2005年8月 目次


スリガラス(暑中お見舞い申し上げます)──緑の虱(10)  藤井貞和
シリアへ……                        佐藤真紀
アジアのごはん(2)ナムプラー              森下ヒバリ
循環だより 梅雨の竹林                   小泉英政
製本、かい摘まみましては(10)              四釜裕子
しもた屋之噺(44)                    杉山洋一
IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その2         冨岡三智
ベートーヴェン                       三橋圭介
小さな部屋から                       御喜美江
電子「公共圏」はどこへ行った(その2)           石田秀実
踊れ、もっと踊れ                      高橋悠治



スリガラス(暑中お見舞い申し上げます)──緑の虱(10)  藤井貞和




問一、
スリガラス、
 クモリガラス、
  スクガラス、
   ハイイロガラス。
これらのなかから、
 空白部分に、
もっともふさわしいのを選び、
一枚だけ、
書きいれなさい、
 あなたの窓枠に。


デリダ氏は書きました、
 複数の答案を。
よしもとさんは対談しました、
 フーコー氏と。
美しい星で、
 ぼくらのUFOたちをかざる。
ガラスにUFOを書いて、
 美しい星を殺(あや)めます。


正解はつねに、
 複数あり、
  留学生には、
   むずかしいです。
    窓枠をぶっこわして、
     落ちてきてもよいですか。



(11.4 金星の出、水星の出を確認する。 これはあまりにも美しい。 連休の翌日、空気が澄みわたり、水星のほうが金星って感じ。 太陽の出にうすれていった。 アークトゥルスもさいごまでがんばる感じ。 11.8 ふたたび水星の出を考察。 うみの上みたい、あがる金星の神秘。 11.9 天体望遠鏡を買ってもらう。 ミザールH100、5万9000円を月賦で。 雲ゆきがわるくなるか、シィーイングわるくなる。 「見えざーる」という悪口、H・Iさん。 でも木星の星が三つまで見える。 土星のワッカが見える。 夜半を過ぎて晴れ行く。 そら全体が揺れるようで、よくない。 ワッカがじっとしてくれない。 鏡筒内の気流のせいなんだから。 1975〈ボクの天文日記より〉)





シリアへ……  佐藤真紀




ヨルダンで仕事をしていたが、ビザの更新のためにシリアに行くことにした。折角なのでイラクの国境の町アブカマルまで行くことにした。ダマスカス(シリアの首都)からバスで8時間、ユーフラテス川沿いに下っていくと、アブ・カマルという町がある。数キロ先にはイラクのカーイムという村が接してる。イラクやヨルダン、シリアの国境は砂漠の真ん中にあることが多く、大概は国境を越えてもしばらく町はないが、アブ・カマルとカーイムは目と鼻の先。1997年まではイラクとシリアは仲が悪く国交がなく、国境は閉鎖されていたが、もともとこの道はバグダット街道と呼ばれ、バグダッドの太古の王様は避暑にシリアにやってくる際に使ったという。砂漠の中、街道沿いだけにはやしの木が植えられて、木陰を作っていたというがうそか本当かはわからない。

この怪しげな国境の町を訪れたのは、1995年と2002年。今回は3回目。イラク側のカーイムは、最近米軍に攻撃されることも多くて有名になってきた。アメリカは、シリアが国境を越えてくる武装勢力やテロリストに協力しているとして、何かと圧力をかけている。シリアもアメリカの言う事を聞かざるを得ず、レバノンからシリア兵を撤退したり、イラクとの国境を閉ざしたりと必死になっている。

すでに、怪しげな国境の町、アブ・カマルは国境が閉鎖されてイラク人の行き来はないようだった。まず、デュラ・ユウロポスという遺跡の前で検問所があった。バスを降ろされて、日本人の私だけが尋問。でもどう見ても、私服の男は警察には見えない。おそらくムハバラート(秘密警察)の人間だろう。
「何しに来た」
「観光ですよ」
「うそだ。ジャーナリストだろう」
「違いますよ」
「ジャーナリストに違いない。ところで、いい携帯電話を持っているじゃないか。私のと交換してくれないか」と言う。
あいにく私のはボロもいいところで、警官の持っている方は、カメラ付き。これはラッキーと思い「いいですよ。喜んで」というと警官はカメラが付いていないのにがっかりして「今のは冗談だ」と言って、通してくれた。そして無事にアブ・カマルに到着したのだ。

  
  アブ・カマルの兵隊さん………

シリア兵も10年前に比べたら、なんとなく制服がかっこよくなっていた。徴兵が2年半あるそうで、彼らはここへ連れてこられた。でも大してすることがなく、暇を持て余している。お茶を飲んで行けと言う。私のカメラを珍しがって、「いくらするんだ? カメラをくれ」「ここにはデジタルカメラなんてないんだ」と言う。でもここにくる途中バスで一緒だったおじさんは、アブダビで稼いでいて、カメラ付き携帯電話も持っているし、オーディオフラッシュみたいなもので音楽も聴いていた。

若いシリア兵達はしつこく私のカメラを狙っている。彼らは徴兵だから、給料はほとんど出ない。
「毎晩のようにアメリカのヘリコプターが空を飛んでいるよ」


  ユーフラテス!………

おんぼろのホテル(町には一軒だけホテルがある)にチェックインして、ユーフラテス川を見に行くことにした。バイクタクシーをホテルがチャーターしてくれた。後ろに乗って一時間200円の契約。ユーフラテス川の周辺は農業地帯。オクラやひまわり、トマト、きゅうりと何でも取れる。ユーフラテス川を渡ろうとするとここでもチェックポイントがあって、警官らしからぬおっさんがあわてて出てくる。そして尋問が始まった。

「ジャーナリストですか」
「いえ、違います」
「いや、ジャーナリストに違いない。取調べを行います」

警察官は、携帯電話でどこかへ私のことを問い合わせていた。
「ということで、橋を渡りきってはいけませんが、途中までは許可します。ただし、橋の写真は絶対に撮ってはいけません」

実際、バイクは橋の途中でUターンをした。橋からはイラクの町が見える。すると、煙が立ち上っているのが見えた。
「あれは、アメリカ軍が攻撃しているのですよ。夜になったらヘリの音が聞こえてきますよ」まるでイラクにいるようだ。


  バイクで………

ホテルに戻るが、暑い。昼間よりも暑くなっている。隣の部屋には、アレッポから来た農業技術者が灌漑のデータを取るというので部屋にパソコンをつないでいた。彼らも暑さのためにぐったりしている。もう一度チグリス川まで涼みに行くことにした。川に近づくとひんやりした風が吹いてくる。若者が話しかけてくる。

「君たちの首相はなんていったかな。コイズミ? そうそう。彼はよくないな」
何でだと聞くと「アメリカ、イギリスと一緒になってイラクをめちゃくちゃにしてしまっただろうが。俺はいつもサダムの側だ」と言う。
「でも、あんたの大統領のお父さん、つまりハーフェズ・アサドはサダムが大嫌いだったわけでしょう。それとも、あんたはイラク人?」
「ち、ちがう。俺は、アラブ人だ」
「イラク人なの? シリア人なの?」
「あ、アラブだ。そういう話はやめよう」と言って、若者は去っていった。
なんだか怪しい町だ。

ユーフラテスを行く若者。ここでの主な交通手段はバイクである。100ccのバイク。ホンダ、スズキ、何とかこれで日本は、彼らから信頼を得ている。それは、確かにすごいことかも知れない。

シリアとイラクの国境では、100 以上の衝突があり、米軍の越境攻撃?も行われているとか。シリア情報省の発表では、6月だけで15名の国境警備員が、殺されたという。


  夜のユーフラテス

川べりには夕涼みにきている家族連れや若者でにぎわっている。遊覧船が出ているので乗ってみることにした。船が停泊するのを待っている間、アハマッド君という男の子が素敵な歌を謡ってくれた。これがすばらしい。聞いてみるとイラク民謡だという。何でイラクの歌を知っているのと聞くとイラクが近いからという。しまった、録音機を持っていればと後悔する。私の持っていたコンパクトカメラには録音機能がついていることを思い出し、もう一度謡ってもらった。いいねえ。悠久のユーフラテス! 恋の歌だそうだ。そして今度は、『おおー友達よ、友達よ、愛すべき友達よ』というような歌を歌ってくれている。アラビア語がよくわからないのだが、まあそんな内容だ。

船に乗ると、子どもが騒ぎ出した。しつこくああだのこうだのいてくる。カメラをくれとか、ひとのポケットにタバコを突っ込んだり。あまりにもしつこい。悠久のユーフラテスを眺めながら孤独を楽しむような雰囲気ではなかった。

船を下りてもしつこく付きまとってくる。無視していると、アメリカ人、アメリカ人と騒ぎ始めた。警察に連れて行けといっている連中もいる。若者がたかってくる。一度、火がつくと狂った群集をとめることはできないのだ。子どもが自転車の二台を指差し、ここに乗ってくださいというけど、果たしてこいつも信じていいものか。大人を捕まえて怒鳴ってもらう。こっちもくそがきをぶん殴ってやりたくなったが、100人くらい襲い掛かってきたらたまらない。群衆の中から先程、謡ってくれた子どもが出てきた。何か一生懸命さっきのテープを消して欲しいという。イラクの歌を謡ったことがばれるとまずいことが起こるのだろうか。

私を保護してくれた大人たちは、「子どもを殴ったのか」と繰り返し聞いてくる。
「いや殴っていない」と答えたが、もし殴ったならばどうなっていたのであろう。
こちらでは子どもを殴るのは当たり前のはず。でも復讐されるのも当たり前だとしたらやはりぼこぼこにされても仕方がない。

散々な思いをしてホテルに戻ってきたのではあったが、ホテルはまだまだ熱くて眠れるような状況でない。天井からぶら下がった扇風機、アラビア語ではマルワハというが、日本ではカフェ・バーにありそうなやつ。それでもあまり涼しくはならない。

「夜中にヘリコプターが飛んできますよ」アラブ人の言葉が引っかかる。そろそろ飛んでくるだろう。ウトウトしているとバリバリという音に目がさめる。でもそれは扇風機の音だった。

こんなところはもうこりごりだとおもい、明日にはダマスに向かうことにした。

  この珍道中はブログに写真を載せています。
  http://www.doblog.com/weblog/myblog/18736



ジアのごはん(2)ナムプラー  森下ヒバリ





う〜ん、暑い。今日の京都の最高気温は36℃という。暑いのが好きなわたしでも、こう風の吹き抜けないむしむしした京都の夏はいやだ。夏の京都は湿度の高い熱帯のよう。

京都では30℃辺りが一番快適に感じる。タイでは33〜35℃くらいが好きかな。だから、夏はタイへ「避暑に行く」ような気分。タイの真夏は3〜5月で乾季なので湿気は少なく、意外に過ごしやすい。6月からの雨季には気温が下がるので、さほど暑苦しくはないのだ。

この蒸し暑さによる食欲減退、料理作り意欲減退をなんとか乗り切るには、やっぱりアジアのごはんをワシワシ食べて元気になるにかぎる。そこで頭に浮かんだのが我が家の調味料のことだ。一番消費量が多いのは、ダシ入りうすくち醤油。(あ、手抜き料理人だってばれちゃった)しかし、このチョーコーの「京風だしの素うすくち」はおいしい。そこら辺のダシ入り醤油とはちょっとちがう。料理に何でも使えるし麺類のつけダレにもなる。しかも洗練された味。

ダシ入りうすくち醤油の次によく使うのが、醤油や酢などをぐんと引き離して、タイの魚醤油・ナムプラーである。ナムプラーは、するめの絵がついたタイ製のイカ印ナムプラーを愛用している。グルタミン酸ナトリウムの添加されていないナムプラーのうち、天秤印やカキ印も日本で売っているが、わたしはイカ印が好きだ。天秤印はちょっと上品でパンチに欠ける。

ナムプラーはそのままでも使うが、ナムプラーに生のトウガラシを刻んで漬け込んだ「ナムプラー・プリック」に加工してもっぱら使っている。タイから生の一番小さく辛い唐辛子プリック・キーヌーをこっそり持ち帰り、自分でナムプラーに漬けて作るのだ。

ナムプラーを日常的に使う、というと毎日タイ料理を作っていると思われそうだが、そんなことはまったくない。同居人の好みもあるので、ごくふつうの和食というか日本食がもっとも多く、次にイタリア風やタイ風料理とかいったところだ。ちゃんとしたタイ料理は、お客さんが来たときにしか作らない。それではいったい何にナムプラーを使っているのか?

まずは、炒め物。炒飯やキャベツ炒めに限らず、いろいろアレンジした炒め物類に幅広く使う。苦瓜炒めのゴーヤーチャンプルもわたしは、塩だけでなくナムプラーで仕上げる。豆腐にはナムプラーがよく合うのだ。ぜひ試してみて。そうだ、簡単でおいしいナムプラー味のにら豆腐を紹介しよう。


材料:もめん豆腐1丁、にら1束、生姜少々、ちりめんじゃこ(もしくは挽き肉)、あれば干しえび少し、ナムプラー、好みでトウガラシ。
豆腐は軽く水切りしておく。中華なべに油を熱し、刻んだ生姜とちりめんじゃこを入れて炒める。カリッとしたらザク切りにしたにらを入れ炒める。だいたい火が通ったら、酒か水でふやかしておいた干しえびを投入し、豆腐を3センチ角程度の大きさに切って加える。この場合、あまり熱心に炒めると豆腐が崩れすぎるので、適当に。豆腐の水分が適度に残っている方がおいしいので、豆腐に火が通ればよい。ナムプラーと荒挽きコショウ、トウガラシで味つけして出来上がり。


わたしはトウガラシ漬けのナムプラー・プリックを使い、漬け込んだトウガラシも一緒に入れる。ちょっと辛い方がおいしい。ちりめんじゃこや挽き肉はあまり多すぎず、少なすぎず。主役は豆腐とにらです。あまり豆腐が固いとおいしくないかも。このにら豆腐はナムプラーで味つけすることで、ぐっと味が際立つ。どういう経緯でこの料理を思いついたのか定かではないが、なんとなく作ってみたらとてもおいしかったのだ。たぶん、冷蔵庫ににらと豆腐とじゃこしかなかったのだろう。麻婆豆腐にならって、雲雀婆豆腐とでも名づけようか……。

こんなふうに、けっこうオリジナルというか自分勝手にナムプラーを使っているので、消費量が多いのだが、炒め物に使うというのはまあ当たり前だ。じつはわたしはよく作るサラダにも、イタリア風料理にもど〜んと使うのである。

ナムプラーはもともと魚の保存食である塩辛の上澄み液にルーツがある。塩辛の上澄み液を汲み出して調味料として使っていたが、あまり汲み出すと塩辛の味が落ちる。そこで塩辛の副産物としてではなく、海の小魚を使って液体を目的に作ったものがナムプラーである。この場合、材料の小魚はとけてどろどろになり、絞りかすは肥料にしかならない。

ルーツの塩辛上澄み液は、調味料としての歴史も古く、アジアだけでなく、古代日本、古代ローマ帝国にも記録がある。地中海を取り巻く古代ローマ帝国ではリクアメン、またはガルムと呼ばれる魚醤油が大切な調味料で、ポンペイやカルタゴなど植民地の各地で作らせ献上させていたという。ローマ帝国の滅亡とともに、その伝統は消え、今ではわずかにアンチョビーソースとして生きながらえているのみである。アンチョビーソースは塩で漬け込んだイワシのとろとろの魚体も一緒に混ぜているので、どろっとしたあやしげな風体だが、何のことはない、ナムプラーの一種なのだった。

オリーブオイルが合う料理にはナムプラーもよく合う。サラダドレッシングに加えてみて。スパゲティのトマトソース、たらこスパにも。そしてブイヤベース、野菜のトマト煮込みのラタトゥイユ、ミネストローネにも。味をぐっと深めてくれる。

先日、友人の古本屋&ギャラリーの海月文庫でタンゴ講座があった。タンゴ音楽を聴きつつその歴史や内容を学ぶといった小さな会で、わたしは酒のつまみにアルゼンチン料理をつくることになった。しかし、アルゼンチン料理などじつはまったく知らない。調べてみると、スペインの植民地ではあったが、現在ではイタリア移民の方が多く、家庭料理はほぼイタリア料理の現地材料アレンジであると分かった。そして、牛肉を大量に食べる。

そこで、イタリアのトマト野菜煮込みのカポナータ(ラタトゥイユ)に、かぼちゃや牛肉、ひよこ豆を加えてアルゼンチン風に作ってみた。「ふ〜む、けっこうイケる・……」安いオーストラリア産のシチュー用肉を大量に入れたのでダシはよく出ている。「でも、塩だけじゃ何か足りないな……」わたしは、店主のミケちゃんがむこうを向いている間に、ナムプラーのビンを棚から取り出し、バサバサと加えた。トウガラシも入れちゃえ。

「ええ、ナムプラー入れてんのおお!」いつのまにかこっちを向いていたミケちゃんが驚いて叫んだ。しかし味見をしたミケちゃんは「おいしい〜!」。集まったお客さんには味つけは秘密にしておいたが、みんなおいしいとお替り。古代ローマの味? フフフ。




循環だより 梅雨の竹林  小泉英政




四月中旬から五月にかけて。毎年、何百本ものタケノコを掘る。朝6時から一時間ほどで約四、五十本ぐらい収穫するので、一分半に一本は掘っている計算になる。それから、休耕田でセリ摘み、あるいは畑でウド掘りと、野菜たちを収穫する前に、一仕事をこなす。その仕事の有様は、新雪の斜面をスキーで一気に滑ってきたかのようにで、「きょうもひと滑りした」と言いながら汗をぬぐう。

それはタケノコ掘りを楽しむ、あるいはゲレンデをゆっく滑ってスキーを楽しむというより、あまり起伏のさだかでない銀世界の斜面を疾走する醍醐味ににている。

さて、話は変わるが、「竹の秋」という言葉がある。辞書を引くと、竹の落葉期である陰暦三月の称とある。今年の場合、二月九日が陰暦の元旦だそうで、新暦のこよみに直すと、四月中旬から五月にかけて、つまりタケノコ掘りの季節がそれにあたる。

しかし、タケノコ掘りの時には、それほど孟宗の葉がはらはらと降っている印象がなかった。

それから時が動いて六月も半ば、真竹のタケノコの季節にちょっと孟宗の竹林をのぞいてみた。それは出荷場から歩いて五分くらい、坂道を下がった所にあって、昨年から竹林として借りている場所だ。一ヶ月前、タケノコ掘りの季節と重なりながら、アレ放題だった竹林を掃除し、間引きし、また、竹の落ち葉もすっかり集めて、地面は何もない状態だった。何もないというよりは、竹の根などが少しむき出しになっていて、ちょっと落ち葉を集め過ぎたかなと思っていたのだ。そんな竹林の風景が頭の中に残ったまんま梅雨の竹林に入っていった。

竹林は使われなくなった農道を少し入って、右側に広がる。そこに数歩踏み入って地面の変化に気がついた。落ちて間もない黄土色の竹の枯葉がびっしりと敷きつめられていて、竹林は一面その色に埋められていた。そこにしっとりと雨に濡れた青竹が林立している。

疾走した竹林とは対の、時間が止まったかのような静かな世界がそこにはあった。ぼくはその見事さに言葉を失い、少し佇み、呼吸し、新竹からはがれ落ちた竹の皮を広い集めてその場所を去った。雨はしだいに本降りになってきた。





製本、かい摘まみましては(10)  四釜裕子




手製本に興味を持ったものの、その技術度とフェチ度の高さで入り込むすきがないような閉息感を感じていたころ、ある雑誌で製本工場の取材の機会を与えられたことはラッキーだった。個々の機械の動きがひとの手の動きの延長として在る姿がとにかくいとおしく、また、開きが悪かった並製本の改良の経緯もみえてきて、手製本v.s.機械製本、あるいは糸かがりv.s.ボンド貼りのドグマから脱する機会になった。

さてそのなかで、印象深かった機械のひとつに全自動紙折り機がある。刷り上がった紙(刷本)を、折りたたむ機械だ。その多くは、紙を真中から、一回、二回、三回と折って、16頁のかたまりにする。このかたまりをして「ひと折り」と呼ぶ。実際は、紙どりや全体の頁数によってさまざまな折りかたを駆使する。機械の説明書には、やけくそのように多くの折りかたが示されており、折紙の本をみるようで楽しかったが、実際に使われる方法は数種類と思われた。

折り機に入ってきた紙の流れを「羽根」と呼ばれるストッパーでおさえ、二つのローラーで巻き込むようにして折っていく。ものすごい速さと音だ。紙の厚さや質によって微妙な調節を丹念に繰り返した結果を見ているわけだが、紙の柔らかさをみじんも感じさせない状態で流れている。途中、空気を抜くために、折る筋に合わせてミシン目を入れる。アジロ綴じにするなら、背の部分になる折りにアジロ用の切れ目を入れるし、糸かがりするなら切れ目を入れない。このあと製本工程は、天地小口の三方を断裁して、かがり、表紙貼りと進む。

折ったあとに断裁しないで糸綴じしたものは、やや過剰に装飾されたアーティストブックとしてはみかけるが、奇を衒うでもなく端正でラフないでたちとなった本を、「第3回東京製本倶楽部展」(2005.6、目黒)でデザイナーの渡辺和雄さんに見せていただいた。新経営研究会が20周年を記念して200部限定出版(2002.12)したもので、渡辺さんがデザインしたという。

西岡常一『白凰の美 薬師寺西塔の再興 飛鳥・白凰・天平人の魂と知恵』とカルロス・ゴーン『日産自動車の再生』の二冊組。16頁ひと折りで、前者は三折り、後者は五折りだ。二回目の折りで4ミリ間隔の10ミリミシン目を入れてあるので、仕上がりは、天にきた袋がミシン目、小口が一部袋という状態。背は機械糸かがりしてあり、軽くボンドが塗ってある。小口側を折り込んだ表紙カバーにはパラフィン紙がかけてあり、その二冊が、これまたシンプルな薄ボール紙製針金留めの函に入っている。

ペーパーナイフでザクッと切る。静かな文字組みがあらわれる。小口のほどよいぼさぼさは、めくるときの指がかりとなる。右手の親指と小指でめーっと開く。西岡さんがしゃべっている。「……鉄を信頼しすぎてますな。この薬師寺でもそうです。回廊にでも何にでも補強のために鉄骨をいれろといいます。われわれ最小限千年先を考えて建ててんのに、先生方のいうこと聞いてたら、百年ももたんのでっせ。木は伐り出されて用材になりましても、千年生きよった檜は、まだ千年生きる命を持ってますねん。……」

折りと折りの間に背のボンドが少しはみ出ている。ほんのわずかなのにねばりけがあって強力なのは、ボンド界の苦心の賜なのだ。これからまだまだ変わっていくに違いなく、文句をいうところではあるまい。さあこの本の糸を切ってかがりなおして、好みに製本するのもいい。でもきっとわたしはしない。大好きな本の装丁がひどいから自分でかがりなおした本もあるし、内容はよくわからないけれど装丁にひかれて手にして以来、ずっと大切な本もあるのだ。

*自動紙折り機のしくみは、製造メーカーの株式会社正栄機械製作所のウェブサイトhttp://www.shoei-folder.co.jp/の「テクニカルヒント」からその一部を見ることができます。



しもた屋之噺(44)  杉山洋一





一週間が経つのは、思えばあっと言う間で、先週の日曜、どんなに暑いかと思いポルト空港に降り立ち、余りの涼しさに驚いたのが、遥か昔に感じます。パラシオ・ホテルの18階から、毎朝飛び交うカモメと、朝日で真赤に染まるポルトの風景に見惚れていました。ボンヴィスタ通りの石畳をゆるく昇ってゆくと、出来たばかりのカサ・ダ・ムジカの巨大な石の建築物があって、各表面をそれぞれ違なる台形にあつらえたような格好をしています。

レミックス・アンサンブルのアントニオ・パシェーコから、レミックスもオランダ人建築家レム・コールハースが建てた「カサ・ダ・ムジカ」に移ったと聞いたのは、三月だったと思います。

地下二階の第二練習室へ入ると、懐かしい面々が出迎えてくれて、一年ぶりの再会を喜び合いました。ヴァイオリンは、アムステルダムのニーウ・アンサンブルと掛け持ちの、ヴェネズエラ出身のアンヘルと、リスボンのオーケストラでトップをしている中国出身のシュアン、ヴィオラはBBCロンドン響のトリヴォール、チェロはオランダ国立響のオリヴァー、ホルンはアンサンブル・モデルンのシモン、ラッパのゲリーも大きなトランクを抱えて練習室に現れ「今ロンドンから着いたばかりで」と汗を拭いていて、コントラバスのアントニオやオーボエのジョゼ、クラリネットのヴィートルがいなければ、ここがポルトとはにわかに信じられない雰囲気ですが、これが正に現在のポルトガルを象徴するアンサンブルなのだと、少しずつ理解するようになりました。

彼らは、芸術監督のパシェーコや指揮のアズベリー、ルンデル、オッルといったブレインによるヨーロッパ各地からの選りすぐりで、現代音楽と言えばリスボンのグルベンキャンしかなかったポルトガルに、何かを生み出そうという大きな希望と期待が込められている証しです。

ヴェローナ出身のファゴットのロベルトは、もう10年近くポルトに住んで、5年近くポルトの音楽大学や音楽院で教えているそうですが、ポルトガルの音楽教育は、漸くポルトガル人による新しい優秀な世代が育ってきつつある所だと説明してくれました。ですから、国際色豊かなレミックスの下で、新しいポルトガル人演奏家を育てる意図が明確にあって、コントラ・ファゴットやピッコロ・クラリネットなどエキストラの演奏家は、出来るだけポルトガルの優れた若い演奏家を使っているわけです。

「カサ・ダ・ムジカ」は、レミックスの他に国立ポルト響もレジデンスを持っていて、昼食時、なかなか美味な食堂でオーケストラの団員と会いますが、殆どが東欧圏かロシアの連中。その中に結構イギリス出身も交じっているが、ポルトガル人はほんの少しだということでした。結果として「カサ・ダ・ムジカ」の共通語として、ポルトガル語より英語を使う機会がずっと多いのは不思議な気もしますが、「カサ・ダ・ムジカ」の総監督が、アンソニー・ウィトウォルス=ジョーンズというイギリス人ですから、それも当然かも知れません。

アンソニーは、初代ロンドン・シンフォニエッタのディレクターで、ユーモアたっぷりの英国紳士でもあり、食堂で休憩している時、向こうから気さくに話しかけてくれて以来、毎日のように愉快に話し込んでしまいました。彼の総合プロデュースで、ベルナルド・ハイティンクや内田光子さんなどを、カサ・ダ・ムジカに招いていると説明してくれました。

今回レミックスのプログラムに組まれていたオリヴァー・ナッセンが、最近ひどく体調をこわしていて、でも癌じゃないから大丈夫だが、と話しかけてくれたのが最初で、本番前日など練習場近くのステーキ屋で一緒に食事をしていて、夜11時からの「カサ・ダ・ムジカ」のライブに一緒に来ないかと誘われました。
「ずっとロンドンで話題だったグループを呼んでみたんだけどね、舞台で料理をするらしいんだ」
彼の言葉どおり、マシュー・ランバートのライブは、5人のテクノに合わせて、舞台でチキン・ソテーを作り、大きなスクリーンでもチキン・ソテーなどをテーマにしたヴィデオがシンクロナイズされていました。ライブを聞きながら、ヴィデオを見ていると、実際に料理の匂いが会場に漂ってくる趣向です。一時間程でホテルに引き上げたので、最後にチキン・ソテーがどうなったのか分かりませんが、途中随分焦げた臭いがしていたのが気にかかります。

翌日「カサ・ダ・ムジカ」での演奏会の前に、一週間使わせて貰った指揮者用控室にアンソニーが訪ねてくれました。調子はどうかと尋ねられたので、何しろ指揮者は何もしないからねえと答えると、「そりゃそうだ。でもお前が舞台に上がらないことには、誰も弾かないからな、ははは」と笑って帰ってゆきました。こういうユーモアは、イタリア人にもポルトガル人にもない、イギリス人独特の感性ですが、アンソニーと話していると、こんなユーモアにいつも感心させられました。気さくなだけでなく、本番前の控室には、良く熟れたマンゴや洋梨、オレンジといった果物から紅茶まで用意されていて、細かい心遣いも充分行き届いているのが、英国流もてなしかと驚いたものです。

暫くしてノックの音がして、見るとアントニオ・パシェーコでした。
「演奏を始める前、ロンドンのテロを悼んで、一分間黙祷しようと思うんだ。一緒に舞台に上がって僕がアナウンスするから」。流暢なイタリア語で彼はそう言って出て行きました。「いい演奏会をね」

とても厳かな雰囲気の中、演奏会はナッセンの「言葉のない歌」で始まり、ダルラピッコラのギリシャ詩による歌曲の連作全曲。短い休憩を挟んで、シェーンベルグの「山鳩の歌」に、ベンジャミンの「At the First Light」という見事なプログラムでした。

どれも素晴らしい作品ばかりで、それらが互いに有機的に繋がるプログラミングには、中々出会えませんが、この日の演奏会は、自分が今まで演奏した中で、2000年、パリのシテ・デラ・ムジークでの「プロメテオ」と同じくらい良い演奏会になって、恐らく忘れ難いものとしてずっと心に残ると思います。

ああいう演奏が出来る時は、自分だけでなく全てちょっと神がかっていて、演奏者と指揮者と勿論作曲者、それに聴き手の気持ちが一つになるような、言葉では説明出来ない感動があるもので、本当に良い演奏会というのは、クラシックであろうと現代音楽であろうと、どれだけ正しい音で弾いたかではなくて、心が互いに染み通るような、途轍もなく深い感動で覆いつくされることだと思うのです。

最後のベンジャミンが終って、拍手はなかなか止みませんでしたが、こんな演奏会が出来た時は、実は指揮者の方こそ、演奏者と聴衆に心からの拍手を送りたいと思いました。楽屋ではどの演奏者も皆上気していて、本当に素晴らしかった、どうも有難うと声をかけてくれましたが、この感動を与えてくれたのは、実は彼ら自身なのですから。その夜はアンソニーとアントニオ・パシェーコに上品なポルトガル料理をご馳走していただき、芳醇なポルトガル・ワインとデザート替わりのチーズに舌鼓を打ちました。

翌日のエスピーニョでの演奏会が終わりポルトに戻るバスの車中で、ヴァイオリンのアンヘルが、「君はまだ“水晶宮殿の庭――ジャルディンシュ・ドゥ・パラシオ・デ・クリスタル”には行ってないのかい。あんな素晴らしい処を見ずしてミラノへ帰っては駄目だ。夕暮れだしとても奇麗だから、これから連れて行って上げるから」。

他の演奏家仲間と夕食で落合う約束をして、ボアヴィスタ通りから公園を抜けて、まだ高校生だった頃に、ニーウ・アンサンブルが出したファーニホウとドナトーニのCDに魅了された話をしながら、マヌエルII世通りを早足で下ってゆきました。輝きがあって活き活きとしたアンサンブルのサウンドに、当時何より心を躍らせた話などをすると、「今も昔もニーウ・アンサンブルの音は変わらない、みんな音楽が好きだから」、そう嬉しそうに答えました。

「グァテマラには帰らないのかい」
「15歳の時から国を離れているからね。自分の故郷としての意識は薄いのさ。ただ、両親がまだ居るからね。実は姉と妹が三人いて、皆ヨーロッパに住んでいるんだ。二人はアムステルダムで一人はマドリッド。だから順番にお金を出し合ったりして、思い切って両親をポルトに呼んでしまおうかと思っているのさ」。


庭園を歩きながら、「ほらこの花の色を見てごらん、この樹木の匂いを嗅いでごらんよ。どうだい、あの放し飼いの兎の可愛いこと」。まるで少年のように、初々しい感性を辺り一面にふりまきながら歩いていて、ふとアンヘルが立ち止まりました。彼が黙って指さした先を見ると、宮殿庭園の向うで、大西洋に注ぐドゥロ河に架けられたアーチの橋梁が、燃えるような黄金色に染まっているではありませんか。アンヘルの言う通り、街は息を呑むような美しさを放っていて、暫し時間を忘れて立ち尽くしていました。

(7月11日 ポルトにて)



IPAM=インドネシア舞台芸術見本市  その2  冨岡三智




6月6日〜9日まで、バリ島のヌサドゥアでIPAM=インドネシア舞台芸術見本市が開催されていた。今月はその出品(全27公演)の中から、私の独断と偏見により、印象に残ったものを紹介する。私が日本に招聘するとしたら(お金はないけど)……という観点で見ていたり、サポーターの心情で見ていたり、いろいろである。

6月7日1作目。スマトラ島ランプンの演劇グループTeatre Satuによる" Nostalgia Sebuah Kota(ある町のノスタルジー)"はとてもシンプルで洗練されていた。演劇に分類されているけれど、ジャワでなら舞踊作品に入るかもしれない。身体の動きが美しい。その地域の伝統的な舞踊の動きらしきものも使われているけれど、既存の動きを安易に借用せずにきちんと消化している。台詞は平易なインドネシア語、一部英語で、分量は多くなく、リフレーンが多い。言葉や、鈴や、手桶に入れた米(豆?)の音が重なり響くことによって、イメージがさざなみのように広がっていくという気がする。また照明の色調や変化、衣装の配色が美しい。テーマやメッセージ性を求める人にはよく分からない舞台だろうが、そういう見方をしなくても良いという気がする。視覚的、聴覚的にとても記憶に残る舞台。雨の日に傘を差しているシーンから始まるけれど、日本の秋の長雨のような情緒や湿度を感じさせる。

4作目はソロからKomunitas Wayang Suket。Ki Slamet Gundonoという小錦のような巨体のダラン(影絵操者))が率いるこのグループの面々は、ワヤンを翻案した新しいワヤン的作品を次々に発表している。プログラムでは演劇に分類されているけれど、やっぱりこれはワヤンとしか呼びようがない。私もこのグループとは親しく、そのせいもあって私の名前が登場してしまったので、関係者には大受けだった。ジャワ語主体だけれど、今回はところどころでインドネシア語や英語を混ぜていて、その混ぜ方とタイミングがまたおかしかった。場面の展開だとか、Gundonoの抑揚とか間合いとか、ジャワ人にはこの劇は文句なく面白い。IPAMアドバイザーであるソロの芸大元学長やジャワ人のお役人など、いい年をしたおじさん達が、本当に箸が転んでもおかしいというくらいの笑い方をしていた。でもこういう感受性のよいジャワ人たちが全然いなくて、公演はまじめくさって見るものと思っている人達(特に日本人)の中で見たらどうだろうか。どこまでこの面白さは伝わるのだろうか、私にはまだよく分からない。

最後の10作目はアチェのWalet Dance Companyによる“Rampai Aceh”。ただしメンバーは皆ジャカルタに住む。このおじさんはIPAMに来る前に愛知万博に出演していたらしい。リーダーのおじさんの歌に合わせて20人くらいの女性が密着して横一列に座り、あるいは立ち、体を叩いたり全員が同じ動きを繰り返す。テンポは次第にエスカレートしてゆくにも関わらず、全員の動きは全く乱れずシンクロし続ける。アチェの舞踊も地域によって人数や動きや場所移動のパターンに違いがあるらしく、ここではいろんな地域のものを混ぜているということだった。その技術水準には圧倒されたし、やはりジャカルタでやっているだけあって、アチェ舞踊としても、一段舞台芸術として垢抜けている気がした。にも関わらず、これを単独で上演するのは難しいように思う。どうしても機械的で単調になりがちな気がするのだ。他にいろんな演目があれば、それもジャワ舞踊のようにテンポが遅くて全員の動きを過剰に揃えようとしない舞踊などと一緒に上演されたら、とても引き立つだろうと思うのだけど。実際インドネシア各地の芸能で、これだけ動きを揃えようとする舞踊も珍しい。シンクロするのは共同体の結束、イスラムにおける人と神との合一を求める気持ちの表れだとリーダーのおじさんは言っていた。蛇足になるが、これをワークショップでやるのは面白いかもしれない。1つ1つの動きをゆっくりやれば、あまり複雑ではないし、全員が同じことをするのも安心だ。慣れてきたら徐々にスピードを上げていけば、参加者のレベルによってはかなりの達成感が味わえるかもしれない。

6月8日。この日一番期待していたのが、東ヌサトゥンガラ州(バリから東側に延びる諸島)からのササンドゥという伝統楽器の演奏。ササンドゥは昔のインドネシア紙幣の裏側に描かれていて、一度実物を目にしたいと思っていたのだ。弦楽器が同地特産の草で作った共鳴箱?に入っている。この草はまるでプラスチックみたいに頑丈である。余談だが、伝統衣装のおじいさんたちがかぶっている鳥形帽子(成人男子がかぶるものらしい)もその草で織ってある。さて公演はおじいさん3人がそれぞれササンドゥを演奏し、時折1人が手振りで踊るというものだった。この公演を単独で海外公演に持ってゆくのはきついように思う。音楽も単調に聞こえてしまうし、なにしろおじいさんだけでは、やや魅力に欠ける。舞台で見せるためには何らかの見せ方の工夫が必要だろう。むしろ日本の地方なんかで、民俗芸能を継承しているおじいさん達なんかと一緒に、酒を酌み交わしつつ一晩上演する(酒盛りと変わらなかったりして)なんていうのが似合う気もする。また、もしこれがインドネシア各地の民族音楽を紹介するプログラムの中の1つとして上演されるのなら、これでいい。アチェ舞踊のところでも触れたけど、そういう場合にはバラエティの豊富さが問われるからだ。おじいさんの地方性を色濃く漂わせた物腰、帽子や手織りの伝統の布には、ジャワやバリや他の地域の文化とは異なる魅力が十分にある。

6月9日3作目(だっけ?)は南スラウェシのSanggar Kreatifによる“Tongkonan”。生演奏での上演で、演奏家と踊り手合わせて15人くらいいたのではなかろうか。結構大所帯だった。私は彼らと同じ安ホテルに泊まっていた。実は私はIPAMの登録上はプレゼンターになるのだが、宿泊はインドネシア人芸術家用の所を希望していたのだ。それで前日の夜にホテルの中庭でやっていた練習も見ていて、正直なところ、その時点ではあまり期待してなかった。ところが、舞台では皆打って変わって魅力的な舞踊家になったので驚いてしまった。特に魅力的だったのが若い男の子達で、日本でアイドル・デビューしても十分通用するくらいなのだ。作品も舞踊と音楽だけで構成された舞台にはドラマ性があり(後で聞くと、物語はスラウェシの民話を基にしているらしい)、次の場面を予期させるようにうまく場面転換がされていた。最後の終わり方にも、また新たなドラマが続いていきそうな余韻が感じられた。さらに臼と杵を使ってそれで音を出したり、餅つき踊りみたいな踊りがあったりするのも、日本人には親近感がわく。それが地方色コテコテでなかったのが良かった。垢抜けたフォークロアという感じだ。

7作目はソロのマンクヌガラン宮から"Srimpi Muncar"(スリンピ・ムンチャル)である。踊り手は4人だが何しろガムラン演奏家の数が多いから、所帯としては一番規模が大きかった。 スリンピというのは女性4人による宮廷舞踊である。マンクヌガランはソロの宮廷の分家になるのだが、スリンピの演目はジョグジャカルタの宮廷から引用している。この演目はメナク物語から取られていて、中国のお姫様とジャワのお姫様が1人の男性をめぐって戦い、中国のお姫様が負けるというお話である。スリンピの形式にするため中国とジャワのお姫様が2組いるという構成で、また普通のスリンピでは4人とも同一衣装を着るけれど、ジャワのお姫様と中国のお姫様の衣装は異なっている。この時の衣装は5年間の留学中に私の全然見たことのないものだった。聞くと、古いアンティークの衣装だという。またいつもの上演と違って、中国のお姫様の化粧と動きがより中国的(あくまでもジャワ人から見て)である。

舞踊はまあこんなものなのだが、私が以前から気になっているのは中国のお姫様の描き方である。このことは初日のRuly Nostalgiaの作品にも言える。Rulyの作品“sKumolobumi”もメナク物語をたたき台にしている。ジャワ人が描く中国人には、釣り目に京劇のような厚い化粧、衣装と化粧に赤を多様し、中国拳法のような、あるいはわざとぎくしゃくした動きを用いるといったステレオタイプが認められる。これは日本人にすると、あまり気持ちの良いものではない。(そう言うのは私だけでなくて、日本人の留学生の多くはそう感じるようである。)日本人なら、こんなにエキゾチック過剰に中国人を描かないだろう。もしかしたら欧米人には「これが中国の姫」というレッテルがあって分かりやすいかもしれないけど、中国ネタのものを日本に持ってくるのは難しい、というか持ってこないでほしいと正直なところ感じている。

以上、舞踊評だかなんだかよく分からない文章になってしまった。その他にも紹介したい作品は多々あるのだけれど、またそのうち書くこともあるかも知れない。IPAMでは欧米基準でコンテンポラリ舞踊と呼べるものも、伝統舞踊、民族音楽ものも多く紹介された。まだきちんと調査していないけれど、従来のインドネシア政府は「多様な地方芸術」としていろんな地方の芸術をパックにして海外に紹介するということに力を入れていたように思う。それは現在でもあるのだが、それだけでなく単品で海外に出せる=売れるものを後押ししようとしている、という気がする。



ベートーヴェン  三橋圭介




ここ一ヶ月、ベートーヴェンをたくさんきいた。家にあるベートーヴェンのCDを引っ張り出し、楽譜を見、時々電子ピアノを弾いたりもした。ようやく終わってつくづくベートーヴェンという人は大変な人だと思う。何が大変て、かれは音楽に人生を持ち込んだ。ナポレオンを英雄視したり、難聴もそうだが、何かあればそれが音楽に反映される。「される」というよりも、人生の動機によって音楽を発展させたといったほうがいい。「悲愴」や「熱情」などのピアノ曲をきくと、人生の脈絡のようなものが確実にある。それは感情と結びついてフレーズの終わりでやたらとややこしくくり返したり、ある部分では一段も二段も高く跳躍していく。こういう理屈を越えるジャンプがあるからこそベートーヴェンは天才なのだろう。それに比べると、その前のモーツァルトから人生の脈絡なんて感じることはあまりない。曲はどれも同じようにきこえるかもしれないが、実はモーツァルトの音楽もベートーヴェンに劣らず優れたジャンパーだ。フレーズの終わりはもちろん素直だが、次に何を続けるかというところで、どうしてこの次にこれがくるかと思わせる。いいかたを変えれば、この次はAでなくてもBでもCでもDでもいいようなところがある。そういえばかれにはおもしろい曲がある。サイコロの音楽で、大学時代に武田(明倫)先生が箱入りの豪華な楽譜セットを見せてくれた。いくつかのフレーズが書かれた楽譜のページを、サイコロをころがして順番を決めて演奏する世界初の偶然性の音楽だ。モーツァルトらしい遊び心の作品だが、そこに天才の秘密がある。演奏するとどうやってもモーツァルトの音楽としてまとまってしまう。まあ、どうやっても繋がるように作られているのだが、サイコロがなくてもいろいろな要素が跳躍的に結びついているのがモーツァルトの音楽だ。ベートーヴェンではもちろん人生の脈絡がそれを許さない。連続するドラマがあるのだ。しかもこのドラマはけっこう重い。重い一ヶ月を乗り越えたから少しベートーヴェンはお休み。



小さな部屋から  御喜美江




最近、デュッセルドルフのアパートで暮らす時間が多くなった。小さなワンルームは夫と2人で住むとかなり窮屈だが、バス+トイレ、ミニキッチン、バルコニー付きで、中央駅もケーニックスアレーも徒歩6分、しかも街中なのに一方通行の細い通りに面しているため昼間でも静かと条件は悪くない。ただ洗濯物も空瓶も、いればたまるいっぽうだし、何といっても狭いので、今までは大学のある日だけ泊まり、すぐラントグラーフに帰ってしまった。

どうして急に生活が変わったかというと、7月2日朝、ヘルシンキへ飛ぶ予定でデュッセルドルフ空港へ向かったのだが、タクシーを降りた途端、急にまわりが白っぽくぼやけて、自分の喋る声が小さく遠ざかってゆき、ハンドバックを持つ力もなくなってしまった。見送りに来ていた夫はびっくり仰天、近くにいた空港スタッフに「医者はいませんか?」なんて慌てているのを人事のように聞きながら、そのうちまた意識が戻ってきて、一時間後にはアパートで寝ていた。その日は一日眠り続け、次の日もほとんど眠りとおし、3日目になってやっと起き上がったときは、もとどおり元気になっていた。元気になってみるとトホランピの講習会とコンサートをキャンセルしたことに気がひけて、すぐにでもラントグラーフに戻ろうと思ったのだが、フィンランドは8日間の滞在予定であったから、その分の旅行支度が完璧に手元にあることに気がつく。アコーディオンも譜面も洋服と下着の着替えも、日除け帽も虫刺されの薬も、そしてステージ衣装まである。ダンナは毎朝9時には大学へ行き、帰宅は夜の10時ごろだから、まる一日このアパートは自由である。とここで予定をまたまた変更、残りの5日間はデュッセルドルフで過ごしてみることにした。

まずは、あちこちが壊れているバスルームの修理を頼んだ。運よくいい職人さんが来てくれて、あっという間にシャワーも、ガラスドアの水漏れも、カルキで汚れた部品も、新品同様ピカピカになった。帰宅してこれを見るダンナはさぞかし驚くだろう、シャワーが大好きだからどんなに喜ぶだろうと、その夜だけは彼の帰宅を待ち焦がれていたが、期待したほどの反応は残念ながらなかった。「すごいでしょう、これ? まるで新しいバスルームみたいでしょう? これだけ仕事がはやくて丁寧なHandwerker(修理をする職人)って、最近知らないわねー、どう、びっくりした? うれしい?」と私だけが興奮していると、やっと事の次第に気が付いて「本当にきれいになったね。ダンケシェーン、みえちゃん!」とだけ。まあいいっか。その分、あれこれぶっ壊れていても文句は言わないんだから。

風呂場の修理が終わって、次は8月29日に浜離宮朝日ホール(小)で予定しているモーツァルトのプログラムをさらい始める。グシェゴシュ、アレキサンダー、私の3人によるアコーディオン・トリオの編成で弾く『魔笛』や『フィガロの結婚』序曲は、弾き始めてみるとメチャメチャ楽しい。こんなに合うとは思ってもみなかった。指は鍵盤を、腕は蛇腹を自由自在に操り、練習は飽きることを知らない。もしかしてアコーディオンはモーツァルトのオペラ音楽に実にむいているのではないか、とさえ思えてくる。こんなに楽しくていいのかな、こんなに面白くて大丈夫なのかな、とかえって心配になるほど。でも本番が近づけば、否が応でも不安はやってくるのだから、今あるこの幸せを思う存分かみしめておこうと思う。しかしモーツァルトの音楽って、どうしてこう美しいのだろう。

さて、このアパートは部屋の片隅にミニミニキッチンが付いているが、ここでは料理をしない。それは材料を洗ったり刻んだりする場所がほとんどないのと、温度にも湿度にも敏感な楽器が同じ部屋の中にあって、熱を使うのが怖いからだ。それで普段は出来たものを買ってきてワインかビールで夕食というケースが多いのだが、今回は“外食も研究次第”と思いなおしてみた。これもモーツァルトの影響かもしれない。

 1)距離は歩いて帰れる範囲内。
 2)料理は新鮮でとびきり美味しく栄養価も高い。
 3)店内は清潔で雰囲気は自然。
 4)普段着とサンダルでふらっと行ける。
 5)値段は自分で買物をして料理するよりも高くない。

こんな店がもし見つけられたら、それは都会生活における一つの財産だと思う。

この目標を持って現在は研究を続けているが「これだ!」という店はまだ見つかっていない。しかし最近になっていい方角が定まってきた。それはこのアパートから見て駅やケーニックスアレーではないほう、今までは知らなかった南西方向がいい線を示している。雑誌情報も思ったより役に立って、自分の足と目と舌で開拓は順調に進んでいる。そのうち『内緒にしようぜ、この店だけは』なんてタイトルで小冊子を出せたらといいな、なんて夢も描いている。

中間報告として、パスタとギリシャ料理はかなりいい所をすでに見つけた。今日はこれからベトナム料理で面白そうなところを探検に行こうと思っている。外はあいにくの雨だが、傘だけ差して手ぶらで食べにいけるところなんて素敵だ。

そんなわけでラントグラーフにはなかなか帰れない。かわいそうな牡猫カーター君……。

(2005年7月31日デュッセルドルフにて)



電子「公共圏」はどこへ行った(その2)  石田秀実




  4.

アドルノとホルクハイマーが抉り出した理性と神話的暴力との共犯関係とは、私たちの自然の生の欲望(フーコーに習って言えばビオスではなくゾーエー、すなわちG. アガンベンのいう「むきだしの生」)に関わるものである。ゾーエーが有するとされる動物的暴力性を、隠蔽しようとする文明の力、一元的理性由来の暴力行為にファシズムが由来していることを彼らは見抜いたのだ。人間性や理性そのものが有する「野蛮」が、ファシズムの暴力の源泉であったことに、彼らは愕然としたのだ。

ただ、アドルノやホルクハイマーは、だからといって西欧文明がはぐくんだ理性的思考そのものまで、否定しようとしたのではなかった。彼らはそうした理性批判を通じて、やはり批判的「理性」の新しい形を模索していたのだ。確かに彼らの後継者であるハーバーマスは、彼らの思想を「黒い思想」と断じたのだが、にもかかわらず、ハーバーマスのコミュニケーション理性という思考は、ホルクハイマーらの理想の具現といってもよい性格を持っている。第二次大戦後に出てきた多様な思想の多くは、マクルーハンの電子的グローバル・ビレッジの夢や、ノージックのメタ・ユートピアにいたるまで、「近代的理性の暴力」を認識した人々による、批判的「理性」追及のひとつの形だったといってもよい。

ところで、ナチズムの暴力体制とはどういうものだったか。ここではその実態について探る手がかりを、ナチスの御用学者、C. シュミットの思想に求めてみよう。シュミットの眼の前にあった状況とは、ワイマール共和国の討議主義的な議会による混乱と、ビスマルクの遺産を処理しきれないでいる貴族地主やブルジョワジーの無能であった。この状況を改革するために、彼が考えた処方箋が、自由主義的な複数政党議会の多元主義的討議をやめ、歓呼と賛同による国民意思の直接的表示にもとずく独裁に変えることである。

この処方箋のテーマが民主主義、しかも歓呼する民衆に支えられた現代で言えばアメリカ型の直接民主主義であることに注目してほしい。シュミットは民主主義と市民的平等主義を賞賛し、そこに至る近道として、ファシズムの暴力と決断を求めていたのだ。周知のようにそのモデルとなっているのは、サンディカリスト、G. ソレルの社会主義理論をはじめとする左や右の民主独裁理論である。民主主義は、間接選挙で選ばれた議員による多元主義の討議によってよりも、直接的な民衆の意思と歓呼によるほうが、感動的に実現する、と彼は考えた。そうした歓呼に支えられて、独裁者とその友である哲学者の、ハイデッガー風にいえば「哲人的理性」が一元的に働いた場こそ、第三帝国ドイツだったのである。


  5.

「アウシュビッツの後で、詩を書くのは野蛮である」というアドルノの言葉は、まだ私たちに重くのしかかっている。この言葉に躓くことなく、ひとつの8分音符を書いたりひとかすりの筆を運んだりできる人がいたとすれば、彼はよほど傲慢か愚鈍なのだろう。同様に、この言葉に躓くことなく気楽な思弁をひろげて見せる人がいたら、彼は不誠実で思慮不足だといわれても仕方がない。だからハーバーマスの思想は、アドルノらの「黒い」思想をどのようにすれば克服できるかという思索から始まる。

ハーバーマスのコミュニケーション理性による討議倫理学は、法治国家・多元的議会主義およびカントの理性的公共圏論といった、シュミットらが嫌悪した近代国家(具体的にはワイマール体制)の諸理論を引き継いでいる。ただ、彼はカントのモノローグ的理性主義を、現象学の成果に習って多元化し、間主体的な人と人との絶えざる対話のプロセスの中に生まれるコミュニケーション一般理性に変えた。そしてさらに、アドルノらの黒い思想を踏まえて、複数政党が構成する多元的議会による討議の場を、国連のような、近代国家を「超えたもの」と彼が理想化(あくまで理想化であったが)したものに変えた。

結果として彼のコミュニケーション理性論は、たてまえとしていえば、きわめてコスモポリタン的な性格を強く帯びることになった。先に述べたコスモポリタンの原義に従えば、ポリス(ここでは近代国家)の制約から抜け出た、何者にもとらわれない、しかも間主体的なプロセスにおいて理性的な了解を形作りうる人々からなる絶えざる討議の場が、たとえば国連のようなものだというわけである。


 6.

国連という場が、このようなコスモポリタニズムからはるかに離れた場であることは、自明なことだろう。国連という場を構成しているのは、ポリスの制約から抜け出た、何者にもとらわれないコスモポリタンたちではない。そこにあるのは、因習的共同体を抜け出たり追い出されたりした人々が、ある国家幻想物語のもとに、排除の共同体としてまとまった(より正確にはまとまらされた)近代国家という化け物の群れと、そこから選ばれ、公共性のタテマエを衣装として身に着けている、だが、利権には眼のない近代官僚という化け物たちの群れである。

この化け物たちは、自由・平等・博愛などの人権概念を、タテマエ上は普遍的で万人共通のものとして唱え、憲法に麗々しくそれを記載することまでする。だが、そうした万人普遍主義の概念が実現する場は、近代国家という排除の共同体以外にはありえない。そしてこの排除の共同体である近代国家群の外には、その下位に置かれた国際社会なる無法地帯があるばかりである。

ところで近代国家という幻想共同体の主権についてならば、C. シュミットが鮮やかに説明しきっている。「例外状態に置かれたものをつくり、彼らの生殺与奪の権を国家が握る」ことが、近代国家の主権の源泉だというのだ。そこでは普遍万人主義的概念やコスモポリタニズムは単に装われているだけである。例外状態を作り、排除を行うことが、近代国家という幻想共同体をまとめる鍵なのだ。近代国家が、経済=オイコノミー、すなわち家の経済という生の欲望を政治の場に持ち込み、それのみを究極の目的としている幻想国家である以上、この事実は動きようがない。


  7.

近代国家と古典的ポリスとの、政治的公共性の違いを、生の欲望=ゾーエーに即して明らかにしたのは、H. アーレントである。古典ギリシャのポリス空間は、家=オイコスの領域内に生の欲望を閉じ込めてしまうことによって、その公共性を保っていたと彼女は言う。家長の専制的権力の下で、女性や奴隷が生の欲望を実現すべく働き、その外なるポリス空間で、成人男性たちが、何者にもとらわれることなく、自由に多元的な意見を交換する討議主義的な場が、彼女の主張する公共圏である。ポリス空間では、むきだしの生の欲望、すなわち動物的欲望と暴力が働かないので、人は偏ることのない自由で多元的な主張を、思いのままに戦わせることができるというわけである。

この主張が大衆社会を批判するオルテガ的なエリートの香りを漂わせていることは言うまでもない。だが、ここではそれに深入りすることなく、彼女の主張に沿って考えてみよう。近代国家の問題とは、彼女によれば、オイコスのノモス、すなわち生の欲望の管理であるオイコノミア=エコノミーが、ポリスの、すなわち政治の領域の主要な論点として入り込んでしまったことである。M. フーコー風にいえば、生の政治が、近代国家の主要テーマになってしまったのだ。この主張そのものの正確さは揺るがないだろう。

ハーバーマスの問題点は、だから近代国家の政治目的のうちに、エコノミー=生の欲望の管理という問題が主要テーマとして入り込み、たてまえとしての万人普遍主義やコスモポリタニズムを脅かしていることを軽視した点にある。エコノミーを主要論点とする政治空間の中で、討議倫理学的な理性が、間主観的に生まれ、そこから絶えざる普遍的で理性的な合意がうまれるなどということはありえないことだった。


  8.

では、国連のような場ではなく、電子的なメディア場であれば、コミュニケーション理性の働く、複数の多元的なたえざる討議の場、すなわち公共性の場は、可能になるのではないか。少なくともそこは誰にも開かれた、多元的複数者が議論を交わす場であるのだから。そしてそこは、このごろの公共性論で鋭く批判されているオフィシャル=公という概念と、公共性との矛盾を回避する場であるようにも見える。

現実に電子的なメディア場で交わされているコミュニケーションの多くは、残念ながらこうした期待を裏切っている。2ちゃんねるや、さまざまなデベート空間を覆っているのは、どうしようもない私秘性と、多元主義的討議や公共性とはかけ離れた極私的憎悪のあらしである。アメリカ型のデベート空間のように、自由競争的な打ち負かしを身上としている電子的討議場も多い。そこにはアーレントやハーバーマスが重視した、多元的複数性の尊重という意味の「自由」はかけらも見当たらない。こうした場を見ていると、現代という時代では、バーガーやセネットが論じているように、公領域という概念はすでに死滅し、一人ひとりの生の欲望に基づく私秘的で脆弱なナルシズムだけが一人歩きしているように見える。

身体性の問題について考えることは、ここでも重要だろう。速いばかりの断片的な情報データベースと、それを受動的に取り込み続けるアノミー状態の人々のことを考えてみよう。情報はマニュアル化され、切り取られていて、いかなるコスモロジーも、それと分かちがたく感受される身体性も、もっていない。それを受動的に取り込む人々の側はといえば、もはや確固とした身体性を喪失し、擬似的でフェティッシュな身体もどきに夢中になっている。こうした空間を伝わる情報に、相手の身心を本当に共感させ、間主体的理性を生んで実りある討議に導く力が生まれるなどと考えるのは無理というものだ。 

なるほどメディアで話す蛸壺的な専門家は増えた。彼らは極端に狭く詳細な、ただし肝心のところがジャーゴンで埋まっていたり、専門的には当たり前すぎるため省略されてしまった情報を電子空間に提供してくれる。しかしこれら専門的情報をとりかこむ一般的状況についてとなると、とたんに彼らの知識は、きれぎれの、しばしば誤りだらけの情報になってしまう。一方、政策担当の官僚群はといえば、彼らが収集するのは、切れ切れの、誤りも多い非体系的なブリーフィング情報の束である。そこから彼らが描く「グローバル戦略」なるものが、まともな方向に進む、と思うほうが無理というものだろう。

擬似的でフェティッシュな身体もどきの、いわゆるリアルな画像がもたらしうるのは、生の必要以上の欲望と結びついた、情動である。ゾーエーとか動物的という言葉の西欧的用法とは裏腹に、こうした必要以上の(ホッブス的に言えば無限の)情動と結びついた欲望と暴力は、実は動物的なものではなく、限りなく人間的なものである。動物はこうした「限りない欲望と暴力」を振るう愚を行わない。そんな愚かなことをしていたら、生存できなくなるのが落ちだからである。

擬似身体性と、人間的な、すなわち必要以上の生の欲望は、開かれた公共圏とは正反対の、極私的欲望に導かれた小さな小さな集団へと人々を導く。そして、そうした小さな集団ごとの微細な差異に結びついた消費をあおり、さらに微細な差異の集団を作り出すことによって、消費資本主義経済が、成長を続ける。

電子的公共圏のように見えるものの内部で、現実に大きく働いている支配的情報は、二種類に分かれる。平板で分かりやすい、すなわち大衆にも分かるようなレベルに落として、物を売り易くするための、画一的的な情報と、それとは反対に細分化された、私秘的な差異を売る情報である。前者が人の多元性や複数性、すなわちアーレント的な意味における自由を阻害することは、早くアドルノが、ベンヤミンとの往復書簡の中で、主張していた。そして、そうした画一的情報の政治的価値についてならば、ずっと前にC. シュミットが、大衆支配の手段として高い評価を下し、第三帝国の支配理念としていたのだ。



踊れ、もっと踊れ  高橋悠治




ヨーロッパ文化については、ヨーロッパ人の言うことをそのまま信じてしまう、というのはどう言うことだろう。サイード以来、ヨーロッパ人のオリエンタリズムについては、その思い込みやその背後に隠れた植民地主義的傾向を論じる人たちがいるが、ヨーロッパ文化自体については、そもそもそんなものがあるのかと疑ってみることさえタブーになってはいないだろうか。

ヨーロッパの古典文化も、すべての文化同様、先行するイスラーム文明やケルト文化の直接の影響を受けていただけでなく、繁栄の物質的基礎を作った大西洋奴隷貿易や植民地調査から得た風習を取り入れ、変化させながら、逆輸出したからこそ、普遍性を僭称できたのではないだろうか。大きな船がやってきて魚を穫り尽くし、缶詰に加工して漁民に売り付けるように、遺伝子転換した穀物が土地を荒廃させるように、ヨーロッパ文化も心を衰弱させ、荒廃させているということはないだろうか。啓蒙主義は、理性と科学の光で無知の闇を照らしたが、ヨーロッパの外はその陰となって、貧困と飢餓に沈んだ。

さて、音楽の権威主義もその例外にはならない。たとえば、古典組曲は、17世紀にイギリスで、アルマンド、クーラント、サラバンドが定番となり、フランス宮廷に輸入されたとき、ジーグが加わった。アルマンドはドイツ舞曲、クーラントはイタリー・フランス起原、サラバンドはスペイン、ジーグはイギリスのものだった。それぞれ異国の民俗舞踊を洗練したということになる。逆に言えば、外国で洗練されたものを逆輸入するのはさしつかえなかった。ジーグのように自国の先住民ケルト人に由来する「野蛮な」踊りは、宮廷では取り上げられなかった。それらはどんな踊りだったのだろうか。音楽史はほとんどそれには触れない。だが舞踊史はちがう。それは音楽のように精神性を気取ろうとしても、あまりに身体的なものだ。以下の記述はSonny Watson's StreetSwing.com による。そこには2000ページにおよぶダンスとダンサーの記録がある。

アルマンドは男女のペアが列を作って踊るもので、男が女の腰をつかまえて目がまわるほど速く回転させるのが特徴だったと言われる。クーラントは走るという意味で、3人の女を壁際に立たせ、3人の男が部屋の反対側から求愛の身ぶりで近寄るが、女たちはそっぽを向いてしまう。だが最後はいっしょになって踊りくるう。

サラバンドは、グァテマラの木製の笛の名前だったと言われる。踊り自体はイスラームからスペインに輸入されたもので、女2人、後には男女のペアによる速い踊りとなり、みだらなものとしてフェリペ二世に禁止されたこともあったが、しばらくしてフランス宮廷に登場した。しかし太り過ぎのルイ十四世が踊れるように、テンポを落とした荘重なものになったとされる。ジーグは16世紀の3弦のヴァイオリンの名前でもあった。それで伴奏される踊りは、胴を動かさず、足を急速に動かすもので、やがてフランスで大流行する。

バッハはフランス組曲、イギリス組曲、パルティータなど組曲の6曲セットを作っている。当時のドイツは、ヨーロッパの田舎だった。文化の中心パリの流行は、周辺地の音楽家の手で古典性をおびる。それらはもう踊られるためのものではなく、むしろ音楽語法を身に着けるためのモデルであり、ヨーロッパ中心の音楽世界地図でもあった。その装飾的な線の戯れにはどこか、かつての性的身ぶりの残り香がある。若いバッハは、入念に粉を振った最新の鬘をつけ、若い女を連れ、パイプをくわえて街をそぞろ歩く伊達男だったと言われる。音楽がまだ化石になっていないのも、そこにただようエロティシズムの記憶のせいかもしれない。



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