2003年8月 目次
腐った詩 佐藤真紀
何の花だ?(2) スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳
トウキョウ旅行 桝井孝則
白夜の森と林の火 御喜美江
そこにいること! 大野 晋
しもた屋之噺(20) 杉山洋一
バックハウスのブラームス 三橋圭介
経過報告 高橋悠治
7月になって、イラクはもっと暑くなった。連日40度を超える猛暑だ。イラクの暑いのは有名で、アメリカもこの時期には戦争をしたがらなかったほどだ。私はと言えばともかく暑さには弱い。こんなところで生活しているイラク人達には頭が下がる。米軍も大変だ。この猛暑で長袖、重いヘルメット、そして、鉄の塊の防弾チョッキを着ているのだから。彼らも相当いらいらしているのがわかる。
7月4日、夜明け前にアンマンを出発した車は、でこぼこ道にさしかかったときにバーンという音がした。タイヤがパンクしたかと思ったがそうではないようだった。その後同乗していたN君が急に便意を催し、もう我慢できないといい始めた。砂漠のど真ん中、トイレなどはない。仕方ないので車を止めて、N君は岩陰を求めて走っていった。まもなく夜が明けようとしており、私たちは、彼が暗いうちに人知れず無事に用が足せるようにと祈っていた。しかし、なんとなく車の中には悪臭が残っている。当然疑惑は、N君に集中する。
運転手は、すっきりした顔で戻ってきたN君に噛み付いた。くんくんくん。「お前がくさい。次の停車場でズボンもパンツもはきかえろ!」私たちもN君を疑っていたがにおいをかいで見ると彼は白だった。我々は、疑惑を残したまま旅を続けた。
何とか、原因を見つけて悪臭の源を取り除こうと匂いをかいで見る。アンマンからバグダッドまで10時間以上の長旅だ。車の中でどれくらい寝れるかによって体調が決まってくるからだ。くんくんくん。「冷房を入れるとくさいみたいだ」「そんなことはない。この車はまだ2年しかたっていないし、今までこんなくさいことはなかった」
その匂いは、動物の死骸の匂い、あるいは猫のウンチ、あるいは靴下が腐ったようなにおい、競輪場にいた浮浪者の匂い、、、、
椅子の下には、毛布とサンダルが出てきた。くんくんくん。「運転手さん。これだ!」「違う! そんなわけはない」運転手の疑惑はあくまでもN君だった。助手席に座っていたN君は後ろに下げられ、代わって大学生のS嬢が隣に座ることになった。運転手の機嫌はいくらか良くなった。するといきなり、「私は、こう見えても文学青年だ。ガルシア・マルケスが好きだ。お金も持っている。田舎に牧場を買って一緒に住もう」と口説きだした。アラブでは良くあることだ。そして、詩を読み出した。「君の目は、まるでやしの木のように奥深く……」
通訳の石垣さんが訳してくれるのだが、皆大笑いするので、また運転手は怒り出した。
「もっと詩的に訳せ」
車もくさければ、詩もくさい。我々はとんでもない車を選んでしまった。
ホテルについて荷物を全部降ろす。結局匂いの元は限定できずじまいだった。
部屋に着くとかすかに悪臭がする。荷物を調べてみると、ソーセージの缶詰が爆発して腐った汁が飛び散っていた。原因はこれだった。他にもソーセージの缶がもっこりと盛り上がって変形しており爆発寸前のものが何個かあった。賞味期限は2005年までとあるが、なるべく冷たいとことで保存することと書いてあった。実はこの缶詰は、一週間前にヨルダンで買って食べずにイラクを往復したものだった。
イラクの暑さ、おそるべしだ。
何の花だ?(ドクアライ・ゴ・マイルー)(2) スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳
はじめは1本だけここに生えてきた樹なのかと思っていた。そう、ここにだけしかないたったひとつの樹。そんな特別な樹だとしたらなんともロマンティックではないか、と。ところがそうではないのだ。視野を遠くへ伸ばして見るとそこかしこにあるのが分かる。道路に沿って他の樹と交互に植えられている。その花は「天人の都、インドラ神の不滅の宝玉、インドラ神の偉大なる土地。。。グルンテープ」(グルンテープマハーナコン・アモンラッタナゴーシン。。。=バンコクのタイ語の正式名称)の大通りの歩道を埋め尽くすかのように散り頻る。どこもかしこもこのように散り頻っているのだとしたら夢のようだ。4月のバンコクは、だから黄昏てくるほど放っておけないような魅力にあふれてくる。
〈何の花だかわからない〉(ドクアライゴマイルー)、ぼくはこの呼び方が気に入ってしまった。無理をして本当の名前を探す必要もない。それにしてもこの花は道路掃除人にとっては余計な仕事を作ってくれる花であるのだろう。かれらはぼくのようにこの花を気に入っていないかもしれない。とりわけあまりきつい作業はしたくない、というようなけだるい朝には。。。
いまこの時ぼくは孤独にひたっている。つきつめてみれば自分ひとりしかいないのと同じである。誰とも口をききたいとは思わない。ただひたすらぼっと何かを考えていたい。ところが酔っ払った若者がしきりと話しかけてくる。ぼくはかなりな時間その男のはなしを聞いてやっているのだ。聞きたくない、と言ってしまえば角が立つ。それに男は自分のはなしを聞いてもらうのがひどく嬉しそうなのである。まあ、しかたないか、と自分にいいきかせる。
その男が手洗いに立つ。やれやれ自分だけになれるぞ。ぼくはするりと抜け出して表の空気を吸い込んだ。最前の席から抜け出せたことでえもいわれぬ喜びを味わう。そう、ここでだ、ぼくがこの文を書きはじめたのは。〈何の花だかわからない〉樹とは眼と鼻の先の距離に置かれたテーブルで。
花がまた散ってくる。散り止まないでいてほしい。重い頚木から解かれかつて経験したことのないような自由を得て、羽のように軽く、風がそよぐようにふわりと、ぼくの感性の中で明るく浮かび上がっている美しいもの。こころの中の種々の煩わしさが樹の葉が落ちるようにとれたとき、人はまた新しくなる。
携帯電話がまるでこうろぎが鳴くように勢いよく鳴り出した。買い換えたばかりの携帯だ。前のは盗まれてしまった。取り上げて電話を受けたが小さな声がわずかに聞こえただけで切れてしまった。何を言ったのか聞き取れなかった。まあいいさ、じきにまたかかってくるだろう。以前の番号は長く使っていたので知っている者が多かったが。。 呼び出し音が大きすぎた。。 ぼくは考えてから行動するというたちではないから、そのせいで後で痛い目に遭うことになる。電話をかけてくる者も多い。いいこともあるし、困ったこともある。しあわせな気持ちにしてくれる電話もあれば、通話を切りたくなるようなこんな電話もある。
「もしもし、お元気ですか? どうしておいでかと気にかけていましたが。ところでお金はいったいいつ返しに来て頂けますかね、もうずいぶん長くなりますが。。。」
だとか、
「おはよ〜、まだ夜も明けてないけどさ〜、金借りれないかなあ。。。」
だとか、
「ピー(年上の人を呼ぶ代名詞:注)ですよね。ぼく、チャリット。今ぼくエカマイにいるんだけど、バスターミナルのとこ。暑くてどうかなりそ。ピーは今どこよ。お金もって来てよ。バス代がないんだ。誰もいないし。暑いよ〜」
マイペンライ、マイペンライ(まあしょうがない、こんなものだ)。その花はまだ散り続ける。時の流れるままに、あるがままに逆らうこともなく。今、この場所で、ぼくは驚くほどこころが澄み渡っている。通りという空間を風が通り抜けていく。枝いっぱいに花を咲かせた樹がほの暗い光を受けて立っている。店の奥からは賑やかな音楽が聞こえてくる。そしてぼくは名指しがたい気分にひたりながら書きつづける。自分自身や想念の中に沈む何か重いものから解き放たれて、憑かれたように書きつづける。 (続く)
7月の半ば5日ほどの滞在で東京へでかけました。普段、旅行なんてものがあたまにないぼくはある思いきりが必要で、今回もやはり疲れた日常からの逃避旅行となりました。でもなぜ、それなら静かでゆっくりしたところにいかないのか? と言われれば、それは……。まあ、いつも自分がいるような忙しい日常を、そこからはなれた宙吊りの状態で客観的に見てみるのもいいものです。一か月ほど前から計画をたてて、ホテルを予約し、バスのチケットをとり、ガイド書を買ってお目当てのものに丸なんてつけてみるんですが、今回の旅行はどうやら人と会うことが中心のように思えました。
ビールを飲みながら夜行バスに揺られ約八時間、なかなか寝つけないかたいシートの上で目覚めると、窓越しの澄んだ空気の中に新宿の巨大ビル。朝5時半、新宿の真ん中に放り出されてどうしろというのさ? たとえ大都会とはいえ開いている店はない。昼になりオペラシティへ向かう、NTTのICC。今時のおしゃれな空間といった感じだけど、どこかよそよそしく冷たい空気が流れている。催しは「サウンディング・スペース」。広い空間にオブジェやコンピュータ、それなりに面白いものではあったけれど、それぞれの作家に天井から見下ろされているような気がしてどこかいごこちが悪い。夜は代官山のライブハウスへ。人は少なかったけれどほのぼのした雰囲気、ぼくもこんな感じで音楽をしたいと思った。
2日目は人と会う日。少し薄ぐらい喫茶店でコーヒーを飲みながらあれこれ。どちらもポツポツとしかしゃべらないのですごく空間的! な会話、この人も言葉を使わないで会話ができるんだ。コーヒーおいしかったです。夜は留学時代のルームメイトと久しぶりに会う。よく旅をするひとで、そのはなしをたくさん聞いた。自転車で東京から九州あたりまで旅をしたとか。
3日目。青山・原宿をぶらぶら、神宮前の住宅街を歩いているとピアニスターとすれ違った、あはは。夜は友だちと会う、「ライブが近くて喉に気をつけないといけないのでお酒は飲めない、ごめんね。」東京に出てきて約一年、やっとライブができるとうれしそう。彼は少し疲れて不安そうだったけどすごく充実した顔をしていた。ライブはぼくが帰る次の日にあるようで見れなくてすごく残念でした。
4日目も友人と会う。昼食を一緒に食べて、夕方までダラダラとしゃべった。彼も東京に出てきて約一年。「作家を目ざしてるんだけどここのところスランプ」とのこと。「期限を決めてなにか書いてみたら?」ということで彼が文章でぼくが音楽という結構むちゃな往復書簡をする約束をしました……。やっぱりこういう話はお茶飲み場から出るものです。
滞在最後の日、Bunkamuraの展覧会を見て渋谷とお別れ。東京駅方面へ、そこから地下鉄に乗り浅草、神保町とまわった。休日の浅草はすごい人、雷門にちょうちんはなく残念だった。夜まで東京駅のまわりを歩いて、バスに乗る時間。ビールを買ってまたあの窮屈な夜行バスに乗りこんだ。
旅行から帰って一週間ほどたちます、ふりかえるとあの時間はどこか切りとられた別のもので、自分の生活している時間の流れからは遠いところにあるのではないかとさえ思えます。旅行なんてそんなものだと言われればそれまでですが、特別な短い時間が日々の生活に溶けこむように何か感じられたらと思います。そして充実した5日間をにぎりしめながら、また煮え切らない日々を過ごしはじめました。
ヘルシンキから北へ約600キロ、フィンランド中部、トホランピという人口4023の小さな町に6月24日から8日間滞在した。ここは地図で見ると北緯64度。カムチャッカ半島の根元よりずっと北、アラスカならマウント・マッキンリーにほぼ位置する。地球儀をクルクル回すと、もうすっかりてっぺんのほうなので、地球一週の旅も2泊3日で出来ちゃいそう。グリーンランドもカナダもロシアも遠くない。
ヘルシンキ空港からは20人乗りのプロペラ機に乗り換えて、低い上空を木の葉のように揺れながら、何千という湖と広大な森の上を飛んでいく。山が全然ないので地平線は長く、そして限りなく遠い。澄んだ空気と横から照らす強い太陽光線の中に浮かび上がる景色は、ピントが120%合った3Dフォトのようで、慣れない目にはクリア過ぎて、痛いほど染みる。雲は白、空は青、湖は紺青、森は深緑と、それぞれの色が絵具のパレットのようにくっきり分かれて映る。
普段は通路側のシートを希望する飛行機内だが、このフライトだけは窓側に陣取って、眼下に広がる景色を一時間ずっと、飽かずに眺めてしまう。まばたきするのももったいないくらい、この景色は雄大で美しい。ちっちゃなプロペラ機のうるさい騒音も、上下左右におどる大揺れも、いつのまにか私の知覚からは消えてしまって、あるのは明るく大きな地球の表面。それに比べ、狭いシートにアコーディオンの半分を抱え、夢中に外を見ている自分の何と小さいこと。我ながら滑稽でちょっとおかしかった。
デュッセルドルフ空港を午前7時半に発ち、コッコラの空港に着いたのがお昼の1時半。光に向かってどんどん北上して着いたトホランピは、それからの8日間、晴天続きもあって一度も暗くならなかった。一週間暗くならないというのも不思議なもので、昼と夜の感覚が薄れていくと、曜日も何だかわからなくなってしまう。夜中の3時にカーテンを開けると、外はもう真昼の明るさ。そうなると、もう寝なおしはきかないし、あまり眠くもない。空気だけが少しひんやりしているかな。白夜の森は本当に美しいが、夜中に散歩をすると必ず蚊の大群が一緒についてくる。それで“夜”だとわかる。“昼”は鳥が飛んだり鳴いたりして蚊は少ない。というわけで、腕時計とスーパーの開店時間、そして鳥と蚊によって少しだけ一日にリズムが生まれる。しかし昼の授業も、夜のコンサートも、夜中の呑み会も、朝食も昼食も夕食も同じ明るさの中で過ぎていくのは、慣れない人間にとって、かなりの大事件である。
デュッセルドルフに戻った夜、夫と『リオハ』というスペイン料理屋に行って、大好物の“鰯のフライ”を頼んだ。テラスに座ってオリーブをおつまみに赤ワインを飲んでいると、何と日が暮れていくではないか。「あ〜、日が沈む……」と感激しているところに“鰯のフライ”が運ばれてきた。ところがその頃から睡魔が大きな波のようなエネルギーで押し寄せてきた。口の中にはパリッと揚がった美味しい鰯がいるのに、ほとんど噛めない。瞼が強烈な引力で閉じてきて、喋ることも億劫。手も足もだるい。「あ〜、眠い眠い……」を連発しながらも、こんな悪妻、他にいないだろうな〜と気になり、薄目を開けて夫を見ると、黙々と鰯のフライを食べているので、ほっと一安心。それから何とか夕食を済ませ、夢遊病者のようにアパートにたどり着き、『水牛7月号』を見てから、這うようにベットにもぐりこみ、どか〜んと翌日の昼まで熟睡。これが1日の火曜日。
それから2週間後の火曜日、ちょっと恐ろしい事件があったのです。
まだ興奮で震えながらMiマネージャーに書いたメールを引用する。(7月16日付)---------
午後7時頃、庭に出て水を撒いていた。裏の林の中から、子供達の声がしていた。また林の中で遊んでるな、と思った。すると、子供達は突然早足で逃げた。それで林の方を見ると、火が!
「えっ?!」と思ったときはもう火柱が立っていた。
一週間雨の無い、暑い日が続いて、全てが乾ききっていたからあっという間に火は広がる。私はホースを手に火のほうへ突進、無我夢中で火に水をかける。でも枯れ木が地面を覆っている林は、ゴーっという音をたてながら
火柱はすでに10m近い高さに・・・そしてものすごい煙・・・この時点で、「あー、これは大火事になる」と思った。住宅に火が移るのは時間の問題と思った。とにかく大声で「ファイアー、ファイヤ−!」を叫びつづけた。林の向こう側から「消防署へ電話する!」と返事があった。その頃から、人々が家から出てきて、バケツの水、砂袋、などによる消火作業が始まった。あるおじさんが私の手からホースをひったくり、火の中へ入って行った。私は庭にある10リットルの大きなじょろを両手に再び林へ。消防自動車がきたとき、火の勢いは大分おさまっていた。太いホースでジャージャー水をかけて、火は完全に消えた。ほっとしたら腰が抜けそうになった。
全てが秒単位で進み、これは本当に大惨事になるところだった。消防署の人から大変褒められた。
近所のおじさんが「アコーディオン奏者やめたら、消防署に就職できるよ」と言ってくれたけど、とてもとてもそんな度胸ありません。
それにしても、火曜日の夕方にラントグラ−フにいること自体が偶然、水圧を高にして木々に水をかけていたのも偶然、私の叫び声を近所の人達がすぐ聞いてくれたのも偶然。この辺の家は大きくて、家の中にいたら外の人の声は聞こえない。そして何よりも、最近買った鋭い飛沫にもチェンジできる長いホースが幸いした。
一件落着したあとも、ショックで体中が震え、まともに喋れない。血圧を測ったら上が150もあるので(普段は上が100)少々心配になり、でも赤ワインを飲んだら、すぐ下がったから、まずは一安心。
この頃から「あの餓鬼ども、許せん!」と腹が立ってきた。
今日は体中が筋肉痛。今朝アニタが来た時、2人で林に入ってみたら、高〜い枝も黒く燃えていて、恐怖を新たにしました。
ママに電話したら「今日はお盆の送り火だから、習志野が来てちょっと火を焚いたのよ」とまず言うので「えっ、火?!」とギョッとしました。もしかしてパパはラントグラ−フに火を探していたのかも。この日は日本時間で送り火の日でした。
----------裏の林の火柱で恐怖に震え、しばらくは火恐怖症になりそうだった時、しかし戦争はこんな比ではないだろうと思った。その想像を絶する恐ろしさに、自分なんかとても、とても立ち向かえない。火遊びをした子供達は、きっと親からさんざん怒られたことだろうが、この地球上で戦争を起こしている悪人どもは、すずしい顔で毎日テレビに出てくる。山火事や洪水があると、悲しい顔をして「最大の援助を!」なんて演説するが、もういいかげん冬眠して欲しいと思う。
(2003年7月30日ラントグラ−フにて)
本来、そこにいないはずの動物がノラで暮らしているらしい。
そもそも、自分たちの暮らしていた環境ではないのだから暮らしやすいわけはないのだが、日本にワニがいたり、ピラニアなどが公園の池にいたり、はたまた、ハクビシンやアライグマのような動物が里山に暮らしていたりする。実に、彼らにとっても迷惑なことだろう。
植物の世界でも、帰化植物などと分類されるような植物が人の活動の広がりにともなって日本のあちらこちらに生えていたりする。たんぽぽなどは、日本の在来種を探すのに苦労するのが現状だ。
そんな舶来の植物の他に、日本にもともと生えていた植物でも、山小屋のオヤジの趣味だとか、なんとか愛好家の好みだとかで山の片隅に植えられていてときどき学問筋で大騒ぎになったりする。
しかし、考えて欲しい。
実は、植物といっても、そこにあるのには環境や歴史やその他諸々の背景があるのだ。幾万年、幾億年の歴史と数万年かかる移動の結果、そこに、その瞬間にあるのだということを考えて欲しい。
例え、名の知らない植物であっても、「そこにある」ということにはそれなりの理由がある。「自然にいる」ということには、底知れないわけがある。昨日、今日、植えたのとは背負った過去が違うのである。
ほら、そう考えると、庭の草一本も抜くのに躊躇するだろうし、かぶとむしを逃がすことにも、少し考えるようになりませんか?(2003年7月29日)
イタリアは相変わらず猛暑が続いていて、100年ぶりの渇水という非常事態に陥っています。ポー川の水位が通常の7メートル以下に落込み、各地の水力発電所は軒並みダウン、飲用水、農業用水も大きな社会問題になっていて、アルプスの麓に作られた貯水ダムから、放水を始めたところ。
6月中旬に日本から戻り、また酷い眩暈に倒れて、二週間ほど家でのびておりました。忙しさにかまけて、躯に気を配らなかったためで、身になる仕事が殆ど出来ぬまま、すっかり時間ばかり過ぎてしまいました。夜は出来るだけ眠らなければいけないと言われているものの、暑気と時差ぼけの残りで、毎夜3時になると目が覚めてしまう毎日が続いたお陰で、深夜に再放送していたベリオの「C' e' Musica & Musica」というRAIのシリーズ番組を見ることができました。
70年代にベリオが企画、司会、指揮を担当した30分番組で、ブーレーズやシュトックハウゼン、ケージ、ノーノ、マデルナ、ドナトーニ、ブソッティ、ダラピッコラ等のインタヴューが豊富に挟み込まれながら、現代音楽から民族音楽、ベートーヴェンの3番の分析、イタリアの音楽教育批判など、興味深い内容を展開させていました。タイトル音楽がベリオの「シンフォニア」で、全体がサイケデリック?な雰囲気に包まれていました。
バーベリアンがモンテヴェルディに引き続き、ブソッティの「サドによる受難劇」を歌ったかと思うと、ボディラインを強調した、貴族趣味の服を着たのブソッティが、ヴィスコンティ映画にありそうな、きらびやかな鏡張りの部屋のソファーに寛ぎ、音楽教育について話したりして、なかなか厭きない内容でした。
いかにイタリアがメロドラマ一辺倒の音楽教育で、他のヨーロッパ諸国に遅れをとっているか糾弾する辺りは、今も30年前も言われる事は変らなくて、妙に可笑しかったです。メシアンの、自由で自然な教育姿勢を紹介するブーレーズのインタヴューに続き、パリ高等音楽院のメシアンクラスのレッスン風景が映し出されます。ドビュッシーのペレアスのオーケストレーションについて、メシアンがピアノを弾きスコアを指差しながら説明しています。
かと思うと、コーネリアス・カーデューが素人集団を率いて、延々と音楽イニシエーションを続ける様子やら(タバコの煙が充満した部屋で、皆がとろんとした目をして即興演奏している様は、どこかの阿片窟を思わせる雰囲気でしたが、ベリオのコメントは「この楽しげな演奏風景をご覧下さい! 音楽の枠を取り払うと、こんな自由な発想も出来るのです!、というもの)、カーデューが公園で餌をついばむ鳩の真似をする様子やら、ベリオが、ジークフリート牧歌をアメリカの音大オケとリハーサル風景する風景まで収録されていました。ベリオの知識の深さと交友関係の広さに驚嘆させられながら、世界中にエネルギーが充ち溢れていた時代が垣間見られる内容でした。
くらくらする頭を手で支えつつ、4月迄に譜読みを終える積りだったキブルツ作品を勉強していると、10月初演のG・ロペス作品の下書きが、作曲者から送られてきました。音楽を書かずにはいられない、作曲家の真摯な感受性に圧倒される、と返事を書き送って暫くすると、今度はインクで書かれた浄書譜が届きました。
ロペスはファクスも電子メールも一切使わず、グラーツ近郊の山の上に一人居を構え、作曲に勤しんでいるキューバ人で、目の前の風景を、自らの目と耳から直截に音楽にした実直さと純朴さがあって、スタイルのパレットをひけらかされるより、誠実な印象を受けます。実際に会うと、少し偏屈なところもある男ですが、それが却って自分の思うところの作曲家らしくもあって、好感を持って仕事が出来るのです。カールスルーエの仕事を終え、グラーツの山中に戻った彼から、つい一昨日に届いた葉書には、目をぎょろつかせる鰐の鼻に、鮮やかな蝶がとまっていました。
普段から親しく接している友人たちの作品を譜読みする機会は、実は余り多くありません。ですから、今秋、オーストリアで親友のマンカの作品を演奏出来るのは嬉しいし、普段とは違う緊張を味わうかも知れません。
出版社から更訂譜を受取る前に、アッダ川のほとりの彼の家を訪ね、二人で楽譜を詳しくチェックした時のこと。彼はスモモ入りの冷し紅茶を淹れて待っていてくれて、53ページの総譜を眺めるのに、休憩も入れず、ゆうに4時間はかかりました。何度も推敲されていた楽譜なのに、改めて10数個も間違いを指摘したりして申し訳なく思いつつも、曲の概要は充分に掴んでおけたので、こうして今自宅で粗読みをしていると、把握が楽で助かっています。彼の音楽は白か黒。1か0しかない処が彼らしく、敬愛するヤナーチェクに同じ性向です。古代ギリシャ建築のような、巨大な建築物が構築されるプロセスを、時間的に紐解いてゆくと、こんな構造に行き着く気がします。
11月にグラーツで初演するシャリーノの新曲の原稿も、出版社から貰ってきましたが、まだ全曲完成していなくて、仕上がった部分のみのコピー。近年のシャリーノのコンピュータ浄書譜には、以前の彼の手書き浄書譜の美しさが残っていなくて、個人的にはとても残念です。写譜屋のコスト削減とは言え、勿体無い気がします。
この後は、漸次書きあがり次第送附してくれるそうですが、先日受け取った楽譜は、いきなり初めから拍子もテンポもなく、「少し喘ぎながら」とだけ書いてあって、少々眩暈がしました。聴いてみて少し眩暈がするようだったら、この作品の演奏としては価値が高いのではないかしら。
来年の2月には、彼の「Aspern組曲」をポルトで演奏するので、10月にルシェルシュがミラノで同作品を演奏する折には、是非聴きに出かける積りです。高校生の頃にすっかりシャリーノに心酔して者としては、今こうして演奏にあやかれるのはとても光栄で、無知だった昔を顧みて、ほんの少し恥ずかしい心地もします。
こんな風に、音楽家がそれぞれ時間をやり過ごしつつ、音楽の歴史は現在も少しづつ延び続けているわけで、ベリオが番組に残した70年代も、結局似たような恙無い日々の累積だったのでしょうか。そんな事を考えながら、暑気と眩暈とともに机に向かう毎日です。(2003年7月20日モンツァにて)
中学生の頃、ヴィルヘルム・バックハウスはピアノ・レッスンのお手本だった。なかでもベ ートーヴェンをよくきいた。ピアノの曲が進むと見本だからと必ずレコードを買ってもらった。だから習ってもいない曲を練習したふりして、いろいろなレコードをものにした。協奏曲ももちろんあった。最近ひさしぶりにブラームスの2つの協奏曲をきく機会があり、あらためてバックハウスのブラームスをききなおしてみた。
戦前から戦後、そして晩年の演奏まで、協奏曲を入れてもバックハウスのブラースムはせいぜい5、6枚しかない。きいてすぐに気づくのはピアノの独特の響きだ。あのころはそういう意識はなかったが、最近ピアノをきくと無意識にピアノの音色をきている。バックハウスの録音をきくと、いわゆる平均律のピアノの平べったく、鋭い響きはない。少しくすんだ独特の響きし、和音や和声が変わると音色が微妙にかわるのがわかる。それはヴェルクマイスターの音律を思わせる。
バックハウスは1884年にドイツで生まれ、1969年に亡くなるまで第一線で活動した。かれがピアノはじめたころ、まだヴェルクマイスター風の調律がのこっていた。そうしたピアノをごくあたりまえに使い、あたりまえのように弾きつづけたということだろう。(調によって響きの異なるヴェルクマイスター風のピアノを途中から均質な平均律に変えることは、音楽のつくり方にまったく異なる技術を必要とする)。ほかのピアニストでは、少し下のホルショフスキーもヴェルクマイスター風の調律で死ぬまで弾いていたし、弟子のピーター・サーキン(ゼルキン)もそれとおなじ調律のピアノを今も使っている(父ゼルキンは平均律だ)。
バックハウスは子どものころブラームスの前で演奏し、かれの才能とピアノ協奏曲の冒頭をだぶらせて「輝かしいはじまり」と楽譜に書いてもらった。若いころはショパンをはじめいろいろな作品を弾いたが、年を経るにしたがってレパートリーはドイツ古典からロマン派のモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマンなどに限られていった。ブラームスはそのなかでも重要なレパートリーだった。2曲の協奏曲をはじめとして、独奏曲ではラプソディや間奏曲、小品集を好んで弾いた。今回くりかえしきいた晩年の小品は1935年と1956年に2度録音している。
どちらのもすばらしい演奏で、見かけ上の変化はあまりない。だがはじめの録音(Perl GEMMCD9385)がいい。力強く、淡々とした歩みから仄かな抒情が立ち昇っている。たとえば響きに沈潜したグルード、ルプーの透明な抒情、哲学的な深みと輝きを見せるアファナシェフ。この3人が平均律のピアノを使い、表現上の工夫でブラームス晩年のメランコリーを伝えているとすれば、バックハウスはヴェルクマイスター独特の、響きの内側からデリケートに照らしだす色調がメランコリーを漂わせている。なかでも間奏曲の第1曲や「6つの小品」の第2曲など、心の動きが微妙に音を揺り動かして、どよめきや戦き、悲しみ、慰めなどの感情を瞬時に変転させていくのが感じられる。人間ブラームスの孤独の子守歌がここにある。
経過報告 高橋悠治
7−8月
6月の終わりは札幌に行ったので報告を書かなかった。6月から7月の前半は失望のうちにそして仕事現場にもどろうとする試行錯誤のうちにすぎたがここに書くことはないだろう。
7月20日短期間所属したことのある「ミて」の詩朗読会に参加。準備したテクストの訂正を放棄して代わりに「可不可II」1990台本の一部をよんだ。場面にともなう朗読としてよむために何年も前につくったカフカの訳文ではあるがよみながら「可/不可III」への道にもどったと感じた。
セルゲイ・パラジャーノフの映画「アシュク・ケリブ」をビデオで見た。吟遊詩人ケリブの生涯がわざと不完全によく知られた伝説の再話として細部を省略してアルメニアの古いイコンを思わせる俳優のこわばったうごきによってえがかれ朗読と同時に叙事詩人の楽器サズの伴奏で歌われる。
アルヴィン・ルシエが来日した。自分で演奏した増幅したトライアングルのための「オーケストラの銀の路面電車」は自分で言ったように普通の楽器をたいせつにあつかうことで示唆的だった。これまで和楽器をあつかったときのように楽器は古代音楽文化の生きた記憶であるだけではなく自然に響く物体でもある。アメリカ的な考えとは言えるかもしれないと言うのはもともと長くない歴史にたよらずそこから眼をそらして辺境に向けていたということだ。この精神はとくに関心が外側にあるときには暴力的にもなるが内側に向いては微妙なものになりうる。内向も自己破壊的な幻想をともなえば危険もある。だがここにはそれはない。
コンピュータ音楽のソフトウェアをさがしていてクセナキスが使った確率関数はいまやMAX/MSPの要素としてプログラムされだれでも考える手間も要らずに使うことができるということがわかった。ケージの易による偶然性もフリーウェアのルーティンになっている。だれでもすきなものを世界のどこからでも持ってきて使えるのがグローバリゼーションだろうか。
ご意見などは suigyu@collecta.co.jp へどうぞ
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