2003年7月 目次


初夏のあかるい夜空の下で             御喜美江
何の花だ?    スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳
バスラに行く                   佐藤真紀
しもた屋之噺(19)               杉山洋一
うさぎ不動産と病院のいい人2話      三橋圭介&ゆうき
インディーズ?                  大野 晋
スラカルタの年中行事(2)            冨岡三智



初夏のあかるい夜空の下で  御喜美江




今年になってから、ほんとうに沢山の人が亡くなった。
とても親しい人だけで8人も亡くなった。去年はまさに『病人の年』だったから、「今年こそは、どうか『健康の年』を!」と願って新年をむかえたはずだったのに。
そして、なぜかみんな、火曜日に去っていった。

故石井眞木さんには、学生時代大変お世話になった。当時ベルリンでいろいろなコンサートやイベントをプロデュースしてらした眞木さんは、いつお会いしてもバイタリティーに溢れ、性格も仕事もスケールが大きかった。無名の私と無名の楽器アコーディオンを拾ってくれて、どんどん仕事を与えてくださった。ベルリンにおける現代音楽シリーズ『Insel Musik』のリサイタルも作ってくださった。彼の紹介で作品も増え、現代音楽が急に身近になった。眞木さんは、ガミガミ怒るわりには、若い者への心遣いが優しく細かく、また出来るだけ出費が少ないようにと、常にご自分が運転して楽器の運搬や、移動の送り迎えを担当なさり、また時間の許すかぎり、お食事まで作ってくださった。「今日の夕食はスパゲッティ。僕の作るトマトソースには肉団子が入ってるんだ、うまいぞ!」と4、5人の貧乏学生にあたたかい夕食をご馳走してくださったことは忘れられない。キッチンの中央で、挽肉を丁寧に丸めている姿が、今でも目に浮かぶ。今年のお正月にいただいたメールは、仕事に対する意欲が満々に感じられ、またお孫さんの存在がたまらなく自慢で最高に幸せなものであることも、別の葉書に書かれていた。
まさかこんなに突然亡くなるなんて、想像すらできなかった。4月8日、お釈迦様のお誕生日に、この世を去ってしまった。本当にショックだった。

それからちょうど4週間後の5月6日、私にとって最初のマネージャーだった高柳増男氏が亡くなった。まだ61歳だったと知り、その若さに驚いた。ハーモニカ奏者の崎元譲さんの紹介で高柳音楽事務所の所属となったのは約25年前だったから、当時の高柳社長はまだ35、6歳だったわけである。のちに歴史に残る偉大なアーティストとなった人々を数多く見つけ出し、日本に紹介した。ブレンデル、ワッツ、ブリュッヘン、アニー・フィッシャー、ナヴァラ、クリダ、クリーブランド・クワルテット等、事務所においてよく耳にした名前は、彼の功績だった。耳が抜群に良く、お世辞が下手で、照れ屋で、気短で、でも常に夢を追っているようなマネージャーだった。あまりに若いうちに、大きな仕事をし過ぎたのかもしれない。繊細な心と体は、その圧力に耐えられなかったのだろう。上皮扁平ガンを現代医学は治すことができなかった。ドイツの列車の中でメールを受信し、彼の死を知った時、涙があふれて止まらなかった。

父が亡くなるちょうど2週間前の2月11日、二十歳の要ちゃんが交通事故で突然この世を去った。両親が住むマンション一階にある“よろずや”という食料品店の次男要ちゃんは、小さい頃から、お店の手伝いを自らすすんでする子として、近所でも評判だった。遊び盛りの頃でさえ、毎日笑顔でお店に出てきて、明るく元気に働くその姿は、回りの人々を幸せな気持ちにしてくれた。最近ではお父さんより背も体格も大きくなり、まさに“後継ぎ”としての貫禄にあふれていた。 ちなみに、「みえちゃんが日本に帰ってくると、御喜さん(母)が“よろずや”と“洗濯屋”の間を走る。」とご近所で言われるのは、嘘か本当か知らないけど(母情報)、でも要ちゃんを見ると、「あ〜、自分はなんて親不孝な……。」と反省させられた。要ちゃんはよくビールやミネラルウォーターを14階まで届けてくれた。動作が機敏で頭の回転も速いから、母は要ちゃんを絶賛していた。運転免許を取ってからは、お父さんに代わって車での配達や仕入れも熱心に手伝い、最近では夜になって店を覗くと、夫婦が仲良くお菓子を頬張っている光景なども、しばしばあったそうだ。2月11日も、そんなのどかな時間が店内には流れ、当時、病院帰りで疲れはてた母も、「“よろずや”で元気を取り戻して帰宅したというのに、実はあの同じ時間に、恐ろしいことが起こっていたのよ。要ちゃんの運転していた車が雨でスリップして対向車と衝突、相手方は幸い無事だったらしいけど、要ちゃんは東大病院に運ばれて……、お父さんお母さんが駆けつけた時には、もう亡くなっていたの。」とあまりの出来事に愕然としていた。それから2週間後の25日、父も死んでしまった。そのとき「パパは若い人の面倒を見るのが好きだったから、要ちゃんのことも大丈夫ね。」と母に言ったら「うん、ほんと、そうね。」と静かに答えた。父の通夜と告別式には、ご両親でいらして下さったが、その姿はあまりに痛々しかった。自分に泣く資格なんてないな、とも思った。 子供を失う悲しみを私は想像することが出来ないけれど、数週間経ったある日、「この間やっと事故現場を見に行ってきたの。その帰りね、ホームで電車を待っていて、入ってくる電車を見た瞬間、このまま死んでしまえたら、どんなに楽だろう、と思った。 あぁ、もう楽になりたいと思った。でも、私にはもう一人息子がいるから……」と涙ながらに語るお母さんに、終わりのない深い悲しみと、苦悩の声をきいた。あんないい子をたった20歳で死なせてしまうなんて、運命はずいぶん残酷なことをする。

カレンダーでは今日から夏がはじまる。10時を過ぎて、鳥達が寝静まり、風も息を止める頃、明るい夜の空からは静寂がきこえてくる。その中へ、耳をすまして、声をさがす。でも何もきこえない。 
 みんな どこにいるのだろう……

(2003年6月21日ラントグラ−フにて)




何の花だ?(ドクアライ・ゴ・マイルー)   スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳




1995年4月、ソンクラン祭(タイ正月)も過ぎたころ。。。(注・4月は1年で最も暑い季節)

風が多少でも吹いてくれるだけましだ、というような日の黄昏時。コンクリートの林立する完成された大都会へと変身しつつあるバンコクの一隅。ぼくは爽やかな風とともに名も知らない花のここちよさを感じていた。その花はゆっくりゆっくり散っている。花のひとつひとつがはっきりと見える。時折2、3個の花がいっしょに落ちてくる。もう何日もこのようにして散りつづけている。ぼくはいつもここに車を置いている。それで車の屋根やフロントガラスに載っているこの花を払い落とさないとならないから分かるのだ。まるで落ち葉が散るように散っているのに、それでも木の上では今までどおり美しい花を枝いっぱいつけているなんて、信じられるかい?

「あれは何の花だ?」と、ぼくは居酒屋の前にある駐車場の管理人に尋ねた。
「ブゲンベレアでねえが?」と、彼はイサーン(東北)方言で言った。それは答えているようでもあり、推量しているようでもあり、尋ねているようにも受け取れるものだった。彼ならこの花の名前を知っていてもよさそうだと、ぼくは思っていたのだが。
「なに、ブーゲンビリア? そりゃ違うだろ」ぼくは聞き捨てにできずにすぐに言い返した。ブーゲンビリアならばぼくの方がよく知っているという自負の念があった。

現代では田舎の人間にせよ都会の人間にせよ樹木の名前も花の名前もろくに答えられない者が多い。たった一種類の花の名前すら知らない者もいるくらいだ。

その花はまるで音楽のように一定のリズムで間隔をおいて散ってくる。あたかも死を迎えて枝を離れたものがゆっくり、ふわふわと落ちてくるようでこころが釘付けになる。花びらは極めて薄いしわしわの縮みの布のようで、色は淡い紫かそれともピンクがかった紫といったらいいか。そう、ちょうど日本の桜が4月に通りに面して枝いっぱい満開に咲いているのに似ている。ぼくは日本に行ったことがあるので実際この眼で見たことがある。けれどもいつのころからそう感じるようになったのか分からない。ぼくひとりだけがそう感じるわけではない。日本へ行ったことのない者でもそう感じている。

「さぐらの花だろよお」と、管理人は風のようにつぶやいた。

2、3日前からこの花のことがこころにひっかかっている。初めはスケッチしておこうかと思ったのだが、線を引いてみるとうまくいかなかった。ボールペンの状態が悪いのか感じたとおりの線になってくれないのだ。どうしてうまくいかないのかと、あせらずに理由を考えてみたが、それでもやはりだめだった。却って難しくなっていく。

それ以上自分に逆らう気もなかったのでこんどは坐って詩を書くことにした。けれどもまるで風の行方や日の光のようにとりとめもなく冗長になるだけで、これも意図したようにいかないのだった。

紙を広げボールペンを握る。短編でも書くほうがましだという気がしてくる。もう長いこと書いたことがなかった。気の済むまで書きたい。書いて書いて書いて、文字が鎖のように繋がってくるまで思う存分書こう。ところが手の速度は頭の回転についていけないから、鶏が爪でひっかいたような悪筆になってしまう。じきに筋肉が強張ってこってしまった。ギターを弾くようにはいかない。ギターを弾くときはリラックスしているのに、書けば書くほど痛くなりすっかりこってしまった。毎日書いていればこんなことにはならないのだろうが。(続く)



バスラに行く  佐藤真紀




イラクは夏を迎えた。日中は40度を越える。1921年7月8日のことだ。イラク南部のバスラでは、地球上でもっとも高い気温58.8度を記録したという。バスラは、バグダッドから車で6時間かかる。今回のイラク戦争では、激しく攻撃され、水もない、電気もない状況でコレラになる子どもも増えているとのことだった。

暑さに弱い私としてはどうも気が進まないが仕事となると仕方がない。覚悟を決めて出発だ。
しかしもっと気が進まないのは、米軍が用いた劣化ウラン弾の影響である。劣化ウランを含んだ砂塵が舞い、子どもたちの体内に吸い込まれていく。結果多くの子どもたちが白血病や、小児癌で苦しんでいるという。

実際、バスラの砂漠は不思議な色をしていた。空はどんよりとクリーム色。常に砂が舞っているので日差しは意外と強くなかった。エッフェル塔のようにも見える高圧線がぐにゃりとつぶれている。私は、バスラはきっと廃墟になっているのだろうと想像していたが、着いてみて、驚いたのは、ちょっと洒落た港町なのである。街中には占領軍の兵士がいない。「イギリスはイラクのことを良く知っている。かつての植民地に戻ってきたのさ。アメリカの占領とは大違いだ」とうれしそうに語るイラク人もいた。

昼間はともかく暑い。温度計を持ってくれば良かったのだが、これは50度を超えているのだろうと。なぜなら通りには人影がほとんどないのだ。

人間は体温が43度を越すと命の危険にさらされるそうだ。そこで私はまず散髪をすることにした。値段は1ドル。結構丁寧に刈ってくれたので、時間がかかり、すっかり日が暮れてしまた。ホテルに帰る途中には、ぼろぼろのアパートが軒を並べている。どのような暮しをしているのだろうと興味深く覗いていると、イラク人も日本人が珍しいのかこちらを見る。私の好奇心より、イラク人の好奇心の方が数倍上だ。とその瞬間パシッと音がしたような感じがして、目の前が真っ暗になった。停電だ。こうなるとあちこちから人が襲ってきそうでなかなか恐ろしい。全く何もみえない中をさまよいながら何とか無事にホテルにたどり着いたのであった。命拾いという感じだ。

ロビーではアメリカ人らしき男が話しかけてくる。「ガードは必要ありませんか?」彼が差し出す名刺には、アメリカの警備会社の名前が書かれていた。なるほどなかなか儲かるビジネスだなと思った。明け方には銃撃の音が聞こえた。

翌朝ホテルの前には、格好のいい制服を着たイラク人が銃を持って車に乗り込んでいた。よく見ると昨夜の警備会社のマークが付いている。アメリカ人がガードをしてくれるのかと思いきや、イラク人を雇っている。民間の警備員よりイラクの警察が先だろうと思いながらも、これだけ治安が悪化していくとますます儲かる商売だ。
ともかくバスラの暑さに、脳みその半分は溶けてしまったような気がする。一度溶けてしまったソフトクリームを凍らせても元通りにはならないのと同じで、頭を冷やしても脳みその皺は元には戻らないようである。さてこれは大変だ。



しもた屋之噺(19)  杉山洋一




この原稿を日本で書くのは、初めてかも知れません。今年は、武生国際音楽祭に招いて頂き、気の置けないイタリアの連中と一週間、愉快に武生の街で過ごし、今は東京に戻る新幹線の中です。
今月一番嬉しかったのは、父親が漸く左眼の白内障の手術を受け、文字通り世界が一新された事でしょうか。数年前から口を酸っぱくして手術を勧めていたものの、いつも某か理由をつけては伸ばし伸ばしにしていたもので、ところが、いざ手術を受けてみて、父曰く「今まで白く見えていた蛍光灯が、青白く見え、木々の緑色が、全く新鮮」だそうで、文字通り子供のようにはしゃいで、朝5時から起き出しては、目に見えるもの全てに一々感激するので、一緒にいる母親は堪らないと笑っていました。

ミラノから東京に一瞬立寄り、武生に向かいました。東京駅から新幹線に乗るとすぐ、昔から使われているオルゴールのジングルが鳴るのはご存知かも知れません。東京で大学生活をしていた頃、CMの音楽を書いて暮らしていたことがあって、あの頃にこのジングルを使い、曲を作ったことがあるのです。ですから、このメロディーを聞くと思わず当時を思い出し、不思議に、日本に帰ってきた実感がしました。

東京から武生までは、遠い印象があったものの、実際に行ってみると、存外に近く、驚きました。尤も、車内でずっと翌日のコンフェレンスの原稿を書いていて、時間が経つのが分からなかったのかも知れません。
初めて訪れた武生の街の印象は、古い街並みが美しく、歩いてあちこち出かけられる距離感が、丁度ヨーロッパの小都市に似ている気がしました。

着いたばかりの時は、急場で頼まれた作曲ワークショップの指揮の譜読みで、毎日夜が明ける頃まで楽譜を広げていましたが、或る程度楽譜が読めると、少し自分の時間にも余裕が出てきました。
今回の音楽祭には、作曲講師としてヨンギー・パクパーンがドイツから招かれていて、個人的にもなかなか楽しく話したのですが、彼女が土地のお年寄りとまるで旧知の友人のように打解ける様に、何度も心を動かされました。お寺で演奏会があると、座布団に坐っているお年寄りに駆け寄り、「座布団は辛いでしょう、椅子をどうぞ」と勧めたり、土地の合唱団に参加しているお年寄りに話し掛け、素晴らしかったですよ、と大喜びすると、言葉は全く通じていないのに、何故か会話が成り立つ様に、感心させられて、韓国の儒教文化とは、こういうものかと感じたものです。

毎日、幾つも開かれている演奏会のうち印象に残っているのは、音楽監督をしている細川さんとパクパーンの作品を中心に開かれた演奏会で、大きなホールの舞台に客席を設けて、出来るだけ演奏家の音楽を肌で感じてもらおうという趣向でした。木造の舞台に反響する演奏家の息遣いが、そのまま見事に聴き手に伝わる、素晴らしい空間だったと思います。演奏者と聴き手が一体化する、と言うと月並みな表現ですが、様々な客層(土地の様々な世代の聴き手)が熱心に耳を傾ける演奏会の素朴な雰囲気はヨーロッパそっくりで懐かしい、というのが率直な感想です。玄人が苦い顔をして坐る「現代音楽の品評会」、という雰囲気がなくなり、良くも悪くも(先入観に捕らわれない)「ただの音楽」として捉えられるのは、実は大切ではないか、と改めて思いました。

そんな中で、我がイタリアからの仲間はどう暮らしていたかと言うと、どこからか100円ショップを見つけてきて、フルトヴェングラーのCD等を購入。事務局の妙齢に何かと口実を見つけて話し掛けては、子供のようにはしゃぐので、ドイツ系の演奏家からは、顰蹙をかっていたのではないでしょうか。何しろ、夜になると赤く光る警棒を刀に見立てて、事務局の女の子とチャンバラごっこをするのですから。

かと思うと、愛人(複数)の土産に判子を買って帰ると言張り、「猫」とつく苗字はないか(結局「猫島」さんを購入)、Mayaに近い苗字はないか(結局「間山」さんを購入)と一緒に珍案を捻り出す羽目になったり、それなりに愉快に過ごすことが出来ました。共通の友人を通して、お互い名前は前から知っている、みたいな演奏家とも話が出来たし、10月にミラノでお会いしたきりだった湯浅先生とゆっくりお話出来る機会が持てたのはとても嬉しかったです。

永平寺に遠足に出かけた折、皆が階段続きの長丁場に肩で息をしているなか、湯浅先生が足取りも軽く、すたすた先を行かれるのには、びっくりしました。湯浅先生のマイ・ブルースカイが再演されるので、「そう言えば、昔、悠治の曲と一緒にレコードに吹き込んだズーコフスキーは、今はどうしているのかな、全然知らない」等と話しておられました。「この歌をきみたちに」のレコードは、愛聴させて頂きましたが、CDにはなっていないそうですね。
作曲の伊藤さんと、夜の演奏会の後、二人で夜中の定食屋で何時間も四方山話に花を咲かせたのも愉快でしたが、伊藤さんや湯浅先生の様に、長く外国で暮らした経験のある人と話し出すと、つい日本に帰るタイミングがどうこう、みたいな話になってしまいます。

ある日、練習を終え演奏家とホテルに戻る途中、ふと見上げると、或るお寺の見事な屋根に、まるで置物のような鶴が優雅に留まっているのに、皆すっかり感激しました。鳥のことは皆目知らないので、もしかしたらあれは鶴ではないのかも知れませんが、鶴のように白く大きくて典雅な鳥が、悠々と羽ばたいて飛び去る様は、本当に美しかったです。

武生に着いてすぐ、裏方を手伝ってくれた作曲の木下君が、「少しづつ分かって来るとね、杉山さんも、武生の奥深さにきっとハマリますよ」と話してくれたのを思い出します。一週間があっという間に過ぎましたが、思い返すと、素朴で暖かい地域の皆さんのもてなしばかりが頭に甦るのは、何故でしょう。
新幹線は新横浜駅に滑り込んだ処で、東京までもうほんの少し。終着駅に着く直前、又オルゴールのジングルがかかるに違いありません。

(2003年6月15日 武生から東京に戻る車中にて)


追記。日本からミラノに戻ると、とんでもない酷暑。イタリアは各地で体感温度40℃というの毎日が続き、冷房などでの電力供給に負担がかかり、イタリアの電力会社が一時中断するという騒ぎにまで発展。全く予告なしに供給を数時間ストップしたので、エレベーターに人が閉じ込められたり、冷凍製品にダメージがあったり、コンピュータ関連はすべてストップしたりと大変なスキャンダルでした。
原因は、イタリアが世界にさきがけて原子力発電所を廃止した国だったから。電力が足りなくなると、フランスの原子力発電所から譲ってもらっていたのが、今回は間に合わなかったというわけです。
大騒ぎしたイタリア人たちの言い分は、「原子力発電所を廃止したのは、世界に誇れること。足りないなら、足りないと先に言ってくれれば、こちらだって気をつけるでしょう」。
そう言えば、先進国で真っ先にタバコのコマーシャルを廃止したのもイタリアでした。

(2003年6月29日 モンツァにて)



うさぎ不動産と病院のいい人2話  三橋圭介&ゆうき




駅の改札をでると果物屋があることは前に書いた。その果物屋の正面に不思議な建物がある。ここは前に何か大きな建築物があった。でもそれが何だったかおぼえていない。取り壊されたときに、便利なスーパーでもできたらいいな、と思って期待して見守った。でもそんなものはできなかった。おおきな空間のど真ん中に3畳くらいの建物が立った。小箱のような不動産屋。もちろんガラスにはよくあるマンションなどの情報が張られている。でもそこで物件を探す人も、なかに入るもいない。建物のなかには大きな机があって、イスにはぬいぐるみのミフィーちゃんがいつも座っている。近くで見たわけではないが、机とのバランスから考えるとかなり大きなミフィーだ。色はピンク、いつもおなじ顔をしている。愛想をふりまくでもなく、ただ無表情に真正面の果物屋を見つめている。

つい最近、大きな事実を発見した。実は果物屋の通りにもう一件、人のいるごく普通の不動産屋がある。その入り口にちいさなイス、そこにちいさなミフィーが肩を寄せ合うように二つすわっている。色はピンクと青。このミフィーたちは実は小箱ミフィーのこどもだった。なぜこどもかというと、お互いにわれわれにはわからない通信を送っていたのだ。ある日、わたしが通り沿いの不動産屋にさしかかったとき、不動産の社員がちいさなミフィーを見つめ、急いでうさぎ不動産に走り出した。ここから先は想像だが、くるはずのない客がきたのかもしれない。親ミフィーが子ミフィーに伝え、さらに社員に伝えた。社員の確信をもったうなずきと慌てように魅せられ、わたしも引き返えして確認しようと思った。でもそれだけで十分だった。

何のためにうさぎ小屋不動産があるかわからない。だが何のために果物屋があるかもわからない。わたしの町は謎にみちている。

  病院二話

二ヶ月に一回くらい医者にいく。いつもらっている薬なので、とくに診察はない。こちらからこの薬とこの薬をください、と指示をだす。医者はいつも「わかりました」という。最近、持病にくわえ、目まいの薬をもらうようになった。その時のはなし。

医者はわたしの説明のあと、見せたお薬手帳(別の病院で処方された)をのぞき、「わかりました処方しましょう」といった。でも、なぜかカルテに書き込まない。不信におもったわたしは、もう一度指示をだす。「このお薬を2週間お願いします」。医者はもう一度「はい、わかりました」。一礼して診療室を出、会計をすませて、薬局にいった。でも薬がでてきてビックリ。あれほどくれといった薬がはいっていない。「オーマイテンプラコ」ではなく、「オーマイドクター!」

薬局のおばさんに確認し、再び診察室へ呼び戻された。「先程はすみませんでした。」 医者はあやまり、今度は得意の薬辞典で確認したふり。そしてドイツ語ではなく、カタカナですこし恥ずかしそうにカルテに書き込んだ(見逃しません)。そして再び薬局へ。おばさん「不運だったわね。あの先生、いい人なのに。(三橋圭介)

     *** *** ***

人々が賑わい心浮かれる5月のゴールデンウィーク。私は重度の風邪に苦しめられていた。はじめは自らの自然治癒力に期待をしたが、かなわず、ウィークデーに入ったことでいい加減観念して病院へと足を運んだ。まずは掛かりつけの病院へ。生憎休診日。喉が腫上がり、高熱と絶え間なく襲う咳にも限界を感じ、ついにまだ見ぬ新たな世界へ足を踏み入れることを決意した。

そもそも私の中では、病院選びはラーメン屋選びと同じ。他人がどんなに賞賛していても、私の嗜好とピッタリ合わなければ認めることはできない。そこでふと思い出したのが、駅前の一等地に厳然たる姿で聳え立つ一軒の個人病院。立地と知名度に関してはクリア。しかしそこは慎重を期すに越したことはない。私はリサーチを開始した。

まずは母親に。「あ〜そういえば駅前にあるね。行ったことはないけど」次は友人。「はいはいあるね。行ったことないけど」ついにはご近所の○田さん「立派な病院よね。かなり昔からあるし。でもうちは掛かってないわぁ」……そして不安がよぎる。しかし待てよ、この世知辛い世の中、病院ばかりに頼ってはいられない。そんな気持ちから私はかの有名な「お薬手帳」を携帯しているのではないか。症状はいつもと何らかわらないわけだし、これさえあれば、仮にヤブ医者につかまってしまったとしても、薬の処方に関しては物申すこともできるだろう。時間を見る。こんなことをしている間に9時半。世の常識では内科が最も混雑する時間だ。これは仕事を午前中半休するより仕方ないな。そんなことを考えながら門を叩いた。

広いエントランス。天井の高い開放的な空間。際立って衛生的とも言えないが、まぁよしとする。靴を脱いで一歩中へ。閑散とした院内。ここも休診日だったか……と諦めかけたその時、受付から年配の看護婦と思われる女性が声をかけてきた。「どうしました?」思わず「どうもしていません」と答えそうになったが、素直に「風邪です」と応じる。保険証の提出を求められ、レトロ感あふれる初診表に記入をし待つこと数分。自分は一体何を待っているのかを考えはじめてふと気付く。患者が誰もいない。2度目の不安が襲う。そこへ斜め向かいの奥まった壁から「ジョーーーーッ、ゴゴゴゴ……」と不快な音。ふと見上げると手を拭きながら尻でドアを閉めるおじいさんが目に入ってきた。

この待合室の状況をみれば容易に想像できるであろう唯一の患者に対し、不信感をあらわに一瞥。ビビッた私はできるだけ愛想よく挨拶をしてみる。すると彼は一変し「あ〜どうもどうも」と笑顔で去っていった。そしてまた数分。あの人物が医者であったのか半信半疑のまま、また患者が私だけであるのにこんなにも待たされることに疑問を抱きながら「女性自身」を読むことに集中していた。

ついに私の名前が呼ばれる。診療室には予想通りカレが待っていた。「どうしましたか?」とカレ。「風邪だと思います。私の場合症状はいつも決まっていて、まずは喉にくるんです。現在の症状としては、熱が38度強、それから咳です。いつもは○村内科に行っているのですが、今日は休診で。できればいつもの薬を処方していただきたいのですが」と用件を一気にまくし立て、お薬手帳を振りかざして予防線を張った。完璧だ。

ところがどうだろう、カレは一向に怯む様子はない。それどころかその穏やかな表情からは、私の話を聞いていたかどうかさえも読み取ることが出来ない。「で、今何歳? 風邪はよくひくの? 犬飼ってるんだぁ。どの辺の公園に行くの?」と差し障りのない世間話で5分経過。突然「うがい薬は持ってる?」とカレ。私はすかさず「とにかく喉は弱いので、1年365日、私はうがい薬を常備しています」「わかりました」と言いつつ、カレは首にかけていた聴診器を耳に移動する。やっと風邪の診療らしくなってきたと思ったのだが、例の世間話は止まらない。使用されない聴診器を耳にかけたままさらに5分経過。あれは聴診器ではなく、一風変わった補聴器か……などと考えている間になにやらカルテに記入して診察終了。

診療代を支払い、処方箋をもらって薬局へ。薬剤師のお姉さんから薬の説明を受ける。いつもの薬なのだから特に耳も傾けない。しかし聞きなれない名称が次々と発せられていた。「・・・薬。これは胃薬ですね。最後に――」そこで私は耳を疑った。「うがい薬」やられた。完全にしてやられてしまった。これだけのことをしてもまだ足りない。今後私はどうやって自分の身を守っていけばよいのか……。そんな答えのない問いを、自分自身に投げかけながら、私は悪化する症状をただただ感じるしかないのであった。(ゆうき)



インディーズ?  大野 晋
                     

インディペンデンスなものが取り上げられる機会が増えている。
映画界はビデオ映像が使えるようになって、山のように作品が増えているようだし、音楽の世界でも、インディーズレーベルを経てデビューするケースが目立っている。

そもそも、一般大衆の好みは千差万別。作り手や提供側の意向など考えてなどくれない。そこで、まずは、目や耳に触れる機会を作って、そこから市場にデビューさせようと言う戦略らしい。

では、小説やエッセイなどの分野ではどうかと言えば、最近はWEBや携帯電話への配信サービスから商業出版に繋がるケースが出てきている。つい最近も、携帯メール配信された小説が出版され、ベストセラーになっているらしい。
これはインディーズの「本」版というべきか。

WEB=本の新しい形

このような構図を描くことが多く、とかく、出版の敵として扱われることが多かった電子書籍やWEBであるが、結局は本の利便性、プレミア性の優位が崩れない限り、インディペンデンスな市場として定着するのではあるまいか?
そんなことを考える昨今である。

物書きは、WEBで発表するといい。
純粋に書く、読ませると言う行為はここでできる。
そこから食えるかどうかは、作品のでき次第。そして、あなたの運次第。
ただし、メジャーデビューにはそれなりの努力が必要だということをお忘れなく。

(2003年6月27日)



スラカルタの年中行事(2)  冨岡三智
                     


前回に続き、スラカルタの1年の行事について述べる。インドネシアの祝日はほとんどが宗教行事に由来し、それぞれのカレンダー(例えばイスラム暦は1年が約354日である)で日が決まる。そのため日付だけでなく各祝日の順序も毎年変わる。今回は独立記念日以降の祝日について述べよう。

★8月17日 インドネシア共和国独立宣言記念日
8月ともなると、家の塀や各町の門のペンキを塗り直したり、「独立〇年」(たいていの町の門には書かれている)の数字を更新したりする光景があちこちで見られる。そしてさまざまな催しが隣近所、町や市、学校や各種団体の主催で行われ、それらはトゥジューブラサン(「17日の行事」の意)と呼ばれている。芸術家達も単に催しに呼ばれて行くだけでなく、自分達の地域で色々とイベントを仕掛けているようである。踊り手にインタビューしていると、よく踊った機会として結婚式の他に独立記念行事を挙げる人が多かった。

私が住んでいた町の中心部では、芸術への関心は低かった。独立記念行事と言えば昼にはパン食い競争、スプーン競争(正確な名称は忘れたが、スプーンに卵をのせて走る)や子供の塗り絵大会など、夜にはカラオケやダンドゥットというのがよくあるパターンだった。それでもなぜかは知らないが街頭で映画を上演した年もある。

しかし伝統芸術に関心のある地域ではガムランの演奏、舞踊やクトプラ(大衆演劇)の上演などをしている。私が行ったスリウェダリ劇場近くのある郡では、郡内のメインストリートに3つも舞台が設けられ、夕方から(昼からだったかも知れない)それぞれの舞台で子供によるジャワ舞踊大会や地域の人々によるガムラン演奏があった。

また市役所では必ず一晩のワヤン(影絵芝居)があったものである。96〜98年には西暦大晦日と独立記念日前夜にはいつも市役所でワヤンがあった。98、99年は私は日本にいたので知らない。99年10月頃に市役所が焼かれ、それ以降2002年12月に再建されるまで市役所でのワヤンはなかった。今年の独立記念日はどうであろうか。

他の役所でも独立記念日の式典が前夜にあるようである。昨年スラカルタ郊外のある県でそれを見ることができた。本当はその式典を見るつもりで行ったのではなく、舞踊歌劇の上演があると聞いて見に行ったのだが。てっきり、役所の広場でいろいろ独立記念イベントがあってその内の1つだろうと思って行ってみたら、その上演は役所内での式典の一環で、出席者は制服姿の公務員や警察官ばかりだった。その式典は22:00過ぎ(予定では21:00)に始まり、いろんな演説があり、その折々に皆が「ムルデカ!(独立)」と叫んで拳を振り上げていた。この種の式典は日本では普通昼間にするのではなかろうか。ともかくこの行事はマラム・ティラカタン(マラムは夜、ティラカタンは一晩起きていることという意味)となっていたがオールナイトではなく、その舞踊歌劇の上演が終わった12時前後に行事は終了した。ところで、なぜこの舞踊歌劇が式典の一環で上演されたのか。実はこのグループはその少し前に県代表で中部ジャワ舞踊歌劇コンテストに出場し優勝したので、そのお祝いということだった。この県には芸大教官が多く住んでいることもあって芸術後援には熱心な地なのだが、それでも鑑賞しているお役人達は退屈そうな様子だった。

・9月24日 モハメット昇天祭

・11月25、26日 イドル・フィトゥリ(1424年断食明け)
イドゥル・フィトゥリの1ヶ月前から断食が始まる。王宮では断食期間中はガムランの音を出すことは禁じられており、舞踊の練習も1ヶ月休みとなる。この期間中に楽器や宝物を清めるという。

それでは町は静かなのかと言えば、そうではない。断食は日の出から始まるので、その前に皆食事(サウール)を取る。それが大体夜の2時半とか3時なのである。こんな真夜中にサウールを知らせるアナウンスがモスクから流れるのもうるさいが、それより前の1時半頃に近所の若い男達がグループでクントゥンガン(スリットドラム)を叩きながら歌い、「サウールの準備をしよう」と近所に触れて廻るのがもっとうるさい。これで必ず目が覚めてしまって、以後眠れない。これもイスラムの行事だとは思うものの、傍目には不良が夜中に騒いでいるのと変わりがないような気がする。

さて断食21日目の前夜からはパッサール・マラム(夜市)が開かれ、世間は何となくそわそわした雰囲気になってくる。あと10日で断食明けという期待で、みな買い物など準備に取りかかるのである。この21日目の前夜にはカスナナン王宮からスリウェダリ(遊園地や劇場がある)までキラブ(行進)がある。馬車に乗った王族、宮廷人、お供え物、衛兵に楽士、各地から来たサンティ・スワラン(ジャワ化したイスラム歌唱、ルバナという楽器に合わせて歌う)楽団の行列が一方通行のスラマット・リヤディ通りを逆行していく。スリウェダリのプンドポに着くとイスラムのお祈りがひとしきり続いて、その後お供えが撒かれる。この行事をスリクラン(21日の行事の意)と言う。この日以降、スリウェダリ劇場では毎晩催しがある。

断食明けはちょうど日本の盆正月のような大騒ぎとなる。みな田舎に帰省するため大ラッシュが起こり、交通機関の料金は普段の約3割増の特別料金となる。デパートには菓子詰などの贈答品が並び、服地屋ではバーゲンがある。かつての日本の正月のように服を新調するもののようで、私も「子供に断食明けの服を下さい。」と言う物乞いに家に来られた経験がある。年賀状のようにギフトカードの交換もあり、断食明けが近くなるとカード描きのアルバイトをする若者が郵便局やデパートの前に出現する。さて帰省すると一族はみな年長者のもとに集まって、日頃の非を詫び許しを乞う。子供が親戚からお年玉がもらえるというのは日本と同じである。そして皆で一緒に墓参りに行く。ところでインドネシアではほとんど年中無休で営業している店も多いが、断食明けの初日はさすがにどこの店も休みになる。

断食明けの5日目にはクパットとアヤム・オポールというごちそうを作って食べる習慣がある。毎年隣りの家のおばさんが差し入れてくれたことを思いだす。またスラカルタの端にあるジュルッ公園(動物園がある)ではこの日にクパット撒きがあるという話も聞いたことがある。しかし、このクパットにしろアヤム・オポールにしろ普段から目にする食べ物で、日本のお節料理のように年に一度だけの料理という訳ではない。なぜこの日にこの料理を食べるのかはまだ聞いていない。

★12月25日 クリスマス
独立記念日の項で県主催の式典を見たと言ったが、この県が行うクリスマス行事も私は見たことがある。クリスマスと言っても1月11日になってからの実施で、この場合も私は舞踊上演があるというので行ってみたら、役所でのクリスマス行事だったというものだ。役所のホールには巨大なツリーが設置され、その隣に普通はゴング(ドラ)を吊るような竜の彫刻を施した木枠にベルが吊られていたのを覚えている。ここでの舞踊劇を構成したのはカトリック教徒の芸大教官である。劇の構成はヘロデ王の虐殺のエピソードから、救世主イエスがこの世に生まれるまでである。面白かったのはそのジャワ化ぶりであった。登場人物の衣装が全くジャワのものだったのは言うに及ばず、羊飼いと羊(ちなみに羊役は子供で、うさぎの踊りの衣装を着ていた)の掛け合いが影絵のゴロゴロ(道化が登場する場面)よろしく話から脱線してしまうあたりなど、展開もジャワ人受けするようになっていた。

また芸大とその隣にある大学との共催によるクリスマス行事というのも見たことがある。この時はキリスト教の影絵=ワヤン・ワハユの上演があった。ダラン(人形遣い)はやはりカトリック教徒の芸大教官で、上演前に「教会で何か行事があるときには是非ともワヤン・ワハユを・・・」という宣伝口上があって、約1時間上演した。確か人形は一般のワヤン・プルウォの物だったように思う。

これもやはりカトリック教徒の芸大教官の話。彼は自分が行く教会で、寄付を募る箱を廻す人に舞踊振付をしたという。見たかったが別の人から既に教会へ誘われていたので、断念した。

そして私が誘われて行った教会での演し物は高校生によるお笑い宗教劇で、イエスは携帯電話を持って登場した。ここでは登場人物はスカートを穿くなど衣装が西欧的だった。

以上、自分が知らない行事は言及せずに、経験したことだけを書いてみた。私はスラカルタのことだけしか知らないが、多分インドネシアの他地域では、同じ祝日でもいろいろな過ごし方、やり方があるように思う。



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