2005年1月 目次
アンドリル鳥──翠の虱(3) 藤井貞和
国境の寒い日 佐藤真紀
循環だより 小泉英政
デジタルカメラ 御喜美江
製本、かい摘まみましては(4) 四釜裕子
しもた屋之噺(37) 杉山洋一
はみ出し者 スラチャイ・ジャンティマトン
世界は藪の中 高橋悠治
恋スル、アンドリル鳥ハ
夜ヲ鳴キアカシテ、ソレデモ飽クコトガナイ
アナタノ描ク 胸ノナカノ花ノ絵ガ、ウスクナル
消エテ、消エイランバカリニ、ワタシノ
火ノ燃エツキル明ケガタノ、柔ラカナ肩ヲ
痩セサセテ港カラ、立チ去ルコトデショウ、キミ
恋スルコトハ、コンナニモ甘美ナ解釈ヲサセルノカ
罪ガ、ワタシノナカデ約束スル、アナタニ
窮鳥デアルコトヲ実証シ、不実ナ偽書ヲ書イテ
ホントウラシク悪人ヅラヲシテミセルコト
愛シアウ、目ト目トデカミソリノ羽ヲ交ワス
隠ス爪デ枝ヲ掴ンデ宙ブラリ、
アア 辛芋ヲ水田デ作ルミタイ
田ノナカノ穴トイウ穴カラ、ツブ貝ヲサガシダシテ
食ベル、悪イアンドリル鳥ダヨ ワタシハ
キット飽食シタラ、アタラシイ時代ノ 男ヲサガシダシテ
食ベルツモリノ ワタシデス
男ヲ食ベルワタシハ、溝ニハマッテ助ケラレモセズ
ガーター、ガータート鳴キ荒ラシマス、コノ世界ヲ
(何がすごいかと言って、南インドのドラヴィダ諸語、そのなかのタミル語から、二千年もまえの文献に57577音数律(を中心とする長編や短編の)の詩(うた)が見つかることだろう。25年前、80年代初頭に、藤原明さんという若い学徒が、『日本語はどこから来たか』という講談社新書を書いて、ドラヴィダ諸語を日本語と比較した。それによると早く朝鮮語との比較もだれかがやっていたらしい。藤原さんのそのしごとには、さいごのほうにやや疑問もあるにしろ、いまから思うとドギモをぬかれる内容である。その本との関係はわからないが、ちょうどそのころ、大野晋さんが六十の手習いと称してタミル語研究を開始し、20年かけて厖大なかずの57577音数律詩(その他)を見つけ出した(『日本語の形成』岩波書店)。語彙、文法など、語序、助動詞、助詞《係助詞など》にいたるまで、タミル語と日本語とは類縁関係にあり、詩の音数律がうえに言ったようにおなじであり、万葉的な相聞歌からなることもまた通じる。文化的には水田文化をはじめとして共通するところが多いと、前記藤原さんの著書からもうかがえる。後発の人のしごとをとおしてあらためて先駆的価値がわかってくる、というよい例だろう。大野さんは両語を比較したが、藤原さんはドラヴィダ諸語ぜんたいを日本語と比較し、しかも朝鮮語までを視野に入れるという規模であった。ある学者が日本語とタミル語とはあまりに似すぎておかしいと疑問を呈していた。いっぽうで大野説を使いまわす民間語源学的著述なんかも二、三、目にするようになってきた。藤原大野モデルはややおおげさに言うと、インド・ヨーロッパ語族の発見の歴史に相当すると称してよかろう。私としては日本語の長歌短歌音数律が世界的規模で行われていたことをとくに重視したい、というに尽きる。)
(2004.12.29)
国境の寒い日 佐藤真紀
12月8日、アンマンのホテルからはキリスト教の教会が見える。クリスマスが近づいている。雲に覆われて、いつしか雨が降り出していた。アブダリというバスステーションは、朝の早くから、労働者が集ってきて活気がある。この時期は結構寒く、ジャンバーを着込んでマフラーを巻いて毛糸の帽子をかぶっているおっさんが多い。今日は結構降るだろうなと思いながら、昨晩、見ていたDVDの続きを見る。難民キャンプのクルド人が、イラン映画を見たがっているというので、お土産に何本かDVDを買ってきたのだった。あげる前に、全部見てからと思ったが途中で寝てしまった。そんな中でも、マジッド・マジディ監督の「少女の髪どめ」がいい作品だ。
さて、地図を取り出してみてみると、ヨルダンとイラクは、一本の線で区切られている。虫眼鏡で拡大してみると、線は幅を持っている。実際は、1キロメートルくらい。そこは、治安のために誰も入れないようにしてあって、時々両国の国境警備隊のパトロールが行き来する。誰も入っちゃいけないから、ノーマンズランドと呼ばれているのだ。ヨルダンから国境を越えてイラクに入る場合、ノーマンズランドを横断する一本の道を通る。虫眼鏡でもう少しよく見ると、国境の線の中に人がテントを張って住んでいる。もうかれこれ、一年と9ヶ月。テント暮らしを続けていることになる。
イラク戦争が始まってから、何度か、ノーマンズランドを訪れた。最初は2003年の4月26日、戦争後、イラクからの帰り。ノーマンズランドにテントがたくさんあって、何じゃこりゃと思い車の中から写真を撮った。しばらくしてヨルダン側に入り入国審査や荷物検査を受けるために車列で待っていると警察官がやってきて「写真を撮っただろう」という。しらばっくれていると「ちゃんと見ていたんだ」としつこい。別室に連れて行かれて尋問されることになった。責任者がふんぞり返って偉そうに「ちゃんと答えないと逮捕するぞ」という。ヨルダンだって、イラクと大差ない。お上に逆らえば痛い目に会うのを知っている。私は拷問だけはいやだ。何がいやかというと痛いのがだめ。そして、痛さに屈してべらべらと何でも白状してしまう自分がもっと情けない。
観念して、ビデオを見せて、「大切な部分」をその場で消した。そこには、ハンガーストライキをしているクルド人の人たちの顔がくっきりと映っていた。こんなに上手く写っていたなんて。なんだか消すのがもったいないなと思った。もっと気の利いたうそをついてしらばくれればよかった。私は彼ら、クルド人のことが気になっていた。マスコミもいないからハンガーストライクやったって何にもならないのに。
それから、私は、難民の支援活動にかかわるようなったので何度かおみやげをもってテントを訪ねた。それにしても、一年9ヶ月もテント暮らし。しかもノーマンズランドで生活をすることになるなんて誰が予測しただろう。そこは、刑務所のようだった。テントはフェンスで囲まれている。外には出れず、夏にはさそりと蛇。砂嵐、冬には雨でどろどろになる。
砂漠の道を3時間走る。雨足はどんどんと激しくなって、時折バシンと雷が落ちる。私たちが行くのは、キャンプAといわれているヨルダン国内の難民キャンプだ。今日は治安上の理由でノーマンズランドまではいけないという。ここのところイラク側から武装勢力が国境付近でも攻撃を加えており危険だというのだ。国連の説明を受けているとなんと今日は、スウェーデン政府が選んだクルド人187名が、訓練を受けていたキャンプAから出発。翌朝のチャーター機で出発するのだという。この感動的な日に出くわせてよかったなと、私はついそわそわしてしまった。
キャンプAにつくと何台かのバスが停まっている。いよいよ出発するのだろう。私たちは、キャンプを管理しているヨルダンの団体の責任者の尋問を受けた。通訳が来る間に初老のアブアイマンがお茶を入れてくれる。この団体は、殆どが軍人上がりだ。彼は机の厚みを気にしていた。「わしがロシアにいたときに、ロシア人っていうのはこれくらいの厚さの氷をかちわって、子どもたちがどぶんと湖に飛び込むのさ。まったくロシア人ってやつはたいしたもんだ」
キャンプの中は雨でどろどろになっている。ここのキャンプもヨルダン警察がうるさいからあまり自由に動き回るわけにも行かない。カメラとビデオ両方持ってともかくこれから出発しようとしている人たちを追った。名前を呼ばれてバスに乗り込む人たち。大人はうれしそうだけど、子どもは今度はどこへ連れて行かれるのだろうと不安に泣き出しそうな表情をしている。自分の名前がなかなか呼ばれないでいらいらしている人もいる。生まれたばかりの赤ちゃんを大切に抱えてバスに乗り込むお母さん。テントの外には今まで使っていたなべとか食器類が転がっている。畑をちょうど作りだしていた人もいた。雨が降ったら大変だという話は聞いていたが、実際ともかく寒い。手がかじかんでくる。ビデオやカメラのレンズに水滴がつく。私もびしょびしょになってもう限界だった。
バスは次々とアンマンに向かって出発した。まだ、解決の糸口がないパレスチナ系の子どもたちが見送る。「僕たちは、いつも、トマトとジャガイモばっかり食わされて、雨が降ったら、川だらけ。イラン人にソマリア人、スーダン人にクルド人、みんな、みんな、行っちゃった。次は僕たちの番?」少年は歌うように話してくれた。
私はキャンプを出て近くのレストランでぬれた服を乾かしていた。「今日は、雨のせいで、朝から停電なんだ」薄暗いレストラン。熱いスープを飲んでようやく生き返った気分だ。それでもズボンはまだぬれたままだ。「アブ・アイマンたらいつも酔っ払っているみたい。彼がもし仮にお酒を本当に飲んだところを想像してみて?お酒を禁じたイスラム教は、その辺はたいしたものね」皆、冗談を言い合っていたけど、私の体は凍てついてそれどころではなかった。
私は、その夜アンマンに戻り、ノーマンズランドへ電話をした。アブ・マスードの通訳が出る。日本からだと殆ど聞き取れないのだが、ここからだとはっきりと聞き取れる。この夏アブマスードは息子を事故で失った。「先週、キャンプの中にテロリストがイラクから入ってきたんだ。ヨルダン軍が彼らを逮捕して車を外に出したら、ものすごい音で爆発したんだ。50キログラムの爆弾がつんで合ったらしい。子どもたちはおびえている。妻は死にたいといっている。私もこんな生活はもう終わりにしたい。でも子どもたちのことを考えたら何とか生きていかなければいけない」
まだ、ノーマンズランドには700人以上のクルド人たちがテントの中で冬を越そうとしている。
日本に帰って今日は大晦日。アブ・マスードに電話してみる。子どもたちの声が聞こえる。夏に会った子どもたちの顔を想像してみた。国境はまだ日が沈んでいないのだろう。アブマスードは英語が話せないので通訳を呼んでくるという。電話は切れた。かけなおすとアブマスードの通訳がでた。例によってノイズが多くて何をいっているのか聞き取れない。「聞き取れないよ」「メリー・クリスマス。そして新年おめでとう。。」と彼は一生懸命英語でしゃべっていた。電話は切れた。
循環だより 小泉英政
茅の堆肥
大型トラックに山盛りに積んで七台くらい来ただろうか、一軒分の茅ぶき屋根の茅をもらった。茅とはチガヤやススキなどイネ科の植物の総称で、屋根をふく材料になる。茅ぶき屋根は夏は涼しく、冬は暖かだと言われる。そういう古民家への憧れはあっても、実際その建物を維持するのは大変だ。その補修にはとても人手がかかり、また茅を集めるのも難しくなってきた。多くのススキが原はどんどん住宅地になっていて、ススキの原っぱを見なくなって久しい。
世代が代わり、茅ぶき屋根の建築物が解体され、エアコンつきの新しい住宅が建つ。その際、茅ぶき屋根の材料は産業廃棄物となる。以前は野焼きなどで処理されていたが、今はそれも出来ないので廃棄物処理場にお金を払って持ちこむ。
循環農場の出荷場を新築したとき、建前に来てくれたクレーン車の運転手の人から、近々、一軒の茅ぶき家屋が解体されるという情報を得た。その仕事を請け負った業者がたまたまぼくの知り合いだったので、その茅ぶき屋根の茅をもらえないかと尋ねたところ、「ガソリン代くらい出してくれれば持っていってやってもいいよ」ということだった。そうして、七台くらいのトラックがやってきたのだ。
トラックから降ろされた茅の山には、茅ぶきの下地の竹や木材の破片などが混ざっていた。手仕事の解体ではなく大型重機による乱暴な取り壊しなので、どうしても混ざってくるのだ。でもその竹は長年、いろりやかまどの煙りにいぶされた黒光りするスス竹で、これはお宝になると、やっかいな仕事も宝探しの遊びとなった。
ぼくが茅をもらったのは、それで堆肥を作ろうと思ったからだ。産業廃棄物として捨てられるなんてなんとももったいない。出荷場の敷地に茅を積んでおける土地があったので、その思いが実現した。
でも考えれば、たいがい茅ぶき屋根に暮らしているのは農家の人が多いのに、どうして自分の家の堆肥にしないのだろうかという疑問がわく。どうやらそれは茅が堆肥の材料としててごわいものであるかららしい。出荷場のわきに積みあげた茅を見て近所の農家の人が「三年はかかるぞ」とおどかす。茅は屋根の材料として長年風雨に耐えるもので、分解するにはとても時間がかかるというのだ。「三年は……」「三年は……」とその人は何度も強調した。
しかし、色々なものを土にもどしてきたぼくの経験からすると、そうは長い時間はいらないと踏んでいた。出荷場から出る野菜くず(ネギや里芋のひげ根、葉ものなどの枯れっ葉など)は出荷のたびにコンテナ三杯ほどになるが、それを全て、茅の上に乗せた。ちりもつもれば山となるで、その野菜くずの分解したものが下部の茅の分解を促進させ、一年もかからずに茅の堆肥が出来上がった。
「すばらしい発酵技術をもっている」、三年かかると言っていた村の人が、その結果を見てそう言ってくれた。ちょっと聞き取りにくかったが、確かにそう言ってくれた。
今、もう一ヶ所に三軒分の茅ぶき屋根から出た茅が大きな堆肥の山になったいる。そこからポカポカと湯気が出ていて、循環農場の未来を暖めてくれている。
休日の収穫
「今日は仕事は無理だな」と思う日が、年に、二、三日はある。ひどい二日酔いの日だとか、体調がすぐれない時だとか。今回は前日の夕方ごろから、眼底のあたりに疲れを覚えていた。里芋類を穴に貯蔵する仕事などが続いて、少し疲れがたまっていたから早く眠ればよかったのに、「里芋もしまったことだし」と、つい酒を飲みだしたのがいけなかった。朝起きると眼底のあたりが一層重く感じられた。
循環農場緒は一応、原則として、一週間に一度は休日をもうけることにしている。ぼくたち夫婦が休むか休まないかは別として、研修生の人たちは休みをとってもらうことにしている。慣れない仕事を無理に続けて身体をこわしては仕方がない。
その日がちょうど休日の日だったので、「ちょっと体力の限界だ」と、ぼくも休むことにした。ゆっくり朝食をとって、もう一度、横になったけれど眠れなかった。「洗濯ぐらいならできるかな」と、たまっていた汚れものを手にする。体を休めると言っても、じっとしていては落ち着かないたちなのだ。
その日がとても寒い日だったら、こたつでにも入って、ごろごろしていたかもしれない。しかし、その日は十二月だというのに、夏の日の気温、土をほじくって、収穫してみたいものがあった。それは農作物なのだけれど、自家用ほどの、または試験栽培的な、ぼくの趣味の部類に入るいくつかの野菜が収穫期をむかえていた。
一つはダイショ、大きく分ければヤマイモの仲間だけれど、トロロ芋としては自然薯などにとても及ばない。むしろ煮たりすると里芋に近くて、とても美味しい。なにせ生育が旺盛だ。一株植えただけなのに、掘り上げてみると、形のいいのが五、六本も成っていて、目方は二キログラム近くもあった。ひげ根が木の根のようにバリバリで強靱だ。うまくふやすことができたら、冬の野菜として重宝だ。
次に田んぼ長ぐつをたずさえて谷津田に向かう。何年か前から半ば放任で育ててあるレンコンとクワイを掘り上げるために。
まずはレンコンから、枯れてしまってはいるがハスの葉を目安に、その葉柄のもとを手で掘っていくと白いレンコンの地下茎が顔をのぞかせる。黒っぽい田んぼの土の中でそれは明瞭だ。そこにすぐレンコンがあるわけではない。地面30センチ下に走っている地下茎を泥をよけながら辿っていって、1メートル先にレンコンが隠れている。両わきの土をよけながら慎重に掘り上げると、三節ぐらい続いた中ぶりの蓮が顔を出した。無肥料だから、これだけのものが獲れれば大満足、心のなかで「ヤッタ!」と叫んでいた。レンコンを食べてみたいけれど、水面に浮く蓮の花を見てみたい。来年はかなうかな。
レンコンはゴム手袋をしての作業だった。クワイ探しは、素手でないと分かりづらい。レンコンの白い地下茎のように色では見分けられない。まさに手探り、触感で見つけるのだ。クワイは親株から50センチほど離れた位置に放射線状に大きなアメ玉ほどの塊茎をつけている。元気な芽をつけた泥だらけの球体を水で洗えば色鮮やかなエメラルド色のクワイが現れる。
汗をかいてレンコンとクワイを手にしたころには谷津田に夕暮れが近づいていた。コナラの紅葉の木立の中にムラサキシキブの実が見えかくれしている。夕食はダイショ、レンコン、クワイ、チョロギの天ぷらだった。目の疲れは翌日とれました!
クリスマスにデジタルカメラを買ってもらった。プレゼントにランクをつけるつもりはないのだが、少なくとも夫からもらったものの中では、記憶を今から20年さかのぼっても明らかにトップを飾る、それはNo1のプレゼントだった。
学生だった頃はオーディオ&ヴィデオ製品の扱いに、一般平均的な知識を蓄えていた私だが、なんでもかんでも私よりずっと詳しい夫との生活の中では、その必然性が完全に消え、自信も萎えてしまった。さらに学生達まで現在ではその分野におけるエクスパートになっていくので、もうここ数年来、機械類へは縁も興味もほとんどなくなってしまった。だから夫から「今年は美江ちゃんにいいクリスマスプレゼントがあるよ」と言われたとき、何となく嫌な予感がした。というのは、夫が自ら足を運ぶ店とは、本屋、楽器店、CDショップ、オーディオショップしかないからで、自信満々あえて予告するにはきっと高価なものだろう。とするとオーディオ製品しかない。あ〜どうしよう、そんなものはノー・サンキュー。
「私、欲しいものなんて何もないんですけど」と可愛くないことを言うと、「そんなはずはない、美江は前からそれを欲しがっていた」と言うではないか。なにか勘違いをしているのではないかと思い、おずおずかつ慎重に「それってきっと高いものでしょう? もったいないわよ、こんな器械音痴には」とさぐりを入れると、意外にあっさりと「デジカメだよ」と答えた。これにはちょっと動揺、実のところ欲しいと思っていたからだ。でも夫が選ぶデジカメとは、きっとメチャメチャ複雑だろう。ここは前もって安全体制を整えねばと思い、「でもねぇ、私が欲しいデジカメって、ものすごく操作が簡単で、この掌に乗るくらい小型で軽くて、しかも画面だけは超特大サイズなの。そんなカメラなんて絶対にないわよ」と言うと、「そういうひねくれ者には、もうあげる意味も価値もないけど、仕方がないから今からSaturnに一緒に行こう」と連れていかれたその店で見たデジカメは、まさに私の希望どおりの品物だった。
「わぁー、すごい、これってなあに〜、まるで私が発明したみたい!」と驚きの声をあげながら夫を見上げると、きっと内心は「このばかたれが……」とうんざりしつつも、嬉しさは隠しきれない面持ち。それで近くにいた店員さんに、さっそく基本的な操作方法を説明してもらうと、これが実に簡単で分かりやすいのだ。「わ〜い、これなら欲しい、欲しい!」と率直な感想を述べると、「……なら買ってやる」と夫はレジへむかった。まあ、こんな経緯でデジタルカメラをプレゼントしてもらった。
どうしてデジカメが欲しかったかというと、日常生活の中でメールやエッセイを書きながら、そこに写真を添付できたらいいな〜、とかなり以前から思っていたからだ。じつは私の教えている音楽大学でバイオリンを勉強している櫻子ちゃんのHP日記には、いつも小さな写真がちょこんとくっついていて、それが何ともいえず素敵なのだ。絵(Foto)があることでその画面にはポエジーが溢れ、文章は何倍も生きてくる。文章では十分表現できないことを絵が語ってくれたり、絵の背景を言葉がおぎなったり。とにかく“絵と字”は最高に相性がいいのだ!
さて、デジカメを使用し始めてから、ちょうど一週間が経った。それはシジュウカラくらい軽くて小さいからいつも手元にあって、あれもこれも目に入るものを撮影してから削除または保存してコンピューターに入れ、サイズを小さくして友人・知人に送信しては反応を楽しみに待っている。というとかなり順調にエンジョイしているように聞こえるが、もらう側としては迷惑メールかもしれない。このあたりの判断はかなり微妙だ。添付ファイルとして頼みもしない写真が何枚も送られてきて、そのために重要かつ急ぎのメールが何時間も送信できなかった、という経験は私にも何度かある。
(海外ではまず受信してから送信となる)
それで、あそこの家は多分大丈夫、と思われる宛先のみを今のところは選んでいるが、他人の趣味に巻き添えを食うのは甚だ迷惑だろうな。う〜ん、このへんが難題。
さてここ一週間のデジカメ報告をすると:
★ 撮影して一番簡単で素晴らしいのは風景だ。光や影の感じも生の目がとらえるより細かくきれいに写るし、うすくオレンジ色に染まる日の出どきの屋根、樹氷なんかは最高に美しい。いくら見ても見飽きない。
★ その次に喜ばしい撮影は家の中。とくに階段、家具、絵画、掛け軸などは実際より格調高くてかっこういい。部屋も広々と写っていて雑物がなぜか消えている。
★ 猫は今の季節、一日中寝てばかりいるので特に面白くはないが、背中の毛をひっぱって無理やり起こした瞬間などは実におかしな顔をするので、すかさずシャッターを切ると、ちょっとした抽象画になる。
★ ポートレートは学生を2人ずつ近距離で撮影してみたが、皆さん(先生も含めて!)美男美女で、若々しく爽やかに撮れている。だからこれも毎日ながめている。
ところでクリスマスは2日間、7人分のフルコース料理を作った。ここではデジカメの存在がモチベーションをぐんと上げ、今回はかなり美味しい料理が次々と出来上がった。心をこめて作った料理の一つ一つを、ピクチャーとしてドキュメンタリーできるなんて、朝早くに起きて寒い雪のなか買物に行き、何時間もキッチンで働いた甲斐があるというもの。
★ ところが……、写った写真を見ると?! どれもこれもそれはそれはまずそうなこと!とくに“鴨のオレンジ焼き”なんて、その色を見ただけでゾッとするし、肉の部分は焼けたスキンに毛穴がくっきり見えて気味が悪い。スープは何ともうす汚い感じだし、サラダも食べにくそう。ジャガイモのグラタンは広い一面が茶黄色で、衛星撮影したゴビ砂漠のごとく。デザートのチョコレート・ムースに及んでは、もうノーコメントだ。
食べ物は、匂いや香りや音があってはじめて、おいしい! と思えるのだろうか。でも市販されている料理の本をながめていると、食欲は確実に刺激される。それ等はどれも大変おいしそうに見える。思わず食べたくなる。どうしてなんだろう。
2、3日間は少々落ち込みながら考え続け、あるときふと思った。もしかして撮影用の料理には何かがプラスされているのではないだろうか。きっとそうにちがいない。色鮮やかなソースの上にはピカピカに光る肉があり、サラダ材料は瑞々しくどれも完璧な角度で立っている。パリッ、こんがり、しっとり、ほくほく、つるつる、そんな感じを出す方法、手段、または薬があるのではないだろうか。ひねくれ者の負け惜しみかもしれないが、でも料理の本の写真は、どうもくさいな〜と思う。(2004年12月31日ラントグラーフにて)
終わりに:
2004年も残すところあと数時間となりました。『水牛』編集部、“読む水牛”のクラスメート、そして私の拙いエッセイをいつも読んでくださる皆さま、今年もほんとうにありがとうございました。
はるかオランダより、皆さまの健康と幸せを心からお祈りいたします。
製本、かい摘まみましては(4) 四釜裕子
作家自身の手製本によるアーティスト・ブック。都内の書店で、ポップにそう書かれた冊子をみつけた。ぱっと見は、カラーコピーして重ねて貼って、本のかたちにしあげましたという感じ。その質感あっての作品もあるけれど、それをして手製本と言われても、子供の工作じゃあるまいしちょっと困る。いや子供たちが本のかたちを作るなら、それは手製本に違いない、そもそも手製本という言葉がいい加減、「洋紙」に対する「和紙」みたいなものでしょう、でもね。
どんなものかと「アーティスト・ブック」を品定め。コラージュを片面カラー出力し、プリント面を表にして二つに折って32枚重ねて断裁(125mm×90mmサイズ)、コの字型の厚紙でくるんである。背の部分はボンドで固定しているのだろう。コラージュ自体は魅力的だが、頁を開くとばらばらに剥がれてきそうだ。ところが奥付替わりに貼られた小さな紙に、書名、作家名、それと製本終了日が書いてある。わざわざ記すとはなにごと、ただのボンド貼りじゃないという表明か。
確かめたい。買ってこころおきなくばらしたい。しかし3,000円は高過ぎる。だが堂々とした値付けはある意味爽やか、じゃあ買うから解体させてもらいます。メリッを覚悟して頁を開く。120度あっさり開いた。背の部分の本文と厚紙のあいだに空洞ができるから、ボンドは入れていないようだ。ノドをのぞきこむと奥に糸。かがってあるのだ。ならばもっと開くはず。160度、だいじょうぶ、見事です。奥から7mmくらいのところに6個の針穴。等間隔ではない。針運びはどうしているのだろう。コの字型の厚紙はプリントした紙でくるまれていて、そのうえからさらにカバーがかけてある。軽くとめてあったボンドを剥がしてカバーをはずすが、かかり糸を始末したあとが見えない。かがったあと上からもう一枚紙を貼り、隠してあるのだ。
予想外の展開に解体するのが申し訳なくなり一旦休止するが、やっぱり気になり再開。厚紙をくるんだ紙を、メリメリと剥がす。ボンドはチューブからそのまま出して使ったようで、わりに剥がしやすい。糸が見えた。二本どりした茶色の木綿糸。本文にかぶせたコの字厚紙表紙ごと、上下3つずつの穴を一セットでかがってある。針運びは、おもて1穴→うら3穴→おもて2穴→(うらで横にわたった糸を針でまたいで)うら2穴、ここで、かがりはじめの糸と結んで終了。この針運びは一折り中綴じ本によく用いられる方法で、以前、八巻さんにみせていただいたニュージーランドの PEMMICAN PRESS の薄い詩集もそうである。さてこの「アーティスト・ブック」は、松葉里栄さんの『10・ten』という。「紙を縫う」ことを、意識的にやられてきた作家らしい。
手製本の醍醐味は、読むひとの動きを自分の手や目でシミュレーションし、そのためのかたちを試行錯誤して仕上げることにある。これは子供より大人が得意、だからここに面白さを感じなくては、大人のそれは子供に及ばない。もうひとつ。たとえば『10・ten』の大本は一点ずつのコラージュで、それを複製、丁合いとって手元に戻して一冊ずつの本に仕上げた。一を多に、もう一度、一を多に。冊子体がかたち作られる過程で宿すダイナミックな波動を体感するのが手製本の楽しみであって、セルフメイドや経費節減のアイコンではない。『10・ten』はその意味で、「大人の手製本」の喜びに溢れた、気持ちのいい作品だと思った。
しもた屋之噺(37) 杉山洋一
クリスマスの朝は道路も静まり返り、厳かな日本の元旦を思い出します。ベルリン滞在中、チェロのリンゲラが7歳の娘さんのために、せっせとカードにメッセージを書いていたのを思い出します。一つ一つ丹念に、小さなカードを可愛いマッチ箱のような紙の箱に入れながら、彼女の目も少女のようにきらきら耀いていました。
先日、朝早く寒さに震えながらモンツァの保険局に書類を届けにゆき、ふと窓の外をみると、街を流れるランブロ川が眼前で朝日に光っていて、鳩や鴨が水浴しながら水飛沫を上げています。こんな素敵な風景は知らなかった、そう思いながら、帰りしなふらっと川を眺めると、川にへばり附く、ひょろりとした古い建物の傍らに「コロンボ水車」と標札が立っていて、小さな博物館があるようでした。保険局の奥にあって、普通なら誰も気がつかないに違いありません。
寒さに耐えかね、思わず足を踏入れると、身なりの整った老婦人が一人、本を読み耽っていました。15畳ほどの室内は意外な程暖かく、巨大な石臼が目に入ります。聞けば、この「コロンボ水車」は12世紀からあって、1960年代まで稼動していたそうです。モンツァは19世紀までは帽子の産地として栄え、紡績用の水車が数十箇所に点在していたと言います。市民の生活に必要な種油の精錬にも、水車が役立てられていました。19世紀まで、オリーヴ油などモンツァでは殆ど使われていなかったのです。20世紀に入って帽子が廃れ、同時に度重なる戦争などの影響もあって、1950年以降、モンツァは灯が消えたようだった、と闊達な老婦人は続けました。
「朝は8時半から13時、午後は14時から18時、夜は20時から23時まで、本当に働きづめだったわ。嫁いだ先の工場を続ける人がいなくて、結局わたしが全部取り仕きったの」「主人は画家だったんです。昼間は別の仕事をしていたけれど。音楽が本当に好きで、昔はスカラ座の会員だったのよ。70年前後だったかしら、スカラ座が因襲反対とか気勢を上げて、サイケデリックな音楽や、ラフな服装なんかに堕落したのがショックで、以来スカラには通っていないわ。あれからカルカノ座の会員になって。周りのライオンズ・クラブの仲間と、毎年4列目の並びを取っていたの。でもね、演奏会の途中で眠くなるでしょう。そうすると、主人が肘でこうやるのよ、起きなさいって。後ろの席なら眠込んでも構わないのだけれど、流石にあの席ではね。それが苦痛で主人に頼み込んで、会員席は勘弁してもらったわ」
「主人は、本当に素晴らしい人だった」。彼女は話の合間に繰返しました。「それなのに、単なる病院の医療ミスで命を落としてしまって。何度か訴訟を起こして、病院側に非を潔く認めて欲しかったのだけれど、結局、無駄骨だった。よくある話ね」彼女と生前のご主人は、ブリアンツァ地方の文化保存活動に取分け熱心でした。この熱意の底には「ブリアンツァ」という響きが持つ、掛け値なしの魅力と愛情が溢れていて、30年間、帽子や紡績用品、銀製品や子供の玩具、ブリアンツァの民間信仰など、数多くの展覧会を通し集められた10万点もの蒐集品は、現在モンツァの王宮地下に保存されているそうです。
ブリアンツァ訛の陽気な老婦人に、立ったままではお疲れでしょうと席を勧めると、「ずっと立ちっぱなしで働いてきたから、こうしている方が身体の調子がいいの」そうして、今は、夜になるとボランティアとして、アフリカ系の出稼ぎ労働者を抱える簡易収容所を手伝っていると続けました。一晩3ユーロとか4ユーロ、ベッドと食事代で払わなければいけないし、正規の滞在許可証を持っていなければ泊まれません。35日間しかいられないので、一ヶ月過ぎると別の収容所へと転々とするしかありません。「皆、さまざまな人生を背負っていてね。内戦で焼けだされていたり、少しでも家族に仕送りしたくて、はるばるやって来ていたり。皆とても良い人ばかり。でもね、彼らにこう謂うのよ、ほとぼりが冷めたら、さっさと故郷に帰りなさいって。イタリアに来て分かったでしょう。ここは天国でも何でもないし、仕事もない。イタリア人でさえ仕事にあぶれていると言うのに、彼方達がどうしようと謂うの。どうにもならないのは目に見えているでしょう」でも、皆本当に真面目で素朴で良い人たち。チュニジア、モロッコ、ソマリア、色々な出身地があって、顔付きもそれぞれ。「トーゴ人のあの人懐っこい前歯ったら!」そう言って、彼女は愉快そうに笑いました。
「今日はあなた、普段は目に見えないようなモンツァを、沢山知ったわね」
老婦人の声は、とても温かく響いて、思いがけないクリスマス・プレゼントにあずかった心地がしました。「また何時か遊びにいらっしゃい。そうしたら、もっと素敵なお話を聞かせて上げましょう」(12月25日モンツァにて)
きょうは何しよう
どうやって過ごそう
何を食えばいい
起きて 坐って 考える
まあこんなものか おれの人生
頭脳(あたま)と2本の腕
ひきしまったからだがある
闇の宝くじ、賭け事はやらない
無尽もやらない
そうかといって金も貯めない
指輪はない
腕時計もない
あるのは安物の腕輪
絆があるといえば
子ども
痛みに満ちた人生
奇異に満ちたものがたり
囲いなんかは
破るもの
囲いなんかにゃいたくない
収賄などには縁もない
好きなことは
ひとりで飛んでいること
旅すること
山と海
好きなことは
屋台の本を見て回ること
気に入ったヤツとつきあうこと
高価なものには縁がない
許せないのは
階級のある社会
ところできみはどんなヤツかい
何のため生きている?
何を求めて生きている?
それともそんな風に生きているだけか?
たとえ犬死しても
おれは考えていたい
創っていたい
人は金で殺し合いをすると
きみは知っていたか?
持てる者は鷹揚だ
気の短いヤツよ、嘲笑うな
たらふく食ってるヤツよ
考えてみたらどうか。。。
スラチャイがジャングルからバンコクへ戻っていくばくもないころ、つまりわたしたちがカラワンと知り合ったばかりのころの歌です。当時のタイは高度経済成長期に入る前で農村地帯の貧困が進み、バンコクのスラムに流入する人口が増大していました。スラチャイが「階級のある社会」と言っているのは、貧しい農民は都会に出て労働者になっても生涯、極貧から抜け出せない、という現実のことを指しています。
この歌のタイトルを直訳すると「囲いの外にいる者」つまりスラチャイの生き方そのもので、日本語にするのに苦労してしまいました。まだ仮のタイトルのつもり。当時仕事でバンコクへ行くことが多くて、合間に会いに行くといつもこんなような暮らしかたをしていました。仕事もあまりなくて昼頃起きてぼっと考える。。。それからどこへともなく出かけていく。
当時おくさんはひとりでしたが、週1回、金曜の夜しか奥さんのところへは帰らないのでした。今はおくさんがふたりですがあまり変わりません。毎晩いるところが定まらない。ともだちの部屋、ホテル、女のところ、場末の食堂の片隅。。。などなど。好きなことは「ひとりで飛んでいること」。すっかり仕事が忙しくなった今も、日常性という枠のなかに安住できないでいるところは、この歌のころとちっとも変わっていません。(荘司和子)
世界は藪の中 高橋悠治
黒雲が空を覆って 2004年
熱い風が海に渦巻き
ジャマイカのハリケーン ウチナーの台風
地震の数限りなく 津波が世界を走り
家なぎ倒し 山崩れ 河はあふれて
死ぬのは こども 母親 年寄り
村に人影なく 街の灯も消えた
世界はまだ 藪のなか
ぬかるみに足をとられて
道もない闇
荒れ狂う地球をよそに
人間は殺しあい 奪いあって
情け知らずの 2004年
とらぬタヌキの株取引にあけくれ
みえないカネが 国境こえてゆききする
南の貧民はどれい労働 難民 不法滞在
北の中産階級 明日も知れない不安な暮らし
それでもぜいたくやめられず
世界はまだ 藪のなか
新自由主義に足枷はめられ
とまらない成長路線
金持ちは もっと金集め
権力者は もっと力見せつけ
悪の枢軸 戦争だ 空爆だ と
弱そうな国みつけては 国家テロ
オオワシは 東のポチ 西のプードルしたがえて
劣化ウランにクラスター
あめあられとばらまいて
赤字経済もしったことか
地球温暖化より 企業がだいじ
世界はまだ ブッシュの再任期
ネオコンに足もと見られて
とまらない 構造改革
2005年
カレンダーだけは あたらしく
世界はいつまで 藪のなか
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