2004年1月 目次
一年のおわりに 佐藤真紀
敗残兵の歳末 鎌田 慧
しもた屋之噺(25) 杉山洋一
ポピュラー音楽など 宮木朝子
失われた耳の感覚 三橋圭介
東の空はオレンジ色 御喜美江
祭りの見世物 地田 尚
アジアのコラボレーション(2) 冨岡三智
孤独(2) スラチャイ・ジャンティマトン
二度目の冬に 高橋悠治
ともかく12月は振り回された。11月30日、イラクで日本人外交官が殺されたという事件が起きてから、メディアが大騒ぎとなった。亡くなったと聞いたとき、井ノ上さんは良く知っている人だったので、背筋が凍りつくような思いがした。瞬間的に次は自分かと思った。
ともかく、最初は故人に関してのコメントを何でもいいから求められた。これは非常に気が重かった。私なんぞが、どうのこうのって言うのはおこがましいというのがまずあったからだ。
川口外務大臣は「なくなった二人の御遺志をしっかりと受け継いでテロに屈することなく、イラクの復興支援を続けていく」といい自衛隊派遣の伏線を敷いた。「いろんな意味で利用されかねない。亡くなられた方の遺志というのはそう簡単にはくくれない。他人が 安易に要約すべきではない。単純に切り取って遺志を継ぐというのは強引というか乱暴だ」(熊岡路矢JVC代表)マスコミの論調も、その後、自衛隊を派遣することの賛否に移行していく。
12月8日といえばパール・ハーバー。太平洋戦争が始まった日。鹿児島の憲法を守る会に呼ばれて公演することになっていた。飛行機に搭乗する直前、週刊現代に井ノ上さんと奥参事官の遺体の写真が出ていた。井ノ上さんの遺体はなぜか手が持ち上がっていた。なんとも痛ましい死だ。生前の彼の笑顔を思うと悲しくなる。
鹿児島の空港から会場に向かう途中ラジオで、外務省が遺体の写真を掲載した週刊現代に抗議したというニュース。週刊現代は強気で回収する気はないという。
会場に着く。鹿児島県憲法を守る会というのがあって、おじさんたちが一生懸命憲法を守っているという雰囲気。講演も無事に終わり、怪しげなロシア家庭料理の店でボルシチを飲もうとしたところで電話取材。翌日は自衛隊派遣を閣議決定し、国民に向けた説明をするのでコメントを欲しいというのだ。おかげでボルシチが冷めてしまった。
あわてて、東京に戻ると今度は新聞とNHKが待ち構えていた。小泉さんの「国民への説明」を受けてコメントして欲しいということだった。事務所でTVをつける。小泉さんが元気よく登場する。まず、首相の説明の軽さが印象的である。憲法の前文が出てきたのには、驚きだ。世界の平和を云々するのなら、一体この戦争を始めてしまった責任はどう問われるのであろうか。そんな怒りをたらたらとマスコミやら講演会やらで話し続けた。TVなどではほんの1分も出ないけれど、実は延々と喋り捲ってそのうちの一部だけが放送されるというわけだ。
でもちょっと小泉さんのことを悪く言い過ぎているうちに声が全くでなくなってしまった。TVの収録中、みるみるうちに声が出なくなってしまったのである。政権にはむかうとはこういうことなのかとなんとなく納得しながら、生姜湯をともかく飲んで声の回復を待った。翌日も、翌々日も講演が入っていたからだ。
12日は長野県で講演した後、13日は横浜に直行。横須賀で平和運動をやっている新倉裕史さんとのトーク。「平和運動は新倉さんに任せて、私はもうデモとかでしゃべりません」と宣言した。
日本の場合、平和運動とみなされるとたちまちメディアの中での発言権を失う。胸に平和バッチを着けてTVの取材に出たとき、ディレクターにはずしてくださいといわれたことがあった。「NGOとして説得力のある説明をお願いしたいんです。最初から平和運動の人がしゃべっているとなると、それだけで、色がついてしまって、視聴者の中にはちゃんと聞こうとしない人もいます」というディレクターの説明。まだイラクに平和が訪れていない。平和がくるまではバッチをはずさないことにしていたので、「じゃあ、顔だけ撮ってくだい」といった。
こうして、整理してみると(とは言え全くだらだらと書いている)自衛隊の派遣は、不自然。誰もがおかしいと思っているのに勝手に決まっていくことの恐ろしさを改めて感じる。
そこで思い出すのはドイツのワイツゼッカー元大統領の言葉。「もし自由な民主主義体制で適切な時期に自由と法治国家擁護のために立ち上がればあとで独裁者に対して命がけの抵抗を試みる必要など生じてこないのです。ということは自由と法治国家を守るためには、法律や裁判所では足りないのであって、市民の積極的参加、つまり市民的勇気が必要です」
自衛隊とNGOのやる人道支援の違いを最後に一言。
僕たちの人道支援は、必要な援助をしながらも、戦争のおろかさを伝え、もう戦争は起こさないことに取り組むこと。日本社会にも教育的に平和の楔を打ち込む。自衛隊が、イラク人にものを配れば、確かにそれはイラク人に必要なことだけれども、戦争はいけませんということにはならない。もっともっと戦争をやって儲かって儲かって、自衛隊は、もっともっといいことをするということ。そんな時代が確実にやってくる。
2004年、今年はいい年になりますように。
花田清輝が亡くなったのは、30年前の74年9月、彼が65歳のときだった。ちょうど、いまの自分の歳にあたる。そのこともあって、わたしが編集を担当している、雑誌「新日本文学」で、花田清輝と長谷川四郎の特集号をつくったばかりである。
それで死について考えさせられているのだが、最近、弘前の小学校の同級生が死んだことも影響している。葬儀に参列してはじめて知らされたのだが、田舎では葬式のあと、お寺の本堂につくられた祭壇からそのまま、境内のまえにある墓地に遺骨をはこんで納骨するのだ。
喪服をつけた遺族や友人たちが墓のまえにならぶと、住職が墓の手前にあるコンクリートのプレートをずらして、墓穴をむきだしにする。そしてそこに、骨壺のなかの骨を思い切りよくあける。と、遺骨はたしかに墓の底に落下するのだが、それとともに墓穴から舞い上がった白い骨粉が、あたかも蚊柱のごとく、いつまでも宙をさまよっているのだった。ああ、はいりたくないんだな。フトおもった。
じめじめした地底にいるのはイヤだな、それにおれは寒いのが苦手なんだ、と自分のときのことを考えていた。すぐちかくの町の出身である永山則夫は、オホーツクの海に散骨させた。網走の「無番地」と記された本籍地にこだわっていた人生だった。それはわかるけど、流氷に閉ざされた冬の海は、いかにも寒そうだ。
海ならカスピ海が手頃かもしれない。一度、若い男が汽船から地中海に飛び込んだのを目撃したことがある。自殺願望だったくせに、救命ボートが降ろされ、船員たちが現場に到着するまで、一時間も泳ぎつづけていた。救命ボートの底で、寒さに震えながらぐったりしている男を、わたしはデッキから見下ろしていた。
カスピ海は緑色で美しい。暖かそうだ。しかし、わたしは泳げないのだから、散骨されるとき、一瞬、恐怖を感じはしないか。
と、納骨がすんで、またコンクリートのプレートが元にもどされ、線香の煙にまぶされている墓を眺めながらおもった。
花田清輝が、晩年、「お迎え待ち」と書いていたのをおもいだした。それは論敵にたいしてではなく、ほかならぬ自分についての批評だったような気がして、かれの本をひっくりかえしてみたが、みつけられなかった。それが老化というものなのだ。 花田はたしかに「進歩主義者」だった。それがいまになって、若ものたちに受け入れられなくなった原因かもしれない。吉本隆明のような無原則な男のほうが、安心される時代なのだ。と、突然、「進歩主義」という言葉を思いだしてしまった。最近つかわれることのない死語だ。『広辞苑』をひいてみると、「社会の矛盾を変革しようとする前進的思想」とある。おお、異存はない。
歴史は前進すると信じて、変革しようとしたものが「進歩主義者」なのだが、いまや進歩主義者は、退歩主義者に包囲され、ジャングルに追いこまれた。小野田寛郎、横井庄一などのような、テロリストの敗残兵なのかもしれない。
一年が終わるのはこんなにも早いものかと、東京で年末を過ごしながら、ぼんやり思っています。
ヨーロッパが統合されてから、欧州圏以外の外国人がイタリアに滞在するのは、とても厄介になりました。毎年のように施行される新しい外国人法の網目をかいくぐりながら、何とか算段をつける術を求められるのです。学生でいられるうちは未だ何とかなるのでしょうが、そうでなくなった時、外国人である辛酸をしかと嘗めさせられることになります。
10月で切れた滞在許可証を更新して貰おうと11月に警察署に出向くと、新しい法律が施行され、お前は日本でビザを作り直せ、と冷たく命令されてしまいました。幸い、12月は大きな本番もなく、学校の契約にも関わることなので、細々とした用事は人に任せ、さっさと東京に戻ることにしました。
その旨、学校の院長に話すと、ミラノ日本領事館の天皇誕生日の晩餐会に一緒に出向いて欲しかったのだが、残念だね、などとのんびりしたことを言っていて、かかる機会を揶揄する者としては、適当な理由で断れて有難いくらいでした。有事といいながら、外務省も悠長なものだと、内心呆れましたが。
イラクの日本大使館員に犠牲者が出て、少しは世界との温度差も縮まるかと思いましたが、東京に戻ってみれば、同じように犠牲者が出た、イタリアやスペインのような、国をあげての扱いとは、比較のしようもない有様で、不甲斐なさにやりきれない思いでした。
イタリアでは、一週間、国全体が喪に服していて、こんな機会ではありましたが、逆に、イラクについて、洗いざらい誰もが考え直す良い機会になりました。国が喪に服す、というのは、公共の交通機関が休止し、全ての教育機関から省庁、普通の会社に到るまで黙祷をささげて、文字通り国民が喪に服すということです。そんなことは、日本では天皇崩御くらいしか考えもしないでしょう。こうなると、派兵される自衛隊の方にも哀れな感が漂います。
イタリアの場合、派兵が合憲か違憲か、なんて議論は必要なかったとはいえ、結局当事者は誰一人としてイラクを引揚げることを望まず、粛々と任務をこなすさまに、国民全体が今も心からの拍手を送っていて、文字通り、国全体でイラクの問題を考えていたわけですが、東京に戻ってくると、誰もが送り出したくない自衛隊を、無理やり法案を通して派遣させることに、話題が沸騰しているのを見るにつけ、少々げんなりさせられたというのが本音です。
ドイツ留学から日本に戻った妙齢と、渋谷のトンカツ屋で食事をしました。日本に戻って何を思ったかと聞くと、オーケストラで仕事をしていて、周りの誰も、自分の身体から、音楽を生み出そうとしているように思えないことだそうで、そのストレスで身体をこわした、と言っていました。
スイスに留学中の友人のリサイタルも聴きにゆきましたが、東京で演奏会をする行為そのものの意義が、自分の生活からすっかり乖離してしまっているのに、驚きました。会場で久しぶりに再会した畏友のIが、今もまともに作曲しているのは俺だけだ、と笑っていました。
わたしたち日本人は、深く細やかな感情の襞はあるけれど、明け透けな喜怒哀楽を表現するのは苦手で、演奏する側も演奏を聴く側も、互いに距離を慮りながら、中庸の生ぬるさに腰まで浸かりつつ、やり過ごしています。演奏会の聴衆の反応も、今一つはっきりしない感じで、自分はこの作品が聴きたいのか、聴きたくないのか、この演奏者が好きなのか、嫌いなのか。演奏者に懇意にしてほしくて顔を出しているだけのか、よく分からない。そんな、不可解な笑顔だらけの、演奏会後の楽屋が頓に苦手で日本を飛び出したのですが、どこか醒めていて未消化な感触は、なし崩し的、日和見的な日本の外交政策に酷似しています。
東京の街角が、世知辛い世相に反比例すべく、まばゆいクリスマスのイルミネーションの向こうに浮び上がっていて、寂々として心に染透る、イタリアのクリスマスを思わず想起しました。粉飾され、きらびやかなのが、却って侘しさを誘うこともあるものです。(12月24日町田にて)
洗足学園音楽大学に週数回行き、授業、レッスンをいくつか担当するようになって2年。主に音楽・音響デザインコースというデジタル音楽制作関連の科の授業なのだが、ひとつ全科共通の講義を担当している。『ポピュラー音楽論』。「音響テクノロジーの進化と変遷 、現代音楽・アートとの関係の2つの視点をもうけ、最終的には、新しい制作手段と伝達手段による新しい表現形態、現代の音楽のリアリティについて考察することを目標とする」と、ややおカタいイメージでシラバスを書くが、それでも時代を反映してか様々な科から受講しに集まってくれる学生たち。
大教室のスピーカーの音質は、緻密に音響構成された種のポピュラー音楽再生には物足りないのだが、それでも1回の授業につき少なくとも10曲は聴く。自分の嗜好が反映されてしまうことは否めない。。ハウス、テクノ、エレクトロニカ、実験的なクラブミュージックについて調べていると、授業準備もまったく苦にならない。赤字御礼で音資料を集め、毎回テーマに即したセレクトCDを1枚つくる。そんなことをして2年、気付いたら50枚近いセレクトCDが積み重なっていた。クラシック、現代音楽については、高校、大学の頃から日常的に収集していた資料、下地がそれなりにはあるけれど、ポピュラー音楽については好きなものだけ、アンテナにふとひっかかったもののみだったために、空白/穴を埋めてゆくような作業でもあった。そうしてつながってゆく関係、思わぬルーツ、影響、、クリエイティヴィティとポピュラリティの絶妙の絡み合い、シリアスなテーマをスウィートに表現してしまうしなやかさ、そんなものを発見することは実に楽しかった。
もうひとつの楽しみ。それは、毎年恒例としている、受講生による自作レクチャーだ。音楽・音響デザインコースの学生の特に2年生は、昨年スタジオエレクトロニクスという、コンピューター/シンセサイザーによる音制作の基礎の実習の授業で担当したため、彼らが初めての機材をそれぞれの段階で個性的に使い、様々な表現をみせてくれることを知っている。「ポピュラー音楽」にこだわらない、音響表現を探究してゆくことも、薦めてきた。ジャズ、金管、など、様々なコースの学生が、自主的にユニットを組んでいる例も多く、そんな彼らの表現にも関心があったが、やはり募集すると手があがるのがシンセ科あらため音楽・音響デザインコースの面々となってしまう。
2年、3年の学生たちが先日、それぞれの自作をたずさえて10数分ずつのレクチャーをしてくれた。音にチョットうるさい彼らは、スピーカー音の音質に不満をもらしつつも、それぞれの音響の工夫、制作過程について語った。6者6様。こだわりのあまり大学のスタジオで400回もヴォーカルを録り直したという曲、MAXを用いて魅力的なアンビエントを聴かせ、時間軸についての自由なイマジネーションを誘発する曲、映像をともなったダンスミュージック、60年代一世を風靡したポピュラー音楽のレコーディング技法「音の壁」サウンド(狭いスタジオで多くの楽器を演奏し、つくられたエコーを元の音にかぶせることによって生み出されるぶ厚いサウンド。フィル・スペクターが考案した)を、コンピューターソフトの中でシミュレーションしたロック、など。
この講義を通じて感じたことは様々ある。異種のもの同士の思わぬ遭遇、衝突、誤読ともとれるユニークな受け止め方から生み出される新しい表現形態、破壊と再生のダイナミックな連鎖、負の環境(差別、偏見、疎外、暴力、希望のない現実など)から音響テクノロジーの力を借りてのイマジネーションひとつではじきだされてくるビート、ヴォーカルの様々な形態。自分の音楽制作にも大きな刺激となる数多くの表現に触れることができた。1月の今期最後の授業時にも数名の発表がある。今から楽しみだ。
*『東方逍遥』(12月の「水牛のように」参照)のCDリリースコンサートは12月19日に無事終了。ファツイオーリピアノを見事に調整し、本番には艶やかな響きをひきだしたコンサートチューナーの狩野真氏、照明と植物を使った舞台演出をしたアーティストの森脇裕之氏などの仕事、お話も興味深いものだった。そしてもちろん、門光子さんの美しいタッチに拍手。
*2003年のクリスマスは奄美で迎えた。奄美自由大学特別フォーラム〜群島へ学び逸れる〜に参加。山口昌男氏、今福龍太氏、上野俊哉氏によるフォーラムのなかで、主に9月の沖永良部島での巡礼野外劇『南海のオルフェウス』(11月の「水牛のように」参照)の中の音響や島の音響、ジューテの演奏や、詩人高良勉氏の朗読の一部を“リミックス”した10分の「記憶の音響」と、濱田康作氏撮影の多重露光写真の今福龍太氏編集による10分の「記憶の映像」とによる、即興的なセッションをおこなった。上野氏はその晩、名瀬市内のTea-Birdというカフェ/レストラン/バーでDJプレイを披露。プロジェクターで山口昌男氏の著作の一部を投影するなど、刺激的な打ち上げとなった。
追記:この旅の中で念願の三線を購入。9月、沖永良部島で、八巻美恵さんもご一緒に踊られました、『サイサイ節』を、横浜の自宅で訥々と弾いております。踊るひとと波の音が欲しくなります。またぜひご一緒に。(2003年12月31日記す)
昨年はいろいろなクラシックの名演奏を集中的にききかえした。とくにクライスラーやエネスコ、メニューイン、プシホダ、マルツィなどのヴァイオリンをきいて興味をもったのは、イントネーション(音程のきめ方)のことだ。いうまでもなく、ヴァイオリンは演奏者が音(程)を作る楽器だ。クラシックのほとんどが和声的な音楽であることから、これらのヴァイオリニストたちはそれぞれの感覚で純正的に音を取っていることに気づく。
クライスラーのベートーヴェンやメンデルスゾーンの協奏曲を今きいて新鮮に感じるのは、個人的な解釈を全面に出すのではなく、イントネーションや音色で音楽を作っているからだろう。だが、クライスラーが平均律風に調律されたピアノと共演するとき、途端にイントネーションが崩れる。それはクライスラーが手の型だけではなく、耳でイントネーションを感じながら音を取っているからで、伴奏の平均律的な音程に合わせようとして、どこかちぐはぐな印象を与える。しかし、かつてこうした不調和は弦楽器には当たり前のことで、もともと音程を作るヴァイオリンと音程を固定したピアノとでは、イントネーションのあり方が根本的に異なっている(ヴェルクマイスターの調律では平均律より合うだろう)。
エネスコによるバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」はもっとわかりやすい例かもしれない。この演奏は音色が出会いを繰り返しながら、きくことを強いない音の佇まいが感じられる。名盤としても知られるが、演奏に触れられる時に、常に語られるのが「ひどく音程が狂っている」ということだ。エネスコ最晩年の録音で、もちろん技術的な衰えがあり、確かに音が狂っている。だが、実際の狂いはわずかなものにすぎない。そもそも「狂っている」と感じる物差しがちがう。平均律的なイントネーションから狂っているのではなく、純正律的なイントネーションからわずかに狂っているにすぎない。つまり平均律的なイントネーションに慣れた現代の耳にはひどく狂って感じられるのだ。
エネスコの弟子のメニューインのヴァイオリンを最近いくつかきいた。なかでもオイストラフ指揮モスクワ・フィルのベートーヴェンの協奏曲(1963年 ライヴ)をおもしろくきいた。メニューインの音楽には人間的な弱さを隠さない強さがあり、逆にオイストラフには人間的な弱さを隠そうとする強さがある。二人の心が一体となって音楽を作りあげているが、メニューインのヴァイオリンを美しいイントネーションと感じるか、それとも熟して破ける寸前と感じるか。そこにはクライスラーやエネスコに通じるイントネーションの美がある。
現在、弦楽器の演奏者で美しいイントネーションをもつ演奏家はほとんどいない。時代楽器が歴史的な奏法や調律、時代様式を学んでドビュッシーやサティに達したとしても、弦楽器の失われた耳の感覚は20世紀のクライスラーやメニューインにすら達していない。一度、失われた感覚(文化)を取り戻すことは難しい。だが録音などを通してでもイントネーションへの関心を高める時期がきているのではないだろうか。
先月の『水牛』にドイツ連邦鉄道の悪口を書いたが、原稿を送ったそのすぐ翌日から列車の遅れと運転及びメカニカル・トラブル、そして急行、鈍行のキャンセルはさらにエスカレートし、12月に入ってからは、「お前は日本の人々によくもドイツ連邦鉄道の恥をさらしてくれたな!」とまるで復讐されているような、それは悲惨な毎日を過ごす羽目になってしまった。大学がクリスマス休みに入って、何が一番嬉しかったというと、これからの2週間、あの凍え死ぬように寒いプラットフォームを見なくてすむこと、あのいいかげんで横柄な構内アナウンスを聞かずにすむこと、発車前は待ちくたびれ到着したら急いで走るという不健康なスポーツから解放されること、それが何よりだった。
12月15日、加藤種男氏がユトレヒトからデュッセルドルフに訪ねていらした。
それは9月26日アサヒビール・ロビーコンサートでシュトックハウゼン作曲の『ティーアクライス』をリコーダーとアコーディオンのデュオでご一緒させていただいた時、“もし時間が取れたら12月ドイツかオランダでビールかワインを一緒に飲む”という計画を加藤さんと立てたからだ。こういう計画は大抵実現する。プランというものはシンプル過ぎるくらいがいい。そして各自にとって全く無理のない内容であることも大切。さらに普段から練習し馴染んでいることであれば、いつでもどこでも実践できるから時間のロスも少ない。突然用事が入ったり、ちょっとしたトラブルが生じても、この程度のプランなら目的達成まず問題なし!
このシンプルプランは正解だった。
まず加藤さんの乗ったICE特急列車が遅れた。「今ユトレヒトの駅にいるんですけど、30分くらい列車の到着が遅れているそうです。」と電話をいただいた。内心「またか」と別に驚きもしないが、それでもICEは時々狂ったようにスピードを出してかなりの遅れでも途中で挽回するから、ほどほどに駅に向かった。駅に着いて発車時刻の掲示板を見上げると、アムステルダム発のICEはすでに45分遅れと出ている。嵐でも大雪でもないのに、もしかしたら列車自体にトラブルがあるのかな、何だか心配になってくる。
駅の構内カフェに入って紅茶をすするが、この日は寒くて紅茶が歯にじんとしみる。40分くらいそこに座って新聞を読んでいたが、もうそろそろ、と腰を上げ、到着予定の18番線に行ってみると、そこには溢れんばかりの人々が震えながら列車を待っている。でもアムス発のICEは電光掲示板に出ていない……おかしいな。近くの駅員に聞くと「我々はベルリン行きのスタッフだからわからない」と冷たく対応される。それから何本かの特急が発着するが、アムス発は来ない。もう一時間以上も待っているのに一体どうしたのだろう……。
すると突然“19番線”ホームにアナウンスもなくICEが入ってきた。車体を見るとAmsterdam→ Basel と書いてある。あっ、これだ! 夫は前方部へ私は後方部へ走り、目を皿のようにして加藤さんを探す。不思議と降りる客が少ない。ICEはほんの1、2分の停車ですぐに発車する。しかし加藤さんはいない!
ホームをもう一度往復し階段も二箇所下りてみるが、加藤さん、いない。疲れて寝過ごしちゃったのかしら……でもおかしいな〜、どうしたんだろう。
急に静かになったプラットフォームを歩きながら迷っていると、携帯電話が鳴った。「や〜、すみませんねー。実はデュッセルドルフで降りようとしたんですが、ドアが開かなくて」「まぁ!」「それでこのICEはケルンまで停車しないから仕方ありません、ケルンからまた連絡します」と。
これで遅れの原因が判明した。降りる客の少なかった理由も解った。「とにかくこれはひどい! 日本では考えられないことだろう?」と夫は憤慨。私も「もう復讐なんか怖くない、今度こそ『水牛』でたっぷりDBのこと、言いつけちゃおう!」と誓った。
それから70分後、加藤さんはケルンからデュッセルセルドルフに無事到着した。ドイツでは“スタート”が大変な場合、「難産ほど元気に育つ!」と言ってお互いを励ますが、本当にそのとおりだった。遅めの昼食は3人とも空腹だったのでたくさん食べ、冷えた体を赤ワインであたため、午後は画廊に入ってデューラーの版画を何品か見せてもらい、夜はもちろん旧市街でビールを飲んだ。いろいろある地ビールの飲み比べもした。というわけで9月に立てた私達3人のプランは100%成功したというわけだ。 そう、プランはシンプルに限る!
それから10日後のクリスマスは、夫の親族7人が来てお食事会をした。一昨年、大雪で急遽来れなかったメンバーが3人いたので(小冊子『たんぽぽ畑』または『水牛のように』2002年1月号の“ホワイトクリスマス”参照)その時のメニューを一部再現して海老フライも作り、グレープフルーツのシャーベットと胡桃&林檎のケーキもデザートに出した。
でも揚物って難しいな、といつも思う。母が作る揚物と私が作るそれとは雲泥の差。日本では私の揚物なんて到底ご披露できないけど、こちらでは皆さん、残さず最後の一匹までたいらげてくれる。
私の得意はスープ。これは時間をかけてたっぷりの野菜と上質の肉と骨で作る。夜は大鍋ごと零下の外に出され、昼間はゴトゴト煮る。それを何度か繰り返していくうちに、味はどんどんよくなる。夜中に外で凍らすのがポイント。中身はどんどん捨てるので、最終的には金色の透きとおったスープになる。ここで面白いのは、パセリのようなガーデンハーブをデコレーションにと皿に散らすと、これが全くのマイナス効果なのだ。昼と夜の温度差が生んだスープには幾層もの微妙な味の違いがあって、ハーブのような強いキャラクターが入るとその魅力は消えてしまう。ピアソラの名曲に“Close your eyes and listen”というタイトルがあるが、このスープのタイトルは“Close your eyes and taste”。うーん、ちょっと大風呂敷かな。
ところで、日本から送ってもらって一番嬉しいのは本とヴィデオテープ。先日母が『白い巨塔』と韓国のテレビドラマ『冬のソナタ』というのを送ってくれた。以前にも書いたが我家の台所は調味料よりヴィデオテープの山で、料理をしながらいつも日本のヴィデオを見ている。『白い巨塔』は10年位前に本を読んだが、ヴィデオ鑑賞と平行して本のほうもまた読み始めた。里見助教授が財前(助)教授より背が高くてかっこういいのが本とは違うけど、学者肌とはいえ、風采のあがらないチビでメガネの地味男じゃあ、画面上はつまらないのだろう。やっぱりスタイル抜群でハンサムのほうがいいに決まっている。鍋を掴む手も軽く、料理にも気合が入るというものだ。『冬のソナタ』はユジンが最高に可愛いい。見ても見ても見飽きない。とくに喋るときの口の動きが実に美しい。マフラーの巻き方も素敵で印象的。
あと数時間で新しい年をむかえるが、この時間になると毎年日本が恋しくなる。
年越しそば、除夜の鐘、お屠蘇、おせち料理、着物、初詣、お年玉。目を瞑ると、いろいろな単語が聞こえてくる。 あぁ、なつかしいな〜。
今年はいろいろなことがあった。ほんとうに長い一年だった。2004年がどのような年になるのか全くわからないけど、自分の場合は可能なかぎりシンプルなプランのもとに、明るく無理なく生活してゆきたいと思う。
毎月エッセイを載せてくださる『水牛』のスタッフと編集長、そしてそれを読んでくださる読者の方々、今年もほんとうにありがとうございました。
みなさまの健康と平和と愛を心から願いつつ、今わたしは東の空から昇ろうとしている太陽を待っています。地平線が一瞬ピカッと光ると、空はたちまちオレンジ色に輝きはじめ、真っ白に凍った木々の幹や枝の間から、そのあたたかい色たちはあふれるように流れ込んできます。
まわりを一瞬にして変えるオレンジの光、冬の朝の木洩れ日が私は大好きです。(2003年12月29日ラントグラ-フにて)
原色の天幕を張った露天商が華やかに境内にならび、あたりにはソースや綿飴の甘い香りがただよう。せまい通りを大勢の人が店をのぞきながらゆったりと歩き、雑踏のかなたからは、見世物小屋の客寄せのしわがれた声がひっきりなしに聞こえてくる。
多くの人が親しんだことのある、祭りや縁日の光景だ。
子供たちの好きだったものは、毎年おなじ場所で商売をする見世物のおじさんたちだった。いつもそういった香具師のまわりには人垣ができ、その奥から流暢な講釈の声が聞こえてくると、人の輪の中にもぐり込み、なかで何を演じているのかのぞいて見ずにはいられなかったものだ。
今にして思うと、あんなことで本当に商売になっていたのだろうかと、不思議に思うような見世物がいくつもあった。
代表格といえば、やはり小鳥におみくじを引かせる見世物だろう。
この大道芸には、一般にヤマガラが使われると聞くが、私の見たものはヒガラがおみくじを引くものだった。どちらもシジュウカラの仲間で、動作が機敏なうえ頭の良い鳥だ。また、この鳥はスズメと比較すると人なつこいところがある。
70年代だったろうか、英国ではシジュウカラの仲間のあいだに、くちばしで牛乳瓶のふたをこじ開け中の牛乳を飲むという行動が流行し、市民のあいだで問題になったことがある。当時の科学雑誌には、この鳥たちが互いに綿密なコミュニケーションをとりあい、そういった行動を短期間で広く仲間のあいだに伝播させたらしいことが話題になっていた。
この見世物では、台の上に鳥籠と小さな社(やしろ)が置かれ、神社と鳥籠との間には、障害物のようにいろいろな小道具が取りつけられている。鳥籠から出された小鳥は、それらの障害物を上手にあつかいながら、神社の中からおみくじを取り出しお客に渡すというのが、この見世物の趣向だ。
まず、お客が200円を木の受け皿の上に置くと、主人はヒガラの入った鳥籠を開ける。すると主人の口上とともに籠から出てきた鳥は、くちばしで紐を引いて小さな日の丸の旗を掲げ、次に受け皿の上のお金をひとつずつくわえ賽銭箱に入れる。つぎに神社の鈴を鳴らすと、おみくじの入った社の観音扉を、左右ひとつひとつていねいにくちばしで開き、中に入っておみくじをくわえて出てくる。社の扉を開けたままおみくじを所定の場所に置くと、小鳥はとって返し、社の扉をもとのようにていねいに閉じる。そして掲げてあった日の丸も降ろすと、鳥はおみくじの台のところまで行き、おみくじに巻いてある金紙の帯を切る。封を切ったおみくじをくわえお客の前の台の上に置くと、ヒガラはもとの籠の中に戻った。
お客は小鳥の選んだおみくじを手に取り、開けてみるという寸法だ。
だからどうした、という話にもなるかも知れないが、とにかく、ヒガラの一連の行動がとても繊細で愛らしい。とりまいていた観衆は、小鳥の芸に感心しつつ、なにかほのぼのとした気分をおぼえながら、その場をあとにするのだった。
ほかには怪しい膏薬を売る大道芸もあった。
薬を入れた大きなバッグの横に、いつも口を紐でしっかりと閉じた汚れた布の袋が置いてあり、中には猛毒のハブが入っているという。この膏薬はハブの毒にも効くということだった。
袋の中のハブを使い、あとで薬の効きめを実際にお見せすると言い、膏薬売りは流暢な語り口で薬の効能を説明しながら、持っている刃物で腕を少し切り傷口に膏薬を塗って止血して見せたり、観客の中から選んだ人に膏薬を塗り、顔のホクロを実際に取って見せたりした。
今にして思うと、蝦蟇のあぶら売りの変形みたいなものだったようだ。
私は袋の中のハブを見たかったため、長々とこの膏薬売りの口上を聞いたものだが、しばらくすると話はいつのまにか最初に戻ってしまい、結局、あとでお見せすると言ったハブが実際に姿を現わすことはなかった。
いちど従兄といっしょに、この膏薬を買ったことがある。家に帰り売場で見たとおりホクロを取ろうとしたのだが、どうしたわけか、いくら自分で見世物と同じことをやっても、ついにホクロを取ることはできなかった。
お祭りが終わり、一夜のうちに露天商がいっせいに姿を消すと、あやしい膏薬やら縁日のおもちゃなどが、夢のかけらのように子供たちの手もとに残ったものだが、数日たつうちにそれらのものもいつのまにか忘れ去られ、どこかに消えてしまう。
私の場合は、変なものを塗っておかしなことになると困るということで、結局、その膏薬はすぐに親に捨てられてしまった。
先月は、10月18日かながわドームシアターと21日大阪国際交流センターで上演されたアセアン共同制作舞踊劇「リアライジング・ラーマ」の背景について書いた。今月は、この公演からアジア/アセアンの舞踊コラボレーションにおける難しさについて書いてみたい。
〈踊り手〉
「リアライジング・ラーマ」では、各国政府の文化関係の担当部門(インドネシアであれば教育文化省文化部)が踊り手を選考したようである。1カ国2人で、インドネシアとフィリピンが3人(ちなみに初演時はインドネシアとタイが3人)であった。基本的に初演からずっと同じメンバーである。インドネシアの場合、その3人は中部ジャワから1人、スンダから1人、バリから1人となっていて、文化面で優位な3地域から選んだという気がする。またシンガポールの場合はインド系とマレー系(初演時はインド系と中国系)が1人ずつだった。多分演目がラーマーヤナなのでインド系は外せないという選択ではなかったかと思われる。またマレーシア、ブルネイは皆マレー系であった。その結果、踊り手全体の1/3位がマレー系ということになった。そしてラーマ役:マレーシア人、シータ役:タイ人、ラクサマーナ役:タイ人、ラバナ役:インドネシア人となると、なぜ主要な役はタイやマレー系の人ばかりなのか、という不満が出た国(アセアン内)もあったらしい。多分一般観客ではなく、政府役人が言ったのではないかという気がするのだが、そこにはアセアンの中でも経済的に進んでいる国が主要な役を取って……というニュアンスが含まれている。
しかし政治力の差以前に、集まった踊り手の個性、能力、経験、リーダーシップ性の差もあればラーマーヤナに馴染んだ国とそうでない国という差もある。また現代舞踊が盛んで異なる舞踊とのコラボレーションに慣れた国もあれば、ほとんど自国の伝統舞踊しかない国もある。上記のような感想は妬み半分だと思うが、同様の批評の声が繰り返し上がってくるのがアセアン共同制作の難しさなのだ。
私が「リアライジング・ラーマ」の今回の公演を見る限り、配役は適切であったように思う。タイやインドネシアはラーマーヤナがかなり浸透している国であり、多分多くのアイデアがこれらの国の踊り手から出たことであろう。前回述べたように、ラーマーヤナが伝播しなかった国・地域もあるのである。それ以外に踊り手個人を見ても、たとえばシータ役の人はダントツに美人で華奢でシータのイメージにぴったりであったし、他の主要な役についてもキャラクターと踊り手のイメージが合っていたと私には思われた。しかし、それは私がインドネシアで舞踊を学んだからで、知らず知らずのうちにインドネシア的な基準でキャラクターをとらえているのだと批判されれば、それはそうかも知れないとも思う。
上記の4役以外の人たちは場面によって次々にいろいろな役になってゆき、群舞も多い。この群舞においては全体を通してあまり踊り手の個性やお国柄が生かし切れていなかったのではないかと感じた。しかし現代舞踊ということでまとめているのだからお国柄を強調する必要性はないという意見もあるだろうし、各国の個別性よりは共通性を打ち出したいという事情もあったかも知れない。またそれらをあまり尊重しすぎると見た目にもまとまりのない舞台になってしまうのも事実であろう。さらに音楽が先に決まってしまっているので、踊り手の個性を生かそうとしても音楽の方を変更していくという方法が取れなかったせいもあるかも知れない。ということを考えていくと、コラボレーションにおいては群舞の扱いが難しいのではないかとつくづく感じた。
〈芸術スタッフ〉
日本公演では簡単なリーフレットしか用意されず、そこには今回来日したスタッフの名前が載っているだけだが、実はそれまでの海外公演ではかなり詳しいカラーの英語パンフレットが用意されていて、そこにはツアースタッフだけでなくオリジナルの芸術スタッフの名前がきちんと挙げられている。しかし初演時のパンフレットと併せて読むとオリジナル・スタッフの肩書きにも若干の違いがあり、フィリピンがどんどん出張ってきたという印象を受ける。
日本公演パンフレットによると、来日したスタッフの内訳は作曲がインドネシア人で、プロデゥーサー、芸術監督・振付、脚本、装置・衣装、助芸術監督、技術監督、制作がすべてフィリピン人、照明は日本人である。(この照明家はフィリピン在住だが、アセアン10カ国のみの企画だったので前回までは参加しておらず、今回は日本公演だからということで加わったらしい。)しかし初演時のパンフレットによれば、このうち芸術監督・振付のフィリピン人は元は芸術監督のみで振付はタイ人、装置・衣装のフィリピン人も元は衣装デザインだけを担当し、衣装アドバイザーにミャンマー人と装置デザインにマレーシア人がそれぞれいた。その他に照明デザインがブルネイ人、サウンド・デザインがラオス人、ビデオグラファーがシンガポール人、テクニカル・ディレクターがベトナム人と、各国からスタッフが出ているのである。また日本公演で助芸術監督となっているフィリピン人は当初は参加しておらず、彼は日本公演直前のフィリピン公演のパンフレットでは助芸術監督&リハーサル・マスターとなっている。(しかし踊り手の認識では単にリハーサル・マスターで、助芸術監督と書かれていると私が言うと、皆驚いていた。)
このように他国からのオリジナル・スタッフをどんどん排除していって、ツアーにはフィリピン人スタッフだけが行く、また他の肩書も取り込んでしまうことには多くの踊り手は不満を感じていたようだ。踊り手だけでなくインドネシア政府の担当部門の役人も辛らつで、「フィリピンは芸術性ではマレー系に勝てないものだから、経済力に物を言わせてそんなことをするのだ。」などと言う始末である。(これにはかなりやっかみが入っている。)企画自体がフィリピン文化センターで発足し、かなりの規模のプロジェクトだから(発足から6年、その間にアセアン10カ国+7カ国を巡回している)、フィリピンがかなり力を持つのもある程度無理はないのだろうが、日本公演で実際にフィリピン人スタッフばかりがクローズアップされてしまうと、日本人である私にとってもやはり妙な気がする。
〈芸術監督〉
フィリピンが出張っているように感じさせてしまう別の要因として、フィリピンがとった制作スタイル、とりわ芸術監督というものが他の国ではあまり馴染みが無いやり方だったからではないか、とも私は推測している。というのは、私の師をはじめ何人かが自分の周囲にはこのような権限の強いポジションが無いと言ったからである。たとえばインドネシアにはストラダラ(演出、監督)という単語はあるが、アート・ディレクターほどの絶大な権限はふるえないようである。この辺りのことは今後もっと観察してみたいと思っているが、芸術監督をたてるというやり方をアジア/アセアンの共同制作で前提にしても良いのか、他にも制作スタイルがあるのではないかと考えてみることも必要ではないだろうか。
……アセアン共同制作を謳ったプロジェクトは「リアライジング・ラーマ」だけではない。特に今年は「日本アセアン交流年2003」ということで多くの企画があったようだが、作品の芸術的完成度とは別に政治的な見方が入ってくるのが難しい。上でも述べたが、なぜ主役をタイやマレー系の人がするのかというような類の批評はどんなコラボレーションでも聞かれることである。たとえば以前に国際交流基金が制作した「リア」という作品について、なぜ大役を日本人(能役者)や中国人(京劇役者)が独占してマレー系はそれ以下の役なのか、という発言がインドネシアのセミナーで出たことがある。私には能や京劇の人の身体表現がその役に非常にふさわしかったと思えたが、その人はその点は問題にしなかった。またアセアン交流年の一環として12月に行われた公演(日本アセアン11カ国によるコラボレーション)についても、アセアンの共同だと言っても、結局日本は自分達が中心だということを謳っているだけだという感想が他の国の政府役人たちから出た。私にはそのシーンは芸術監督が自分の舞踊団をやたら目立たせようとしているように見えただけであったが、それが先のような感想になってしまうところが恐ろしい。
客の何人かが出て行くとまた別の客が入ってくる。男子学生と女子学生のカップルが入ってきて一番奥のテーブルまで進んでそこに席をとると深刻な表情で何かひそひそと話し始めた。と、また静まり返ってしまった。頭上の時計が同じリズムで休みなく時を刻んでいる。ミルクコーヒーとお湯割コンデンスミルクからはまだ湯気が立ち上っていて2人の男の顎のあたりにただよっている。大柄な男がまたひげを撫でている。小柄な男の方は俯いてずっと黙ったままでいる。と、口を開いてこう言った。
「孤独癖ってやつはなかなかつらいものがある」
「ん。。」ともうひとりはまだひげを撫でている。
「どうしたらこいつから解放されるのかなぁ」
相手はひげを撫でるのをやめるとこんどはため息をついた。
「誰だって同じさ。君の孤独感がどれほど大きいかってことはあるにしても。ぼくだって感じてる。人間皆それぞれに孤独なのさ」
「一日中誰とも口をきかなかったってことあるかい? はなしたいという気はあるのにだよ」
「あるよ」
「夕方の空をずっと眺めているってことあるかい? 現在のバンコクでだ」
「あるさ。好きなんだ、眺めてるのが。スタディしたいのさ」
彼は「学ぶ」という語を英語で言うのがくせになってしまっている。
「孤独癖が身について以来。。学校を辞めちゃって友だちがいなくなって以来。。そう、バンコクに来てぶらぶらしているようになってからっていうもの、ぼくはまともに月を仰いだことがないんだ。早朝の太陽を見たこともない。今日は下弦なのか上弦なのかだってわからない。暦を見もしない。田舎の学校に通っていたころとは違ってしまったんだ。楽しくって最高にしあわせだった子どものころとさ」
「ん。。」
「ぼくは今根無し草だ。王宮前広場を1日に何周も歩いてしまう。タマリンドの木陰が憩いの場だ。ときには易者とはなしがしてみたくなったり、体重計の番をしている子ども(注・1回いくらかで通る人の体重を量る)に声をかけてみたくなったりする。けれども何もはなさない。こんな風になったときもあるよ」
「う〜ん、続けろよ」
小柄な男は首を横に振ってからコップをとりあげ飲み物を啜った。それからもう1本の煙草に火をつけるとゆっくりと煙を吐き出し、店の外の方を見やった。学校帰りの生徒たちの一団が店の前で立ち停まって話をしているところである。
ほがらかにきゃあきゃあいう笑い声が聞こえてくる。彼はため息をついてまた視線を店内に移した。中国系の若い女はコンロの前で仕事に没頭していて、彼が見つめているのも気づかない。公務員が2人入ってくるなり買ってきた飯を食べ始める。ラジオからはちょうど彼の好きな歌が流れてきた。いつもなら曲に合わせて自分もハミングしてしまう彼だったが、そんな気分は既になかった。
「1万バーツもあったら何をしたい?」と、彼は訊く。
大柄な方の男はひげを撫でるをのやめて笑った。
「毎日酒飲んでなくなるまで飲むな。乞食にも分けてやらなきゃ。徳が積めるだろ。それからバーでもクラブでも行って思いっきり遊ぶんだな」
「芸術家って酒の強いやつが多いな」
「誰だって?」
「アーティストだよ」
「誰だ?」
「アーティスト」と、彼は発音が正しいのか自信がなくなったかのように小さな声になってまた言った。(続く)
病院を出て二度目の冬をむかえる。
12月なかばに思いがけなく退院することになった時は、どうしてよいかわからなかった。感染性心内膜炎という病気のあいだはおとなしくしていたアトピーが、退院することが決まった頃は全身にひろがっていた。薬を塗った上に包帯を巻かれてミイラのように寝ていたが、暖房の効いた病院とちがって世間は寒かった。
ピアノ、といっても練習用の電子キーボードだが、それを弾いてみても、思っているのとちがうキーの上に指が行ってしまう。左手の人差し指と右手の小指の先は、手袋をへだててものに触るような感じがあり、この痺れ、といっていいのかもわからない感じは、いつまでも治らない。それでも指はうごくので、結局その感じに慣れてしまった。
病院にいたあいだは、短時間ヘッドフォンで音楽をきくこともあった。大きな声をきくだけで発熱したり、脈が速くなった頃は、音楽をきくのも疲れた。それでもだんだん音の流れも追えるようになって、病院を出たらもとのように、音楽を創る生活にもどれると思っていた。しばらくたってみると、あたまのなかに、どんな音も浮かんでこない。ひっそりと、空白になっているだけだった。
それから1年たつ。そのあいだにアトピーで数日間入院はしたが、なんとかピアノは弾けるようになった。コンピュータでことばの響のほんの一部を引き延ばした音を組み合わせたプログラムを作ることはできたし、それでパフォーマンスもしたけれど、作品と言えるようなものは、ほとんど作っていない。音楽の世界からも忘れられている。せまい現代音楽の領域からはなれて歴史の空間に解放される道をさがそうと夢見たことが、最初から存在もしていなかったかのように、意外なかたちで実現しただけかもしれない。
しばらくは論理の流れをたどるのも苦痛だった。演奏はできなくても、音楽の話ならできるだろうと思って、病気の前から引き受けてそのままになっていた講演にでかけてみると、自分の作品の話なのに筋道をたてた説明もできず、途中で何を言っているのかわからなくなってしまった。こんなありさまでは、まともな文章さえ書けない。
目覚める直前に、はっきりした場面が浮かぶことがある。記憶のなかの音楽が顕れてくることもある。それは過去にあった現実のふくらみをもたない、骨ばかりになった名の輝きを、心の暗い片隅から発掘して、夢がたのしんでいるのだろう。起きている時間にその響をさがしてみても見つからない。
それぞれの響はそれ自体の空間につつまれている。またそれぞれの時間のすごしかたがある。自由に顕れ消えることができる空間と、いつでも出会いながら、お互いのなかに溶けてしまわないちがう時間があればいい。一つのものが他を押しのけて発展することもなく、連続して流れる時間もなく、くさむらや、黄昏のなかにそっとあるだけの、立ち去ったばかりの影を、どうしたらひきとめられるだろう。
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