2005年9月 目次


製本、かい摘まみましては(11)         四釜裕子
九──緑の虱(11)               藤井貞和
イスラエルへいこう                佐藤真紀
循環だより 水風呂百姓              小泉英政
ご臨終テレビとバラのぺリメニー          御喜美江
しもた屋之噺(45)               杉山洋一
アジアのごはん(3)続ナムプラー        森下ヒバリ
過ぎ去る夏に                   高橋悠治





製本、かい摘まみましては(11)  四釜裕子




こどものころ、テレビのテーマソングに怖いものがいくつかあった。筆頭は「Gメン`75」、二番目が「新日本紀行」、番外編としてNHK放送終了時の「君が代」など。いまNHKで「新日本紀行」が再放送されているけれど、あの曲をきくとやはり布団にもぐりこみたくなる。

1963年から1985年まで、日本各地の紀行ドキュメンタリー793本が放映されたそうである。そのどこかに、製本工場は収録されていないのだろうか。このころ、印刷機の高速化はいっそう進んで、製本工場でもそれに対応するために、大型機械が導入されている。広い敷地をもとめて、郊外に移転するところもあった。異常な量産期を経たいまこれらの機械をみると、工夫するなと言われても我慢できないのが人間なのだろうけれど、なにもここまでスピードアップしなくても、なにもここまで大型化しなくてもよかっただろうにと思ってしまう。

手元に、1965年に日本印刷新聞社から刊行された『出版技術入門』のコピー本がある。製紙会社が集まる地域の古本屋でみつけたものだ。製本の項をみると、手折りと自動紙折機、手丁合いと自動丁合い機を並べて説明するなど、当時の最新機械情報とあわせて手の技を記し残そうという意図がうかがえる。手の動きを模すことから機械作りは始まったはずだから、操作の理解にかつての手作業を知る意義は大きいだろう。機械製本を仕事とするひとは手製本なんてしょせん趣味だろと相手にせず、手製本をするひとは機械製本をやみくもに疎う、という場面はけっこうあるが、どっちも頓珍漢だなとかねがね思っている。

昭和初期の円本ブームを過ぎて、製本職人の技が失われることを危惧した「書窓」(アオイ書房)編集部が、1941年に特集号として刊行した「製本之輯」のはしがきに、同様のことが書かれている。「近年一般洋装本の製本は各工程を通じ極度に機械化の趨勢にあれど原理に於いて亳も手工技と異なることなし。理解に便せんため、本集は特に専ら手工的技法のみを記述した」。そして、製本家・上田徳三郎の口述をもとに武井武雄が加えた図解は、職人の指の柔らかさや得意げな息遣いまで伝えてくれる。1941年版は美濃判で袋綴じ、栃折久美子さんにはじめてみせていただいたときは驚いた、その後2000年にトランスアートが復刻版をオンデマンド印刷で出したのですぐ買った。

前半の和本の部では、まず折り工程でのへらの使い方が記されている。へらはかつて持ち手部分が細かったようだ。アイスキャンデーの棒を幅広にしたような寸胴型になったのはのちのことで、武井は図に「紙が堅くなったので必然の進化なり」と添えている。なるほど幾本ものへらの柄が、折れたに違いない。

寸胴型へらを使って折り作業している製本所が、『ピーター・グリナウェイの枕草子』(1996)にちらと映る。ナギコが父親を印刷所(出版社)の社長室前で待つのは1960年代が舞台か。のちにこの社長は、ナギコが筆で文字を描いたユアン・マクレガー演じる男の皮膚をなめして折本に仕立てるが、途中、和綴じ職人の手つきや道具の映像がわずかに組み込まれていて貴重。舞台は香港、「洋書屋」の奥が印刷所、その片隅で製本され、さらに奥が社長室と、本を出して作って売っているのだ。見取り図をくわしく思い描いてみたいが、この作品はほかにみるべきところがないので二度とみる気がしないのが残念だ。

映画に残された印刷製本関係の貴重な記録といえば、『男はつらいよ・寅次郎恋愛塾』(1985)のマドンナ・樋口可南子宅の手動写植機「PAVO-J」も貴重、というより唐突だった。驚いた寅さんが事情をきくと、会社を辞めたがほかに使う人がいないから引きとったというが、まさか自分で買ったわけではあるまいし、それに木造アパートのたしか二階に置くのは重すぎやしないか。それはともかく、寅さんが朝日印刷のタコ社長に就職口をかけあうと、オフセットに替えたばかりで人手が余っているから無理だと断られる。電算写植機が普及し、マンションの一室で機械一台オペレーター一人で営業するたくさんの写植屋が印刷を支える時代の直前だ。映画やテレビ番組に残るこうした映像のほかに、製本会社の新入社員研修や製本機械メーカーの営業用ビデオなども是非みてみたい。

そういえば、若いころに仕事をてんてんとした井之川巨が図書印刷で働いていた1952年ころの話を『詩があった!』(一葉社 2005)で読んで、あれ?と思った。印刷の終わった刷本(すりほん)を製本会社に運ぶのだが、すでに折られて紐で束ねたものを運んだというのだ。いまなら折りは、製本会社がいったん断裁したあとおこなう作業のはず。たまたまそうしたのかどうなのか、今度図書印刷さんにきいてみよう。





九──緑の虱(11)  藤井貞和




火の九月が苦の日。


年輪、回転、諦観、輪廻。


うた渦巻き、りん落、惑乱、力(りき)まずうたう。


散文絶対反対、異端、配達、全文さ。



(8月27日、新百合ヶ丘の麻生市民館ホールに、「ふしぎの国から」ほかの公演を行ってきました。 うえは1985年9月号の『現代詩手帖』より。 それの表紙に出ている「回文詩?」という作品で、「?」とあるように自壊した回文、4種。 破れ目を輪廻のどこかに作らなければ、と思うこのごろ、9月にはいります。)



イスラエルへいこう  佐藤真紀





久しぶりにイスラエルへ行こうという気になった。パレスチナではない。イスラエルである。しかし、無事に入国できるかどうかとても心配だ。実は過去に入国拒否されている。2002年、ジェニンにイスラエルが侵攻して大暴れしていたときだ。友人の医者が「パレスチナの人道支援をします」といったら入国を拒否された。友人の看護婦はその医者の友人だからということで入国拒否された。私も「人道支援をします」といったが、入国拒否された人たちの友人だということで入国拒否されたのだ。元国連難民高等弁務官の緒方貞子氏も、調査に入ろうとしたが、入国が許可されなかったのだから、私が怪しい人間ではないことはわかってもらえるだろう。

今回がだめなら、二度とここには来ないつもりだ。そのように決心すると、なかなか緊張するものである。3年前は、ヨルダンから陸路で入ろうとしたのだが「だめです。理由は説明できません」ということで砂漠に放り出さて、勝手にタクシーで帰ってくださいというのだ。あまりにもあっけなく情けなかった。そこで、今回は飛行機でベングリオン空港から堂々と入ってやろうというわけだ。もし入国が拒否されると、帰りの飛行機が手配されるまで拘留される。そうなったら、私はハンガーストライクをする覚悟ができている。

ヨルダンのクイーン・アリア空港に到着。カフェテリアで、パンとジュースを買う。もしも拘留されたらいざというときはこれが命綱になる。あれ、ハンガーストライクをするのではなかった? 飛行機は、定刻どうりに離陸。あっという間にウエストバンクに入る。エアバスなのに低空飛行をするので、イスラエルの入植地がよく見える。アラブの町とは異なり実に整然と作られているのだ。しかも彼らはなぜか山の上に住んでいる。20分もするとテルアビブの摩天楼が見えてきた。そしてここは地中海。雲もちらほらと摩天楼をおおい隠す。翼よ、これがテルアビブ! 3年ぶりに見るイスラエルだ。時間がタイムスリップしていく不思議な感覚だ。

しかし、飛行場について驚いたのは、以前のベングリオンの面影はなく、馬鹿でかい飛行場だ。免税店も、ヨーロッパの飛行場のようだ。インティファーダが始まってからというもの、観光客は減っているだろうし、どこからこんなお金が出てくるのか。まったく戦時下の飛行場とは思えないほどの、享楽ぶりなのだ。一方でガザの飛行場はどうなってしまったのか。和平合意後できたおもちゃのような飛行場は、あっという間にイスラエルに破壊された。当時はパレスチナエアラインという飛行機会社もできていたのに。あの当時は、これからパレスチナががんばれば、そこそこイスラエルと肩を並べるくらいの経済成長を成し遂げるのではないかと思ったりもした。パレスチナの人材は、湾岸諸国の経済発展を支えてきた陰の立役者でもあるからだ。しかし、こうもイスラエルがでかくなると、パレスチナが小さく小さく見えてしまう。

さて、問題の入国審査が始まった。一番いやなのは、なんら説明もなく入国を拒否されて、追い返されることだった。私は、再び「人道支援をしに来ました」という説明をした。入国審査官は「それでは、こちらに来てください」というと、丁寧に別室に案内してくれた。コンピューターの前に座っている女性は、「私は内務省のものです」といった。私がどうしてイスラエルに来たのか目的など、何をしているのかとか確認的な質問をした。
「残念ですが、あなたの入国を認めることはできません」
「なぜです!」
「あなたは、イスラエルの治安上問題があることになっています」
私は、そのときの様子を説明した。
「そうは、いわれてもここでは、対応できないのです。日本のイスラエル大使館で説明してください。そして、推薦状を書いてもらってください。そしてまた出直してください」というのである。
「治安上の問題って、それは私がテロをやるとでも思っているのでしょうか。私たちがやっているのは医療支援であったりとか、食料支援とかそういう類です。テロの支援などはしたためしがないし、人道支援というのはそもそもどんな政治的な目的も排除されるのであって……」
「ともかく、これは上からの命令なのです。あなたを入国させてはならないと。あなたは、治安上問題なのです」

結局私は、また入国を拒否されることになった。
「で、これから私はどうすればいいのです?」
「ヨルダンに戻ってもらいます」
「チケットは持っていませんよ」
「こちらが手配します」
その後、私は警察官に連れられて荷物検査をすることになった。
「何か飲み物を買ってきていいか」と警察に聞くと、
「コーヒーが飲みたければ、ただで飲めるわよ」という
実際、荷物検査室の中には、コーヒーマシーンがおいてあった。
そういえば、事務所のガスが切れていて、ここのところコーヒーを飲んでいなかった。
「カプチーノ、シングルエスプレッソ、ダブル……」
婦人警官は、ボタンに書かれてあるヘブライ語を読んでくれる。
「ダブル・エスプレッソ! でお願いします」
こういう気分の時にはエスプレッソがもってこいだ。婦警がスイッチを押すと、真っ黒い液体が流れ出た。そしてそれは次第に透明の液体に変わり、最後は湯気だけが残った。
「え! コップがないじゃないですか?」
「何で、あなた、手で受けなかったの?」
すべては、流れてしまったのである。

荷物検査が終わると、後はひたすら待たされる。入国を許可されるかどうか、心配そうに待っている人たちがいた。ハイサムに携帯からメールをいれる。すぐにかけなおしてくれた。
「RJのフライトを調べてくれ。そう、インターネットで調べられないか」
しばらくして電話がかかる。
「8時テルアビブ発……」時計はすでに8時を回っている。
「次だと明日の2時30分ですよ」
結局、一晩イスラエルで夜を明かすことになった。

「どこに泊まるのです?」
「ホテルのようなところです。TVもあるし、シャワーもあるし、食事もついていますよ」
「さ・よ・な・ら」
婦人警官は、日本語で別れを告げた。なぜ、日本語を話せるんだときくと、友人が日本人女性と結婚したというのだ。なんでも、日本へ行って、アクセサリーを売りながら知り合った女性だという。日本には簡単にイスラエル人が入国できるのはうらやましい限りだ。結局、10時30ごろ、入国拒否の判断が下された3名がパトカーに載せられて移動することになった。
「どこに行くのです?」
「イミグレーション・警察です。」
「じゃあ、結局牢屋にいれられるの?」
あとの二人はチリからきた体系のいい女性。セルビアから来たというこれも体系のいい男性だった。2人ともショックを隠せないようだった。バンのパトカーの後部座席に載せられて、車は飛行場を後にした。ゲートを出て、高速道路を5分から10分くらい走る。久々のイスラエルの風! ついたところは、警察署だった。一階には鉄格子の入った部屋があり、2階に連れて行かれた。
「カメラや携帯は出してください」これで、外界とのコミュニケーションは一切遮断されることになった。

奥の部屋からは扉をバンバンと叩く音が聞こえ男が大声でなにやら叫んでいる。警官が「静かにしろ」と怒鳴りつける。わたしは、かばんを調べられて、カメラと携帯電話を預けさせられた。チリの女性は、カメラは持ってないといっていたが、荷物検査をするとビデオカメラが出てきたので、また警官に怒鳴りつけられる。目には涙を浮かべている。確かにこれは情けない姿に違いなかった。二人とも英語が話せないので、殆どコミュニケーションができない。先ほどドアを叩いていた男が連れてこられて、電話をかけさせてもらっていた。アラビア語を話している。マフムードは、ラマッラー出身のパレスチナ人で、アメリカへ行こうとしたところを拘束されて、ここにつれこられたという。

12時近くになってようやく部屋に案内された。確かに、シャワーや、トイレつき。TVもある。ドアにはガラス窓がついていて外が見える。4人部屋にセルビア人の男性と2人である。2階ベッドの一階に横になると、落書きが目に入った。
「イスラエル兵に殺されたレイチェル・コーリーを忘れるな」後はロシア語。
40歳くらいのセルビア人はマルコビッチといった。イスラエルには2回目である。ビザを取ってきたのに入国拒否をされたという。イスラエルの会社で働くのだという。8日間もここにいなければいけないと嘆いていた。しばらくすると部屋の明かりを消された。しかし、警察署の庭はこうこうと明るい。私は、マルコビッチのいびきと、隣の部屋のムハンマッドがドアをバンバンと殴りつけて、看守を呼びつけて、そして怒鳴りあう声に邪魔されてあまり眠れなかった。夜中には新しい客が2名やってきたようだった。一人はアラビア語を話したが、5時半のフライトだといってすぐに去っていった。もう一人は、イギリスから来たピーターという若者だったが、ドキュメンタリーを作っているという。彼も8時30分ごろには、去っていった。

マルコビッチは、タバコを吸いたいといった。私は彼に、ムハンマッドのようにドアをバンバン叩けばいいと教えてやった。でも、誰も来なかった。「もっと叩くんだ」と諭す。しばらくすると警官がやってきて、「静かにしろ。ドアを叩くな」と怒鳴りつけられた。しかし、ドアを叩く以外彼らを呼びつける方法はない。
10時ごろ、部屋を掃除するので、初めてマルコビッチはタバコを吸いに外に出ることができた。といっても、それは廊下でタバコを1本吸えるだけ。私もタバコを吸うふりをして廊下にでた。窓の外にはイスラエルの国旗が勢いよくはためいている。看守がロシア語が話せるらしくマルコは、ビザのことを話していた。掃除が終わると、再び閉じ込められた。結局こちらから呼んでも、警官は、「うるさい。ドアを叩くな。5分待て」と残しただけでなんら対応してくれなかった。

朝ごはんは、チーズとピーマンとトマトがはさんだサンドイッチにまずい紅茶。私は水が飲みたいと訴えたが、持ってきてもらえず、水道の生ぬるい水を飲んだせいか腹が痛くなった。持っていたヨルダンタイムスを読んだりパソコンで文章を書いたりしていたが、だんだん飽きてきた。閉じ込められていることの不快感でいらいらしてくる。しばらく眠った。マルコはきれい好きな男らしく、食べ終わるとすぐに片付けたがった。食べかけのパンもゴミ箱に捨てていく。持っていたハーブ酒をあげると喜んでくれた。少しシャツにこぼれてしみになったのを気にしていた。

まもなく2時になるのに、看守は来ない。このままだと飛行機が飛んでしまう。本当に帰れるのか不安になる。2時10分前、看守が昼飯を持ってきた。りんご一個とチキンのスライスをステーキ状に焼いたのを2枚。ヒヨコマメと、トマトのペースト、にんじんのサラダが出てきた。うまくもなかったがまずくもない。「これを食ったら荷物をまとめるんだ」という。予定どうりにヨルダンに戻れそうだ。2時10分に、警官がやってきて急げという。
最後にトイレにいかせてもらう。トイレの中で身だしなみを整えていると、あわてて警官がやってきて「何をやっているんだ。早くしろ」とドアをバンバン叩き始めた。
「何をやっているって、小便に決まっているじゃないか」
ともかく、パトカーにのせられて、10分くらい走ると、飛行場のゲートについた。今度は滑走路までそのまま連れて行かれた。そこには、プロペラ機が待機していて、乗客が乗りおわって、離陸を待っていた。まるで、映画カサブランカの最後のシーンだ。
「紳士淑女の皆様、当機は、予定どうりまもなく離陸をいたします。シートベルトをお締め下さい」
ゴーという音を立てて、プロペラが回り始める。窓の外にはタイヤが走り出すのが見えた。あっという間に飛び上がった。
「皆様ようこそ、こちらは、パレスチナ自由航空です……」私にはスチュワーデスがそのようにしゃべっているように聞こえた。目的地はもちろん パ・レ・ス・チ・ナ。あなたたちが国を作るまで、しばらくは、ごきげんよう。

さて、アンマンのクイーンアリア航空に到着する。私のパスポートがないのだ。トランジット・オフィスに行ってくださいという。
「イスラエルから、テレファクスが入りました。テルアビブ−アンマン間のチケット代121ドルを請求します」
「えっ、それは、イスラエルが払うんでしょう」
「あなたが払わないならパスポートは返しませんよ。第一なぜ入国拒否をされたのです」
「なぜって、パレスチナ人の支援をやった。連中はそのことが気に入らないのです」
「なるほど。私の部下はパレスチナ人です。このお金は、彼に払わせましょう」
パレスチナ人の部下は、少しうれしそうに笑った。

イラク人ややパレスチナ人は、それだけで、テロリストかもしれないと疑われ、殺されている。殺してしまってもテロリストかと思ったですんでしまう。そんな世の中になっている。




循環だより 水風呂百姓  小泉英政




いつの間にか梅雨も明けて、30度を超える日が続きはじめた。うだるような毎日がやってきたのだ。若いときの夏は上半身裸で真っ黒に日焼けした体で、土方仕事などしていた。農業を初めてからも、ずっと半袖のTシャツで太陽をにらみ返していたが、四十歳を超えたあたりからだろうか、夏でも長袖派に転向して、「やっぱり。日射しが直接膚に当たらないほうが楽だね」と、年寄りっぽいことを言うようになった。

本格的な夏になってくると、日に三度は、着替えするようになる。大粒の汗で肌着も長袖シャツもびしょ濡れで、仕事にならないのだ。午前十時と午後三時のお茶の時間は着替えの時間でもある。そしてお昼も、着替えして昼食をいただき、水風呂に入って汗を流し、出荷場の土間の上に段ボールを敷いて昼寝をする。引き戸のすきまから入ってくる微風がここちよく、しばしの仮眠の国へ入国する。

最近、気がついたことは、顔面を流れる汗を、シャツの腕の部分でぬぐうのがよくないということだ。すぐさまシャツの腕の部分は膚にまつわりつくようになる。かと言って、汚れた手で頭の手ぬぐいをはずすのも面倒で、やっぱり腰に手ぬぐいスタイルが妥当なのではないかと思うようになったが、まだ実行していない。

そして日中はあまり重労働をしないということも、夏を乗り切る重要なことだ。お日さまが照りつけている時は、トラクター仕事とか、管理機械仕事そかにして、夕方、多少涼しくなってから、体を動かす仕事にするのだ。まあ、そううまくはいかないけどね。

夏は朝が早く、夜も家に帰ると八時をまわっている。出荷場ができてからは、東峰の家は寝に帰る場所になってしまった。一日中閉めきっているので、暑さが部屋にこもっていて、そこに夕食をつくる熱も加わって、まったくもって暑いこと。ついついビールがすすんでしまう。ジェット機の騒音がすごいので、窓を開けるのもままならず、さてこの酷暑のなかでそう眠りにつくか、ぬるめにわかした五右衛門風呂に入って水道の水をどんどん入れていく。ぬるめの湯がややぬるめの湯、そしてぬるめの水、そして水に近くなって、ほてった体がだんだん冷却されていく。体にいいか悪いかわからないが、これが気持ちいい。天然の水で冷えた体は、すぐさま眠りの淵に沈んでいく。





ご臨終テレビとバラのぺリメニー  御喜美江




19年間使っていたテレビが8月13日壊れた。はじめジュジュ、ジュ、ジュジューと、おかしな音を出して、ほんの少しだけ煙が出ると、ちょっとにおいがして、するとパッと画面が消えてしまった。「えっ? えっ? どうしたの?」と私が驚くと、しばらく間をおいてから「ご臨終。」と夫がポツリ一言。年令に不足はないけれど、突然だったのでびっくりした。しかしこのテレビは19年間一度もトラブルを起こさず、実によく働いてくれた。コンセントを抜くと、無事任務を終えたことにテレビはホッとしたようだった。私は白いタオルで埃を拭きとりながら、「長いあいだご苦労様でした」と感謝した。まずは地下室に安置したが、テレビが置かれてあった壁の部分だけ、まるでぽかっと穴が開いたようだ。後で知ったのだが、この日は父の迎え火を母と兄の4人家族が一緒にしたそうだ。

「不幸が一人でやってくることは稀である」というドイツ語のことわざがあるので、テレビご臨終のあと、もしや次は洗濯機(19年)、乾燥機(14年)、冷蔵庫(22年)、車(19年)……とちょっと心配だが、今日までは何とか無事。明日は朝7時20分発のエールフランス機でデュッセルドルフからパリ経由で成田へ飛ぶ。ドイツの8月は気温が低く、朝晩は毎日暖房を入れていたから、東京の真夏の暑さが、まだピンとこない。今も熱いハーブ茶をすすりながら、ハイネックのシャツにウールのカーディガンを羽織って、これを書いている。外は10度。

(2005年8月20日デュッセルドルフにて)



……と、あっという間のような、嵐のような、ながーい月日のような10日間が東京で過ぎて、今日は8月30日。帰国してからJAA主催のAccordion Summer Festa が始まり、25日智美ちゃん、和圭ちゃんがオープニングコンサートで、26日は先回のコンクールで総合優勝したグシェゴシュが、27日はシュテファン・フッソングと私が、それぞれのリサイタルをした。28日は第4回国際アコーディオンコンクールで、やはり一緒に来た生徒のアレキサンダーが上級の部で第一位と総合優勝、29日は浜離宮朝日ホール(小)で、グシェゴシュ、アレキサンダーとのトリオで、モーツァルトプログラムをした。たった5日間で4人も自分の生徒が弾くのも稀だし、私も演奏したり審査したりで、何だか目が回るようだった。そんな時、江村夏樹さんからの久しぶりのメールに「いそがしくしすぎるといらない消耗が大きすぎるようです」とあり、はっと我に返った。全くそのとおりだと思った。でも頭では分かっていても体のほうがいらない消耗をしているようで、結構くたびれてきている。とはいえ昨夜のコンサートがとてもうまくいったので、私は本当に本当にほっとして、大島の家へ戻ってから、帰国後はじめて大酒をくらった。母は全然飲めないのに私の話し相手をしてくれて、3時ごろかな、寝たのは。それで今日はもちろん二日酔い。でもこんな爽やかな気持ち悪さを経験するのも初めてで、自分の体って不思議。

今日はアレキサンダーから手作りのぺリメニーをもらった。彼は今回日本で智美ちゃんの実家にホームステイしているのだが、そこで至れり尽くせりしてもらっている大田家のご家族に作ったというぺリメニーは、バラの花のような美しい姿で、中にまん丸いミートボールがちょこんとお座りしているのが、何とも可愛らしい。食べてしまうのがもったいないくらい。母はたいへん喜んで2個食べた。マネージャーからは、食べたい! というメールがきたので、焼いたぺリメリーを4個ラップして冷凍した。残りは全部私が食べた。ものすごくおいしくて、体中に幸福感が浸透してゆくようだった。

(2005年8月31日東京にて)



しもた屋之噺(45)  杉山洋一





午前2時前、外は随分強い雨が降りしきっていて、すっかり秋の陽気です。隣の部屋で息子がアウアウと声を上げ始めると、外れていたオシャブリを咥えさせたりして機嫌を取りつつ原稿を書いていて、この八月は随分この赤ん坊の顔を見て過ごしたものだと独りごちました。

特に最近、幼い時の自分の記憶がよみがえってくるような気がするのです。赤ん坊が母親の胸に無心に顔をうずめている様を眺めていて、記憶の遥かかなたに微かに同じ肌触りを思い出すような錯覚に陥ります。子供を腕に抱いている時や、高く宙を泳がしてみたりして、嬉々とした声を上げて喜んでいるのを見るにつけ、自分が幼い頃住んでいた、東林間の家の床の、木のタイルや、乗って遊んでいた金色の自動車の玩具などの記憶が、芋づる式にずるずると頭の中で紡がれてゆく気がするのだけれど、恐らくこれらは記憶と印象が相まった、後天的に構成されたイメージに近いもの。

ただ、そこから端を発して、当時両親が一体どんな思いだったのか、遡って理解できるのは、今まで知らなかった両親を垣間見られるようで、嬉しい気がします。赤ん坊が初めて笑顔を見せたとき、初めて手でものを持ったとき、うつ伏せにして初めて首をかしげてみせたとき、初めて子供と意思の疎通が出来るようになったとき、きっと両親はこんな風に感じていたのだろうな、と。そして、このリストが、今後も無限大に増えてゆくのだろうな、と。

ところで、赤ん坊は良い匂いがする、と言いますが、わが息子の場合、生まれた当初、まるで大福のような甘い好い匂いがして、びっくりしました。生後五ヶ月が経ち、母乳の影響か、仄かな乳のような体臭に変わりましたが、いずれにせよ人間がそんな匂いを発するのが、特に兄弟もなく育ったせいか、とても不思議で、愛くるしく感じます。

赤ん坊がこんなに温かい存在で、抱いていれば、抱く側も抱かれる側も、思わずじんわり汗が浮いてくるというのも、たまに友達や親戚の赤ん坊をあやす程度では実感できませんでしたし、自分が子供を「ファッシャ」なるダッコ紐に入れて抱きかかえながら歩いていて、その昔、母親の背中にたすきがけられた紺だか臙脂の「オンブ紐」にしがみ付いた記憶が、蘇るような気がするのです。

「デジャヴ」などと言って、どこかで既に見た光景に出くわすことがありますが、あれに似て非なるもの。時間がメビウスの輪に乗ってブーメラン状に戻ってきて、改めて追体験しているような感覚で、いつも自分の中の誰かが、「ほら思い出すだろ、あそこに居るのがお前だぜ」と囁きかけます。 そうやって補填されてゆく、あるいは後天的に創作され変形された、彼方の記憶をたどる事が、どうして自分の心に積もってゆくのか考えていて、今まで立ち込めた白い霧の中に消えていた、自分の最初の記憶を、こうして自分で掬いあげようとしているからだと思い当たりました。

子供の寝顔をじっと見ながら、この子の最初の記憶は何だろうと考えていて、胎教など全く興味もないけれど、恐らくある瞬間にぼんやり自分という小さなともし火が宿り、母親の胎内に佇んでいた時の、生温かい感覚と(五感で感じとっていた)子宮の明るさ程度を、ぼんやりと覚えていても不思議ではなかろうと思います。その果てしない記憶の底に澱んでいるであろう、化石のような不可視の記憶から、乳白色の霧が消え、自分が覚えている3歳前後の記憶までの空白を、息子の姿から必死に絡めとろうとする自分がいて、その傍らにはそれらの場面に常に立ち会ってくれる若かりし両親の姿もあって、それら複数の姿を同時に追随する自分がいるのです。

子供が生まれ、自分に欠けていた部分を急速に満たしてゆく何かがあって、それは或いは、忘れ去られていた自分を、こうして客観的に顕してくれる存在によるものかも知れません。両親への感謝をこんな形で感じるのも初めての経験だし、でも案外こんな意識も全て長い人間の営みのサイクルの中に、予めインプットされている事項の一つだったりするのかしら、などと俯瞰してみたくもなります。

母親と同じ寝顔、同じ格好で寝ている無邪気な赤ん坊を眺めつつ、35歳の夏が過ぎてゆきました。

(8月28日 モンツァにて)



アジアのごはん(3)続ナムプラー  森下ヒバリ




魚醤油のナムプラーは、タイでは国民的調味料だが、今のような瓶詰めの工業製品のナムプラーが普及したのは、じつはごく最近のことである。初めてタイでナムプラー工場が出来たのがチョンブリーで1922年というから、まだ百年も経っていない。ベトナムではもっと歴史は古いが、どうやらもともとナムプラーを使っていたのはベトナム中部の先住民チャムパーのようだ。

こんなに歴史の浅い調味料だったのかと不思議に思いたくなるが、もともとタイ族は魚や肉の保存食として塩辛とナレズシを作り食べてきた。塩辛の上澄み液を調味料として利用してきた古い歴史がある。ただ、川魚を材料としてきたため、塩辛の副産物として利用する程度にとどまり、その液体だけのために作るということはなかった。この塩辛上澄み液は、雑味や独特の匂いが相当強いが、ナムプラーと基本的には同じものである。ナムプラーは豊富で安い海の雑魚を使って工業的に作られた「塩辛上澄み液」なのだ。瓶詰めのナムプラーは、その便利さ、洗練された味でまたたくまにタイ全土に広まった。料理の味付けも、ナムプラーを多用するようになっていく。

おそらく、ナムプラーの普及でこの70〜80年の間に大きくタイ料理は変わったと思われるが、まだ東北や北部には伝統的なタイ料理が残っている。ただし、どんどん地方の食も変化してきている。15年ほど前ですら、東北イサーン地方の料理はクセが強くてかなり慣れないとおいしいとは思えない味だったが、数年前からイサーン料理が注目を浴び始めてから、どんどんクセのない味になってきている。バンコクやイサーンの町でイサーン料理屋に入っておいしいおいしいと食べながらも、あれ、以前はこんなにふつうに食べられる味つけではなかった、と思ったのはいつごろからだろう。これはけっしてわたしがイサーン料理に慣れたからだけではない。おそらく、調味料の塩辛パー・デック(タイ中部ではプラ・ラー)、その上澄み液のナムパー・デックの使用量が減り、代わりにナムプラーが使われているからだ。料理屋にかぎらず、イサーンの都市部の家庭でもこの傾向が強まっている。

代表的なイサーン料理のソムタムは、細く切った青いパパイヤをにんにくやトウガラシ、そして塩辛のプラ・ラーとナムプラー、マナオ(タイのライム)を加えて、うすでついて和えたものだが、いまでは塩辛なしでナムプラーのみの味つけのものがソムタム・タイと呼ばれて、バンコクを中心とするタイ中部、そして都市部では主流になっている。塩辛のプラ・ラーのうまみがないので、砕いたピーナッツと干しエビ、そして多量の砂糖を加える。伝統的な塩辛入りのソムタムの方がわたしは好きなのだが、注文するときは、必ず塩辛の量は少なめでお願いする。入れるトウガラシは4本。本当はトウガラシの数は奇数と決まっているのだが、3本では物足りず、5本では辛すぎるので、外国人の特権で4本にしてもらう。ラオスやイサーンの人がふつうに食べるソムタムは塩辛の量が多くて、たいへんクセが強い。沢蟹の塩辛を入れるソムタム・プーも泥臭くてわたしは苦手である。食文化が変化してしまうことには、複雑な気持ちがあるが、塩辛の代わりにナムプラーをたくさん使うようになったので、生まれたときから塩辛を食べつけていない人々にもイサーン料理が食べられるようになったのだろう。

ビルマを訪ねたときの話。首都ヤンゴンを訪ねた旅では、毎日ごはんに苦労した。どの店の料理も脂こく塩辛かったのだ。味つけは小エビの塩辛ンガピがよく使われ、ナムプラーは使わない。油で煮付けるような赤茶色のビルマカレーが多い。ヤンゴンに住んでいるのはほとんどがビルマ族でインド系住民も多い。ビルマこそが、インド文化とアジア文化の境目だと思ったものだ。

タイ系のシャン族の住むところなら、ごはんに苦労することはないだろう。そう確信して、2回目のビルマの旅はバンコクから直接マンダレーに飛んだ。マンダレーはシャン州の玄関口だ。マンダレーからシャン州の高原地帯を西へ。かつて第二次世界大戦のとき日本軍司令部のひとつがあったメイミョーに泊まり、そこから高原列車に乗ってさらに西へ。列車の車体はそうとう年季が入っている。おそらくイギリスの植民地時代からのものだろう。ホームで蒸かしたもち米を売っていたので、朝ごはんに買ってみた。お腹がすくと低血糖になり、へろへろになってしまうので、いつ山の中で止まってしまうか分からないこういう列車の旅では非常食の意味もある。紫色の黒米のおこわと、白米のおこわ。売っていたのはシャン族のおばちゃん。「う、うまい……」思わず目を見開いた。それまでビルマで食べたどんなものよりおいしい。いや、日本やタイのもち米よりもずっとずっとおいしい。塩をふりかけただけのもち米がこんなにおいしいとは。自然の甘みとコクが噛みしめるたびに口の中に広がる。ふーっと肩の力がゆるんだような気がした。あ、非常食なのに全部食べちゃった……。

立て揺れ横揺れをくり返すおんぼろ列車を降りたのは、チャウメという小さな古い町。お茶の問屋がたくさんある。この町の住人はシャン族が主で、あとは商売をする中国人、インド系ビルマ人、そしてビルマ族、買い物にやってくる周辺の山地民族たち。小さいがシックな町並みが気に入り、しばらく滞在することにした。町をぶらぶらして音楽カセットを買おうとしたら、タイ国人か? とタイ語で話しかけられた。話しかけてきたのは、タイヤイ族だという女の人だった。ビルマで、タイ語で話しかけられたのは初めて。タイヤイとはシャン族の自称だ。タイヤイもタイ国のタイ語が話せるのかと驚いたが、よく考えてみたらタイ語が話せるも何も、彼らはタイ語族なのだ。

英語が堪能な宿の主人に聞くと、彼もタイヤイだという。しかも彼は選挙で選ばれたNLDの議員でもあった。よくみたら宿の横の彼の家には、虎の絵のついたシャン民族解放同盟の大きな看板が掲げられている。タイヤイのタイ語と、タイ国のタイ語は40パーセントくらいは同じであろうという。話していると、タイ国のタイ語よりはラオ語のほうにかなり近いと感じた。(後で調べたらタイの北部の言語により近いと分かった)
郊外の有名なシャンの寺院で祭りがあるというので、出かけてみると、寺の周りに大きな市が立っていた。雑貨、服、かご、農機具、食べ物・・。「ムーソム、ムーソム! パーソム、パーソム!」タイ語らしい呼び込み声に振り返ると、台の上には竹筒に入ったナレズシが並んでいる。どうやら、ムーソム(酸っぱい豚肉)とは、豚肉のナレズシ、パーソム(酸っぱい魚)とは魚のナレズシのことらしい。

チャウメの小さな朝市でもたくさんの種類のナレズシや塩辛を売っていた。漬物もたくさん。タイの市場では今は片隅に追いやられている塩辛たちが主役の顔をしている。シャン州ではほとんど瓶詰めナムプラーは見かけなかった。店で頼んでやっと奥から出てきたナムプラーはタイのイカ印。
はるか昔に分かれてこの地に辿りついたタイ族の末裔たちは、昔ながらのタイ族の伝統をかなり残しているようだった。



過ぎ去る夏に  高橋悠治




夜中になるとセミが鳴きはじめる 3年間の地下暮しを終えて 親ゼミとおなじ木にのぼり 声をあげる それから二週間鳴きつづけて 声がとまる 人間の一生もこんなものなのか

夜明けになると カラスの笑子が ワッハッハッハと飛びまわり 領地の境界線を声でなぞっていく 

そして朝 今年は選挙だが さいわいここまで入って来る宣伝カーはいない それでもテレビでは ブッシュのポチが声を嗄らして 郵便局員が多すぎる 警官のほうがすくない 国民のみなさん(アメリカのこと)は民営化を望んでいる などと言っている 新聞は選挙がはじまっていないうちから世論調査をしては ポチの勝利を予言している すべてが起こる前から分かり切ってしまったこの世界では すべてが投機の対象 予想は誘導 予想は宣伝 

コンテストで 自分の判断をもとに投票する場合と みんなが投票するだろうと予想される対象を選んで投票する場合は ちがう結果が出ると言われる 利権がからむ投機では もちろん予想される結果のほうに投票することになる 
あるいは 投票するまでもなく結果が決まっているなら 投票するのはむだであるばかりか たとえ反対票を投じることによっても 制度を支えることになる 制度とは だれかが語る権利を持ち かってにふるまえる権利を選挙資金のわずかな投資で買える ということか

民主主義はアテネからはじまった 貝殻追放とソクラテスの死を代償に そしていまは 民主主義はイラク戦争とアメリカの支配の代償にあたえられるものなのか 多数の圧政はいつ終わるのか ヨーロッパの繁栄が奴隷貿易に支えられていたように 周辺が沈めば 中心が相対的に高くなる それでいいのだろうか はてしない論争を打ち切る先制攻撃が じつはいまの文明が 沈みかけた方舟であることを そっと告げているのではないだろうか



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