2003年10月 目次


もうひとつの戦い                佐藤真紀
しもた屋之噺(22)              杉山洋一
スラチャイと待ち合わせると           荘司和子
書く                      桝井孝則
秋風はたんぽぽ畑をわたる            御喜美江
舞踊とリハビリ                 冨岡三智
読書案内人をさがす               地田 尚
経過報告                    高橋悠治
  


もうひとつの戦い   佐藤真紀




バグダッドの文次郎から連絡が入った。
『子どもたちのイラク』を読んで「思わず涙している」と言うのだ。

この本は、僕がイラクで出合った子どもたちに絵を描いてもらい、そのときのエピソードなどをまとめたものだ。7月4日に本ができた。それで早速、僕はこの本を持ってイラクに行き、登場する子どもたちをできるだけたくさん探し出して本をあげようと思った。7月には、数人の子どもに再会し、本をあげることができた。カラー写真が多く使われているので、日本語の本なのだがみんなとっても喜んでくれた。

もっともこの本を見せてあげたかったのは、一番最初に出てくるラナちゃん(12歳)だ。彼女の写真と描いてくれた絵が出ている。戦前白血病でバグダッドの病院に入院していた。病棟の中で唯一彼女が元気だったので、私のために絵を描いてくれた。鉛筆で絞りだすかのように力強く描いてくれたのは自画像だった。

その後日本に帰国して、ラナちゃんの絵をいくつかのテレビが取材してくれた。しかし戦争が始まるかもしれないので僕が3月に日本を後にして帰国したのは5月の半ばだった。そしたら、事務所においてあった彼女の絵が見当たらないのだ。あちこちに電話してみたけれど見当たらない。そこで、『子どもたちのイラク』には、病院で彼女が描いてくれた日の夜、ホテルでデジカメで撮影したものを使うことになった。せっかく一生懸命描いてくれたのに無くしてしまうなんて、非常に申し訳ないことをした。彼女に会って謝りたいと思っていた。でもそのときの医師の話では、一年もつかわからないといっていたので、ともかく早く彼女を探し出して、本を見せてあげたかったのだ。しかし、彼女はモスルという北部の県から治療に来ていたので、結局会いに行く事ができなかった。

幸運にも出張が認められ、9月27日にイラク入りすることがきまった。そこで、文次郎に病院に行って彼女を探してほしいと頼んだ。白血病の治療は最初は入院しなくてはならないが、様態がいいと通院するだけでいいというからおそらくモスルに戻っているのではないかと思い、連絡先を調べてもらうことにした。イラクでは戦前は、外国人が一般人の家庭を訪問することは禁止されていたし、バグダッド以外の県に行くことは、政府の許可がいる。役所に行って申請してもまず許可が出ることはなかった。体勢が変わり、私たちも白血病の病院を本格的に支援し始めたので、病院も協力してくれるだろう。

ところがメールで文次郎は次のように書いてよこした。

「残念ながら、Ranaさんは急性白血病の進行が早く、今年の2月3日にマンスール病院で亡くなったとのことです。ドクターが彼女のカルテを出して来て見せて下さいました。モスルのご家族のお名前と住所、電話番号は教えて頂きました。改めて『子どもたちのイラク』の彼女の登場する部分を読んで、思わず涙しています。」

僕は、うそだろうと思った。自分が彼女にあった日を思い出そうとする。2月3日より後だったら、何かの間違えだ。だって、彼女はあんなに元気だったし、あんなに力強く絵を描いてくれたんだ。デジタルカメラの写真をコンピューターで見つける。プロパティを見ると1月29日とある。あれから5日後に死んでしまったということだ。

文次郎から連絡が入る。
「支援先の病院からリストが届きました。この薬をヨルダンで買ってきてください。これがないと、来週にも薬が切れるそうです。化学療法に支障をきたし子どもたちが心配です。」

それは大変だ。看護師の吉野が、ヨルダン大学病院のフィラス医師に連絡を取り、相談に行くことになった。白血病の薬は一般の薬局では買えない。「何とかしましょう」と医師は言ってくれた。

イラクからの難民で白血病に苦しんでいる子どもがいることを思い出した。ムハンマッド君だ。ルウェイシェッド難民キャンプで病気が発覚し、隣のアマル病院に入院している。8月5日、吉野都が、お見舞いに病院を訪問している。文次郎とも相談して様子を見に行こうと話していたが、忙しくてそのままになっていた。早速会いに行くことにした。受付で名前を調べてもらう。「ああ、イラクの子ですね。難民キャンプからやってきた、残念ながら死亡しました」

「8月19日です」
僕たちは言葉を失った。8月19日と言えば国連のビルが爆破された日だ。同じ日に、小さな命がなくなった。ほとんど知られることもなく。この病院には、白血病でイラクから来た子どもはほかにも4人いるそうだ。

あくる日、フィラス医師から電話があった。薬は何とか間に合いそうだ。早速、僕は荷物をまとめてイラクに行く準備を始めた。今度はモスルにいく。


編集部注・『子どもたちのイラク』は岩波書店発行のブックレットです。




しもた屋之噺(22)  杉山洋一




9月の声を聞いて、逃げるようにイタリアに戻ると、こちらは大分涼しくなっていました。イタリアは8月も半ばを過ぎると、風に秋の色が漂い始めます。

暫く日本に居ると、決まってイタリアに帰るのが厭になります。日本の居心地が良いのと、かの地ではどうせ戦々恐々の毎日だし、言葉だって忘れたに違いないと思うわけです。そうして、最後は判で押したように、成田空港で好物のカツカレーを食べ、長い機中を厭々やり過ごし、ミラノの空港に着いた瞬間、自分の中で何かがカチッと切り替わり、いつものイタリア生活に戻ってゆきます。最近の流行語では「某モードに入った」と形容するそうですが、確かに自分の裡のギアが変って、人格が入れ替わる感じです。

そんな事を考えたのは、東京で読んだ「多重人格者の告白」の影響でしょうか。人格障害の患者の証言を集めたもので、面白くて一気に読んでしまいました。それによると、人格障害は主人格の弱さを助けるため、別の人格を自らが作り上げるものだとか。

主人格以外に、何十人と交換人格が存在していても、その交換人格どおし、互いにコミュニケーションが取れるのだそうです。頭の中の玄関を開くと、ちゃんと居間に皆が集まっていて、今度は何々ちゃんの出番よと言うと、その人格が表に出てくるわけです。

こんなことに興味を持ったのは、大分昔から何人もの友人が目の前で人格を変貌させるのを見ていて、これは不思議なものだなと素朴に思ったのがきっかけです。人間の記憶はコンピュータのファイルにそっくりだそうですが、人格も、案外パターンファイルにセットで焼き付けられ、記憶されているのかも知れませんね。

尤も、誰でも人格は幾通りも持っているはずで、家族に見せる人格と、会社で見せる人格と、果てはバーのホステスに見せる人格とは、恐らく随分違ったりするのでしょうし、これらの人格が互いに補い合って、ストレスを解消させたりバランスを調整しているのかも知れません。

もったいぶって人格障害と呼ぶと奇怪な印象も受けますが、基本的には誰もが無意識にしている行動なのでしょうし、余程自分に危害が及ばない限り、驚くには当たらないとも思います。ただ、大変なのは当のご本人でしょう。何でも、初めてデートで指輪をもらったと喜んで帰ったつもりが、家の引出しを開けると、見たこともない指輪が沢山並んでいた、なんてことになるらしい。

これはつまり、別の人格の時に彼から指輪を貰っていたわけですが、彼からすれば、こうして毎回初めて貰ったかのように喜ばれるのは、なかなか悪い気はしないでしょう。ただ、目の前で大人が急に子供になったり、女性が突然ごろつき言葉を話す男に変貌するのは、馴れないと少々びっくりするものでしょうが。

かく言う自分も、中学までは登校拒否でどうしようもない性格だったのが、卒業して健康的になり、今では信じられないほど楽天的な性格に変化してしまったりとか、ずっと床についていた母が、或る時スポーツを始めて性格が前向きになり、今やマスターズのバタフライで自分は日本で14位とか言ったりしている、こういうのも、客観的に見ればかなり不思議だとも思うのです。

閑話休題。ミラノの空港に降りて、自分が又別の人格にすげ変った、ということからこんな話になったのでしたね。ところで、自らの人格を否定される経験というのも、海外で暮らしたことがある人なら、誰でも一度や二度、体験しているのではないでしょうか。

外国に出ると誰でも最初は言葉が分らないもので、9年ほど前、初めてミラノに住み始めた頃、イタリア政府給費の語学試験では1番か2番だったつもりが、作曲の授業に出てみたら見事に何も分らないのには驚きました。あの時、先生から「外国に出かけると、子供に戻るようなもの」と言われて、ショックが二倍になったりしたものです。

そうして、当時子供だった自分の人格が、少しづつ大人になり、今のヨーロッパで暮らす人格に育ったのかも知れません。それすら大人にはまだ至ってない、と思うこともしばしばです。イタリアならまだしも、小学生程度の英語で、何とか仕事をこなしている外国での生活ぶりなど、到底人に言えたものではないということですね。

ですから、結局、外国に住んで思うのは、日本人は日本に住むのが自然で当然、というごく当り前のこと。或る時、外国に長く住んでいる友人から電話があり、「あんたは天使だけど、あいつは悪魔。わたしはもうエイズで死ぬの。あの悪魔にやられたの。死にたくないの。天使なんでしょ、助けてよ」。何時間も泣け叫ばれて、最後にはこちらまで気が触れそうになり、思わず受話器を置いてしまいました。彼女はそのまま家を飛び出し、全裸で路上で倒れているところを、救急車で保護されたそうです。

そんなことをつらつら思い返すと、せめてもイタリアは素朴で食事も旨いし、人間も結構開けっぴろげで、さほどエリート意識に染まらない処を鑑れば、外国人にとっては、案外暮らし易い方かも知れません。とは言え、直に迫った滞在許可証の再発行のことを思うと、胃がしくしく痛み始めます。今年こそ楽にやり過ごしたいと願っていたのに、貯金は税金で毟り取られ(更新には残高照会を提出しなければなりません)、果ては大嫌いな指紋押捺。そう思うと、溜息の一つもつきたくなります。

どうでも良いが、「ミラノで会うと素敵なのに、こうして東京で会うと、あなたってずいぶん不細工なのね」、等と臆面もなく言われることもあって、こうなると住み慣れた日本に暮らすのも一長一短というところでしょうか。

(9月5日モンツァにて)



スラチャイと待ち合わせると  荘司和子




9月の初め私用でバンコクへでかけました。5月に日本で会ったとき今連載中とか言っていた、スラチャイの最新の何らかの!?作品を手に入れるのも、その私用のひとつでした。

それで着いた翌日電話をかけると、「明日からチェンマイへ行くけど5日、6日は空いてる。すぐ帰ってくるからさ、必ずまた電話してよ」という一応まっとうなお返事をもらったのでした。それは1日のことでした。それで5日の夕方またかけると、なんとまだチェンマイから800キロの道のりを車で移動している最中。もちろんモンコンもいっしょ。その上、空いていると言っていた6日土曜も早朝から仕事があり、午後2時からはチュラロンコン大学に行かなければならないのだという。それからスラチャイは思いついたようにこう言うのでした。「チュラ大の図書館だ、詩を読む会がある。そこへ来いよ、な、な。なあに心配することはないさ(マイペンライナ〜)、時間はいっぱいある」

チュラロンコン大学は本郷の東大の2倍くらいもひろ〜いのです。図書館も何ヶ所もあります。それでも見当で中央図書館に2時に行ってみました。「詩を朗読する会」という張り紙があったので見事予想が的中でした。タイタイムですから人はまだまばらでしたが、それでも文化省の催しのせいか10分遅れで会は始まりました。

タイの古典文学はすべて韻文で書かれていて、かつて詩はタイの人びとにとってたいへん身近なものだったのですが、司会に立った美しい若い女性(文化省の人のようでしたが)が、最近の若い人たちはだんだん詩を読まなくなってきたのでこのような会を定期的に開いて詩と触れ合う機会をふやしていきたい、というような趣旨の挨拶をしていました。この国の若者も活字離れなのでしょうね。

初めの2人は年配の著名な詩人で伝統的な格調の高い詩を朗読されたように感じました。というのはそういう詩はサンスクリット語、パーリー語を起源とする高尚で難しい単語が並ぶのでちょっと聞いても分かりません。その後だんだん若い詩人になってくると現代語で詩を書いていてひとりひとりの個性や表現したいことが分かり面白くなりました。とくに印象に残ったのは学生と思しき3人の女性と2人の男性がいっしょに出てきて、ひとり2行くらいの詩を次々読み継いでいくのです。日本風にいうと連歌をやっているようでした。タイ語での連歌を見るのも聞くのも初めてでしたが、学生たちの新しい試みのようで今後が楽しみです。

そうこうするうち4時になってもスラチャイは現れないのであきらめて、会場を退出しようとしたところで、画家で詩人のワッサンと出会いました。そのとき、でした、スラチャイからその男の携帯に電話があり今、そちらに向かっているから待ってろ、だそうです。それから何回か同じようなことがあり最終的に彼が会場に現れたのはなんと夕方の6時だったのです。

早朝から映画を撮っていた(撮られていた)そうで、彼の朗読は3人目だったそうなのですが、あまり遅いのでさらに全員終わる(40人以上でした!)まで待たされて、彼はとりを務めることになってしまいました。夜7時、ようやくスラチャイの登場です。彼を待って最後まで残っていた若い人たちが40人くらいいたでしょうか。

詩をひとつ朗読したあと会場からギターを渡されてやはりうたうことになったのでしたが、そこでのはなしではチェンマイで後輩のシンガーソングライター、ジャラン・マノーペットの3回忌を記念して友人達がコンサートをしたのだそうです。それでジャランの曲「チェンマイの娘」をうたって終了。わたしはといえばタイのきつい冷房に5時間もさらされて身体が冷え固まってしまって、ひたすら耐えていたという感じでした。

約束した原稿とか、きっと渡すよ、と言っていた本とかはいっさいなし。また懲りもせず、明日だとか来週だとか言っています。でも急には見つかるはずもないのです。CDも含めて何もとっておいてないのですからね。1日に対応しきれないほどの量の約束をいれてしまうところは、前回の「何の花だ?」の最後のところを思い出してしまいました。。 スラチャイと待ち合わせると。。1時間は待たされるのはあたりまえのことなのですが、4時間も待ったのは初めて。でも「詩を朗読する会」で若い詩人たちに出会えるという副産物もあり、それなりによかったか、と満足の境地。それとも諦念?





書く  桝井孝則




あっと言う間に一ヵ月が過ぎた。正確に言えば二ヵ月だった。何を書こうかと軽く考えている間に過ぎる時間。集中することはあとまわしという悪いクセによって、沢山のものがたまって消えて行く。あとわましのループ。

場所がある。白い空間を自由に使って何か書くということ。普通は(?)書きたいことがあり、そのために場所を見付けて発表するものなのだろうけど、場所ができてしまったので書くことを見つけないといけない。それがどうやっても、書きたいものは見つからないのだ。かと言って縦何センチ横何センチの白いスペースでお願いします、という過去の前衛芸術を掘り返すことをしても仕方がないし。

慣れていない作業につまずくと、参考になるものを探す。恰好をつけようと無理矢理人の型にはめる窮屈さより、型くずれでも自分の好きなように動ける強さ。

書くことが何もないということを書く。

何か書くことを見つけることを書く。

例えば100メートル走のスタート地点が違うレース。他のレーンよりも2、30メートルのハンデがある。それは100メートル走とは言わないんじゃないか? いや、反対方向に100メートル走ればいいんだ。

とりあえず指を動かし、思いつくまま出てきたものを連ねて、意味が分からなくなる。最初に感じた印象は消え、読む度にバラバラになる原稿用紙の順番。

どこまで行くんだよと声がするまで続く。

先月アップされた水牛通信を見るとずらっと日記が並ぶ。驚いてだんだん引き込まれていく。読み終わると何か元気になったよう。まだ文章のリズムを足でとっている。



秋風はたんぽぽ畑をわたる  御喜美江




ギリシャから戻ってからもオランダ・ドイツの猛暑は続き、8月中旬には気温がついに40度に達した。それは観測史上最も高い気温だったそうだ。一般にヨーロッパの夏は温度が上がっても湿度は低く、また夜になると気温がぐんと下がるので冷房設備は少ない。とくに個人の住いで冷房のある家を私はまだ見たことがない。日中に気温が30度を越えても夜になれば涼しくなるから、寝苦しい夜は本当に少ない。“あせも”のドイツ語訳を知ったのも去年のこと。
しかし、今年の夏だけは例外だった。

ドイツにはSiebenschlaefer(7聖人)という日があって、この日の天気がその後7週間続くと農民は言う。普段そんなに天候を気にしない人も、この日だけは天気に興味を示し、夏休暇計画の参考にもするみたい。だが不思議とこの日の天気は「曇りときどき晴れ一時小雨」といった捉えどころのないものが多く、人々はそのうち忘れてしまう。しかし今年のジーベンシュレーファーは違った。

その日6月27日、私はちょうどフィンランドにいて、「ドイツは急に暑くなって今日なんて35度だったよ。これが7週間続いたらすごいね。」と夫が電話で話したのを何故か今でもよく憶えているが、まさにその日からの7週間は、ノンストップ気温32度以上、夜になっても28度を下らないというSiebenschlaefer大当たり! となってしまったのだ。そしてその7週間が終わった8月15日に少しだけ気温が下がったことを、どうして憶えているかというと、午前11時15分、facial treatment(美顔マッサージ)の予約があって、「グーテンターク!(こんにちは!)」の代わりに「Es ist kuehler geworden!(涼しくなったー!)」と、ドアを開けたナンシーさんと私が同時発声して笑ったから。それにしてもこの日の美顔マッサージの何と気持ちがよかったこと! それは夢心地の90分だった。

話は戻るが、連日続くあまりの暑さに、私達はある日から地下室にマットを敷いて寝起きをした。どちらかというと寒がりの私は、寝るとき必ず下着の上下と長袖のパジャマをしっかりと着込み、首には綿のスカーフを巻いて靴下もはく。その靴下はパジャマ・ズボンの上にかぶせて足首をすっぽり包む。このスタイルをすでにもう20年以上も続けてきたが、この夏の猛暑がきっかけで大きなイメージチェンジをした。まずはパジャマの長袖が半袖に、長ズボンが半ズボンに、やがて靴下とスカーフも消え、最後はランニング&パンツのみ、となってしまった。自分としてはウルトラ大変身である。ところがこのスタイル、慣れてくると大変快適であることが分かって、我ながらひどい恰好……と思いつつも暑さには勝てず、昼間もさらに継続。ただ玄関チャイムが鳴ったときにパッと着用できる服は、常にドアノブに引っ掛けておいた。

猫たちは冷たいタイルや石の上に、まるで敷物のように長〜くフラットに伸びて一日中寝ていた。家前を散歩する犬や馬も、そのうち見かけなくなった。また暑さを逃れての行動だろうか、外から煙突を逆に下って暖炉に入ってくるハエの大群がしばしばあり、部屋中に飛び交うハエには、ほとほと困った。昼間は全ての雨戸とカーテンを閉めて光が入らないようにし、花には一日2〜3回水をやった。ある日、西の方から待望の黒い雲が姿を現し、一日だけ大雨が降った。ところが「あぁ、雨だー!」と喜んだのも束の間、カラカラに乾ききった土は石のように硬くなっていて水はなかなか吸収されず、あっというまに道は川、庭は池となり、家宅に水が浸水してあちこちで水害が出た。「でもこの夏も、いつかは必ず終わります。」というのが、この頃から人々の口癖になった。

そんな中で、今年の日本は冷夏と聞いていた。ところが9月9日帰国してみると、すごく蒸し暑いではないか。「涼しい日本を期待して損しちゃった。」と文句を言うと「あんたが来てから急に暑くなったのよ。」と母に言われても納得いかない。着いた日の夜、早速“ランニング&パンツ”に着替えたら、母はギョッとして「まあ、何という恰好!」と絶句。ドイツの夏はとうとう娘の頭までおかしくしたかと、真面目に心配したようだ。しかし “ジーベンシュレーファー”と同様、“暑さ寒さも彼岸まで”も幸い大当たりで、20日頃からはすっかり涼しく爽やかな日々となり、長い長い夏の猛暑からやっと解放された。
ちなみにパジャマは再び復活、スカーフ&靴下とは一応縁を切った。

26日(金)、『秋風はたんぽぽ畑をわたる』というタイトルで、アサヒビール・ロビーコンサートをした。この“御喜美江たんぽぽ畑シリーズ”は、いま身近かにあって面白いこと、また聴いてほしい人の紹介、などをする。そして『たんぽぽアンサンブルによる演奏』というコーナーをつくり、そこでは“演奏会場に一番近いところにいる人・住んでいる人・働いている人”がメンバーとなって参加する。出たい人がそれぞれ弾ける楽器を持って登場するので、人数も編成も毎回変わる。今回はアサヒビール株式会社社員8名、アサヒビール芸術文化財団1名、作曲家の野村誠氏、昨夏JAA国際アコーディオンコンクールで総合優勝したポーランド出身のグシェゴシュ・ストパと私、合計12人となった。ただ大問題は全員でする練習がたった一回しかとれないこと、コンサート当日も午後6時まで勤務のメンバーが数人いるためゲネプロが出来ないこと、だった。曲はシュトックハウゼンの「Tierkreis(十二宮)」とヴィヴァルディの四季「秋」より第三楽章だから、決して易しいとは言えない。全員練習は7日前、門仲天井ホールで行われただけで、12名のメンバーとの再会は本番のステージ上。まあ、なんと恐ろしいこと……とずいぶん心配したが、しかしこの緊張感がコンサートでは新鮮なエネルギーに感じられ、それは私にとって新しい体験だった。舞台経験のほとんどない人達が、巧みな間のとり方をしたり、面白い装飾音をつけたり、大きなフレーズを豊かに歌ったりするのには、心底驚いた。この“個性”は、リハーサルをし過ぎた場合、もしかして薄れたかもしれない。さらに個人レッスンなんかをしたら、本人のしたいことは永久に生まれてこなかったかもしれない。アンサンブルでは回りと合わせることが“調和”として大切かもしれないが、“調和(ハーモニー)なんか糞食らえ!”とそれぞれが自分の個性を思う存分出しきるとき、思いがけない音楽と不思議な調和が生まれることも、今回初めて知った。内心ヒヤヒヤ、ドキドキしながらも、12輪のたんぽぽがそれぞれ元気にちょっと勝手気ままに花を咲かせる瞬間は、とても感動的だった。これと同じことはもう二度とできないだろう。たんぽぽの開花は、“いつ・どこで・何輪・どのように”と具体的な計画を立てたところで、所詮実現はしないのだ。

秋風とたんぽぽの組み合わせは、ちょっとずれてきこえるけど、南半球は今が春だから多分たんぽぽが咲いているだろう。この日ピアソラ作曲の『ブエノスアイレスの秋』を2台のアコーディオンで演奏したのは、そんなわけ。そして日本にたんぽぽが咲く頃、ブエノスアイレスは秋。だからこの地球上、いつもどこかでたんぽぽは咲いているということ。でもたんぽぽが咲かなくなったら、地球は重病人〜、そんなことには決してなりませんよーに。

  (2003年9月29日東京にて)



舞踊とリハビリ   冨岡三智




7月中旬から9月初旬まで研究調査のためインドネシアに行っていた。今回はソロとジャカルタを2度も往復して忙しく、8月、9月分の原稿はお休みさせていただいた。今月はこのインドネシア滞在中のことを書いてみたい。

今回の滞在でとにかく一番に会いたかったのが、今までずっと舞踊を師事してきたJ先生だった。私は留学を終えて今年2月に帰国し、先生は3月に入院された。ストロークだという診断で、日本で言う脳梗塞、脳卒中の類である。入院した当初、先生は右半身が不随で歩けず口もきけないということだった。女性が右半身に、男性が左半身に不随が出るのは症状が重いと言う人もいた。

留学でお金を使い果たしていたから、ソロに行けるとしても来年だろうと思っていた。折りしもその頃に友人の研究者からインドネシアでの共同調査の話がきた。助成金が取れたのでこの夏に手伝って欲しいという。これは私には天からの贈り物だった。この夏ソロに行けることになったから、行ったらレッスンして下さいと私は先生に電話した。

あまり体がきかない現状では、その言葉は逆にプレッシャーになるかも知れなかった。でも自分は必要とされていると感じて、かえって早く回復してくれるかもしれない。そう信じて1〜2週間おきに電話をし続けることにした。最初に病院へ電話した時こそJ先生はまだ話せなかったけれどしばらくして退院し、その次に電話した時にはすでにたどたどしいながら話すことができるようになっていた。

7月にまずソロに入り、先生に会った。回復するなら以前のように踊れるくらいまで回復しないとね、という先生の言葉を聞いて安心した。確かに倒れる以前に比べればまだ弱々しいし、手首や指が動かせるようになるにもかなり時間がかかりそうだが、先生は辛抱強くリハビリに励んでいた。これなら大丈夫と思い、今までに習った曲を復習したいので、横で見ていて間違ったり忘れたりした部分があったら直して欲しいとお願いした。先生はまだ見本も見せられないと最初はためらっておられたけれど、私も日本でなまった体をリハビリするつもりだからと言い、まあやってみようということになった。

私は1週間後に10日間ほどジャカルタに行くことになっていたので、それまで毎日レッスンしてもらう。先生は椅子に座って見ていたが、曲に合わせて歌い出したので嬉しくなる。先生は以前から踊りながら歌うことがよくあった。歌いながら左手に持ったカセットケースでクプラ(舞踊への合図を出すパート)のリズムを叩いている。右手は上がらないにしても、首の動きや視線の向きはきちんと表現している。ただ1曲1時間のスリンピを通すのはまだかなり疲れるようだった。無理をせずに1時間でレッスンを切り上げ、ジャカルタから帰ったらまたレッスンして下さいと言って、私はジャカルタに発った。

ジャカルタでは主に資料集めやインタビュー調査をすることになっており、その一環としてJ先生の長女にも会った。J先生が入院した時のことにも話が及ぶ。J先生が話せるようになったのは良い治療師に出会ったからだという。その人の治療法は、患者の経歴を踏まえてその専門分野のことについて質問し、患者に答えさせるというものだったそうだ。J先生が長年舞踊を教えていたと知るや、その治療師は「スリンピというのはどういう舞踊なのですか? 何人で踊るんですか? 私にも分かるように教えてください。」という具合に舞踊関係のことを熱心に質問したのだという。するとJ先生の態度も変わり、必死で答えようとするようになったらしい。その2日後には声が出るようになり、数日後は歩けるようにもなったそうで、長女もそれには驚いたという。それまで2週間入院していた病院の治療では「今朝は何を食べたのですか」というような一般的な質問ばかりで、その時には何の進展もなかったそうだ。そこでの治療はJ先生の心の琴線には触れなかったのだろう。言葉というのは人に伝えたいことがある時に初めて出てくるものだ、と強く思わずにはいられなかった。

ジャカルタやソロで先生のかつての教え子達に何人も会い、J先生にレッスンしてもらったと私が言うと皆が驚く。しかし長女から聞いた話もつけ加え、まだ教えたいという気持ちが先生にある内は大丈夫です、とにかく私は先生に教えることを強い続けてみますと説明すると、納得してくれる。しかしこの役割は私くらいにしかできないだろうとも思う。

これはうぬぼれではない。かつてのジャワ人教え子達はもはや年配のプロの踊り手、教師になっている。だから双方にメンツがあって、先生がパーフェクトの状態でなければ教えを乞う/授けることは難しいと思うのだ。実際に、J先生はストロークになったからもう踊るのは無理だねとか、まだ踊りたいと思っているの? ということを言ったジャワ人舞踊家もいた。そういう人達に対して、私はそれは違うと応酬する。J先生にとって踊ること、舞踊を教えることはすでに人生そのもので、舞台で踊ることができる・できないは問題ではない、舞台で踊るだけが舞踊家の生き方ではないのだ。

10日後ソロに戻る。さっそく先生に会いに行く。先生は待ちかねていて、ほら、ちょっと手が動くようになったのよと右手を見せてくれる。指が少し広げられるようになり、また腕全体を垂直に胸の高さくらいまで上げられるようになっていた。これには私も驚いた。10日の間にはっきりと目に見える変化があるとは私も思っていなかったのだ。

レッスンを再開する。先生ははるかに元気になっていた。2時間のレッスンができるようになっていたし、立って一緒に動いてくれる時間が増えた。まだ右手は十分に動かないにしても、胴の傾ける動き(leyek)も、後ずさりする動き(srisig mundur)もぼちぼちできるようになっていて、つまりそれは体のバランスが以前より良く取れるようになってきたからに違いなかった。私が帰国する前には右腕は胸よりもっと高く上げられるようになり、その状態を持続させられる時間も延びてきた。もちろん、手首を回したり(ukel)、手首・指を曲げたり(nekuk)という、舞踊には基本的な動きが回復するにはまだ時間がかかることだろう。それに医学的にどれくらい回復する見込みがあるのかも私には分らない。しかし、J先生の回復は舞踊を通してしかないことを私は確信しているし、先生の回復へのプロセスに人間として学べるものが多くあると思っている。



読書案内人をさがす  地田尚




いつのまにか青空文庫の掲示板をのぞくのが日課のようになってしまった。
青空文庫では、掲示板のことを「みずたまり」と呼んでいる。
この掲示板に書かれる記事は、各種連絡、本の話題、本についての質問、インターネットの情報、青空文庫へのリクエスト、雑談などさまざま。いったいどういう人たちが青空文庫のような活動に協力し取り巻いているのか、そういったことを知りたければ、とりあえずみずたまりをのぞいてみるのが手っ取りばやい方法だと思う。
青空文庫の作品を入力・校正している人たちは、あまり無駄口をきかない地道にコツコツと作業に没頭するタイプが多いような気がするけれど、それでも、こういった活動を行っているウェブサイトとしては、みずたまりはけっこう書き込みの多い掲示板だと感じている。

みずたまりへ頻繁に書き込むようになった背景には、実はちょっとした下心があった。
青空文庫では、日々作品は増え続けるけれど、登録されている作品を読んで、本の感想や解説を書いてくれる人がなかなか出てきてくれない、そういった状態が長く続いていた。そこで、青空文庫の本について楽しく解説してくれる読書好きをこの掲示板にまねき寄せることができないか、そう考えるようになった。青空文庫の読書案内人募集というわけだ。
さまざまな方面に話をふりつつ、折をみては本の紹介など小出しにしながら、私は同好の士の反応を待つようになった。同好の士というのは、読んで気に入った本があると、それを人にも薦めたくなる人たちのこと。おせっかいといえばそうかもしれないけれど、おせっかい魂は人情にも通じるようなもの、つまりは、自分の気に入った本を人に薦めたくなるのは人情ということになる。とまあ、これはこちらの勝手な屁理屈というものですが。

さて、はたして読書案内人を青空文庫にまねき寄せることには成功したのか?
完全に失敗したというわけではないけれど、残念ながら、自分が空想したほどの成果をあげることはできなかった。失敗の原因はいろいろと考えられるだろうが、とりあえず自分のことは棚にあげて、ここでは理想とする読書案内というものについて、少し話をしてみたいと思う。

今の学校教育はどうか知らないが、私たちが学校で読書感想文を書かされたときには、読んだ本のあらすじを長々と説明するというのは、いけないことだと教えられた。それでは感想文にならないからだという。しかし、本や作品をその人がどう読んだかというのは、実は感想を聞くよりも、あらすじを説明してもらう方がはるかに良くわかるものだ。

かいつまんだ筋の説明を行うためには、何が重要で何が重要でないかを取捨選択する必要があるし、そこに書かれているできごとを別の簡潔なことばで表現するためには、書かれている内容を自分自身の中で、著者とは別のことばによって秩序立てて理解する必要があるからだ。このことは、本や作品の要約ができるということは、現実の世界でも、自分の体験したことを自分のことばで説明することができるということを意味している。だから、読書がひとつの体験だとすれば、すぐれた読書案内というのは、読書を体験談のように語ることなのだろうと思う。

いま思い起こすと、以前はそんなふうに本の案内役をつとめてくれる友人が確かにいた。
「最近、何かおもしろい本読んだ?」そんな質問をするだけで、いつも私はまだ聞いたこともないような物語の世界を案内してもらうことができたからだ。
ピエールとともにナポレオンの軍隊に占拠されたモスクワをさまよい、一匹のネズミの死がもたらすフランスの港町の災厄におののき、マコンドの村を訪れたジプシーが披露するさまざまな不思議な道具に魅了される――そういった友人の話の断片はまだ自分の中に残っているけれど、その後、私の話すような本の案内人には、残念ながらまだ会えずにいる。



経過報告  高橋悠治




10月

9月は今福龍太に誘われて沖永良部に行った。

見たところたいらな島のそこここに小高い茂みがあり、木は空に向かって伸びていくというよりは枝をひろげてほの暗い洞を孕み、あるいはアダンのように気根をめぐらし小径を庇っている。

茂みの足許の岩の隙間から地下水が湧き出る場所がある。ホーという。低いほら穴の奥から流れ出る透明な水が、石垣をめぐらし石畳を敷き細い石橋で区切られた小池に迎えられ、空を映してゆれている。男たちが水に入って着ているシャツやズボンを脱いで石にこすりつけて洗う。こどもたちが石橋から飛び込む。茂みの蔭のほうに女たちの水場があるらしい。声がする。

ホーのまわりに家があつまりシマができる。瀬利覚(セリカク)はジッキョヌホーのあるシマだ。セリカクという名が沖縄に伝わりジッキョになってもどってきたらしい。シマにはシマのことばがありシマの外の人たちと話すためのことばがある。ことばは行き来しながら変わっていく。おなじ歌もシマからシマに伝わりそのフシはシマのかたちに曲がる。サンシン(三味線)を弾く手もそれにあわせて変わる。

宴で唄につれてサンシンを弾く、あるいは弾き語るひとをウタシャといい、琉球舞踊をサンシンで伴奏するひとをジューテという。ジューテはシマとシマの境にあるマタという鞍のような場所を越えるときの導き手、三十三回忌を迎えた霊を送り出すときはミンブチ(念仏)をつかさどる。

沖永良部に行くときには東京から沖縄まで飛行機そして次の日フェリーで北へ向かう。台風が近づいていた。早朝出るはずのフェリーは前日の夜中に出発し本部で夜明けを待って荒れる海に出た。与論島には接岸できず沖永良部は島の反対側の昔の港に着いた。それが最後の船で、台風がすぎるまで2日間島は孤立した。食糧も新聞も船でとどけられる。島でできるのは黒糖とユリの花とジャガイモで、みんな冬に収穫する。黒糖焼酎の工場がある。菓子のたぐいもすべて黒糖でできている。

島から帰って鈴木理恵子の名古屋と埼玉のリサイタルでピアノを弾いた。昨年病気でできなかったもの。そのあいだにはアケタの店で千野秀一とラップトップ・デュオ。これははじめて。コンピュータのプログラミングをやりなおさなければならないと感じた。まだ何も作曲していない。もしそれが必要なら。島の三味線弾きを見た後では大都市のなかでひとりきりの人間が音楽を作曲しようと思うなんて不運としか思えない。



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