2005年2月 目次


目に鳩                   巻上公一
循環だより                 小泉英政
詩の書き方・続――翠の虱(4)       藤井貞和
2つの〈日本の人〉             三橋圭介
振付家名のクレジット(1)         冨岡三智
しもた屋之噺(38)            杉山洋一
河は忘れない      スラチャイ・ジャンティマトン
日曜日は隣町をタンケンしよう        御喜美江
製本、かい摘まみましては(5)       四釜裕子
花崎皋平さま まゐる             高橋悠治



目に鳩  巻上公一




雪をみると目が鳩になるよ
と息子が言うので
どうしてときくと
赤くなるんだよという


ウルトラセブンの額から
出ている光線のようなもの
あれは水なんだそうだ
そういえば消防車の色だよね


風をみると目が蜂になるよ
と息子のまねしてみた
どうしてときかれ
青くなるんだよという


スマトラ沖の大きな地殻変動で
たくさんの人がなくなりました
しかしそのせいで
一年がわずかに短くなったので
われわれは残念ながら長生きになるのです


いいたいことをどうやっていわないか
いえないことをどうやっていうかが
本年の大きな課題です





循環だより  小泉英政




  ヤマイモのように

昨年はいろいろあり過ぎた。嬉しいこと、悲しいこと、そして天変地異。今年も何が待ちうけているのかわからないが、腰を落ち着けてじっくり行こうと思う。

仕事始め(遊び始め)にヤマイモ掘りにでかけた。軽トラックに積んだのはエンピと呼んでいる細幅で先端が尖ったスコップ、手鋸、鎌、ヤマイモを入れる袋(紙製の米袋の使い古し)、そしてゴム手袋。

真冬のヤマイモ掘りは難しい。木などにからみついているヤマイモの茎をたどってその在処を見つけるのだが、それはせいぜい霜月までだ。師走もなかばとなると、茎が枯れ、もろくなって寒風に飛ばされて、中空で途切れてしまっている。ぼくがでかけたのは年が変わってからで、まさに今年の抱負のように、じっくりと腰を落ち着けてかからなければ見つからないミステリーな世界となっている。

里山のなかで遠くから見てヤマイモがあるかどうか教えてくれるのは「さく果」と呼ばれるカラカラに乾燥し、明るい色をしたヤマイモの髪飾りのようなものだ。キラキラと輝いて見えるさく果の数が多ければ多いほど、そのヤマイモは年数がたっていて大物である。

その髪飾りを見つけたからといって、すぐその真下に行って歩き回ってはいけない。はやる気持ちは分かるが、まず「落ち着けって」と自分に言い聞かす。自分の足元にあるヤマイモの形跡を踏みつぶしてしまうかもしれないからだ。

足元に気をつけて、その近くに寄り、まずは上の方からつるの行方を追う。上を見て顔を動かし目で追っていると、どうしても口がぽかんと開いてしまう。誰かが見ているわけじゃなし、まあいいかと、さらに口を開けて、ああ行って、こう来て、こう来たとつるを追う、そこで、無情にもつるは途切れる。ハイウェイが途中で切れて、崖底に転落した気分だ。気をとり直して、ここからが肝心なところ。そのつるの先の方に、しの竹があって、そのしの竹の地面に近い部分に、つるの終わりにさしかかった何節かが残っている場合もある。または、途中の崩落したつるの残がいが、何かにひっかかっていたり、地面に横たわっている様から、ヤマイモの在処の手がかりをつかむこともできる。

だいたいの場所の見当がついたとして、地面の落ち葉や枯れ枝を静かに取り除き、地面からわずか五ミリほど出ている最後のひと節を見つける場合もある。

ここまで来て、わからない場合は(かなりあせってきているが)、最後の手段として、地面を慎重に掘ってみてヤマイモの根を探す。地下に伸びるヤマイモの主根のはじまりは、少しこぶ状になっていて、そこから放射線状、地表をはって八方に細長い根が走っている。その根を見つけ、とてももろいので慎重に掘りながらたどっていって、主根のこぶに行きつくこともできる。八本の根のうちの二本を見つけ、その二本の交わった所に主根がある(口で言うのは簡単ですが)。

ヤマイモを掘る前の、ヤマイモ捜し、年々、腕を上げてきて、今年は八割、探しあてることができた。地下1、2メートルほどの深さからヤマイモを掘り上げる。赤土を体中にくっつけて、ずっしりと重い。「よくこんなに伸びたねえ」と声をかける。こうしてあなたを探し、出会うことによって、ぼくももう少し大きくなれたらと思いながら。



詩の書き方・続──翠の虱(4)  藤井貞和




 以前、『ミて』38号に、
「詩の書き方」を載せました。


  老人は死んでください国のため(宮内可静)


 を引用して、
川柳について考えたのです。


ある結社誌では表紙に、
 この句に対する抗議文を出したという。


 新垣紀子さん(編集記者。)によると、
一九九七年の大騒動になった一句でした。


その新垣さんが『恋川柳』をだして、
 林ふじをの作品をまとめています。


  諦められたらそれは私のぬけがら


  いのち二つあるかのごとく浪費する


  寝る時間きりつめている骨っぽい詩だ


  やすらぎのまだまだ遙か掌にふれず


  火のいのち絶え絶えとなりなほ恋ふる


最晩年(三十四歳、昭和三十四年没)の、
 作品から引いてみました。(『ミて』に
  引いたのとは別の傾向を出してみたくて。)


 (『ミて』に私の引いたのは、小林孝吉さんからの、
孫引きで、)そのなかの、


  子にあたふ乳房にあらず女なり


は、別れた(養女に出した)娘と会ったとき、
 いさかいをしたのでしょう。 
  「母いつも母であれとはきびしすぎ」
    というのもそこに見られました。


けっして別の傾向ではないと知られます。



(「ひとりだけかばってくれて好きになり」「体当りして距離感を粉砕し」「とめどなく話し歩いてなほ話し」「接吻のまゝ窒息がしてみたし」「マイナスで悔いなし君と在るほてり」。以前に『ミて』に林ふじをの川柳作品を引用したら、このたび新垣紀子『恋川柳』(はまの出版)が出て、送ってくれた。夫が戦死し、娘を養女に手放して、川柳作家となる。「機械的愛撫の何と正確な」「母いつも母であれとはきびしすぎ」「子にあたふ乳房にあらず女なり」「男など路傍の草と踏みにじり」という作品が『川柳研究』にならんで、これらによると別れた娘と定期的に会うらしい。「旧姓に還つてからの劣等感」「白い雲流るる果てに子は住みて」「ひとりゆく女に大地ゆれやまず」「諦められたらそれは私のぬけがら」。──今回の「詩の書き方・続」というタイトルをわかりにくいと思いますが、林ふじをという川柳作家が二人いて一人が一人について書く、と思って下さい。)





素材の総合ではなく、出会いという発想〜2つの〈日本の人〉  三橋圭介




最近、DJスプーキーという人のアルバムをいくつかきいたが、かれはアート系を代表するDJの一人で、バング・オン・ア・キャンの「ロスト・オブジェクツ」にも参加している。かれのオリジナルの作品はロックやポップス、エスニック、クラシック、現代音楽までありとあらゆる音素材を新たなコンテクストのなかで組み合わされることで別の次元の音楽へと姿を変える。バロウズやP. スミスの朗読、伝統音楽、ドビュッシーの自作自演、坂本龍一、ソニック・ユースなどを素材に独自の美意識に根差した音楽を作り出している。ただ、少し物足りないのは音楽がコンセプチュアルな枠に留まっている点にある。おそらく、素材の選択や組み合わせが美的に考え抜かれて総合されているからだろう。そのため着地点は立派で巧みだが、出会いの驚きには欠けることもある。

DJだけがミックスをしているわけではない。昔、細野晴臣、坂本冬美、忌野清志郎の期間限定のユニットHISの「日本の人」というアルバムをよくきいた。これは日本のポップスの傑作だと今でも思っている。テクノの細野、ロックの清志郎、演歌の坂本がそれぞれの個性を消さずに、真っ向からぶつかりながらテクノでもロックでも演歌でなく、テクノでもロックでも演歌でもある、何とも不思議な音楽を作っていた。出会いがもたらす総合的な昇華ではなく、ぶつかり合ってねじれる得体のしれない感覚。それはジャズやボサノバのような音楽が日本に輸入され、日本化されてアレンジされた初期の歌謡曲と似ているが、そうした変化の途上にあるものは完全に取り込まれてしまったものより独自の魅力がある。「日本の人」も日本のテクノと日本のロック、日本の演歌を遊び感覚でミックス(細野のワールドミュージック的な思考の産物だろう)し、「日本の人」の音楽としてどこにもおさまらない魅力があった。

2003年に近藤等則がプロデュースした「The 吉原」も「日本の人」の別ヴァージョンと言えるもので、ミックスの刺激的なアルバムだ。近藤は早くからDJと組んだアルバム(96年にDJ KRUSHと組んだ「記憶」などがある)を作っているが、この「The 吉原」はそうした経験から自然に生まれたものだろう(近藤が栄芝をきいて「これだ!」と思ったときの発想がダイレクトに示されているように思える)。ここではジャズ・トランペッターの近藤がDJのように振るまって端唄・小唄の栄芝を自在に料理している。料理といっても歌を変形させているわけではない。機械的なエレトリックなテクノのリズムに小粋な歌をうまく乗せ、それが栄芝の艶のある声を引き立てている摩訶不思議。正反対の相反するものがミックスされるときの化学反応が不思議な熱を帯び、どこか吹き出してしまいそうなおかしみも滲んでいる。

DJのミックスという発想は最も新しい音楽のあり方を示しているが、素材やスタイルの総合、統一ではなく、予想を超えるミックスのダイナミックな出会いのなかに音楽の新たな可能性が開かれている。2つの「日本の人」はDJを越えている。



振付家名のクレジット(1)  冨岡三智




ある舞踊作品が誰の作なのかをクレジットするにもいろんなやり方がある。今回はいわゆる伝統的なジャワ舞踊の世界において、舞踊の作者=振付家の名前をどのようにクレジットしてきたのかについて述べよう。

以前にも書いたように、ジャワ舞踊は宮廷舞踊と民間舞踊の2つの流れに分けることができる(2002年12月号2003年1月号)。宮廷においては、舞踊は王(や王族)の作とされる。たとえば「スリンピ・ゴンドクスモ」は後のパク・ブウォノ8世が皇太子に即位した時に作られ、そのためにパク・ブウォノ8世の作だとされる。現実には宮廷舞踊家が作っているはずであるが、その名前は言及されない。それは公共工事や建築が王の業績だとされるのと同じである。舞踊作品が新しく作られたりリメークされたりするきっかけも王や皇太子に即位する時というのが多く、芸術作品を作ることは芸術家個人ではなく王(や王族)の事業であり業績だと見なされていたことが分かる。

このような意識は実は現在にもまだ生きている。たとえばソロの宮廷には新しいレパートリーとして「ブドヨ・キロノラティ」という作品がある。これは宮廷ではムルティア王女の作だとされているが、実際はスリスティヨという人が作っている。その初演時にムルティア王女がバタッというブドヨでは一番重要なパートを踊り(スリスティヨ氏はかつてソロの宮廷で踊っており、王女とは親しい)、王女がこの作品を気に入って宮廷でも使いたいと断ったという。しかし他人の作品を上演するというなら通常は元の振付家の名前をクレジットするところだが、宮廷がそうすることはない。

宮廷芸術家がその名前をクレジットされ、業績を認められるのは実は宮廷外においてである。ソロの宮廷はパク・ブウォノ10世が1939年に亡くなってからは経済的に逼迫し、それまで十分な待遇で暮らしてきた舞踊家が宮廷外で裕福な宮廷貴族層の子弟に、あるいは学校で舞踊を教えて暮らさざるをえなくなった。この時代は宮廷芸術家にとっては生活の危機で辛酸を嘗めた(全くの余談だが、これをインドネシア語ではマカン・ガラム=塩を食べると表現する)時代だと言えるが、その結果多様な個人スタイルや解釈が生まれたという点では、芸術が進展した時代だったとも言える。

このような宮廷舞踊家の中で初めて振付家と呼ばれたのがクスモケソウォ(1909〜1972年)である。(クスモケソウォについては「水牛の本棚」no.3のサルドノ著の「ハヌマン、ターザン、ピテカントロプスエレクトゥス」を参照してください。)宮廷舞踊家の中でも特にクスモケソウォが有名だったのは、宮廷舞踊家として一番位が高かっただけではなく、1950年にソロにインドネシア初の芸術コンセルバトリ(その後のSMKI、現在のSMK negeri 8=芸術高校)が開校したときに唯1人の舞踊教師であり、1961年に始まるプランバナン寺院での「ラーマーヤナ・バレエ」の振付家だったため、広く一般の人に名前が知られたことによる。

クスモケソウォの作品で一番知られているのは、1952年作の「ルトノ・パムディヨ」であろう。これは、宮廷舞踊の語彙と用法だけで作られた最初の新しい舞踊だと言える。こういう言い方は何だか変であるが、現在私達が習う伝統舞踊のレパートリーが作られるのがこの「ルトノ・パムディヨ」以降なのである。宮廷舞踊というのは厳密に言えば女性舞踊のスリンピとブドヨ、男性舞踊のウィレンだけであって、これらの多くは1970年代に公開されるまでは門外不出である。

「ルトノ・パムディヨ」は単独舞踊であるという点で従来の宮廷舞踊の伝統にはない新しいスタイルであり、またそこで使われている宮廷舞踊のテクニック自体も当時はまだほとんど一般には知られていなかった。ちなみに宮廷舞踊のテクニックを修得するためのメソッド「ラントヨ」も、クスモケソウォによって1950年頃にコンセルバトリの授業で教えるために考案されている。

この作品は、インドネシア政府が初めて芸術使節を海外(このときは中国)に派遣した時にソロからの舞踊作品として作られたものである。この海外公演後に「ルトノ・パムディヨ」はコンセルバトリで教えられるようになり、以来現在に至るまで芸術高校、そして芸術大学(1964年開校)の基本レパートリーとして定着した。このように海外公演のために特に振り付けられたということ、そして教材とされたことで、この作品のオリジナリティと振付家名が守られたと言える。

(続く)



しもた屋之噺(38)  杉山洋一




昨年暮れ、リコルディ社からクリスマスカードと一緒に2005年の手帳が届きました。ディレクターのクリスティアーノは勿論、販売促進部のルイザ・ヴィンチやアンナマリア、ナディアといった女性陣に交じり、貸譜の責任者マルコもカードに寄書きしています。
初めてガレリア脇ベルシェ通りのリコルディ社に出向いたのは、9年も前になります。作曲のPと初めて会ったのが、陽のあたる午後のリコルディ社でした。今思えば洒落た話ですが、当時はそんな旧き良き雰囲気が残っていたのです。あの頃ベルシェ通りの建物は丸ごとリコルディ社で、玄関を入り、高い吹抜けの長い石階段を登った2階が受付という、贅沢な作りになっていました。リコルディが拙作を出版したとき、新入り作家の担当だったマッジョーニ夫人と、当時は販売促進部長だったクリスティアーノがエレベータで迎えてくれて、「君もこれで家族の一員だ。芸術家の集う大所帯にようこそ」そう声をかけてくれたのも懐かしい思い出です。

かかる温もり溢れるイタリアの空間は、瞬く間に消えてゆきました。2年と経たないうちに、いつも笑顔だったマッジョーニ夫人が肩叩きにあい、お抱えの写譜の職人さん達もお払い箱になり、気がつくとベルシェ通りのビルはがらんどうになっていて、地階がコンピュータの販売店やインテリアの店舗にとって替わり、4階まであったオフィスが最上階のみに縮小されるまで、それから1年とかからなかったと思います。大好きだった趣きある石階段もなくなり、モダンなエレベーター2基に取って変わられてしまいました。

リコルディ社と言えば、100年ほど前にヴェルディやプッチーニらオペラの流行作曲家を抱えて成功を収めた出版社ですが、送られてきた2005年の手帳にもティート・リコルディがプッチーニと一緒に被写体に収まっていて、往時が偲ばれます。音楽ジャーナリストのクラウディオ・リコルディは、そのティート・リコルディの末裔にあたります。どんな気品溢れる紳士かと思いきや、ぽんぽん冗談ばかり飛び出す気の置けない男で、リコルディ社には大分前に権利を譲ってあり、現在の繋がりは殆どないそうですが、芸術家や文化人との親交は続いているのか、彼の博学には何時も舌を巻きます。

1月27日のアウシュヴィッツ解放記念日にあたり、ハース、ウルマン、クラザ、クラインら、アウシュヴィッツで歿した4人のチェコ人作曲家について、幾つかの新聞社からインタヴューを受けたのですが、クラウディオもまた、ラジオ・ポポラーレの特別番組に他の音楽家と共に招いてくれました。奇遇ながら、クラウディオも戦時中の芸術家のユダヤ人問題に深い関心を寄せていて、丁度あちこちで資料を収集していた処だったのです。そこにはギターのエマヌエレ・セーグレも招かれていて、アメリカ滞在中子息から直接手渡されたという、カステルヌォーヴォ・テデスコの手記を読み上げました。

「……1938年私はフィレンツェで暮らしていた。或る朝ラジオ局から連絡があり、演奏会の曲目が突然変更になり、カステルヌォーヴォの協奏曲は再演されないと言うではないか。どうしたのか、ソリストが作品を気に入らなかったか、心配になって思わず連絡すると、彼は、とんでもない、とても気に入っていると言うではないか。事の真相を少しづつ紐解いてゆくと、どうやらタクトを取っていたドイツ人指揮者の口利きだったらしいと分かってきた。指揮者の名前は忘れたが、彼はナチスの党員で、ギーゼキングの同じむじなだった。その頃から、得体の知れぬ恐怖が目の前に迫っているのを、薄く感じていた。それから暫くして電話があり、今度はメンデスゾーンのヴァイオリン協奏曲がプログラムから外されたと言う。一体これからどうなってしまうのか、本当に分からないと思った。スイスから戻った9月2日、遂にユダヤ人の子供に対し、普通学校への通学禁止令が施行されたが、あの時の、愛する息子ピエトロの沈んだ顔は一生忘れられない。妻クララは心から憤怒して叫んだ。大人のユダヤ人に何をしようと、まだ理解出来るわ。でも無実の子供たちに何の責任があると言うの……。私たちは怯まなかった。残る道は旅立ちしかない。しかし、何処へゆけば好いのか。当初余りに突然で、皆目見当さえつかなかったが、考えを巡らせた後、自由溢れる豊かな新天地、アメリカに焦点を定めた。そうして先ずスイスのルガーノへ行き、トスカニーニ、ハイフェッツ、スポルテッグに手紙を綴った。アメリカで仕事を都合して欲しい。どうしてもイタリアを捨てなければならない。切々と訴えた。トスカニーニから早速届いた返信には、心配するな、全てうまくゆく、そう書いてあって、深い感動が私たちを出国へと駆立てた。当時誰もが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれ、某か仕事を見つけて来てくれた。それから間もなくして、トリエステの港から汽船に乗り込んだ。海を隔て遠退いてゆく祖国を目の前にしながら、身体が張り裂ける思いだった。あの瞬間、はっきり自分の裡で何かが死んだ……」

黄ばんでいかめしいタイプ打ちの原稿を読み終えた処で、クラウディオはカセットのスイッチを入れました。ロサンジェルスの自宅でカステルヌォーヴォ自身が演奏する「チプレッソ(糸杉)」というピアノ曲で、彼の故郷トスカーナ地方の糸杉が、静謐な音に包まれ佇んでいます。繰返し聞いたハイフェッツの録音で、カステルヌォーヴォには親しんでいて、戦争でアメリカに移住したのも知っていたけれど、この手記を通して、自分が何も理解していなかったと気が付かされます。そして何より、掛け値なしの人のふれ合いは、聞いていて直截に心に染みて来るものです。後日、クラウディオの番組で紹介された、アウシュヴィッツからの生還者ネド・フィアーノについて調べていて、ふと、全ての文字が野原に生える無数の墓標にすげ替わり、思わず身体が強ばりました。本来、文字とは死者の記録の為に発明されたものかも知れません。

テレジンで書いた作品を、作曲家たちはアウシュヴィッツへ持ってゆきませんでした。自分と共に楽譜も消滅すると知っていて、テレジンに残る友人に密かに託したのです。その友人もテレジンを旅立つとき、見送る別の友人の手にしっかりと握らせてから、暗く冷たい貨車に乗り込んだに違いありません。無数の命のメッセージは、こうして脈々と生続けて来たのです。
「まるで海岸に流れついた、瓶の中のメッセージだ」。クラウディオは言いました。
「そうして瓶の中には、無数の命がぎっしり詰まっている」

(1月30日モンツァにて)



河は忘れない  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子 訳




河よ
高い山から流れ下る河よ
たけり狂う大蛇のように激しく速く
そんなときは
あらゆるものを一瞬のうちに飲み込んでしまう
あるときは
悲しげに静まり返って
草むらにひっそり身を隠した
明け方の露のしずくのように
身じろぎひとつしない


あぁ河よ
はるか遠くの 国境の山脈で
大きな岩がつぶやくように語る
過ぎ去って行ったできごとについて
革命はとうに終わってしまったが
河は今も流れつづける


河は山の戦士たちの記憶を忘れはしない
銃声は止んで久しいが
残された薬莢が
錆びてあたり一面に散乱する
けれど
それも今はもう
山々を鮮やかに彩る
蝶や花となった
あぁ河よ 河。。


これは「おやじは忍耐強かった」というタイトルの最新のCD の中でスラチャイが朗読している詩でメロディはありません。CD カバーに恐ろしく小さな文字で彼のことばが印刷されています。虫眼鏡を取り出して目を凝らして読み取ったところ、これはスラチャイが企画、制作、販売までひとりでやった自主制作で、「何部売れないともとがとれない」とか、「どうして売れないのか」とかいう制作会社の損得勘定とつきあう必要がなくてとてもしあわせで自由につくった、とありました。

その文の最後に「今この瞬間もまだタイトルが決められないでいる」と結んでいるので、タイトルが英語で「Daddy 」となったのは印刷の直前かもしれません。

この詩のタイ語のタイトルは河(メーナム)。おそらく1980年ころ彼がいた北部国境近くの山岳地帯にあった解放区または競合区を流れる河を指しているのでしょう。南へ下ってチャオプラヤー河に合流するのか、東へ下ってメコン河へ合流するのか。。 タイの北部にはこの両大河に注ぐ水量の豊かな支流がいくつもあります。(荘司和子)



日曜日は隣町をタンケンしよう   御喜美江




1月も終わりが近づくと、ここ北緯52度のラントグラーフは日照時間が少しずつ長くなり、冬もいよいよ峠を越えたかな、と心があかるくなる。昨日は先週ずっと吹き荒れていた風もやみ、めずらしく太陽も出てきたので、まあせっかくの日曜日だからと、久しぶりに夫と散歩に出かけた。

オランダの田舎には小さな町や村があちこちに散らばっていて、どの町にもマルクト広場が中心にあり、そのまわりには商店、アムロ銀行かラボ銀行のどちらか1つ、郵便局、レストラン等がある。どんな小さな町でも必ずあるのは中華レストラン。かつては真っ赤なペンキで派手に書かれてあっただろう漢字が、今では色褪せ薄汚くなった看板としてマルクト広場のほうをむいている。それは上海酒家だったり長楽酒桜だったり、または広東、北京、四川と名前こそ様々だが、どれも例外なく“まずそうな漢字”となって統一している。このような町絵は実に典型的でどこも似たり寄ったりだが、でもほ〜んの少し他と違うところがあって、それを発見することを私たち夫婦は“Tanken”とよんでいる。ドイツ語として訳すと“給油する”という動詞だが、これは実は日本語の“探検”のこと。

この言葉の由来は今から10年前、当時7歳だった甥の敦ちゃんが我家に来たとき、家の中で屋根裏へのぼるとき、庭の小屋へ行くとき、地下室を覗くとき、いつも「タンケン、タンケン!」と喜んではしゃぎ、それ以来、はじめての場所で小さな見つけものをするとき、「タンケンしよう!」というふうになった。傍から見たら面白くもおかしくもない表現だろうし、内容なんて無いも同然かもしれないが、でもこのタンケンが結構楽しいのだ。

というわけで昨日の日曜日は、隣町なのにいまだ一度も訪れたことのないブルンズムという町まで車で行き、そこのマルクト広場に車を駐車しタンケンをしてきた。柔らかい“R”の発音をもつブルンズムという響きは、まるで美味しいデザートのようで、すら〜っとした滑らかな町絵を想像していたが、もちろんそんなことはなかった。

正面に役場、となりにアムロ銀行、2本の歩道沿いには衣料品店、自転車屋、薬屋、花屋、その奥の方にスーパーマーケット。ここまでは他のどの町とも全く同じで新発見は全然ない。まるで“町絵のテスト”に出て「よくできましたね、ハナマルです!」との賞状をもらった町みたい。「なんかつまらないね」と私が言うと、「そんなことはない、なかなか興味深い町だ」なんて夫は答える。

そこでマルクト広場へ再びひきかえし、車道沿いを散歩すると、ここから少しずつ変化が始まった。どんな変化かというと、こんな小さな町には不似合いなほど、やたらレストランが多いのだ。ギリシャ料理、ピッゼリア2軒、バルカン料理、ランチルーム、中華料理2軒、魚料理、居酒屋……、すごいな〜。まるで日本のデパートの最上階にあるレストラン街みたい。そしてもっと驚いたのは、午後4時半というヘンな時間なのに、どこを覗いても満席。オランダ人はドイツ人とは正反対で、窓にカーテンや簾などをしないから、外から中は丸見え。そこでは大柄のオランダ人たちが狭いテーブルを窮屈に囲んで、でもいかにも美味しそうにガツガツ食べている。ところで街中の歩道では、ほとんど誰にも会わなかったから、ブルンズムは、日曜日の午後に街中のレストランで食事をする人口率が、他の町よりはるかに高い、という結果を出して、この日のタンケンを終わりとした。

さて、たとえそれが峠を越えても、冬は冬。日が落ちると気温は急激に下がりドカンと一瞬にして寒くなる。その頃には冷たい北風も吹き始め、あたりもすっかり暗くなっていた。帰途の車のなかでは、最近買って気に入っているグルダのバッハ平均律を聴きながら、私はというと、例の中華料理店の“まずそうな漢字”看板を見たにもかかわらず、急に空腹をおぼえ、「帰ったらまずはチキンシチューの鍋に火を入れて、それから沢山残っている野菜で八宝菜を作る。パスタはオリーブ油でさっと炒める。赤ワインを開けて食後はチーズ」なんて、一人ディアロークに浸っていた。ダンナは無言でグルダを聴いていた。

私達のタンケンはいつもこのように平凡なので、ハングリー・エンドとでも言いましょうか、空腹のおとずれと共に終わるのです。でもこんな平凡な日曜日が私は大好きです。


(2005年1月24日ラントグラーフにて)



製本、かい摘まみましては(5)   四釜裕子




前回触れた『10・ten』の松葉里栄さんが、記事を読んでメールをくださった。自分の作品をどうやって人に見てもらうかを考えた結果、本のかたちになったこと、製本するのは初めてだったが、面倒ながらも楽しんでできたこと。わたしが「3,000円は高過ぎる」と書いたことに対しては、完成直後に興奮してつい高く値付けてしまいました、などお話くださった。いえいえこちらこそ、勝手言い放題のご無礼を。『10・ten』次号を楽しみにしています。

『10・ten』はアート・バイ・ゼロックスの協力を得ている。これは1990年に富士ゼロックスがはじめたもので、そのなかのひとつに、若手アーティストにカラーコピー機の使用を提供するプログラムもあるのだ。飯島千裕さんの写真集『Re-Soul』(2004)も、アート・バイ・ゼロックスによるもの。A5サイズ、蛇腹仕立ての手製本、200部限定、2,625円。

きっとこんな手順で作られたのだろう。まずA4サイズの紙に、写真をレイアウトしてカラーコピー。プリント面を内側にして、真ん中から折る。小口側となる辺にスティックのりを塗って次のページの紙を貼り、順番に重ねていく。あるいは全ページを重ね合わせた状態で、次々と貼ったのかもしれない。いずれにしても、最後に小口側をカッターで切りそろえ、コの字型の厚表紙をかぶせて貼る。表紙はシルバーメタルの薄紙にコピーしたものを、台紙にきれいに巻いてある。机に開くとほどよく本文紙がたちあがり、めくってよと誘ってくる。ページの裏側がのぞき見えるので、これなら両面コピーでもよかったかも、と思ったらありました、一点。

全体に、とにかく丁寧で美しい仕上がり。おまけも付いている。ケニアやタンザニアなどで撮った写真を切り抜いて穴を開けたものが二葉と、なにか植物の種が15粒。なんだろう。植えてみようか、噛んでみようか。ただ見返しの紙の選択、あれはどうかな。ワープロがきれいに印字できます、として売られていたようなたぐいの、きみどりいろの紙。

この写真集の版元である SWAMP PUBLICATION は、アートブックを企画・制作・流通・販売をおこなうために、鷹野依登久さんが立ち上げたプロダクションだ。鷹野さんは、1998年に参加したアートブック『OBSCURE』以来、『ORDINARY SCENERY』(2001)、『A FAMILIAR VIEW』『My Family』『Tokyo Fukei』(2003) などを、アート・バイ・ゼロックスの協力で制作している。2003年の『Tokyo Fukei』はA4を縦に二つ折りした大きさで、軽く鑞びきしたような糸で中綴じし、そでつき表紙カバーがかぶせてある。かがり糸が表紙のしたからチョロリとのぞくが、いかにも手製本的ぬくもりを感じさせない。昨年ナディフで開いた個展『東京風景II』では、作品集を会場で公開製本し、綴じ方やかたちなどすべてばらばらの100部を、サイン・ナンバー入りで販売した。

カラーコピー+手製本によるアートブックは、ハンドメイドのぬくもり感、あるいは、印刷できないからカラーコピーでやってますという逃げによって、あっという間にちゃちな冊子になりさがる。コピー機を使うと決めたのならそれ用に、写真にむいた紙、線画にむいた紙を厳選すれば質感は驚くほど変わるのだし、それを活かすための製本を自ら試せば、こんなにもばらばらの冊子ができるんだと、アート・バイ・ゼロックスによる作品を見て思う。

製本するのは初めてです、と、作り手のかたはおっしゃる。そりゃそうでしょう。コピー機やらコンピュータやらデジカメやらのおかげでわたしたちは、本づくりという大人っぽい理由をつけて、幼いころ覚えた切ったり貼ったりを、ひさしぶりに身体に呼び戻しているにすぎない。だからみようみまねでとりあえず、誰でもできる。手製本の楽しさの原点は、そこ。



花崎皋平さま まゐる   高橋悠治




「おたるとみおか 偶感詩片」を送っていただき 
ありがとうございます 
おてがみよりも 詩のなかから 
最近のご様子もわかってきました 
日々を詠む定型詩は 風にのるたより 
俳句 短歌 絶句 パントゥン 4行詩の系譜 
直接語りかけることをはじらう 
なかば脇を向いての ひとりごと 
傍白 というのかな 
人称もなく 客観性も意識になく 
心に応えても 反応をしいないことば 
抵抗や風刺でもありうる ことば 


老いて詩に回帰する人がこのごろはいます 
詩は青春の知恵熱 世間に出るのは小説 
あるいは権力やビジネスか 
そう思いこんできた 日本の繁栄も 
おとろえ 社会も老いて 
国滅びてうたがある 
それでも
俳句や短歌ではないのは 共同体の崩壊ですか 


あいまいな日々の名残が心にたまる 
かつては詩が リズムと感性によって 
日々の暦を 歴史を 哲学を 
政治を 時代を語っていた 
近代では 詩は私的叙情と非日常 
詩をうしなった論理のほうは 
身体と社会からはなれ 
精神と文字と大学の内側 
権力のもと 教授でいるために 
フッサールを裏切り 
ユダヤ人の弟子を捨てる ハイデッガー
にせの語源と遠方よりの解釈 
根拠のない存在の神秘 
沈黙と権威だけが生きていく 
心をひらくことばをもとめて 
ツェラーンは 河に身投げする 


「うた」ということばは 
訴えるではなく 
打つでもなく 
「うたて」や「うたがひ」から来たといいます 
とどめようもなく 
心からまっすぐほとばしる 
問いかけ 
ですか 
歌と踊りは 女たちのもの 
男たちはかたわらで 楽器・道具を あやつる 
技術と抽象は 奪う 


女が書くためには 500ポンドのおかねと 
じぶんだけのへやが必要だと言った 
ヴァージニア・ウルフ 
星座を仰いで溝に落ちる ピタゴラス
時計をゆでる ニュートン 


明確な定義は危険です 
分離し 自己を確立するこころみは 
差別につながる 
ひとがいっしょにいるのは 論理でも信仰でも 
ことばでさえない 
ヒューマニズムでもなければ 客観性でもない 
ひらかれた場所 
公ということばは 
今の日本では 官になったのか 


ヨーロッパの人文主義だって 
大理石の白いアクロポリス 
白いオリンポスの神々の 起源神話が必要だった 
ナイルを下り エジプトを経て 
戦いの女神 黒いアテネを生んだ 
アフリカの知恵は どこに 


啓蒙主義の裏には 大西洋奴隷売買がある 
ブーバーの我と汝と シオニズム 
ルソーの高貴な野蛮人と 先住民虐殺 
友愛とギロチン 
自由と帝国 
民主と国民皆兵 
市民社会の批判や脱構築も 
イラク戦争のなかの デリダとハバーマスのように 
ヨーロッパ選民思想に回帰する 
スラヴォイ・ジジェクだって ラカンにとらわれた 
「新しいヨーロッパ」の一員に終わるのか 
異邦人でありつづけること 
ことばをためらいながらつかうことは 
こんなにむつかしい 


1968年の反国家主義は ソ連の崩壊のなかで 
グローバリズムに回収されたのでしょうか 
フェミニズムはアカデミズムに回収されつつあるのでしょうか 
それでも フォン・ヴェルルホフのイリイチ批判 
あるいは錬金術としてのテクノロジー批判 
世界を遍歴するカブトムシの従者 
マルコス副司令のブーツと インターネット上の寓話 
差異のなかに同一を見るのではなく 
声をそろえないボサヴィの 滝のように折り重なる響 
いくつかの声の道のあいだを自由に行き来する ピグミーの合唱 
ちがう音色がそれぞれききとれる隙間をのこして 
連動する アフロ・キューバン・リズム 
鶴見良行の 分散する東南アジア村落民主主義 
ピエル・クラストルの 国家に抵抗する社会 
支配する第1拍を空白にのこす レゲエのバビロンへの抵抗 
バリの神々は 人々のこども 
毎日の供物でやしなわれる 
こどもがみ すくなびこなは この島にいたのに 
歴史以前に去っていった 


世界の闇を照らす ちいさな蛍火 
引用ではなく 書き換え 
どこから来たかではない どこにいるか だ 
総括することなく ふりかえり 
ひたすら書きつづける 
書きつづけるうちに変化する 
変化するおなじもの とアミリ・バラカが言うように 


ほそぼそとつぶやきつづける 声のたより 
たよりなく よるべなく すこしこっけいで 



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