2003年12月 目次
11月30日 佐藤真紀
東方逍遥 宮木朝子
11月もおわって 桝井孝則
孤独(1) スラチャイ・ジャンティマトン
しもた屋之噺(24) 杉山洋一
コープランド、バルビエからコーエン〜サティのピアノ音楽 三橋圭介
風邪に勝つ方法 その一つ 御喜美江
アジアのコラボレーション(1)Realizing Rama 冨岡三智
おせっかい日記 地田 尚
経過報告 高橋悠治
朝の4時に携帯電話がなった。目覚ましのアラームかと思ったが電話だ。間違い電話かもしれないのでかけなおしはしなかった。
8時過ぎ今度は共同通信の記者から電話が入る。
日本人がイラクで2名殺されたのでコメントが欲しいというのだ。どうも大使館の職員らしい。そういう時って、知っている人の顔が出てきて、あの人じゃなければ良いなと思ってしまうのだ。やっぱり真っ先に顔が浮かんだのが、井ノ上書記官だ。後はNHKやら朝日新聞やら、毎日新聞やら立て続けに電話が入る。井ノ上さんの名前を確認する。身体から力が抜けてしまう。彼とは何度もお会いしていたので、とても悲しい思いである。まだ30歳の若者だ。事務所に行くとひっきりなしに電話がかかって来る。僕なんかが、云々とコメントをするような柄じゃないのだが、それでも電話はお構いなしにかかってくる。
なんて表現したら良いんだろう。
イラクに関わりだしていろいろな知り合いが命を落としていった。8月19日の国連の自爆テロで命をおとしたUNICEFのクリスさん。白血病で死んでいったイラクの子どもたち。そして井ノ上さん。彼らの目を思い出す。
結局、今日は一日電話の対応で、すっかり声もかれてしまい、水牛通信の原稿すら書く余裕がない。テレビの取材中にも電話がなる。私以外電話に出るものがいないので、そのたびに収録は中断して最初からやり直しだ。
ようやくみんな帰って言って一人になってゆっくりと考えてみる。
世の中、間違っている。
奄美自由大学の沖永良部島体験(注:先月の『水牛のように』をご覧ください)ののち身体の中にまさに空洞ができ、風が吹き抜けているのでは、という日々がしばらく続いた。その間も容赦なく現実の時間は刻まれてゆく。。。
今年ももう残りが僅かとなったが、1年半ほどたずさわっていた音楽プロジェクトが先日ひとつのかたちとなった。現代音楽、フラメンコ、美術家とのコラボレーションなどで多彩な活動を続けるピアニスト、門光子氏の第二弾のCDアルバム『東方逍遥-ピアノによるアジアの音楽』がリリースされた。この企画は笠原孝夫氏プロデュースのもと、アコースティックの上質なこだわりをもった録音によるM・Aレーベルの中の、日本-アジア発信のMAJレーベルから出されたもので、第一弾の、日本の音をテーマとした『風の記憶』をさらにアジアにまで視野を広げての企画であった。アジアの歌を素材に編・作曲し、それを色彩豊かな現代イタリアのピアノ、ファツイオーリにより演奏し、残響豊かなヴェニス郊外の村の教会で録音。(ディレクターでありレコーディング・エンジニアの役割でもあったタッド・ガーフィンクル氏は自身ジャズピアニストでもある。)
アジアの歌の選曲から参加しつつ、もうひとりの作・編曲家である柴山拓郎氏と分担し、アジアの美しい数々の歌をソロピアノの新たな曲として蘇らせる役だった。これは普段の作曲作業よりもある意味で困難の多いものとなり、幾度も暗礁にのりあげ、企画自体の危機すらあったのだが、最後にはどうやら納得のいく答えをみつけることができ、今年の6月に録音された。体調の事情から、録音に立ち会うことがかなわなかったのだが、録音されたマスターCDを聴いたときに、まず耳にとびこんできたのはサチーレ村の鳥の声。それとともに教会の佇む空気まで伝わってくるかのようなアンビエンスにふっと包まれてから、そっとピアノの音が響き始める。。スタジオ録音ではなく、鳥の声も雨の音も防げない自然の環境と、教会の残響特性に身を委ねての録音、様々な苦労もあったということだが、録音物でありながら、閉ざされた密室の空気感とは別の息使いが感じとられる。アルバム構成は、吉松隆氏のオリジナル曲、柴山氏、宮木による5曲のアジアの歌の編・作曲、それぞれのオリジナル曲1曲ずつ、というものだ。私は「さとうきび畑(原曲:寺島尚彦)」「イムジン河(原曲:高宗漢)」「美しい竹(ベトナム民謡)」を担当。
さとうきび畑はもちろん、イムジン河もさまざまなヴァージョンで世に知られる曲であり、それらも編曲前に聴いたのだが、なによりもその歌の生まれた原点、その場所から自分なりに音を聴きとってゆくことをしたかった。イムジン河のためにできれば北朝鮮と韓国の国境のその河のある地点まで行きたかったのだが、それはかなわなかった。さとうきび畑の構想中に、ちょうど前述の沖永良部島の野外劇の下見のための旅をすることができ、さとうきびの畑を幾度となく目にし、ざわめきと光のきらめきを焼きつけてくることができた。(沖縄ではなかったが。。)
戻った直後に一気に編曲をしたはいいが、それはピアノによる重低音(?)の連打と振動をフルに使用しての“(パンク)ロックヴァージョン(??)”となってしまった。。(その前に自分の即興で“ブルースヴァージョン”があったが、即ボツとなったことはいうまでもない。。)「鉄の雨に打たれて死んだ」人々、、の存在、門さんと電話ごしにピアノでプランをやりとりした時に出た低音のイメージ、、などが自分のなかでリアリティを持ってしまったのだった。門さんは素敵な低音を出すことのできる、また、時にクラシックを逸脱した表現をかいまみせることのできるピアニストであるため、試奏、ミーティングの場ではもしかしてこのまま採用?との期待もあったが、やはりやや「生すぎる」ヴァージョンとのことで、不採用となった。(これは裏ヴァージョンとして、ひそかに弾いてゆきたい?などとも思っている。。)
こうしたいろいろなやりとり、意見の衝突、スランプ、などが勃発しながらも、ようやくかたちとなった。12月19日にはトッパンホールにて、リリースを記念してのコンサートが、ほかのプログラムもまじえて(譚盾、ジョン・アダムス『チャイナ・ゲイツ』など)ひらかれる。このCDについて個人的に嬉しいのは、ジャケット写真のことである。写真家の小林紀晴氏撮影による風景なのだが、氏のアジアを撮った写真集は以前店頭で心惹かれて手にとり、記憶に残していたものだった。自分にとってはアジアは近くて遠いものであったような気もする。近いがゆえに、まだ近付きたくない、、自分にはまだできない、という気持ちもあった。安易に踏み込むことが躊躇されるものもあった。これはまずははじめの一歩、、かもしれない。大学の同僚であるドイツ人作曲家G氏が、「能の音楽」を、ドイツ語の地謡、などで試みている果敢な活動も感じつつ、この一歩をどうつなげてゆくか、、などと考える。
追記:このCDに関してもしも関心を持たれましたら、以下のページをご覧ください。
http://www3.ocn.ne.jp/~wind7/
http://www.ehills.co.jp/rp/dfw/EHILLS/townguide/closeupartist/closeup0311/index.php
おぼえてるもの三つほど
黒テントのCDを聞いた 手づくりの音楽とうた
あかるいうた声と軽快なリズムを聞いてきもちとからだが動きだすのは
届いてほしいところへ向けてきちんと思いを開いているからだと思った
CDをプレーヤーに入れてスピーカーから出る音を聞き
そう感じられるものに出会えるチャンスはそんなに多くはない
実はまだ黒テントのしばいを見たことがないのです
いつかこの音楽とうたそしてしばいに直接ふれてみたい
それまではCDをたくさん聞いて楽しみに待ちます
いくつかのイベントへいった
どれもたぶんちいさな催し
ひとの表現を見ていると
自分でもなにかやりたくなる
そういう日は家にかえると楽器をもってあれこれ
少しとまっていた水牛通信の入力をまた進める
一年で一冊をゆっくりと
通信の目次に入力中がつきそれが入力済になって公開されていく
表になった号数が増えていくのを見ると
コンピュータ一台を前にしている作業も
みんなでやっていると実感が湧きます
「50サタン(1960年代当時1バーツ18円で50サタンは9円)ならある」
小柄で色の白い男が言う。
「気にするな、金なら俺が持っている。来いよ」と、年長らしき男は言う。
「そりゃあ、ありがたい」
小柄な男はかすかに顔をほころばせる。
2人の男が歩道に立ち止まってぐずぐずしている。歳が上らしい男は髪を短く刈っていて皮膚は赤銅色に日焼けしている。眉が濃くて太い。瞳は酒と睡眠不足のせいでにごっている。彼は鼻の下に立派な口ひげをたくわえていて、しょっちゅうそれを撫でるのがくせになっている。大学生の使う教科書のような本を1冊抱えているが、表紙はインクやペンキですっかり汚れてしまっている。
もうひとりは慢性的に苦労を背負い込んでいるといった風情で、表情も態度も双つの眼の色も乾ききっていて冴えない。年齢は19歳になったばかりである。くるくるとカールした長い髪はちょうど彼のこころの中がそうであるようにこんがらがっている。
小柄な男は手をズボンのポケットに突っ込んで2つのコインをチャラチャラと鳴らすと軽く口笛を吹いた。
一台のバスがまっしぐらに走ってきて通りしなに一陣の風を巻き起こして行った。2人が立っている歩道の足元にまでその振動が伝わってくる。バスが走り去った後の道路はまたがらんとした空間にもどり2人は楽に道路を横切った。
午後のこんな時間は朝や夕方と比べて人も車もほとんど通らないのが常である。
彼らが入ろうとしている喫茶店でさえ同様だ。
店内には2、3人の客しかいなかったので、2人はいちばんお気に入りのコーナーに席をとることができた。彼らはこのコーナーのうちとけた雰囲気になじんでいてここに坐っているのが好きだ。そう、この時間帯のこの店は彼らの休息するところなのだった。彼らはほとんど毎日やってきた。ひとりで来る日もあれば、2人そろって来る日もある。そして何時間もすわっている。彼らの注文するものはコンデンスミルク入りのホットコーヒーとお湯割コンデンスミルクだった。
2人の身なりと言えばどちらも薄汚くて似たようなスタイルをしている。彼らは親しい友人なのだった。
少年がミルクコーヒーとお湯割コンデンスミルクを運んできて、彼らのテーブルに置くとにこやかに尋ねる。
「煙草はいかがですか?」
「4本もらうよ、マッチもだ」と、年上の方が注文する。
そして2人はお互いに笑顔を向け合う。すると小柄な男が小さい声で話し始めた。
「知ってるかい? ぼくがどうして毎日この店に来るかって」
「知ってるさ。君は俺に、もう2、3回も話したじゃないか。なんでまた訊くのさ。ほんとのとこナイちゃんけっこう綺麗だよな。大人になってきたら余計綺麗になった。去年はまだ身体がちっちゃくて痩せこけてたぜ」
「ん。。」
とつぶやきながら小柄な男はこの店を切り盛りしている若い女性のほうを指差す。彼女は華人で色が白くて彼のような若者にとってはどうしたって綺麗で可愛いのである。
「やめてよ、聞こえちゃったらてれるじゃないか」
小柄な男は小声でささやく。
彼らは再び笑顔になると、そろってコップをとりあげて飲み物を啜った。
(続く)
(1968年、スラチャイのごく初期の作品)
ひなびたモンツァの駅の操車場で、のんびり貨車の入換えをしている機関車がいて、これが子供時代の憧れだったのを思い出しました。どこか場末の操車場か、鉱山のトロッコの機関士として、貨車や古びた客車を引張って暮らすのはさぞ愉快だろう、今でもそんなことを考えることがあります。
尤も、自分の今の仕事も大凡似通っている気がするのです。他人から見れば、何が嬉しくて田舎でしがない仕事をしているのかと思われそうなものが、当人はそれなりに結構幸せだったりする。幸せかどうかは分らずとも、自分のペースに合っているのでしょう。
夏に帰省した折、渋谷ハチ公前の喫茶店から、暫くスクランブル交差点を眺めていて、余りの人いきれで眩暈に襲われました。人の波が渦巻く様が、粒子力学のグラフに見え、自分がこの街で育ったことが、不思議な気がしたものです。
ウィーンの空港で待ち時間にこれを書きながら、一体自分は何をやっているのか、何をしたいのか、何者なのか、ぼうっと考えています。目の前では、金髪のオーストリア人の妙齢が、颯爽とトランクに足を載せ、女性雑誌に見入っていて、高めの黒いヒールがこちらに無造作に向けられています。その隣のベンチでは、イタリア人らしいラフなビジネスマンが、こちらを不思議そうに眺めています。
何となしに暫く書きなぐっていたこと等、ぽろぽろ拾ってみました。
取留めがなくなること、どうかお許しください。
*
小学生の頃、代々木八幡駅前の鯛焼き屋の階段を昇っていて、最後の数段でくらくら来た。
あの陸橋そのものが反っていて、最後の三段くらい、軽く斜めに削ってあるのだが、その錯覚なのか、重心が揺らいで、後ろに引張られた。以来、軽い階段恐怖症で、今でも階段は好きな方でない。思い返すと、あれは階段が斜めだったからではなくて、自律神経が失調していたのかも知れない。
子供の頃からの夢で、茶道を学ぼうと思い、ミラノで数回お茶のレッスンに通ったが、一月ほどですぐやめた。余りにかけ離れた世界に暮らす日本人と、それを日本と信じて疑わないイタリア人との狭間に、自分の居場所はなかった。その昔、階段から落ちて両足首を脱臼していて、どうにも正坐すら我慢出来なかった。ただ、良い経験にはなった。一つ一つの動作に意味があり、一つ一つの動作に気を集中させるのは、複雑な楽譜を頭の裡で視覚化させるような、新鮮な驚きがあった。
リズムだけ三分の一程書けた。書溜めてあったスケッチが、今になって漸くパズルの様に頭の中でカチカチ音を立て、組合わさってゆく。作曲していなかったからか、筆がツボに嵌まるまで、何十枚もスケッチを取らなければならなかった。夢を見た。日本ではイタリアの夢を見て、イタリアにいると日本の夢を見る。昨日は、夢で行方不明の猫が見つかった。
無心でリハーサルするのは、ストレス発散に良い。信じられない程テンポが早く、演奏能力の限界をひたすら続ける作品なので、曲が始まると誰もが頭の中をまっさらにして、文字通り無心で音だけを追ってゆく。昨日だったか一昨日だったか、頭がどうにもくらくらするので横になると、落ちる、落ちる、と夢でうわ言を言っていた。
今書いている曲は、生命体、アメーバ−のような構造に見える。尤も、構造体として呈することを、初めから拒否している。構造のない作品に見えるだろうが、それも良い。分り難くとも、求心性は忘れていない積り。無意識に自分が日本的なフレーズ感を欲していて、妙な心地がする。しかし、作曲に身が入ると、書き進めるのが勿体無い気がして、つい筆を置いてしまうのは何故だろう。今晩は、向かいのアパートのあちら側で花火大会をしていた。派手さもなく、見応えも無いが、それでもまあいいかと思わせる打上げ花火。イタリアだからか。
今回の新曲を何とか早く完成させたい処だが、睡眠不足になるとすぐに倒れるのが分っていて、睡眠時間だけはしっかり取っている。お陰でどうも大変な実感が湧かなくていけない。自分の作風が、日本風な呼吸に戻りつつあるのかとも思う。久しぶりに作曲していて、溜まったストレスを吐き出している気もする。
昨日は、いよいよ自分の躯が危ないかと軽い危惧。合わせを始めても目は霞むし、頭はぐらぐら回っていて、それでも結果的には良い合わせになる不思議。練習させて頂いた家で、気付けにバーボンを2杯程呷ったが、あれは旨かった。
学校の厄介も色々とあって、年度予算をいきなり半分にしろとか。いとも簡単に、それも突然言うのだから呆れる。それがどれだけ煩瑣か考え込むと、眠る事すらままならない。先日など、学院長が、突如オーディションで選ぶ奨学生の賞金がない等と言い出し、真っ青になって出かけた。毎日こんな感じながら、イタリアではそれなりに暮らしが成立しているのは、歯車の大きさが、どこかで旨く噛合っているからか。三時間働いて、ニ時間眠る繰り返し。風邪の悪化を何とか免れるための苦肉の策。
初めてシャリーノに会う。ミラノのドームの前で待合わせをすると、きっちり時間通りに現れた。高級惣菜屋の喫茶室で、お茶とお菓子をご馳走になる。芸術家として生きている人に会うのは、時には必要だと改めて痛感、人間的な感銘を与えられる。お互い意見をはっきりと交換しながらも、こちらの言葉にも謙虚に耳を傾けてくれ、奢った処がないのに驚く。彼が持ち歩いている革張りのノートを見せて貰うと、見事な筆致で、オペラの台本から自宅の書庫の設計図までが、丹念に綴られていた。彼は、中央駅から昼過ぎの列車でフライブルグに発っていった。
日本からの来客と連れ立ってコモへ出かけた。駅から湖畔沿いに歩き、山頂までケーブルカーで昇り、さらに半時間ほど、急な山道を歩いて汗が吹き出した。眼下に美しい湖が俯瞰出来て、辺りの気温は摂氏3度ほど。コモの路地で、旧友に遭遇。子供を連れて散歩していた。彼は別の街に住んでいて、週末、離婚した妻が育てる子供に会うため、こうしてコモへやって来る。目の前はただ楽譜の山で、泣きたくなる。山の様な仕事と言いのは、本当に山状に仕事が積み重なることを言うのか、等と屁理屈をこねてみたくもなる。
初めて、ルチアーナの自宅を訪れた。長い付合いながら、彼女の家に足を踏み入れた事がなかったのは、不思議な気がする。何度も食事に誘われながら、タイミングが悪くて実現出来なかった。ただ、彼女との手紙のやり取りは、何年にも亙っていて、いつも忙しなさそうな彼女と、電話で話す気がしなかったからかも知れない。家中の机の上に仕事の書類が重ねてあって、食卓の上にまで書類が整理してあるのを、恥ずかしそうに言い訳した。一寸ご免なさいね、そう言って、溜まっていた留守番電話のメッセージのスイッチを押し、メモを取り始めた。一体全部で何件あったのか、20件以上あっただろう、随分長い間、留守番電話の前に立ち尽くしていて、その間、こじんまりとした部屋に品良くあつらわれた、古い調度品の数々を存分に驚嘆する事が出来た。
200年前の燭台附きのくすんだヴェニスの鏡と、1500年代にトスカーナ地方で彫られたと思しき象牙のマリア像が、特に彼女のお気に入りだった。この空気こそ、イタリアの音楽界に充満する、くぐもった空気だ、あの匂いだ。心の底で、誰かが、喜びとも悲しみともつかない、鋭い言葉を発していた。(11月15日モンツァにて)
コープランド、バルビエからコーエン〜サティのピアノ音楽 三橋圭介
ジョージ・コープランド(一八八二−一九七二)はサティのピアノ曲を早い時期に録音したピアニストだった。正規録音には一九三三年の「グノシエンヌ」第一番(Perl GEMS0001、GEM0121)がある。ついで五一年のプーランク、そしてジャン・ジョエル・バルビエが六三年から七一年にかけて全集を完成させ、七〇年代のサティ再発見を促すきっかけとなった。その後、チッコリーニ、高橋悠治、高橋アキ、デ・レーウなど、さまざまなピアニストがサティを録音し、新しいサティ像を生みだし、サティ・ブームを巻き起こした。
サティの録音の大まかな歴史を概観してみて、コープランドやバルビエと他のピアニストとの大きなちがいはピアノの響きにある。もちろん使われているピアノもあるだろうが、根本的にピアノの調律にある。ほかの演奏者の平板で音色の少ない鋭い響き(平均律)に比べると、二人の演奏にはやわらかい湾曲した響きと音色の微妙な変化が感じられる。それは一九世紀に一般的な調性的な音律を使っているからで、調によって響きの異なるヴェルクマイスター風のものだ。
この時代は現在の平均律風の調律もあっただろうが、たとえばコープランドやバルビエのドビュッシーをきけば、その音色の効果がいかに音楽に大切かが理解できる。時代楽器奏者のインマゼールがエラールを使った前奏曲集第1巻ではヴェルクマイスター風に調律してドビュッシーを響きと音楽として蘇らせた。おなじく時代楽器奏者のパトリック・コーエンは九八年に一五〇年ほどまえのエラール・ピアノをヴェルクマイスター風の調律でサティを録音(GCD920508)している。
コーエン以前のサティをコープランドを例としてあげるなら、かれは左手の伴奏を二小節前奏のように弾いてはじめる。旋律は浮遊するようにゆれ動いているが、全体が静止した淡々とした印象を与える。バルビエはかつてこういった。サティは「時間から遊離してインモビリティがそこにでてこなければいいけない。内面ではリズムが固定したものを持っていなければいいけない」。展開をもたない、切り取られた時間外の音楽というスタティックなサティ像はレーウを頂点に揺るぎないものとなった。
だが、実際に「グノシエンヌ」などを弾いてみると、旋律のゆらぎに身を任せたい衝動に駆られる。それは音楽の内的な要求にあるもので、後期のサティの「家具の音楽」という思想や偏屈者サティにたいする思いこみがこの自由を阻害していたのかもしれない。これは音楽そのものより、サティの思想面が重視されたことを端的に物語っている。コーエンは「サティはこうあるべき」をうち破った。
「グノシエンヌ」を弾くコーエンは、まず旋律ありきという風に旋律の動きにあわせて、左手のリズム・パターンが揺れる。夢見心地にためらう歌からサティの意地悪い棘が顔をのぞかせる。エラールと調律から生まれるその複雑な響きは、その音の情報量の多さだけはでなく、響きにグラデーションのような色彩の翳りをもたらして、独特の詩情を漂わせている。
コープランドやバルビエをサティの古典的な名演とするなら、コーエンのサティは決定的に新しいサティを生み出している。かれはサティの音楽の内的な要求と共に、音色から音楽をつくるという基本的なことを思い起こさせてくれる。
昔わたしはよく風邪をひいた。特にこの時期は過労と寒さが重なるとすぐ喉が痛くなり、熱が出て、関節痛、鼻水、くしゃみ、咳、のフルコースをやった。そしてようやく風邪は治っても、咳だけが何週間も続くことが多かった。あるレコーディングの前、どうしても咳だけが止まらなくて本当に困ったこともある。演奏中に咳をするとお腹からジャバラに振動が伝わって、曲全体がゴホンゴホン! となってしまう。とくに長い持続音などは揺れに揺れて最悪。
その頃は義母がまだ町で開業医をしていて「インフルエンザの予防注射は絶対にすること!」と一方的に決められ、新米の嫁は素直にお尻を出し、チクンと注射をしてもらった。ところが翌日から体がだるくなり、喉が痛くなり、いつものフルコースがスタートしてしまった。ただ以前と違うのは、この風邪がいっこうに治ろうとしないこと、とにかくこの風邪菌は強力かつ頑固でしつこく、いつまでたっても私の体から去ろうとしなかった。結局その冬は3ヶ月以上具合が悪く、以来“インフルエンザの予防注射”と義母が言い出すと、もう恐ろしさで震え上がり、必死で話題を変える嫁になってしまった。
健康を維持するためには“治療より予防”とドイツでも言われている。その予防とはどういうことだろう。外から帰ったら手を洗う、うがいをする、果物や野菜を多く取る、人ごみの多い所は避け、空気の良い森の中や海辺を散歩する。日常生活ではストレスが生じないように気をつけ、睡眠は充分とり、規則正しい生活のリズムを保つ。まあいろいろある。昨日ある雑誌に“アルコールとカフェインは食生活から完全に削除しましょう。”と書いてあった。体には栄養価の高いものを与え抵抗力をつけ、風邪菌の多いところへは近づかない。
確かに理屈はそうだろう。しかし人ごみの多いところを避けたら大学にはたどり着かないし、回りのリズムに自分が合わせなかったら何事もスムーズにはいかない。ストレスは不意なことから生じるから前もっては何もできないし、睡眠も“毎晩8時間”なんて絶対無理だ。手を洗うことは大好きな私だが、うがいは面倒くさい、というか口をつけてもいいと思うきれいなコップが常に身近にはないから。そう、濁ったコップってすごく苦手である。昔、海浜浴場の更衣室に敷いてあった、湿った筵と同じくらい、すごく嫌い。
ここで思い出すが、私の父は記憶にあるかぎり、風邪をひかない人だった。家族全員が風邪で熱を出していても咳一つせず、外から帰宅しても洗わない手のままで饅頭をつかみ、それは美味しそうに食べた。風邪菌がたっぷりこびりついた病人のコップで紅茶をゴクゴクと飲み、咳が100発くらい詰まっている母の枕で、気持ち良さそうに昼寝をした。“うがい”なんてどうやってするのか、きっと知らなかったと思う。ストレスや寝不足は、仕事上避けられなかっただろうが、でも横になると、いつでもどこでもドカンと熟睡した。とにかく体の抵抗力は抜群にある人だった。
そこで“抵抗力”について少し考えてみた。
ここ1、2年、風邪をほとんどひかなくなったと思う。ちょっと風邪気味でも、食事をぬいて“水・ティー・睡眠”この3つを十分取ると数日で治る。あんなに風邪ばかりひいていた自分としては革命的なことで、いったい以前と比べて何が変わったのか。
私が平日生活しているノルトライン・ウェストファーレン州はドイツ西部に位置し、ルール工業地帯として発達した。34059平方キロの面積なかにドイツでは大都市と見られるケルン、デュッセルドルフ、デュイスブルク、エッセン、ドルトムント、などが存在する。都市と都市の間距離は千葉・東京・横浜のように近い。だから州全体が一つの大都市のようでもある。ここにはアウトバーンも鉄道も蜘蛛の巣のように張り巡らされ、通勤の時間帯は東京も顔負けのラッシュアワーや道路渋滞が起こる。とくにドルトムントはヨーロッパ東西南北を結ぶ鉄道の交差地点で、東はモスクワ、西はロンドン、北はコペンハーゲン、南はミラノから国際列車が毎日通過する。大きく分けてICE、ICは特急、REは急行、S-Bahnは鈍行。その間を貨物列車も走っている。
以前は自家用車でデュイスブルクの大学へ通っていたが、ラントグラ−フからドルトムントだとルール工業地帯を横断するわけで、車だと時間が計れない。1時間半でもいくこともあるし、4時間以上かかることもある。だからドルトムントに転勤してからは電車通勤にした。しかしこちらも時間が計れないことがわかった。ドイツ鉄道 は一般にDBと呼ばれているが、最近ではこの“DB”が“いいかげん”“アバウト”“遅れ”の代名詞として使われるようになってしまった。時刻表どおりに運転される日なんて一日もない。10〜15分の遅れなんて毎度のこと、秋の落ち葉シーズンになると40〜50分の遅れも多い。日本では考えられないことだ。 それでもICE、ICの場合はアナウンスがあり、遅れの原因も一応説明してくれるが、REになると遅れ時間の掲示もアバウトになり、原因も駅ごとに違ったりする。まあ隣の駅のせいにすることが、通常となっているようだ。そんな中で悲劇に近いのが鈍行のS-Bahn。大学へはドルトムント中央駅でこのS-Bahnに乗り換えないと行けない。時刻表では20分毎に一本出ており、中央駅からUniversitaet(大学)までの所要時間は6分。しかしこれは全く紙上のみのインフォメーションで、利用者がこれをあてにしたら大変なことになる。そこで現実はというと:
ホームに立って電車を待っている。
時間がきてもこない。
アナウンスはない。
そのうち別の電車がホームに入ってくる。
「これには乗れません」というアナウンスが入る。
北風が吹く寒いホームで足踏みしながら待つ。
ホームはすでに人であふれている。
9時過ぎにやっとアナウンスが入る。
「8時54分発のS1はキャンセルとなりました」と。
その次の9時14分発も10分遅れ。
以上は日常茶飯事。
先日など3本も立て続けにキャンセルとなった。
一時間以上もホームに立っていたから凍え死にしそうだった。
先方は正確な状況をアナウンスしてくれない。
たまにあるアナウンスの声や喋り方は実にふてぶてしい。
いかにも“自分のせいではない!”を強調する。
一言も謝らないこの態度は不愉快だ。
しかしここまで徹底するのもたいしたもんだ。
総合大学へ向かう電車の利用者には外国人も多く、乗っていると世界中の言葉が頭上を交差する。また大学の敷地内には週2回大きな“蚤の市”が開かれ、ここへは外国人労働者が何千人も来る。混んだ電車、冷えた体、イライラ、体臭、騒音、S-Bahnは心身ともに試練の場である。
前置きが長くなったが、“抵抗力”について、ここからが重要なポイントである。
この電車の中には風邪や流感の病人も乗っている。人種もさまざまで東洋人、ロシア人、トルコ人、アフリカ人、インド人、アメリカ人、ドイツ人……。
まさに世界中のウイルスが狭い空間に舞い踊っている。手摺り、ドアノブ、椅子などにも菌は沢山こびりついている。そして背の低い私は、高い所から降ってくる黴菌のシャワーをもろにあびることになるのだ。S-Bahnは混んでいるから、黴菌シャワーを避けることは無理だし、消毒なんてしようがない。大学へ着いたら一目散に教室へ急ぐから、うがいも出来ない。
多分これだと思う、風邪をひかなくなった理由は。私の中にも万国のウイルス免疫ができたのだ。インフルエンザの予防注射より、もっともっと多種多様な予防接種をS-Bahnは私に注射してくれたというわけだ。先日夜遅く、夫と2人でS-Bahnに乗ったら、あるホームレスのおじいさんがウォッカをラッパ飲みしていて、私がふとそちらを見ると「寒いから飲めよ」と差し出してくれた。夫を見ると笑っているので「まあ、大丈夫か……」と思い、その瓶を受け取り自分もラッパ飲みした。体がポカポカ温まって、ここでも何かの菌を予防したかもしれない。
コンピューターの平井先生は「コンピューター・ウイルスなんてどんどん新しい種類が出てくるから、AntiVirusしたところで大した効果は望めませんね。それより常にバックアップをして、お金では買えないデータを大切に保管すること」と教えてくださいましたが、なるほど。風邪菌も似たようなものかもしれない。
S-Bahn通勤は、チクン! の予防注射より痛いけど、以上のようなわけでこれからも乗り続け“抵抗力促進”のプログラムにしよう。
今日もまたまた一向に来ないS-Bahnを待ちながら、一人ホームで思う。(2003年11月28日デュッセルドルフにて)
アジアのコラボレーション(1)Realizing Rama 冨岡三智
先月は月末の土壇場でコンピュータが故障して原稿が送れなかった。この原稿は先月のテーマを改めて思い出しながら(原稿が消えてしまったので)書き直したものである。
10月18日にかながわドームシアターで、21日に大阪国際交流センターで舞踊劇「リアライジング・ラーマ」の来日公演があり、大阪ではさらに20日にワークショップもあった。この公演で私の留学先だったインドネシア芸大の元学長・スパンガ氏が音楽家として、また私の男性舞踊の師・パマルディ氏が踊り手として来日した。私は留学時代からパマルディ氏にこの公演についてあれこれ聞かされたり、海外公演のパンフレットや初演のビデオを見せてもらったりしていた。また今回の来日公演で多くの踊り手の人達とも親しくなった。そういう訳で今回と次回ではこの公演について、またそこからアジア/アセアンの舞踊コラボレーションについてあれこれ書いてみよう。
この作品はアセアン文化情報委員会(COCI、1978年設立)によって1997年に企画された。アセアン加盟国各国から2〜3人ずつ出演者を出してアセアンが共有できる舞台作品を制作し、加盟国、次いで世界の主要都市を巡回公演するというプロジェクトである。初演は1998年12月、アセアン6カ国首脳会議に合わせてベトナムで行われた。その後1999年にフィリピン、インドネシア、ブルネイ、シンガポール、マレーシア、2000年にタイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、2001年にヨーロッパ(確かイギリス、ベルギー、ドイツ)、2002年にインド、韓国、中国、2003年にフィリピン、日本と巡回し、今回の日本公演で一応プロジェクトは終了だそうだ。カンボジアは1999年にアセアンに加盟したので(これでアセアン10となる)、企画当初はカンボジアは参加していない。カンボジア公演ではまだ同国の踊り手は参加せず、その翌年から参加したという。
表現形態として舞踊を選択したのは、言葉の壁がなく、且つアジアではシアターの中でも舞踊が重要な要素を占めているとの考えによる。それが現代舞踊であるのは、各国から踊り手を集めているため特定の民族の伝統様式だけを採用できないからである。これはアセアンの多民族国家の中でも同じであり、インドネシアなどもそういう理由で現代舞踊が盛んである。そのため今回集まった舞踊家達も伝統舞踊と現代舞踊の両方を手がける人が多い。しかし現代舞踊だと言ってもそれぞれの国の伝統的なテクニックから発展しているので、西洋の現代舞踊とは趣が異なる。またミャンマーとベトナムにはまだ現代舞踊というジャンルがないらしく、同国からの参加者にとっては結構大変だったらしい。特にミャンマーでは伝統舞踊といっても木偶人形振りの動きがあるだけで、人間振り(というのも変だが)はないと聞いた。
演目がラーマーヤナになったのはアセアンの多くの地域に伝わっているからである。ラーマーヤナが伝わっていない国はベトナム、シンガポール、ブルネイである。フィリピンには無いと考えられてきたが、ある地域の先住民族に伝承されていることが近年の研究で判明したという。またシンガポールにはないと言っても、インド系の人にはラーマーヤナは知られている。日本公演のリーフレットで脚本家とされている人は実は歴史学者で、このプロジェクトの一環として各国のラーマーヤナの比較研究をしている。ラーマーヤナと言っても受容した地域によって多少物語も異なるので、作品のコンセプトを固めるに当たって様々なアドバイスをしたのだという。
公演での音楽は録音を使用した。作品づくりの方法は音楽先行で、曲を先に作って録音してから振付している。したがってスパンガ氏は自分であれこれ振付を想像しながら作曲したそうである。作曲にあたっては振付同様に、特定の民族=自分の出身地のインドネシア的、ジャワ的音楽にならないように一番注意したと言う。また彼自身の試みとして、リズム楽器である太鼓などをメロディー楽器として、逆にメロディー楽器として使う弦楽器などをリズム楽器として使ってみたと言っていた。ところで猿が群れになって出てくるシーンではバリ島のケチャが使われていた。ケチャはもはや民族音楽というより、多分インターナショナルに猿のイメージを喚起する音楽だと考えたのだろう。
作品づくりでは、アセアンのどの国でも受け入れられ、大衆が楽しめる娯楽作品を目指したとのことだった。その意図は十分実現できていたと思うが、しかし大衆が楽しめる=子供受けすると勘違いしているのではないかと感じさせる部分もあった。それは衣装のせいもある。ラーヴァナやその手下の衣装はまるで子供向け番組(仮面ライダーなど)の悪役さながらにピカピカと電飾が光ったり余計な装飾が多かったりで、舞踊家の身体の表情をかなり殺していた。また舞台脇の字幕は不要である。字幕の文言はリーフレットと全く同じで、事前に読んでいれば十分にストーリーは理解できる。それにリーフレットの日本語はあまりこなれていなくて、これを字幕で読むと余計に分かりにくかった。
リアライジング・ラーマの舞台でずっとひっかかっていたのは、全体的に舞台の重心が高いのではないか、そして何となくおさまりが悪いのではないかということだった。ビデオで見た時は踊り手の上半身アップが多かったのでそうは感じなかったのだが、生の舞台で見ると踊り手の腰から下あたりの空間が空いているように感じる。この感じはバレエの舞台空間に似ているかも知れないと私は思い至った。今回の芸術監督、衣装、舞台装置といった制作スタッフは皆フィリピン人だが、どうも彼らが前提としている舞台空間、作品づくりのあり方は欧米的であるようだ。たとえば、インドネシアで見られるように音楽と舞踊を共同作業で作り上げていくというやり方でなく、作曲行為が独立していること、額縁舞台を使用すること、下半身はぴったりした素材やプリーツによって腰から下が軽いのに比べて大きい冠などで体の上部を強調している衣装など。また大勢の猿が天井から垂れ下がった布でブランコしたり、ラーマが橋を架ける場面では明らかに舞台の上方に重心がある。さらに舞台中央奥の蓮をイメージしたような装置(傘のように開閉してそこから登場人物が出てくる)も、垂直方向へ伸びるイメージを強調している。舞台背後に大きく映し出される映像や踊り手の影も、逆に舞台下の空間を小さくしている。しかしバレエではそもそも踊り手が爪先立っていて跳躍も多く、宙に浮かんでいるような世界を作り出しているから、空間の重心と踊り手の重心が一致している。しかし今回は制作側の視線の高さにくらべて、踊り手達の重心はまだまだ低いところにあって、そこにずれが生じたような感じを受けた。
某月某日 くもり
自宅への帰り道、なにやらスズメたちが騒がしいので、かれらの視線をたどってみると、道ばたに巣立ちして間もないスズメの子供がすくんでいるのを見つけた。拾いあげてみると、どうやら脚をケガしたものらしい。ショックのためだろうか、身動きがとれなくなってしまったようだ。
ケガのぐあいを確かめてみると、脚に小さな切り傷があるものの、すでに血は出ていない。このまま放置して野良猫に食われてしまうのも気の毒なので、連れて帰り一晩だけようすを見ることにした。
紙の空き箱にティッシュペーパーを敷きつめ中に子スズメを収めると、部屋には煤(すす)くさいようなスズメ独特の体臭がただよう。箱の蓋を閉め暗くし、しばらく休ませてから餌を与えることにした。
野性の生きものなので、ヒナ鳥とはいっても人間の与える餌をそう簡単に食べてはくれない。だからこういったヒナに餌を与えるときには、最初は口を無理にこじあけて餌を押し込んでやる必要がある。
楊枝の先に刺したご飯粒を、のどにつかえないよう水につけてから、こじ開けたヒナののど奥に押し込むと、スズメの子はしかたなしにそれを呑み込んだ。
しばらくして大きな糞をしたところを見ると、親鳥にはたっぷり餌をもらっていたようだ。
羽毛の生えそろっていないヒナ鳥は、親鳥から離されると、明け方の気温低下で体温を奪われ死んでしまうことが多い。しかし、もう初夏だし巣立ちした小スズメということもあり、使い捨てカイロなどで保温するのはやめにした。
翌朝、あいかわらず強情に口を開けない子スズメになんとか少しだけ餌を押し込むと、この鳥を放すことにした。
見晴らしの良い坂の上に立ち、鳥を包んでいた手をのけると、小スズメは手のひらの上でしばらくすくんでいたが、きのうヒナ鳥を拾ったあたりからほかのスズメの鳴く声がきこえてくると、小スズメはひと声大きく鳴くと、そちらへむかい飛び立っていった。
木の枝に止まった子スズメのまわりに、ほかのスズメたちが興味深そうに集まるのが見える。
部屋に戻りしばらくすると小雨がふりはじめた。
某月某日 はれ
繁華街の通りを歩いていると、道ばたに浮浪者が死体のようにころがっているのが目に止まった。
買物をすませたあと、念のため先ほどのあたりまでようすを見に行くと、浮浪者はあいかわらず同じかたちで地面にころがったままだ。
とりあえず生きているかどうか声をかけてみた。返事がないのでからだをゆすってみたところ、まったく反応はないものの、とりあえず死んではいないような感触がある。
今日は寒いしこのまま放置して凍死させてしまうのも気の毒なので、近くの交番に入り、机に置いてあった電話で警察へ連絡した。事情を説明すると、警官をそちらへやるという。
しかし、交番の前で待っていてもなかなか警察官はやってこない。
通りを間違えたのではないかと思い、倒れている男から少し離れた四つ角に立ってあたりを見まわしていると、浮浪者風の男が通りかかり倒れている男を見つけ、交番の方へ行くのが見えた。しかし交番に人がいないことがわかると、男はそのまま立ち去った。
しばらく繁華街の人どおりをながめながら待つうち、先ほど警察に電話したとき、倒れている男が浮浪者だと告げた瞬間、電話口の応対が微妙に変化したことを思い出した。
20分以上待っても警官が来ないので、派出所からもう一度電話すると、どうも応対がはっきりしない。浮浪者だからといって凍え死にさせるわけにはいかないでしょうと言うと、電話のむこうの声は少し困ったようだった。
やがて警官がひとりやってきたので、上着を脱いで、とりあえず(ふたりで)倒れている男を交番まで運びましょうと言うと、規則でそういうことはできないと断られてしまった。
繁華街の路上で男をめぐり警官と問答しているうちに、どうも自分がこうしているのはこの警官にとって邪魔なだけらしいということがわかってきた。
何かでなぐられでもしたのだろうか、この警官の耳はひどくつぶれている。
あとは何とかしますからと言う警官のことばに引き下がると、私はその場をあとにした。
後日同じ場所を通ると、先日の浮浪者らしき男がぼんやり地面に座っているのが見えた。
12月
コンピュータによる作曲のプログラミングでは確率関数が結果を特徴づける。音楽の顔だ。大数の法則があてはまるなら、音が多くなるほど結果は全体として予測可能になる。これがコンピュータ音楽に飽きた理由の一つ。技術の熟達は型どおりの結果しか生まない。
クセナキスが自分のストカスティック・プリントアウトのページを繰るのを見ていたことがあった。1964年。機械が書いた100ページからいちばんおもしろそうなページを数枚選んで普通の記譜に書きなおした。また1994年にCeMAMu(数学的自動化音楽センター)でGenDynプログラムのデータを1個だけ変えると機械が一晩中働いてたった1分の音響を作るのを見た。何でも受け入れるわけではない。そんなことをしたら絶対的確実性が勝ち誇る。それこそ死だ。
すべてを管理しようとするむなしい意志か従順な臣下の見え透いた運命を逃れるためのずるがしこさか。
耳は一見正常な環境の欠陥を感知する。歩行は無数の彷徨と地面との接触の積極的分岐からなる。感覚は偶発性のともなうもの。そうでなければ眠り込む。一歩ごとに問いがある。
香港の道教寺院黄大仙廟でひとびとはオレンジや花を捧げ香を焚き竹筒を借りて竹札が振り出されるまで揺する。札に書かれた数字を書きとめ幸運な数が出るまで続ける。運命を弄ぶのか問い続ける努力そのものが未知のものに対するときのましな態度をやしなうのかふしぎに思った。だが家族全員や遠くにすむ親戚のためにやっていただけかもしれない。それともこの種の占いは2、3回試みてやっと神々の意志に説得されるのだろうか。
ご意見などは suigyu@collecta.co.jp へどうぞ
いただいたメールは著者に転送します