2003年6月 目次
スラカルタの年中行事(1) 冨岡三智
戦争とイラクの子どもたち(2)目指せバグダッド 佐藤真紀
窓(3) スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳
「花」へ 御喜美江
しもた屋之噺(18) 杉山洋一
コルトーのシューマン 三橋圭介
Are you Experienced? 松井 茂
あひるのガアオ 大野 晋
経過報告 高橋悠治
今回と次回でスラカルタの1年の行事について述べよう。ただし以下に述べる行事の日付は今年(2003年)の場合で、各体験談の日付とは一致しない。インドネシアの主な祝日は宗教行事に由来し、それぞれのカレンダー(例えばイスラム暦は1年が約354日である)で日が決まるので、日付や各祝日の順序も毎年変わるのである。ここではどういう祝日があり、その場合にどういう芸能イベントがあるのか、留学期間中での体験に基づいて書いてみることにする。なお私の留学期間は1度目が1996年3月から1998年5月の暴動直前までのスハルト時代、2度目は2000年2月から2003年2月までのハビビ〜メガワティ時代である。
読んでいただければ分かるように、各祝日の行事はその前夜から始まっている。その理由は、イスラムでは日没から1日が始まると考えられているからと一般に説明される。しかしキリスト教のクリスマス・イブしかり、日本のお祭りの宵宮しかりで、その辺りの感覚はイスラムに限るものではあるまい。基本的にお祭りは前夜から寝ないで過ごすものだったというのも同じである。そのように寝ないで過ごすことをジャワではティラカタンと言う。
(注 ★は西暦で行われる祝日である。それ以外は毎年日が変わる。)
★1月1日 西暦正月
大晦日の夜にRRI(ラジオ局)やスリウェダリのワヤンオラン(舞踊劇)劇場に行けば、普段より力の入った演目の舞踊劇が見られる。
市役所では1999年に焼失するまでは一晩のワヤン(影絵)が上演されていた。市役所は2002年12月に再建され、23日に披露式典があってその夜にはワヤンが上演されていたが、その直後の大晦日にはなかったように思う。(披露式典の食事内容はかなりけちったものだったらしいので、その直後の大晦日にワヤンをするのは財政的にも無理だったと思うのだが。)
TBS(スラカルタ芸術センター)では、そこを拠点に活躍している芸術家が自分達で色々と上演し、また一晩のワヤンもあって、私は大晦日はいつもTBSに出かけていた。特に2000/01年度の正月は特別だった。最初は日没の祈りのパフォーマンスに始まった。そして21世紀に向けてカウントダウンをするということで、20:00から始まったワヤンを0:00に一時中断し、イスラム教、ヒンズー教、仏教、キリスト教の各代表者が集まって祈りを捧げ、続いてレンドラが詩を朗誦した。その後ワヤンは続けられ、一晩のワヤンが終わってからも、夜明けに合わせたパフォーマンスもあったりと21世紀への夜明けを意識したイベントが多かった。
しかし2002/03年正月の催しはつまらないもので、しかも0:00までに終わってしまい、ワヤンもなかった。これはその頃から各地の芸術センターへの政府補助がなくなって(全額か一部かまでは確認していないが)独立採算制になってしまったからなのだ。さらにこの日はテレビで、バリ島でテロ事件の犠牲者を悼む大掛かりなイベントの生中継があり、それには有名人も多く出ていて、家でテレビを見ていた人が多かったようだ。
・2月1日 イムレック(中国2553年正月)
中国正月とは太陰暦正月、つまり日本で言う旧正月のことである。2003年から正式に国の祝日となり、そのため今年は、スーパーで中華式年賀カードや正月用の食品をどっと売り出していた。ちょうど私が2度目に留学して来た頃から、スハルト時代には行えなかった中華系の人々の行事が行われるようになっていた。中華系の祝い事でなくともフェスティバルなど何かイベントがあるにつけ、バロンサイ(獅子舞)やリヨン(龍舞)が出て町を練り歩くということが行われるようになった。しかしこの正月には私は公演があって(「水牛のように」3月号、4月号で書いている)、どんな催しが町であったのか知らなかった。
ちなみにイベントがらみで鼓笛隊やパレードがある場合はだいたい、市役所からスリウェダリ(またはマンクヌガラン宮辺り)の間で、スラマット・リヤディ通り(東向き一方通行)を〜往復する場合はその北のロンゴワルシト通り(西向き一方通行)も〜通行する。私が住んでいたのがちょうどこの両通りの間で市役所の裏だったため、何かイベントがあると音でわかったものだ。
・2月12日 イドゥル・アドハ(イスラム犠牲祭)
この日の1ヶ月くらい前から町に犠牲用の山羊や牛があふれて、山羊臭くなる。この日の昼、カスナナン王宮から王宮モスクまでグヌンガン(食べ物で作られた神輿)が出る。
・3月4日 ジャワ=イスラム暦1424年正月
ジャワ人には西暦正月よりもこちらの正月の方が大事である。ジャワ暦の1月はスロ月と言い、一般にジャワ暦元旦のことをサトゥ・スロ(サトゥは1の意)という。この月は何事も慎むことになっていて、ジャワ人は結婚式や家の引越しをしない。そのためサトゥ・スロの前は結婚式ラッシュとなる。
さてこの前日夜(大晦日)にはキラブ・プソコ(宝物の巡回)という王宮の行事がある。まず夕方18:00頃からマンクヌガラン宮(分家)で始まり、マンクヌガランのプソコ(宝物)、そしてその廷臣達がその外壁の廻りを一周する。これは1時間足らずで終わる。本命はカスナナン王宮の方で、夜中の11時過ぎに始まる。こちらはプソコである白い牛(代々キヤイ・スラメットという名前を継承する)を先頭に他のプソコ(槍が多い)、廷臣達、村々からその巡礼に従いたいと出てきた人々などが続々と続き、王宮を囲む地域を1周する。王宮に戻ってくるのはほとんど明け方4、5時頃である。そのルート沿道には多くの人々が、牛を一目見ようと出ている。この牛を見たり、また牛に食べ物を与えたりするとルズキ(ご利益)があるという。
実は私も2001年にその行列に従ったことがある。歩いている間は無言でなければならない。ジャワの正装をして牛のテンポに合わせて歩くので非常に疲れる上に、夜中で体は冷える。しかし歩き終わった時の清々しい気持ちは、元旦に日付が変わった夜中の0:00に産砂神にお参りするときと同じだった。
また西暦正月と同様、RRI(ラジオ局)やスリウェダリのワヤンオラン(舞踊劇)劇場では普段より優れた舞踊劇が見られる。私も一度だけジャワ暦大晦日にスリウェダリで前座で踊ったことがあるが、後から多くの知り合いが来ていたことが判明し、赤面してしまった。案外多くの人が見に来ているようである。
・4月2日 ニュピ(サカ暦=バリ暦1925年正月)
・4月18日 キリスト受難日
2001年にカトリック教徒の芸術家を中心に、この日にプライベートなイベントがあった。カトリック教徒であるベン・スハルトというジョグジャカルタの偉大な舞踊家の1000日忌の日も近かったらしく、ベン氏を偲ぶ会をこの日に合わせて行ったのである。と言ってもカトリック的な楽器や歌を使うということはなく、ガムランや現代舞踊でよく使っている仏具のような楽器などを伴奏にインプロビゼーションで踊るというものだった。
またキリストの受難日だったか昇天祭の関連だったか忘れたが、カトリック教会では地域対抗の賛美歌コンテストがあるらしい。私の住んでいた隣の家の人もカトリック教徒で、よくそこに人が集まって賛美歌を歌っていたことを思いだす。
・5月14日 モハメット降誕祭
スラカルタ、ジョグジャカルタ、チレボンの3王宮では、イスラムを布教する手段として巨大なガムランを作り、降誕祭までの1週間王宮モスクの横で演奏して、人々をいざなった。それがスカテンの始まりで、この期間中は聖なる金曜日の前夜以外は朝から晩までガムラン・スカテンの演奏が続く。
この間王宮前北広場には様々な店が出、観覧車やメリーゴーランドなどが設置されて遊園地が出来る。ある年にはイルカのショーまでやっていた。40代半ば以上の人の話では、子供の頃はスカテンではレオッグ(東ジャワの芸能)など伝統芸能の上演があり、その賑わいぶりも現在の比ではなかったという。現在では伝統芸能は見られない。
降誕祭当日には、カスナナン王宮から王宮モスクまでグヌンガン(食べ物で作られた神輿)が出る。通常の年は4基(男女1対で2組)出るが、ダル年と呼ばれる8年に一度廻ってくる年にはその倍の8基が出る。2002年の降誕祭はその年に当たっていた。ちなみにイドゥル・アドハ、イドゥル・フィトリ(断食明け)でもグヌンガンが出るが、その数は半分であり、この時ほど人が殺到することはない。この神輿の食べ物を皆が争って取り合うのは、この食べ物に力が宿っていると考えられているからだと言う。
・5月16日 ワイサック(仏教大祭)
この日はインドネシア全土から多くの仏教徒がボロブドゥールに集まって大祭をするらしいが、私は行ったことがない。ある年にはワイサックの行事としてカスナンン王宮のパグララン(パビリオン)で、仏教団体の主催する仏教をテーマとしたワヤン(影絵)や舞踊の上演があった。
・5月29日 キリスト昇天祭
バグダッドに近づくと、道路わきには、戦車の残骸が乗り捨てられている。焦げて錆びて赤茶けている。劣化ウランが使われているかもしれないというので近寄らないようにする。そしてバグダッド市内。戦車があちこちに止められている。でもそれはアメリカ軍の戦車だ。アメリカ軍は道路を封鎖し、店もほとんど閉まっていてまるでゴーストタウンのようだ。政府関係のビルはことごとく空爆されて、破壊しつくされ、そしていまだに煙が出ている。戦車が街中を行進するとイラク人は好奇心でそれを見つめる。こんな立派な戦車見たことがないというのだ。子どもたちも戦車の周りに集まってきてアメリカ兵をからかっている。
ホテルを探す。入り口はすべてレンガでふさがれてしまいホテルが本当に営業されているのかもわからない。略奪者から身を守るための対策で我々は裏口からこっそりと入れてもらう。
それでも私自身ちょっとした自由を感じることも事実だ。今までは、サダム政権の下でどこへ行くにも許可がいる。そして一般人の家庭訪問は厳しく規制されていた。早速子どもたちを捜すことにした。今度は子どもたちの家を訪ねることができるのだ。シンドバッド子どもクラブに行く。ものすごい煙が我々に迫ってくる。略奪者がどこかのビルに火をつけたというのだ。シンドバッドクラブは、思い出の場所だ。9月に初めてバグダッドに来たときに‘担当’に「イラクの子どもに会いたい」といって連れてきてもらったところだ。この担当というのが当時のイラクでは曲者で、四六時中彼らがついてまわり全く持ってうっとうしい限りである。折角来たのに子どもがいなかったので、用務員のおばさんが「あたしの子どもに絵を描かせればいいわよ」といって子どもを連れてきた。そして隣の音楽学校からも子どもを連れてきた。そのときいたのがハイダル君だ。この子は面白い絵を描いてくれたのですぐに友達になった。そして一か月後にまたここのセンターに来たときにハイダル君と再会した。彼は画用紙いっぱいに顔を描いた。でも眼からは涙が溢れている。ちょうど広島の原爆の話を皆に聞かせたときだった。「だって貞子ちゃんの話。悲しすぎるんだ」というのである。
注:貞子は原爆の子の像のモデルになった女の子。2歳で被爆したが10年後に発病し白血病であることが判明。一年足らずで死んだ。
この地区も4月2日には激しく空爆されたので子どもたちはどうしているのか気がかりだった。
センターに行くと守衛のおやじが出てくる。ハイダル君のお父さんだ。
「どうしたもこうしたもありゃしない。略奪されてこの有様だ」センターの中はガラスが割られてぼろぼろになっている。床には本が散乱している。「見てくれ、エアコンも、ピアノも、バイオリンも、アコーディオンもみんな持って行かれてしまった」
あのステージに置かれていたグランドピアノもなくなっているのである。一体どんなやつらがピアノを持って逃げたんだろう。「ハイダル君はどこにいるの」と聞くと郊外の親戚の家に疎開しているという。そこで早速疎開先に連れて行ってもらった。
「あ! ハイダル君だ」僕たちは友達なので言葉はいらない。お互いなにを考えているかはお見通しだ。かばんから色鉛筆と紙を取り出すと、早速ハイダル君は今の気持ちを絵にしてくれる。
それは盗賊に襲われている絵だった。「僕たちの学校を略奪しないで」
子どもたちにとっての恐怖はミサイルとか戦車とかではなく略奪だったのだ。戦前多くのイラク人が言っていたのを思い出す。「難民になってここを逃げ出すかだって? ここはイラクだ。何で俺たちが出て行く必要がある?それに逃げたら最後略奪者にすべて持っていかれてしまう」
イラク人がもっとも恐れていたものはまずサダムフセイン。そして略奪者。アメリカなんてぜんぜん怖くない。夜を迎えたバクダッド。停電が続く。静まり返った町に轟音が響き渡る。米軍の戦車が移動しているようだ。そして銃声が聞こえる。どうも気になって眠れない。ろうそくの火の中で、略奪者がピアノを運んでいる姿を絵にしてみた。こんなふうかな。
ぼくは黙ったままだ。しきりに彼女の顔ばかりが浮かんでくる。もう一度捜してみたい衝動に駆られるのだけれど、自信がない。まあ、いいか、いずれまた、っていうこともある。きっとまた会うこともあるさ。それにしても今までは関心を持ったわけでもないのに、なんでまた今日ばかりこんなに興味をそそられるのか。
「なまずのカレーを袋に入れてよ」気のない声でぼくは注文した。
ここのぶっかけ飯売りとはそこそこ親しくしている。そんなにしょっちゅう食べに来るわけではないが、ちょっとした会話を楽しんでいる。みんなが彼女をジェーモアイ(中国人の姐さん)と呼ぶ。働き者だが美人ではない。身なりにも気を遣わない。膝上丈のショートパンツを穿いてシャツはといえばいつも汗でよれよれになっている。化粧っけがなくて口紅すら塗っていない。話すとユーモアはあるし言いたいことを歯に衣着せないでポンポン言う。ぼくはジェーモアイが気に入っている。彼女と話をしてさまざまなことを聞くのが好きだ。この辺りの昔のはなし、この辺りに住む人びとのはなし、彼女の家族、子どもとか亭主とかのはなし。。。ジェーモアイの亭主はタクシーの運転手で。。。
ぼくはまだ会ったこともない。。。だから考えたこともない。
この差し掛け屋根の下はいつも寄って、そこに腰掛けたくなるような小さなスペースなのだ。毎日ぼくはそこを通りがかる。ポケットに一銭も入っていない日でも(たとえば今日もそうなのだが)気にすることはない。いつ払ってもいいのだ。
「彼女はどこで働いてるのかなあ」ぼくは尋ねるともなく尋ねる。
「日焼け恐怖症じゃないのかねぇ」とジェーモアイ
「名前はなんていうの?」
「ノーンっていうのよ」
「美人だな」
「そりゃそうだわよ」
最前の僧侶がだんだん近づいてくる。もう10メートル足らずになった。老女がちょうど托鉢用の鉢に食べ物を入れて合掌し拝んでいるところだ。この距離では僧侶の顔がはっきり見える。精神の統一されていることを物語る静謐さを湛えている。インド系のように鼻筋が通っているが顔色は青白く髭の剃り痕が鮮やかに見える。痩身で背も高い。周囲のものごとに対して心を動かされる様子が全くない。そう、そのせいだ、それでぼくはこの僧に惹きつけられたのだ。心の平安が姿かたちに現れている。
「ジェーモアイ」とぼくが呼ぶと彼女は振り向いて、何か、というような視線を投げてよこした。
「ぼくは生まれてこのかた托鉢僧に食事をあげたことがないんだ」
ジェーモアイは意味がよくわからなかったようだ。
「ぼくは宗教からはぐれているのさ」
ジェーモアイはまだ分からない、というような眼で見るので、ぼくは付け加えて言った。
「無宗教なんだよ」
ぶっかけ飯売りは一言も応えなかったがなにやら分かりかねるといった眼差しでぼくを眺めていた。まあ、別にかまわないさ。そんなことに関心はない。
「ぼくも食事を差し上げたい」
「すればいいじゃない」
「どうやってやるのさ」
「そこらの人がみんなやってるの見てないわけでもないでしょ。ああいう風にやればいいのよ」
「ジェーモアイ」
「なによ」
「ぼくの代わりにやってよ。さっきのなまずのカレーでいいよ。ぼくには別にもうひとつ作ってよ」
「自分で差し上げなさいよ。そうしたら徳を積めるのよ」
「ぼくの代わりにやって。同じことだよ。ぼくはどうやったらいいか分からない。やったことないんだから。でもやりたいんだ」
ジェーモアイは分かってくれたらしい。なまずのカレーの包みをとりあげると僧侶の方へ向かった。今、僧はぼくの前一間ほどのところに立っている。他にも何人かの主婦が食事を献じている。ジェーモアイは包んであった紙から中のビニール袋だけを取り出して鉢に入れ合掌して拝んだ。
その僧侶はその間も何事にも動じない静かな表情を変えなかった。一方ぼくはそのときまた顔を上げてあの窓をもう一度見上げた。。。おそろしげな男がその窓から下を眺めている。その男はぼくに向かってわずかに笑顔を見せたようなのでちょっとは救われた気分になった。
緋色のスカートを穿いた女性はまた出てくるとその辺りでちょっとの間何かをしていた。ぼくの気持ちを察してくれているような。。そんなふうに見える。まあ、こんなふうに考えるのはひとりよがりにすぎないけれど、それでもいいではないか。彼女は微笑んでくれたのだから。ぼくは一言も彼女と口をきいたわけではない。女性に声をかけることができないのだ。愚かにもそこにじっと座りつづけている以外何ひとつできない。ぼくは彼女が仕事に出かけて行くのを見送った。まるで女王のように歩いて出て行った。象が歩くような足取りで。昔の人はそれを美しいと呼んだものだ。。。
あの僧侶はどこへ行ってしまったものかもう見えない。ジェーモアイは後から来た客とまた宝くじの一件でぼやいている。あの窓にもう関心はない。ぼくはなまずのカレーの包みを掴むと脚に筋肉痛を感じながら立ち上がってその場所を離れた。日差しはまだやわらかく暖かだった。。。
「昼前に金もってくるよ」と、ぼくはジェーモアイに向かって言った。
返事はなかった。。。しあわせを感じた朝。。。書きとめておきたくなるような。次にまたこんなふうに心地よくいい気分にひたれることはいつのことだろう。(完)
先週は6日間ドルトムントの大学で朝から晩まで教えたので、今週は火、水の授業を金、土に変更して、今日水曜日はラントグラ−フにいる。実はこのエッセイ書きのために、あえて作った時間なのだが、平日一人で自宅にいることは稀なので、なんかすごく得したような贅沢な時間に思える。そこで紙を机上に二枚用意し、一枚には「しなければならないこと」を箇条書きし、もう一枚には「したいこと」を書き出した。
「しなければならないこと」は、演奏家夫婦の場合、多分どこも似たり寄ったりと思う。
* たまった請求書を銀行から振込む
* 留守電、ファックス、手紙の返事
* 冷蔵庫内の腐ったものの排除と食料品の買物
* 洗濯 等など。
それに比べて「したいこと」は、夫婦でさえ全然違う。私の場合は:
* 時間を気にせず、いつまでも布団の中で本を読む(まだ起きてるの? なんて言われないから読書に没頭できる)
* 花やハーブを庭に植える
* 遊び好きの猫も飽きるまで、猫と遊ぶ(デブのおす猫はヘトヘトになって、8時間たった今なお、鼾をかきながら寝ている)
* 目玉焼きとゆで卵を心ゆくまで堪能する(ダンナがとても怖がる食べ物)
* 美容院でロングへアーをカットする(500グラム減量!)
前者のほうは半分くらい片付いた。
後者の方は5項目全て、思う存分エンジョイした。なかでも花植えが一番楽しかった。
以前、「蚤」について書いたことがある。それは猫が運んできた蚤に、ラントグラ−フの自宅でさんざん苛められた自己体験談だったが、以来わたしの回りの人達は、害虫と御喜美江をすぐ結びつけるらしい。
3月東京文化会館で行ったコンサートの感想を、ファックスで送ってくれた友人がいる。「美江は蚤で困ってるらしいけど、我家も下の麻衣が蚤にも懲りずにまた子猫を買ってきた。で、昨日インターネットで蚤専門の医者を見つけたから、よかったらおしえようか?」とまあご親切に。これコンサートの感想文。
音楽プロデューサーの中村ひろ子さんも年末に会ったとき、「御喜さんとメール交換するようになってから、“のみ”と入力するとまず“蚤”と出るのよ。ワッハッハ!」と。う〜ん、“飲み”と出てくれたほうが、まだ救われる気持ち。
今朝起きてきたら、母からファックスがきていた。それは朝日新聞に五木寛之が書いているエッセイだった。「虱は遠くなりにけり」というタイトル。内容は「漢字というのは、厄介なものである。」とはじまって、読めても書けない漢字が沢山ある、という話し。漢字が苦手な私への励ましかな、とよろこんだのも束の間、途中から横に線が引いてあって、そこに「みえの体験」と書き込んである。その部分を引用すると:……敗戦後、日本の浮浪児たちは、みんなシラミにたかられていた。引揚者にとっても、シラミは口々の友のようなものだった。戦後、シベリアに抑留されていた元兵士の話だが、寒夜、隣に寝ている仲間のほうからサーッとシラミが一斉に移動してくる。次の朝、その仲間は必ず息絶えていたという。・・・ 虱(しらみ)は書くことができるが、なぜか蚤(のみ)は、迷う。漢字をおぼえるには、意味よりも体験のほうが重要なのかもしれない。……
この話は実に興味深かったが、しかし体験しなければ書けない漢字なら、書けないほうがましだ。それにしても母は、「蚤」の漢字を見ると「みえ」に結びつけることが今回わかった。
以前、日本で購入した「ノミキャッチ」は効果があって、その粘着版には7、8匹の蚤がくっついていた。虫眼鏡でみると小さな頭に2本の長〜い足が垂れている。この足が、ものすごいジャンプをするのだろう。ちょっとうつむきかげんの頭が実に賢そうだ。蚤は針の穴ほどの大きさなので、虫眼鏡でなくてはよく見えないが、その粘着版には他にも数種類の虫が貼り付いていた。蚊や小蝿などは巨大で、拡大してみると蚤より下等に見える。
虫の種類が多いので粘着版を取り出し、その上にサランラップをはって標本のようにした。来る人々に見せると、誰もが非常に嫌がって、義姉は高校の生物教師をしていたというのに、「わ〜、気持ち悪い!」と目をそらし、いくら頼んでも全然説明してくれなかった。日本語ではどれも「ダニ」と訳されているが、ドイツ語では、「Zecke」「Milben」と全く違う害虫もいる。Milbenは大したことはない、蚤のようなもの。それに比べてZeckeは非常に恐ろしい虫で、人は脳膜炎をおこし死ぬこともある。森に多く、散歩やジョギング中に噛まれて気がつかないうちに毒がどんどん体内に入りこみ、血を充分吸ったZeckeは巨大な大きさとなり、やがて人間からポトンと落ちて、3000個の卵を産む。害虫の中では最も恐ろしいものなので、是非ともそれを確かめたくて標本を作ったが、幸いZeckeはいないようだった。ほっ!
夫はたとえそれが虫でもネズミでも、殺すことをものすごく嫌がる。復讐が怖いのか、心が優しいのか、それとも前世が虫だったのか、とにかく私がハエ叩きを手にしただけで、す〜っと姿を消す。私だって好きなわけじゃあ決してないけれど、仕方がないからする。空中でバシッと決める、一発技術も覚えた。これは一瞬の出来事できっと不安も痛みもないはず。自分だったらこれがいい。蚤は現在、我家にはいない。ダニや虱はもともといない。テンも最近来ない。外が暖かくなってきたので、ネズミの屋根裏運動会も、この頃は聞こえない。
庭とバルコニーには沢山の花が咲いているし、蝶々も飛んでいる。
私は花が大好きだ。小さな花も大きな花も、高価な花もタダの花も。都会の花も高山花も水中花も、とくに野草花なんか限りなく好きだ。「虫」から「花」へ、私のイメージをチェンジして欲しいという願いから、このエッセイを書いてみた。
(2003年5月28日 ラントグラ−フにて)
近所の用水路に水が流れるようになり、ボルガッツィ通りに面した小さな滝が涼しい水音を立てるようになると、道往く人が立ち止まって気持ち良さそうに眺めます。過日、ツバメの雛が羽をばたつかせ、道傍でもがいていました。つぶらな瞳をぱちくりさせながら、首をかしげてこちらを見つめるので、鳥に詳しい階下のおじさんに見せようかと手をさし伸ばすと、驚いてさっと飛び立ってゆきました。大したことをしていたのでもないのに、5月は目まぐるしく過ぎてゆきました。今日の新聞には、ベリオが逝去したことと共に、Juventus- Milanの決勝試合が大きく載っていて、大きな応援旗と応援用ラッパが道端で売られていました。学校ではベリオの死に興味を持つ教師も特にいなくて、妙な気もしましたが、実際にはそんなものかしら、とも思いました。
4月28日01:30自宅ベットにて
暫く忙しくて日記が書けなかった。Mの新曲は難しく、練習回数も不十分。どうしてフィナーレを使い出すと、作曲家の書き方は変ってしまうのか。以前は楽音から音楽を創造していた人間が、MIDI音源のCDを添付して、参考にしろと言われるのは耐えられない。
譜読みに音源など要らないと突っぱねると厭な顔をされるが、練習に行ってみると、作曲者が一番音が頭に入っていなかったりして堪らない。頭で音が鳴らせなくなり、稚拙なMIDI音源を頼りに、幼稚に組合わされた似非音楽に成り下がる。パート譜を作るには良いし、出版社が使うのも結構だが、作曲者は自分の欲しい音に深い要求と想像力を忘れないで欲しい。音楽が表面的になるだけでなく、演奏者が音を出す行為と音との関係も希薄になり、楽器が音を発することすら意識出来なくなるのは、呼吸の必然性が介在しないからだろう。
4月30日0:05セスト駅にて、バスを待ちながら
Quartetto Borcianiのシューベルトを聴きにゆき、帰って来るとこんな時間。モンツァ行きの終バスまで25分も待たなければならない。
朝からSの指揮のレッスン。彼はローマ国立劇場つきのバレエのコレペティで、バレエ指揮者になりたいとかでレッスンを受けに来る50がらみの男。ストラヴィンスキの「アポロンとミューズ」を持ってきたが、和声分析も構造分析も出来ていない。こんな難しいものを持ってこなくて良いと諭しても聞かない。古典作品でさえ和声の機能を感じられないのに、多調性をどう振らせればよいのか。なまじコレペティで音楽が中途半端に頭に入っていて、旋律ばかり振る癖が取れない。暗譜で振らせると、多少は音楽的になるが、こんな難しいもの、暗譜出来ないと不平たらたら。
ここまで書いて、終バスに乗れたと思ったら、次の停留所でバスが故障。やり切れない。
5月5日0:30自宅ベットにて
父よりメール、元気そうだ。小津の「東京の女」をテレビで見る。仲の良い姉弟がいて、弟の学費のため、姉がカフェで働いているのを知った弟は、ショックで自殺する。無声映画だが、音がないことにさえ気がつかない。「東京物語」も「秋刀魚の味」も、イタリアに来てから初めて見た。
5月7日02:00自宅ベットにて
今朝税理士の処へゆき、具体的な税金の支払い方法について説明を受ける。今年から正規の20パーセントもの附加価値税を払う決意を固めたが、何も知らなくて税理士に呆れられる。日本語で説明されても理解出来なさそうな内容なので、きちんと把握できているのか不安。
夜はG宅で夕食。帰りにEのバイクで送って貰い、メヌエルの人間にバイクは天敵だと悟る。30分ほど乗っただけで地面がぐらつき、軽い吐気。共通の友人のM夫婦がペルーに滞在、養子縁組のため試験的に子供達と生活を営んでいるが、文化の差など苦労しているとか。バイクの後遺症は次の日まで残った。
5月9日13:00地下鉄車内にて
学生オケの演奏会で、ピアノ独奏を弾く生徒のPと、モーツァルト21番打ち合わせ。緊張しているのか、ぼろぼろで驚く。音楽的な流れも、和声感も構成もフレーズも甘くて、2回通させてから、丹念に紐をほどいてゆく。
5月13日14:00 Sant’Agostinoのインド料理屋にて
今までEns. MDI練習。パート譜が無償で手に入ったので、6年前に書いた自作を演奏することになった。自作の譜面を勉強するのは苦痛。初めて指揮をする切掛けになったのは、学生時分に自作を発表しなければいけなかったからだが、あの頃とは状況が違う。楽譜を読むのは、譜面からファンタジーを発見すること。作曲家すら気がつかない何かを探し出す宝探しだ。たとえ自分が当初知らなかった側面を見い出しても、自らが作曲者だと、全てが無条件に認められて、喜びもない。何年ぶりかで食べたタンドリーチキンに、余程感激を覚えた。母のメールによれば、父は奥日光にFさんと山菜摘みに行ったとか。
5月20日10:30近所の喫茶店にて
昨日は学校に午後から出かけ、ピアノ協奏曲のブライトコフ版のパート譜をチェック。小節番号すら書いてなくて、一行づつ書き入れる。余計な表情記号も強弱も片っ端から消してゆく。ブライトコフの楽譜から、前世紀的なモーツァルトが浮び上がるのも面白い。
パート譜を国立音楽院に探しに行き、何時写本したものか分からない、茶色く日に焼けた、手書きのパート譜を見つけた。少なくとも100年以上前のものだろうが、インクもところどころ滲み、独特の味わい。ミラノ国立音楽院図書館は、ヨーロッパで最古の図書館の一つだという事を思い出す。こんなパート譜でモーツァルトを弾くと、違った音楽になるのかしら、等と素人臭く思う。
学生オケの練習に、生徒や教師も見学に来るが、今日は音響エンジニア科の生徒がオーケストラ録音の演習をする。音響エンジニア科を教えるMも作曲家で、7年前、初めてお互い知り合った頃は、共に作曲家という肩書きだった。
バロック・ヴァイオリンでうちの学校に留学中のI君が、モンツァの拙宅を訪ねてくれた。彼とは大学の頃、一緒に演奏会を催した仲。ちなみに兄君は作曲家。去年までオランダで学んでいたが、食べ物も気候もイタリアの方が良いと言う。イタリアの女の子は本当にきれいで、参っちゃいますね。意思が服を着て歩いている感じだな。
5月22日12:00ベットにて
今日は朝から全体の職員会議。国立音楽院の教育カリキュラムの大幅な改革で、今までのようにディプロマ試験を国立音楽院で受けさせるために生徒を送ることが出来なくなるかも知れない。会議の雰囲気は厳しい。国立音楽院と旧市立音楽院の、生徒の質の差がクローズアップ。国立音楽院は、音楽を中心に勉強する生徒の教育機関なのに比べ、旧市立音楽院は、演奏のレヴェルが低いのではなく、他大学などと並行し音楽も専門的に学びたい生徒が大半を占める。日本で音楽教育を受けて人間には馴染みがないが、生徒の大半は、医大や工業大、物理や法学などの論文を書きながら、学校へ来ている。
学校にマヌリやフェデーレを招待してセミナーをしても、時間的な制約から、参加出来るのは国立音楽院の作曲の生徒ばかり。こんな悪条件で学生オケを編成するのは大変だが、それにしては良くやっているとも思う。
5月23日11:20近所の喫茶店にて
学生オケの演奏会は盛況のうちに終った。協奏曲はそこそこの出来だが、モーツァルト39番の交響曲は練習不足。演奏会が終わり機嫌が悪かったが、周りは大喜びしている。何人かの生徒から、ザッツをくれる時微笑んでくれてどうも有難う。お陰で緊張が取れました、と礼を言われる。どこに仕事に行っても、誰と仕事をしても、同じ台詞を言われた。プロオケでも、アンサンブルでも。学生オケでも同じなのは興味深い。
5月30日01:50自宅にて
今日は物凄いにわか雨が降った。旧市立音楽院と国立音楽院の選抜メンバーで、共同の現代音楽アンサンブルを作り、両音楽院から指揮者が交替で棒を振る。今日はうちの学校で、現代音楽アンサンブル演習をやっているRの指揮。あのメンバーをよくあそこまでにしたものだと感嘆。練習風景も覗いたが、根気強く丹念に教えていて感心した。今日演奏されたペトラッシもベリオも、最近になり相次いで亡くなった作曲家。ベリオのコンチェルティーノを生演奏で聴くのは初めてだったが、作曲のディプロマ以前の作品だとは信じられない。爽やかな風を思わせる新鮮さは、時間が経っても変らない。瑞々しい空気が楽譜に閉込められていて、演奏のたびに、そこから溢れてくる。
朝、近所の喫茶店で朝食を摂っていると、郵便配達人が喫茶店に入ってきて、杉山さん、これ届いていましたよ、と大きな封筒を手渡してくれる。秋のフェスティバルで初演予定のLの新曲が出来上がり、取り敢えず下書譜をコピーしてオーストリアから急送してくれたのだ。その場で譜面を眺めると、活き活きした彼らしい音が生命を宿していて、嬉しくなった。
消えてゆくものと、生まれくるもの。世界が彼らのささやかな呼吸に満ちているのを
感じる。(5月30日 モンツァにて)
シューマンの夢を表現するためには「弾くのではなく、夢見るのです」。アルフレッド・コルトーは1953年のエコール・ノルマルでの公開レッスンでこう生徒たちに語りかける。かれの弾く「子供の情景」は胸を引き裂くような優しさやおののきにあふれている。
「子供の情景」は大人が子供用に書いた幼稚な絵本ではない。大人が大人のために書いた子供のころの思い出。それは切れ切れになった夢の記憶として複雑に楽譜に音に折り込まれている。技術的には子供にでも弾くことができるが、けっして子供には弾くことができない。この作品集には迫り来る狂気におびえるシューマン、影につつまれようとしているシューマンが光を求めて書きつづった夢想がつまっている。
コルトーはシューマンの幻想のヴェールをゆらめかすことができた。それはコルトー自身のなかに狂気に通じる何かがあったからかもしれない。今この原稿を書きながら、1947年に録音されたかれの「子供の情景」をきいている。
毎日が驚きに満ちた子供は目を新しく見開く。「異国から」はけっして悲しげではない。「夢」は各声部の対位法的の隙間から覗く夢への窓。ゆりかごを思わせる「眠る子供」のやさしい手触り、そして最後の「詩人のお話」では問いかけ、不滅のなかをさまよう。はしゃぎ回り、まどろむようなシューマンの音楽のなかには満たされ得ない眼差しが貫いている。
コルトーのピアノは右手と左手がもつれるように紡がれる声部が、別々の声のように固有の音色をもって鳴り響き、声の対立や共同から生まれる統合的な音の運動を生む。しかも円を描くように加速し、減速する音の動かした方など、こうした技術はシューマンの音楽が内在的にもっているもので、そこから複雑な感情が立ちのぼる。だが技術を支えているのは、音楽にたいする内面的な共感や思いだろう。
よく言われるミスタッチなどを気にしていたら大切なことを聴き逃してしまう。この永遠に刻まれた瞬間に耳をすまし、ともに夢見るだけでいい。コルトーのレッスンの模様は「The Art of Piano(DVD)」に数分間収められている。「詩人のお話」を「夢見ながら」語るコルトーのピアノは、一音一音がおののき、その放心した視線は彼方に、音は夢に果てていく。
Are you Experienced? 松井 茂
最近、やたらとジミ・ヘンドリックスのデビュー・アルバム『Are you Experienced?』を聴いていた。有名な「Puple Haze」やら「Fire」が入っているアルバムなので、それだけで楽しめるのだが、1967年に発売されているわけで、どうしてもちょっと時代を感じてしまう(クラシックを聴いている感じと言ったらオーバーかもしれないが、ややそんな感じ)。とはいえ、このアルバムをやたらと聴く気になったのは、そのコンセプトゆえな気がする。要するに、「音楽は(いや、なにごとも)体験なのだ!」とそそのかしてくれている感じがよいのだ。そんなスピリットが、このアルバムには横溢していると思う。しかし、私はべつに、そういう気風の時代を懐かしんでいるわけではない。2003年の現在進行形としてこのスピリットを感じているのであり、それが感じられるからこそ、このアルバムは名盤なのだ。いま巷間に溢れるエレクトロニカやポップスは、たしかに共感しやすいものだが、30年経ってどう聞こえることやら、と思う(まぁ、残ればいいってもんじゃないけどね)。
それにしても4月は、たまたま「経験だよなぁ、音楽は!」と久々に実感する機会が何度かあった。そのことについて以下に触れておきたい。
ミズマアートギャラリーで開催された岡田裕子個展「俺の産んだ子」にあわせて4月19日に行われた「平石博一ライブ&岡田裕子トーク」。平石氏のライブは、ギャラリー内の一室にアバウトに並べられた(といっても計画的に並べられていたのかも知れない)8個の、種類の異なるスピーカーによって音楽を再生するというものだった。断るまでもないが、この日演奏された曲は、このシステムのためにつくられた8chの音楽、数曲だった。それぞれの曲は、ブリリアントな小さな楽想を反復するシンプルな音楽だ。ようするにミニマル音楽、と言ってしまえるのだが、そう言うとなにか違うような……、システマテイックでありながら、もうすこし生命感がある音楽。例えば、サラリーマンの日常生活を考えてみたときに、外部から様子を眺めると、その人の生活が非常に機械的でストイックなものにみえるかもしれない。しかし、実際にはそのサラリーマンだって恋もすれば、喜んだり悲しんだりするだろう。家庭のトラブルだってあるかもしれないし、季節の遷り変わりを感じているかもしれない。それ故に、外からだけでは見えない感情を抱えて、日常生活の習慣に微妙な差異が生じていることもあるにちがいない……。
感情を移入した聴き方かも知れないが、そういう次元の聴き方があってもいいように思えた。そして、どの曲もあっけなく終わる。当然終わる直前までは、8方向の様々な距離から自分自身に向かっていた音が途切れる。無音。生と死の対比などと言ってもステレオタイプな感想に過ぎない(突然音が途切れるからといって過労死のアナロジーだ、などという気もない)が、オーケストラ曲が終わって感じるような寂しさではない。雄弁な無音。メールの確認をして期待した返事が来ていなかったときのような寂しさ(それも違うか)? とにかく無言。
平石氏本人に聞いたところ、このシステムの音楽は、スピーカーの並ぶ内側で聴いたり、外側を歩き回ったり、いろいろな場所から聴いてもらいたい。だから繰り返しが多いんです、という趣旨のことをはにかみながら教えてくれた。視点が移動することで風景が違って見えたり、ある位置からは見える、あるいは見えないという自体が起こる。それと同様に、平石氏の音楽は、生きた人間が主体的に動くことで、意識的に聴こえてくる音楽なのだ。それが、さきに述べた感情移入をさそうのかもしれない。いずれにしても、そういう時間や空間の経験を要請する音楽なのだ。参考までに、平石博一のHPは、http://cat.zero.ad.jp/hiraishi/index.html
4月20日。知人がヴァイオリンを演奏するアマチュアオーケストラの演奏を聴いた。自分よりも若い指揮者による「悲愴」。思っていたほど新鮮ではなかったが、訴えるものはあったような気がした。やりたいことが意味不明にとっちらかっている感じが、自分と同世代な気がした(と言っては失礼だろうか)。さらに、不覚にも私は、日本にこれだけアマチュアオーケストラがあることを、この知人に会うまで意識したこともなかった。私は楽器ができないから、音楽はひたすら聴くばかりだが、プロのオーケストラとは違う、おおらかさというか、好きなことやってる人たちの経験はそれなりに傾聴に値する。すくなくとも、こういうレベルで、音楽を体験する層があるのは、悪いことじゃない。
4月21日。ピエール・ブーレーズが指揮する、マーラーユーゲントオーケストラの演奏を聴いた。このオケは、オーディションで選抜された26歳までのヨーロッパの若者だけで編成されたオーケストラだ(欧州以外の国籍の人は入れないらしい。ちょっとどうかと思うが、微妙に分かる気がする)。メンバーたちは、この後、世界中のオーケストラの首席奏者になったりして散っていくそうだ。とにかく女性が多い(次代のトップ奏者に女性が多いということは、女人禁制のウィーン・フィルのレベルが下がっていることも頷ける)。それはそれとして、こういう合宿のようなノリで演奏するのは、オケのメンバーにとっても特殊な経験だろう。また、作曲家でもある指揮者の薫陶をうけるのも、現代では貴重な経験なのではないだろうか(もちろんよいことばかりでもないだろうけど)。
この日の演奏会の白眉は、ウェーベルンの「大オーケストラのための6つの小品」(原典版)だ。100人以上のオーケストラが、ほとんど希薄ともいえる響きを作り出す。CDで聴いても聞こえているんだか、いないんだかいつも分けがわからない音楽。私はウェーベルンの音楽はライブではなくてもCDでもいいんじゃないか、つまり楽譜の上だけの思想として知っていればいいと考えていたが、これは大きな間違いだということに気づかされた。音色はもちろんのことだが、ウェーベルンの音楽も体験すべき時間として意義がある音楽なのだと思った。1909年から10年に作曲されたというのだから、それなりに先見の明を感じさせる音楽といえるのではないだろうか。しかし、SPレコードの時代(かろうじてテープの時代)の人なのだから、音楽が生である、体験であると考えるのは至極当然のことだったのかも知れない……。
たしかに、当たり前のこと、と言われればその通りだ。しかし、5月25日にスパイラルホールで、デヴィッド・チュードアの「レインフォレストIV」が小杉武久らによって演奏され、それに私と同世代の聴衆が多く足を運んでいるのをみて(チケットは売り切れていたらしい)、ジミ・ヘンドリックスのアルバムを聴きながら、漠然と最近思っていたことが、改めて気になったのだった。チュードアの「レインフォレスト」は、音楽する体験、聴く体験を拡大した作品だと思うのだが、ここにこれだけ関心が集まるということは、つまり私や、その同世代の人々は体験するということに飢えているのだろう。
私の手許にあるチュードアのCDによれば、「レインフォレストversion 1」は『Are you Experienced?』発表の翌年、1968年に作曲(作曲というのかコンセプトとでもいのか?)されている。
なにごとも体験だ。たしかにその通りだ。古代において詩を読むことと詠むことが同期していたこと、それとて体験だ。過去のスピリットを盲目的に受け入れるのではなく、2003年なりの体験のありかたを考えてみたいと思った。
あひるのガアオ 大野 晋
あひるのガアオは動物園生まれ。かあさんあひるといっしょにいつも動物園の池の中ですごしていました。
「があがあ。いつもいつもお池の中はつまらない。あの塀の向こうには何があるんだろう?」
ガアオはいつもそんなことを考えて過ごしていました。
ある日、ガアオは決心をしました。
「そうだ。冒険をしよう。ひとりであの塀の向こうを見に行くんだ。」
そこで、ガアオは動物園の池から飛び出しました。
「おやおや、ガアオや。どこに行くんだい?」
向こうで、かあさんあひるがたずねます。
「うん。これから冒険に行ってくる。」
そうガアオが元気良く答えると、かあさんあひるはにっこりと笑い。
「そうかい。じゃ、遅くならないうちに帰るんだよ。」
と言いました。
これは、確か、小学校4年くらいに書いた自由文の最初の風景です。
さて、ガアオの冒険はどのように続くのでしょう。
私の冒険は、車や自転車、救急車や犬や猫、そして、たくさんの人間にガアオが出会います。最後に、かあさんあひるのところに帰ってきた子供あひるは、かあさんのいる暖かい我が家で安心して、今日であったいろいろな話をしながら寝るのですが。
(^.^)
お話はイマジネーションを広げます。イマジネーションの広がりは、未来を切り開く助けになるでしょう。子供の頃に、どんどん、空想を積み重ねる。そんな子供と大人を支援するサイトがあってもいいのかもしれません。
例えば、ここに一冊の電子本リーダーとそれに入った100冊のお気に入りの本があるとします。
いえいえ、たぶん、一枚の白い紙の方が空想を広げるのには良いのかもしれません。
大人たちは、ああじゃない、こうじゃないと、自分の固定概念で決め付けてしまいますが、子供はもっともっと自由です。
願わくば、青空文庫に集まった多くのテキストが、集めた者たちの思いもよらない奇想天外な使い方で利用されることを祈りましょう。
青空文庫は実験場であり、材料倉庫です。
6月
幻滅の年代により異なる顕れ。
ハンス・アイスラーのビデオを見た。連帯の歌の作曲者1930年代にはパリでも北京でも何百万人もがうたった歌。1940年代にはハリウッドで亡命者としてはよい暮らしいつも道化のようにこっけいで悲しい。やがてそれも下院の非米活動調査委員会によって断ち切られ最後には国家的芸術家の生活友人や同僚にさえも監視され裏切られ密告されて。共産主義の美しい夢も20世紀国家の現実政策のために喪われ。この矛盾は人ごとではなかった1950年代共同体のために役立ちたいという願いとしかもそこから自由でいたいという希望のあいだで。政治は1970年代以降もうあてにできる手段ではなくなった。
それからニコあのヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌手あれらの終わりの歌の作曲家歌い手が1960年代の幻滅の化身だった。ニコイコン本になった伝記と記録映画そしてフィリップ・ギャレルの映画いっしょに暮らしてニコ自身の出演する内部の傷(1970)をつくりニコの死後もその影にとりつかれてギターはもう聞こえない(1990)愛の誕生(1991)をつくった。蔭になったあるいは逆光の人の顔や背中を黙ってじっとみつめるがよそにいるだれかをどこにでもある映画のように演じる人工的な演技にはいらいらする。
1980年代のアメリカ中産階級の崩壊しかかった生活。みんなが引っ越してしまったからっぽの部屋であわただしい食事。老いた親たちや旧友を安心させるどころか心配の種をふやすだけの長距離電話。それでもかけるのをやめない。家族も愛も現実ではなくなった。地下鉄のなかでレイモンド・カーヴァーの詩をよんだ。すくなくとも目的地のない移動ではある。
ニコ1938年レイモンド・カーヴァー1939年生まれ。どちらももう死んだ。じっさいに会ったことはなかったが世代の失望はおなじものしかもその中間には別な分野での転落も知った。世界はまだ戦時下にある。...[つづく]
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