2004年11月 目次
水牛のみなさん、こんばんは! カラワン、荘司和子
種子島だより 佐藤真紀
翠の虱(1) 藤井貞和
日本の獅子舞、インドネシアの獅子舞 冨岡三智
製本、かい摘まみましては(2) 四釜裕子
こわいこと 御喜美江
ストレート・ノー・チェイサー 三橋圭介
しもた屋之噺(35) 杉山洋一
循環だより 小泉英政
道教をめぐって 石田秀実
バンダ・アフロ・レゲエ 高橋悠治
好意を感じあう
互いに想いをはせる
それは喜ばしいことではないか
そう、わたしたちはそうしてきた
長いときを経たけれど
これからもそうしていくだろう
わたしたちには
倦怠ということばは無縁(スラチャイ・ジャンティマトン)
初めて会ったときの印象
ちょっぴりの違和感
けれども親しみがあふれる
それが友情のはじまり
これから幾歳月を経ても
変わらない友情(モンコン・ウトック)
10月30日の夕方、冷たい雨の中新大久保の駅からカラワン・バンドのコンサート会場へ歩いて行くあいだ、こんな天気では人が集まらないのではないか、と不安がつのりました。入り口に入ったところですでに聞きなれた彼らの音楽が聞こえていて、おやまあ、もう始まっているのでした。タイタイムでは30分は遅れるのは当たり前、とのんびりでかけたのですが、ここは日本タイムでした。
会場はすでにほとんど満席、カラワンの古くからのファンでいっぱいで、舞台と会場のあいだには交流の暖かい流れがただよっているようでした。田川律さん、西沢幸彦さん、吉原すみれさん、福山伊都子さん、ロバート・リケットさん、小泉英政さんなど水牛の古い仲間や友人たちと会えて、わたしもうれしかったのですが、スラチャイもモンコンも、この20年の交流でなによりもよかったこととしてよき友人を得たこと、をあげていました。
上の短い詩はコンサート後あわただしい中で〈水牛〉のみなさんへのひと言、として書いてくれたものです。(荘司和子)
種子島に行くことになった。友人が市議会議員をやっているので、ぜひ、イラクの話をしてほしいというわけだ。
まず、種子島につくと、種子島さんが出てきた。領主の末裔だそうで、古びたホテルを借りてNPOセンターを運営している。「貨幣を作ったんですよ」といって見せてくれたのは1ドンガ。なんとなく思い出すのはイラクの旧紙幣。サダムフセインの顔が描いてあって、ちゃちっぽい印刷はほとんど価値がなかった。イラク人がチップを要求してきたときに、「こんなんじゃだめだ。ドルをよこせ」という。「サダムは大統領だろう」といっても聞かない。イラクの貨幣は250イラクディナールしかない。本当はいくつかあったが、ほとんど見たことがない。これが8枚で1ドルくらいのレートだった。私は面倒くさいので1枚1サダムと呼んでいた。
「ドンガですか?」ドンガさんっているんだろうか。
「いや、これは、ポルトガル語で、俺という意味なんです」
「おれ、おれって詐欺とは違うのでしょうね」
「これはですね、ボランティアとかの労働に支払われるものです。つまり皆がボランティアをやってドンガをもらって、お店で買い物をする。そうすると、公共サービスもボランティアでまかなわれ、財政が黒字になる。そうすると国からの補助金も要らなくなって……」
「まさか、種子島が日本から独立するのではないでしょうね」と私が問いかけたら、種子島さんは含みのある笑い方をした。ただ、問題は、何人かの島の人に聞いてみてもドンガ札を持っている人は、一人もいなかった。独立まではまだまだ時間がかかる。
種子島の近くには、馬毛島という無人島がある。1999年はじめ、原子力発電所から出る使用済み核燃料の貯蔵施設を種子島に誘致してはどうかという話が持ち上がり、その後漁業関係者を中心に「リサイクル燃料備蓄見学会」ということで福島第一原発へ二泊三日の無料ツアーが行われ、これまでに400名以上の種子島住民が参加しているそうだ。海辺に造り、海水を使う核施設には漁業者の同意が欠かせず、そこに的を絞ったツアー斡旋は本格的な立地をめざす動きと考えられている。プルトニウムを含む高レベル放射性物質が年間500トン、総量5000トンも運び込まれるという中間貯蔵施設ができる可能性がある。現在は、採石業者が入って砂利を取り出しているそうだが、すっぽりと穴の開いたところに、そういった核物質が埋められるかもしれないというのだ。馬毛島には、馬毛鹿という珍しい鹿がいるので、自然保護の観点からも、採石指し止め訴訟を起こしているそうだ。
種子島には、サ−ファーといわれる人たちが本土から200人くらい移住してきているそうで、先住民と共存している。「サーファーは海を愛する人たちなのよ。それで彼らは一生懸命、有機農業とかやって生計を立てている」そこで彼らが作ったお米がサーファー米として、かわいらしいパッケージで2合、320gで売っている。お米を2合だけ買うというのもなんだろうかな。
島の中にはサトウキビ畑が延々と広がっていた。車の助手席で、興奮気味に私ははしゃいでいた。
「いやー、ゲバラを思い出しますね。アルゼンチンのボンボンがこういうところをバイクで旅したんでしょう。そこで見た搾取される農民たち。貧困。革命ですよ。革命」
「種子島ってね、搾取されたことがないのよね。皆土地持っているし。薩摩藩からも独立は認められていたみたい」
「え? 搾取なかったんですか。それは、それとして、もう少し若ければ私も種子島にこもって革命の準備でもするんですけどねぇ……」
「島の人たちは、温厚な人が多くて、朝から晩まで焼酎飲んでいて、革命って言う柄じゃないわよ」
なんとなく話が続かなくなってしまった。しかし、革命が必要な時代には違いない。
東京に帰ってくると、いきなり、イラクで人質事件が発生したという知らせ。残念なことに、青年の首は切り落とされて、やしの林に捨てられていたそうだ。なぜか星条旗がかぶせられていたという。
何もしないよりは正しい。
正しいよりも、
美しい本。
内容が暗すぎて売れない集をひらく。
「日本の」(と、)
「市民よ」、
とひらきながら。 写真集は語る、(それを
聴く。)
踊りませんか?
美しいことばのために。
浪費しませんか? かくまで世界は、
恋う美しさを、
だいなしにしている。
衛星たち、いまこそ、
くらげなす、
一ヶ月ののちには、
地球こそが過ぎる、
というような苦痛や、
花から抽(ぬ)きだした色(で塗る)。
なおも砂漠の劣化を、
火ですきにする?
王子さま、星のように、
身にともなう白いレース飾りにわたしを変えて。
そのいでたちで、
黒い軍隊からやってきて。
二十四歳の本で、
なにもしなかった、
何かせずにはいられなかったぶんだけ、
わたしを活人画の暗転とともに消して。
お母さん、
岩石のすきまで、
いっしょに暮らしたかった。
別れのあいさつをさがしに行った、
頭髪を住処にわたしは翠の虱に。
時代のせいにする直前で。(2004.10.29)
(黒い軍隊は「黒魔術」『ぼくの遺稿集』ローベルト・ムジールによる。戦争のないときには平和な臨終を迎えるまで、ほうぼうを歩き回る軽騎兵。地上のあらゆる軍隊にいるらしい。ロシアの小芸術劇場では七人のかれらが舞台に立ち、ぼんやりした光りのなかに分散していて、どくろと死者の肋骨のように見える白いレース飾りの黒い軍服を着せてもらってうたう、「聞けよ愛馬、この地上をひずめにかけよ」「おまえの幸せは戻らない、燕が住処を変えるとき……」。これはきっと、ハロウィーンのうたなのだろうと思って。「内容が暗すぎて売れない」本および「日本の市民」はノーマ・フィールド「戦時下の大学教室で原爆を考える」『前夜』創刊号による。「踊りませんか?」は浅野素女『踊りませんか?』、くらげなすは古い火星人の像、劣化は劣化ウラニウムです。いずれも句を使うのみで内容には渉りません。シラミが環境汚染で緑色に染まってしまい頭髪に住み始めたという童話だと思ってください。)
日本の獅子舞、インドネシアの獅子舞 冨岡三智
この原稿を書いているのはちょうど秋祭りの頃で、ふと獅子舞のことを思い出した。本当は私の地域では秋祭りに獅子舞はないのだが。ともかく今回は私の見たことのある獅子舞を紹介する。
●池田の神楽
のっけから話はお彼岸に逆戻りする。私の地域では、獅子舞は春と秋のお彼岸に門付けに来るものと決まっていた。池田の神楽といい、伊勢神楽の系統だったという。ただそのおじさんたちも昔は北陸から山陰まであちこち廻っていたらしいから、神楽の来る時期というのは地域により異なっていたかも知れない。そのおじさん達は私の両親が子供の頃から獅子舞をやっていて、私が高校に上がる頃まで来ていたような気がする。皆鬼籍に入って久しく、いまは担い手がいなくて途絶えてしまったみたいだ。
私が覚えている神楽は3人組で廻って来ていた。1人が獅子の頭役、1人が獅子の胴から尻尾?(辞書によるとホロというらしい)を肩にかけながら横笛を吹く役、1人が小さいシンバルを打ち鳴らす役だった。だが辞書によるとホロには通常2人の人が入るとある。両親が子供の頃(戦前から戦後始めにかけて)には、男衆さんも含めて総勢7、8人が大八車を引っ張りながら来たものらしい。田舎ではご祝儀は米などでもらうことが多かったから、それを載せる車とその車を引っ張る人が必要だったという。当時はこういう神楽グループがたくさんあったそうだ。
獅子は舞いの最後になると真剣を抜いて振り回し、邪気を祓う。獅子に頭を咬んでもらうと息災だというので、親が赤ちゃんを抱っこして獅子の口元に差し出すことがよくあった。どの子も獅子の顔を見るとひしって泣く。ジャワではスカテン[注・王宮モスクで巨大なガムランが演奏される行事]のときに赤ちゃんの頭をイスラムの大太鼓(ブドゥッグ)に当ててもらうことがある。これも息災を願う行為で、この光景を見ると私は獅子舞のことを思い出してしまう。どちらも頭を祓ってもらうのは、頭に人間の霊性が宿っていると考えるからかな、と思う。
一通り舞いが終わるとご祝儀を渡し、一服となる。こういう時はきまってお酒である。それもお猪口でなく、湯呑酒やコップ酒といくのが気風がいい。うちの父は酒飲みなので必ず一緒に飲む。母の実家ではお酒だけでなく、夏ならそうめん、冬ならお味噌汁を作ってもてなしたという。ただそういう家もある一方で、裕福であっても神楽が来ると戸口をピシャンと閉めてしまうような家もあったらしい。
こんなことを秋祭りになって思い出したのは、このおじさん達も亡くなって後のこと、秋祭りの頃に乞食神楽といおうか俄か神楽といおうか、が出現するようになったからだ。今年は見なかったが、あれはどうも、お祭りに便乗するアルバイトという感じがしていただけない。
神楽は門付けだけでなくて、神社の遷宮やお寺のお堂を建て直した時などにも上演される。この時には神社やお寺が特別に神楽を呼ぶのである。私も小学生の頃に近くの神社の遷宮で見たことを思い出す。その時は獅子舞の他に皿回し、それも単に手に持った棒の先で皿を回すだけでなくて、境内に綱を張ってその上に棒を立たせ、皿を回していたことを覚えている。こういうのも神楽の人たちの芸だとかで、とにかくたくさんの神楽芸が出てそれはそれは華やかだった。そして最後には餅撒きがあった。こんな盛大な神楽を見たのは私にはこれが最初で最後だった。たぶんこれより後になると、神楽芸ができる人もどんどん減っていったのだろう。
この神楽が私の原風景にあると言って間違いない。インドネシアでも道端でやっている芸につい惹かれてしまうのは、昔の日本の門付け芸を見るような気がするからだ。でも私が知っているのは神楽くらいである。両親は傀儡(くぐつ)師や法螺貝のおっちゃんなど他にも多くの門付け芸を見ている。法螺貝のおっちゃんというのは、まさに山伏の格好をして各戸を廻り法螺貝を吹く人らしい。単なる山伏とどう違うのか分からないが、よく来たらしい。これらの芸はみな昭和20〜30年代で廃れてしまったという。
●レオッグ
所変わってインドネシアの獅子舞を紹介しよう。バリ島のバロン・ダンスが有名だが、ジャワ島にもレオッグという獅子舞がある。東ジャワ州の一番西にある町、ポノロゴが有名で、私のいたソロから車で3時間くらいで行ける。
レオッグの頭部は巨大である。獅子頭自体は人間の頭にすっぽり被るくらいだが、その面の背後に孔雀の羽を放射状に張り合わせて団扇状にしたものがくっついている。遠くから見ると人間の肩から上に巨大な団扇が乗っかっているように見える。これは1.5m近くの高さがあり、重さは約60kgくらいあるという。レオッグは上半身を折るように前後に揺らせ、団扇で煽るような動きをすることがある。1つのクライマックスで、見ている人が必ずどよめく。
この巨大なレオッグには子獅子?がつきものである。その面は赤黒く、額の生え際に毛がついていて、日本の天狗の面をもっと素朴にしたような顔である。この子獅子はレオッグの周囲でバック転とかの曲芸をする。レオッグはトランス系の芸能だと言われており、異様な雰囲気がある。
ソロでは昔はスカテンの祭りになると、王宮広場にポノロゴのレオッグが来たものらしいが、現在は見られない。私が留学した当初には、スリクラン[注・イスラム断食月21日目夜の行事。王宮モスクからスリウェダリ公園まで行進がある]という行事でレオッグを見た。王族や王宮関係者、伝統兵、チョロバレン音楽、イスラム歌唱(サンティ・スワラン)などの行進があるのだが、その一番最後尾からレオッグがついて行く。ただし留学末期にはスリクランでレオッグを見なかった。それ以外にも、何かのフェスティバルやら独立記念日やらの折に目にすることがある。
●バロンサイ
最近インドネシアに登場した獅子舞として中国のバロンサイがある。共産党を非合法化したスハルト政権下では中国系の芸能も禁止されていたが、スハルトが倒れたのでバロンサイや竜舞(リヨン)が解禁された。私がいたソロでも、独立記念日や旧暦正月、その他のイベントがあるたび中国系の人達の獅子や竜が通りを練り歩くようになった。
バロンサイは白地にピンクか白地に水色という体色で、遊園地にいる着ぐるみ人形が巨大化した感じである。それに漫画のようなぐりぐりの目つきで、長いまつげ付きまぶたがパチパチとまばたきするというファンシーな顔つきである。あの獅子は中国の歴史の中で一体いつ頃出現したのだろう。日本の獅子舞は中国の唐から伝わったはずだが、一体いつの間に中国人の美意識は変わっていたのであろうかと、ショックを感じてしまった。
この獅子は曲芸をよくする。ソロ一番の大通り、スラマット・リヤディで大きな脚立を使って2匹のバロンサイが芸をした時には、獅子というよりは巨大な猫が遊んでいるみたいで壮観だった。邪気払いという意味合いはあの巨大猫にもあるのかどうか、あるにしても私にはあんまり感じられないのだが、これはこれで芸として楽しい。
大手製本工場を見学したとき、そのスピードに驚いた。いくつもの工程別に機械が並び、そのあいだをベルトコンベアーがつないでいる。流れだけを追っていると、見学はあっという間に終了。ちょっと待て。最初に戻り、上製本の工程をひとつずつみせてもらう。
印刷会社から運び込まれた紙の束はまず、両手でウネウネと巨大なこんにゃくをあつかうようにして突き揃えられて断裁される。次に、折り、貼り込み、丁合いがとられ、かがり、均し、下固め。三方断裁して中本完成、そのあと、表紙を貼る工程へ運ばれる。手間がかかるのはかがりの工程で、見学した工場には最速200回/分という全自動回転式のイタリア製糸かがり機が並んでいた。24時間稼動、丁合い機に連結可能というが、現在は、小ロット対応のために単独で、しかも四六時中稼動することもあまりないようだ。
いずれの機械もスピードが速いので見落としがちだが、動作にはさほど複雑なものはなく、手の動きを彷佛とさせるものも多い。多くの製本会社では1980〜90年頃に本格的な機械化がなされ、以来買い替えることなく現在にいたっているらしい。「製本は印刷に比べて格段に処理能力が高いところまできてしまった」と、製本機械メーカーのひとに聞いたことがあるけれど、もはやスピードは充分、動いてくれればいいというところまできている。
印刷の発注者は今後ますます市井に溢れ、製本会社が印刷会社から大量受注するダイナミックな商売は減っていく。 印刷物の資材であるインキや紙の総量はさほど変わらないのかもしれないが、製本会社は、巨大化した機械とそのための地代を、これからどう回転させていくのだろう。機械を細かく分けて組み直し、小ロット対応のミニ製本工場をブース貸し、なんてできたらいいのに。とにかく機械製本の現場を見てわかったけれど、実際の稼動時間より、設定やメンテナンスの時間のほうがむしろ長くて、製本代とはつまりその全体の時間代なんですね。
ポエトリージャパンのメールマガジン「ドルチェ 2004.10.21号」で、自費出版レ ーベル「祐園」のミニ版のスタートが報じられた。これは、文庫サイズで最大80ページ/表1表4はフルカラー・PP貼り(マットとグロスから選択)/100部で198,000円(消費税込)というもので、これまで同所が用意していたサービスよりさらに小さなパッケージである。ポエトリージャパンは、詩を好む人たちが集うウェブサイトを運営し、ソフトとハードの両面から丁寧にそのインフラを整えてきた。活動の考え方や経緯、これからやろうとしていることが逐次公開されている。自費出版についての考え方や段取り、デザインについても、フォーマット決定のいきさつがわかりやすく示されており、自分の考えと照らし合わせて読むことができる。
その姿勢にはおおいに共感。でも「女性が片手で操れるように」というデザインコンセプトはどうかな。昨年同所が刊行した『パイロットボートの深夜行』と装丁は同じだというのでめくってみるが、用紙がみなつるつるし過ぎ、ノドのあきももうちょっと欲しい。片手でめくるには、全体に張りがあり過ぎるという印象か。読み終えて、奥付を見る。2003年11月19日初版印刷、2003年11月30日初版発行、著者:北川浩二、発行者:木村ユウ、発行所:ポエトリージャパン、印刷製本:株式会社雄文社、写真:新稲歩、詩題訳:はやかわあやね、support:キリンビール株式会社。事情は知らないがさすがキリンだ。私は毎晩キリンです。
日本における台風の被害はドイツのテレビニュースでも何度か放映された。そこでファックスによる陣中見舞いを東京の母に送った。するとすぐに折り返しの電話がかかってきた。
母「ちょっと前にホーント大きな地震があったの!。それが美江からの今のファックスとほとんど同時に、また2回目の地震がきたのよ!」
私「え〜? この前みたいに大きなの?」(10月6日江東区は震度4)
母「もっと大きいかもしれない……とにかくまだ揺れてるの」
私「わぁ〜こわい! ママ一人でしょう? 大変、大変」
それからすぐインターネットで毎日と朝日のニュースを追う。相当大きな地震らしい。まだ余震が続いているのか心配で、日本へ電話をかける。
私「今インターネットでニュースを見ているけど、すでにかなりの被害みたい。新幹線が史上初めて脱線したり、家宅もたくさん壊れて死者現在3人、怪我人多数、それから土砂崩れで生き埋めの人たちもいるらしいって。イトーピアは本当に大丈夫なの?」
母「うん、大丈夫。でも10階の祐子ちゃん(姪)からさっき電話があって、マンション10階の壁にひびが入って10cmくらいガバッと開いちゃったそう。今管理の人たちが点検しているそうよ」
私「うわ〜、恐ろしい……」
母「避難するときのリュックサックはもう作ってあるの。薬、靴、下着、懐中電灯なんか入れてある。念のためもう一度チェックしておくけど」
私「あとペットボトルに水、パスポート、現金を追加して」
母「祐子ちゃんがね、逃げるときはおばちゃんも一緒よ、って言ってくれた」
私「そう、それはありがたいこと……」(胸がじ〜ん)
私は地震がとてもこわい。10月6日はまだ東京にいて、茨城県のほうで起きた地震を江東区の14階で体験した。翌7日には日本を発つので荷造りを仕上げ、お風呂から上がってきた母と鏡の前で帽子をあれこれ試しかぶりして遊んでいたら、ぐらっときた。と、すぐさま強い横揺れになり、私は顔面蒼白。まずは洋服を着なきゃ、と言う冷静な母の声に、私は椅子にかかっていた服に飛びつき母にそれをわたす。とその時ものすごい音が背後でした。その音だけでもう腰が抜けそうになった。見ると食器棚の上にあった猫型CDケースが床に落ちて、CDが50枚くらい部屋中に散乱した。なぜか私の弾くスカルラッティのCDだけが派手にぶっ壊れていた。「玄関のドアを開けてくるから、美江ちゃんはテレビのNHKをつけて」と母は言う。相変わらず落ち着いている。それで急いでテレビをつけようとパチパチ、ボタンを押すのだが、なかなかつかない。何しろまだぐらぐら揺れているから怖くて立てない。床に這いつくばってパチパチ、パチパチ。あ〜、やっとついたNHK。息を止めて画面を凝視していると、出てきた出てきた地震速報!
速報によると、ちょうど3日まえ茨城県立近代美術館においてバイオリンの山田百子さん、ハーモニカの崎元譲さんと3人で演奏会をした、どうもそのあたりが震源地らしい。「水戸にいなくてよかったわね」と母は笑っている。「ほんと、ホテルの部屋は11階だったから、一人だったら怖くて気絶したかもね」と、これは本心。それにしても日本人は何と地震に対して冷静なのだろうと、つくづく感心してしまった。マンションの玄関から顔を出しても、誰も騒いでいない。すごいな。
今回は台風もこわかった。うちは14階の南西角なので台風の暴風雨はもろに受ける。台風21号が通り過ぎたとき、西側の窓を頭にして私は寝ていたのだが、4時半ごろあまりの轟音に目が覚め、起きてカーテンを開けると一寸先も見えない。まるでウォッシャーの中にいるみたいだ。ガラスの隙間から雨水が入ってこないかと心配でたまらない。どうしようか……と母の部屋を覗いたら、安らかにおねんねしていた。なるほどー。いい年をして地震だ、台風だ、といちいちビクビクする自分の、何と情けないこと。
尚、そのあと日本列島に上陸した台風22号、23号は、もっともっと大型だったらしく、テレビのピクチャーを見ただけで、もう怖くて足がすくみそうになった。被害に遭われた方々は本当にお気の毒だ。10月下旬にこんな大型台風がくるなんて、いったいどうしたのだろう。ネットで天気予報図を見たら、台風24号というのもすでに存在するらしい。「もういいかげんにしろ!」って天にむかって叫んでみたが、返事はかえってこない。
今ラントグラーフは紅葉の美しい秋で、しかもこの季節には珍しく晴天が続いている。ただ気温は低く朝晩は4度くらい。日もどんどん短くなる。庭はすでに落ち葉の山だが、掃いても掃いてもきりがないので、風に鳴る衣擦れのような落ち葉の響きに耳を傾けながら、今日は一日家の中にいた。
27日からはリトアニアの首都ヴィルニウスに行くが、こちらはきっともう冬だろう。でも寒い、冷たい、暗い、なんてもう辛くない、地震と台風のこわさに比べたら。(2004年10月23日ラントグラーフにて)
ストレート・ノー・チェイサー 三橋圭介
かれはスポーツする洗練された肉体をもたない。鍵盤を駆け抜ける指、これほどかれから縁遠いものはない。帽子と大きな指輪をトレード・マークに、熊のような体でかかとを前にすべらせるようにリズムを取りながら、不器用に立ち止まりながら打つ。でてきた音は和声の中身がすっぽり抜けたむき出しの不協和のぶつかり。つぎはどうしよう。かれは瞬時に考える。時々、打つべきところで迷って、手、指は行き場を失って宙を切る。
かれのはじまりはジャズが形式ではなく、黒人のジャズがジャズとして生きた時代。パーカー、ガレスピー、パウエルらと共にビ・バップ創世の場に立ちあった。でもすこし距離をおきながら、流れるような友人パウエルのピアノをのぞいていたにちがいない。
1964年になってようやく世間がかれを認めたとき(ドルフィーが死に、トレーンが「至上の愛」を、アイラーが「スピリチュアル・ユニティ」を録音し、ジャズ10月革命の年でもある。)、すでにかれは死んでいた。死んでいたからこそ認められたともいえる。かれのカルテットに実験はない。すみずみまで輝かしい瞬間はもうそこにない。ラウズのサックスはかれを旋回し、かすめ、横切る。新しく入ったライリーの速くも遅くもないリズムは安住の場所だった。それを成熟と呼ぶこともできる。
かれはどこに向かおうとしたか。この問いに意味はない。どこにいったかだ。結論からいえば、どこにもいかなかいと決めて終わりのない冬眠に入った。
マイルスはモードからエレクトリックへ、トレーンはモードを経て「シーツ・オブ・サウンド」を駆け抜けた。休息を知らないトレーン号は高みだけを見つめ、そこへ登りつめようとした。だが駆け登ろうと速度を速めれば速めるほど、硬直して沈殿していった(出口がないだけにそのひたむきな熱狂は感動的だ)。マイルスはといえば、魅惑の知や新しさの手助けを借りて、沈没せずにすんだ(でも危険な綱渡りに変わりない)。そしてドルフィーはもういない。
そのときすでにかれは死んでいた。ジャズは芸術になったのだ。エヴァンスの登場はそのことを象徴的にあらわしている。しなやかな指から繰り広げられる知的な孤独。深く瞑想するように鍵盤に頭をもたげ、自己と対話するエヴァンス(ピアニズムという点では、すでに1940年代後半のエリントンのピアノに西洋の技術、鍵盤を吸い付くような手が取り入れられている)。ジャズは習得可能なものになった。エヴァンスの音楽にあのかかとを踏みならす黒人の足音はきこえない。根を失った軽やかなつま先のリズム。
かれが名付けた「猫の村」、そこで1982年まで狂気を生き延びなければならなかったことは、必然であるにせよ、かれにとって苦痛でしかなかっただろう。あるインタビュアーがきく。「ピアノの88鍵では足りないのではないか」。「88鍵を打つのは難しい」。これが「ストレート・ノー・チェイサー」のかれだ。
昨日、マントヴァの演奏会の帰り、夜半2時過ぎの高速道路を走っていると、一面が乳白色の霧に覆われました。イタリアの深秋の趣は、独特の霧の匂いです。初めて訪れたマントヴァは、四方を湖に囲まれた美しい佇まいで、帰りがけ、闇のなかにお城がライトアップされて浮かびあがるさまなど、思わず車をUターンさせて見入ってしまう程でした。
「明日はマントヴァのビビエーナ劇場かい。あそこはイタリアのなかでも、とび抜けて品のいい劇場だ。一番好きな場所かも知れない」
一昨日の演奏会のあと、建築家のフェラーリに言われて、楽しみに出かけたマントヴァの劇場は、確かに惚れ惚れするような美しさでした。ビビエーナ劇場のこけら落しは12歳のモーツァルトだったそうですが、内部は華麗に装飾が施されていながら、嫌らしさがなく上品に纏まっていて、音響も素晴らしいのです。特に昨日は、ジェラルド・ペッソンの作品が中心でしたから、彼の極端に繊細な音の瞬きが、この空間の響きのなかに吸い込まれてゆくのは、とても幻想的な光景でした。
演奏会前、ジェルヴァゾーニと街をぶらぶら散策していて、数々のマンテーニャの名作が走馬灯のように頭を過ぎりました。マンテーニャの筆致のような、少しだけ柔らかく優雅な印象で、しっとりとした味わいとでも言えるでしょうか。ジェルヴァゾーニは、せっかくマントヴァに来たお土産だからと、パン屋のショーウィンドウに並んでいたケーキを嬉しそうに買いました。
いよいよ演奏会が始まるという時に、ミラノから車を飛ばしてきたエミリオが姿を現しました。彼が98年に作曲した「夜の断章」をアンサンブルが演奏したからです。半年ぶりに会う彼は、存外に健康に見えましたが、一曲毎に盛んな拍手を送る彼の姿を見て、少し心が熱くなりました。初めて彼と会ったのは10年も前で、思い返せばエミリオも自分も、随分と歳を取ったという感慨に近いものでしょう。思えば、こうして二人並んで演奏会を聴いたことも、10年も親しく付き合いながら、実は初めてだったかも知れません。
一昨日の演奏会は、昨日とはまた違い、こじんまりした空間のなか、演奏家を取り囲むようにぎっしり聴衆が詰まっていましたが、かかる場所でペッソンを演奏するのも、親密さが彼の音楽にしっくりきます。聴き手が息をのんで音楽の世界にすっかり引き込まれているのを、演奏しながら肌で感じられるのも良いものです。気の毒にも、当のペッソンはミラノに向かう途中で病院に運び込まれ、36時間もの間、身動き一つ出来ず、結局演奏会には間に合いませんでした。
一昨日の演奏会は、ミラノ・ムジカという規模の大きい音楽祭のシリーズだったせいか、ラジオも収録も入り随分な賑わいで、演奏会後に楽屋で着替えていると、見ず知らずの作曲家が何人か楽譜を持って並んでいて、自分の楽譜を見て欲しいなどと言われたりしましたが、立食パーティーのとき、音楽祭のディレクターのルチアーナと話していて、彼女のなくなったご主人が昔録音したヒンデミットの「ルーデゥス・トナーリス」の話になりました。「あんなに素晴らしいルーデゥスを弾くピアニストは、彼以外には知らないわ。若い頃から、苦しみながら人生を乗り越えてきて、生きるのは辛いと言い続けていてね。或る時、何かが吹っ切れて、漸く人生を受け入れて幸せに生きようと思った瞬間、自分が不治の病に罹ったことを知らされてね。生きるのが辛いと言っていた本人が、結局、最後まで死にたくないと繰返していて、傍から見ていて遣り切れなかったわ」
11月1日はイタリアのお盆にあたり、家族揃ってお墓参りにいく習慣があります。「あなた達日本人には、お墓参りはとても身近なものでしょう。40年来の親友、アズマさんも言っていたわ。ルチアーナ、あなたが無理してお墓参りにゆくことはないからね。私がお墓参りに行ったとき、あなたのご家族にも、あなたの素敵なお話を一杯してくるからって」。心に染みる逸話でしょうと言って、ルチアーナは口を閉じました。ここ数年呼吸器を患っているルチアーナは、毎日自分の企画する演奏会に顔を出すのも身体が辛いとこぼしました。「でも今日の演奏会は幸せだったわ、ありがとう。時に思うのだけれど、音楽って天が私たちに与えてくれた宝物ではないかって」
演奏会が終わってお客も退けると、夜半12時半過ぎ。親しい仲間6人程が残り、手作りペーストのパスタに舌鼓をうち、フェラーリお気に入りのスコッチを嘗めていて、気がつくと2時前になっていました。まだ演奏会の余韻が会場に漂っていて、その残り香を肴にスコッチを嗜んでいると、先程のルチアーナの言葉が甦ります。周りにこれだけ音楽を愛する人が居るのが、どれだけ恵まれた事だろう、そんなことを思いつつ、喉の熱くなる感覚を愉しみました。
さて、今しがた電話が鳴って受話器を取ると、溌剌としたマンゾーニの声が飛び込んできました。「おう、一昨日は行けなくてご免なあ。どうだった? うまく行ったか。客は居たか? あそこは何時も満杯だからな。よしよし、偉い偉い。こっちか、元気にやっているさ。相変わらずだ。おい、今度こそはお前、別荘にも遊びに来るんだぞ。約束だからな」(10月31日モンツァにて)
天の恵み
きびしい日照りの夏をかいくぐってきたにもかかわらず、元気な里芋が穫れた。葉を鎌で切り、万能をひと鍬、ふた鍬、入れて掘りおこす。畑で親芋から子芋をはがす。「ボキッ、ボキッ」といい音がする。「悪くないな」とぼく。「親芋が小さい!」と美代さん。土垂《どだれ》の場合、親芋は食べられないので、親芋はある大きさで太るのは止まり、子芋たちが大きくなるのが望ましいから、賢い親芋だったということだ。
その畑は、冬の間、エン麦を育て、早春に緑肥としてトラクターですき込んでおいた。畑の中に有機質が多いほうが水持ちがよく、日照りに耐える力がある。
日照りの最中の里芋の土寄せは、機械を使わずに、鍬を用いて手仕事でおこなった。機械のほうが仕事が速いのだけれど、土を多く動かし、根をたくさん切る。そのぶん、里芋の消耗が激しい。草とりにも細心の注意をはらってもらった。大きな草を根っこごと抜いてしまうと、それだけ土を動かしてしまうことになる。日照りの夏は、なるべく土を動かさないようにしなければならない。「切れる包丁を使って、草の地上部だけを、そっと切って」と、スタッフの石毛さんにお願いした。
他の畑では人工雨が里芋畑を潤していた。バルブを開けば、雨が降ってくるのだ。しかし、地下水は水温が15度、夏の雨にしては冷えすぎるのではと、ぼくは余計な心配をしながら、水をあげない生き方を選択する。
カンカン照りの毎日に、人工雨をかけるということは、その地にない気候を作りあげるということだ。ハウスで野菜を育てたり、ビニールトンネルやポリマルチを用いることも、その地にない気候を生みだすということだ。虫が発生すれば、いや虫が発生する以前から、予防的に農薬を散布する、肥料が足りないと見れば、化学肥料をふる。人間はほぼ自然を支配し、思うがままに作物を育てることができるようになったかに見える。そうして産みだされた作物は、科学の恵みと言えるものだ。でも、大地に対して、科学の力が強まれば強まるほど、無国籍になったいく。
農地をつぶし、飛行場をつくり、世界をかけまわる時代、見ばえのいい野菜が大量に生産できれば満足じゃないかと言われれば、言葉につまってしまう。
しかし、ぼくは天の恵みをいただく。日照りの時は日照りとつきあって、長雨の時は長雨とつきあって、知恵をしぼって野菜を育てる。いや育てるというより、いっしょに生きるのだ。土垂の初物は、美代さんがもちきび入りの里芋ご飯にしてくれた。それはそれはおいしかったこと。「ごちそうさまでした」。
道教をめぐって 石田秀実
友達から頼まれて、新しい宗教学事典のために少し長い道教概説を書いている。祈りの日常を生きる宗教ならともかく、アカデミックな宗教学的解説という代物はそれだけで胡散臭く、気乗りのする仕事ではなかったのに、なんとなく引き受けてしまった。
生き方としての道教、つまり変化し続ける自然のままに任せ、その流れに逆らうことなく行為するタオイスムは、中国文化圏を広く蔽っているし、それについて気ままに書くことはそれなりに楽しい。もっともヘーゲル―マルクス―コジューブ的な考え方からすれば、自然と闘争したり自然を変えたりということをしないタオイスム的生き方など、アメリカ人の生き方とはまた別の意味で、動物の生き方に過ぎないという事になるのだろう。動物の目からすれば、自然の流れを変え、闘争を仕掛けるヘーゲル的人間など、狂った動物にしか見えないのだが、近代という時代は、なぜかこのての狂った動物のことを理性という言葉を用いて称え続けてきた。それを真に受けて、人間―動物といった二元論などといういかにも古めかしいものの考え方が、この不思議の国ニッポンでも、ポストモダン大好き人間とか言う人々によって、あたかもまだ聞いたことも無い思考のように語られたりするのは、ちょっと悲しい。
生き方としてのタオイスムは、たとえ動物的などといわれようと、今の私達にとって魅力的でありつづけている。それに比べて、宗教的教学としての道教の方は、実を言うとあまり面白いものではない。その理由は、たぶん言葉によって編まれた体系的教学なるものの宗教的しらじらしさにある。どんな宗教でも、宗教的行為の一つの核心は、始原にあった集団の宗教体験を振り返り、それを追体験する事にあるだろう。やがて儀礼というかたちで形骸化するそうした追体験と、それをめぐって書かれた言葉テクストの体系が、教学としての宗教を形作っていく。形骸化した体験のみぶりは、一人一人にとってあたらしいものであったとしても、もはや体験ではないし、言葉だけの体系は、論理的な見事さに反比例して身体に還元されていかない。宗教は、あらたな「宗教的事実」の体験者が出てくるまで、腐敗しつづけるだろう。たとえば道教では、10世紀以降に新しい宗教運動が生まれ、様々な新教団が布教活動を始めるまで、その歴史の大部分は、仏教の経典を剽窃して教学的には膨大なテクストを積み重ねる一方で、仏教と競うように国家権力におもねり、庇護を求めるスコラ的教団の腐敗の歴史であった。
こうした事情は、キリスト教・イスラーム教であれ仏教であれ、ほぼ同じような事だろう。ただ、道教の場合については、研究がゆがんでいたり、オリエンタリズムに染め上げられていたりしすぎた分だけ、よく分からなくなっていて、様々な誤解の渦の中にあるようだ。こんなことは余り面白い事ではないし、ふだんの生活にとってどうでもよいことかもしれないが、宗教として研究されている言葉の体系としての教学と宗教そのものとの違いを考えたり、宗教がらみの戦争を相対化する上にで多少役立つかもしれないので、すこし書かせてもらうことにしたい。
生活の中に今も息づく道教ではなく、宗教運動体として活動し始めた始原の道教とはどんなものだったのだろうか。すくなくともそれは、悠久のタオに遊ぶなどという態のものからは程遠かった。前漢王朝(前206−後8)の末期から後漢王朝(後25−220)に及ぶ200年間ほどの間に、民衆の間で徐々に形成されていった千年王国運動が、道教という宗教運動体の始まりである。この時期、中国の戸籍資料は人口が三分の一ほどに減ってしまう終末のような状況を伝えている。古代の戸籍がどの程度現実を伝えているかという疑問を割り引いても、この数字が伝えている重みそのものは変わらないだろう。度重なる戦乱と自然災害、異民族の侵入と豪族による土地の収奪に伝染病の流行が重なって、農村共同体そのものが崩壊してしまったのである。
前漢の終わり頃、揚子江も黄河も洪水を起こすような状況の中で、土地を失った農民がさすらい始める。道すがら西王母を祭って歌い踊り、この終末を乗り切れば不死を得られると言うお札を伝え合って、二十六もの郡国を行進しつつ、都になだれ込んできたのだ。前3年の正月に始まり、秋まで続いたこの死の舞踏さながらの大行進は、王莽の簒奪劇によって表面上は消える。だが、終末を信じた民衆の信仰は、『太平経』という経典とともに中国各地に伝えられていき、後漢の末頃までには、神格化した黄帝と老子を信仰し、終末を乗り切ったもの達のみからなる太平のユートピアの到来を待つ千年王国運動となってあらわれる。彼らによって後漢王朝は倒れ、互助的な組織をもつ独立した宗教王国すら建国されもした。
自分達だけが終末を乗り切り、種の民となって新しい世界を作る事ができると信じた彼らにとって、急務は激減した人口を回復し、新しいユートピア世界の住民をふやすことだった。性を営む事が、生活の基礎を支える倫理的行為として重要視されるようになる。その行為はやがて『黄書』と呼ばれる性の儀礼書としてまとめられていった。性が生の基盤として倫理的に語られるのはこのためである。
一方、房中という言葉で知られる中国の貴族的な性の技法、具体的には性のエネルギーを子孫を作るために用いず、フロイト的に言えば昇華させて、不老長寿や身体錬金術の手段として用いることは、「偽りの技」として、固く禁止された。種子術(性交による種民の創造)は倫理的だが、房中は道に反しているという主張は、彼らが読んでいた『老子』の注釈書、『老子想爾注』にしきりに登場する。
生と性を、生きることの根源と考える思考は、近代が自然民族(この自然には、もちろん野蛮とか動物的とか言った含みがある)などという名称で差別している人々の間では、ごくありふれたものだ。表面的な禁欲主義の裏に、どうしようもないほどの淫乱さが渦巻いてしまう文明社会のことを考えれば、その思考を動物的などと非難する事の滑稽さは分かるだろう。始原の道教を導いた千年王国運動では、このありふれた生の思考が、終末的状況の中で集団を維持する中心的課題に踊り出たのである。文明化し表面上だけお行儀良くなった世俗社会の倫理からすると、こうした宗教倫理は淫猥なものとされる。だが、それは文明化した社会が、自己の裏側に隠している欲望を、投影して見ている結果にすぎない。房中のような思考の方が、よほど自然に反した、その意味では淫乱な思考なのである。
奇妙な事に、この運動体としての道教の始原教団とそこで得られた宗教的体験について、アカデミックな道教研究はきわめて冷淡である。ごりごりの文献学者の中には、この反権力的な教団を「原始」教団と呼んで、ことさらにその性格を野蛮に描き、道教の歴史から分けたり、削除したりする人すらいる。そこまで冷淡でない人たちも、この教団を「卑猥な性儀礼に耽っていた非倫理的教団」と断罪して、その後に起こった新天師道という教団こそが、「正しい倫理的道教」の始まりであると説く事が多い。 なぜこんなおかしなことになってしまったのだろう。アカデミックな世界で起こっているこの喜劇的ですらある誤解を理解するには、少し道教研究史についてのたちいった考察が必要だ。
道教史の学問的記述は、三つの要素によって汚されている。文献実証主義とキリスト教中心主義、そしてフィールド・ワークできた事だけを基準に事象を断じてしまおうとするある種の人類学者の傲慢さによってである。
文献実証主義という19世紀の遺物は、文献に記されている限りの事だけが実際にあったことであるかのように主張しつづけて、記述されていない事をあたかも無い事のように扱ってきた。文献が語るのは、体制側にせよ、そうでない側にせよ、記述する側にとって都合のよいことだけであるにちがいないのに。
キリスト教中心主義は、あらゆる宗教現象を、キリスト教の枠組みに沿って考えたがる。彼らにとっては、そのようにして計られた事象だけが宗教の名に値するものなのである。
西欧近代文化を価値軸として、他者の文化を「観察」するある種の人類学のまなざしについてはいうまでもないだろう。日々の生活を観察されてしまう人々の緊張も、悲哀も、押し付けられた近代化に伴うゆがみすら、彼らにとっては、西欧という鏡に映る、興味津々の異国風しぐさ(彼らの深層心理に則して言えば、野蛮人や動物に近いもののしぐさ)にすぎない。
こうした人々によって記述されてきた道教とは、いかなるものだったか。文献実証主義者は、道教の成立期を5世紀に置く。この頃、道教という名称が、仏教という宗教的他者に対抗する形で、次第次第に用いられるようになったからだ。文献的にきちんと定めておくことが科学的実証主義なるものだと思い込んでいる人々にとって、道教という名称が確立していない5世紀以前の宗教運動を、道教と呼ぶのは非学問的に思えるのである。
一見ごもっともに思えるこの見解のおかしさは、たとえばキリスト教のような分かりやすい宗教運動に置き換えて考えるとよく分かる。イエスは自己の宗教をキリスト教などと呼んでいない。直接の弟子達もキリスト教という名称をもちいていない。だからといってかれらの事跡をキリスト教史からはずしてしまえば、キリスト教の核が消えうせてしまうだろう。同様に道教の真の成立期を担った人々も、自己の終末論に基づく千年王国的な宗教運動を、道教と呼んでいない。その後継者達も、道教と呼んでいない(じつは5世紀の人々も、仏教と対比させる必要のある限りでしか、道教という言葉を用いていない)。だからといってかれらの宗教運動を道教史から分けて、低俗な民衆宗教のように扱ってしまえば、道教がどのような社会状況の中から生まれてきたどのような宗教運動であったか、理解できなくなってしまうのはあたりまえのことだ。
文献実証主義者が道教の成立期と主張する5世紀における道教の実情はどうだったのか。千年王国思想に基づく天師道という道教教団の宗教独立国が、曹操の軍の前に敗れた後、信者達は中国各地にスターリンの強制移住よろしく遷されてしまう。それでもかれらの千年王国への希求は衰えることなく、執拗な反乱運動が続く。最後の反乱を担った人々は、かなわぬ千年王国の夢を水の中のユートピアに求め、集団で入水自殺を遂げすらした。
この天師道教団の中から、体制に擦り寄りはじめる人々が出てくるのは、この直後の事である。彼らは宗教のユートピアを作る夢を捨ててしまった貴族出身の道士達である。つかの間実現した千年王国のユートピアでは、人々は国家権力に税を払わず、互いに五斗の米を出し合えって助け合い用の蔵に蓄えた。曹操に追われて逃げるときにも、千年王国運動の人々はこの蔵に手をつけようとせず、封印をして窮乏の民のために保存しておいたほどだ。
この互助的な制度を貴族出身のかれらはあっさりと捨て、生と性の根源性を重視する宗教的倫理も、国家権力に迎合し得るかたちに変える。王権の確立を予言する書物を偽造して王朝の庇護を求め、反権力的な千年王国運動を改革せよというお告げが神から下ったと称して様々な経典を偽造し、道教の国家宗教化を目論んで、仏教と張り合い、道教経典の数と理論的質を高めるために、仏教の経典を剽窃して道教の経典を捏造する。その過程で仏の教えに拮抗する自己の教えを、道の教え、道教と呼び始めたのだ。宗教の堕落に他ならないこの体制迎合的な一連の出来事こそ、文献実証主義者によって、「倫理的な」道教の成立とよばれている事態なのである。
なぜこんな誤解が起こるのか。その根のひとつはキリスト教中心主義にある。体制に擦り寄りはじめた貴族階級の道士は、自己の行為を「改革」と称し、千年王国運動教団の名称を変えて、その名称を新天師道などと称した。反権力的な千年王国運動を、国家権力に迎合するかたちに「改革」したという意味では、確かにこれは一種の改革である。だが、宗教運動の純粋な展開から見れば、これはエネルギーの喪失であり、教団の「改悪」と権力への寄生以外の何ものでもない。ところが、キリスト教中心主義のまなざしにとっては、「改革によって新教が出来る」事態とは、Reformationという枠組みで理解すべき事態なのだ。
歴代中国の史書は、司馬遷の『史記』を除けば、国家権力が記したものであり、そこでは千年王国運動など常に淫祀邪教扱いである。淫祀邪教教団を国家権力に迎合的な姿に改め、宗教倫理を世俗倫理に合わせて変えてくれる者たちを、歴史文献が好意的に描くのは至極あたりまえだが、それをそのまま鵜呑みにするわけにはいかないことは当然だろう。そうした文献を額面どおり受け止めて、キリスト教中心主義によって理解してしまう中から、「彼らは信心深い道士達で、改革の熱意に燃えて野蛮でみだらな宗教運動を倫理的に整えた新教に変え、それを道教と名づけた」といった驚くべき解釈が生まれてきたのだ。
こうした解釈は、人類学的観察によってさらに確信に深められる。19世紀から20世紀にかけて、人類学者がフィールド・ワークしえた伝統中国の道教や仏教は、すでに著しく衰え、村落共同体の祖先祭祀や呪術的儀礼に寄生するかたちでかろうじて口を糊する体のものだった。とりわけ中国南部の村落で人類学者が眼にしえたのは、道士よりも民間信仰のシャーマンが、けばけばしい化粧姿で演劇的に振る舞い、民衆を熱狂に導くオージーに近いものだった。宗教的儀礼は、久しい以前から演劇的なもの(ドラマ)に堕していたのである。
ところが人類学のまなざしは、こうした演劇を前にして、これこそ「生きている道教のすがたである」と深く納得してしまう。文献学者を兼ねている彼らのうちの幾人かは、古い中国の文献に、こうしたオージーの記録があるのを思い出す。あいにくそれは、仏教徒が道教徒のことを誤解してひどく中傷した文献であり、そこには「道教徒はその祭りのとき、泥の中を犬のように転げまわる」と書いてある。「これこそ野蛮でみだらな道教の姿であり、改革派はそれを倫理的に改めたのだ」と人類学者は考えるわけだ。
ちょっと考えさえすれば、こうした思考が矛盾に満ちている事はすぐわかるはずだ。改革派が倫理的改革を遂げたのだとすれば、その後、どうして現代の道教にまで、野蛮でみだらな道教が残っているのだろう。改革派の倫理的な新教とやらは、どこへいってしまったのだ。それに仏教徒が中傷している道教の祭りの記述を、そのまま受け取ってしまってよいのか。
アンリ・マスペロのような碩学でさえも、フィールド・ワークの現実と古代の道教とを混同して、道教儀礼をオージーとして描くのを読むのは悲しい。道教徒が伝えている古い儀礼資料は、どの儀礼も静謐に行う事を説いているのだから。ひそやかに行うべき儀礼的しぐさ、たとえば手で静かに後頭部を打つ「鳴天鼓」のようなものが、マスペロによって「大太鼓をどろどろと鳴らす」などと解釈されているのに出くわすと、そのオリエンタリズムにほとんど頭を抱えたくなる。そうしたオリエンタリズムの記述が、日本ではフランス大好き人間(タオイスム大好き人間である事も多い)によって、頭から信じ込まれ、ヨコからタテに流通されてしまう。
宗教的体験の核を野蛮だといって放り投げる一方で、積み上げられた経典の体系に幻惑され、それが急ごしらえされた仏典からの剽窃である事実もどこかに置いて、道教の確立と教学の深まりをとうとうと論ずるのは、どう考えても喜劇である。だが、私達の文明化した社会の言説のほとんどは、身体的経験をすっぽかしたテクストの偏重に色濃く染まっているのではないだろうか。宗教の体系にかぎらない。政治や経済、法や歴史や芸術の記述に到まで、私達人間ザルは、体系化されたテクストにばかり魅了され、その周囲にのみ重要な事があるような錯覚に陥る。多分私達は、記述され言葉の体系になってしまったものを前にすると、そこにその体系の膨大さに匹敵するような真実があると思い込むようなおかしな病気を持っているのだ。言葉の魔力にからめとられてしまった悲しい動物としての、人間の救いがたい病気。この病気は、何も契約の民のような人々にだけ特有の病気ではないだろう。
ところでアカデミズムの学者が道教の成立―爛熟期と褒め称える時期の道教について調べると、おかしな事実が浮かび上がってくる。彼らは確かに、国家権力に反抗せず、仏教に非難されないようなお行儀の良い道教を作り上げた。その一方で、始原の道教教団が「偽りの技」として固く禁じていた房中の術には、熱心に取り組むのである。彼らにとって、性を用いて子供を作る事は非倫理的であった。それが社会的秩序に反する反乱と結びついて行われていたからである。ところが、性を用い、女性を道具のようにもてあそんでエネルギーを不老長寿などに振り向ける淫乱な房中は、彼ら貴族にとって一向に非倫理的ではないのだ。
ここにヘーゲル―コジューブ的な人間―動物の二項対立を適用するとどうなるか。性を用いて子供を作る種子術は、動物的で野蛮であり、性を昇華させる房中は人間的で文明的ということになるだろう。だが、動物達の立場からすれば、ごくありふれた生の営みである種子術を野蛮だなどという主張は、どう考えても狂っている。房中のような淫乱でおかしな行為を、その昇華のゆえに人間的というのだとするなら、私達の理性の形は、やはりおかしいのだと考ええざるを得ないのではないか。
昔見た映画「黒いオルフェ」は鳴りやまないサンバの合間に起こる愛と死のメロドラマだった カエタノ・ヴェローソのリメイク版には現実の堀立小屋の迷路街ファヴェーラで警察の暴力と少年たちを誘い込んで麻薬売人にしたてるマフィアとの抗争の板挟みになった詩人の恋物語が描かれていた リオ市の人口5,500万人の3分の1が丘の斜面のファヴェーラに住む 武装警察は毎月平均14人を射殺するが これはニューヨーク警察の1年分の記録に相当するそうだ
リオの500のファヴェーラのなかでも8,000人が住み 悪名高い暴力と死のヴィガーリオ・ジェラルでアフロ・レゲエ・バンドが誕生したのは 1993年8月29日に警察が住民21人を射殺した事件の後だった 25歳のタクシー運転手ジョセ・ペレイラが下町でやっていたレゲエ・パーティと月刊ニュースレター活動をファヴェーラに移して アフロ・ブラジリアン・ダンスとドラム教室をちいさな中庭ではじめた
ドラムの音に集まってきた若者たちは 麻薬取引よりもずっとおもしろいあそびであり プロ意識をもった訓練でもある音楽にむちゅうになった ちがうファヴェーラで暴力を大学としてそだったジョセには よそものを警戒するこどもたちもすぐうちとけた
19歳のアンドは母親とけんかし その前の晩はガールフレンドとけんかして 練習に出て来た そこできびしくしぼられたとき わめきだした もういやだ to bolado to bolado
それは歌になり バンドのレパートリーになってCDでもきかれる(Afro Reggae Nova Cara Universal Music B0002418-02 track 3)
もういやだ
21人のひとたちが暴力警察の復讐で殺された
もういやだ
前の晩に売人がお巡り4人を殺したからって
もういやだ
ただしい道はしあわせの道 まちがった道じゃ死ぬだけだ
もういやだ
遊び仲間のうち4人は死んで 3人は獄中だ アンドはいま新しくできた文化センターの館長になった アフロ・レゲエはバンドだけでなく文化活動になって となりのファヴェーラにもひろがっている
カエタノ・ヴェローソやアーティストたち それに政治家たちまでがファヴェーラにやってくる
1998年 バンドの41人のこどもたちは リオ市当局とブラジルやヨーロッパの財団の援助でパリのワールドサッカーフェスティバルに参加し ヨーロッパを演奏旅行した
バンドの音楽はたくさんのリズムを次から次へとくりだす 街路を支配していた銃撃の単調な音にかわって ラップ ヒップホップ バイアのサンバ・レゲエ リオのファンク テクノ さらに格闘技カポエーラやカンドンブレ儀礼の多彩な響が 即興的でゆるやかな構成のなかにとりこまれている 光と闇の交錯する迷路であるファヴェーラそのものの音がここにある それらはリーダーたちだけが決めることではなく 全員の参加する練習と演奏のなかでためされている 現実の悪夢を創造に変え 絶望から行動に進む文化の武器としての音楽は ここにまだ息づいている
Grupo Cultural Afro Reggaeのホームページはhttp://www.afroreggae.org.br/ ただしポルトガル語のみ
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