったのか階段を早足に下りていったので、ちょっとさびしい気持ちになってタクシーへトランクを運んだ。すると何とカーターはすでにタクシーに乗っているではないか。それを見た私は、カーターを日本へ連れていって、家族、友人、皆に紹介したいなと真剣に思った。この信じられないくらい賢く (本人はちっとも賢そうな顔をしていないからかえっておかしい)かわいい猫と一緒に演奏旅行をして、“アコーディオンと猫のための作品”を世界初演したら……、なんて本気で考え始めたが、でもタクシーの運ちゃんに、カーターはその努力もむなしく、いとも簡単に降ろされてしまった。そこで私の夢もカットされた。

その後の11月はバタバタ忙しく、気がついたら23日から日本にきていた。
それは29日に行われる“Cheers Casals Hall カザルスホールに乾杯!“に出演するため、ここでヴィオラの今井信子さんと 高橋悠治作曲『白鳥が池をすてるように』を弾く。1988年からず〜っと演奏会をつづけてきたカザルスホールとも、いよいよお別れか……

(2002年11月28日 東京にて)



ジャワ・スラカルタの伝統舞踊(1)宮廷舞踊  冨岡三智



クラトン(宮廷)で生まれ発展した舞踊の種類には「ブドヨ」、「スリンピ」、「ウィレン」がある。個々について述べる前に、全体の特徴について簡単に述べよう。

クラトンでは舞踊は王に捧げるものとされる。すべての舞踊は合掌に始まり合掌に終わる。これは王に対して、また神に対して祈る行為である。クラトンの舞踊で大事なのは、踊り手が自己を表現することでなく、己を無にすることである。したがって顔の表情で何かを表現することはない。

これらの舞踊はすべて群舞で、しかも同一の衣装を着用する。振付はきわめて抽象的、象徴的である。全員が同じ振付を踊り、しかも東西南北の4方向に同パターンの振りを繰り返す。スリンピやウィレンでは踊り手(偶数人数)はシンメトリーなフロア・パターンの数々を描き、そこに調和が表現される。背景となる物語はあったとしても、舞踊自体から感じ取ることはほとんどできない。完全な長さで踊ると約1時間かかり、その間に踊り手は瞑想しているような状態になる。

  ブドヨ

9人の女性による群舞で、儀礼的な性格が強い。9という数字は人体の9つの穴を暗示しているとも、また9人の描く様々なフロア・パターンは星の運行を表しているとも言われる。

ブドヨの本曲であるブドヨ・クタワンは、王と南海の女神であるラトゥ・キドゥル(代々の王を守護する)との出会いを描いており、年に一度王の即位記念日にのみ踊られる神聖な舞踊であり、いまもなお門外不出で様々なタブーがある。かつてクラトンでは、やはりブドヨと呼ばれる踊り手が幼少からブドヨを踊るためだけにクラトンで隔離して育てられていた。

一般に言うブドヨとは、この本曲に代えてブドヨ達が普段練習するために作られたものである。10数曲あったが廃れ、現在は3曲しかクラトンに残っていない。

ブドヨ独特の演奏形態として、楽器・クマナの使用が挙げられる。ティン、トン、ティン……と1対のクマナを交互に叩く音が延々と繰り返される中、男女の斉唱・ブダヤンが続く。一般的なフル編成ガムランはここでは使用されない。ブドヨ・クタワンでは全曲1時間半にわたってクマナを使用するが、一般のブドヨでは部分的に使われるか、または使われない。(古いスリンピの一部で使われるものがある。)南海の女神はクマナの音が好きなので、みだりに演奏してはいけないとクラトンの人は言う。なお、斉唱はスリンピでも使われるが、ブドヨという言葉に由来してブダヤンと呼ばれている。

  スリンピ

4人の女性による群舞である。王女達の精神鍛錬のために、また美しい所作を身につけるために作られた。王女としての心得を説く歌詞を持つものもある。現在10曲がクラトン内外で伝承されている。

スリンピの特徴は戦いを描いていることである。ピストルや弓での戦いの後、シルップと呼ばれる静かでゆったりしたテンポの場面になる。負けた2人の踊り手が座り、他の2人が踊る。その後元のテンポに戻ってまた戦いが繰り返され、今度は違う2人が座る。つまり戦いからシルップに至る場面は2回あり、2回とも全く同じ振付である。これは現実の戦いではなく、プラン・バティン(内面の戦い)を描いているという。交互に座るのはプラン・バティンには勝ち負けがないからだという。ピストル(オランダの影響)は実際に手に持つこともあるが、象徴的にサンプール(腰に巻いた布)の扱いで表すことが多い。またシルップの場面は彼岸を、その他の部分は此岸を象徴しているともいう。

(注)戦いの場面〜シルップという構成によらないスリンピが2曲ある。どちらも古い曲であり、これをどう考えるかについては今後の課題としたい。

  ウィレン

ウィレンは2人または4人(それ以上の偶数人数によることもある)の男性によって踊られる舞踊で、優型と荒型の両方がある。槍や剣、弓矢などの武器を持ち、戦いの練習や兵士の勇壮さを描いている。スリンピ同様現実の戦いを描いている訳ではなく、勝ち負けもない。

しかしウィレンでも、プティラン(舞踊劇の一部から抜き出した作品、科白を伴う)の影響を受けて登場人物が設定されているものがある。それらはかつてはウィレン・プティランと呼ばれたという。その例としてカルノ・タンディンが挙げられる。これにはカルノとアルジュノという兄弟が敵味方に分れて戦い、カルノが敗れるという物語が背景にあり、踊り手も両キャラクターの衣装をつける。しかし振付としてはウィレンであって物語を説明している訳ではない。そのためウィレンとして同一衣装をつけて踊られることもある。



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