2003年3月 目次


バクダッドで病院にいく             佐藤真紀
ググーシュの「ゾロアスター」          北中正和
しもた屋之噺(15)              杉山洋一
女子供の言葉              もりみつじゅんじ
ジャワでの舞踊公演(1)公演の背景       冨岡三智
スラチャイ・ジャンティマトンの短編より     荘司和子
平和のために・トルコから                



バクダッドで病院にいく  佐藤真紀




パリからどうも体調が悪く、バグダッドに着くと頭ががんがんしてきた。本当にどうしようもなくなって、ふと見ると胸と背中にぶつぶつができている。これはいかんと思い病院に行くことにした。診察料は3ドル。若い医師が出てきた。「これは感染症ですね。痛み止めの注射をしましょう」
イラクは医療事情が悪く、注射とかでC型肝炎などになってしまうといやなので、「注射はやめてください」といった。代わりに痛み止めの薬やらをもらってきたがまったく効かない。ヨルダンにいる看護師に相談すると「それは帯状疱疹ですよ。薬を飲まないと直りませんよ」
ちょうどヨルダンからイラクに行く人がいるので、薬を預けるという。その薬は日本円で8000円もする。何でこんな薬を買ってくるんだ。イラクだと200円なのに。しかしますます状況はひどくなってきてとうとう動くのもままならない状況になった。赤い斑点は水ぶくれになりそれがはじける。体がどんどん腐っていくようだ。ともかくちくちく針で刺されたように痛い。食堂からオリーブオイルをもらってきて、町で買ったアルコールと混ぜて体に塗ってみる。結構いい感じ。昼間は何とか仕事をするが、昼過ぎになるともうもたない。ベッドから起き上がるのも気合を入れなければならなかった。

日本に何とかたどり着き病院にいくと
「もう手遅れですよ。かかり始めに薬をがんがん飲んで菌を殺してしまうんです」
「ともかく痛いので痛み止めをください」
「痛み止めは効きません。体は治っているんですが、神経がいかれてしまって、頭は痛い痛いと思い込んじゃっているんですよ」それでも医者は痛み止めの薬をくれるのも不思議だ。

イラクでは経済制裁で薬がない。医療技術が低下している。なるほど、医者も帯状疱疹など知らないようだったし、薬もこんな高いのはイラクでは手に入らない。私は経済制裁の犠牲者となってしまったというわけだ。





ググーシュの「ゾロアスター」  北中正和




先日イラン人の友人に招かれてごはんをごちそうになった。もう十年以上日本に暮らしている人だが、別の国からやってきた奥さんと数年前に東京で知り合って結婚し、赤ん坊が生まれて半年ほどになる。

彼は会うたびに仕事が変わっている。羽振りのいいときもあれば、調子の悪いときもある。先日訪れたときは、ぼくよりはるかにいい暮らしぶりで、順風満帆のように見えたが、日本のマーケットは外国人にはビジネス・チャンスが少ないので、近く日本を離れようと思っていると話していた。遠く離れたところから来てたまたま出会い、またどこかに旅立とうとしている二人の話を聞いていると、羊を飼っているわけではないが遊牧民みたいだなと、出無精なぼくは安易に思ったりした。

食事をごちそうになった後、友人は大きなプロジェクターでググーシュのライヴ・ビデオを見せてくれた。少女時代に子役としてデビューし、歌に映画に大活躍したググーシュは1979年のイスラム革命までイランを代表するポップ・シンガーだった。華やかな人気者生活とは別に、結婚では苦労が絶えず、王室の要求を拒んでいやがらせを受けたこともあった。

イスラム革命が進むと、イランではそれまでのポピュラー音楽が禁止され、女性歌手は男性のいるところで単独ではうたえなくなった。その結果、革命前の人気歌手の大半は亡命したが、ググーシュは国内にとどまって沈黙する道を選んだ。

その彼女の国外でのコンサートを認めて、イランがパスポートを発行したのは2000年のことだった。7月19日に彼女はカナダのトロントで21年ぶりのコンサート活動を再開した。亡命者の間ではさまざまな噂が飛び交った。これはイラン政府の変化の兆しなのか。彼女は亡命したのか。それとも情報局の手先として、イラン政府に貢ぐためにコンサートを行なうのか……。いずれにせよ2万円近い入場券は行く先々で売り切れた。

ビデオは最初の記念すべきコンサートの夜に撮影された。バンド演奏が前奏曲を奏でた後、暗転し、再び照明がつくと、ペルセポリスを模した舞台の中央に彼女が立って微笑んでいた。総立ちの観客の拍手はそれから1分半ほど、彼女が制止するまで続いた。すべてのイラン人にこの場を体験してもらいたかったとあいさつして彼女はコンサートをはじめた。

コンサートでは新曲もうたわれた。友人によると、そのひとつ「ゾロアスター」はこんな歌だ。英語の意訳を文脈がつながるように整理したため、原詩とちがうところがあるかもしれないので、ひとつの手がかりとして読んでいただきたい。

どこで何が裁くのだろう/もしうたうことが違法なら/わたしはうたわない/それは罪だから/なつかしい緑の大地は/長い歴史を持っている/だがこれは歴史より古い話/ゾロアスターの時代には/神が歌で人々を結びつけた/その時代にうたうことは罪ではなかった/神は歌で人々の暮らしを助け/大地を緑で覆った/世界の子供たちのためにこの身を捧げよう/心の中に叫びを持ち続けている母親たちのためにうたおう/その叫び声を歌にしよう……。

この訳が大きくまちがっているのでなければ、ググーシュがいまの体制のイランに戻ることはありえないだろう。うたい終わって会釈する彼女の笑顔からぼくは表情を読み切ることができなかった。生まれた国を出ると決意したとき、彼女の胸を去来したのはどんな思いだったのだろう。




しもた屋之噺(15)  杉山洋一




二月は澄んだ晴れ日が続きましたが、今日の空には雲が低く広がり、冷え冷えとした陽気が漂います。雨が降らず光化学スモッグが悪化し、警戒値を大きく超えたため、日曜の今日、イタリア各地で車の使用が終日禁止されました。今日はイタリア国鉄労組のストライキともかち合ってしまい、市民に許される交通手段はバス、地下鉄と路面電車くらい。こんな経験は初めてですが、それでも何とかやり過ごしてしまうのがイタリアの暮らしぶりなのでしょう。

つい先日、ミラノ県とベルガモ県との境にあるトレッツォの近く、アッダ川のほとりに引っ越した親友Mを訪ねて、階下の中華料理屋でひとしきり昼ご飯を買いこみ、バスに無賃乗車しながらこれを書いています。日曜で切符を売るキオスクも閉まっていて、万一検札が来ても車両規制でどうしようもないと白ばっくれる覚悟が出来ているからで、こんな按配で暮らしていると、多少の事でじたばたしなくなる気がします。

きな臭い話は書きたくなかったのですが、今回ばかりは仕方がないようです。今月に入り、あちらこちらのアパートの窓に、「平和」と書かれた虹色の旗が目立つようになりました。バスの車内で「平和」の旗をマント代わりに羽織る妙齢にも出会いましたし、このバスの車窓からも、ひっきりなしに「平和」の文字が目に飛び込んで来ます。

この「平和旗」が、アメリカに同調するベルルスコーニ政権の意向に反するので、旗そのものが禁止されそうになったりとか、10万人が集まった15日のローマ反戦集会のテレビ中継に、政府が圧力をかけたりもしましたが、今回アナン議長がローマを訪問し、イタリア政府の態度が一転、平和解決を望む口調に変わりました。

今回のイラク紛争の平和解決に関し、イタリアでは特にヴァチカンがイニシアチブを取っており、政治思想の境界なく、一体となって戦争に反対しているのが、世知辛い世情のなかで唯一明るいニュースでしょうか。イタリア各地の米軍基地からリヴォルノの港まで、米軍の軍事物資を鉄道輸送に市民や教会関係者がデモを行なうだけでなく、鉄道輸送に係わるイタリア国鉄労組も反対を表明しており、戦争前夜の雰囲気が漂います。

グラムシ広場に面する、リバティ風の磨り硝子がはめ込まれた豪奢な部屋に住む友人は、夜10時になるとがらんとした広場に下りてゆきます。正面玄関の前のベンチには、モロッコ人の初老の男性が一人佇んでいて、軽く握手をすると、友人が練習部屋に借りている地下室に連れてゆきます。10畳ほどの地下室の壁は、明るい白色に丁寧に塗り直され、友人の兄が描いたという鮮やかな抽象画が二点、小さな縦型ピアノの上に飾ってあります。反対側にはソファーベットがあり、洗ったばかりのシーツが用意されていました。その傍らには小型テレビもあります。暖房はありませんが、ボイラーの大きな管が壁を伝っていて、温度計は16度を差していました。

伊語はおろか、英語も仏語も通じない、みすぼらしい風貌の男性は、友人が行き付けのスーパーの入口で物乞いしている不法滞在者で、零下のミラノの冬の夜、ベンチで寝る姿を見て可哀想になり、以来、自分の練習部屋を、夜間無償で貸しています。言葉が通じないので、身振りで簡単な会話をし、初老男性を中に閉じ込めて再び鍵を閉め、友人は自宅に戻ります。そうして、朝8時になると、そっと鍵を開けにゆくのです。
「誰が見ているか分からないからね。可哀想だが仕方が無い」

不法滞在者幇助は、法律で厳しく罰せられますから、友人の懸念も深刻です。用を足したくなったらと尋ねると、どうするのか分からないが、汚すような事は一度もなく、我慢するのか、自分で容器でも用意しているのだろう、ということでした。そうして部屋に戻り、友人が調理した兎肉の猟師風(カッチャトゥーラ)を堪能しながら、そろそろ我々も「平和」の旗を購入する必要があるかしら、兎肉は見かけ程食べる処がないな、などと話していて、ところで、あのくすんだ磨り硝子は何時頃のものかいと聞くと、1910年代だろうとの答えが返ってきました。

さて、数時間ほど前にMの新居に着き、中華の弁当に舌鼓を打ってから、段ボール60箱分もの本を、分類別に壁に作りつけの本棚に入れてゆきます。クレスピと呼ばれるこの地域は、1800年代終わりに産業王のクレスピ氏が一帯を買い上げ、巨大な紡績工場を建設。その工員のために1300年代様式の時代錯誤的な屋敷を無数に建て、現在のクレスピ村となりました。クレスピ氏自身が住むため模造させたロマン派スタイルの城やら、クレスピ氏の故郷にあるブラマンテ作のブストのドームを模造した礼拝堂も工場傍らに残っていて、スタイルが混在しながら、時間が止まってしまったかのような、人工的で奇矯な空間が広がります。

そんな屋敷の一角を、M夫妻が購入して、引っ越したばかりで台所もなく、電話も未開通でしたが、林の向うにアッダ川が広がり、眼下に小さな湖も俯瞰されるのは羨ましいばかりです。とりわけ動物好きの家族がいるらしく、屋敷には伝書鳩の鳩舎から馬が一頭繋がれている馬屋、卵を取る鶏小屋まで揃っていて、鄙びた良い雰囲気が辺りを包みます。本を30箱ほど整理した処で、日の暮れる前に古家具のニスを塗り直すため、箪笥に鑢をかけたりするのは、日頃の仕事の厄介から頭を解放するのに、丁度良い機会となりました。

二月の初旬、スイスのユース・オーケストラのオーディションの審査員を頼まれ、イタリア、スイス、フランス、スペイン、アルバニア、ブルガリア等からの受験者170人余りを聴いてみて、印象に残ったのは、何人かいた日本人受験者の演奏でした。特にモーツァルトの協奏曲などで、最初の一音から審査員全員の失笑を買っていて、考えさせられました。下手なのではなく、ヨーロッパ人なら考えられない勘違いを、そこそこ上手な日本人がしていて失笑を誘ったのです。これは他人事ではありませんでした。

今でこそ、こちらの学生にモーツァルトやベートーヴェンを教えていますが、初めてミラノで指揮クラスに出席した頃を思い返すと、今も背筋が凍ります。教室の生徒が、皆下手に見えたので、或る時「先生、一度聴いていただけませんか」と頼み込み、「では一度試してごらんなさい」と言われて、ピアノの指揮伴とシューマンの「春」の1楽章を暗譜で振った時のことです。クラスは最初から全て暗譜でしたから、暗譜にすら馴れていなかった当時、怖がりながらも最後まで猪突猛進、可愛らしい程の頑張りで振り終わり、皆から拍手が湧き起こりました。ほっとして横を見ると、皆が何とも形容し難い薄笑いを浮かべているのに気が付き、自分の顔が引きつるのが分かりました。「多少は振れるかも知れませんが、ここで勉強されたいのでしたら、一から勉強し直す必要がありますね。暫く見学でもしながら、好くお考えになったら如何ですか」先生の言葉には、想像を絶する距離感がこもっていて、絶望しました。そうして、あれから数年間、雲を掴むような時間が過ぎてゆきました。

あの時の皆の笑いを、先日の審査の最中にふと思い出し、自分の過ごした8年もの時間に思いを馳せました。確かに時間は絶望的な距離感から、ほんの少し自分を救い上げてはくれたけれど、結局のところ、寧ろ確固たる距離感が歴然と存在することを、認めるに至っただけではなかったのでしょうか。戦争前夜の暗さを思う時、東京が途轍もなく遠くに感じられるだけかも知れませんが。

(2月23日夜半。モンツァへ戻るバス車中にて)



女子供の言葉  もりみつじゅんじ
                     

時間の使い方だけではなく、時間に縛られずにすむというのも青空文庫の作業の特徴だと思う。私は夜行性でありながら昼間出勤するという生活をしているので余計にそう感じるのかもしれない。暗くなると頭が動き始め、日没から夜明けまでが集中できる時間なのだが、それは勤務時間帯の制限であまり仕事には使えない。そういう時間帯は読書向けというよりは仕事・勉強向けなのだが。もちろん1文字1文字念入りにチェックする校正作業なんかにも向いている。そういう人々の時間を拾い集めていけば青空文庫のようなものさえ出来てしまう、とも言えるだろうか。

しかし夜中の作業にしても、あまり疲れてなければ、の話だ。夜行性でも昼間会社で一応夜は寝ているわけだが、それでも昼夜逆転の生活をしていると、日々なんということはなくても、長年そうやっていてしかもそれに全く慣れていかない、そのことに酷く疲れを感じてしまう。これは単に適応力がないという話なのだろうか? すると夜勤な仕事を探すべきなのか。それとも仮に夜勤状態だったとして、その場合には世の中の真っ当な生活時間とのずれだかなんだかに対して同じことを感じるわけだろうか? まあそれはどちらにしても、こういうとりあえず破綻なく生活はできるのだが、その中で感じさせられる違和感が消えないというようなことはよくある話なのだろうか。生活の澱が溜まるとかいうものではなく、気に障る雑音が常に続いているような状態のことだ。それとも皆、神経の許容量を超えてもひたすら無視しているのだろうか。

そんなことを考えてしまうのは赤坂真理著『ヴァイブレータ』(講談社文庫)を読んだからだが、「あなたのことが書いてある。」と帯にあるこの作品にはそのとおり私のことが書いてあった。語られる言葉についての話や主人公のつぶやき「あたしに自分の言葉はない。自分の言葉を書けない。」あたりはかなり一般的なことかもしれないが、その内容よりもその文章が、文体や作法が私の書くものになんだか似ているのが不思議な感じだ。私は赤坂系(?)だったのか。確かに「言おうとした言葉を一度、とりあえず呑み込んで調べる」という言葉に躓いた後の癖は同じで、それだと形式も同じようになるものなのかもしれない。

ところでタカハシ(源一郎)先生はこの作品を樋口一葉の試みになぞらえ、日本近代文学の「男の言葉」に対抗する新しい言葉だと書いている。支配・統制する言葉に対して、躓いたり壊れたりして、また完全黙殺されている弱者の声とでもいうことだろう。そこでやはり疑問なのは、そういう状態がどれくらい日本の「普通」なのかということだ。あなたは言葉に躓いてないだろうか。社会の現実に違和感なく暮らしているのだろうか。



ジャワでの舞踊公演(1)公演の背景  冨岡三智
                     

昨年の11月以来ジャワから寄稿してきたのだが、この2月13日に3年間の留学を終えて帰国した。帰国前の1月31日、2月1日に大きな公演に出演した。一般の公演とは少し違うものだったので、今月と来月にわたって報告したい。

 大学院の修了制作としての公演

この公演はSTSI(インドネシア国立芸術大学)スラカルタ校・大学院修士課程の修了制作として行われ、私は踊り手の一人として参加した。スラカルタはジャワ島中部の古都で、通称はソロという。
長くなるが、まず大学院の制度について少し説明しておこう。

インドネシアでは2000年からSTSIスラカルタ校、ISI(インドネシア国立総合芸術大学、ジョグジャカルタにある)、STSIバンドン校の3校で、実技で修士号を得るコースが設けられた。これはインドネシア初の試みである。インドネシアではまだ大学教官の学位取得が遅れており、現在大学教官が順に大学院に入って学位を取得している状態であるが、芸大の教官といえど従来は他大学で修士論文を書く必要があった。上記の3校では論文コースも設けられ、若い人はそちらに振られるが、キャリアの長い教官は実技コースに入ることができる。またSTSIを卒業したばかりの人が続けて大学院に進学しようとしたところ、数年間は学外で経験を積んでくるようにと学長から申し渡され、受験できなかったという。

大学院生は現役の教官・芸術家ばかりなので、授業レベルは非常に高く、実技コースの修了制作も1公演をプロドゥースするという大掛かりなものである。STSIの卒業試験では日時や会場は設定されており作品の長さも15分前後だが、大学院レベルでは作品のコンセプトにふさわしい場所(地域の限定はなく、また劇場である必要はない)や時期を選定し、作品も1時間以上でなければならない。

大学院舞踊科の実技を担当する主任指導教官はサルドノ・W・クスモである。他にも大学院教官はいるが、修了制作についてはサルドノが全員の面倒を見ると言っている。(ちなみに第1期生は8人、2期生で約10人いる。)いずれ大学教官が皆学位を取ってしまい、新学卒者が入学するようになれば、この状況はかなり変わってくるのではないか、と思われる。

サルドノ・W・クスモはスラカルタ出身の世界的な舞踊家、振付家である。「水牛の本棚」no.3に氏の著述「ハヌマン、ターザン、ピテカントロプスエレクトゥス」が掲載されているので、是非併せて読んでいただきたい。サルドノの師であり、以下でも触れるクスモケソウォについて多くのことが書かれている。

 制作者とサルドノと制作テーマ

私が出演した公演は2000年度入学の第1期生・Jの修了制作である。彼はスラバヤの教育大学でジャワ舞踊を教えているが、STSI大学院履修のためスラカルタの実家に戻ってきている。実はJは私のジャワ宮廷舞踊の師・J女史の息子である。J女史は宮廷舞踊家・クスモケソウォ(故人)の長男(故人)の嫁であるので、Jはクスモケソウォの孫ということになる。そこからクスモケソウォ、その次代のJ女史、3世代目の自分に至る舞踊の系譜とでも言うべきものを公演のテーマにすることになった。

クスモケソウォは宮廷舞踊家で、1950年以降設立されたスラカルタ、ジョグジャカルタの各芸術教育機関で舞踊を教えた。教育メソッドであるラントヨを編み出してもいる。そして1960年にプランバナン寺院でラーマーヤナ・バレエが始まるとその振付を手がけるなど、特に1950〜60年代のスラカルタ舞踊を牽引した。またJ女史は常にクスモケソウォのアシスタントを務め、氏の退職後はその仕事を引き継いだ。

しかしJ自身にとっては、舞踊家としての祖父、母は遠い存在だったようである。祖父が亡くなったのはまだ小さい時であったし、肉親に直接習うことはあまりなかったようだ。むしろ、そこに目を向けさせたのはサルドノである。サルドノは現在ではコンテンポラリ舞踊家・振付家として有名であるが、幼少からクスモケソウォとその長男、つまりJの祖父と父に師事して宮廷古典舞踊を修得しており、ラーマーヤナ・バレエでも主要な役を踊っていた。年齢からしてもクスモケソウォの業績を一番知っているのはサルドノだと言えるのである。だからこそ、Jが自らの系譜を辿ることはスラカルタ舞踊の発展を辿ることにもなり、それはJならでは不可能なことだとサルドノは考えたのではなかろうか。そしてその成果を本当に評価できるのもサルドノ本人しかいない、と私は思う。

サルドノとの対話からJは初めて舞踊家としてのクスモケソウォやJ女史に向き合ったようだ。クスモケソウォの作品の上演、特に現在上演されなくなったものを復活させる他、クスモケソウォとその次世代のJ女史のテクニックを用いて第3世代である自分が振付した作品を上演するという案が浮上した。するとサルドノは、クスモケソウォの作品はその弟子に踊ってもらえ、と言う。それは素晴らしい案で実現したが、関係者は「一番弟子のサルドノ本人が踊ったら?」などと冗談を言ったものである。

 私とJ女史と制作テーマ

ところで、なんで私が出演していたのか? J自身の作品については当時J女史の自邸でスリンピを学んでいた弟子達(STSIの先生達)を起用することが早くから決まっていた。そしてこの練習会を主宰していたのが実は私なのだ。というより元々はそれは私の個人レッスンだったのである。

私は1996年以来ずっとJ女史に師事して(私は1996〜98年にも2年間STSIに留学している)、スリンピ、ブドヨという宮廷舞踊の完全版を次々に習ってきた。スリンピは4人、ブドヨは9人必要だし、完全版は長くてほとんど習う人がいないので、当初はそんなものを習ってどうするの? と結構いろんな人に言われたものだ。それでも好きだったので、私1人で、また外人の友達と2人で細々と習っていた。

それが2000年の9月頃からだろうか、私がそれを習っていると知ったSTSIの先生が入れて欲しいと言ってきた。そのうち他の先生も常連として加わるようになって、私の個人レッスンはいつの間にやらスリンピ・ブドヨ練習会となった。そしてその踊り手がそのままJの作品に起用されたという訳である。したがって私達は公演よりずっと以前から、公演出演を目的とせずにJ女史に習っていた。これは今回の公演において非常に大切な点だったと思っている。というのは今回の公演では舞踊を学ぶプロセス(それは世代間の伝承でもあり、また踊り手個人の舞踊の追求でもある)を重要視しており、さらにジャワ舞踊の精神がにじみ出ることが一番求められたからだ。

しかし私を起用する前にJはサルドノに諮っている。下手な外人が入って作品の質を落としてはいけないからだ。OKが出たということで私はほっとした。実は2002年の1月に私はサルドノのスタジオでスリンピ・ラグドゥンプルの完全版を踊ったことがある。彼はそれを見ているので、それが評価されたのだろうか。その時はSTSI大学院の活動の一環として、私はJ女史と練習会のメンバーである2人のSTSI教官(これがそのまま今回の出演者となる)との4人で踊った。その時はJ女史の弟子としてこれほど嬉しいことはないと思っていたのだが、今回の公演ではそれ以上の経験ができたことを非常に有り難く思う。




スラチャイ・ジャンティマトンの短編より  荘司和子+スラチャイ・ジャンティマトン

水牛のみなさんごぶさたしました。ちょっとサボっている間に夏は過ぎ、秋も過ぎもう春の足音が聞こえそう。歳をとるとどうしてこんなに一年が速く過ぎ去ってしまうのでしょうか。どこかの国の心理学者によれば年齢と時の流れの感じ方は逆比例するとか、しないとか??

それで、この間といってももう一年あまり前になりますが、タイの詩人ジット・プミサックについて書いたことがありましたが、新年早々のバンコクポスト紙の特集記事によると昨年彼の72歳の誕生日に母校チュラロンコン大学で初めて記念行事が行われて名誉回復を果たしたということです。

50年前に彼が保守派の学生たちによって壇上から放り投げられて怪我をして追放された、その講堂に彼の作詞作曲になる『希望の星』という曲がはじめて鳴り響いたのです。70年代には彼はすでにスラチャイのような若者たちの〈希望の星〉だったのに、この大学はなんとまあ50年間もジットをネグレクトしていたわけ。

この曲は水牛楽団がむかし日本語でうたっていたような気がしますが。80年の10月にはタマサート大学のサッカー場の舞台でもうたったような。違いましたか?

さて、今回は詩人スラチャイの短編集『ドクアライゴマイルー(何の花だかわからない)』(美恵さんが本人からもらってきたもの)の中からいくつかを訳してみることにしました。今月はその本の序文ですが、生涯ボヘミアンのスラチャイの面目躍如たるものがあります。美恵さんもいつか書いていたように、20年間ちっとも変わりません。今でもTシャツによれよれのジーパンというかっこうでどこへでも出かけていくのです。

(荘司和子)

 

* * * * * *

生きていることの繋がり……。ぼくはいつもこれを見過ごしにしてきた。

あまがえるが脚に跳びついたりすると若い女はまるで感電でもしたように驚いて悲鳴を上げる。こんな反応は何度もなんども、そこかしこで目にしたり、耳にしたりしたものだ。あるときは無関心とか無気力とがこころに宿っていたり、自分の心配事で胸がいっぱいだったり……。自分が自分自身を習慣化して麻痺させていくのだ。

この20年ほどぼくは旅をしつづけてきた。定住の地がないかのごとく歩きつづけたのだった。人が望むもののひとつが住むところつまりできるかぎりましな家屋敷だとすると、こうしたものはぼくのこころの中には全然といっていいほどない。とくにぼく自身、それが可能なことなのか、もしくはそのために努力を惜しまず奮闘すべきことなのか、50を越えたこの歳になってもまだいっこうに分からないでいる。

この世界はなんとまあいいところなのだろうか。どこもかしこもだ。スイスからサムン、チェンマイ、プレー、ナン、プーカー山、パーマン山、それにインド洋の小さな島々だってどこもみなぼくは通ってきた。自分の故郷であるかのように休んだり、寝たり、住んだり、ふざけ合ったり、悲しんだり、寂しがったり、しょんぼりしたり、意気消沈したり、希望を亡くしたり。そしてぼくの胸の内には線になって砕け散っていくうちあげ花火がある。

ぼくは楽しく、陽気に歌をうたう。ぼくは泳ぎまわり水に潜っては岩と岩の間で蟹や魚を捕まえる。ぼくは山中のジャングルや林の中を一直線に歩いていく。ぼくは終わりが来ないかのように旅をつづける。前途に何があるのかも分からないまま。

ほかにいったい何があるというのか。

地面を突き破って伸びてくる若木がある。おぎゃあ、おぎゃあと声をあげている赤子がいる。病い、憂い、意気消沈がそこかしこにころがっている。薄明かりの中でぐるぐる動いているのは眼球だけだ。あらゆることがやって来ては通過して行ってしまう。

夜明けにはこころをほがらかにしてくれることがある。小鳥の鳴く声。市場でにぎやかに呼び合う声。天秤棒で籠を担いできた物売りのおばさんたち。買われていくのを待っている商品のやま。笑顔とここちよく響く笑い声。金や銀の鐘のように。

ほかにいったい何があるというのか。

現在ぼくは見過ごさないようになった。生きていることの繋がり、こころくばりや愛、やさしさや助けあうことを。この世界には国境がいっぱいある。けれどもこのような繋がりにはそれを妨害する国境がない。なぜならそれは美しいことで、境界がないし、あらゆるものを飛び越えていける小鳥のように自由だからだ。それはぼくが望むこと、あなたが望むこと、すべての人が望むことであって、どんな言語で呼びかけ合うとしてもそれはひとつのことなのである。それは誰ものこころの中にあるからだ。そしてそこから出て行ってしまうことがない。

(スラチャイ・ジャンティマトン)




平和のために



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この呼びかけは、全世界において市民から市民へ発信されています
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緊急……緊急……緊急……

戦争をやめさせます!

ブッシュ政権は核兵器の使用権限も得ています。私たちは大きな災害の間際にいます。この悲劇を止めることができるのは世界世論だけです。世界の戦争に反対するすべての人々による共同で継続的な行動を呼びかけます。

この行動はとても簡単なのです。毎晩現地時間20時にそのときいる場所の・家の・オフィスの・事業所の・車の電気を1分間点滅させます。そして同時に口笛やホイッスルやクラクションや鍋やフライパンで暗闇に音を与えます。私たちの抗議を見せ、聞かせるために。

「私が一人で何ができるのでしょうか?」と考えている何百万人もの人をこの行動に呼び寄せ、何百万戸もの家の電気が蛍のように点滅するには、行動を広めることが必要です。添付している呼びかけ分を広め、すべての宛先に送っていただけるようお願いいたします。メディア的な電灯点滅行動を企画してください。貴方のもっとも有名な作家やアーティストが電灯点滅をしているところがテレビに映るようにしましょう。組合や職業団体や市民団体がメンバーに行動参加を呼びかけてください。

戦争のない世界は可能です!

イラク戦争反対連合  
(労働者組合や公務員組合連盟及びすべての職業団体に加えて、
59の芸術団体や各界の市民団体からなるトルコの調整組織です。)


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戦争を止めることができます!
この世界は私たちのです!

この戦争で各々の死を殺人だと思い、落ちてくる各々の爆弾を自らの良心に投下されたものだと感じ、21世紀を平和の世紀にしたいと望み、戦争のない世界が可能だと信じる私たちは、イラクで戦争に参加するいかなる政府も犯罪者だと判断します。

*私は声を何百万人もの声に加えてアメリカ合衆国に警告します:イラクにさわるな!
*自分の政府や国会に警告します:この犯罪の共犯者になるな!

私は戦争を止めることに関する根強い要求を示すために2月15日土曜日から毎晩20:00に1分間電灯を暗くします。そして全世界の人々にこの戦争を止めさせるまで毎晩20:00に電灯の点滅を呼びかけます。私は、世界世論が各国政府より強力だということを知っています。

この呼びかけは、全世界において市民から市民へ発信されています。

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P.S. このアピールを貴方の国会や政府に送ってください。また、幅広く呼びかけ、さらに広めるために、すべての宛先に、団体に、友人や国際団体に送ってください。

連絡先(英語):+90-212-2929765
電子メール : peaceturkey@yahoo.com


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THIS IS A WORLD WIDE CALL FROM CITIZEN TO CITIZEN
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URGENT....URGENT....URGENT....

WE SHALL STOP THE WAR!

Bush has obtained authorization to use nuclear arms. We are on the verge of a major disaster. The only power which can prevent this tragedy is that of the world public. We call on all those people all over the world who are against war to join forces in JOINT and CONTINUOUS action.

The action is very simple: Every night at 20:00 pm local time, we will flick lights on and off for one minute whereever we are, be it our home, office or car. And at the same time, we will make the darkness reverberate with the sound of our whistles, horns and pots and pans to make others see and hear our protest.
If we can spread the word of this action, millions of people who say "What can I do by myself?" will get involved and the lights of millions of houses flicker like fireflies. Please circulate the appeal ATTACHED to this e-mail and send it to as many people as you can. Announce and endorse this action in the February 15th demonstrations in your countries. Organize special events where lights will be turned off to get press and TV coverage. Have TV channels broadcast your most popular writers, artists, stars flicking their lights on and off to participate in the campaign. Have trade unions, professional chambers and organizations, non-governmental organizations call their members to participate in the action...

A WORLD FREE OF WAR IS POSSIBLE!


NO TO WAR IN IRAQ COALITION (*)

(*) Platform in Turkey with broad membership consisting of workers' and state employees' confederations, all professional chambers, 59 art institutions and non-governmental institutions representing all sectors of society.

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WE CAN STOP THE WAR!
THIS WORLD IS OURS!

Holding that all war-caused deaths without any exception are manslaughter, feeling the pain of bombs dropped on Iraq in our consciences, wishing the 21st century to be a century of peace, believing that a world free of war is possible, we hereby declare that we will hold to account all governments who participate in the war in Iraq.

*Adding my voice on to the voice of the millions, I warn the USA: DO NOT TOUCH IRAQ!
*I warn my own government and parliament: DO NOT BECOME ACCOMPLICES IN THIS CRIME!

To demonstrate my determination to stop this war, I will be turning off my lights at 20.00 p.m.every night for one minute, starting Saturday, February the 15th. And I call on all citizens of the world to flick their lights on and off at 20.00 pm every night until we put an end to this war.

I am fully convinced that world public is stronger than governments.

THIS IS A WORLD WIDE CALL FROM CITIZEN TO CITIZEN.

*******************

PS: Send this appeal to your parliament and government. Send it to all addresses, institutions, friends and international addresses you know, circulate and disseminate it as widely as possible.

Contact information:
Phone: +90. 212 292 97 65
e-mail: peaceturkey@yahoo.com




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