2005年7月 目次


アジアのごはん(1)たけのこ         森下ヒバリ
元気になったイブラヒム             佐藤真紀
しもた屋之噺(43)              杉山洋一
IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その1   冨岡三智
夏と冬の気温のなかで              御喜美江
製本、かい摘まみましては(9)         四釜裕子
閏ルビー──緑の虱(9)            藤井貞和
帝国の周辺で その二              高橋悠治



アジアのごはん(1)たけのこ  森下ヒバリ




きょうのお昼はビーフン炒め。ビーフン炒めの作り方のコツはビーフンをお湯ではなく水で五分ほど戻すこと、野菜や肉を炒め、戻したビーフンを入れたら、鶏ガラスープをカップ一〜二杯加え(顆粒状のガラスープの素をお湯で溶いたものでいい)炒めながら煮詰めることにある。ビーフン炒めというよりは炒め煮だと思えばいい。ナムプラーとコショウ、唐辛子、酢で味つけすれば出来上がり。

緑豆のでんぷんから作る春雨と、米の粉から作るビーフンの区別もついていなかった若かりし頃、とにかくどちらも熱湯で戻していた。三センチほどに短く切れてしまうビーフンの姿に「??」となってはいたが、それが熱湯のせいであるとは長いこと気づかなかった。ビーフンは切れやすいのだと勝手に思っていたのだ。切れてしまうので、ビーフン炒めは情けない姿になり、しかたがないのでサラダに使ったりした。あるとき、ふとビーフンの袋の注意書きを読むと、熱湯でなくぬるま湯か水で戻すようにと書いてあるのに気がついた。ああああ……。水で戻すと、あら不思議、ビーフンは立派に長いまま。それ以来、ビーフン炒めは手軽で簡単、アジアふう昼ごはんの定番になった。

さて、ビーフンの具は何にしようかと冷蔵庫を開けたら、何日か前に茹でて水に浸しておいたハチクのたけのこが目に入ったので、刻んで加えてみた。ハチクのたけのこはちょっと歯ごたえがあり、噛みしめると味わいが出てくる。しかも、醤油や味噌といった日本の味だけでなく、ナムプラーやオイスターソースなどのアジアの調味料との相性がとてもいいのだ。油とも合う。

しゃりしゃりとハチクを噛みしめていると、ラオスの山中の道端でたけのこを売っていた二人の少女の姿が浮かんできた。直径五センチ、長さ二十〜三十センチほどの細長いたけのこ。麻糸で編んだ袋に入っている。タイ北部チェンコンの対岸、メコン河をはさんだラオスの町フエサーイから乗り合いトラックでルアンナムターを目指したときのことだ。八時間あまりの道程、往けども往けども山また山。ラオスは山の国だというのをしみじみ感じた。

少女たちは裸足だが、その表情はちょっと凛々しく、落ち着いた大人の眼差しをしていた。南インドのチャイ屋で働く少年もこんな目をしていた。自分で働き稼ぐ自信のようなものだろうか。児童労働を勧めているわけではないのだが、この旅の後、ラオスの南の町サワナケットで(ここはタイから物資や人が行き来するせいか、物乞いがとても多い町だった。同情を引きやすいため、子供を物乞いに大人が使うのだ)出会ったたくさんの物乞いの子供たちのうつろな眼差しを思うと、その隔たりに胸を衝かれる。

乗り合いトラックのラオス人の客や運転手たちは何度も車を止めてたけのこを買ったり、小魚を買ったりと実に楽しそうに買い物をする。小さな売り子たちも、ちゃんと料金交渉で負けていない。わたしも買ってみたかったが、旅の途中で生のたけのこを山盛り買ってもなあ。

カラワンの歌に「ノーマイ(たけのこ)」というのがある。ゲリラになってタイやラオスの山中で過ごした間、たけのこは毎日の重要なおかずだったという。毎日毎日うんざりだが、山中で野営することになっても、たけのこだけはすぐ調達できる。たけのこはゲリラの友、なんだよと言っていた。調味料がないのでまずいのだとも。ラオスの山中でたけのこを売るのを見ていると、カラワンたちもこの辺りを歩き、たけのこを煮て食べていたんだな、と思う。

いまわたしが住んでいるのは京都。京の春はまずたけのこから始まる。もちろん孟宗竹のたけのこで、まだ土中にあるのを掘り出して賞味する。ずんぐりと太った白い孟宗は待ちかねた春の味。三月末に走りが出てから、四月ははんなりとした孟宗をワカメとの炊き合わせやたけのこごはんで満喫。ああ、おいしい。しかし五月になると何か物足りなくなってくる。「こってり煮付けにして山盛りわしわし食べたい」「油でひき肉と炒めてしゃりしゃり食べたい」孟宗のあいまいさは、もういい。がつんと来るたけのこが食べたい、という気持ちが高まってくるその五月末から六月にかけて、姿を現すのがハチクなのである。

ハチクは「破竹の勢い」のハチクではない。淡竹と書き、唐竹(カラタケ)ともいう。ハチクのたけのこは、地面からするすると伸びた三十〜五十センチほどの長さのものを食べる。皮は赤むらさき。直径は五センチ。アクが少ないので、下ごしらえは皮をむき適当な大きさに切ってから、二十分ほど茹でる。ぬかもいらない。しかも孟宗よりかなり値段が安い。というわけで、庶民的なたけのこであり、あまり注目されない二級品のような扱いを受けている感がある。

じつは、このハチクの存在に気がついたのは去年の五月のことだった。京都の府下の山村に遊びに行って、朝市で茹でてあるたけのこが安かったので買い、家に帰ってよく見て初めて何か違うのに気づいた。妙に固そうなたけのこだ。京都人の友人に尋ねると「それはハチクやわ。ちょっと固いけど煮物でもええし、炒めてもええ、佃煮もおいしい」と言う。

何気なくタイカレーのゲーンキヤオワーンにハチクを入れてみた。「お、おいしい……」孟宗のたけのこや中国産の水煮たけのこを入れたタイカレーとは比較にならない。わたしはすぐに近所のタイ好きの友人に食べに来るよう電話をした。彼女が駆けつける間に残りのハチクを、ひき肉、茄子と一緒にナムプリック・ショウガ・ニンニクと炒めて、ナムプラーとオイスターソースで味つけしてみた。「う、うまい……」タイやラオスで食べるたけのこ料理の味と歯ざわりそのままである。

一度気がついてみれば、思い浮かぶアジアのたけのこの姿は、細い・固い姿ばかり。どうりで、日本でタイカレーにふつうの(つまり孟宗の)たけのこを入れても、ふにゃふにゃで締りがないはずだ。タイと日本で野菜の味が違うのは仕方がないと思っていたが、種類も違っていたのだ。タイやラオスのたけのこがハチクそのものかどうかは、調べてみたが分からない。でも、味はとても近い。思わぬところにアジアの味が隠れていた。

今年も六月に入ってから、近所の八百屋をのぞくと、あったあった。細長い赤むらさきの皮のたけのこが数本まとめられてかごに入っている。わたしはほくほくとハチクを手に取る。初夏の味、ハチクはアジアのたけのこ。残念ながら六月も終りに近づき、三十度を越す日が続くと、ハチクはすっかり大人になってしまったのか、京都の八百屋から姿を消してしまった。また、来年。と思っていたらデパートの地下食品売り場で福岡産の茹でハチクを売っていた。しかし、味も歯ごたえもよくなかった。どうやら茹で過ぎらしい。「朝取りですぐ茹でたから柔らかい破竹」、なんて書いてあるし。なんでも柔らかければいいってもんじゃないでしょ。近所のハチクを来年まで素直に待とうっと。





元気になったイブラヒム  佐藤真紀




イブラヒム親父がバスラに帰るという。娘のファートマをイラクの親戚に預けてくることになったというのだ。イラクは、まだまだ私たちが入れる状態ではないので、しばらくはファートマには会うことができない。ヨルダンでファートマの面倒を見てくれていた西村陽子さんが帰国したので様子を聞いてみた。

「一緒にモーメンホテルいこうと外に出たとき私の首を引っ張って何か内緒話をするのです。よく聞こえなかったんですが、イブラヒムが教えてくれました。「ヨーコはなぜべールをかぶらないの? アイーブよ!」って言ってたんだって。父さんがいてもトイレは女同士って! パパといきなさいと言っても、ヨーコがいいって。彼女、一度うんちしたのよね。でも、あいにく、断水で水が出ないの。トイレットペーパーで拭いてあげたのだけど、アラブは水で流すんです。ファートマがいやだって。ちゃんと石鹸でおしりを拭いてこうやって水を流してねって言うのですよ」

そういえば、僕がいたときも、なんだかもじもじしておしっこしたそうだったことがあった。でもイブラヒムは寝ていて起きてこない。トイレへ連れて行こうとしたらアイーブ! アイーブ! というのだ。日本だと3才くらいの子だとそんな恥ずかしがらないのだが。アイーブというのは、イスラム的にタブーというような意味だが、面と向かっていわれると非常に悪いことをしてしまったような気になる。だったら、一人でトイレに行けといいたくなるのだが、まだ小さすぎて便座に届かない。

「この間も、井下さんにファートマを預けてみんな出て行ったの。そしたら、井下さんから電話がかかってきた。「ファートマがおしっこしたいみたいですわ。身をよじらせていますわ」という。ボーラって言っています?(アラビア語でボーラはおしっこの意味)「言ってますわ、言ってますわ。西村さん、早く帰ってきてください」今すぐ行きますということで、戻ってみると、ファトーマがぷりぷり怒っているの。井下さんが無理やりトイレに連れて行こうとしたら、ファートマが抵抗して腕が捻じ曲がっちゃったみたいでいたい、いたいって文句言っているの。おしっこは? って聞いたらもういらないって。でも10分したらまた思い出したみたいで体をよじりだした」

数ヶ月の間でずいぶん女の子らしくなった。というか女の子らしくなろうとしているのだろう。ファートマは夕方、よくテラスで歌っていた。「ママ、ママ、どっかへお出かけなのよ。ちょっと。ちょっと、もうちょっとで帰ってくるの」「ママ、死んじゃった。白血病で死んじゃった」適当に作詞作曲しているのであるが内容を聞いてみると悲しくなる。

イラクに帰ることが決まると、イブラヒムがファートマに聞いた。「ママはどこ?」ファートマは、「てんごく」って答えてた。イブラヒムが「おみごと!」

ある夜、車が迎えに来て、ファートマとイブラヒムはヨルダンを去っていった。しばらくすると、イブラヒムだけがアンマンに戻ってきたという。イブラヒムは、イラクのバスラで撮ってきた写真をうれしそうに井下医師に見せていた。イブラヒムは冷蔵庫や、クレヨンとか画用紙、消毒液などを買い込んで、白血病の子どもたちの入院する病院に持っていったという。そして、子どもたちに絵の描き方を教えたり、もちろん算数を教えたりしてきたのだという。一族で相談して集めたお金は9万円ほど。イラクの人たちが9万円を集めることはそんなに楽ではない。

連れ合いをなくして、行く当てもないイブラヒムとファートマを僕たちは引き取った。ファートマはちょっとやんちゃでよく仕事の邪魔をしたが、いなくなるとさびしいものだ。イブラヒムは、夜は生前の妻の写真を見て涙ぐんでいた。「私はまもなく死ぬの。でもイブラヒムが子どもたちをちゃんと育てていけるのかと思うと死に切れない」生前彼の妻が語った言葉を思い出す。

イブラヒムは今、イラクからヨルダンに治療に来ている子どもたちに算数を教えている。バスラに戻れば、募金を集めて、病院を支援する活動を始めた。彼が身内の死を乗り越えて、元気に活動している姿を見て、また僕たちも勇気付けられるのだ。

今度ファートマに会うときは、すっかり立派なお嬢さんになっていることだろう。



しもた屋之噺(43)  杉山洋一





ふと空を見上げると、張った水にインクを垂らしたような透明な色をしていて、あまりの美しさに息を呑んでしまいました。

ミラノは毎日が猛暑で、深刻な渇水が叫ばれていますが、そんな中、家人が赤ん坊を連れ、一ヶ月ほど日本に帰省していて、久方ぶりの一人暮らしに戻っています。一人の時間が出来てふと考えれば、子供も満三ヶ月を過ぎ、イタリアと子供の二重の新生活に、家人も随分慣れてきたように思います。

思い返せば、産前の方がよほど心許なかったに違いありません。初産の不安や言葉に不自由するストレスを鑑みれば当然でしょう。ミラノの病院で、貫禄たっぷりの助産婦に子供を取上げられ、家人より伊語を解さないレバノン人と同室で数日を過ごし、実感も湧かぬまま慌しく3日で退院し、否応なく家族3人の暮しに放り込まれれば、度胸もつこうというものです。3日間病室に通いつつ、病棟をゆきかう人々が、とても動物的に見えたのを覚えています。別にそれが厭な気がしたのではなく、普段に忘れていた、懐かしい人の交わりの光景に、心が和んだのです。

くだんのレバノン人が、大きな身体を大儀そうに動かして、ほんの小さな赤ん坊を嬉しそうにあやしていたかと思えば、入替わりに入ったモンツァに住むイタリア人は、生んで数時間しか経たないのに、憔悴した様子もなく平然と部屋を歩き廻り、家人と二人で思わず顔を見合わせました。世話係も皆親切だけれど、日本の病院のような細かい心遣いはなく、却ってそれが気楽にも感じるのでした。

子供を抱き上げ夫婦ともども微笑み合う、絵に描いたような光景とは程遠く、父親は病室にパソコンを持ち込み、締切り瀬戸際の翻訳原稿を必死に書かなければならず、滑稽な夫婦だったかも知れませんが、復活祭の休暇中だったお陰で学校もなく、病室に付添っていられたのは助かりました。

親が困るような時には一切ぐずらず、タイミングよく周りに笑顔を振りまく、甚だ親思いの息子であって、先日帰省の際の飛行機ですら泣かなかったと聞き、こちらが驚きました。

断れない演奏会が目の前にありましたから、家人は退院の翌日にはピアノの前に坐っていたと思います。日本なら未だ病室のベッドですら動けない所ですが、家人の場合そうやって気を張ることで、子供との新生活に不安を感じる余裕すらなかったに違いありません。

スイスに子供を連れてゆこうと、パスポートの手続きに奔走しましたが、領事館でパスポートを受取ったのは、結局あれから随分経ってからでした。ミラノ市の帳簿に出生届を記載するより、日本の戸籍に載せるのが、どれだけ厄介だったことか。練習日を併せ5日間ほど、生後10日の子供を父親一人で預かったのも、今から思えば夫婦共々勇気があると言うべきか、或いは単に非常識と言うべきかも知れません。

当初子供の定期健診に、数日毎に病院に通っていて、家人は歩くのさえ難儀だったのが、何時しか子供を抱えモンツァからミラノまで、はるばる買い物に出掛ける程大胆になっていて、女性の逞しさには驚かされるばかりです。

子連れの日本の暮しは未経験で分かりませんが、イタリアでは、子供がいるといないでは、社会との関わり方がまるで違うように思います。現にモンツァのアパートですら、以前の杉山の家内という立場から、母親になった途端、俄然存在感が増すのが面白い所で、マンミズムと呼ばれる、母親に対するイタリア人の畏敬の念を痛感します。アパートの入り口にも聖母マリアの小さな祠があって、花が絶えることがありません。どこでも外へ出れば、鯉だか鳩の餌をまくように、赤ん坊の周りに人が群がり猫なで声で可愛がるのも、子供の情操教育には有益ではないでしょうか。

男は男らしく、女は女らしくという国柄ゆえ、生後数ヶ月の子供に関わらず、イタリア人が男の子と女の子の服の違いに敏感なのにはびっくりしました。少しでも中途半端な格好で外に出すと、群がるイタリア人に小言を頂戴するので、家人も気にかけるようになったようです。

「昨日、今日、明日」というイタリアのオムニバス映画があって、貧しいナポリのアパート暮しのソフィア・ローレンが、アパートの強制退去に対抗し、子供を産み続けるシーンがあります。そのまま見ても充分面白いシーンですが、イタリア、取り分けナポリ女の逞しさを知っていると、百倍現実味があって可笑しいのです。今日片付けなければいけない事を明日に先延ばしにしても、何時かは破綻するに違いないと思うのが日本人の気の弱い所で、イタリア人、特に肝っ玉の太い輩は、物事の結論をひたすら繰越してゆきます。

何十年か経って問題が自然消滅しなければ、改めて次の人にお鉢を廻し、気の遠くなるような連鎖は延々と続くのですが、基本的に人が良いから、誰にも嫌われたくない、自分に都合の良い事が最優先で、逞しく気の強いイタリア人、特に母親が手綱を握ると、かかる社会構造になるのかも知れません。

そこに日本から放り込まれた家人も可哀想ですが、なかなか強かに生きているのが頼もしいところで、最近では、案外性格的に向いた暮しぶりかとさえ思える今日この頃です。家人はともかく、今はアウアウと皆に笑いかけては、人気を取っている息子も、これからどう成長してゆくことやら。取敢えず今の所は、周りを見倣って結論を繰越すことに致しますが。

(6月29日モンツァにて)



IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その1  冨岡三智




この6月6日から9日まで、バリ島はヌサドゥアで、第3回IPAM(イパムと読む)=Indonesia Performing Arts Martが開催されていた。助成した国際交流基金ジャカルタ支部の人と、基金が招聘した人以外に出席した日本人は私だけだった。私自身はこのIPAMのことを2年前から、つまり第1回目から聞いて知っていた。その年から調査でインドネシアの教育省や観光文化省に出入りしていて、こんな催しを始めたよと教えてもらっていたからだ。それにオーガナイズしている会社のスタッフたちとも親しい。ただ昨年、一昨年は予定が合わせられず、今年になってやっとどんなものか見ることができた。というわけで、今回と次回はそのIPAMについていろいろと見聞きしたことを書き留めておこう。

第1回目はインドネシア政府観光文化省が直接手がけていたのだが、やっぱり役所のオーガナイズではうまくいかないということで、第2回目からは民間会社がオーガナイズし、同省は後援・顧問となっている。出品者は今回まではインドネシア人アーチストばかりだが、来年からは外国人の出品も受けつけるという。それ以降は隔年ごとの開催にして、ゆくゆくは東京国際芸術見本市のように育てたい、というのが主催者の意向だ。3回目とあって知名度はまだそんなにないが、年々各国から集まる出席者も増えて、今年は66組に及んだ。ただ当初の予定ではシンガポールでのアートフェスティバルをにらんで、そちらが終わってからその出席者をインドネシアに引き寄せるという計画だったのが、シンガポールではその会期を延長したとかで、IPAMに流れる参加者がかなり減ってしまったと主催者はぼやいていた。そのためIPAMの会期は6月10日までだったのが、直前になって急遽1日短縮され、9日になった。

ではどういうアーチストが出品していたのだろう。分野は伝統もの、現代ものどちらでも良いが、今年からジャズやポップ系(いずれも民族楽器と併用している)のバンドも認められ、3グループ出演している。一応プログラムの分類でいくと音楽8組、舞踊16組、演劇3組の27組が出演した。一部の有名アーチスト/グループへのオファーはあったものの、今回は昨年までと違い、公募で多くの出品者を決定したという。ただ広く公募したとはいえ、海外へ向けて作品をアピールする力量、具体的には英語力や企画書を書くという能力にはやっぱり地域的な偏りがある。出品者を地域別に見ると、計27組のうち中部ジャワのソロ(正称はスラカルタ、私のかつての留学地)からは8組参加で、ダントツ多い。あとは首都ジャカルタ5組、東ジャワ(スラバヤ)1組、バリ島5組、スマトラ島5組(ランプン、パダン2組、メダン、リアウ)スラウェシ島2組(クンダリ、マカッサル)、そしてヌサ・トゥンガラから1組となっている。

主催者の弁によると、バリやジャワに比べまだ海外での知名度が低いスマトラやスラウェシの芸術を多く紹介したいという意向はあるけれど、まだ選考を通過できるレベルの企画が少ないということだった。逆にソロがこれほど多いのは、1970年代以降芸大やアートセンターの前身が現代芸術に力を入れてきたことなどによるだろう。宮廷舞踊というイメージがあるため伝統都市の印象が強いが、ソロはその一方で現代芸術がさかんな都市として有名なのである。(現代舞踊の旗手サルドノもソロの出身だ。)

ただソロは小さくて(人口約50万人)大企業がない都市だからスポンサー探しが大変だと、ソロからの参加者のマネージャー達が言っていた。出品者の交通費は主催者から出るとはいえ、規定に沿った分しか出ない。ちょっと規模の大きい作品を出品しようと思うと、自分で助成金を探すことになる。参加者数も多い上、ソロの芸術家なんて皆しょっちゅう海外に出ているような人たちが多いから、そうそう毎回スポンサーになってくれるところも少ない、ということらしい。スマトラやスラウェシだと参加者がまだ少ないから地域を挙げて応援してくれるだろうし、何よりお金のある大企業が多くあるのがうらやましい、とのことだ。

さて出品作品の具体的な内容については、来月紹介することにして、今回はそれ以外のIPAMの日程について紹介しておこう。

まず6月6日は主会場のヌサドゥアビーチホテルにて、出席者の受付(終日)とオープニング・ディナーのみ。ディナーの時には出品作品とは別に、バリのワヤン(影絵)が1時間ほど特別提供された。また最終日のクロージング・ディナーではマハーバーラタ物語のワヤン・オラン(舞踊劇)が、出品作品の1つとして提供された。このオープニング・ディナーと9日のクロージング・ディナーは観光文化省の主催で、同省のお役人B氏(バリ人)が構成を仕切っている。バリの影絵というとグンデル4台だけで伴奏されるグンデル・ワヤンが有名だけれど、ラーマーヤナ物語には大きな編成のガムランを伴うということだった。ラーマーヤナで始めてマハーバーラタで終える、ワヤンで始めてワヤン・オランで終える、という構成にしたかったという。B氏は4日前から現地入りして会場設営などに当たっていたらしい。この人は実はバリのコンセルバトリ(現在の国立芸術高校)創立者の1人を父に持ち、同校を卒業したあと入省している。私も自分の論文のために随分とインタビューさせてもらった。インドネシアでは1970年代くらいから役所の芸術観光部門では芸術高校や大学の出身者を多く採用するという方針を採っているのだ。それはともかく、この全体の構成は私にはとてもバリらしく、そして垢抜けて見えた。

閑話休題。さて翌7日の上演は午後2時からでそれまではフリーのはずだったが、急遽朝食会が設定される。これは出席者同士や主催者らがフランクに話せる場を、ということで設定された。休憩時間もほとんどなく出品作を見続けていては、全然他の出席者と話す時間がない。これはありがたかった。朝食会は9時〜11時頃まで、サブ会場のメリアバリホテルで。2時から6時まで66作品公演。7時まで休憩。7時から9時半まで4公演。

翌8日はエクスカーション・ツアーで、ペジェン村のオダラン見学。途中ウブドでギャラリー見学、パッサール(市場)で買い物、レストランにて昼食が組み込まれている。ソロの芸大の元学長Supanggah氏はアドバイザーとしてIPAMに出席していたのだが、パッサールでは親指ピアノと小さな太鼓を買っていた。こういうアカデミックでない楽器もきちんとチェックしているんだなと関心してしまう。さてメインの目的のオダランは寺院の建立記念のお祭りである。寺院に入るため、IPAM主催者による腰布と帯を身につける。当初の予定ではこの日はオダランツアーだけだったのが、日程を1日短縮したために、6時半からIPAMの日程(7公演)が入ってしまった。そのためにお寺を4時半には出ないといけなくなり、寺院であまり舞踊を見れなかったのが残念であった。

最初に寺院の手前の舞台のところで、村のおじいさんからヒンズー寺院のことなどについて説明を受ける。これがまたとても流暢な英語で理路整然と話す。こんな田舎のお年寄りでこれくらい英語がしゃべれるというのは、それだけバリの観光化の歴史は長く、深かったということなのだ。その後おばさんチームのガムラン演奏をしばらく聞いてから、寺院に入り、しばしお祈りする人々を見る。またしばらく待って、舞踊が始まった。正装姿で踊るルジャン?、バリス、花冠をかぶったルジャンまでを見た。その次にはトペンの踊り手が控えており、また夜にはガンブーや影絵もあるとのことだった。

最初のルジャン?はお世辞にもうまいとは言えなかった。おそらくまだ踊り始めたばかりなのだろう。しかしこの空間で踊るのは当たり前だという雰囲気がそこにはあった。彼女達にそういう空間があることをなんだかうらやましく思った。バリスはルジャンを踊る少女のお父さんくらいの年代のおじさんたちが群舞で踊っている。1人の年配の人に目を奪われた。その人が舞踊を職業としているかどうかは知らない。テクニック的にも上手いと思うけれど、自分の中にこみ上げてくる何かに突き動かされて無心で踊っているような、そんな風情だった。このバリスでは突起のついた盾を持っていて、途中で剣を抜く。この盾は初めて見たので、何という名前なのか分からない。バリスには使う武器によってさまざまな種類があるという。

ただこういうオダランを見た後で下手に宗教的演出をほどこした舞台を見ると、白けてしまう。IPAMではなかったけれど、IPAM終了後にジョグジャカルタに戻って見た公演というのがそういう感じだったのだ。そういう意味で、IPAMの出品作品如何によっては、このオダラン見学ツアーは諸刃の剣になるかも知れないという気がした。

最終日9日は、朝10時から12時までアドバイザーのI wayan Dibia教授とSaini KM教授による「インドネシアのパフォーミングアーツ・シーン」。昼食後1時から2時半まで国際交流基金が招聘した曽田修司氏(跡見学園女子大学マネジメント学部教授)の講演"An Overview of Global Performing Arts Market"である。IPAMはインドネシアの芸術マネジメントの向上にもつなげたいということから、専門家である氏の講演となったらしい。そして3時から6時まで公演。6時半から8時までクロージング・ディナーとバリのワヤン・オラン上演。8時から10時過ぎまで公演。

急遽日程変更になったので翌10日まで残ることになった出席者や出品者のために、ミーティングの場が設定されたらしい。しかし私は10日早朝に発ったので知らない。

(つづく)





夏と冬の気温のなかで  御喜美江




気温は常に変化するもの、というか変化しなければ大問題だが、ここ数週間を振り返ってみると、まるで夏と冬が入れ替わり立ち代りチョコチョコ動いている感じで、何となく落ち着かない。5月の第一週は30度を越す暑さだったが、翌週になってザクセン地方へ旅行したときには雪が降っていた。そこではあまりの寒さに散歩にも出られず、夜のコンサートまでは、ホテルの窓から音もなく静かに降る粉雪をぼんやりと眺めていた。

その翌週はJugend Musiziertというコンクールで審査をするため、南ドイツへ出掛けた。ここではお隣に座っていた年配の男性審査員が咳ばかりしていた。どういうわけか私はドイツで“お爺さん族”に好かれる。彼等から見て、小柄で年令もほどほどのアジア人というのは「むかし入院したとき、自分にとても優しくしてくれた***病院の看護婦さん」のイメージと重なるらしい。初めてそれを言われたときは返答に窮したが、「まあ仕方ないでしょう。人のイメージなんてその程度のもの、そこは笑顔でさらっとかわしましょ」という心構えを持つようになってから、このテーマは終了していたはず。しかし、このお爺さんにはとても悪い癖があった。それは、咳をする前に必ず「Uebrigens...(ちょっと……)」と私に話しかけ、顔を近づけながら真正面からゴホン! とやるのだ。そうなると逃れようがないのでほとほと困った。

さらに会場となった高校体育館の暖房はないに等しく、木の椅子に一日座っていると体の芯まで冷えきってしまう。オーバーコート、ウールのストール、手袋、ホカロン、食事時には赤ワインと、体を温めるための全てを尽してみたがそんな努力もむなしく、デュッセルドルフに戻った夜には完全な風邪をひいていた。尚、その数日後から声が全く出なくなったという話は、先月の『水牛』にも書いた。

その後も風邪は治らず、声は戻らず、しかし気温だけはドカンと上昇し、日中の最高気温が37度なんて狂ったような日にベルリン経由でオラーニエンブルグという町へ旅行した。アコーディオンを行商人のように背負い、中型トランクをゴロゴロ転がしながら、内心なーんとなく厭な予感がしたのだが案の定、ドイツ鉄道のダイヤはこの日に限って乱れに乱れ、ベルリンからオラーニエンブルグへ直行する急行がキャンセルとなる。どうやって目的地まで辿り着けるのかわからないので、駅で人々に聞こうとするのだが、声がほとんど出ないのだ。相手も私が必死でしぼり出す、紙を擦り合わせるような声を気味悪く感じるのだろう、すっかり怯んでしまって「他の人に聞いてください」なんて冷たいことを言う。

そんな中でただ一人、肩と腕に刺青をしたアル中のお兄さんが、ビール瓶を片手に持ちながら、あーだこーだと親切に教えようとしてくれた。ただご本人は完全に酔っぱらっているので、私のほうがその言葉を理解できず困っていると、「あぁ、ドイツ語がわかんないんだな。オラーニエンブルグ行きの電車に乗れる駅まで一緒に行ってあげるぜ〜」みたいなことをもぐもぐ言いながら、ふらふらと歩き出した。それは大荷物を持った私にはちょうどいいテンポで、汗でびっしょりの背中が痒いなー、なんて思いながら、でもこの刺青アンちゃんに感謝し、同じくふらふらと一緒についていった。

電車は2回の乗換えがあったが、刺青アンちゃんの心遣いは細かく、大荷物が気になると見えて必ずエスカレーターのある位置まで行ってくれた。最後の方ではアコーディオンを持とうとするので、それだけは必死にお断りした。楽器もろとも線路にでも落っこちたら大惨事だし、そんなことが起きてもおかしくない雰囲気がこの日は十分あったからだ。ベルリンの午後の日差しは強烈で、汗と疲労と荷物の重さは本当につらかったが、この刺青アンちゃんだけは、冷房のきかない電車の中でも汗ひとつかかず、涼しい顔をしていたのが、今でも印象に残っている。

さて、刺青酔っぱらいアンちゃんと、声なし行商ネエちゃんの珍道中が終わりに近づく頃、「どうやってお礼をしたらいいかな……」と内心ちょっと悩んだが、この声ではまともな挨拶も出来ないし、大荷物を持っては買物も出来ないので、「お金だけど、いいかしら?」と差し出したら、満面の笑みを浮かべて「これでどんなに助かるか!」と感激してくれた。よかった、よかったと思った。

尚、この猛暑は5日間続いたが、ある日突然また朝晩の気温が一桁に下がった。近くのアイフェル山岳地帯には霜がおり、ハルツの山では雪が降り、人々はオーバーコートを再び着用、室内にはもちろん暖房を入れ始めた。とまた突然33度の気温になった。いったいどうなっているのだろう、今年の気温は!

こんな中でわたしの声はなかなか治らない。声帯だけが“夏冬往復特急列車”に乗り遅れてしまったようで、いまだ擦れ声を出している。「セクシーな声!」といってくれる人も中にはいるが、朝っぱらから誰にむかってセクシーな声を出せよう。大学の授業には全くむいていないし、ちょっと大きな声を出そうとすると、セクシーな声も不様にひっくり返る。スーパーの買物においては、それこそ“お爺さん族”が顔の近くに寄ってきて、東洋から来た白衣の天使にゴホン! をやるだろう。あぁ、これが一番いやだな。

(2005年6月25日ラントグラーフにて)



製本、かい摘まみましては(9)  四釜裕子





その先を曲がるとやがて広がるメタセコイアの木立で早く、帽子なんか脱いで深呼吸したい。梅雨は嫌だが雨はどうした。という6月の某日、「交差式ルリユール」のワークショップに参加するために、川崎の生田緑地にある岡本太郎美術館にでかけた。日本民家園と美術館への分かれ道になっているあたりがメタセコイア域で、とたんの涼しさに息をのみ、上を仰いで息を吐く。

川崎に暮らしていたころ、市民たる満足の第一は毎日のゴミ収集だった。職員のひとがみな快活なのもよかった。二番目が、春に夏に秋に冬に気持ちよい多摩川や生田緑地。離れてみると、ゴミ分別に対するストレスはゴミを出すより収集する側に幾倍もかかることに思い当たったし、いま近所に大きな公園があるけれど、縦にも横にもぬけのない「緑のインテリア」では深呼吸は無理なこともわかった。

さてワークショップは、製本家で版画家の藤井敬子さんが先生で、なんと無料である。真新しいデスクマットと定規、カッター、へらなどがアトリエの各席に用意されていて、生徒は20人くらいいただろうか。簡単な説明のあと、表紙用の紙2枚、本文用紙、かがり糸を好みの色合わせで選び、ほかに、かがり針1本、糸をしごくローソクを受け取って作業にはいる。

交差式ルリユールは、イタリアの書籍修復家、カルメンチョ・アレギさんが考案した方法で、糊を用いず糸でかがるだけであることと、表紙に生じる独得な幾何学模様の楽しさから、世界中の製本愛好家に親しまれている。表紙となる2枚の紙は「E」に似た形に切り、左右の手の指を交差して握るような具合に組み合わせる。「交差式」の名の由来だ。背にかがり糸が出て見えるのも特徴で、表紙のデザインはそのことも合わせて考える楽しみがある。

実際にやってみると、かがるときの糸運びは和とじのそれと似て、考えるまえに動く手にまかせてOK、という感じ。通常の洋本のかがりともっとも異なるのは、本文用紙の天地にも糸をまわすことで、仕上がると、花布が載っているように見えてきれいだ。表紙は、用意した2枚のうちの1枚を本文をかがるときにいっしょに巻き込み、かがったあとにもう1枚を組み合わせて少量の糊で留める。簡素で緩やかで、優しい本が仕上がる。

この日のワークショップは3時間だったが、慣れれば1時間もかからないだろう。基本形を元に、かがり穴の間隔を変えたり表紙の素材を工夫すれば、さまざまな幾何学模様ができそうだ。すでにアイデアは出し尽くされているのだろうが、とはいえなにかオリジナルが自分にもできそうな、そんな期待も抱かせてくれる。

中綴じで出されている定期刊行物などは、10号くらいずつこの方法でまとめておけばいいだろう。藤井さんらが中心となって運営している「東京製本倶楽部」の会報は、毎号A4二つ折り(20頁前後)で届けられるので、わたしもこれからはこの方法でまとめておこう。もしもまだ紙にプリントした「○○会報」や「○○たより」を出しているかたがおられたら、中綴じ仕様にプリントされることをお勧めします。綴じかたは、お教えします。



閏ルビー──緑の虱(9)  藤井貞和




わたしのストーカーに、
ひらきかげんの、
ジン・ジャンの脇腹、ひとつ。
こころなしか、
ぼくを挑発する。


やわらかさと、
はだえ。
ゆびの記憶が、
赤い核を訪ねるね、
(おぼえていよう。
  戦火がふたつを分かつとも。)


かげりが、
しずかに満ちるとき、
ぼくの息づかいが、
宇宙で、
きみとであうのさ、みっつ。


蝉ヌード、
 ぬけがらの魂、
ぜんたいを横たえて、
時間のうずまき。



(7月の誕生石はルビー。赤い核。以前に「ルビーエメラルドガーネットアメシストルビーダイヤモンド」という作品を書いたことがある。ルビーが二回出てくる。amethyst(紫水晶)はギリシァ語で中毒を医する意。rubyはいうまでもなくラテン語で赤。garnet(柘榴石)はgrain(穀粒)で赤と限らない。「ルビーエメラルドガーネットアメシストルビーダイヤモンド」の頭文字をあつめるとregard〈尊敬〉。)



帝国の周辺で その二  高橋悠治




人口の2割が富の8割を所有するというパレートの法則どころか このような集中は限界を知らないように見える 世界のコーヒーの3割はアメリカで飲まれている と以前から言われていた 味もない薄い液体を6秒で飲み下すことが一瞬の休息になるような社会がゆたかと言えるなら 輸出用のコーヒーを栽培するためにほとんどの土地が使われている地域は そのために飢えるのだろうか 権力は世界の一部の国 どころかたった一国 そのなかの一つの都市 そこから世界のどこにでもすぐ出動する数人の重要人物が 弱い国があるとみれば 自由市場 構造改革 民営化を押しつけ いやなら経済制裁 金融崩壊 先制攻撃のどれか あるいはすべてを選ぶことになる そんな世界では 国境は商品を通し 人を通さず 国家は国民を犯罪予備軍として登録し 監視し そのための生体情報の自動確認技術を開発する 市民とは 国家の浪費や企業の欠陥商品を税金や価格一部負担でささえ 銀行や学校では顔写真やパスワード 指紋だけでなく 手の静脈や虹彩パターン さらにDNA情報で本人確認をするだけでなく 病歴や遺伝情報まで盗み取られている このちっぽけな世界の網目

フラクタルとは ホログラムとは どんな部分も全体と同じかたちを写すもの アメリカが世界から憎まれれば 日本は隣国から憎まれる というような あちらで小藪がゆれれば こちらのポチが神社に参拝というような これは一つの鏡がすべての鏡を映し すべての鏡のこの鏡が映っているというインドラの宝石の網にくらべて 中心をもつ垂直の支配構造の科学

それだけではなく 次の帝国の星は すでに地平線を離れて上ってゆく その周辺に破壊をふりまきながら そして地球全体はスモッグのやわらかな殻のなかにまどろみ 温かい海水が這いまわり 島を呑み込んでゆく 

巨大すぎるシステムが 抵抗できる規模を越えているように見えるということは それが自壊に向かっている兆しなのだろうか 

暗い水の上にただよっていた影があったいつとも言えないほど遠いむかし 光があれば ということばだけで創りだしたこの世界の光 それは日曜日の夕方だった 黄昏からはじまったこの世界は たえず崩壊してゆく

科学も宗教も 時代の権力とともに作り直されてきた それでも権力は正統性をもとめて 伝統や歴史を偽造する 一つの原因から一つの結果が生まれるなら どこかの万世一系王権神話のように 進歩のハイウェイの始まりの十字軍そして最終戦争の総力戦まで この文明も銃から生まれ銃で滅びるもの だが火薬も鉄も科学も どこか別な場所からやってきた 

複数の原因と複数の条件 そして複数の結果が飛び散り 感染して抗体を創りだす 

啓蒙主義が ある社会ある時代の思想的表現ならば 反啓蒙主義はその社会のなかでの内部批判だった ヨーロッパ中華思想は 見えない共有地になっている ド・メーストルやハマンは反動と位置づけられる 反動は反対方向に向かうおなじベクトルにすぎない 社会の物質的恩恵をうけながらそれを批判するのは ある種のメランコリーかもしれない そしてキルケゴール ニーチェ ハイデッガーをどう考えたらいいのか 欠乏と欲望がおなじことばであるような言語 そういうことばで語られるというだけで変質する宗教や政治

十字軍と大航海時代の生んだルネサンス 再生 だが再生した古代は何だったのか 「黒いアテネ」を待つまでもなく ギョーム・ド・マショーの「ノートルダム・ミサ」はピグミーの合唱とおなじ原理をもち ダンテの頃にケルトからラテン文化に入ったハープは 遠くメソポタミアから伝わった3度音程をヨーロッパにもたらした それはビルマのサウンとおなじ3度にもとづく構成 そこにはまだ5度はなかった エジプトにまなんだピタゴラスと遠く中国の漢の青銅の鐘に見られる5度は かなり後代になってヨーロッパに入る 5度と3度の結びつきが和声学を生み アナトリアから来たかもしれない2度は旋律原理として残る 分析と還元の科学とは逆に 結合術が複雑系の科学の一つの可能性 一つではあっても唯一ではない道として潜在する流れをつくっていたのではないだろうか

こうしてさまざまな文化の結合がヨーロッパ文化を創っただけではない それは外部との関係によって生きのびてきた アメリカ周辺のカリブ海で 原住民の絶滅とアフリカからの若い労働力の輸入は 農園経済と奴隷制によってヨーロッパをささえていた 啓蒙主義は奴隷制度に裏打ちされていた バッハはパイプを吸い、コーヒーを飲んでいただけではない そこで創られる音楽もアフロ・アメリカ文化と無関係にあるはずはない ポリフォニーは本来アフリカ的なものであることをのぞいても バッハがとりつかれた野心 音楽による百科事典 啓蒙主義の世界地図に ヨーロッパ内外の抑圧された音楽文化が影を落としていなかっただろうか 

ヨーロッパ文明は他の文明を組み換えながら創られ その軍事力によって他の文明を略奪し 作り替え 植民地の直接支配が終わったいまも 経済的収奪と文化的支配はやむことがない だが過度の集中は すでに逆転のはじまりでもある 感染経路を逆にたどる弱い絆がなにか別の扉をひらくかもしれない それとも 環境への荷重がさきに限界を越えるだろうか



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