2004年9月 目次


双子の子                     佐藤真紀
独立記念日と芸術あれこれ             冨岡三智
しもた屋之噺(33)               杉山洋一
雨の朝、北のホテルで               御喜美江
路傍の放浪者(2)      スラチャイ・ジャンティマトン
先立った人に――木島始をよみかえす        高橋悠治



双子の子  佐藤真紀




ヨルダンにわずか2週間ばかり滞在したのだが、なぜか双子によく出会った。イラクから白血病の治療に来ている女の子も双子だったし、昨年、難民となって国境の町で出産したアブル・ヘイジャも双子を出産していた。何気なくホテルに来た女の子も双子だという。そして、次の話も双子の赤ちゃん。4組もの双子に会ったことになる。 

ヨルダンのキング・フセイン・ガン・センターの正面に道路を挟んで、モーメン・ホテルがある。ここにはイラクからガンや白血病の治療に来ている家族がいるというので様子を見に行った。家族と入院が終わった後、通院している患者が暮らす。ヨルダンは、イラクから、合計30人の患者を受け入れている。20人は国王の基金、10人はアメリカのポールニューマン財団が、彼らの医療費とホテル代を出している。

ホテルのロビーで待っていると、イブラヒムさんにであった。 バスラからやってきたというイブラヒムさんは34歳。妻のファーティマさんががんにかかっていることが判明した。イラクではろくな治療が受けられない。もうだめだとあきらめかけていたところにポール・ニューマンが金を出すのでヨルダンで治療が受けられることになった。3月8日、アンマンに着いた。だが問題は、そのときすでにファーティマさんは妊娠6ヶ月目に入っていた。抗がん剤を投与した治療は胎児に影響を及ぼす。しかし、ファーティマさんの治療を早く始めないとガンが進行していく。本格的な治療に入る前に、ファーティマさんは帝王切開での出産を迫られた。しかし、妊娠6ヶ月。予断は許せない。ぎりぎりのタイミングだった。4月1日、赤ちゃんは、イスラミック病院で無事に出産、なんと双子だった。男の子はムハンマド君、女の子はカディージェちゃんと名づけられた。当然未熟児だったから、76日間も保育器に入れられていたという。

イブラヒムさんが家族を紹介してくれるというので彼の部屋までついていった。治療はうまく進んでいるようで、妻のファーティマさんも元気そうだった。赤ちゃんは、ジャバル・フセインの別の家族に預けられているので、おっぱいをあげることもなく、添い寝もできないのは、さぞつらかろう。

イブラヒムさんと一緒にタクシーを拾って、見に行くことにした。ヨルダン人の一家を尋ねると小さな赤ちゃん二人を抱えた、おばさんが出てきた。ザイナブさんは、子育てのベテランだ。
「私は、子どもが7人もいるんですよ。娘が5人。そして男の子が2人。子育てなら任してください。うちの娘たちも、赤ちゃんが大好き」10歳前後の3人の姉妹が、粉ミルクを溶いていた。アラブ社会は、子どもが多いので、上の子が赤ちゃんの世話をするのは当たり前。うまく赤ちゃんにミルクを与えている。

イブラヒムさんは思い出す。
「この子達はたった500グラムでした。年齢は4ヶ月。まだまだ小さいですよね。妻は、ガンのために白血球がゼロです。とても赤ちゃんと一緒にはいられない。それで病院に助けをもとめたんです。何とかならないかと。そしたら親切な家族を探してくれた。ザイナブさんがいろいろよくしてくれるので、本当に嬉しいです。」

双子の赤ん坊は母乳を飲んでいないので免疫力が弱いという。風邪などにかかりやすい。また、母親は抗がん剤の治療を受けているので白血球の数が少なく、赤ちゃんが風邪をひいただけでも感染して致命傷に至ることもあるので、当面は一緒にいることができない。イブラヒムさんは、毎日様子を見に来る。しかし、ヨルダンの物価はイラクに比べて高い。ヨルダンでは働くこともできないイブラヒムさんは、赤子のミルク代のことを心配していた。治療費とホテル代は、ただでも、生活費はそこをついている。

ザイナブさんは「心配しないで。私たちに任せて」とイブラヒムさんを励ました。ヨルダン人も一生懸命、ささやかな協力をしている姿には頭が下がる。僕たちはつつましく彼らを側面的にサポートできればいいなと思う。やっぱり「人道支援やってます」って外国人が、仰々しく騒ぎ立てるのは、自衛隊もNGOもよくないなと思ったりした。

ムハンマド君、カディージェちゃんはミルクを一生懸命飲んでいる。本当ならば、ちょうど今頃生まれたばかりのはず。哺乳瓶に吸い付く様子に、生きてやるんだという赤ちゃんたちの強い意志を感じた。
           




独立記念日と芸術あれこれ  冨岡三智




この7月、8月もインドネシアのソロ(スラカルタ)とジャカルタに行ってきた。8月になるとインドネシアは17日の独立記念日に向けて多くのイベントが各町内、地域、国レベルで催される。芸能好きにとっては楽しい時期だ。でも日本人の私は、独立という語の裏にある連帯感を本当には共有できていない気がして、いつもこのお祭り騒ぎに落ちつかなさを感じている。とは言いつつ、独立記念日が廻ってくると思い出すことをいくつか挙げてみよう。

 ●アメリカとインドネシア

1996年7月にアメリカのガムラングループ「サン・オブ・ライオン」がインドネシア芸大ソロ校で公演した。若い人も中にはいたが、かなり年配の人が多かった。それは、アメリカでは日本よりもずっと早くからガムラン音楽が民族音楽として教えられてきた歴史を物語っていた。そのわりに演奏はあまり上手くなかった気もするが、感心したのは彼らがインドネシア人に受けるツボを心得ていたことだ。公演の前半でオリジナル曲を演奏したあと、休憩をはさんで後半ではコラボレーションをするので視聴者にも参加してほしいと彼らは呼びかけた。曲のバルンガン(骨格旋律)はある程度彼らがすでに用意し、芸大側からメロディーパートの演奏者を出すというやり方で、休憩時間に簡単に曲の進行を打ち合わせてぶっつけで演奏するのである。そして曲のテーマは「独立」だった。アメリカの独立記念日は7月4日で、ちょうど時期的にもふさわしい。演奏に参加しなかった人々も高らかに謳いあげられる独立のテーマに大いに盛り上がった。

アメリカ人やインドネシア人にとって「独立」とは絶対的に善であり、かつ互いに共有し合えることのできるテーマなのだ。表現されたものがそのテーマに合っていたのかどうか私は覚えていないが、芸術的にあまり成功してなくてもこの場合はきっと大して重要ではなかっただろう。重要なのは「観客参加型パフォーマンスが成功した」ということだろうだから。

テーマ選択の成功はもちろんだが、もともとインドネシア人(少なくともジャワ人)観客はパフォーマンスに対して大いに乗り、盛り上がってくれるという性質がある。演者からの刺激にとても敏感に反応する。これはコラボレーションするにはとてもよい資質だと思うのだが、悪く言えば付和雷同的で乗せられ易いということでもある。1998年の暴動やその後の各種デモなどを見ていると、そういうところが裏目に出ているのではないかと思えてしまう。

 ●紅白はちまき

現在ではたぶんほとんど上演されないだろうと思われるものに「プジュアン」という舞踊作品がある。これはジャワ舞踊の大家・ガリマン氏が1964年に作ったものである。インドネシア国旗のように紅白に染め分けたはちまきを頭に締め、弓矢を持って戦争するという内容で、プジュアンとは闘士という意味である。1960〜70年代頃にどんな舞踊作品が踊られていたかについてインタビューすると、男性だとこの作品を踊ったと言う人が多い。それも独立記念関係のイベントでよくリクエストがあったという。

この作品が最初誰の注文で作られたのか、また振付がどうだったのかまだ調べていないので確かなことは言えないが、共産主義の風潮の影響を受けていたのだろうか、などと想像していた。1950年代後半から60年代にかけてはインドネシア各地で闘争や農作業、漁労、バティック、機織りなどの労働を描いた、共産的なニュアンスを感じさせる舞踊が多く作られたと言われているからである。

とはいえ、当時の振付家や踊り手にとってこの舞踊は政治思想の反映である、とは私は考えていない。作品の注文主の意向はともかく、振付家にとっては政治思想の説明よりも、テーマをいかに舞踊表現に昇華するかということの方が重大関心事のはずだからである。70年代始めに少年だったある踊り手は、プジュアンはとにかく格好よくて好きな作品だったと言う。彼も紅白のはちまきについては「インドネシア独立」のメッセージを感じているが、それ以上のものではないと考えているようだ。

今年の夏の独立記念日の前後はジャカルタで迎えた。プラザ・スナヤンではインドネシアの各地方舞踊の上演が行われていたが、やはり紅白の色を衣装の一部に使うグループも無くはなかった。民族衣装に似合わぬ紅白のねじりはちまきを頭にしているグループもあったし、赤いサテン生地の上着を着ているグループもあった。たぶん紅白の色は「独立を祝っていますよ」という気分の表明や観客へのアピールに過ぎず、当人達にとっては作品の本質に影響しないのだろう。 

●舞踊「ハンドコ・ブギス」

これはジャワ人のハンドコとブギス=マカッサル人の戦いを描いた舞踊で、古くからある宮廷舞踊の演目である。結果は当然ジャワ人の勝ちで、ブギス人は負けて死ぬ。ジャワ文化のコンテキストにおいてはブギス人は常に粗野な民族とされ、そのためにジャワ舞踊の中に「ブギス人の型」というものがある。しかし、ジャワ舞踊の大家・マリディ氏があるときブン・カルノ(スカルノ大統領)の御前でハンドコ・ブギスを上演したところ、見終わったあとブン・カルノからこう言われたという。「最後はブギスを殺さず、円満な終わり方にしなさい。彼らも同じインドネシア民族なのだから。」このエピソードには多くの民族をまとめて独立を果たしたスカルノの高揚した気分がうかがえる。とは言え、私が今までに見たハンドコ・ブギスは最後にブギスが負けて終わりであった。ジャワで上演している限りそれで良いのだろうし、たぶんこれからもそうだろう。



しもた屋之噺(33)  杉山洋一




この8月東京に帰郷したと思ったら、あっという間に過ぎてしまいました。暑いとは言え、7月のように茹だることもありませんでしたし、美恵さんや悠治さん、三橋夫妻、浜野さんと三軒茶屋の「味とめ」で杯を酌み交わして、実に愉しい思いが出来ました。

悠治さんが沖永良部の黒糖焼酎で杯を重ねるのを尻目に、酔狂にも電気ブランなど頼みましたし(神谷バーで生まれた、浅草、大正ロマンの味。ブランデー、ジン、ドライベルモット、ホワイトキュラソー、ワインを混ぜた合成酒なのですね。そりゃ、甘ったるい味がする筈です)、生まれて初めてホッピーを味見することが出来ました。

つまみに出てきた、ギラなる2センチ弱の焼き魚が殊の外美味で、思い出して調べてみると、ギラとはヒイラギの異名でありました。こうして日本に戻ると、とても書きたくなることがあって、言葉に出来ない喜びとか、まばゆい日本の風景みたいなもの。

日本の夏空は、イタリアよりほんの少し深い蒼をして、肌をぬめってゆく感じがします。
まだ時差ぼけも取れない或る日、朝早く目を覚まし、京浜急行に乗って堀の内に向かいました。途中、金沢八景の辺りは、子供の頃、父親と毎週のようにハゼ釣りに来ていて、乗り合わせた家族連れが、声を弾ませる様子など、まるで昔の自分のように感じられます。

堤防から釣糸を垂らしていて、或る時父が堤防の下を覘こうとして、胸を強打したことがあって、普段は空威張りする父が、あの時ばかりは、数ヶ月、胸に包帯を巻いて暮らしました。父が堤防から身を乗り出したのは、絡んだ釣糸を解いて貰おうとしたような、薄く苦い記憶があって、ずっと心の底でしくしく痛むものがありました。父に申し訳ないと思いつつ、素直に気持ちを伝えられないもどかしさを、子供心に感じていたのかも知れません。

堀の内に着くと、太陽が昇りきっていない、懐かしい夏の朝の匂いがしました。東京から失くなって久しい、空気が通り抜けるときの、さらりとした感触とでも謂えばよいのか。子供の頃、夏の風は様々な色や匂いを運んできましたが、何時からか、夏になると、冷房の室外機が空気を遮って、茹だるような熱風を吐きだすようになり、風は通り抜けることすら出来なくなりましたから。

昔と変わらない駅前の風景を懐かしみつつ、線路に沿ってへばる細い辻を幾つか巡ると、何年か前、やはり墓参の折に仏花を購った小さな八百屋が店を開けていて、あの時と同じく中年の夫婦がのんびり店番をしていました。
「なにか花、ありますか」、「仏花しかないけんど」。
暑気にやられかけた、少し萎れた花束と線香を買うと、店番の男の懐かしい訛りが、潮風にのって、耳に心地よく響きました。

忘れかけていた、さんさんと降り注ぐ蝉の鳴き声が身体を包み込んでくれるようで、不思議なくらい一つ一つの瞬間が貴く感じられるのが奇妙に思えます。すっかり忘れていた喜びが、自分のどこかに息づいていて、ふとそれに気がついた、とでも説明すれば良いでしょうか。切り立った崖がそびえる信誠寺で、逢う事のなかった祖母に線香をあげていて、ふと空を見上げると、大きなトビが気持ちよさそうに円を描いていて、キィウルル、キィウルル、鋭く尾をひく啼き声がこだましました。

昼前、茅ヶ崎の祖父の墓を訪ねました。駅前の花屋で仏花を買い、線路沿いの雑草の生えた小道を歩いていると、土の匂いも砂利もない無味乾燥としたアスファルトが、とても侘しく感じられました。半時間ちかく、浜の砂が交じった小道を歩いて、おろしたばかりの革靴が、白く埃をかぶるさまに、愛着すら覚えます。昔、家の前の砂利道で転んで、何度となく膝小僧を怪我した傷跡は、懐かしい思い出を今も大切にしまってくれているのですから。

茅ヶ崎の祖父は母が幼いころに逝去していて、知っているのは、くたくたになった白黒写真に写る、繊細そうな男の姿だけ。三橋という宮大工で、茅ヶ崎の住吉神社の建立に寄与したと聞きました。線路端の西運寺に三橋の祖父を訪ねたのは3年ぶりだったのですが、幾ら探しても、あるべき場所に祖父の墓石が見つからず、滴る汗を拭いながら、墓石を一つ一つ丹念に探して歩きました。何しろ、150以上も並んでいる墓石の3分の1が三橋姓を語っていて、三橋が茅ヶ崎に集中していることがわかります。異名なのか、三觜と刻まれた墓石も数多く、中には、「昭和19年某月レイテ島ニテ戦死ス、享年何某」、等と克明に戦死の状況を説明するものも幾つか見受けられ、遺族の無念が滲み出ていました。

「わざわざミラノから逢いに来たのだから、爺さん、からかわないでテレパシーでもなんでも良いから何処だか教えてくれ」、そう念じて見て廻ると、卒塔婆がカラカラと音を立て、まるで自分を呼んでいる気がするのです。よく見てみると、三橋には違いないが祖父の名前はどこにもない。そうして3時間も探していると、流石に頭も朦朧としてきました。飯でも喰おうと一旦切り上げて、あてどなく歩いていると、思いがけなく祖父の建てた住吉神社の前に立っていました。決して派手ではないのですが、真摯で肌理が細かく、凛とした空間が広がっていました。近くで買った弁当を境内で食べながら、色味の少ない社殿を観察していると、細やかな彫刻が一面に施してあって、静謐な感動に満たされました。

その日は午後遅く、湯河原まで足を伸ばしました。父方の祖父の墓参を兼ねて、祖母の顔を見たかったからです。吉浜に面して、神社が一つ、寺が四つ並んでいるのですが、英潮寺は祖父が毎夏出していた海の家の路地奥、見晴らしの良い高台にあって、祖父の墓から湯河原の海が俯瞰されるのを、いつも羨ましく思っていました。

イタリアでの教会巡り癖か、こうして一日に寺を幾つか訪ねるのが、とても自然に感じられました。その中でも特に、この英潮寺は境内には色とりどりの花が咲き乱れていて、華やいだ色調が、浜の賑々しい雰囲気によく溶け込んでいます。祖父の墓を掃除していて、昔、毎週のように祖父の船で釣糸を垂れたのを思い出しました。キスやメゴチがよく釣れて、陸に上がるとそれをすぐにフライにして食べていましたから、子供の頃はキスが高価な魚だとは、ついぞ知りませんでした。

後日、母と連れ立って再び茅ヶ崎を訪れ、漸く、祖父の墓が昨年造りかえられ、祖父の名前は新しい墓誌に刻まれずにいたとわかって、無事に線香を上げることが出来ましたが、ほんの70年の間に、自分の存在がいとも簡単に消滅することもあるかと思うと、感概無量でした。帰途、ふと空を見上げると、そこには息を呑むような超自然的な光景が広がっていて、言葉を失いました。帯状にたなびく雲が、一部分だけ、神々しく玉虫色に輝いているではありませんか。暫く眺めていたのですが、半時間程すると少しずつ色褪せ始め、しまいには普通の白い雲に戻ってしまいました。

東京に戻った或る朝、近所の喫茶店の軒先にある小さな地蔵に、一心不乱に手を合わせる少女に出会いました。歳の頃6、7歳かと思いますが、何をお願いしているのか、懸命に手を合わせていて、暫くして振り返っても、まだ立ち尽くしていた姿が印象に残っています。

(8月30日三軒茶屋にて)




雨の朝、北のホテルで  御喜美江




8月21日にデュッセルドルフを発ち、スウェーデンのゲーテブルグにきて4日が経った。ここはスウェーデンの南西に位置しスカンジナビアの都市の中では最もヨーロッパ的と言われているそうだが、たった一時間半のフライトでも、ドイツから地球の表面を一直線に北上して地上に降りると、何もかもが別世界のように目に映る。ひんやりと冷たい空気の中に太陽光線はサイドから強烈に輝き、光が作る空と雲と町並みのコントラストが私の目にはまぶしくてまぶしくて、到着した21日はまともに目が開けられなかった。それでずっと目を細めて街中を歩いた。道路は広いが車の数は大都会としては信じられないくらい少ない。これだったら信号なんてなくてもいいような気がする。だから細目で歩いても大丈夫、何にもぶつかりません。

言葉はもちろんスウェーデン語だが、これが聞き慣れていない耳には本当におかしい。いかにも大柄・色白・金髪の響きだ。ドイツ語がゆっくりと時間をかけてだんだんラージサイズになったとする。その過程において色はだんだん薄く、表現はやわらかく、感情は2種類くらいに縮少かつ冷やされてゆくとスウェーデン語になる……なんて本には書いてないけれど、そう勝手に想像して、なるほど!と納得。

住宅建物は一階が石造りで2階と3階が木造という変わったスタイルが多い。何か意味があるのかと人に聞いたら、これは100年ほど前に決められた住宅建築の条件で、理由は火災を防ぐためだそうだ。こちらはいまひとつ納得できなかったけど。

ここではソフィア・グバイドゥーリナ作曲:チェロ、バヤン、弦楽オーケストラのための『7つの言葉』をレコーディングした。指揮:マリオ・ヴェンザーゴ、チェロ:トアレイフ・テデーン。素晴らしい指揮とオーケストラで、録音は思いのほかうまくいった。しかしグバイドゥリーナさんがこれから作曲するフルート・コンチェルトと一緒にCD化されるそうだから、この『7つの言葉』が日の目を見るのはいつのことやら。

さて、今日は夕方の便で再びデュッセルドルフへ戻るのだが、それまではフリー。実はここに着いた21日の夜、素敵なジャケットを街中の小さなブティックのウィンドーで見つけ、それがずっと気になっていた。録音が終わったら是非のぞいてみよう、と楽しみにしていたのだが、今朝起きてみると外はあいにくのどしゃ降り。しかも気温は低くていかにも冷たそうな雨。ついてないな〜、ほんと残念。とはいえホテルの窓からながめる異国の街の雨景色は、何ともいえずロマンチックで私は大好きだ。心がしんと静まるような気がする。

そういえば来週はウルムチ。いったいどんなところなのかな〜。10年ほど前、井上靖の『私の西域紀行』という本を夢中で読んで以来、ウルムチ、トルファン方面に大変興味があった。9月2日からマスターコース、ソロリサイタル、そして講義などをする予定だが、仕事は一週間で終わり、そのあと皆で敦煌方面へ旅行するそうだ。敦煌……、今から胸がどきどきする。生まれてはじめてだから想像もつかない。

ちなみに私の生徒のNaがウルムチ出身で、今回は通訳として手伝ってくれることになった。それでドイツ――中国往復の航空券が主催者から彼女にアルバイト料として提供され、3年ぶり故郷に帰れる彼女はもう大喜び&大騒ぎしながら、8月16日大荷物を持って帰省した。夏休みに入る前からNaは「先生、ヴィザを忘れないように!」と会うたびに言うので、全ての資料が揃った翌日、早速ボンの中国総領事館を訪れた。

ここでその日、8月10日のことを回想してみる。
開館9時ちょうどに着いたのに、すでに20人くらい門の前に立っていました。ヴィザ申請の窓口は椅子もベンチもなく行列してひたすら待つ。9時45分くらいにやっと私の番。ここで資料を全部まとめて窓口に提出する。
「倍額の60ユーロを払いますから今日中にヴィザを発行してください」と緊張気味のみえちゃん(尚、ヴィザ申請のための説明書には非常にオープンかつ詳細に値段表が記載されている)
「ヴィザは発行できません!」と担当係は怖い顔のおばさん。
「えっ? 何が足りないのですか?」ショックのみえちゃん。
「貴女は日本人、日本人はヴィザいりません」おばさん。
「でも私は労働するのです。報酬をもらうのです」必死のみえちゃん。
「貴女が何をしようが、いくら稼ごうが、我々には無関係です」もう帰れと言わんばかりのおばんさん。
「本当にヴィザなしで大丈夫なんですね?」ここまで待ったからにはちょっと粘るみえちゃん。
「ヴィザはいりません!」バサッと資料をつき返すおばさん。
「あ〜、やっぱり伊藤さんの言ったとおりだった」窓口を離れるみえちゃん。

この前日、所属音楽事務所の伊藤さんが、日本人の場合15日以内の中国滞在はノーヴィザ、と教えてくれたのに、Naの顔と声を思い浮かべ、私自身も心配だったから遠路はるばるボンまで行ってしまった。完全無駄足になったので、帰りはケルンで午前中からケルシュという軽いビールを飲んで夫と慰労会。その後Saturnという大きなレコードショップに立ち寄ったら、2階のクラシックに何とMie Mikiのコーナーがあるではないか。それは何故か“作曲家”の中にあるのだが、そんなことかまわない、早速そこを開けてみたがCDは一枚もない。ちょっとがっかりする。みえ「作曲したことないんだもん、あるわけないわね」 夫「そうだねー、もしくは完売ということでしょう」それで試しにアコーディオンのコーナーを見たら、ここには4枚あった。でも4枚とも埃をかぶっていたから、これは売れ残りかな。結局ミケランジェリのCDを一枚だけ買った。

と、ここで部屋の窓から外を見ると、空はさっきよりずっと明るく、雨は小降りになっている。バルコニーに出てみると空気は冷たいが、この程度の雨ならやっぱり買物に行こう。あのジャケットは自分に似合いそうな、いい予感がする。

ジャケットとウイグル地方の旅報告は『水牛』10月号で!

(2004年8月25日スウェーデンのGothenburgにて)



路傍の放浪者(2)  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子 訳




彼は自分を離れて周囲の人びとに関心を向けた。それはほんのわずかな時間にすぎなかったが。それから彼は街路樹のために囲ってあるコンクリの四角い枠に腰をかける。ささやかな日陰が味あえるような樹陰を選らんで腰掛けるのだ。そこでは一銭の硬貨も入れる必要はない。苦痛がおそってくるとしたら、それは排尿をもよおすときである。何枚もの硬貨を使ってはじめて膀胱は作業を終えることができる。飲み食いすることは排泄の悩みを伴うので忌避できないものかと思う。

汗がいくらかひいて、胸の辺りのじりじりする暑さがおさまり、しわくちゃのタバコをついに手元まで吸い尽くすと、やおらその日やっておくべき用事を思い起こす。それから彼は立ち上がると再び歩き始めた。

こんどは少しはラッキーかもしれない。前方にある電話ボックスは誰かの家の軒先にある樹の陰の下にある。彼はまるで親しい友人に出逢ったかのようにさっとその中へと身を投じる。と、何か書いたものが眼にはいった。引き裂いたボロ紙によろけた字で「故障」と書いてあるではないか。

チキショー! と、彼はこころの中で呪った。なんでまたこうなんだ! かまうもんか。先に行くっきゃないさ。先に行くしかないだろうよ。なんでここでまごまごしているんだ!

足が焼けつくように熱くなってくる。向こう脛の毛に沿って汗がしみていくのが感じられる。おまけにズックの靴で足の小指が靴擦れを起こしているようだ。ゴムぞうりからこれに履き替えていくばくもたっていなかったので、靴擦れというのはあまり経験がなかった。ちょっとはきれいな足でいたいものだ、と思って靴と靴下を手に入れたのだったが、こいつ1本の歯もないくせに足の指に食いつくとは想像したこともなかった。

すぐ先のかんかん照りの下にある電話ボックスには先客がいる。女性が受話器に額を寄せて何かささやいている。好きなようにやってくれ。日ごとにひどくなっていくこの社会で、人はなにがしかのしあわせを持つべきだ、と彼は思う。右手で受話器を握り左手には小さな財布を握りしめている。赤い口紅。赤いパンツ。電話機も赤。さて、自分にも赤はなかったかと頭のてっぺんから足の先までを調べてみる。ひとつだけあった、電話帳の表紙が赤だ。ただしそれはシャツのポケットの中だ。。。色が何だ、どうでもいいことだ。時おり自分の考えに反駁することがあるものだ。まるで針で自分の皮膚をつっつくように。

さあついに俺の番だな、と彼は思った。彼女は目の端で背後の彼をチラッと眺めやることすらしなかった。自分とは違う。俺だったら待っている人がいれば遠慮する。うまくかからなければ、ひと言声をかけるか、お先にどうぞ、といった視線やしぐさで次に待っている人に譲るものを。

彼はまた番号をまわしていた。お話中だ。背後を見やったが誰も待っていない。それで再度硬貨を入れてかけなおす。その行為を何度か繰り返した後、ようやくはなしができる。
「10日ですね、。。。はい。。。はい。じゃあ午後遅いめに伺います。ではこれで失礼致します」
その日は4日であると新聞で見て記憶していた。あと6日だ。6日後に1件の面接予約がはいった。うん、まあ少しはましになったか。

(続く)



先立った人に――木島始をよみかえす   高橋悠治




暑い日だった 
 あさ目をさましきらず 
 どこ行く夢のあてとてなく 
行かないと決めていたのに 
目が醒めきったときは 
わけもわからずうごかされて 
電車をのりつぎバスをのりこし 
建物にはいったとききこえてきたあのうた 
 果てしない波をわたりつくして兄弟がある 
最後に会ったときにもこのうたがひびいていたな 


いさかいせんとや生れけむ 
あらそいせんとや生れけん 
いさかう強がりびとの声きけば 
わが歌行脚のぞまるれ 


うたといえば思いだす 
むかし「水牛楽団」でうたった「キド」――祈祷 
 クヮンチョル ハヌン ソウルィ イェオンジャヨ 
 (貫徹するソウルの預言者よ) 
 キコエ マスカ コノコエガ 
 オロカシイ オロカシイ 
 ブキミナ ブキガ メヲオオオウトシテ 


どの経歴にも受賞歴は見あたらない 
ともだちのだれかれに送ってやりたい 
 受賞歴程――光太郎もじりうた


賞の前に金はない 
賞の後に金が出来る 
ああ、流行よ 
噂よ 
作家を一人立ちにさせぬ噂よ 
作家から眼を離さず攻めることをせよ 
常に噂の苛酷を受賞作家に充たしめよ 
その恭しい死臭のため 
その恭しい死臭のため 


そのかわり私家版の詩画集の数々 
 もしも もう一度開いてくれたら 
 焼け野原に残った種が 
 もう一度また芽ぶくのだ 
 そう あなたの目の光りにあたって 


麦わら帽と白いあごひげ 
詩集の最終校を見終わった日に尽きたいのち 
その数日前に 
そこに悠治が来ていたと病室の空間を指さして 
 虚空を彷徨いつづける光る声が 
七日経ってとどいたか 
 なじんだ証しか 
 消えた親しい呼吸 
 呼ばぬのに喋るのだ 
 幻らしく落ち着いて 
「水牛通信」に書いてくれた「ぬきがきうた」
数々の四行詩に添えた手彫りの印と線画のインク 


ひとつのことば 二つの響 古代文字群をめぐり 
 とめどない渦巻き 
なめらかな慣れを通りこし 
過剰に書き綴られ 
 うりが 
 うれるか 
 うれないか 
 うりうりが 
 うらないしに 
 うれゆき 
 うらないたのむと 
 うらないし 
 うらないしないで 
 うりは 
 うれるが 
 うらないは 
 うれんねという 
これも「水牛通信」にか 


迷路の一筆書きに浮かび出る 
ことばの端橋は心を映して 
 心が頽れるたびごとに 
 遠くからの花粉にまみれる 



ご意見などは「水牛だより」のコメント欄へどうぞ

このページのはじめにもどる

「水牛のように」バックナンバーへ

トップページへ