2003年1月 目次


もうひとつのシャヒード            佐藤真紀
師走の光                   御喜美江
2003年・未来のこと            松井 茂
しもた屋之噺(13)             杉山洋一
ジャワ・スラカルタの伝統舞踊(2)民間舞踊  冨岡三智
猫に小松                   三橋圭介
非管理癖               もりみつじゅんじ



もうひとつのシャヒード  佐藤真紀




まもなく2002年も終わろうとしている。
いったい今年一年は何だったのだろうと、年越しそばでも食いながら考えてみるのであるが、ろくな年にならなかった。ちょっと古い話になるが、シャヒードという言葉を考えてみたい。日本語に訳せば殉教とか殉死という意味である。パレスチナでは、イスラエルとの戦いで死んだものは、自爆テロをおこなったものだけではなく、流れ弾が当たったりしてなくなった人も、もすべてシャヒードと呼ばれて天国へ行くことになっている。街中には、彼らの遺影が飾られる。時には銃を持ってポーズをとる民兵であったり、時には歩いていただけでイスラエル兵に殺された子どもたち。そしておなかを弾丸が突き抜けて行った生まれたばかりの女の子。もう僕はパレスチナにいてうんざりするほどこういった写真が街中に貼られているのを見てきた。

オムリ・ジャーダはシャヒードとしてこの世を去った一人だが、彼は特別だった。

2000年8月。ガリラヤ湖は、水不足で水位が下がっており、本来遠浅であったのが、うっかりしていると急に足が付かなくなるほど深みになってしまう。「オムリは急に飛び込みました。オムリは、子どもがおぼれていると叫ぶと50メートルくらい泳いでいきました。私はその後を追っかけました」
「オムリは背中に子どもを抱えて海岸へ向かって泳ぎだしましたが、流れが強く私が子どもを受け取った瞬間、波が彼をさらってゆきました」
オムリさん24歳はいとこのムハンマッドさん(26歳)と一緒に水泳にやってきていた。彼らはパレスチナ人で、カルキリアの貧しいハブレという村の出身だ。オムリは、子どもがおぼれているのに気がつき、飛び込んで救出に向かった。ムハンマッドさんも手伝ったが、男の子をオムリさんから引き受けたそのときオムリさんは波にさらわれてしまったのだった。救急車が45分後に到着しオムリさんを病院に連れて行ったが48時間後に彼は息を引き取った。一方助けられたのは6歳のユダヤ人の男の子ゴーシャくんだった。

オムリは 妻カフィヤさん23歳と3歳のマリック君、10ヶ月のヤッラちゃんがいた。そしてカフィヤさんは妊娠6ヶ月だった。オムリの家族は非常に貧しかった。14兄弟の長男であったが、十分に働ける年齢になっていたのは家族のうちでは父のアブデル・カリーム氏と本人のみであった。オムリは16歳のころから建築業としてイスラエル側に出稼ぎに行っていたが、イスラエルの会社は保険制度や年金制度を一切彼に適応することはなかった。

イスラエルは社会主義的な思想が建国時より強かったため、労働者の権利は保障されている。年金や保険、最低賃金も法律で定められている。そこでイスラエルの会社は、そういった権利を一切もたない、占領地のパレスチナ人を雇いたがる傾向がある。パレスチナ人の主な収入源は、イスラエルへのこういった出稼ぎだ。

オムリさんの葬儀には、多くの参列があった。近くの入植地、アルフェィ・メナシェからも大勢のユダヤ人がやってきた。オムリさんが助けたゴーシェ君は、母親に連れられて何度かオムリさんの遺族を訪れた。まだ6歳なので、多くは語りたがらないが、「オムリさんが僕を助けてくれたんだ」と繰り返していたという。
オムリさんのおじにあたるサムラさん50才は「彼がやったことは殉教である。なぜって子どもの命をすくったのだから。彼は、マホメッドに召されて、天国へ行くことができるでしょう」
ハブレという村は非常に閉鎖的であるから、女性が外に出て働くのは難しい。
「オムリは、子どもたちには、まともな生活をさせてやりたいと思っていました。息子には大学にまで行かせたいといっていました。でもこれから一体どうやって生活を支えていけばいいのか」

オムリの逸話は続く。
かつて彼がユダヤ人の家を直しに行ったとき、その家が、未亡人一人で暮らしていてあまりにも貧しいのに驚いて、お金をもらうのを断ったという。サムラさんは「おそらくオムリの死は、アラブ人とユダヤ人がともに平和に生きていくことを助けるでしょう。政治家がどんな決定をくだしても、人々はともに暮らしていかなければいけない。村びとたちはみんなオムリのことを誇りに思っています。子どもの命を助けたからです。それがユダヤ人だろうが関係ありません。ちょうどオムリが子どもを助けたとき、ユダヤ教のラビ、オベイダ・ユーセフは、「アラブ人はまるで蛇のようだ」といっていましたが、オムリが死んだ後、彼はわれわれが蛇じゃないことを悟ったでしょう」

結局それから2ヵ月後には、紛争が始まり、多くの人々がシャヒードとして死んでいった。イスラエルはテロリストも、罪もないパレスチナ人も一緒くたにして集団懲罰を加えている。このハブレという村も外出禁止令が施行され、人々は病院に行くこともできない。私たちも今年の4月に医師団とともに訪れた。

私はこのオムリさんのことを書いた新聞を今でも大切に取っている。もうすっかり黄ばんでしまったのだが、宝物である。イスラエルはもう一度オムリさんのことを思い出してほしい。




師走の光  御喜美江




カレンダーを見ると今日は12月27日。
昼食の片付けを終えて2階に上がってきた。外はもう薄暗い。暗い時間が長いと、人間あれこれ考えることが多くなるような気がする。ただじ〜っと座ってぼんやり何かを考えている自分を、一日のなかで幾度も発見する。汽車の中でも、ただ暗い外の景色を眺めていることが多い。でも「なに考えているの?」と聞かれれば「さぁ、なにかしら……」という程度のことで、つかみどころはない。要するに、ただぼ〜っとしている時間が増えたということだろう。何も考えないために考えている、とでも言おうか。
その割12月の予定表を見ると、今月はかなり忙しくしていたから不思議に思う。海外旅行も国内の移動もコンサートも多く、自宅にはトータルで8日間しかいなかった。忙しいことは嫌いな私が、よくこれだけ無事こなせたと思う。でも、この4週間を振り返ってみると、一人でぼんやり思いに耽っていた時間ばかりが思い出される。
カザルスホールにおける“Cheers!”が大成功に終わったこと、学生とのクリスマスコンサートが実に愉快だったこと、ジェームス・ボンド007の新作が抜群に面白かったこと、崎元さんとのCDが芸術祭の優秀賞をもらえたこと、そして数々の夕食会、それらはすでに遥か彼方、まるで遠い昔の出来事のように写って見える。厚い雲をとおして弱々しく照らす、淡い昼間の明かりのように。

2002年は『病人の年』だった。こういうことは偶然なのかもしれないが、いただいたクリスマスカードやクリスマスメールにも、今年は病人をかかえて苦労した、または苦労しているという文面が非常に多かった。自分もそういう年齢になった、ということかもしれないが、でも去年まではこんなに沢山病人はいなかったと思う。それも身内、友人、知人に今年になって突然、重病人が続出した。

1月4日、父は脳出血で入院、その誰よりも強靭な体が奇跡的な回復をもたらしてくれると家族は信じていたが、後遺症は治らず、秋頃からはすっかり痩せてしまい、何と母の誕生日には肺炎で一度死にそうになった。何とか肺炎は克服できたが、その頃から電話が鳴るたびに私はドキッとするようになった。しかし体力の衰えに対し頭はクリアで、会って話しをしていると面白いこともずいぶん言う。棒つきのキャンデーを粋になめながらベット上で足を軽く組み、いかにもリラックス・スタイルで「まあこんな治療じゃ、治らんだろうな。」なんて他人事のように言ってから、「医者をコロコロ変えるのはいかんよ」とも付け足す。「お医者さん、ちゃんと診てくれるの?」と聞くと「とくに何もせんがね」とも。「それは困ったわね」と言うと「別に大したことないさ」と。ある日「今日は髪を短かーく切ってもらった」と指でその短髪を見せるので、頭のてっぺんにだけまだ長い髪が残っているそのおかしなカットを「ベッカムヘアーみたいね」とコメントしたら、しばらくベッカムとは誰だろう……と考えてから「ちょっといいだろう?」と得意そうな顔をした。「パパ、すごくかっこういい!」と言うと、本当に嬉しそうな表情をしたので、私はかえって悲しくなってしまった。

病気は本当に、本当にいやだと思う。でもそれは起こってしまうから、どうしようもない。
病気の本人がもちろん一番かわいそうだけれど、でも家族だってかわいそうだ。この一年、母の生活に晴天の日はなかったと思う。兄はそんな母を心配して、往復6時間もかかる病院へ忙しい仕事の合間、せっせと通院していた。「お兄ちゃんが過労で倒れたら大変!くれぐれも無理しないでね。」といつも言っているけど、もし兄が重病人にでもなってしまったら、それは妻と二人の息子たちにとっても大悲劇となってしまう。考えただけでもおそろしい。

暗い季節に暗い話ばかりでは気が滅入ってくる。もっと光りある話しを、と思った瞬間、「光橋」が思い浮かんだ。

今月はじめ私は松本にいた。その日は相沢吏江子さんとのリハーサルで、あづみ野コンサートホールまで車で連れて行っていただいた。途中まずは松本で深志高校を初めて見た。ここは萩元晴彦氏が甲子園出場し、また八巻美恵氏が“深志のマドンナ”と言われたところなので以前から興味があり、好奇心いっぱいで眺めてしまった。広い校庭と古い煉瓦造りの建物がとても素敵だった。ここには昔クロという犬がいて学校生活に参加しており、授業や職員会議にも出たり入ったりしていたそう。文化祭では受付担当だったとか、私はこういう話が大好きだ。近々映画化されるという『クロ』を今から楽しみにしている。ちなみに父の学校にはシロという犬がいた。このシロの話はまた別のときに。

さて、松本市を出ると車は川沿いを走り、しばらくして『光橋』という橋を渡った。そのとき川辺に白鳥の群れが来ていた。今回もまた白鳥に出会った。「わ〜、白鳥!」と歓声を上げながら正面を見ると、白く高い山脈の上に、雲と太陽が絶妙の光芸術をかもしだしていた。雲の一部は逆光で黒くその輪郭はオレンジ色に光り、雲と山頂はすれすれの所で触れず、「これだけの演出は計画してもできないわね〜。」と車中は賑わいだ。

それから数分後、わさびを栽培しているところで車から降ろしてもらった。小川が流れ、水車がいくつかあり、広大なわさび畑が下にひろがっているこの場所で黒澤明氏は『夢』を撮ったと知ったが、まさに夢そのもの。現実の風景とは思えない、そう、まるで映画のセットのような不思議なイメージとポエジーがあたりには漂い、水の音までが非現実的にきこえた。夢心地でしばらくぼ〜っとしていたら、「あの一番高いのが常念岳です」と上嶋さんに言われ、わさび畑とは反対側の高い山脈を見上げると、そこには雄大な山頂が夕日に美しく輝いていた。私の感動はそこで頂点に達した。常念岳は萩元さんが一番好きだった山で、以前堀金村へむかう途中に「あのあたりに僕の一番好きな常念岳という山があるんだけど、今日はよく見えないね」と車の中でおっしゃったことをここで思い出した。やはり最愛の旧友、上嶋さんのご案内だったからこそ、常念岳もその姿を見せてくれたのだろう。この風景と時間は、今月の“光”だった。

2002年もあと数時間で終わろうとしている。行く年を前に、私が願いたいことはただひとつ。どうか2003年は『健康の年』になりますように……

(2002年12月27日 ラントグラーフにて)



2003年・未来のこと  松井 茂




『10月1日では遅すぎる』は、1966年に科学者でもあるフレッド・ホイルによって書かれたタイムス・スリップをテーマにしたSF小説だ。この小説の主人公は、やや保守的と思われる現代音楽の作曲家で、最初の場面は、ケルン。オーケストラ作品の初演をするところから始まる。本の各章は、音楽の速度表示がつけられている。もっとも、それほど技巧的だったり革新的なSFというわけでもないのだが、面白い点を上げれば、意識的なタイム・トラヴェルではなく、偶発的かつ同時多発的に世界中でタイム・スリップが起こるという点だ。つまり、ギリシアは古代に遡り、ソ連(66年当時)は、核戦争後の未来、荒涼たるガラスの平原になっている。過去、現在、未来が同居した地球になってしまうのだ。べつにストーリーを説明する気はないのだが、主人公の作曲家は、ピアノを持って(!)古代ギリシアへ行く。なんとも荒唐無稽な話だが、核戦争後のガラスの平原とか、冷戦下の未来イメージとして、これがリアルだった点を忘れてはいけない。そういった意味で、SFは時代を写す鏡だとつくづく思う。

それはさておき、古代ギリシアで主人公は、バッハ、ベートーヴェン、シューベルト、ショパンなどなど、いろんな音楽を演奏する。さらに作曲に励む。また、古代ギリシアの音楽をも吸収する。そして、あるとき神殿の奥から聴いたこともない音楽が聴こえてくる。主人公は、その音の主と「技くらべ」をすることになる。

ちなみに、主人公が耳にした音楽は、「音符そのものの選択については、どんな拘束が課せられているのか、私はまだわからないでいた。十二音音楽ではない。使われていない音もある。だが私たちの知っている調性音楽でもないのだ。構成は、今まで聞いたどんな音楽よりも複雑だった。作品自体の形式によって規則が定まるのではないかという印象を受けた。曲の部分部分で、規則や拘束が定まってしまうようだった。はじめの部分と終わりの部分では規則が違うようであり、あいだの部分ともまた違う。作品の全体的な発達が内部の構造を変えていく。そんな感じだった」という。察しはつくかも知れないが、これは、実は、古代ギリシアの音楽ではなく未来の音楽だったのだ。いろいろなSF小説があるが、未来の音楽が登場する作品はそんな多くないのではないだろうか? とくに、未来の芸術概念を語ってしまうSFとはユニークだ(でも、なんかこの文章だと創造できてしまいそうな音楽なのが残念)。

中途半端ながらも、この小説のことを書いてみたくなったのは、2003年は、既視感に満ちた暗いニュースが多い年になりそうな予感に満ちている。『10月1日では遅すぎる』は冷戦の時代に書かれた小説だ。おそらく最悪な気分の既視感が溢れた時代に、作家・科学者フレッド・ホイルは、既視感と反対の未視(聴)感を創造しようとしたにちがいない。詩人の端くれとして、こんな時代だからこそ、ぼくも未視(読)感(?)とでもいえばいいのだろうか、何か、未来に関わる文学を積極的に考えられればと、思う。未来の詩とは、予言の詩かも知れない。実生活でも、あらゆる可能性を検証しながら、未来を選択して行くことができればとつくづく思う。しかし、どの選択肢が自分にとって最良なのかは、時間が完結している世界においてのみ可能なことだ。そこには、未来はない。未来は、明日の天気予報を予測するように、確率でしか描けないものだ。量子論における多世界解釈は、非常識な思考方法だと思うが、なにかを考えるときに非常に有効な気がする。確率は確率として、現実は現実としてある。この両者に関わっているのが自分の意識だ。未来をどう考えればいいのか、考えることだけで、何か変わるのか? 全く見当もつかないが、現在を判断するために、過去を分析し未来を予測する。そんなことを繰り返すしかないのかも知れない。

新年早々、悩ましくって、意味不明な話になったが、突然宣伝させてください。ここに未来があるかは、怪しいけれど、以下のような予定があります。ご都合よかったらお運び下さいませ。


【方法詩について】告知
「方法詩について」は、うらわ美術館で2002年11月19日(火)〜2003年2月11日(火・祝)に開催される美術家と詩人による展覧会「融点・詩と彫刻による」(河口龍夫+篠原資明、村岡三郎+建畠晢、若林奮+吉増剛造)の関連イベントです。プログラムは松井茂が構成。

■第2日:「松井茂の詩による1時間」
2003年1月5日(日)午後2時開演
出演:さかいれいしう、杉山モナミ、滝本あきと、鶴見幸代、日原史絵、松井茂、三橋圭介
■第3日:「朗読会 〜方法詩とその周辺〜」
2003年1月19日(日)午後2時開演
出演:新井高子、足立智美、さかいれいしう、日原史絵、松井茂、三輪眞弘

会場:うらわ美術館 視聴覚室
参加方法:参加無料。当日先着順(定員50名)

■主催・お問い合わせ
うらわ美術館



しもた屋之噺(13)  杉山洋一
                     

12月に入り夜のとばりが降りる速さに比例して、クリスマスのイルミネーションが、深い闇に瞬きます。躯が困憊した11月をやり過ごし、学校の雑務も何とか片付け、フリウリ州立オーケストラとの演奏会ツアーを先程終え、ミラノに戻る車中にてこれを書いています。

フリウリは典型的北国の閉鎖社会よ、よそ者なんて到底入れないわ。こんな辛い経験は初めて。中部イタリアのモデナ出身のヴァイオリンのTの言葉です。反対に、オーケストラ事務局で働くナポリ出身のSは、これ程親切な人間に囲まれて暮らした事はない、と力説します。個人的には、確かに取っ付きは悪くても、一旦胸襟が開ければ、とても心の温かい人達だと、二週間の付き合いを通して実感しました。

フリウリ地方は寒さが厳しいのですが、或る演奏会の直前、一口暖かい紅茶でも飲みたいと思った処、わざわざ会場の人が、親切にも自分の家に戻って、ジャーポットに紅茶を淹れて持って来てくれたのには感激しました。オーケストラの団員から、家に昼飯でも食べに来ないか、簡単なパスタでも用意するから。一人で食事もつまらんだろう、と誘って貰える心遣いも旅先では嬉しいものです。

この地方、美味な郷土料理と上質のワインが有名ですが、困るのは、どこでも料理が重たく、病み上がりの胃が弱ってしまうのと、ワインの旨い街に来て、ワインを呑まずに帰るのは礼儀知らず、とは言わなくとも、勧められるグラスを断れない雰囲気があって、慣れない酒も嘗めざるを得ない事でしょうか。

複雑な歴史背景を反映して、イタリア語だけでなく、スロベニア語を話す地域、ロシア語、フランス語、スラブ語が混じった複雑な方言を話す地域があったりと、人種的にも文化的にも込み入った事情がある地方ですが、オーケストラの団員でも、顔つきから東欧出身かと思い込んでいると、フリウリに生まれたイタリア人だと聞き、驚いたりしたものです。

四方山話に花が咲くと、ミラノからこんなに離れて、全く違う世界にやって来た積りが、存外にも共通の友人が結構いたりして、世間は狭いと痛感しました。学校の授業等に忙殺されて、ミラノではなかなか自分の時間が取れないので、ホテルにいられる貴重な時間は、来月のウィーンでの本番の譜読みに専念しました。

先週の日曜、マティネの演奏会を終えた後、夜はホテルで、国営放送FMから生放送の電話インタビューを受けました。三日程前にRAIから電話があり、過日の演奏会を放送するので、一作品毎、分り易いコメントをお願いします。難解な説明でなくて良いですからと言われ、案外面白い体験かも知れないと安請合いしたものの、誰にでも平易に曲を説明するのは至難の技で、午前中一杯頭をひねって簡単なメモを用意し、何とか事なきを得ました。

例えば、Pの作品について訊ねられ、「あたかも、太陽が黎明の地平線から立昇り、やがて燦燦と輝き、日没、紅に染まりながら沈みゆく迄を、じっくり観察するのに似ている」「そこで物体は、目に見えない程度、かすかに、無限に、変容を続けてゆく」、と言うと、もう少し平明な答えを期待していたらしい番組の司会者は、「ではマエストロ、この作品について、構造的にどの様に説明なされますか。一種の再現部が存在する様に思われるのですが、如何でしょうか」、と食い下がるので、音楽高校の作曲クラスのレヴェルでもなかろうとうんざりしつつ、「確かにこの作品に関して、作品構造を規定のモデル構造に当て嵌め、時間軸における素材の展開にコメントする事は容易だが、果たしてそれが曲の理解において正しいのかどうか。演奏者の立場からすると、20分かかる当作品を、一つの大きな呼吸に内在させられるかどうかが一番重要であり、一つの糸に曲頭から曲尾迄、大きな弧を描き切らせる事こそ、最も難しい部分ではなかったか。敢えて詰まらない再現部として構造化させぬ事に、意味はないのか」一事が万事こんな按配で、高名な音楽学者相手に、ちぐはぐなやり取りを一時間半近く続けました。お陰で、皆から誘われていた晩飯を、すっかり喰いそびれてしまいました。

尤も、後日、あのインタビューは良かった、面白かったと、作曲家自身を初め色々な人に言われたので、聞いている分にはなかなか愉快だった様です。番組側からすれば、余程達の悪い論客だった筈ですから、日曜ゴールデンタイムのあの番組からはインタビューは頼まれる事ももうないでしょう。次の日、オーケストラの団員から、さんざんからかわれてしまいました。

ツアー中は、朝早く起きて学校の雑務の仕事をメールで片付け、ホテルの机で来月本番の難解な現代作品のスコアを広げていました。昼過ぎ、オーケストラの連中と旅籠「牛亭(Al Bue)」の美味なフリウリ料理に舌鼓を打ってから、1、2時間程はベットで休みシャワーを浴びて目を覚ましてから、夕方皆と合流してバスで演奏会場に向かいます。移動のバスは、日本で言う処の小学校の遠足よろしい姦しさで、当初は呆れていましたが、何時しか慣れてしまうのが面白い処です。毎日21時前後から始まる演奏会の終演後、出された夕飯を食べたりして、再びバスでホテルのあるウーディネに戻れるのは、凡そ夜中の1時か2時。昨日など、ロンバルディア地方のブレッシャ(つまり、ミラノのほんの手前まで戻ったわけです)の劇場迄遠征しましたから、ウーディネのホテルに着いたのは、朝の4時。それから少し眠り、先程、マチネ公演をウーディネのジョヴァンニ劇場で終えた処です。

夜半の移動バスの車中でも、大声を張り上げフリウリ民謡を大合唱し、愉快にはしゃぐ団員のエネルギーには驚きました。それどころか、夜中2時過ぎにウーディネに着くと、さあマエストロ、一緒にビールでも呑みましょう、とビアホールに引っ張られた挙句、店主に、「あんた達音楽家かい、それなら一曲弾いて貰いたいね、勿論ビールはサービスだ」と言われたりして、皆、早速楽器を取り出し、嬉々として即興で合奏を始める辺り、本当に音楽好きだと感嘆させられました。周りの皆も面白がって聴いていて、最後は店中の客が加わり、お決まりのフリウリ民謡の大合唱となりました。さて、その昔の歌声喫茶とはこんなだったのかしら、とふと思ったり致しました。

「明日は早く戻って来るよ、今日よりも早くね」と、独特のイントネーションのフリウリ方言で歌っていて、そりゃ奥さんに言い訳している台詞かと尋ねると、とんでもない、呑み屋の店主に、明日は今日より早く顔を出すからな、と言っているのだ、と大笑いされました。寒い気候に併せ、ワインが美味な地方だからか、とにかく皆好く酒を呷るし、酒には歌が不可欠だとか。

フリウリ州立オーケストラとのツアーで、特に印象に残ったのは、トリエステの大聖堂での演奏会でしょうか。ウーディネからトリエステまでバスで一時間強の行程ですが、トリエステの湾が道路脇に広がる頃にはすっかり陽も落ち、美しい海岸線の景色を愉しむことは出来ませんでしたが、トリエステ駅の脇を通り抜ける辺りから、クリスマス直前ですっかり美しく彩られた街のネオンに照し出された、夜のトリエステの街を垣間見る事が出来ました。

歩道に溢れる人いきれが、思い思い、クリスマス・プレゼントの買い物に勤しむ姿は微笑ましいものです。トリエステは港町ですが、海岸からすぐに山が迫出していて、街全体が急な上り坂に沿って築かれています。そんな細い上り坂の道路を、バスは慎重に進んでゆき、やがて丘の頂上、名高い寒風が肌を刺す大聖堂前に辿り着きました。バスを降りると、すぐ目の前には明るい満月と、まばゆい満天の星が瞬いていて、眼下には橙色のトリエステの夜景が俯瞰され、思わず言葉を失いました。

大聖堂は実に魅力的で、全体的に地味な装飾ながら、品の良さがそこかしこに感じられ、巨大なクーポラ一面に広がるモザイクと、木製の天井の蒼が心を捉えます。リハーサルを始めようと、指揮棒を一振りした瞬間、思いがけず「ハッピーバースディ、トゥー、ユー」と、出し抜けに大合奏をしてくれたのには、感激しました。奇しくも自分の誕生日だったのです。演奏会後の打ち上げで皆と祝杯を交わし、代わる代わる抱擁やらキスを受けるのは、普段、誕生日等何も祝わない人間には、少々気恥ずかしいものでした。

トリエステにしろ他の教会にしろ、指揮をしながら目の前のクーポラのフレスコ画やモザイクに目を奪われる事があります。何の因果でここに居るのだろう、人生とは不思議なものだと感慨深く思います。教会での本番は冷えるので、ズボン下を重ね着したりして防寒するのですが、指揮者は運動するので、演奏会を終える頃にはシャツは汗でびっしょりになります。教会は着替える場所も限られており、男女兼用だったりするので、女性陣は大方既に着替えて来ているか、もしくは堂々と皆の前で着替えたりしていて、感心します。その傍らで男性陣が大喜びしている姿は、北も南もイタリア人です。

さて、「牛亭」で毎日豪勢な肉料理を振舞う女将は、でっぷりと太った歴史小説と推理小説が愛する中年女性であって、この女将にかかると、どれだけお腹が一杯でも、誰でも毎日フルコースを食べる羽目に陥ります。連中と「牛亭」で食事をすると、どう女将を言い包めて、主菜で止めたり出来るか、一寸した賭けの対象になります。もうお腹一杯、デザートは結構です、と言うと、あんた、他の皆がこのデザートを食べるのを見たら一生後悔するわよ、と恨めしそうに眺められるのは未だしも、結局、他の連中がそのデザートを食べるのを見るに附け、余りの美味しさに、毎度注文を余儀なくされる有様で、この二週間で、先月メヌエル氏病で痩せた躯も、多少は元に戻ったのではないでしょうか。

今日のマチネで今回のツアーも終わりだったので、「牛亭」に挨拶を兼ね、昼飯にコテキーノ(サラミに似た豚肉の詰物)を食べに出かけた際、女将に「牛亭」の謂れを訊ねました。何でもこの旅籠「牛亭」(antica locanda Al Bue)は、1500年代中盤から存在していて、当時は行商人が、牛車(Carro al Bue)を曳いて通ってきたそうです。今は駐車場になっている中庭には、その昔、牛を繋げ置く杭が立っていたとかで、そんな古き良き時代に因んで、「牛亭」と呼ぶのだ、と誇らしげに語ってくれました。また帰って来るんでしょう、と聞かれ、春頃ね、と答えると、それなら大丈夫、未だ私もきっと元気だから、と微笑み返してくれました。メリークリスマス、頬にキスを交わして、店を後にしました。

牛車で思い出しましたが、ウーディネで印象に残ったものの一つに、時代に取り残された様な古ぼけた荷車がありました。これは自転車の前と後ろに、二輪の大きな荷車を接いだもので、深い毛皮と重厚なコートを身に纏った、カイゼル髭のイタリア人らしからぬ親父が、ゆっくりと引っ張っているのを、何度か見かけました。廃品回収業らしく、荷台には、台所の流しや自転車のリムやら、金物類がごてごてと載っている事があり、ホテル傍らのオーベルダン広場に、きちんと停留されていたりするのが、妙に郷愁を誘いました。

ミラノではお目にかかれぬ年代物ですし、独特の風情の親父も鑑みて、東欧圏からの移住者かしらと想像を逞しくして、余程親父に声をかけようかとも思いましたが、それきりになってしまいました。ウーディネは東欧と西欧との境、スロヴェニアと国境を接しているので、そんな酔狂も頭を過ぎるのでしょうが、スロヴェニアは東欧では抜群に裕福な国家だそうですから、実際には、この親父とは関係ないのでしょう。

一昨日は、珍しく本番のない休日だったので、オーケストラの友人達とチェロ弾きのカップルに昼食に招かれ、州立オーケストラの政治的事情やら、色々な国内のオーケストラの事情等を互いに話しつつ、美味なフリウリ独特の大きなラヴィオリを、カベルネの赤と一緒に堪能しました。

ヴィオラのNの未だ幼い甥っ子は、或るクリスマス、サンタクロースに顔をぬっと出されて以来すっかりサンタクロース恐怖症になり、今でもその子の親は、子供が悪さをすると、サンタクロースを呼んで来るわよと言って脅かしているとか。

コンサートマスターのDの親戚は、毎年クリスマスになると、深い森の入り口にある彼の家に集い、毎年交替で大人が一人サンタクロースに扮装して、森の中を全速力で駆け抜けて、その姿を窓から子供達に眺めさせます。そうして子供達が興奮しきっている頃、洋服に着替えたサンタクロースは、何食わぬ顔をしてそっと家に戻るのです。微笑ましいですね。

同日夜、DやNと連れ立ちウーディネの歴史的中心街を徘徊して、初めて見る美しいウーディネの街並みに魅了されました。群青色の時計板と金色の時計針が闇の中にライトアップされたウーディネの城の門前に、沢山の露店が軒を連ね、特産のサラミやクリスマス用のキャンドル、クリスマス用のお菓子等が美しく飾られる様は、イタリアよりも寧ろスイス、オーストリアのチロル地方や、ドイツ等、北方のしっとりしたクリスマスを思い起こさせます。

クリスマスプレゼントは、日本のお年玉に相当するもので、皆こぞって知恵をしぼり、身内や親戚の為にプレゼントの購買に精を出します。ですから、この時期はどの街にも人が溢れ返り、特に着飾った若い女性が目を引きます。この辺りの女性は清楚で整った顔立ちをしていますが、所謂イタリア人の美しさよりも、寧ろスラブ人のそれを感じさせ、この地方が経てきた複雑な歴史的な背景を思い出します。

歴史に詳しいファゴットのDとそんな事情を話していて、フリウリ地方の1800年代から1900年代、第一次世界大戦前後迄の歴史は興味深く、その辺りさえ理解すれば、現在バルカン半島で起こっている全ての紛争の要因にすっかり納得がゆくさ、と説明してくれました。

今日の演奏会の休憩中、オーボエのEが、何だか残念でね、と話し掛けて来ました。「ずっとツアーだったから飽きる程演奏したし、もう沢山だと思っていたけれど、こうして最後ともなると、流石に寂しいなあ」「又、春にはお世話になるから、その時は宜しく頼むよ」と言葉を返しましたが、こうして、列車の中で思い返すと、そんな一言にも懐かしさで胸が一杯になるものです。

今、列車はミラノの一つ手前、昨晩演奏会をしたばかりのブレッシャを発車した処です。後50分もすれば、ミラノ中央駅の巨大なガラス張りの駅舎に滑り込むことでしょう。気が付くと、水牛のコラムも一年間書き綴ったことになるのですね。早いものです。
皆さんにも素敵なクリスマスと、素晴らしい新年が訪れますように。

(12月23日ウーディネ発ミラノ行き車中にて)




ジャワ・スラカルタの伝統舞踊(2)民間舞踊  冨岡三智

前回はクラトン(宮廷)舞踊の舞踊について書いたので、今回は民間で発生した舞踊について言及しよう。

宮廷舞踊は儀礼として王に捧げるものであり、群舞によって調和や天体の運行を表現していると前回説明した。それに対し、民間舞踊は基本的に単独舞で、娯楽に供する舞踊として発展してきた。踊り手の個性や生き生きとした人間性が表現され、舞踊は踊り手と観客と演奏者の間のコミュニケーションの上に成立した。

民間舞踊ではチブロン太鼓というやはり民間の芸人に由来する太鼓を用いる。この太鼓の手組みは派手で舞踊の細かい振りに対応し、振りにも音楽にも躍動感を与える。さらに曲の長さは固定しておらず、ある程度の融通性と即興性があった。具体的に以下の各項目で触れるように、その場の状況や踊り手と演奏者との駆け引きによっていくらでも踊ることができたのである。

  ガンビョン

ガンビョンはチブロン太鼓の奏法とともにスラカルタで発展した、現在ではスラカルタを代表する舞踊ジャンルである。その太鼓奏法も現在ジャワ・ガムランにおける演奏会スタイルの標準になっている。ガンビョンは楽曲優先の舞踊で、太鼓が繰り出す手組み(スカラン)を聞いて、踊り手がそれに合った振りを踊る。ガンビョンでは最初4つと最後のスカランが決まっている他、終わり方にも定型がある。他は順不同とは言え、歩きながら踊るスカランと止まって踊るスカランを交互に演奏しなければならない。これらの制約の中で太鼓奏者は数多くのスカランから自由に選んだり、また即興的に作ったりして演奏した。

ガンビョンは女性の単独舞であるが、実は1960年代後半まではガンビョンは一般子女が嗜むにはふさわしくない舞踊だった。ガンビョンを踊るのは、レデッ又はタレデッと呼ばれる流しの女性芸人か、または商業ワヤン・オラン(舞踊劇)劇場の踊り手に限られていた。その芸風は歌いながら踊るというもので、しかも性的合一に至るコンセプトを描いた扇情的な振りが多かった。

それは農村の豊穣祈願の踊りに発するからだという。(日本でも農耕儀礼ではしばしば性的な行為が模倣される。)だがそれゆえ多産を願うものとして、昔からしばしば結婚式ではプロの踊り手を呼んでガンビョンを踊ってもらったという。現在でも結婚式や各種セレモニーでガンビョンが踊られることが多いのは、根底に儀礼的な性格をまだ残しているからだろう。

さて、開放的な気風のマンクヌガラン宮ではガンビョンを取り入れ、接待用の娯楽舞踊として洗練させた。そして宮廷舞踊の要素を付加し、即興的な要素を排して歌いながら踊るのも止め、レデッのイメージを払拭した演目「ガンビョン・パレアノム」を作り上げる。それでも当初は親族が踊るのはタブーだったが、60年代後半には親族も踊るようになった。パレアノムはスラカルタの舞踊家達に知られて広まり、また芸術機関でもガンビョンをスラカルタを代表する舞踊として取り上げるようになって、ガンビョンは一般に定着した。

  ゴレック

ゴレックはジャワの2大様式の1つ、ジョグジャカルタ(ジョグジャと略される)様式を代表する舞踊ジャンルであるが、スラカルタにも、ジョグジャとは違う独自の伝統的なゴレックが存在する。これらもやはりジョグジャの影響があるのか、または別々に発生したのか、私の師(現在69歳)も分らないと言う。

ゴレックとは木偶人形のことで、人形振りを模したものとも言われる。大人になりかかった女性が身を装う様を描いた単独舞である。ジョグジャカルタでは、かつてはプロの踊り手による扇情的な舞踊で女装した男性によっても踊られたというが、スラカルタではゴレックは子供の踊りとされている。

ゴレックで特徴的なのはケバルという演出である。速いテンポで、鏡を見たり化粧をしたりする振りが繰り返される。ケバルの後にはゆったりしたテンポで踊る振りがくることになっており、1回の上演で緊張(ケバル)した場面と弛緩した場面が交互に何度か繰り返される。ガンビョンと違い、舞踊は楽曲優先で、太鼓奏者が踊り手に合わせる。各曲はケバルに独自のパターンを持つが、そのパターンを踏まえ緊張と弛緩が交互にくるようにさえすれば、振りの順序は自由である。(もっとも子供が踊るため、実際は踊り手でなく舞踊の先生が事前に順序を決めることが多かったようであるが。)

  ガンドロン

ガンドロンとは王や武将が恋に落ちている様子を描いた男性単独舞のジャンルである。ガンビョンやゴレックと違い、ガンドロンでは人物が設定されており、踊り手はその扮装をする。恋の対象となる姫も設定されているが、単独舞ゆえ実際には姫は登場しない。恋する姫を心に思い描いている男性の、揺れ動く不安や高揚する気持ちを描いているのである。

ガンドロンで重要なものに「キプラハン」という定型がある。武将が身を飾る振りやその力強さを誇示する振りが繰り返される。1曲の舞踊におけるハイライト・シーンで、単調に繰り返すテンポの速い曲を使って高揚感をあおる。クロノ、ガトコチョ、ガンビルアノムなどの人物の舞踊でキプラハンが使われている。

キプラハンもまた踊り手優先である。つまり踊り手が太鼓奏者に次のスカランの指示を出す。各スカランは順不同だが最後だけは決まっており、踊り手がそれを切り出すまでは延々とこのシーンが続く。踊り手が新しい振りを創作することもよくあった。またガンドロンでは各人物の性格を表現することが大事であり、本来はキプラハンの語彙も多少異なる。たとえば、人間の煩悩を体現しているクロノにはカード賭博や凧上げに興じるような振りが伝わっているが、廉直の英雄・ガトコチョにはこれらの振りはふさわしくない。

ガンドロンに含まれる舞踊であっても、キプラハンではなく、女性舞踊のケバルやガンビョンの振りを使っているものがある。これらもやはり、恋に落ちた男性が身を飾ったり力強さを誇示する様子を描くものとして使われており、キプラハンの一種であると見なされている。描かれている人物の性格によっては、キプラハンの表現はより女性的な表現を取るからである。上で述べたようなキプラハンは性格の勇猛なキャラクターにふさわしい。



猫に小松  三橋圭介



御喜美江さんもわたしも「水牛クラブ」の正規会員ですが、もうひとつ隠れて別の会にもはいっています。おおきな声ではいえませんが、それは「猫っかわいがりクラブ」です。これは世界中に支部があって、さまざまな情報交換の場となっています。ときどき報告書を提出しあって、猫っかわいがりぶりを確認し、お互いの健闘ぶりをたたえますし、資料を詳細に検討し、採用可能かも熟考いたします。あまりの猫っかわいがりぶりに、それじゃ犬じゃねえかと辟易することもありますが、辟易した直後に、キラリと大きな目がこちらを見つめていると、他人には見せられない行動を取ったりしていたりします。

「猫に小判」という諺があります。猫に金をあげたってしかたがないという意味ですが、猫には金がかかります。ごはんは缶詰とカリカリ、トイレの砂、それに毛がぬけるので掃除もたいへんです。わが家は姉弟猫なので普段はかってに遊んでいますが、ときどき「遊んでよ〜」と迫ります。でも遊びに莫大な経費をかけられません。経済を圧迫いたしますので、わが家では「猫に小松」です。

小松はすばしっこく、宙を舞い、地を駆けめぐります。その華麗な身のこなしをことばで表現するのは困難を極めます。でも小松は一度死にました。毛むくじゃらの身体はげ落ち、最後にどこかにいきました。先日、小松がぶざまなかっこうで発見されました。見る影もありません。悲しや小松。でもまたどこかにいってしまいました。さらば小松…。

ついに小松は紙になり、不死の小松ガミとなりました。カミはカミ棚にいるとたいていはきまっておりますが、わが家では物置にひっそり安置されます。猫たちは物置のカミ棚をときどき見上げては、悲しそうに鳴きます。一目カミさまを拝みたいのです。そんなとき「カミ様にはそんなに簡単には会えないんだよ」となぐさめます。
 
小松はカミ様ですからいろいろな顔をもっております。まるいかたちのときもあれば、ときどきタコの足のような尾ひれをつけています。尾ひれはヒラヒラして、本能に電撃が走ります。カミは畏怖の存在であると同時に、欲望の対象なのです。猫たちはまっすぐに小松を見据え、シャシャーと唸ります。このとき髭が前方に緊張しているのが確認できます(わが家のもうひとりの人間さまはときどきおいしそうなものを見て、目にはみえない髭が前方に緊張するのがみえます)。そして身構え、打ち震え、一気に飛びかかります。トリャ! 

妙(たえ)は努力家です。法(のり)は天才肌です。努力家は何度でもトライします。天才はすぐに疲れてしまうので、一発に駆けます。しかし努力にまさるものはないようです。ウサギはカメに負けます。でも妙・法と小松との戦いははじまったばかりです。
 
世界の猫っかわいがりに小松を知らない人はいません。きっと小松はいろいろな名前で呼ばれているはずです。御喜さんは御喜さんの「小松」でカーターと遊びます。わが家の猫たちは明日もカミ棚をどうしようもなく見つめていることでしょう。



非管理癖  もりみつじゅんじ



「ああ、あいかわらず残ったままだよ、まったくこいつは」
青空文庫の作業中リストで自分の担当になっているものを眺めながら、いつもそう思う。だが公開を待っている人には悪いなあと思っても、自分の作業日程をきっちり作って実行するというようなことはやってない。青空文庫の作業が締め切りを要求してないということもあるし、自分の都合(あらゆることを含む)によって日々作業の優先度が変わるので日程通りにいかないことが明らかということもある。が、それを含めても、目安としての日程を作った方が結局は効率よく作業できるのではないかとも思う。それでも作らないというのは、効率よりも自分の気分を優先させているからなのだろう。

青空文庫の作業は志願制なので、誰しも嫌々やっているはずはないのだが、それでも日程を作成することで義務的な作業になり、趣味的、娯楽的な要素が減るのを嫌っているのかもしれない。効率をめざしているものではないので、各人の好きなペースでやって問題はないわけだし、無理をすると続かなくなってしまうだろう。素早くできる人は素早く、のんびりがよい人はのんびりやる。まあ、登録時に作業期間のおおよその見積りを自己申告するのはどうだろう、とか、効率と言うのは作業の品質を元に考えなければ意味がないのでは、とはいう話はあるにせよ。つまり青空文庫の作業は趣味的のんびり高品質志向の私には適している。

そのほかにも個人作業という要素がある。入力や校正は大抵一人で行うので特に予定がなくても困る人はいない。これが多人数で行うことであれば、やはり作業の割り振りとスケジュールが大切になり、作業の同期がとれないと非効率という状況は多いだろう。つまり青空文庫の作業は自分勝手な私には適している。

ところで私には時間非管理という癖があるので、実のところ作業日程が作れないのはそれだけのせいかもしれない。非管理癖といっても時間を全く無視している(不管理)というわけではなく、できるだけ時計を見ずに生活するというようなことだ。会社では(会社員です)さすがに時間が決まっているが、それ以外ではあまり時計は見ない。何時に集合という場合ももちろん時間を気にはするが、遅れたらそれは神の思し召し、まあ仕方ありませんですなという感じだ。あまり日本には向かない癖だとは思うが、今は会社以外ほぼ隠遁生活なのでそんなに不都合はない。店に行ったらすでに閉店時間だったということぐらいか。

これが癖というのは、自分の方針というわけでもなく、思わずそうやってしまうからだ。原因は学生の時分に分刻みの生活していたことの反動だろう。何かの小説にそんな人物が登場していたのだと思うが、日々のあらゆる予定を分刻みでスケジュールし実行する、効率的に管理された人生というわけだ。その通りにではなかったが、手のひらサイズのメモ帳に自分の全ての行動を、朝食:8時5分〜13分、というように細かく記録してみる生活をしていた。期間はたぶん二、三週間ぐらいで一ヶ月もなかったと思うが、しばらくそういう一分刻みの極端な生活をすると、時計に合わせた生活はとても続けられないと実感してしまったのだ。細かなスケジュールで確かに効率はあがるのだが、何かをやるというより、スケジュールをこなすということだけの生活になり、それ自体を味わうことができない。逆に、時計を見ないと何をやってもそれを味わうことができる、そういう性格になってしまったようだ。速さを競うようなものにはあまり関心がなくなり、何でものんびり味わうのが好みに。しかしこれはいわゆる競争社会には不適合な癖なので、その辺が多少不便だが、もっとのんびりしている社会であったなら特に違和感はないのかもしれない。

あなたは日々の生活を味わっているだろうか。そして時計に従って生活しているだろうか。




ご意見などは suigyu@collecta.co.jp へどうぞ
いただいたメールは著者に転送します

このページのはじめにもどる

「水牛のように」バックナンバーへ

トップページへ