2004年3月 目次
カフェ・ルーケミア 佐藤真紀
もう一度中学生になる 御喜美江
ラサを支えるもの 冨岡三智
しもた屋之噺(27) 杉山洋一
舞い狂う蝶 宮木朝子
スコンター スラチャイ・ジャンティマトン
国の野心 大野 裕
2月の音楽 高橋悠治
イラク戦争が始まってまもなく1年を迎えようとしているので、ジャーナリストたちがバグダッドを目指しているという。そして日本の場合は自衛隊も本体がサマワに入ったことも手伝ってさらに大勢のジャーナリストが押し寄せている。新聞なども自衛隊の取材ばかりであんまり読む気がしなくなっているのだが、それでもたまにコメントを求められたりするのでニュースは追っかけていなくてはならない。
自衛隊の派遣について云々と言うのもあるのだが、それを取材するほうもなんだかはしゃぎすぎていると思うし、サマワの人たちも単純にはしゃぎすぎじゃないかと思ってしまう。やっぱり、自衛隊が行くよりもマスコミが大挙して押し寄せるほうがイラク人への影響は大きいなあと思ってしまうのだ。
最近は、日本とイラクがサッカーをやるのをどう思うか、なんていうのがあった。こういうのが結構不意打ち的に電話がかかってくるのだ。ぼくはあまりサッカーが好きでない。かつては自分もサッカーをやったりしていたからそれなりに好きだったが、最近は体がついていくわけでもなく、自分がボールをけらなくなったらあんまり興味がなくなってしまったというわけだ。
「日本政府が招待するようですがどう思われますか」
「いやー興味ないからねぇ」と素直に答えればよかったのだが、全国のサッカーファンを敵に回してもいけないなと思い、「良いんじゃないですか。平和的で」なんて答えてしまった。それでやっぱり後悔したのだけど、「何で日本政府がそんなお金だすのかねぇー。だってこういうサッカーだったら興業として十分成り立つじゃない? そんなお金があればねぇ。やっぱり薬かえない人もいるんだから」といってやればよかった。
それにしてもサッカーというスポーツも不幸なところがあるかもしれない。米軍がイラクを占領して真っ先にやったことはといえば、子どもに気に入られようとやたら愛想を振りまいていたし、くそ熱いのにイラク人とサッカーをやったりして人気者になろうとしていた。でもアメリカ人てサッカーなんてやるのだろうか? 自衛隊の人たちもサマワの人たちとサッカーをしようと1000個のサッカーボールを持っていくという話を聞いた。こういうのも、人道支援というのだそうだ。
ところで、やっぱり忘れてはいけないのが、国際社会がイラクに課してきた経済制裁だ。経済制裁で5年間で100万人が死んでいったというのに、救いの手をさしのべる人たちはいなかった。首相のいう「人道支援が必要です」という言葉を聞くと「何でいまさら」と思ってしまうのだ。
今、やろうとしているのはボサノバだ。ボサノバはとっても心地よいが、歌詞をよくよく見てみると結構強烈なものがあったりする。ブラジルにはカポエラという格闘技があるが、へらへら笑いながら楽しそうに遊んでいるようにすら見えて何でこれが格闘技なんだと思う。黒人奴隷が、格闘技を練習する際、主人に見破られないようにとカムフラージュしていくうちにこういう風になったというのだ。やさしい音楽に過激なメッセージを乗っけていくボサノバにも通じるところがある。こういうバランス感覚って言うのは必要だ。
そこで、友人のボサノバギタリストに、イラクをボサノバで表現してみてとお願いした。まず、アラブ音楽特有の微分音にその友人は頭を抱えてしまった。「イラクだってブラジルだってサッカー好きなんだから混ざらないわけでもないと思うんだけど」未だに友人は頭を抱えている。
実は、カフェ・ルーケミアというのを作りたい。今、白血病の子どもたちを支援しているのだけど、子どもたちがどんどん死んでいって、支援している私たちが暗くなっていく。そんなんじゃ子どもを元気付けることなんてできないからだ。子どもの力がすごいなと思うのは、治療とかで苦しんでいてもちょっと気分が楽になったらケロッとしている。大人だったら、ガンと聞いただけでもうたち直れないほど落ち込んでしまうのだが。そんな、日々つらい思いをしている子どもたちの日常の中から喜びや楽しみにスポットをあててそこを拡大してみたいと思っている。そんなんで、友人も私も頭を抱えている。
2月27日、アンマンに着いた。飛行機では、知り合いのジャーナリストが何人かいた。僕は、日程と安全を選んでアンマンから飛行機で行くことにしたのだが席が取れない。ウェイティングになっていた。飛行機だと1時間ぐらいでいける。車だと12時間くらいはかかってしまうのでチケットが取れますようにと祈るような思いで飛行場に行くけれど、アメリカ人の身体のごっついビジネスマンが復興ビジネスを独占していて結局席は取れなかった。本当だったら今頃バグダッドから速報を送ることができたのだけれど、今アンマンの安ホテルでこの文章を書いています。
もう一度中学生になる 御喜美江
毎年2月下旬になると、何となくドキドキしてくる。その原因はただ一つ。『御喜美江アコーディオン・ワークス』というリサイタルが近づくから。今回で16回目となるが、ここでは新しいソロのレパートリー、委嘱新作初演、室内楽などが主な内容となるので、普通のソロリサイタルとは違った冒険や実験も行っている。数字というのは残しやすくて便利だから、好奇心で計16回のプログラムを調べてみたら、世界初演が20曲、日本初演が21曲あった。もちろん初演後それきりの曲もあるが、いくつかは世界のアコーディオン奏者のレパートリーとなり、高橋悠治作曲「水牛のように」などは、すでに不朽の名作となっている。
このシリーズを私は一年の目標として捉え、また節目として、ここで一年を区切ることにしている。歴史も浅く、まだまだ若い楽器のアコーディオンには、このような開拓用地がなくてはならないから、これからも出来るかぎり長く続けていきたいと思っている。しかしこの意気込みと熱意は、本番が迫ってくるとドキドキ胸をさわがせ「あ〜、もうこれで最終回にしよう……」と何度思ったことだろう。
昔々、13歳になったばかりの私は、ドイツに行きたくて行きたくて、毎日地図をながめたり、全然解らないNHK教育テレビ「ドイツ語講座」を見たりしていた。ある時、母の友人のお嬢さんから(ヴィオラ奏者の瀬尾麗さん)パンフレットが送られてきた。それはイースター・アコーディオン講習会の案内で、場所は南ドイツの小さな町トロッシンゲンとある。
これを手にした瞬間、「自分の道はここだ、一日も早く行かねば!」と興奮し焦った。それはほとんど反射的な判断だった。今思えばよく両親がこんな冒険を実行したと思うのだが、気がついた時には南回りのJAL便・窓側シートに、一人ちょこんと座っていた。余談だが、30時間に及ぶフライトでは、すっかり飛行機に酔ってしまい、顔面蒼白でフランクフルト空港に着いたときはもう足元ふらふらで「ずいぶん遠い所にきてしまった……」とちょっと後悔した。
ところで当時の私は日本語しか喋れなかったから、母が表が英語で裏が日本語のカードを何枚も作ってくれて、それらを首からさげて旅した。
「○○で××に乗り換えます。乗り換えのホームまで連れて行ってください」
「トイレはどこですか」
「レストランはどこですか」
「音楽学校はどこですか」
「ジュースをください」
「疲れたので休ませてください」などなど。
カードの裏を見ては、人に表側を見せるこの芸、初めは心配で躊躇したが、実際に行ってみると、皆さんそれはそれは親切に助けてくれるのですっかり安心し、2、3日もすると「さて、今度はどのカードにしよーかな」なんて調子よくやって、ちっとも困らなかった。汽車の中では回りが食べ物、飲み物もくれるし、乗り換えの時などは大勢の人が荷物を持ってくれるので、全く手ぶらで実に快適な旅だった。
そこでは見るもの聞くもの新しく、とくに左手にも5オクターブ半の単音がある「フリーベース・アコーディオン」をコンサートで聞いた時は、感動で体が震えた。「もう日本へ帰る必要はなし!」との決断を下した自分に、「日本における義務教育を終えてから留学しなさい。またここの音楽学校へ入学するにはドイツ語が出来なければ入れません」と校長先生から言われ、仕方なく一人日本へ帰ってきた。
でもそれからの3年間はドイツ語習得しか念頭になく、放課後は週3回大森のドイツ学園へ会話を、週2回上智大学へ文法を、夏休み中は毎日学習院大学のドイツ語講座へ通った。あの頃の私には本当に目標があった。そしてその目標は、薔薇色のような夢の中にいつも輝いて存在していた。そして後ろからじわじわと押し寄せてくる熱いエネルギーを、常に体で感じていた。大変とか、つらいとか、疲れたという意識は、当時の自分にはなかったと思う。
最近、あの頃の自分をよく思い出す。今と同じ人間とは思えない。一体どこからあのようなエネルギーが生まれてきたのだろう。目に、手に、耳に、触れるほとんどのマテリアルが、未知の世界だったからだろうか。とにかく不思議でたまらない。あのエネルギーが今ここにあったら、「アコーディオン・ワークス」前のドキドキなんて、一発で吹き飛ばしてしまうだろう。
人の性格は6歳にして出来上がってしまうと、どこかで読んだことがある。そうだとしたら13〜16歳頃、年中無休で目標を目ざしていたあの性格も、実はまだこの体のどこかに存在していて、ただ眠っているのかもしれない。
さて、「ロシアへ」がテーマの今回のプログラムでは、デニソフの暗い闇の中の音楽、明るいストラヴィンスキーの「イタリア組曲」(鈴木理恵子:ヴァイオリン)、ロシア民謡(岸本力:バス)などを演奏する。どれもアコーディオンが100%生きる音楽だし、内容があまりにもコントラスなので練習するほうは楽しい。
Russisch(ロシア的)という形容詞は、ドイツ語会話の中でしばしば使われる。その意味とは「スケール大きく細かいことにはこだわらない、相手が誰であろうと決して怯まない、感情全開かつ自信満々の自己主張、サーカス的効果が大好き、そして何よりも“自分が一番素晴らしい!”と自身にも相手にも常に熱く語りかけること」この"Russisch"を習得するのは作品を演奏する以前の課題、それも重要なメンタル準備体操だと思う。これなくしてロシア音楽の魅力は絶対に表現できないと思う。
と、ここまできて思う。
もし4月1日の演奏会において、当時13歳の私の中を流れていたあの“2000Vエネルギー”が再び目覚めてくれたら、真っ赤に燃える音たちがステージに飛び交い、ホールを熱く包みこみ、やがてドアの隙間からロビーにも溢れ出し、上野から「ロシアへ」旅立てるかもしれない。私はこのプログラムで、もう一度中学生になって、ナイーブな薔薇色の夢を見てみたいと思っている。(2004年2月22日ラントグラーフにて)
(編集部注・御喜美江アコーディオン・ワークス2004「ロシアへ」は4月1日(木)東京文化会館小ホールで。19時開演。全席指定3500円。お問い合わせはコレクタ 03−3239−5491へ。)
ラサを支えるもの 冨岡三智
ラサとは味わい、感じ、感覚、感性といった意味である。技術的な上手・下手を越えて求められる、その芸術分野が持つ味わい、雰囲気と言えるだろう。私が自分のジャワ舞踊の達成度合いや課題についていろんな先生にコメントを聞いて廻った時、誰もが技術的な問題に先んじて言及したのが、(ジャワ舞踊の)ラサがあるかどうかだった。このことはたぶんジャワ舞踊に限らず、外国人が異文化の伝統芸術を学ぶ場合には必ず問題にされる点だろう。逆に指導者の立場からすれば、どうやって異文化の人間にラサを伝えられるかが課題となる。
あるときジャカルタ在住のジャワ人舞踊家に、「どうやってジャワ舞踊のラサを身につけたのか、今までどういう練習をしてきたのか。」と聞かれたことがある。なぜまた外国人にそんなことを聞くのだろうと不思議に思っていると、「私の弟子は皆とても上手なのだが、ジャワ舞踊のラサがない。そしてそのラサを教えることが大変難しい。」と続けたのである。その人はジャワで生まれ育った優れた舞踊家であり、また細かい点まで指導する人なので、この人にしてさえそうなのかと思いつつ、思わず、そうでしょうねと返答してしまった。実は私も今までジャカルタの若い子達のジャワ舞踊を見てきて、どうもラサが薄いのではないかと感じていたからである。(ここで言うジャカルタの人には、成長して後にジャワからジャカルタへ移った人は含んでいない。)
テクニック的にはジャカルタとソロの踊り手で差があるようには思えない。また公演において群舞で踊っているのを見ている限りでも、ジャカルタの子達にラサが欠けているようにも見えない。しかし個々人の動きに、それも特に練習段階で注目していると、衣装や遠目によるごまかしがきかなくなるせいなのか、あまりジャワ舞踊のラサがあるように感じられないのである。
それよりも、ジャワのラサのないことは踊っていない時に如実に現れた。確か1997年、ソロとジャカルタの両方の踊り手が出る公演の合同練習を初めて見た時のことである。ジャカルタの女の子達はソロの子達よりも歩くのが大股で、足を開いて座り、早口でしゃべり、化粧が濃く、女性でも人前で煙草を吸う。その両者の雰囲気の落差に私はすっかり驚いてしまった。特に私はそれまでの留学生活のほとんどをソロの町から出ることなく過ごしていたので、よけいにジャカルタ勢に違和感を覚えたのかも知れない。このことで生活環境が舞踊に及ぼす影響について考えずにはいられなかった。
ソロはジャカルタに比べればまだまだ田舎で、保守的で、だから日常生活における所作や態度も都会の人達よりは控えめになるのだろうと思われる。話すのが遅いのも、生活のテンポがのんびりしているからだろう。余談だが、私がジャカルタに行って一番驚いたのが、人々のしゃべるテンポの速さであった。実はテレビドラマでも会話のテンポは速いのだが、あれはドラマ上のことだけだと思っていたのである。何のことはない、ジャカルタではそれが普通だったのだが、ジャワに滞在している限りはあれが非日常的な会話スピードにしか聞こえなかったのである。というわけで、ジャワ舞踊の抑制的でゆったりした動きは、いまだにジャワの日常の動きや生活テンポからかけ離れ過ぎてはいないように感じられる。
もっともジャワにおいても世代によって多少の違いはある。たとえば私の師(1933年生まれ)に比べて、現在の子達が取るポーズでは視線も手のポジションも高くなっている。つまり踊り手がまっすぐ前を見るようになり、腋を以前よりは開くようになったのである。これは、時代を経るにつれ、ジャワの理想の女性像がいつも伏目がちで控えめな女性からそれよりは自由で自己を持ったものに変化してきたからだと言える。
したがってジャワ舞踊のラサ自体もそれだけ変化してきているのだが、そうであってもなお、現在のジャワ舞踊のラサは現在のジャワの日常生活環境によって支えられている、と思えるのである。しかしジャカルタの若い人達にとっては、ジャワ舞踊は日常生活からかけ離れた、非日常のものになっているようだ。日本の都会と同様に、人々は郊外に住んで長時間かけて都心へ通勤し、稽古場に行くという生活になってしまっている。ジャワ舞踊はもはや稽古場でのみ再現されるものであって、その限られた場においては、ラサを吸収するのは難しいのかもしれない。
しもた屋之噺(27) 杉山洋一
ここ三日ほど、ミラノは雪が降り続いていて、思わずコートの襟を立ててしまいます。先週まで、ポルトガルのポルトで小春日和の中、仕事をしていましたから、厳寒のミラノで躯が少し驚いているようです。ポルトで、練習の帰りしな喫茶店で一人のんびりお茶を飲んでいると、若い男女が店に入ってきました。彼らの奔放な表情に、イタリア人もポルトガル人も変らないと思っていると、果たしてイタリア人のカップルで、暗い母音ばかり並ぶポルトガル語の中にいると、イタリア語の開放的な響きとともに、彼らの声だけひときわ華やいで聞こえました。
ダルラピッコラの「サッフォーの五つの断章」から2、3、5曲。
原詩はイタリア近代の詩人、クワジーモドが伊語に訳したもの。
“わたしの、いとしいゴングラ、お願いよ
とびきり白いチュニカをまとって、
わたしの前にきて。わたしは、いつも
うつくしい衣につつまれたお前であってほしいの
そうよ、見事にかざり立て、お前を目にするひとを、震えあがらせて
それをわたしは悦ぶの。なぜって、お前のうつくしさは
アフロディーテさえ咎めるほどだから”
“いとしいアドニスが、死んでしまった。ああ、キュテレイア
わたしたちは、どうすればよいのでしょう”
“みずからの胸を、穿ちつづけよ、娘たち
そしてその衣をも、ひきちぎってしまうのだ”
“わたしは、ずっと
アフロディーテと言葉をかわしていました
夢のなかで”
クワジーモドの見事なイタリア語と同じくらい、芳醇な音楽が附けられているのですが、第5曲、夢の中でアフロディーテと言葉を交わすくだりで、ダルラピッコラは、ベルクのヴァイオリン協奏曲冒頭の5度集積のモティーフを発展させながら、艶かしい夢の世界を描きます。ベルクにとって清純の象徴だったモチーフが、ダルラピッコラにとって官能の代名詞にすげ替わっているのが興味をそそります。
これをポルトガルのソプラノが歌ってくれたところ、彼女の表現が、自分の女性観と余りに違うのに、初めびっくりしました。クワジーモドの言葉の印象が強烈なのか、どうしても頭に浮かぶのは、イタリア人女性の気質に近いもので、愛人であるゴングラへのアプローチも、絶望してキュテレイアにすがりつく様も、アフロディーテと夢で甘い言葉を交わす光景も、淡白で調ったポルトガル人の表現よりずっと激しい、芝居がかったイタリア人のそれを欲してしまうのです。尤も、サッフォーの気質はイタリア人とも随分違ったはずから、決めてかかるのも間違っているのかも知れませんけれど。
18世紀のイギリス人の画家、トーマス・ジョーンズ(Thomas Jones1742-1803 )は、イタリアを長く(1776〜1783)旅して、当時のナポリ周辺の優れた風景画を多く残していますが、特に目をみはるのは色使いで、イタリア人と明らかに異なる色彩感によって描かれており(友人のイタリア人がそう公言しているので間違いないでしょう)、同じイタリアでも、イギリス人の目に映る風景は、こうも違うのかと感銘を受けました。画家それぞれの色使いは当然存在すると思いますが、その範疇を大きく超越して、姦しいナポリの光景が、まるで、アイルランド地方の、風と牧畜のカウベルがこだまする牧歌的風景に転化したかのような印象を与えるのです。
ジョーンズの絵で頭に浮かぶのは、アンデルセンの「即興詩人」に綴られる闊達なナポリの風景で、書かれた内容は当時のナポリそのままかも知れませんが、イタリア人には書けない描写だと思うのです。イタリアン・レアリズムとも言いますが、イタリア人の表現は濃く、とても暗い色彩感に濡れそぼっていて、「即興詩人」のような客観的で透徹な視点とは随分違う、と暫く住んで理解するようになりました。
サッフォーの詩を訳すクワジーモドの表現と、それを音に具現化するダルラピッコラの視線は、見事に同じ一点を見据えていると思うし、それは丹念に彩りを施された細密画というより、鈍く輝く褐色や臙脂の太い鉄枠で構成された、クワジーモドやダルラピッコラの時代のイタリアの大胆で無骨な建築物を眺めている錯覚に陥ります。
第二次世界大戦末期、イタリアはシチリアに上陸した連合軍によって、解放されていきました。ムッソリーニは早々に敗北した後、ナチスの後押しで、イタリア北部に「サロ共和国」を建国、最後はパルチザンとムッソリーニ(ナチス)・シンパとの泥沼の市民戦争で幕を閉じることになりますが、その市民戦争の頃、ナチスの兵隊はイタリア北部の街を周って、パルチザンやユダヤ人狩りに明け暮れていました。今もイタリアでアウシュビッツ解放記念日を国を挙げて祝うのは、ここから連行され殺害された無数のユダヤ人存在を如実に物語っています。
その当時の思い出話を、マンゾーニの奥さん、エウジェーニアが話してくれました。
「あのころ、ヴェローナにも沢山のドイツ兵がやってきたわ。2階建てのわたしの家はパルチザンの拠点になっていたから、父ったら1階の床を全てはいでしまってね、廃屋に見せかけようとしたのよ。なかなか鋭い機転でしょう。でもね、ある時、一人のドイツ兵が家に入ってきて、あろうことか2階にまで上がってきたのよ。もちろん、2階の生活道具ももとのままだし、パルチザンの仲間たちも一杯いたから、どうなることかと思って背筋が凍ったわ。
でもね、そのドイツ兵ったら、部屋にあったピアノを見て、わたしに何か楽譜を貸してくれって言うのよ。ほんの少しイタリア語がしゃべれたの。パルチザンの仲間たちは、みんな、こっそりと隠れて、固唾をのんでいたわ。わたしは恐る恐るブラームスの楽譜を引っ張り出してきてね、すると、彼はとても上手にピアノを弾いたのよ。影で聴いていたパルチザンの仲間も、感激して泣いていたわ。普段、音楽なんて誰も聴かないような連中なのに。
あのドイツ兵も音楽に飢えていたのでしょうね。暫く弾いてから、わたしに丁重にお礼を言ってね。もしまたピアノが弾きたくなったら、どうぞいらしてくださいって、思わず言ってしまったのだけれど、彼ったら、ありがとう、でも僕はドイツ兵だし。もうここに戻ってくることもないでしょうって。少しくぐもった声でね。結局、それきりになったわ。あれから彼も、どうなったんでしょうね」(2月22日モンツァにて)
狂い舞う蝶 宮木朝子
奄美でみた冬眠中にゆるやかにまどろみつつめざめて狂い舞うマダラチョウの森について。数年前、友人の作曲家の、美しいヴァイオリンソロ曲を聴いた晩、夢を見た。極彩色の羽を持つ蝶が視界いっぱいにスローモーションでみているかのようなゆるやかさで舞い、それがふっと静止した瞬間、はらりと地面に落ちる。そして落ちた蝶はみるまに地面に艶やかな紋様となって拡がってゆく、、というものだった。それから数年がたって、昨年の暮れ近く、奄美大島に行き、マダラチョウの舞う森を散策した折り、その夢が変奏されて現実化したような体験をした。本来はまだ樹にとまりぴたりとも動かずに冬眠している筈の無数の蝶が、小春日和のあたたかさとやわらかな陽射しに錯覚したのか、夢遊病のように、まどろみつつ、漂うように飛び、あるものは樹にとまったまま、ゆるやかなこのうえもなく優美なまばたきのようなさまで羽を閉じたりひらいたりしていた。浮遊、まどろみ、スローモーション、、それぞれの蝶の振る舞いは、その場における時の刻みを無効にしてしまう。その僅かなはばたきからこぼれだす鱗粉が、空気の成分を変え、あやうい微香をはなっているかのような、妄想にとらわれる。抽象的で透明な、意味をけしてかたることのない音響体験が作用して夢に顕われた視覚のイメージ体験、時間を隔てて、現実の光景のなかでその疑似体験をする、それぞれの「体験」は微妙な誤差を伴い、僅かにズレてゆく。それでいながら、繋がってゆくのだ。螺旋状に展開されてゆく感覚の体験。
ふと思い出すのは、ブライアン・イーノの75年のソロプログレアルバム「Another green world」の4曲目のインストルメントの小品、〈In the dark trees〉。Fade inしてくるのはエレクトリック・パーカッションのウッドブロック音による単調でありながら不安なまでの躍動感を運ぶ高速ビート。そしてそれが充分な近さにまで運ばれてきて、こちらのもうこれ以上待ち切れないような不安な欲望の頂点で登場するエレキギターのポルタメントをともなうメロディー。A-E-F♯-Eを延々と繰り返すくぐもったベースサウンド。シンプルこの上ない、なにひとつ展開することなくFade outしてゆく音響の光景は、不断の躍動感と、新鮮なイマジネーションの生起に満ちていて、最初に聴いたとき、息も止まるほどの高揚感を覚えた。幾度も幾度も、繰り返し聴き続けた。その後調べたところ、イーノはこの曲についてこう述べている。「それは、暗い、インクのように青い苔むした森林のイメージで、常に遠くの方に馬がいて、いなないているんだ。」(エリック・タム著/小山景子訳『ブライアン・イーノ』より)そしてそれはリズム・ボックスの音から浮かんできたという。ここで語られた鮮明なビジョンの内容自体はとても美しいけれど、自分にとってあまり興味はない。(というより、その光景をこの魅力的なサウンドの上に重ねようとは思わない。)ただ、単調なリズム・ボックスの音から、イーノ自身がリアルなひとつの聴覚的光景を確かに見ていたこと、そのことによって単なる雰囲気とか描写などというものを遥かに超えた、リアルで抽象的な音響が生まれ、それがまた聴き手ひとりひとりに、きっとまったく異なりつつ鮮明なビジョンを描かせるのだろうということ、その事実の強さに感じるものが大きい。
スコンター スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子 訳
あなたは草原にひとり
きわだつ、たおやかな白い花
求めていたものは
何
蝶が飛んでいくように去った。。。
プルメリアの香りただよう
野の花髪にさし
あなたはアカシアの
花
でも今はもういない。。。
晧晧とかがやく月の光
草原にひとり立つ
スコンターの
花
あぁ。。。。。。。。。。
そいつは
あなたの翼もぎとり
さらに銃で撃つ
花を力ずくで抜いて
足で踏みにじる
これが
コンクリートジャングル
これが
大都会
あなたを殺し
滅ぼした
どうして耐えられよう。。。
どうして耐えられよう。。。詩の題名スコンターはタイで著名な女流作家スワンニー・スコンターのことです。息子がヘロインで不慮の死を遂げた後、自身も強盗に遭って無残に殺された悲劇の作家としても記憶されています。スラチャイが憧れを懐いていたちょっと年上の女友達でもあったのでした。この詩は彼女の死を悼んでその当時書かれたものです。
スラチャイの詩はすべて歌詞として書かれていてどれも曲があります。この詞は『タノンミットラパープ』(フレンドシップハイウェイ)というけっこう古いアルバムの中にはいっていて今よりうんと若い声のスラチャイがうたっています。
昨年9月バンコクへ出かけた際、タマサート大学講堂の入り口でスラチャイの詩集を売っていたのを買い求めました。若いころから最近までの35年分くらいのほとんどの詩がおさめられています。本人のことばでは、もうメロディを忘れてしまったのもあるそうです。今月はその中の一篇を選びました。 (荘司和子)
国の野心 大野 裕
週のうちは名古屋で働き、週末だけ京都の家族のところで過ごす生活を始めてもうすぐ4年になります。それまでは新幹線など数えるほどしか乗ったことがなかったのだけど、こういう生活を始めてからは、毎週のように利用するようになりました。
駅に新幹線が入ってくる時、車両に書かれた "Ambitious Japan" という文字に目が行きます。経済的にも気持ちの上でも「出口なし」の状況が続いているので、ここは一つ意欲的、野心的に行動しようという気概は理解できるのですが、これを見るたびに思い出してしまう文章があります。
白い壁には、日本と朝鮮の地図を両足に踏んだ田中義一(注:当時の日本の首相)が、悪魔のような爪の伸びた長い手で、満洲、蒙古、山東地方を一掴みに掴みとろうとするポスターが、二枚つゞけて貼りつけてある。
「中国人《ツンゴレン》、不斉心《ブチシン》、日本鬼《リベンクイ》、逞野心《チンケエシン》。」
プロレタリア文学作家の黒島伝治による『武装せる市街』という小説の一節です。1920年代の終わり、日本が列強諸国の勢力争いの中、中国への侵略を進めていくようすを描いた作品で、山東半島出兵下の済南が舞台です。日本人居留民の安全確保や軍閥抗争に揺れる地域の治安維持を大義に到着した日本軍が、その実は市民の保護ではなく、中国人を搾取する資本家たちの権益を守るための行動しか取らず、あげくの果てには情報攪乱によって暴動内乱や軍事衝突を誘発してしまう。そんな凄まじい軍事主義の実態を写実的に綴っています。
黒島や小林多喜二などのプロレタリア文学作家が生きた20世紀の前半には、社会主義という理想が、資本家たちやそれと結託した政治家たちの進める軍事主義に対抗する民衆を導く灯火の役割を担っていたのだと思います。貧しく悲惨な生活をしていた労働者や失業者たちの中にはそこにトンネルの出口を見ていた者も多くいたはずですし、世の中が戦争へと傾斜していく中でそれは「反戦」という思想の拠り所でもありました。しかしその灯火も20世紀後半には燃え尽き、吹き消されてしまいました。
資源は豊富だけれども弱体化している国に戦争をしかけたり、強国と言われる国々が誠実そうな理由を口にしながら競って兵を送り利権確保を狙う… 国々が野心に駆られてそんな行動に出るのは決して歴史の中の話だけではないということを、今を生きる私たちは身をもって知ることになりました。
貧富の格差が拡大し、国の野心で平和が脅かされつつあるという点で、現代は黒島たちの時代と驚くほど似てきていると思います。しかし、かの時の社会主義のように人々を束ねる力を持った思想は残念ながら現代に存在しません。戦争に向かっていく私たちの姿を写し、私たちに気づかせてくれる文学作品さえ見ることがむずかしいように思います。
『武装せる市街』の中で、黒島は登場人物の一人に次のように語らせています。この作品が書かれたのは日米開戦までまだ十年以上あった1929年ですが、時代がどの方向に動き始めていたのか、もう当時の人には分かっていたということなのでしょう。
「どっちにしろ、これゃ戦争にならずにゃいないぞ……」そして、彼は考えた。「これは、南軍(注:国民党軍)と日本軍との戦争じゃない。これは、日本とアメリカの戦争だ。」
21世紀の「日本の野心」が私たちを連れて行く先が戦争ではないと信じるのはお人好しすぎます。軍隊が、兵隊が、武器が人々の意識の中に大きな位置を占めるようになった時、戦乱や荒廃が視野に入ってくるのは昔も今も変わらないことでしょう。それらの悲劇の重力が私たちの予想を超えて強く私たちを引きつけていくことを怖れます。(編集部注・黒島伝治『武装せる市街』は青空文庫で読めます。入力したのは、もちろん大野さんです。)
2月の音楽 高橋悠治
ロウジャ・レノルズがことし70歳になるときいておどろいた
お祝いのコンサートに名をつらねるための
2分の曲を書けといわれて
永瀬清子の詩の英訳につけたフルートと声の曲を作った
小さい水車のように ― 老いたる人のうた
わてをおどろかす花の一枝を下され
わてのしぼんだ眼がぱっちり開くよな
うつくしい満開の花を下され
まんず何のとりえも無うて
ただ遠い空の向こうを夢みるばっかりで
山陰の小さい水車のように働いていたわてじゃ
自分が水をはねとばすばっかりで
わては蕾の一つももつことはなかったのじゃ
いまはその水車のことさえ誰も忘れたわ
ほしかった自分の花自分の実は無うて
ただ苔にまぶれようる
永瀬清子の老いた声をきいた
みんな老いて死んでいく
音楽は 音楽ではない
ちがう世界がありうるという夢
この世界しかないという現実の帝国にさからって
対象ではなく 表象ではなく
イヴェントをこえたプロセスである音楽
演奏も作曲も分かれていない音の身体
うた 舞い あそび
ことば うごき さまよい
息 足 手
断片の集積
多様な音が
それぞれの時間でおたがいをじゃますることなく生きている
それらの自由な出会い 交換を保証する
ひろびろとした空間
方向がなく 全体の定義がない
監視されずにいられる空間
いつも途上であり 始めも終わりもなく
途中から途中までの音楽
地下茎 リゾーム
連想によって逸脱し 変質し 崩壊する
手がものをとりおとすように
おもわずあらわれる音
表現はなく 表情がある
いきいきして あいまい
おちついていて すばやく
ためらい まちがい それていく
遠い音 かすかな音 わずかな音
あとはざわめき
音はメロディーという線の一部ではなく
空間に顕れ ひろがり やがて色褪せていく
別々な色彩
じっとまっていると なにかがきこえてくる
つぎにするべきことを するときがくる
ゆっくりと準備し 一挙に創られ 訂正不可能な音楽
後戻りできない時間
(編集部注・高橋悠治プロデュース「月光からはじまる」は3月12日(金)浜離宮朝日ホールで19時開演。全席指定4000円。お問い合わせはコレクタ03−3239−5491へ。
おなじプログラムで3月14日(日)札幌Kitaraホールで14時開演。全席自由4000円。お問い合わせはオフィス・ワン011-612-8696へ。)
ご意見などは suigyu@collecta.co.jp へどうぞ
いただいたメールは著者に転送します