2004年10月 目次


製本、かい摘まみましては(1)        四釜裕子
難民がいるところ               佐藤真紀
双子の話                  LUNA CAT
しもた屋之噺(34)             杉山洋一
お彼岸雑感                  冨岡三智
手風琴の旅、ウルムチへ            御喜美江
路傍の放浪者(3)    スラチャイ・ジャンティマトン
循環だより10月                小泉英政
10月の夕暮れ                 高橋悠治



製本、かい摘まみましては(1)  四釜裕子




のぼりのエスカレーターは右側を歩くが、くだりのエスカレーターは左側に立つ、しかも誰かのすぐ後ろに。そうしないとエスカレーターの底に吸い込まれそうで恐いから。
この日の前の「誰か」は恋塚さん。つかいこんだ黒の鞄を持った初老の男性で、その鞄に、油性マジックペンで書かれた「恋塚」という名札がぶらさがっている。名刺交換するたびに言われてるんでしょう。素敵なお名前で。ご出身は、どちら?
エスカレーターをくだって恋塚さんを追い抜きながら顔をのぞくと、北朝鮮による拉致被害者家族連絡会の飯塚繁雄さんにそっくりである。と思うが、それは顔ではなくて名前だったかもしれない。とにかく、恋塚さんと私はそのあと同じ地下鉄の同じ車両に乗り込んだ。濃紺の透ける靴下、磨かれた靴、黒いベルトにストライプのシャツ。ノータイ。両手で持ち手を握ったまま、鞄を膝のうえに載せて座る恋塚さん。

中野坂上で乗り換えて、中野富士見町に向かった。日本印刷技術協会のシンポジウムにでかけたのだけれど、テーマとは別に、パネラーのひとりの近藤淳也さんの話をおもしろく聞いた。日本のブログサイトで最多のユーザーを抱える「はてなダイアリー」の創業者で、今年一月に、ダイアリー利用者向けに書籍化サービスをはじめている。この「はてなダイアリーブック」を注目してきたのは、最初からそれを一人一冊、つまり、はてなダイアリーを書いているひとが自分用に一冊注文する、というところに焦点をあててきたからである。
遅れること数カ月、他のブログサイトでも同様のサービスがはじまった。しかしいずれも、プロの書き手のブログ本を見本にして、あなたの本も書店で売れるかも!とか、従来とは違う新しいスタイルの書籍を作り出すのはあなた!とか、おそらくこれらのスタッフのうちの誰かひとりでも、実際に試して喜びを感じていないのではないかと思う。

はてなダイアリーブックの料金は、本文100ページなら1,950円 (送料、税込)。A5変型無線綴じ角背、表紙用紙はアートポスト180kgで四色から選択、本文用紙はエバーライトウルトラ70kg。近藤さんの話では、これまでのところ、一日に一〜二冊ペースでオーダーがあり、そのほとんどはやはり一人一冊ずつの注文とのこと。さらに約4,000円増しの上製本仕様には、最近になってオーダーが入りはじめたそうである。日々のなぐりがきを上製本に。おおいにけっこう。はてなダイアリーのユーザーは現在約六万人。
ダイアリーを書き込むときのブラウザ画面には、「更新 」「トラックバックを送信」「コメントを書く」といった通常のブログ用のボタンと並んで、はてなの特徴である「 キーワード編集 」と「日記を本にする 」も表示される。書き込むたびにこのボタンをみるわけだから、いつからか、そうね本にしてみようかと思えてくる。本にして、それを読み返すかどうかにかかわらず。ましてそれが、読むに耐えるか耐えないにかかわらず。

自分のウェブサイトを全ページプリントして、ちいさな本のかたちにしたことがある。ウェブサイトを更新すると、たとえMOやCDに前バージョンを保存しても、まったく見ないし忘れてしまう。だけど冊子にしておけば、引越しのときにみつけて眺めることもあるかもしれない。リンク先のサイトも製本すれば、ある時期のウェブの、ほんのわずかをスクラップするかのようでおもしろい。と考えて、「ウェブ・スクラップ」と名付けてもみた。あのころは、「更新」というものがどんなふうにおこなわれていくのか想像もつかなくて、結果、一冊つくっておわったのだった。だからはてなの試みは、叶えられなかったウェブ・スクラップそのものである、そう思って、まこと勝手に私はうれしい。
           




難民がいるところ  佐藤真紀




イラク戦争が始まる前だ。
「難民の支援や、周辺国支援などの選択肢を念頭に議論している。日本は世界第2の経済大国として地域の秩序づくりに責任を持つことなどを考慮して対応を考えたい」
川口外務大臣(当時)のコメントが毎日新聞に出ていた。(2003年1月24日)

さて、イラク戦争が始まってから、1年と6ヶ月がたった。
イラクとヨルダンの国境の間のノーマンズランドには行き場のない難民がいまだに残っているというので様子を見に行くことにした。ここは、まさに無人地区だから、ジャーナリストも許可をもらえずに、誰も取材しない。だから、イラクから出てきた人たちが未だにテント暮らしをしているなんてほとんどの人は知らないと思う。UNHCRにキャンプの訪問依頼のレターを書くが、返事がない。ヨルダンについて事務所に電話してみたら、一年前知り合ったダウリーさんが未だに担当だったので話が早い。
早速車で3時間。イラク国境近くの町のルウェイシェッドのUNHCRの事務所を訪ねた。これからキャンプまで連れて行ってくれるという。車を運転しているイルハーブさんは「難民はみんな国連の悪口ばっかり言うけど、難民を受け入れないのは誰のせいだ!」と愚痴る。砂漠を一時間くらい走ると国境のゲートが見える。国連の車は簡単に通してもらえた。私たちは出国検査を待つ車を追い越して、最後のヨルダン軍の警備員に挨拶して右にまがると、テントが見えた。以前はもっととおりに面したところになったのだが、人目につきにくいところに移されたようだった。入り口のところには、次のようなメッセージが布に書かれていた。

「私はザハラです。私たちの子どもたちの未来を思って、ハンガーストライクを行う決心をしました。私たちを政治難民として、再定住を認めてもらうまでハンガーストライキを続けます。8月10日」
その隣には
「私はマリアです。ザハラの娘です。まだ100ヶ月です。ママのお乳が出なくなると私もハンガーストライクをしなくてはなりません。UNHCRはママの命に責任があります。私は生きたいです。死ぬのは嫌です。」 

なんだか、痛ましい。こんなところでハンガーストライキをやったところで誰も見向きもしないのだ。

まず、幼稚園を見せてもらう。ここにいる難民はほとんどがクルド人。言葉も聴きなれないクルド語だ。目がくりくりした女の子が「喋喋」に扮してクルディッシュを披露してくれるが、クルクルと目が回って転んでしまった。なんという愛くるしさだろうか。キャンプの人口は1135人。檻に囲まれた人々は外には出られずまるで監獄だ。子どもたちは、外界の空気がまとわりついた私たちが珍しいのか握手を求めてくる。僕たちは、まだ時間があったのでアブマスードのテントを訪ねることにした。眠っている1歳くらいの女の子の唇には、水を求めてハエが止まっている。この暑さだ。ハエものどが渇いているのだろう。アブマスードは、12歳の息子の話を始めた。
「マスード君はいつも何かを私たちにせがんでいました。私たちにはお金がありません。そのときは コーラがのみたいと、せがんだのです。お金がないからだめだ、というと、彼は援助でもらったおみやげを、国境を越えるトラックの運転手に売りつけて、お金を得ようと思いついたのです。キャンプをこっそりと抜け出しトラックに近寄っていったのです。トラックの運転手にしてもこんなところで子どもが物を売ろうとしているなんて思いもつかずに、結局マスードをはねて殺してしまったのです。」

アブマスードは、息子が写っている写真を持ってきて指差した。そして、目には涙をためていた。 
「妻は何度も自殺しようとしました。私も死にたい。しかし、6人の子どもたちのことを考えると、生きていかなければと思う。でも子どもたちの未来を思うとなおさらつらくなります。」
「マスードは、いろいろなものを欲しがりました。でも私たちには、金がないので、何もしてやれなかった。そして彼は死んでいった。下の弟は私が携帯電話で話していると、今でも、お兄ちゃんとはなしているのって聞いてくるんです。つらくて夜は眠れない」
「サダム政権が崩壊して、私たちが迫害されたとき、米軍が来て、ここは危ないから逃げろという。ヨルダンには難民キャンプがあるというので、ここまで来ましたが、結局、こういう状態です。私たちは、結局マスードのようにどこにもたどり着けずに、みんなこうやって死んでいくのです。」
アブマスードの目からはまた涙があふれ出た。

アブマスードは、金色をしたボールペンを持ってきた。「これをあなたに差し上げます。私たちのことを決して忘れないでほしいのです」
おそらくマスード君はこのペンを、トラックの運転手に売ってお金にして、コーラを買いたかったのだろう。私はお返しにと思って何か探したが、腕時計ぐらいしかなく、結構値のはる時計だったから、横にいた文次郎の持っているボールペンを取り上げて、「代わりにこれをもっていってください」と差し上げた。そして、金のボールペンは、文次郎が大切に持つこととなった。
「景品でもらったこんなしょぼいボールペンで申し訳ないです」
私たちは、ため息しか出なかった。難民支援を約束して、戦争を支持した日本の責任。確かに160張りのテントを寄付したが、もうそれらもぼろぼろになってしまっている。ともかく、難民は第三国への再定住を希望している。戦争を支持するなら難民を受け入れるくらいの覚悟があって当然だろう。



双子の話  LUNA CAT




「双子」というキーワードで思い浮かべるものは何だろうか。星座の双子座、実在の双子の人々など、人それぞれ、さまざまだろう。9月の「水牛」で、佐藤真紀さんの「双子」にまつわる話を読みつつ、モンゴメリフリーク(?)の私が思い浮かべたのは、「赤毛のアン」である。

アンが孤児院にひきとられる前に身を寄せたハモンド家には、8人の子供のうち、3組の双子がいたそうだ。「酒のみの夫をもっているって、とても骨が折れるものだし、つづけて三組もふたごができたらたいへんでしょうしね」(村岡花子訳)と、アンはマリラに、達観したように身の上話をする。
その後もアンの人生には、ことあるごとに双子がかかわってくる。ひょんなきっかけからデイビーとドラの双子をグリーン・ゲイブルズに引き取り、のちにはアン自身、双子の母親となった。よくよく双子に縁がある、と、アン自身も語っていたものだ。

なぜいまだに「赤毛のアン」は人気があるのかと、よく言われる。いろいろな説があるけれど、私は「アン」が「ひとりの少女の物語」であるからだろうと思う。「若草物語」や「大草原の小さな家」は、ジョーやローラという主人公はいても、基本的には「少女の集団の物語」なのだ。両親も、きょうだいも、生きている親戚さえもいないアンは、人生のはじめから、ひとりで生きていくこと、生きていく上であてになるのは自分だけだということを、よく知っている。孤独の中で自分自身にしっかりと足をふまえて、引きこもることもなく、他者とのかかわりを確立していくアンは、現代人にとって身近に感じられるのではないだろうか。

そのアンの人生の節目には、いつも双子が登場して、アンの身近には、ほとんどいつも双子がいる状況である。これもさまざな解釈があるのだろうけれど、同時にはじまった人生が別々の道を歩んでいくようになることで、人生の分かれ道の象徴として登場しているのかもしれないなと思う。

佐藤さんが出会った双子は4組。話のメインになっている双子は、「子どもが7人いる」家庭で育てられているそうだ。ハモンド家に負けないほどの子だくさんだけれど、幸いなことに、ハモンド家とは違って、明るく賑やかで頼もしい家庭であるらしい。

双子として生まれるということは、生まれたときから、同い年のライバルが常に身近に存在しているということだ。明けても暮れても同じ家の中にいるライバルと競い合いながら生きていれば、きっとたくましく育つだろう。ムハンマド君とカディージェちゃん、そして他の3組の双子たちも、いろいろとややこしい人生を、たくましく生き抜くに違いない。




しもた屋之噺(34)  杉山洋一




一月ぶりにヨーロッパに戻ると、きな臭い雰囲気に息がつまる思いがして、この温度差が日本とヨーロッパを隔てている事を改めて感じます。9月の声を聞いて、急に日暮れが早まったかと思うと、明け方の冷え込みに身体がこわばります。

ミラノに戻ってすぐ、ローマに日帰りで出かけました。1時間ほど時間があって、旧友のヴァイオリンのPに会うことが出来たのは幸運でした。彼が精神的に不安定で、仕事もうまくいってないと伝え聞いていたのですが、一年ぶりに会うPは存外にさっぱりした顔をしていて、ほっとしました。共和国広場脇のアーケードに店を出す、老舗のシチリア菓子屋で、水色の甘ったるいカッサティーナに舌鼓をうちつつ、旧交を温めました。色々なしがらみから解放されて、今は体調もすこぶる安定している。少し寂しそうにつぶやきました。「あのまま続けていくのは、もう無理だったんだ。道端でいきなり意識を失ったことも何度かあってね。救急車で運ばれて、精密検査も受けたんだが、結局ストレスじゃないかって」。

ローマの午后は街が黄金色に輝やくようで、街の呼吸する音が聞こえる気がします。かかる躍動感はミラノのどこにも見出せません。ミラノは静かに佇んでいて、生命が息づく喜びにそっと手が触れるようなところがある、そんな事をつらつら思いながら、ボルゲーゼ公園の澄んだ泉で顔を洗って一息つきました。

この春から、何度か電話や手紙を頂く老婦人がいて、トーディという知らない街の絵葉書が2回ほど届いたでしょうか。家人にカルロ・デルラ・ジャコモの楽譜を送ってくれた縁で何度かやり取りをしたのですが、絵葉書には決まって、東京で予定されているデルラ・ジャコモの演奏会のチラシとパンフレットを送ってくれ、とあり、この葉書が届いたかどうか電話を欲しいと書添えてあるのが常でした。

当初、この名も知らぬ作曲家に何の縁があるのか、胡散臭いご婦人だと笑っていたのですが、2度3度と連絡を貰ううち、少し興味が湧いてきました。最後に来た手紙は、絵葉書ではなく、カルロ・デルラ・ジャコマ研究所のいかめしい用箋に、年配とわかる筆跡でこう書き附けてありました。

親愛なる奥様
あなたにご連絡を差し上げますのは、ご主人のお名前を存じ上げないからですが、この親愛の情は、お二人に違わず差し上げるものです。
4、5ヶ月前に、カルロ・デルラ・ジャコマのクラリネットとピアノの楽譜をお送りしました折、東京から演奏会のパンフレットをお持ち帰り下さるよう、お願い致しましたけれども、今一度お伺いに上がった次第です。くれぐれも此方へお送り頂けますようお願い申し上げます。文章がローマ字でなくても、気になさらないで下さいませ。当方で翻訳させます故。お電話を頂けましたら幸いに存じます。
リータ・ザッフェラーミ

周りの誰もデルラ・ジャコマの名前を知らないので、インターネットで検索してみると、1858年ヴェローナに生まれ、1929年トーディで没すとあります。1889年に作曲された音楽劇(小規模なメロドラマのこと)「エルバ」が代表作として記されていて、売れないオペラ作家かと思い込んでいました。「トーディのあるマルケ州の輩ときたら」鼻持ちならないという風に友人が話してくれます。「マルケ出身の文化人を洗いざらい発掘しては、やれコンフェレンスだ、セミナーだと騒ぎ立てるから困る。マルケッティって言うんだ」。

電話をくれとあるので、パンフレットは送らせます旨、連絡しようとして、余りに闊達な筆致に、ザッフェラーミかザッフェラーニか、苗字がにわかに判別できない事に気づきました。試しに「リータ、ザッフェラーミ」で検索すると、驚いたことに、老婦人はスタンダール研究家のようで、スタンダールを翻訳しているではありませんか。

ともかく苗字も分かり、どういう経緯で、「デルラ・ジャコマ研究所」があるのか尋ねたくて電話すると、その日は生憎留守で、数日後の早朝、ザッフェラーミ夫人から電話がかかりました。勢いデルラ・ジャコマとの所縁をお伺いすると、自分はデルラ・ジャコマの孫で、祖父の資料を蒐集しているのよと、案外あっさりと話してくれました。てっきり作曲家とばかり思っていたデルラ・ジャコマは、実はスカラ座の1番クラリネットで、言われてみれば、家人が受取った「カヴァレリアによる綺想曲」もクラリネットとピアノの作品です。

デルラ・ジャコマはマスカーニと親しく、綺想曲は親友のマスカーニを喜ばせるために作曲されたもの。当時は音楽家だけでなく、絵画や文学など様々な文化人と幅広く深く交わっていたそうです。「ジョヴァンニ・パスコリ(イタリア近代の大詩人)が、祖父に自作の詩に音を附けてくれって頼んだりしてね、祖父はずば抜けて多才な人だったのよ」。

日本でデルラ・ジャコマの名前を知る人はいるかしらと尋ねるので、分からないと言うと、それなら奥様に調べて貰うようお願いして、とまで頼みこむ念の入れよう。音楽劇「エルバ」が代表作とばかり思っていると、「エルバは全体の半分もの楽譜が紛失して原型すら分からないの。残念で仕方がないわ。でも祖父は吹奏楽の作品を数多く残しているから、日本でどなたか演奏して下さらないかしら。どう日本の吹奏楽は?」当惑するほど強引で頑ななやり取りの端々に、老婦人の想いの深さが垣間見られて、ひそかに感動していました。

幼少からパスコリやマスカーニと言った文化人と交流しながら成長し、恋愛論やイタリア年代記を綴った情熱的な作家、スタンダールの専門家になった、マルケの老婦人は、ふと、「あなたフランス語は話せるかしら、詩はお読みになるの」と尋ねました。フランス語は大して解せないし、詩など到底駄目だというと、いかにもがっかりしたため息をつきました。「これが分かるとね、当時の祖父の雰囲気がわかると思うのよ。残念ね」

世界中誰でも、等しく家族の絆を大切にすると思いますが、実の祖父が没したマルケの小さな街に住みながら、市の補助金で祖父の研究所まで設立し、ローマ大学で祖父の著書を研究課題として出版までこぎつけたと聞くと、流石に誰もが驚きます。ただ、この老婦人の純粋でひた向きな愛情に心を動かされる人がいても、不思議ではないと思ったのは確かです。

いよいよ近所の灌漑用水も止水され、街路樹の葉は、少しづつ乾いた色へ変化していきます。色褪せるというより、まばゆい秋の光線がもっと美しく透けるよう、木々が心を尽くしているようにも感じられるのです。

(9月23日モンツァにて)



お彼岸雑感  冨岡三智




お彼岸におっさん(「お」にアクセントがある、お坊さん)がお参りに来てくれる。お彼岸にもお参りに来てもらうようになったのは最近のことだ。今年もお盆は日本にいなかったから、神妙におっさんの後ろで手を合わせる。このおっさんに交代してからどのくらいになるだろう。私が小学校の頃はまだ先代の―今のおっさんのお父さんが来ていた。

この先代は本当におっさんらしいおっさんで、読経の声も良く(今のおっさんも声は似ている)、自然とおっさんの後ろでちんまり座るようになったものだ。さらにご存知だろうか、袂が汗で腕にまとわりつかないように衣の下に籠筒状のものを腕にはめているのを。着物を着ている人であれをはめているのはおっさんしかいなかった。あれが珍しくてよく触らせてもらったものだ。さらに紫の袂にはもう1つ魅力があった。このおっさんはいつもお盆に我が家に来ると、私と妹を呼んで袂からお土産を出してくれるのである。年により飴だったりチョコレートだったりいろいろだったが、なぜかきまってペコちゃんのお菓子だった。子供心にも、檀家で毎年不二家のお菓子を寄進する人がいるのかしらん、とあやしく思っていたものだ。ところが母は全然このことに気づいていなかったということが、このお彼岸に初めて判明した。そういえば、おっさんは母のいる前でお菓子をくれることはなかったような気がする。ペコちゃんのお菓子をもらっていたのは私達姉妹だけだったのか、あるいは子供のいる檀家にはいつもそうしていたのか知らないが、もしかしたらあれはおっさんの長期的な布教戦略だったのかもしれない。牛にひかれて・・・ではないけれど、ペコちゃんに魅かれて私はお経を読むのが好きになった。だから特に何をするわけでもないけれど、「私は仏教徒です」と言うにやぶさかでない。

インドネシアに留学してイミグレーションや警察や学校で手続きをすると、必ず宗教を聞かれる。インドネシア人だと政府の認める5大宗教(イスラム教、カトリック、プロテスタント、仏教、ヒンズー教)のどれかを信仰しなければならず、身分証にも記載される。で、そういうときに(もちろんクリスチャンでない人で)仏教徒だと答えることに抵抗を感じる日本人もいるみたいだ。宗教の話をするのは面倒なのか、「日本人は無宗教だ」と言ってしまう人もいる。もちろん本当に無宗教である人も存在するだろうけれど、そんなに簡単に、日本人をひっくるめて無宗教だと言ってほしくないなと思ってしまう。私には日本人の皆が皆、無宗教で生きているとは思えないのだ。死者を弔うこと――お葬式や年忌を出したり参列したり、毎年盆のお祭りをしたりすること――は、宗教行為ではないのだろうか。毎日仏前に花を供えたりご飯を供えたりする行為と、バリのヒンズー教徒が毎日あちこちの祠にお供えをあげるのと、一体どこが違うのだろう?

閑話休題。

お彼岸にはお墓参りをする。というので、ここではジャワのお墓参りの仕方を紹介しよう。と言っても私の舞踊の先生(イスラム)の家の事例しか知らないので、同じジャワでも地域、宗教、各家庭によって違ったやり方があるかも知れない。

お墓参りの機会は、まずは法事のときである。夜、だいたい8時頃から法事をし、翌朝墓参りするというのがパターンである。法事をしてイスラム導師に来てもらうのはお葬式、7日忌、40日忌、100日忌、1年忌、2年忌、そして1000日忌で、このときに墓石を建てて一応区切りとなり、その後の法事は遺族の自由である。この段取りはカトリックでも同じだと聞いたのだが、カトリック式の法事に出たことはないので未確認である。またジャワの仏教やヒンズー教がどうするのかも私は知らない。

それから毎年の断食明けにも墓参りする。これは一族揃うからだろう。昔はこの時に結婚相手探しが行われたという話も聞いたことがある。私の先生が言うには、ジャワではイスラムの断食月の間、そうでなくても土曜日には墓参りをしないものらしい。行っても魂は墓にいないらしい。どこに行っているのだろう? あるとき先生の家で40日目の法要が断食月の終わり頃にあたったことがあった。このときは墓参りをしたが、花は撒かなかった。魂がいないので別に花を撒かなくてもいいらしい。そういうもんだろうか? その後断食月が明けて、あらためて花を持ってお参りしていた。

日本だとお墓に花を立てるが、ジャワでは花を撒く。お墓に行く前にいつもパサール・クンバン(花市場)に寄り、大量の紅白のバラの花(茎はついてない)を買う。お墓に着くとバラの芯をぬいてほぐして花びらだけにしてしまい、それを参列者がお墓に撒く。そうそうジャワの墓石は横長で、その石の上にずーっと花びらを撒くのである。石をまだ建てていない内は墓標(頭の位置と足の位置に標が差し込まれている)の間にずーっと花びらを撒く。それから前日の法事の時から用意していた紅白のバラの花びらを浮かべた水(クンバン・スタマン)を持っていき、それも交代で撒く。クンバン・スタマンというのは飲み水なのだそうだ。精霊にはただの水より良い香りのする水の方がおいしいらしい。お墓にはクンディ(水差し)がよく置いてある。これは埋葬の時に置くものだ。だが先生がクンディに水を満たしたり、あるいはそれで墓に水を撒くというシーンは見たことがない。普通はこれに水を入れるのかもしれないが、私は知らない。それから食べ物は供えない。

お祈りは皆それぞれにしている。先生の一族はイスラムの人が多いが、カトリックもいる。私はお経を心の中で唱えて合掌する。最初は多数派に合わせてイスラム式ポーズをとったこともあるけれど、どうも祈った気になれないのでやめた。やはり自分の思いが伝わるやり方で祈れば良いのだ。あとジャワの人は墓石に両手を置いたり添えたりして祈ったりすることがある。日本では見ない光景だが、私も合掌したあとやってみる。墓石はあったかくて故人と対話しているような気がする。

お祈りが終わるとスナックがある。家から水とおやつを車に積んで運んできているのである。お墓でものを食べるということに最初は非常にびっくりしてしまった。沖縄では一族が墓参りしてそこで食事をするという風習があるらしいが、亡くなった人にはお供えせず、なんで墓参りした人だけが食べるんだろう?と思ったものだ。小さい子達ははしゃいで、墓の周囲に植わっているバナナやブリンビンなどを採って食べている。これも驚きである。墓にあるものを採ったり食べたりしてはいけないと私は言われてきた。でないと死人に引きずられてしまうからである。ジャワではそういうことはないのだろうか。

遺族だとあらかじめ墓守に連絡して行くからそういうことはないが、突然墓参りに行くとサイン帳が差し出される。芸大の創立記念日の行事で芸大関係の音楽家、舞踊家の墓巡りに参加したことがある。この時は行く先々で記帳した。こういう人がお参りしてますよというのを遺族に見せるのだろう。

ということで、別にジャワでお彼岸に墓参りするなんてことはないのだが(たぶん)、なんだか墓参りのことを思い出したので書いてみた。9月になるとだんだん日も短くなり、朝夕が涼しくなり、虫の声もかすかになって、寂しさやもののあわれが身に沁みてきたり、亡くなった人のことをしみじみ思い出したりする。こういう感じはジャワにはないなあといつも思う。9月は日本にいるのがいい。(10月号でこういうことを書くのは間が抜けている気もするが)



手風琴の旅、ウルムチへ  御喜美江




9月2日午後3時に成田を発ち、北京経由で新彊ウイグル自治区の首都ウルムチに着いたのは夜中の2時だった。地図をながめると、2日前パリからロシア上空を飛んで成田へ着いたその道のりを、また半分戻った感じだ。地球の東西を行ったりきたりすると時差がゴチャゴチャになって、昼と夜の感覚があいまいになる。それでいつでもどこでも“座る”と睡魔が襲ってくる。東京→北京→ウルムチ間の飛行は気流の変化が多いのか、まるで大型台風のなかを飛ぶようにドスン、ガタガタ、ドッカンと揺れに揺れたが、それでも自分は目を開けられず、ず〜っと寝ていた。

まずは北京空港でのこと:
ここでは大荷物の受け取りと国内線への乗り換えが心配で、「一人で大丈夫かな〜」と心細かったが、CA926機から降りると、そこには18年前、天津音楽院でアコーディオンを教わったという男性が現在は空軍音楽隊の団長となって、私の到着を待っていてくれた。そして彼のコネで荷物はすんなり裏口チェックインをした。あんなルートがあるとは知らなかった。誰もいないガランとしたホールに荷物を持っていくと、重さも大きさも量らないで、“1A”と書いてあるボードカードをポンと渡された。それは表情というものを全くもたず一言も喋らない制服の女性だった。そう、中国はドイツともオランダとも日本とも全然違う国なのだ。ここでは私も喋らない方が無難かなと思い、成り行きに任せていた。

あっという間に荷物は国内線へと進み、ウルムチ行きの便まではまだ4時間もあるので、団長と北京中央音楽院アコーディオン科教授の曹氏と私の3人は、空港内のレストランに入り、まずは再会を青海ビールで乾杯し、懐かしい天津餃子で夕食をとる。2人とも18年前の資料や写真をカバンいっぱいにつめて持参し、それは大切そうに一つ一つ見せてくれたので私も胸が熱くなった。曹氏には彼のドイツ留学中、何度か会っていたが、団長はまさに18年ぶり。初めは誰だか思い出せなかったが、当時の写真で「これが自分です」と言われたら「あっ!」とすぐわかった。そうそう、彼は当時、人気俳優にでもなれるくらいの超美男子だった。あれから多分体重が20kgくらい増え、貧乏学生から(曹氏曰く非常に金持ちで裕福な生活をおくる)団長になった環境の変化が、彼を別人のようにしたのだろう。でも話をしていると昔のままで、目は涼しく、笑顔は優しく、心配りは細かく、太って顔がテカテカ光っていても、今なお“いい男”であることには変わりない。団長さん、さぞかしもてることでしょう。

さて、深夜のウルムチ空港では張教授、王氏、そして今回通訳をしてくれるSong Na(宋娜)が出迎えてくれた。真っ暗なので景色は見えないが、乾燥した涼しい夜風が肌に爽やかだ。「ホテルは大学のもので近代的ではありませんが、食事がおいしいのと大学の構内にあるので近くて便利ですから、そこにしました。」と言われ、大きなゲスト・ルームに入る。そしてここから、あるときは夢のような、あるときは悪夢のような12日間がはじまる。

鼓膜が壊れるほど大きい人々の声・四六時中卓上を交差する携帯電話・車の騒音
標高5445mの真っ白な博格峰・天地の碧く美しい湖水
猛暑のトルファン盆地・地面が89度に燃える火焔山・砂嵐
カザフ遊牧民が住む蒙古苞
草原を走る馬・砂漠をゆく駱駝・絶壁の岩山に住む野生ヤギ
甘く瑞々しい葡萄・ハニメロン・スイカ。
地平線まで続く綿畑・雄大な天山山脈とその雪解け水で砂漠を潤す無数の灌漑水路
一日3食の羊料理・高粱焼酎・毎晩の宴会
ウイグル民族の歌と踊り・衣装・食物・生活様式
演奏会・講習会・授業
大学ホテル・ウイグル街での買物etc.
以上、どれもこれも私にとっては初めて見るもの聞くもの、まさに新体験の連続だった。

ウルムチはその位置がほとんどカザフスタンに近いのに、政府からは“北京時間”を強いられているため、実際には2、3時間ずれていることから朝も夜も遅い。ウイグル族と漢族がここでは最も多いが、カザフ、オロス、モンゴル、回族などの少数民族も集まっているウルムチは、町中を歩いていると一瞬どこの国に来ているのか分からなくなることもある。時間も言葉も宗教もさまざまなので、まあなんというか全てがマルチである。そして初対面の人には必ず「この人は名前を×××といいます。○○族です」と紹介する。

一度日本語の通訳をしてくれたウイグル人女性と一緒のとき、『老人病医院』というのが目に入ったので「ここではどんな老人病があるのですか」と聞くと「血圧問題か心臓病です」と言う。「アルツハイマーなんてありませんか? 年を取ってボケることはありませんか?」の質問に「それは多分ないでしょう。大都会の人々はいつも緊張しているので、そういう病気になるのでしょう。ウイグル人は緊張していません。決まり事も少ないし時間もあまり守りません。みんなのんびりと暮らしています。でも将来はウイグルにもそういう病気がくるかもしれません」と。う〜ん……、この言葉、しばらくは頭の中から出ていかなかった。そう、ここでは緊張しない生活が一番あっているのだ。

今回は新彊師範大学の招待で、レッスンを4日間、ソロリサイタル1回、レクチャー1回を行った。その後の6日間は観光であった。そしてこの6日間が長かった……。

リサイタルの『御喜美江:著名手風琴演奏大師独奏音楽会』は美居物流という見本市会場で行われ、だだっ広いところに1000人以上の聴衆が入るので演奏はPAを使うと。はじめは、PAなんていやだな、困ったなと思ったが、試してみると右と左にそれぞれマイクがあるのでこれが結構便利。「今日はこれを利用しよう! 強調したい声部、きかせたいほうの手など、マイクに近づけるだけでいいわけだから、これってちょっとはまりそう〜」なんて一人思ったのも、その他があまりにも大変だったからかもしれない。

ゲネプロ:
ステージ上は照明を冷やすファンの音がゴーゴー鳴っていて、自分が何を弾いているのかわからない。
「これって本番もそうなの?」美江
「本番は消します」スタッフ(Naの通訳)
「でもそうしたら本番はステージ真っ暗?」美江
「それは大丈夫です。心配には及びません」スタッフ(Naの通訳)
「……そう、でも今ちょっと消してもらえません? このゴーゴーって騒音ナシでちょっと弾いてみたいから。PAの音量もわからなし」美江
「今は消す人がいません。でも大丈夫。心配には及びません」スタッフ(Naの通訳)

まあ全てがこのような調子で、「心配するな」と言われても次から次へとハプニングは起こる。楽屋は大変立派な会議室だがトイレまでは10分くらい歩く。近道をするには石のように重い仕切りのドアを一枚横にずらさなくてはならない。腕がへし折れそう。

そして上手から出て来てステージの真ん中までは80メートルくらい歩く。これが楽器を持っているとかなり大変。そこで第2部のあたま、司会者が大声で喋っているとき、「もうそろそろ出番かな」とステージへ進み高い階段をのぼり座って待っていた。すると司会者が「では第2部を始めます! ユーシ〜イ・メイチャン(御喜美江)どうぞ!!」と上手のほうへ手を高く上げている。でも私、もうここにいるんですけど……。それで私が「ハロー」と手を振る。はっと驚いた司会者が後ろを振り向く、と同時に1000人の聴衆が大爆笑。ものすごい音響。いったいここで著名手風琴演奏大師こと私は、何をやっているのだろうか。

演奏中は携帯電話の着信音こそ2、3回聞いたが、しかし他は演奏が始まると大変静かだった。演奏している間だけは、なぜか私も心おだやかで、不思議と演奏のみに集中できた。ゲネプロでゴーゴー鳴っていた騒音も消えていた。大きなステージは私の座っている場所以外、真っ暗だった。1000人の聴衆も真暗闇の中で、さっきの大爆笑がなかったら聴衆がほとんどいないコンサートと自分には思えただろう。

この晩、高橋悠治作曲「水牛のように」を演奏した。ウェンディ・プサードの詩は英語と中国語を司会者が、ドイツ語を私が朗読した。テンポの非常に速い曲、音数の多い曲、デッカイ音量の曲が大好きな中国人だが、「水牛のように」の詩と音楽は、本当に心で聴いてくれたと思う。演奏後のしーんとした静寂が、今でも忘れられない。

さて、羊の肉だけは嫌いな私だったが、新彊ウイグル自治区ではそんなこと言っていられない。朝食から羊が登場しそれは夜食まで続く。羊のスープ、羊入りのおかゆ、羊の餃子、羊の串焼き、羊のチャーハン、茹でた羊、炒めた羊、炭火焼の羊、パンの中に詰めた羊、羊肉の焼きそば、羊うどん……、もうこの12日間で一生分の羊を食べたような気がした。だって朝ベッドから起き上がってフーと鼻息を出すと、それが羊の匂いなのだから。歯を磨いても鼻息は羊。そうするとつい「あと何日……」と数えてしまう。でも時間はまるで止まってしまったように動かない。ため息をつけばそれも羊の香り。

『水牛』に書きたいことはまだまだ山のようにあるのだが、今月は『羊まで』で終わりにしたいと思う。

つらいこと、汚いこと、信じられないことも沢山あった。でも今ここ東京で何度も思い出すのは、ウルムチにおけるウイグル人、漢人、カザフ人たちの大らかな人柄と明るい笑い声、強靭な体と澄んだ瞳、そして夕日に輝く壮大な天山山脈の眺めだ。私の両手をしっかり握りながら「次回はタクラマカン砂漠とホータン(和田)とサイラム湖へ行こう!」と張り切っていた張教授の声も忘れられない。

(2004年9月29日東京にて)



路傍の放浪者(3)   スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子 訳




歩道橋の時計が1時15分を指している。彼には時間はまだ山ほどある。事実、時間はあり余っているのだった。事務所だって道路のそこかしこに門戸を開放している。諸物価高騰の時代にかかわらず料金だって適切というもの。たった1バーツで仕事ができるのだから。わずかな投資でできる個人営業をしているのだった。彼が売っているのはこころと頭からでてくるもの。彼のように痩せこけて骨と皮みたいでは肉体労働を売ることはできそうもない。手の指の爪、足の指の爪、も売れないだろう。血液ですら売れるかどうか疑問だった。

彼は日々何かを売ることで食いつないでいる。買うために売る。あたかも食べるために排泄し、排泄するために食べるが如く。

あと1回電話すれば今日はもういい、と思った。連絡すべきところがもう少しあったのだった。いい結果がほしければもっとたくさんかけるべきなのだが。何故なら電話番号が彼の希望を繋ぐものなのだから。電話番号こそ彼がひたすら時間と忍耐を費やしている希望だった。強烈な太陽と風にさらされた簡易生活者の。

「や〜、おまえか。。。ラジャダムナン通りで行き倒れさ。暑くて死にそうだよ」
3時である。相変らずかんかん照りの電話ボックスの中、ようやく友人のひとりと電話が繋がった。
「おれのことを心配してくれることはないさ。女房こどものことを心配してやれ。おれはこの100倍もつらい経験だって生きてこられたんだ。おまえに来てもらうなんて必要はないよ」
「ま、ほんとに死んじまったら這ってでも会いに行くよ。這うこともできなかったら、そのときはそのときさ」
「おれにその番号を急いで教えてくれ」
彼は知りたいことを伝えた。
「ありがとよ。あ〜、もう1回たのむ、ん〜。。ん〜。。ボールペンがだめだ、よく書けない。ん〜、繰返してくれ。よしっ、これでいい。じゃあまた会おう」
彼はここで電話番号を3件ふやした。小さな希望をふくらませる番号。

日がいくらか傾いてきた。行き交う人も次第に増えてきている。さまざまな車輌がまるで闘いを挑んで吠えかかる野獣たちの如く荒々しい騒音をたてて行き交う。今日はもう電話で気をもむのもこれでおしまいだ。彼のささやかな個人営業が、あまりついていたとはいえない1日を終えたにすぎない。何枚ものコインを使い、ひたすら消耗した。そして彼がこの苦労をねぎらうために立寄った食堂で注文したのはミネラルウォーター1本と氷だけであった。

夕暮れが近づいていた。休みをとってしかるべき時間になったようである。彼の歩みは徐々にのろくなっていった。汗がほとんで出ないですむようなのろさ。。に。そのとき彼の脳裏に東北の澄んだ渓流とニッパヤシの小屋の風景がふいに浮かんだ。そのしあわせな記憶がその日の消耗と疲労感を拭い去っていくのを彼は感じた。

大型店のショーウインドウの前を通りがかった、そのとき、彼は不可思議な何かを見たような気がして思わず立ち止まって眼をとめた。それは色も形もさまざまなデザインの電話機だった。華やかな女性たちが並んでいるようにも見える綺麗な模様を彫りこんだものもあるし、棚の高いところには銀色や金色のものが置かれている。それに。。金製の電話機もある。。こいつじゃないだろうか、金余りの家のバスルームに置いてあるとかいうニュースになったのは。

どれもこれも綺麗で可愛くて、手にとって使ってみたい、大事にしたい、という気を起こさせるような高価な商品ばかりである。彼らは空調の効いたショーウィンドウの中に収まっていて、彼のなじみの古ぼけた赤い電話機などおめにかかったこともない。あいつらはこんな場所に並べられるものではないのだから。

決してそんな日は来ないのだ。あいつらは誰もが利用するただの公衆電話にすぎないのだから。

(完)



循環だより10月   小泉英政




  水を求めて

天気予報では明日は雨が降るということだった。この時を逃してなるものかと、サニーレタスとモロヘイヤの苗を植えた。なにせ、畑は日照りでカラカラだった。

管理機と呼ばれる小型の機械を使って、畑に溝を作った時には、地面の底から湿り気を含んだ土が顔をのぞかせた。でも、落ち葉堆肥や米ぬかの発酵肥料をその溝に入れ、足で土を寄せ、その溝をふさぐ作業をしているうちに、土はすっかり乾いた色になっていた。午前中にサニーレタスの苗を植え、カンカン照りの日中は避け、夕方にモロヘイヤの苗を植えた。苗はそれぞれ箱にバラまきし、さらにそれをプラスチックの連結したポットに移植して育てておいた。苗には少し土がついているとはいえ、予報がはずれた時には、果たして根づくかどうか心配だったから、モロヘイヤの時はさらに念入りに定植した。

土を少し掘り(あまり掘りすぎると米ぬか発酵肥料にさわってしまう)、苗を置き、すぐ周囲の土をかけるのではなく、管理機の通っていない場所の地面を掘って、少し湿り気のある土を手で取り出しモロヘイヤの苗をかけた。そして両手でぎゅっと押さえた。40メートルほどの畑にサニーレタスを8列、モロヘイヤを6列植え終えるころには暑い一日が暮れかかっていた。あとは雨を待つだけだった。

人の畑ではスプリンクラーがフル回転していた。スプリンクラーのない人はせっせと軽トラックで水を運んでいた。水をあげると水を欲しがる作物になる。水をあげないと必死に根を伸ばし、野菜は生き延びようとする。その生命力を信じて、ぼくはここ何年も、水を与えない農業をしてきた。でもこの猛暑と日照り、雨を待たずにはいられなかった。

しかし、予報ははずれた。その後も太陽は照り続け、6枚ほどあったサニーレタスの苗は外葉から1枚ずつ枯れていき、昼間は生きているかどうか分からないほどしおれていた。モロヘイヤの苗も力なくうなだれていた。

不安な日々が何日たったろうか、わずかに残ったサニーレタスの中心の葉に赤みがよみがえってきた。地中にある命の水をつかみとった知らせだった。モロヘイヤの苗も息を吹き返してきた。植えた時と大きさは変わらないのだが、強靱な姿をしている。野菜は強い、すごい、どこにそんな力を秘めているのだろうか。そんな野菜たちに励まされて、ぼくもこの夏を乗り越えた。ありがとう野菜たち。


  ミミズが山からやって来た

ナスやピーマンなどの苗を育てる温床を、今までは自宅のそばに作っていたのだが、今年から出荷場の建っている場所に移した。研修生の人たちに苗作りを覚えてもらうためだった。その場所は赤土がむき出しになったやせた土地で、ミミズたちの力は借りられないものと最初からあきらめていた。

苗床は、昔ながらの踏み床温床で、落ち葉に水をかけながら踏み込んでいって、その発酵熱を利用するのだ。その発熱自体にはミミズの力は必要ない。苗作りが終わって、踏み床の落ち葉を堆肥や床土として利用しようとする時、そこにミミズが関わっていたかどうかが、大きな違いとなってあらわれる。フトミミズが住んでいた温床の落ち葉は、その働きによって、ボロボロに分解されて良好な堆肥となっているのだ。

「この赤土じゃ無理だ。あと何年かすればしだいに増えてくることもあるだろうけど、今年は無理だ」、そう思いながら、ナスやピーマンの種をまき、発芽を喜び、そして第一回目の移植の日を迎えた。踏みこんだ落ち葉の上に、古い毛布をひき、その上に種を蒔いた育苗箱を並べてある。苗は本葉5枚ほどになって移植時だ。今まで、フトミミズはいないものだと思っていたから、毛布の下などのぞいてもみなかった。実際、温床のすぐとなりにはカヤぶき屋根のカヤを積み込んだ場所がある。解体した一軒分の屋根材料をもらって、カヤ堆肥にしようとしているのだが、そこにミミズの姿は見えなかった。

移植のため育苗箱を動かして下敷きの毛布がずれてしまったので、直そうとして毛布をめくってみたところ、ニョロリとフトミミズが顔を出した。ニョロリ、ニョロリと何匹も体をくねらせて、落ち葉の中に隠れていく。

「お前たちはどこから来たんだ」と聞くと、「教えないよ」とでも言うように、ニョロリ、ニョロリともぐっていく。その時、とっさにミミズがそこにいる理由が分からなかった。

ある日、踏み床温床に入れないでおいた袋に入ったままの落ち葉をカヤの堆肥の上にあけたところ、そこからフトミミズたちが何匹もあらわれた。「おや、お前たちはもしかした、まだ卵の時に、山で集められた落ち葉にまぎれて、ここまでやって来たんじゃないのかい」

ミミズたちは相変わらず、ニョロリ、ニョロリと答えをはぐらかして、落ち葉の中に遅れていく。その落ち葉はミミズたちに分解されてボロボロ状態で、いい堆肥となっていた。「これは大発見! ミミズが山からやって来た」。 



10月の夕暮れ   高橋悠治




温度も湿度もいままでになく高い夏が長くつづき 
そのあいだには 台風が 
いつになく気温の上がった海水からエネルギーを吸い込んで 
なかなかうごかない 
カリブ海でもおなじようにハリケーンがあばれていた 
温暖化ははじまっている 
恐竜が滅びたときの気温変化は6度だったらしいが 
人間のシステムも巨大化して 合意の成り立つ範囲を越えている 
このぶんでは あまり未来はないな 
と思っているうちに 
いつのまにか 10月になる 
満月を見たのは2日前だった 
昨日は月齢カレンダーを100円ショップで買った

ピアノの練習をすこしするだけ 
音楽をつくりたいと思っているだけの日々 
本をよむ気も起こらず 
それでも本屋に行って あれこれの本をとりあげ 
数ページめくって 買わずに出てくる 

外を歩くこと 
時には手抜き料理をつくり 皿を洗うこと 
ピアノの上で指をうごかすこと 
こうして一日がすぎる 

歩く人 話している人 
だれもがいそがしくはたらいている この東京で 
たった2年前までは 
そのときやっていることが やらなければいけないことで 
その次の日も時間がたりなくて 
いくつかのことを同時に考えている 
そんな生活になんのうたがいももたなかったが 

しばらくのあいだ しごとから離れていただけで 
いままた いくつかの計画をもつ毎日にもどったというのに 
手をうごかすたびに これでいいのかと思いながら 
やっていることに すぐあきてしまい 
外に出れば たちまちあたりは暗くなる 
こんなにしびれた指ではピアノも弾けないと思いこんでいたが 
どうやらしびれではなく 指先が乾燥しているのか 
まちがいながらでもピアノは弾けるが 
ページをうまくめくれない 
技術を忘れたのではないかと 
本屋に行って ピアノ奏法の本を拾い読んだが 
新しいことは なにもなかった 
自信がなくなってあたりまえ 
ありすぎた以前のほうがおかしい 
と 言われてみれば そうかもしれない 

作曲もできないと思いこんでいるが 
書く紙がないだけかもしれない 
そんなちょっとしたことにひっかかってしまうのは 
年寄りがちょっとした段差につまづくのとおなじだな 
バリアフリーの設定が必要か 
足をすこしだけ上げる訓練をしたほうがいいのか 

そうやってぐずぐず暮らしているすぐ隣では 
美恵が木村迪夫さんの詩集を1冊ずつつくっている 
紙を買ってきて 家のプリンターで印刷し 
折りたたんで表紙をつけ 糸でかがって 
朗読CDといっしょに袋に入れる 
1日に何冊できるのか 
だが 詩集はそんなに売れるものではない 
傾向はまったくちがうが 
北園克衛も本のサイズや活字のレイアウトを考えぬいて 
150 部くらいだった 
それを買った人たちは 手ばなさないでもっていて 
時々 本にさわってみる 
ひらいて すこしだけよむこともある 

小さな本が 世界のあちこちでつくられ 
だいじにされている 
オーストラリアの詩人で活動家のウェンディ・プサードから 
朗読カセットといっしょに 
その詩をおさめた薄い本「Ground Data」がとどいた 
これは水牛の来年の計画のため 

こうして 未来の約束にひきずられて 
今日もまた暮れる 
 



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