2005年11月 目次


アジアのごはん(5)セロリとホーリー・バジル  森下ヒバリ
10月の星                    荘司和子
プカンバルより その2              冨岡三智
アリババ                     佐藤真紀
しもた屋之噺(47)               杉山洋一
もしも冬眠しそうになったら            御喜美江
消(き)え──緑の虱(13)           藤井貞和
製本、かい摘まみましては(12)         四釜裕子
循環だより                    小泉英政
帝国の周辺で 3                 高橋悠治





アジアのごはん(5)セロリとホーリー・バジル  森下ヒバリ




今日もまたラジオをつけると(家にはTVはないので)ニュースでインドのデリーでテロが起きたと報じている。すっかり憂鬱な気分でコーヒーを飲み終え、さてお昼は何を作ろうかと考える。どんなに世界が震えていようとも、おなかは空いてしまう。

冷蔵庫をのぞくとセロリがあった。すっかり涼しくなって、引き売りの有機野菜の八百屋さんの品揃えにセロリが毎回揃うようになった。みずみずしくてセロリのおいしい季節である。よし、今日のお昼はセロリのタイ風炒めを作ろう。

セロリはヨーロッパ原産で、薬臭い香りもあるし、生でマヨネーズにつけて食べたり、ピクルスにして食べるイメージが強いが、わたしはもっぱらアジアの料理として食卓に乗せる。もちろん、サラダに入れたり、ピクルスに漬けたり、そのまま齧ったりもするが、わたしの一番好きな食べ方はセロリの茎と葉の部分を炒め、タイ風に味つけして食べる方法だ。

「どうしてもタイ料理が食べたい・・バイ・カパーオ炒めが食べたい!」という衝動に突き上げられ、いても立ってもいられなくなってしまったが、肝心のバイ・カパーオがないというときに思いついたのがこのセロリ炒めである。

バイ・カパーオ、というのはバジルの一種でホーリー・バジルのことだ。日本ではあまり馴染みがないハーブであるが、インドやタイなどのアジア世界ではなくてはならないハーブである。生葉でなくてはその味が出ないため、日本でタイ料理のバイ・カパーオ炒めを再現するのはひとえに、生の葉っぱがあるかどうかにかかっていた。しかし、タイ生鮮食材店のない京都では手に入らない。自給しようと何度かプランターに種をまいてみたが一度も芽が出てこなかった。

スイート・バジルとはかなり味も香りも異なる。肉や野菜と一緒に炒めると独特の風味が出てたいへんおいしい。このホーリー・バジルとひき肉、またはエビやイカと、たっぷりのにんにくと生トウガラシを炒め合わせて調味したものをごはんの上にのせた、とびきり辛いラートカウ・バイカパーオは、タイでは米麺クイティアウに次ぐ人気の昼ごはんだ。半熟の目玉焼きを乗せて、つぶして混ぜながら食べるとおいしさ倍増。

セロリ炒めでこの味を再現するつもりはなかったのだが、セロリをタイ風に炒めたらおいしいだろうなと、味付けをしていって、最後にバイ・カパーオ炒めの調味料の味つけに辿りついた。セロリの味と大変合うだけでなく、あたかもホーリー・バジルが入っているかのような味さえもする。タイでごはんを食べている気分になる。代用品というにはあまりにも失礼な味のまとまりの料理である。

タイ風セロリ炒めの作り方。まず葉つきのセロリの大きいのを2本ほど洗って葉っぱをむしり、葉っぱは半分ほどを刻んで使う。太い茎は皮と筋を薄くむいて1〜2センチ幅の斜め切り。ある程度太い方が炒めた時とろっとしておいしい。にんにく一片はつぶして軽く刻む。今日は、鶏肉のミンチでいこう。きのこも少し入れようっと。長ネギ少々を加えても。生トウガラシの潰したのがあれば、小さじに山盛り。かなり辛い方がおいしい。乾燥粉トウガラシしかない場合は、最後の方で入れる。にんにく、ミンチ肉を炒め、セロリの茎を加え、しばらく炒めたらきのこ、葉っぱの順に加えて炒める。水分が足りないようになってきたら、酒かみりんを加えて焦げつかないようにする。

調味料は、オイスターソース、ナムプラー、GMシーズニングソース、醤油、砂糖。全部入れます。ちょっと濃いめの味付けに。最後に荒挽コショウを加えて、出来上がり。

この五つの調味料の加減は、自分でお好みに。ただ、GMシーズニングソースがないと、タイのあの味は出ない。ゴールデンマウンテンというブランドのソースです。マギーソースみたいな瓶の。このソースを少し入れるのがポイント。別にそこまでタイの味でなくてもいいという方は、なくてもだいじょうぶ。

手当たりしだいの棚の上の調味料を加えただけじゃないの、と疑われそうな味つけであるが、これはわたしがとても好きだった味のタイの屋台で盗み見して学んだ調味法なので、ご心配なく。そのタイの屋台では、さらに中国甜醤油(甘いどろっとした醤油)も入れていたけど、まあ砂糖でいいでしょう。持っていたら使ってください。わたしは砂糖の代わりにはちみつや、甘すぎて残った梅ジャムなども適当に使います。

ごはんの上にタイ風セロリ炒めをかけ、目玉焼きものせたら、香り付けにナムプラーを少しかけて、スプーンとフォークでいただきま〜す。うーん、しあわせ・・。

実は、タイでは日本で食べる太い茎のセロリはほとんど食べない。タイの人がよく食べるのはチャイニーズセロリと呼ばれる、セロリの子供のような、三つ葉の親戚のような小さくて細いセロリである。最近になって中国人が持ち込んだもので、バンコクでは香菜のパクチーの代わりにヤムという和え物に入れたりする。イカのヤムによく合う。

今回、初めはパキスタンにからめてバングラデシュの岩塩のはなしを書こうと思っていたのに、セロリ炒めになってしまった。それはごく最近、セロリのことでショックを受けたせいに違いない。そのショックとは・・セロリの葉っぱだけをちりめんじゃこと炒めてさっと醤油をかけてみたら、ものすごくおいしかった・・ことである。じつは、わたしはセロリの葉っぱがおいしいとはまったく思ってもいなかったので、いままでタイ風セロリ炒めに茎と一緒に少しだけ入れて炒めるぐらいで、残りは、さっさと捨てていたのだ。

ちょっと前に雑誌で、セロリの葉っぱ炒め、という料理の写真を見た。レシピは知らない。大根葉炒めみたいに作ってみようか。どうせいつも捨ててるんだし。ちりめんじゃこを油で炒め、刻んだセロリの青い葉っぱをどさり。ほんの1分炒めてきれいな緑色になったので、とりあえず醤油だけをまわしかけ、出来上がり。3分間クッキング。さて、と味見をしたら思わず頭を抱えた。めちゃめちゃうまい。ごはんのお供に最高である。神様いままでセロリの葉っぱを捨てていたわたしをお許しください・・。

たくさんの調味料を使い、複雑な味のハーモニーとバランスを楽しむタイふうセロリ炒めと、対極にあるような醤油味のみで味を活かしきるセロリの葉っぱ炒め。ああ、料理の奥は深すぎる・・。




10月の星  荘司和子




きみは逝った
1986年の10月
知る人もいないアパートの
階段の踊り場で
息絶えていた


きみは言った
1976年10月の
血の水曜日
王宮前広場でくりひろげられた惨劇
無残に殺されていく学生たち
を見た、と


きみは右手に注射器を握り
自らの左手に
ヘロインを打った


きみはシャッターを切りつづけた
79年80年
国境に押し寄せる難民また難民
キリングフィールドから逃げ延びた
カンボジアの民


きみは東京をさまよった
83年の10月だった
新宿のホームレスと一晩
飲み明かした
パーカウマーを首に巻いて


セーニー・モンコン
きみは今10月の星たちの
ひとつになった



水牛のみなさんは83年カラワン楽団を追いかけてやってきたセーニーを覚えていることでしょう。パーカウマー(水浴布)を首に巻きゴムぞうりでどこでも歩き回るひょうひょうとした姿。好奇心いっぱいの少年ぽい瞳。セーニーはスラチャイとモンコンの親しい友でした。73年学生革命前後「民主主義」という新聞で働いた後、フリーのレポーターとしてタイだけではなくカンボジアの政変やフィリピンの民主化運動など取材でアジアを飛び回った最後でした。

彼が急逝してことしで19年になります。上の詩は彼から直接聞いたはなしです。ヘロインは彼のからだをどのように蝕んだかも。ロッブリにあるお寺で薬草を使ってアヘンを絶つ苦しい処方を受けて社会復帰しましたが、完全な健康体にはもどれなかったようで、亡くなる1年くらい前にはたびたび眼の前が真っ暗になると言っていたのを覚えています。

10月の星たち、とはスラチャイが詩の中で使っている表現です。73年10月の学生革命で殺された学生たち、76年の反革命で惨殺された学生たちの魂を、このように呼んだのです。セーニーも民主化を求めて散った10月の星のひとつだったと、わたしは今思い起こすのです。


季節がめぐりかわるように
人の人生もとどまることがない
亡くなってはじめてその者の価値に気づく
友よ
哀しみの歌を書いてこころが震える
友よ。。。今は限りないぬくもりの中


これはスラチャイが葬儀の日に贈った哀悼の辞です。



プカンバルより〜第4回コンテンポラリ舞踊見本市〜 その2  冨岡三智





さて、スマトラ島のリアウ州にあるプカンバル市では私の舞踊がどんな風にとらえられたのだろう。参加者の中で外人らしい外人だったのは私だけだったので、それで注目してもらえたというのは幸運であった。それにインドネシア語でインタビューを受けることができる、というのも良かったのだろう。(英語が話せそうな記者はいなかったから。)私にしても、丁寧なインタビューをしてもらえ、自分の考えをまとまって話せたことは幸いであった。

最初に私の作品について説明しておくと、私のベースはジャワのソロ様式の舞踊で、曲はソロの音楽家に委嘱した。伝統曲と新しく作曲したものが混じっているが、新しい部分も伝統音楽の語法で作曲されている。作品のタイトルは「ON-YO」(陰陽)で、冒頭の歌では古事記のイザナギノミコトとイザナミノミコトの国生みのシーンのテキストを使っている。宇宙が混沌から分離生成し死んでいくまでの過程、人の生から死への過程、人と神との合一に至るまでの過程などのイメージを重ね合わせている。

日本語のテキストを混ぜて使っていることは意外だったのか、そのことに言及した評が多かった。実はこれは作曲家のアイデアで、私が意図したことではない。彼はジャワ語と違う日本語の音(オン)の響きを使ってみたく、一部に日本語の詩を入れたいと言ってきたので、それなら冒頭に古事記のそのシーンを使おうと、ひらめいたのだ。私としてはその国生みのイメージを宇宙の始まりのイメージに重ねただけで、あとの歌詞は全部ジャワ語である。ところが、プカンバルの人ならジャワ語のテキストの意味も分からないだろうと思うのだが、それについては全然質問されなかった。日本語の方により意味があると思われたのかもしれない。

ジャワの伝統曲やジャワ語の歌詞を使っていることに対しては、1人(+α)だけ否定的な意見を言った人がいた。スマトラから出演しているグループの音楽家(+その友達)だ。彼は私に、なぜ日本の曲を使わないのか、音楽は自分のアイデンティティと切れないものだから、自分は絶対に出身の地域の楽器と言語にこだわる、と言う。この人は実は全然知らない人ではない。スマトラにある国立芸大の先生だが、私の留学中にソロの芸大・大学院で修士を取っていた。私がソロの芸大・大学院でジャワの伝統舞踊を踊っているのも見ているのだし、それに彼自身も出身地でない地域で勉強するという経験をしているのだから、ジャワの舞踊も私のアイデンティティの一部だと思ってほしかったな、と正直思う。

記者の人や一般の人(ジャワ人以外)からは、「なぜジャワ舞踊をベースにしたのか?」という質問がよくあった。これは今回に限らずよく受ける質問なのだが、質問者が日本人とインドネシア人では少しニュアンスが異なる。日本人の場合は「日本人なのに、なぜ外国の舞踊を選ぶのか?」という意味で質問をしてくる(でも、バレエをやっている人に同じ質問はしないみたいだ)が、インドネシア人だと「インドネシア舞踊の中でもいろいろあるのに、なぜジャワの舞踊を選んだのか?」という意味になることが多い。芸術系の学校や舞踊団体で舞踊を勉強している人は特にそうである。というのは、そういう所ではその地域の舞踊を中心に他地域の舞踊もいろいろと学ぶからだ。いろんな地域の舞踊ができるとインドネシアでは舞踊家としてのチャンスも広がり、また創作にも役に立つ。だから、インドネシアの芸大に留学していろいろ習っただろうに、なぜその中でジャワ舞踊だけを選んだのかと彼らは思うらしい。

さてジャワ人の反応だが、スタッフも参加者も大体知っている人が多かったので、「なぜジャワ舞踊をベースにしたのか?」ということは誰も聞かなかった。しかし作品のジャワ語の歌詞や伝統曲の用い方に敏感に反応する。その1つの感想が、振付が音楽に付き過ぎているというものだ。確かに私は音楽の様式やメロディーを振付では重視する。

ジャワの伝統舞踊では音楽の構成と振付と歌詞が一体化しているのが特徴だ。けれど1970年代にソロで行われていた伝統舞踊改革(PKJTプロジェクト)では、音楽の構造と振付の連関はあまり重視されなかった。(敢えて壊したという側面もある。)またコンテンポラリ舞踊の音楽ということになると、伝統楽器をフル編成の形で使わないという方向に進んでいるようだ。それで楽器なしで踊り手自身が伝統的な詩を歌いながら、あるいは音楽家が詩を歌うのを背景に、踊るということをよくやる。これはインドネシア初のコンテンポラリ舞踊とされるサルドノ・クスモの「サムギタ」(1969年)で既に見られるやり方だ。

私としてはフリーリズムの詩にのせて踊るにも限界があると思っているから、いろんなガムラン音楽の形式を使用したし、伝統的な音楽形式で作曲してもらったけれど、音楽に付き過ぎるのは古いという先入観がジャワ人の間にはあったと思う。そのくせ、振付が歌詞の意味に対応していないと言う人はジャワ人に多かった。

確かに私は振付を歌詞に付け過ぎるのは嫌な性質だ。だから歌詞全体の大体の意味と雰囲気は考慮するけれど、個々の単語の意味に対応するような振付をしようとは初めから思ったことがなかった。おそらく私がジャワ語に精通していても、そういう振付の仕方はしないだろう。それが、ジャワ人から見ると、日本人でジャワ文化への理解が足りないために振付と歌詞の対応まで思い至らない、と見えるらしい。

これらの2点は音楽や歌詞をどの程度まで振付に反映させるのかという問題だ。本当はジャワ人の間でも振付に対する考え方や個人の嗜好によってその程度はいろいろなのだが、こういう見本市のような場になると、どうしても私個人の解釈とは思ってもらえずに、「ジャワ人と違う日本人としての解釈」だと思われてしまう。




アリババ  佐藤真紀




最近、原稿を溜め込んでしまい、というかそれほど仕事は来ないのだが、頼まれた原稿の筆が進まず頭が痛い。イラクの魅力をガイドブック風に紹介するという企画なのだ。

そこで、千一夜物語のころのイラクでも紹介しようと思って、まず出てくる言葉が、「アリババ」。

最近イラクでもこのアリババという言葉が大流行。サダム政権が崩壊した後、無政府状態になるとバグダードというかイラクの中は盗賊だらけになってしまった。この盗賊のことを「アリババ」と呼んでいる。最初のころのアリババは、なんともえげつなく、サダム宮殿からいすやら机やら、はたまた電気のスイッチとか、あるいは電線まで盗んでいった。

その後、盗賊はもっとプロフェッショナルになって銃を使う。ものすごいスピードで、走る外国人を乗せた車を追っかけ、銃をぶっ飛ばし、車を止めては、身包みはがしてしまうという手口だ。最近は外国人が少なくなった分イラク人が狙われる。「アリババ」に会わなかった? というのが、イラクから出てきた友人にかける挨拶のようになってしまった。

この間、イラクから医者が出てきたので、「アリババ」に会わなかった? と聞いたら、しかられた。「アリババは、40人の盗賊をやっつけたいいやつだ。泥棒扱いとは失礼な」というのである。早速、アリババの話を、調べてみると青空文庫で読める。

アリババが、40人の盗賊の洞窟を見つけ、「開けゴマ!」というパスワードを盗み、金銀財宝を盗んでいって大金持ちになるという話。そして、金銀財宝を取り返しにきた盗賊40人をすべて返り討ちにするという話だ。なんだ、結局泥棒じゃないか。

この話、アリババには強欲なお兄さんがいて、アリババからパスワードを教えてもらうが、目先の金貨に目がくらんではしゃいでいるうちにパスワードを忘れてしまう。そこに盗賊が帰ってきて、体をバラバラに切り刻んでしまう。アリババが洞窟にお兄さんを探しに来ると、肉片にびっくりするがそれらをすべて持ち帰り、靴屋に頼んで縫い合わせたという。

盗賊のほうもえげつない殺し方をするものだ。そこで、思い出したのは最近のイラクでは、遺体を切り刻んで、臓器の売買が行われているという話だ。友人が写真を見せてくれた。遺体は胸から下腹部にかけてざっくり切られており、太い糸で縫い合わされているのだ。中に臓器があるかないかは確認するすべもない。

サウジアラビアの新聞、アル・ワタンが、米軍が臓器売買に関与している可能性を記事にしている。(2004年12月18日)これによれば、米兵と一緒に、医療チームが死にかけたイラク人を見つけて臓器を取り出して、アメリカまで運んでいるという。欧州の同盟軍は、米国人が取り扱う遺体が欠落し損壊していることに気付き、自軍の司令部に報告したが、事が重大なので緘口令が敷かれた。一方、軍事・諜報司令部は自軍が観測した内容を秘密報告書に記し、欧州の各国防省に送付したという。

友人の話では、健康なイラク人を警察がつかまえて拷問を加えて死に至らしめるわけだからもっとたちが悪い。お金を出して、臓器移植を受けて助かるアメリカ人と臓器を取られて死んでいくイラク人。医療とはなんだろうと考えされられる。

イラクの魅力を伝えるようと千一夜の話をしようと思ったが、これではイラクの魅力が伝わらない。またまた頭を抱え込み筆が進まなくなるのであった。




しもた屋之噺(47)  杉山洋一




10月に入り、俄かに気配が寂しく感じられるのは、陽が落ちる早さ故でしょう。今年はひどい秋雨で、仕事先のレッジョ・エミリアで履いていた臙脂の革靴が、ホテルと劇場を往復するうち、すっかりくたびれてしまいました。パルマやモデナの美しい街並に比べ、レッジョはどこかミラノに似て、一見殺伐とした印象を受けるものの、街を徘徊していて、実は思いがけない面白みに溢れていたりします。

観光地でないせいか、喫茶店で凌げる昼はまだしも、困るのは夕飯で、食堂が殆ど見当たりません。随分歩いても見つからないので、当初は仕方なくドーム脇、アーケード下の料理屋に駆け込んだものの、ウェイトレスの器量が良かった程度で、とても納得出来る代物ではありませんでした。明くる日、改めて道行く人にあちこち尋ね歩くと、劇場裏にとんでもなく旨い料理屋があると言います。果たして、アリオスト劇場脇のカイロリ通りを少し入ると、プレハブテントが建っていて「ピッツェリア・天国や」と書いてあります。

ヴィオラのパオロと連れ立って、入口らしきビニールのドアに近づくと、中で食べている客が揃って、「そこじゃない、この端から入るんだよ」と手招きします。なるほど、細い通路のようなものがあって、土木作業場の仮テントみたいなドアがついています。本当にここなのか訝しがりながら店に入って席に案内されると、ちょうどさっき間違えたドアの前でした。すると、次から次へとひっきりなしに客が途切れないのです。その度に、新たしい客が間違えて手前のドアに手をかける。その度フロアの客全員が話をやめ、大袈裟な身ぶりで、入口はあっち、とやる。

30分もするとフロアは満杯になり、その満杯の客が一斉に「あっち」とやる姿は余りに可笑しくて、外の客も中の客も大笑い、という状況ながら、ここの料理は文字通りとんでもなく美味で、信じられないほど安いのでした。このプレハブの仮住まいみたいなのは、あえてこうしてコストを下げているのか、宣伝戦略なのか分かりませんでしたが、余りに美味しくて、街では相当有名な料理屋だったらしく、すぐにいっぱいになるから、予約は受付けないんだ、そう、嬉しそうに説明してくれました。

次の日、カヴァレリッツァ劇場に合わせにゆくと、ナレーター役のミケーレが来ていて、すぐに意気投合しました。彼は初老の素晴らしいヴェテラン俳優ですが、何でも十年来の恋人が日本人だとかで、四方山話に花を咲かせていると、昼食に誘われました。こちらは休憩時間が少ないからと、近くのバールから作ってもらった、特産のモルタデルラを沢山挟んだ、特製サンドウィッチを手にしていましたが、余りに話が楽しいのでつい釣られてミケーレについてゆくと、案の定、アリオスト劇場の角を曲がって、「天国や」へ向かうではありませんか。

「今日は、ぼくの大切な友人を連れてきたんだ」、そう店主に紹介されて、向うもびっくり。「何だお前さん、ミケーレの友達だったのかい」。アリオスト劇場などで、ダニエレ・アバードに招かれ、ミケーレが何度も舞台を踏んでいることなど、演劇畑に疎く何も知らなかったので、彼がここの十年来の常連と聞いて驚きました。

ゲッベルスの「La Jalousie」でミケーレは素晴らしい仏語を披露してくれましたが、彼は同時に大のアメリカ嫌い。頬が落ちそうになるくらい美味な、ひしこ鰯のマリネを食べながら、さんざん反「マクドナルド・ハンバーガー文化」を捲くし立てていて、そろそろこっちもリハーサル始まるなあ、困った、失礼しなきゃ、と焦っていると、奥から見た顔が出てきました。何てことはない、次の合わせの面々が全員揃って「天国や」にしけこんでいたわけで、「なんだいお前もここにいたのかい、参ったなあ。もう旨いもの見つけちゃって」とさんざん囃し立てられつつ、一緒にガヤガヤ合わせに戻ったりしたわけです。

合わせも進んで、或る朝、作曲者ハイナー・ゲッベルスが練習に来ました。今回一緒に仕事をして、その人と音楽にとても魅了されましたが、音楽や文化に対して、衒いがないのか、不必要な固定観念がないのか、彼の視点は一環して透徹で、切口は鋭く、明確なだけ聴き手に直裁に迫ります。楽譜は至ってシンプルで、演奏者を押さえ込むような書き方が一切されていません。だから、弾く方がその中に入ってゆかなければいけないし、むしろ、惹きこまれるように書いてある。それが彼の音楽の彫を深くし、素晴らしいところです。

「天国や」の連中が吹いた「ヘラクレス」など、実際とても演奏が難しいけれど、決して重たい音楽ではない。むしろ、ヘラクレスの物語を忘れて聴いてしまえば、ユーモラスでさえあります。実際、合わせをしていて「オレ、ここんとこ好きなんだよね」なんて、ハイナーも愉快に笑っていました。

演劇との関わり、言葉との結びつき、様々なスタイルのアッサンブラージュなど、全ての要素が当てはまるわけではないけれど、ドイツには、ワイルやアイスラー、デッサウなんて作家もいたなあと、ふと思い出す瞬間があります。隣のオーストリアには、オルガ・ノイヴェルトもいますが、ノイヴェルトやゲッベルスの劇場(空間)に対する姿勢は、どこか似ている気がします。

客に媚を売るのではないが、そこに居る全ての人間を巻き込んでしまうようなところ。鋭角で突き放したような音への視線と、エネルギッシュな音。イタリアのような保守的な社会には絶対にないテイストでしたから、初めてグラーツでノイヴェルトのオペラを見たときのショックは、今でも忘れられません。それに比べればハイナーの方がずっと大人しいし、攻撃的でもありません。

休憩時間、ハイナーが少し猫背でピアノに向かって一人即興していました。ベルグのソナタをひとくされ、それがマタイになり、どこかから平均律のフーガになって崩れたなあと思うと、イタリア協奏曲の二楽章になり、三楽章に跨ったかと思うとまたフリージャズになる。

ベルグのソナタが、視点を変えると全く違って聞こえるのが新鮮だったのと(あれを平行和音の連なりと捉えると、響きが全く違うのです)、彼が即興でこれだけ古典を軸にするのも面白く感じました。


もちろんジャズメンではないので、彼のアップビートは、キース・ジャレットのバッハやショスタコーヴィチとも違うけれど、聞いていて、和音の響かせ方とか、アーティキュレーションなど、彼の作品を演奏するヒントが沢山見つかりました。こんなに作曲者と意気投合して演奏会が出来る機会も少ないのですが、今回レッジョ・エミリアのREC秋の芸術祭は、灰野敬二さんに始って、ボルタンスキーそしてゲッベルスと続いていましたから、興奮した聴衆の反応が、それは素晴らしかったのも忘れられません。

演奏会後、楽屋にダニエレが挨拶に来てくれて、改めてお父さん(クラウディオ)に瓜二つだと内心妙に感心しつつ、ミケーレと3人話し込んだのは、これからくりだすレッジョの飯屋について。喧々諤々やってから、連れ立って夜半過ぎまで、思う存分エミリア料理に舌鼓を打ったのは言うまでもありません。

(10月21日モンツァにて)




もしも冬眠しそうになったら  御喜美江





9月28日に東京からラントグラーフの家へ戻ってきたのだが、荷物を全部2階にあげて、夫にお土産を渡して、母に無事到着の報告ファックスを書いて、シャワーを浴びたら、突然津波のような睡魔が襲ってきた。口もきけないほどの眠さ、というのは誰もが経験済みであろうが、今回はその程度がやや異常であった。翌朝はそれでも時差に影響されてか5時頃には目が覚めたので、起きて着替えて朝食の支度をした。
そしてコーヒーを飲みながら6週間たまった郵便物に目を通し始めると、何だかまた眠くなってきた。そうすると、もうどう頑張っても目が閉じてしまう。仕方がないから再びベッドへ。「冷蔵庫の中がスッカラカンだから買物にいかなきゃ」と思いながらも、眠くて眠くて目が開かない。でも夕方近くになったとき「えい!」と精神力で自分をたたき起こし、隣の町まで車で買物へ出掛ける。すると今度はスーパーマーケットの明るすぎる蛍光灯が眩しくて、棚を見上げながらまた睡魔が近づいてくる。

なるべく料理に簡単な種類の野菜、ソーセージ、肉などを買って自宅に戻る頃には、もうほとんど寝ている。6週間も愛妻料理を食べられなかった可哀想な夫のために、今日は心をこめた晩御飯を作ってあげましょうと思いたくても、この睡魔にはどうしても勝てない。すぐに食べられるものをテーブルに並べたら、もう這うようにベッドにもぐり込み、再び深い眠りに入る。夜中に目が覚めて起きても一時間ともたずにまた眠くなる。翌日も同じようなことの繰り返し。日本からの荷物はトランクも機内持込みのバッグもそのままで、「もういっそ次の旅行までこのままでいいわ」なんて思いながら気がつくとまた寝ている。そして3日ほど経った頃、もしかして私はこのまま冬眠してしまうのかもしれない、と真剣に心配になってきた。

それでもコンサートとか大学の授業とか決められたスケジュールが待っていれば強制的に起こされて、何とか眠りの世界から脱することが出来たのだろうが、今回はしばらく仕事がなかったので、そのことを体がよくおぼえていたらしい。冬眠をする動物達もきっと“仕事がない”という同じ理由から眠くなって寝るのだろう。そんな気がする。

数日後、自分の顔を鏡で見てギョッとした。顔全体の皮膚が垂れ下がって目もとろんと半開き、そこには表情というものが全くない。「冬眠中の顔とはこんなです」と言われたら「なるほど」と納得できるような、それは何ともしまりのないひどい顔。これは大変だ、とびっくりしたらやっと目が覚めた。でも一時間と経たぬうちにまた眠くなってきたので、今度こそ何かをせねばと強く決心した。

それでまずは体を起こす作業から始めた。ラントグラーフから車で30分くらいの所に、オランダでは有名な保養地Valkenburgという美しい街がある。そこのテルメ2000というプール&サウナ施設は、ちょっと値段が高いので週末でも混むことはない。広い室内温水プールは2箇所から外へ泳ぎ出ることができて、そうすると一瞬にして丘陵風景が目の前に広がる。それはまるで古いフランドル地方の風景画のように素晴らしい。赤や金色に紅葉した森と高く澄んだ秋の空や雲を眺めながら、しばらくはのろのろとのんびり泳ぐ。大自然の中ではあまりにも小さな自分だが、水の中にいると不思議なもので、まるで風景と自分が融合するような錯覚をおぼえる。

そのあとはサウナへ。まずは思いっきり汗をかいてシャワー、それからガウンを纏い林の中を散歩する。丘に沈む真っ赤な夕日を眺めたら今度は別のサウナで汗をかいて、次は冷水プールで子供のようにバシャバシャ遊び、再びサウナでう〜んと汗をかいてシャワー……2時間半そんなこんなをしていると体が蘇ってくる。息を吸うと体中に酸素がゆきわたる。ふと周りをみわたすが冬眠はもうどこにもいない。やれやれ。

次は頭を起こす作業として、以前から友人にすすめられていたブログを始めることにした。しかしこの分野においては、まるでまるで初心者の私。そこで生徒の智美ちゃんに設定をたのみ、10月12日無事スタートに成功。ブログは写真が簡単に載せられるのが一番の魅力で、私もやってみたいなと去年の暮れあたりから思っていた。尚、現在はまだ開設早々なので友人・知人が気を使って親切にコメントを送ってくれる。これは本当にうれしいしすごく楽しい。いつまで続くかは分からないけれど、遠く離れた故郷を近くに持ってこられるという感覚が今の自分には新しく、何よりもひどい睡魔に襲われ冬眠寸前であった、あの眠くて眠くてたまらない日々から何とか脱することができたので、眠気覚ましの一例としてここにあげてみた。 

プール+大自然の風景+サウナ+ブログ開設=眠気よさらば 

(2005年10月29日デュッセルドルフにて)




消(き)え──緑の虱(13)  藤井貞和




その数学者は、学際的、何といやな言葉だ、
ヴァレリーなら一蹴したにちがいない、などとぶつぶつ言いながら、
「ある種の刺激条件下で、
コンセプトはコンセプトの《ロゴス》を運ぶ《配偶子》を作り出す
のだ。
配偶子とは、
この場合、
話し手の発する言葉にほかならない。
聞き手の精神のなかで、
その言葉が、
まさにコンセプトの種子となって、
しかるべき環境に遭遇すると、
発芽し、
爆発するのである。
コンセプトの《ロゴス》が展開され、
コンセプトの調節像すなわち意味が再構成されるのである」。



(かれはヴァレリーの、言葉が、「受精させたあと卵のなかに姿を消す精子のように、意味のなかに溶解してしまう」というメタファーを引きながら、言語伝達に関する有性生殖のメタファーを、みずから、僭越ながら、とことわりながら引用する。詩と散文の言語とをはっきりと分けたのはヴァレリーだった。ルネ・トム「心的プロセスのモデル化」『科学者たちのポール・ヴァレリー』[紀伊国屋書店、1996]、335ページより──)




製本、かい摘まみましては(12)  四釜裕子




ある美術評論家が全6回連載していた雑誌記事だけ抜き取って、製本してくれないかと広光さんが言う。見せてもらうと1996年の美術雑誌で、本文紙はやや黄ばんでいるもののそれほど傷んではおらず、背の接着剤も簡単にはがせそうだから、大丈夫やりますよと受けた。よく見ると裏表紙に、鉛筆で「200円」など書いてある。合本するために、改めて買い集めたらしい。

表紙は布装にしましょうかと問うと、いや紙ですっきりと、それに、タイトルと著者名だけさらっと入れてくれ、あとは任せる、と言う。いっそのこと全体のテキストを打ち直して流し込んで、まるっきり作り直しちゃいますかと申し出ると、たまたま居合わせた写真家が、この掲載号そのものを合本することに意義がある、それに、なかの図版を再現することはできないからやめたほうがいいと言う。確かに。表紙の色はどうしようか?「任せた」。広光さんが好きな色は?「こういう色」。指さすのは、お店にかけてあるヘンリー・ダーガーの作品。早春の山里のたくさんの淡く美しい色がひろがっている。私も好き。楽しくなる。

まずそれぞれの号の該当部分を抜きとる。ノドの奥までメリッと開けば、本文紙をほとんど破ることなくはがすことができる。既成の本をいったんばらばらにして製本しなおすときのこの作業をわたしたちは、「ばらし」と呼ぶ。これをやると、製本された時代によって接着剤や紙がいかに違うかが体感できる。

接着剤について言えば、熱で溶かして冷まして固めるEVA系ホットメルトが広く使われるようになったのはたぶん1960年代で、それは、製本機械の高速化が余儀なくされ、より早く乾きより安い材料としての登場だった。本の開きを良くすることや使用後のことが考慮されるようになったのは最近のこと。たとえば(財)日本環境協会・エコマーク事務局は、リサイクル対応型のホットメルト接着剤として、再生紙を作るときに混入しにくいからという理由で、「難細裂化改良EVA型」を2001年に認定している。

数年前、駒場の日本近代文学館で、ホッチキス留めの雑誌を合本したものをばらし、もとの一冊ずつに戻す作業を手伝ったことがある。たしか「團團珍聞」 (1877〜1908)だったと思う。閲覧や保存のためとして、無頓着に接着剤で貼り合わせてビニール表紙をつけていた時代がたしかにあった。しかしそれをまた一冊ずつに戻し、今度はごくシンプルに、一番表に表紙をコピーしたものをのせて和綴じにしてくれと言う。棚には平にして置かねばならないだろうし、探すのも面倒になるだろう。利用者への注意も呼び掛けねばなるまい。同館はそれを手間と考えず、こうした作業を必要なことと判断した。

わたしたちは半地下の部屋で、何日も作業した。古い備品や製本道具や、なぜか熊の爪きりなどに囲まれて、透明で硬くなった接着剤を油絵のコテも使って剥がした。力作業だった。

今回の美術雑誌はそれとは違い、接着剤に粘りが残っているのでばらしは楽だ。丁寧にとれば、接着剤をしみこませるためにつけられた本文紙の背側のミシン目もきれいに現われ、日焼けした皮をみごとに剥ききったときのような快感だ。

ばらし終わったら、もくじとあとづけ、連載各回の頭にとびらを差し込み、16ページを一折(ひとおり)とするよう貼り合わせる。この作業には、図書館設備や備品を扱うキハラの和紙テープを使うことがある。和紙の裏面に接着剤がついてロール状になっており、必要な長さと幅にカットするだけなので便利だが、接着剤の分だけわずかだが厚みが出る。今回はそれを避けたかったので、和紙を切ってヤマト糊を塗り、それで貼り合せることにした。糊はついよけいに盛ってしまうが、薄くしっかり塗るのがコツ。糊は、塗るのではなく「入れる」と言うのはそういうことだ。

貼り合わせた本文紙を折ごとにまとめてプレス機にかける。一晩おいて取り出して、栃折久美子氏考案の「パピヨンかがり」で綴じ、背をコニシの木工用ボンドで固め、花ぎれをつける。表紙の紙は、早春の山里のたくさんの色のなかから黄緑と茶色を選び、表面に凹凸加工してあるファインペーパーにした。二色の境目は白の牛革紐で埋め、タイトルと著者名は黒と赤でプリントした。見返しは黄色、とびらは淡い緑。完成。

ドアを開けて階段を下りる。右側にダーガーの絵を確認して、よし色合いはOKとひとりごち、広光さんに手渡す。
「ほんものの本みたい!」
第一声は、こうだった。ほんものの本みたいって、いったいどういうものが仕上がってくると思ったのとたずねると、だからなにかこう、束ねて綴じてちょっときれいにしたみたいな……と言う。本にしてくれと言われたから本にしただけなのに、おもしろいことを言う。でも、そう言いたくなる気分はわかるし、そう言ってもらえたことがとてもうれしかった。

この本のタイトルは『美術史を読む 6人の美術史家による6つの方法』で、林道郎、田中正之、大西廣の三氏が著者だ。1996年刊行の「美術手帖」 での連載6回分を、2005年の夏、広光さんのために合本した。




循環だより  小泉英政




  芋名月

循環農場の畑のなかで、最も傾斜の強い畑(通称ゲレンデ)、昨年の秋は長雨で何度か土を流された。春作の後、トラクターで耕し、秋作という時、まだ作物が畑に根をはっていない状態の時に、大量の雨が降り続くと、土と一緒に野菜も泥流にのまれてしまう。

傾斜の強い畑は、春から秋まで成育期間の長いもので占めていれば、そういうことは防止できるのではないか。今年は、里芋、ごぼう、さつま芋を作付し豪雨にそなえた。しかし、その畑は結構やせている土地なので、里芋が太るであろうか、心配なところがあった。

春、研修スタッフの中村さんが、軽トラックで何台も茅堆肥を全面にふった。植えつけの時は、研修スタッフのキマタさんと優ちゃんが畝に落ち葉堆肥をあげた。里芋が根づいてから米ぬかの発酵肥料をあげ、成育の途中でもう一度、米ぬかの肥料を追肥した。

今年は二度の台風の雨も加わり、大地は水に恵まれて里芋はぐんぐん伸びていった。同時に草の伸びも速い。初期のころは除草をかねて足で土寄せを二度ほど、管理機での中耕二回、土寄せ二回、そしてスタッフ全投入の草とりを何度かくりかえし、九月を迎えた。

スコール並みのにわか雨が何度か畑を襲ったが、ゲレンデは雨に流されなかった。土砂流失防止計画が成功したのだ。そして今年は里芋の当たり年だ。皆で手をかけて、肥しと水に恵まれ見事な姿だ。まだこれから40日近く太っていく期間があるので、どこまで大きくなるか、少し怖いほど。里芋は秋から春にかけてずっと野菜箱に入っていく主要作物なので、それが豊作だと心強い。

芋名月とは、旧暦、八月十五夜の月、芋を月に供えるところからいわれるそうだ。十五夜にあたる九月十八日の日、畑見学の人たちが来て、出荷用の土垂を一緒に掘った。通常、万能鍬で二鍬、三鍬で掘れるものが、五鍬、六鍬でやっと掘れるほど、株が大きく根の張りが強い。下手に掘ると鍬の柄が折れてしまう。掘った株を持ちあげて、どすんと地面に落とす。そうすると土が落ち、親芋から子芋をはがしやすいのだ。皆でどすんどすんとやってもらった。

夕刻、出荷場で、子芋の根をとり、頭の皮をむしる芋こさえをしていると、東の空にくれない色の満月が昇ってきた。その月を芋名月と呼ぶとは、翌朝テレビで知ったことだが、何とその日にふさわしい仕事をしたことか。里芋畑の上にも皆でしばし見とれた十五夜のお月さん輝いた。


  花人参

行きつけの種苗店に「沖縄島ニンジン」の種を売っていた。沖縄在来の人参で、暑さに強く、黄色で細長の形、六、七月播きで、九月、十月に収穫できると説明書きがあった。

市場に出回っている赤い五寸人参は暑さに弱く、夏の生産地は北海道などになる。循環農場では今まで、春播きの「金港四寸人参」を何度かに分けて播いて、夏人参にあててきたが、あまり成功しているとは言えない。「沖縄島ニンジン」、試してみる価値はありそうだと思った。

試作は一年前の夏、雨の少ない時期だったが、よく発芽し、夏の暑さをかえって味方にするかのように元気に成長していった。傾斜のあるやせた土地だったためあまり太くならなかったが、抜いてみると目も覚めるような鮮やかな黄色の長人参が現れた。甘みは少ないが香りが強く、料理の色どりに格好な食材だった。

しかし、島ニンジンの全てが良かったわけではない。成育途中で二割ぐらいが薹立ってしまったのだ。沖縄とは気候もちがうし、それは当然のことのように思われた。新しい地になじむには時間がかかるのだ。

試作してみようと思ったのは、この人参が暑さに強い性格であるということと、沖縄在来の固定種で種採りができるということになった。最初、薹立った人参はどんどん抜いていたが、この薹を利用しない手はないと、畑の端の方の薹立ち人参を残した。薹はぐんぐん太く高く伸びていって大きな白い花を咲かせた。種を採ったのは冬のこと、人参の花は種を結実させるころ、丁度彼岸花のような、あるいは、抹茶をたてる茶筅を少しひろげたような形をしていて、そのなかに香り高い毛の生えた種をたくさん抱いている。これで来年は自家採種の島ニンジンが採れるぞ、と思ったのだが、ところがどっこい、そうは問屋がおろさなかった。

今年の夏、自分で採った島ニンジンの種を播いた。よく発芽し、途中、同時に発芽したカヤツリグサの草とりが大変だったが、そこを乗り越えて、勢いよく成長した。これは秋には美しいニンジンを送り届けることができる、人参の側を通るたびにそう思った。

だが、しだいに様子が変わってきた。何か皆、薹立ちはじめたのだった。昨年、二割ぐらいが薹立ったから、最初は楽観していたが、それが二割でおさまらない。次から次と薹立っていく。ついに人参畑のほとんどは白い花園になってしまった。夏に花を咲かせなかった人参から種を採ればよかったのに、夏に花を咲かせたものから種を採ったので、夏に花を咲かせるくせが遺伝したのだ。野菜の生理を理解しない種採り失敗の話、おそまつでした。カヤツリグサの草とりに汗を流してもらった皆さんすみませんでした。




帝国の周辺で 3  高橋悠治




こんなバラバラのメモからいつかことばを拾い集めてノートをとる日が来るだろうか

ヨーロッパ文明が切り分け管理して来たさまざまな分野の境界があいまいになるような内部からの運動

声で表すことができるものだけが聞こえる=聞こえるものすべては声で表すことができる

口伝えのリズム 口伝えの唄の揺れと翳りのほうが 正確な拍や音程よりも生きた時間と空間を喚び起こす

ヨーロッパでは 作曲とは 他の音楽家から創造する力を奪うことだった いまやアメリカでは 著作権者が著作者を排除する

アリストテレス論理学の同一律・矛盾律・排中律はアレクサンドロス以来 戦争の論理でありつづけた

試練のない生は生きるに値しないとプラトンはソクラテスに言わせている そのプラトンは 対話の技術である弁証法はどこへやら 独裁者の顧問になった

ピタゴラスは世界を二つに分けた 善と悪 男と女 白と黒 一方は他方を奴隷にする あるいは排除する

他方では エピクロスのクリナメン わずかなちがいから多様な世界を創造する論理は 排除される者たち 女 こども 奴隷 を友人として庭に迎え入れ  権力からまもる

エピクロスの自然学は 科学の普遍性を押しつけない それらは生きるために必要な知識以上のものではなかった 一つの科学ではなく 複数の科学

声を書きとめ それを見ながら ちがう歌をうたう 楽譜を種子としてそれを見ながら ちがう音楽を創っていく

水は堅い岩にも勝つと老子は言ったが 洪水のおそろしさを知っていたのだろう 荘子は宮仕えより泥亀のように生きた 孔子は就職運動に一生を費やした

アインシュタインは原爆製造に手を貸したことを後悔していたかもしれない ドイツの原爆研究という情報が 科学者に協力させるための嘘だったとすると  ……そしてオッペンハイマーは …… そんなことが問題ではない 近代科学は権力者に奉仕するために作られ かれらは当然の義務を果たしただけだ



ご意見などは「水牛だより」のコメント欄へ
または info@suigyu.com へお寄せください
いただいたメールは著者に転送します

このページのはじめにもどる

「水牛のように」バックナンバーへ

トップページへ