2006年2月 目次


クワームラック――愛――       スラチャイ・ジャンティマトン
もうひとつのバレンタインズデー              佐藤真紀
アジアのごはん(8)赤い汁麺イエンタフォーの謎     森下ヒバリ
ここ10年のインドネシアと日本(1)スハルト時代の終わり 冨岡三智
散歩                           御喜美江
カメラマン                        小島希里
写真に関する雑感                      大野晋
製本、かい摘まみましては(15)             四釜裕子
しもた屋之噺(50)                   杉山洋一
ミンガス日記                       三橋圭介
京極為兼──緑の虱(16)                藤井貞和
「冬の旅」から                      高橋悠治
  




クワームラック――愛――  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳




愛 それは与えること
こころにあふれるほどに
きみたちの権利は等しいのだから
希望に向かって歩め


ぼくらの希望
世界の若者の希望
羽ばたく小鳥のように
羽ばたくこころのように
風を悦ぶ


愛 それは与えること
きみよ悦び愉しめ
たとえ苦に出遭っても
それに立ち向かえ


ぼくらの今日
若者の憂愁
涙が滴り落ちるなら
愛はとめどなくあふれだす
きみに向かって。。。


クワームラック(愛)
クワームラック(愛)
クワームラック(愛)


きみに考えてほしい
きみに自由を 
自由を
きみに夢を
きみに描いてほしい
きみに

1984年の「タノン・ミットラパープ(フレンドシップハイウェイ)」というタイトルのアルバムの中にある曲。スラチャイが北部山岳地帯の解放区からバンコクへ戻って間もないころのもの。この曲は彼が気に入っていてその後も何度もうたうのを聴いています。民主化と自由を求める若者たちへの愛の歌。女性ボーカルがいっしょに唄っているめずらしい曲で、はじめ女性への愛の歌かと思ったくらいロマンチックなすてきな小品です。いま聴いてもいい。(荘司)




もうひとつのバレンタインズデー  佐藤真紀





2月といえば、中東ではアーモンドの花が咲き乱れるころ。日本の4月の桜のようにきれいなのだ。アーモンドといえば日本ではチョコレートの中に入れるが、あちらの人たちは、実がまだ青いころから果肉ごとぽりぽりと食べる。あるいは酢漬けにして食べたり。ただこういう食べ方は決して「うまい!」とは思えない。

さてチョコレートといえば、バレンタインズデーが近づいている。日本では、チョコレート会社にはめられたように、愛だの恋だの、うっとうしい宣伝が目に付く。

そこで、改めて、バレンタインデーの起源を調べてみると、3世紀にローマの皇帝、クラウディウス2世という暴君がいたそうで、彼は最強の軍隊を作ろうとしていた。しかし、戦争に行きたがらない若者がいる。家族とか恋人と別れたくない。死にたくないというわけだ。これはけしからんと、思いついたのは、結婚の禁止。これで士気が高まる。しかし、それでも恋焦がれる恋人たちを救おうと、セント・バレンタインは、ひそかに結婚の手助けをした。それがばれて、とがめられ彼は死刑にされる。その日が2月14日というのである。なんと、哀しいかな。イエスキリストが十字架にかけられたお祭り、イースターにも匹敵する。

愛があれば戦争はなくなり平和が実現する。バレンタインは、ジョン・レノンのような感じか? 今のイラクにはぴったりだ。しかし、これは、キリスト教の行事、イスラムの人たちはどうかというと、街中には、ハートマークがあちこちに見られ、こちらも日本と同じでバレンタイン商法は盛んだ。アラブ人はもともと、「愛」が大好き。子どもの絵も必ずハートを描く。「毎日がバレンタインズデーのような」人々である。

そこで、「限りなき義理の愛作戦」なるものを考えた。バレンタイン商法に便乗して一稼ぎという魂胆である。バレンタインデーには、JIM-Netのチョコレートを配り、イラクの子どもたちの白血病の薬に代えようというわけだ。

イラクにちなんだチョコレートを選ぼうと、まず、冒頭のアーモンドチョコ。そして、りんごだ。チグリス川とユーフラテス川が交わるところ。そこにはかつて楽園があったといわれている。アダムとイブが暮らしていたのである。そもそもアダムがりんごを食べてから、人間は罪を背負うようになった。この土地は現在はクルナという村になっていて湾岸戦争でも劣化ウラン弾が打ち込まれ、そして湾岸戦争でもまた劣化ウラン弾が使われたのだ。半減期は45億年というから人間はまたまた大きな罪を犯してしまった。りんごのチョコをかみ締めて原罪を味わっていただきたいという気持ちをこめている。

そして、パッケージには、イラクの白血病の子どもが描いてくれた絵を使っている。ラナちゃんという女の子は、2003年、戦争反対のメッセージを絵に託してくれた。鉛筆しかなかったのだが、後日色鉛筆を持ってきてあげようと約束した。しかし、薬もなく2月3日に死んでしまった。彼女の誕生日は2月17日、あともう少しで、13歳の誕生日を迎えようとしていた。

2003年のバレンタインズデーは、最悪だった。
私はラナちゃんが死んだことも知らずに、イラクで帯状疱疹をわずらい悶絶、ちょうどバレンタインデーにイラクから帰国。ほとんどはいながらラナちゃんの絵を持って、「戦争はいかん」と訴えていたのだ。しかし、かなわなかった。大きな力で戦争は始まったのだ。そして、色鉛筆も彼女にあげることはできなかった。そんな、哀しい思い出の詰まったチョコレート。パッケージの絵はラナちゃんの描いた絵に私が色をつけた。色鉛筆を上げられなかったお詫びをこめて。

平和のために 2006年2月1日

     義理チョコの注文はJIM-Net



アジアのごはん(8)赤い汁麺イエンタフォーの謎  森下ヒバリ





タイの屋台には、真っ赤な汁の麺がある。その名もイエンタフォー。

イエンタフォーの話しに入る前に、タイの麺類について少し。タイの麺は、大きく分けてお米の麺クイティオと小麦粉から作るバミーの二種類があり、それぞれ汁麺、汁なし和え麺、炒め麺、あんかけ麺の料理法がある。米の麺には麺の太さの違い、押し出し生麺などの製法の違いなどによって多くの種類がある。

イエンタフォーは、汁麺の一種である。この汁の赤さは、真紅からショッキングピンクに近いものまで、店によってやや違いはあるものの、とにかく、食べ物とはあまり思えない激しい人工的な色をしている。しかも、この味がまた独特なのだ。イエンタフォーには、紅麹で発酵させた豆腐である「紅腐乳(ホンフウルウ)」が調味料に使われているため、激しい色だけでなく独特のコクと臭みがある。

イエンタフォーは、白い米麺クイティオに赤いスープを張り、そこに緑色の空心菜、スルメを戻したイカの切り身、丸い魚のかまぼこであるルークチン・プラーが添えられる。スープには、はじめからかなり甘い味がついている。赤・白・緑のコントラストの激しいこのイエンタフォーが好きだという日本人にはまだ会ったことがないが、タイ人の人気度は高い。

数回しか食べたことがないのだが、正直言ってあまり好ましい味とは思えない。ちょっと生臭いのだ。しかし、インスタントラーメンの国民的ブランド「ママー」のイエンタフォー味がおいしいと、何かの折に小耳に挟み、スーパーで買って食べてみた。少し甘いが、店で食べるより食べやすく、なかなかコクがあってウマイ。腐乳の臭みがないせいかもしれない。ただ、うちの同居人は嫌そうな顔をして黙って食べていたが……。

前回、タイスキの話しを書いていて、タレに同じく紅腐乳が使われていることからこのイエンタフォーのことを思い出し、なぜこの赤い汁麺のことだけをイエンタフォーと呼ぶのか疑問に思っていた。タイでは麺の種類と調理法を合わせて呼ぶのがふつうだからだ。紅腐乳はタイ語ではトーフー・ジイと呼ぶので、タフォーが豆腐のことだとしても何か変だ。辞書を調べてもよく分からない。

中国語かもと思い、中華系のタイ人の友人に聞いてみることにした。ちょうど、カナダで中華料理屋をやっている彼女のお父さん(タイ華僑二世)がタイ帰国中だったので、詳しく聞くことが出来た。三世の友人はその意味も由来もまったく知らなかったので、助かった。お父さんによると、イエンタフォーとは漢字では「醸豆腐」と書き、醸豆腐とは、豆腐にひき肉などをつめて蒸したり焼いたりしたものだという。

醸豆腐? 何ですかそれ? 始めは腐乳の別名かと思ったが、どうやらそうではないらしい。タイのふつうの米麺(クイティオ)などにトッピングされる具の中にルークチンやはんぺんなどと混じって、ひき肉が詰められた2.5センチ角ほどの豆腐がたまに入っていることがある。それである。なにかあまりおいしくない具……と思っていたが、いったいなぜこの豆腐の名前があの赤い汁麺をも指すのか?さらに、お父さんによれば、イエンタフォーと呼ぶのはなにもあの赤い汁麺に限ったことではなく、タイのほかの麺類のこともそう呼ぶという。ちなみに広東語とか。謎は深まるばかりである。

だいたい、タイ語には日本語の「麺類」に当たるような言葉はないと思っていた。ふつうタイの人は麺類が食べたいときには、具体的な料理名で言うか、「クイティオでも食べようか」などと言うことが多い。「イエンタフォー食べに行こう」と言えば、やはり例の赤い汁麺を指して言っているから、若い世代ではイエンタフォーを麺類全般には使わない。

「クイティオ」という言葉も広東語から来ていて、元々は「米の麺」そのもののことなのだが、そこから、米の麺で作る麺料理の意味も併せ持つようになっている。具体的な料理名は、米の麺の種類の後に調理法やスープのあるなしなどをつける。

タイでは麺類はクイティオ屋台や店で食べるもので、家庭で作って食べるのはインスタントラーメンくらい。つまり、米麺クイティオ、小麦粉麺バミーは、名前が広東語そのままなのからも分かるように、広東系華僑によってタイにもたらされたものだ。そして華僑によって屋台や店で商われてきた。その歴史はせいぜい百年とか百五十年くらいであろう。(タイ族に古くから伝わると思われる米麺にカノムチーンというものがあるが、これについてはまた別の機会に)

しかし、中国本土で麺類を食べたことのある人なら、あの大盛り主義の豪快な中国麺類とタイの麺類の趣がずいぶん違うことに気がついているだろう。タイの麺類は、だいたい意外なほど小盛りなのである。スープ麺の中に麺はほんの少し。それなのに具がやたらに多い。特に米麺のクイティオの場合、丸い魚かまぼこ、はんぺん、揚げたかまぼこ、揚げ豆腐、チャーシュー、もやし、青菜が入る。麺だけお替りしたくても、必ず具つきで頼まなければならない。入れる具について好みは言えるのだが、具そのものが要らない、と頼むのは馴染みの店でもむずかしい。

中国の「醸豆腐」そのものを調べているうちに、これらの疑問が少し解けてきた。「醸豆腐(イエンタフォー)」とは広東地方では、麺のことではなく、やはり豆腐にひき肉を詰めてあげたり蒸したりした料理のことで、さらにその肉詰め豆腐と、丸い魚のかまぼこやはんぺん、揚げ豆腐などの具をスープに入れた料理のことをも指すのであった。

「クイティオの麺抜きやん!」わたしは、思わず一人で叫んでしまった。実はタイのクイティオには、麺なしのスープに具だけが入ったバージョンがあるのである。これに別にご飯を注文して食べる。そういえば日本でも天ぷらそばや鴨南蛮の抜き、などというメニューもかつてはあった。よく落語などに登場するが、まさにあんな感じ。もっとも、タイの屋台でも麺なしバージョンを注文している人は滅多に見ない。

しかし、本家イエンタフォーの場合は、もともと麺なしが本来の姿。ボリュームが欲しいときに、麺類を入れるバージョンがあるというのだ。つまり、タイの汁麺クイティオはもともとイエンタフォーと言うかまぼこや肉詰め豆腐のスープ煮で、そこにオマケで麺を入れたものが、麺料理としてタイに定着したものなのだったのだ・・。スープ煮と書いたが、実際はタイのクイティオと同じく、別に作ってあるスープに、さっと湯がいたかまぼこなどを入れる、というものである。

もともと麺は添え物だったので、麺料理としてタイに定着した今でも麺の量は少なく、具は必ず入るべし、というわけなのだ。そして、友人のお父さんが言った、イエンタフォーという言葉が赤い汁麺に限らずほかの麺類のこともそう呼ぶ、というのも納得である。かまぼこ系の具が沢山入った麺類はイエンタフォーなのだ。

赤い汁の底から見えてきたのは、思いがけず、かまぼこ系の具の米麺クイティオのルーツが中国の汁麺料理ではなく、「醸豆腐(イエンタフォー)」にあることであった。あれ、じゃあ、いったいなんで今では赤い腐乳入り汁麺だけイエンタフォーと呼ぶのだろう? う〜む……。現地調査に赴きますので次回に続く〜。 





ここ10年のインドネシアと日本(1)スハルト時代の終わり  冨岡三智




日本の年末年始には、越し方行く末を考えさせてしまう何かがある。久しぶりにしみじみと年末年始を満喫していて、ふと、ここ10年くらいのインドネシアや日本の暮らしの変わり様を振り返ってみようと思いついた。この間2〜3年おきに日本とインドネシアを行き来していると、その度にそれぞれの国が大きく変化したなあと意識せざるをえなかった。ずっと日本にいれば、あるいはずっとインドネシアにいれば、おそらくそういう気づきも日常生活の中で風化してしまったかも知れない。というわけで、まず今回はスハルト時代とその後の変化について気づいた点あたりから始めよう。

念のため書いておくと、私は1996年〜1998年5月と、2000年〜2003年にインドネシアのソロ(正称はスラカルタ)に留学している。1回目の留学はスハルト大統領時代の末期で、1998年5月に帰国した直後に全国的な暴動になってスハルト退陣につながった。そして2回目の留学はワヒド大統領からメガワティ大統領―スカルノ元大統領の娘―の時代にあたる。

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2回目に留学したとき、スハルト時代は終わったんだなあと感じたことがいくつかあった。その1つが警察での質問事項である。留学すると警察にも出向き、外人登録をする。その時に細かくいろんなことを聞かれるのだが、2回目の留学では外れていた項目が1つだけあった。それは「1965年9月30日に、あなたはどこにいて何をしていましたか?」という質問である。

この日の出来事は後に9月30日事件と呼ばれる。これをきっかけにスハルトが台頭し、スカルノに取って代わって大統領になった。そして事件に関与しているとされた共産党シンパが数10万人粛清され、1998年の暴動の時のように多くのチナ(華人)が襲われた。スハルト政権下では、この事件に関与していた疑いがあれば(本人だけでなく身内でも)インドネシア人なら絶対公務員になれなかったし、外人なら入国拒否された。

だからこの質問は踏み絵の儀式なのだ。その証拠に、生年月日を見れば私がその時にまだ生まれていなかったことは明らかなのに、わざわざ質問して私に答えさせる。私が「まだ生まれてませんでした」と答えると、やおら書類にその返事を書き込む。他の項目だと、こっちが答えるより先に一人合点して書類に書き込んでいくことも多いくせに(人の話をちゃんと最後まで聞かないインドネシア人は多い)。

2回目に留学した時にはその質問がなくなっていたので、「あの『9月30日に〜』の質問はしないのですか」と、わざと聞いてみた。そうしたら「もう、なくなりました」で終わりである。「へー、いつから?」と突っ込んでも良かったのだが、警察でそこまで悪ノリするのはやめた。

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またスハルト時代には、役所や公立の機関では毎週月曜と毎月17日(インドネシアの独立記念日が8月17日なので)の始業前に集会があった。そういう所にはメインの庁舎の前に芝生を植えた円形広場があり、広場の中央には国旗掲揚台があって、そこで集会をするのである。そしてこの日は職員全員グレーの公務員服を着てこないといけない。

私は2回の留学とも市役所の裏に住んでいた。朝7時半に始まる1時間目の授業に出ようと思うと、市役所の前を7時前に通る。月曜のその時間帯には、公務員服を着た市役所職員がこの広場いっぱいに出ていたことを思い出す。

事情は芸大(国立大学だから職員や教員はみな公務員)でも同じである。ただ、いかんせん芸術系の学校ゆえ、まじめでない先生も多かった。それも音楽科よりも舞踊科に。音楽科では月曜や17日の公務員服の着用率はまあまあ高くて、今日は月曜日とかいうことが視覚的に分かったが、舞踊科ではそれはあまり分からなかった。

ある月曜日、私はちょっと早めに芸大に行って、集会の様子を見てみようと思った。大学に着くと集会はもう始まっていて、広場に入る正門も閉められている。ふと横を見ると、舞踊科の先生達がいる。「いや〜遅刻してね〜。まだ中に入れないね〜」と私に弁解していたが、それ以前に公務員服を着ていない。はじめから集会に入るつもりはなかったんだろう。けれど、こんな不まじめさの方が健全だなという気もしていた。

こういう儀礼に気づいたのは1回目の留学早々である。入管に行った日がたまたま17日で、朝8時から入口は開いているのに、9時半頃まで職員が誰も出てこなかったのだ。頭にきて警備員に問いただすと、今日は17日の集会だからね、という答え。その言葉は黄門さまの印篭に似て、有無を言わせない。

それが2回目の留学では、17日にも入管に行かざるを得なくなったけれど、集会はやっていなかった。市役所での月曜の集会も全然見ないし、芸大でも月曜に制服を着ている先生もいない。それで念のため芸大の先生達に確認してみたら、やっぱり集会はスハルト退陣後になくなったということだった。

そしてそれがなくなってみると、日々の雰囲気も少し変わったなとあらためて感じる。特定の日に公務員服があふれるという風景は、今にして思えば妙に儀礼的で、硬直した雰囲気がつきまとっていた。あれはやっぱりスハルトへの忠誠を誓う儀式以外の何物でもなかった。だからこそ、スハルトが退陣してしまうと簡単に止めてしまえるのだ。「もう伝統になっているから今後も続けましょう」なんて誰も言い出さなかったのだろう。

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スハルト時代と言えば、ゴルカル党の黄色を思い出す。この時代の政府系イベントでは、何かというとしつこく黄色を使った。

上で公務員服のことを書いたが、あれも正式の行事の場合は中に黄色いシャツを着なくてはいけないようだ。これは芸大の公務員達だけの式典(趣旨は忘れた。生徒は入れない)の通達で知った。そこには、公務員服ならびにその下にゴルカルの黄シャツを着用すべしという条件が書いてあって、着用していなければ中に入れないことや、黄シャツがない人は新たに購入すべしということも付記されていた。

そしてテレビ中継される国家行事などでは、前の方の席にずらりと陣取る人達――議員か閣僚か――が皆黄色い背広を着て映っていたことを思い出す。日本で黄色い背広を着るのは漫才師くらいだから、このインドネシアの偉いさんの光景はとても奇妙な感じがしたものだ。そしてその一方、偉いさん達の前で繰り広げられる舞台の衣装にも黄色の割合が高い。

たとえば、確か1997年のハリ・イブ(母の日)の行事もそうだった。故・スハルト夫人の故郷・カランアニャル(ソロ郊外)でスハルト臨席のもと行われた時、ソロの芸大に女性舞踊を出すよう指示がきた。その時は60何人かの踊り手がいて(60何回目かのハリ・イブだったから)ガンビョンを提供したのだが、衣装の上着は全員黄色だった。

またソロでは、スハルト時代は毎年の独立記念日や正月に市役所でワヤン(影絵)があったのだが、その時も、伝統衣装に身を包むダラン(影絵操者)も演奏家も決まって黄色い上着を着ていた。

こんな風に、色でアピールするというのは素朴だけれど効果的だ。ゴルカルが行事を主催しているということが、何のナレーションがなくても、遠くからでも、そして子供にも一目瞭然に分かる。

時は流れて2002年の12月、暴動時ではなかったが焼失したソロの市役所が再建され、そのオープニングがメガワティ大統領を迎えて行われることになった。近所のことゆえ私はのこのこと市役所の門の前に行って、塀の外から中の様子を見ていた。そうしたら接待係の人達のクバヤ(伝統衣装の上着)がみんな真っ赤(メガワティの政党の色)だったのだ。それを見たとたん、ああメガワティの時代に変わったんだなと強く実感したことだった。スハルト時代なら、あの人達はみな黄色いクバヤに身を包んでいたはずだから。スハルト色を払拭するのなんてこんなに簡単だったんだと、以前を知る者は拍子抜けしてしまう。

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そしてスハルト後を強く印象づけるのがチナ(華人)文化の解禁だ。2000年2月に再留学してすぐ、ソロでも中国雑伎ショーがあって、芸大の舞踊科でも結構話題になった。また各種イベントにバロンサイ(獅子)やリヨン(竜舞)が決まって登場するようにもなった。こういうものは9月30日事件以降禁止されていたから、1回目の留学では全く目にすることがなかった。いったい、この巨大なバロンサイや竜はいつインドネシアに運びこまれたのだろう。そしてチナの子弟達は、どこで、どうやって練習していたのだろう、指導者はどこから呼んだのだろうか、などと考えてしまう。

チナの人達が祝う旧正月も、2002年は暫定的に、そして2003年からは正式に祝日になった。この日、バロンサイがスラマット・リヤディ大通り沿いの店々(オーナーはたいていチナ)を獅子舞して廻ったという。そしてデパートやスーパーでは旧正月用品の売り出しが華やかに行われた。食品のパッケージやグリーティングカードはどれも赤色で、そこに金色でめでたい文句の漢字が書いてある。

1998年末から経済危機がひどくなり、暴動が発生するようになると、多くのチナ系の人達が略奪・暴行の目に遭った。本当はソロはかなり荒れた所だ。もっともその一番荒れた時期に私は日本にいた。それでも一触即発の雰囲気になるまでの様子は知っている。1998年の旧正月は、表立って祝うのが危ないとチナ系の人達は自粛していた。
私達日本人の方にも、チナに間違われて襲われるかもしれない、インドネシア人には日本人とチナの顔の区別はつかないだろうし……、という恐れがあった。そんな空気を体感していただけに、こんなに派手に旧正月用品の売り出したり、チナでない一般のインドネシア人も「旧正月おめでとう」と挨拶したりする日がくるなんて、当時は想像できなかった。

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最後にスハルト時代の終わりにとどめを刺すのが、スハルトの肖像が描かれた5万ルピア札(当時の最高額紙幣)が消えたことだ。それは2000年8月のことで、それだけではなく全紙幣のデザインが刷新された。偽札が増えてきたからというのが表向きの理由だったが、スハルト紙幣の登場は他の紙幣デザインに比べてそんなに古いことではない。歴史的には独裁者が自分の肖像紙幣を発行するようになるとその政権も末期らしいが、それはまさにスハルトにも当てはまっている。




散歩  御喜美江




一月に入ってからも寒い日は続き、ここ数日は気温がマイナス二桁にまで下がった。外を歩くと寒いというより痛い感覚のほうが強い。ただ不思議なことに気温がここまで下がると、お天気はずっと良くなり、昨日も今日も雲ひとつない晴天だった。

ヨーロッパ人は散歩が好きである。犬を飼っている人が多いこともあるが、犬がいなくても散歩をする。とくにドイツやオランダの生活で、中高年夫婦の散歩姿を見かけない日はない。歩くことは一番体にいい運動である、と言われているからかもしれない。また歩いて爽やかな気持ちになれるような風景が、比較的近くにあるからかもしれない。

私の場合、最近は車の運転を最低限におさえ、大学通勤も旅行もなるべく電車やバスを使うようになったから、一週間をトータルすると、けっこうの距離を歩いていると思う。とくにドイツの電車とバスの接続関係は、乗客のための便利なんて全然念頭にないから、バスが発車した3分後に鈍行が駅に着くなんてこと日常茶飯事。「30分も待つのだったら20分歩こう」ということになる。以前、東京の京王線に乗ったとき、その接続の完璧さに圧倒された。また神保町で三田線に乗り換えて、とんとん拍子で自由が丘駅に着いたときも、日本はすごいと思った。

しかし距離としては確実に歩いていても、気持ちのほうは散歩というイメージには程遠い。それらは電車に乗り遅れないようにと焦る、前のめりの小走りだったり、寒さと空腹で、ただひたすら飲食スタンドを探す哀れな目つきだったり、重い荷物で押し潰されそうになりながら、ノロノロすすむ重い足取りだったり。

だからこの厳冬の季節、やっとラントグラーフの家へ帰れたときは、もう一歩も外へなんか出たくない。お散歩はナイン・ダンケ。暖かい部屋の中でじっとしているほうが、よほど健康にいいような気がする。尚、ラントグラーフは田舎だから空気はとてもいいし、町外れにある我家の前は、人間のみならず、犬にとっても馬にとっても、人気の散歩道となっている。天気の良い日曜日の午後などは、ほとんど散歩ラッシュと言ってもいいほど、沢山の人間や犬や馬が、道をのぼったりおりたりしてくる。そんな光景をしばらく眺めているとそれだけで疲れてきて、この流れに自分も入って一緒に散歩をしようなんて思えない。

一昨日、アニタはこの近くの散歩道で滑って転び、右腕を骨折してしまった。これだけでも災難なのに、彼女の右腕は乳癌の手術のときリンパ腺を切除されたから、骨折しても手術はできないしギブスもはめられない。一週間はただひたすら痛み止めの薬だけで待つしかないと。「ほんの一瞬の出来事だったのよ……」と彼女は悔しがっていた。

昨日はマイナス10度だった。昼過ぎになってからゴミ捨てに出たら、寒いことは寒いが、風がまったくないので太陽光線が気持ちいい。アニタはきっと一日中「痛い、痛い!」の地獄だろうから、少しでも気分転換になればと思い、彼女を訪問することにした。土曜日というのに何故か散歩人がいない静かな午後、冬靴を履いて帽子を二重にかぶり、モスクワで使用した手袋をはめ、徒歩で町の花屋へ。買った花束も私と同様、何重にも紙に包まれて実際より倍ほどの大きさに。

アニタは右腕の激痛で大変つらそうに座っていたが、でも赤い花束を大そう喜んでくれて、ご主人がコーヒーやビールを出してくれる。そのうち「Lotus(中華レストラン)で何かテイクアウトしてくるから、一緒に夕ごはん食べていってよ。美江も今日は一人なんでしょ? アニタの話し相手になってくれたら助かるよ」と言われ、「そう?じゃあそうさせてもらうわ」なんてことに。結局すっかりご馳走になって夜9時に帰宅。この時は猛烈に寒く顔面ヒリヒリ硬直。でも家→花屋→アニタ宅→家の2,5キロの距離を歩いたら、体の内側がお掃除されたようで、夜はよく眠れた。

今日は日曜日、晴れ。明るい太陽と真青な空は目に眩しいくらいだが、気温は同じくマイナス二桁で非常に寒い。でも昼過ぎになって散歩に出かけた。家前の散歩道を右に上がって、地平線の見える野原まできたとき、はるか遠くまで見渡したが人間は2人しか見えない。たまにはこんなこともあるのだ。ちょっと寒すぎるのかな。しかし何と静かな風景だろう。15分くらいのつもりで出掛けたのだが、気がついたら1時間も歩いていた。そして歩きながら、いろいろなことを考えていた。いろいろなことがここでは考えられた。『散歩』の意味が少しわかったような気がした。

(2006年1月29日ラントグラーフにて)




カメラマン  小島希里





近所の図書館に行ったら、貸し出しカウンターにK君がいた。司書の人が「また、別の本も探しておいてあげますね」と言いながら虫の図鑑を渡しているところだった。「久しぶり、覚えてる?」すぐそこの、青少年館で、いっしょに劇作ったでしょ、あのとき、K君、ライオン・キングの役やったじゃない。」わたしがそう言うと、K君の口元はかすかにゆるんだ。

4年前、K君は家族と観にいったミュージカル「ライオン・キング」のことで頭がいっぱいだった。「ライオン・キングのムサファが、フクシュウして……」ひたすら、ライオン・キングの話をしていた。ところが、わたしには彼の発音がなかなかききとれない。音自体は聞き取れたとしても、ムサファもライオン・キングも知らなかったから、何を言っているのか、さっぱりわからない。小さなからだ、小さな声で、彼は両手を激しく上下にふりながら、ひたすら語りつづけた。興奮が高まり、ことばがぶくぶくと沸騰しだした。音にならない声がはじける。すると穴ぼこだらけのことばが、だれにも受けとめられることなく、静かに部屋じゅうを満たしていった。と、突然、こぶしに握った手で胸をたたきながら「ボク、ムサファ、ボク、ムサファ」と言って、ライオンになったK君が部屋のなかを悠然と歩いていた。

13歳のライオンはエネルギーを押さえきれず、ときおり、みんなの作業を中断させた。ぷいと部屋を走り出て、そのまま家に戻ってしまったこともあったし、服を脱いで裸で歩きまわろうとしたこともあった。劇づくりの輪のなかにもなかなか加わろうとはしなかったが、それでも最後の劇の発表まで、参加しつづけた。もちろん劇の中でも、ライオンの王様役を演じた。

図書館で出会った翌日、K君が久しぶりに「がやがや」の活動にやってきた。見知らぬ人の多い輪のなかにすんなり加わり、自己紹介をした。養護学校の高等部三年生であること、3月には卒業すること、就職が決まり、4月3日から作業所で働くことを話した。以前と変らぬ小さなからだ、小さな声。しかし、よじれ、もたつき、絡まりながら、そのことばはくっきりと聞く者の耳に届いた。「4月3日です、4月3日、4月3日」そうつけ加えると、指を4本、次に3本立てて、念を押した。

みんなで輪に座って最初の歌をうたっていると、知らないうちに、K君はビデオカメラを持って、輪の外から撮影していた。跪き、ふらつくことのない安定した手つきで、一人一人の表情をていねいに追いかけている。ふと気がつくと、今度は別の位置に移って撮影をつづけている。被写体の邪魔をすることなく、控えめに仕事に集中する姿には、静かな自信さえただよっていた。この4年のあいだに、彼の恋人はライオン・キングからビデオ撮影にと変っていたのだった。13歳の彼のなかに棲んでいたあの野獣は、どこに消えてしまったんだろう?

しばらくして、わたしはカメラにテープが入っていないことに気づいた。K君にたずねてみたが、くだらないことを言うな、という顔で睨まれてしまった。そしてわたしの質問に取り合うことなく、そのまま「撮影」を真剣につづけた。別の歌の練習になった。模造紙に書いた歌詞をホワイト・ボードに貼って、その前でわたしが突っ立っていたら、つかつかとK君が近づいてきた。ボードのななめ前にしゃんと立て、とわたしの立ち方を正したかと思うと、片腕をつかみ、もっとぴんと伸ばして歌詞を指せ、と持ちあげた。確かに、そうやってみると、立派な歌唱指導者になったような気がした。けっきょくその日K君は、最後まで順調に撮影をつづけた。

こんどいっしょに劇をつくるとしたら、彼はカメラマンの役で出ることになりそうだぞ。それでカメラマンの役として出演しながら、その劇を彼が撮影したら、どんなものが撮れるんだろう? そしてその撮影しているところを、だれかに撮ってもらって……わたしはあれこれ楽しい空想をはじめた。そうなるとまたどうしても来てほしくなり、帰り際にK君に声をかけた。「次は、来月の14日。土曜日だよ」するとK君は即座に断った。「土曜日は、図書館で勉強の日。だから来れない」なるほど、それで、昨日の土曜日、図書館にいたんだ。しかしわたしは、食い下がった。「でもさ、もう、学校卒業しちゃうんだし、もう、あんまり勉強しなくたって、いいんじゃないの?」するとK君は、ライオン・キングの話をしていたときのように、両手を上下に激しく動かせながら、こう熱く反論した。「勉強しなきゃならないことは、まだまだたくさんある。こーんなにたくさん」そう言いながら、両手の間隔を、本20冊分の厚さぐらいに大きく広げた。




写真に関する雑感  大野晋





さて、新年早々から写真趣味の者にとって気になるニュースが続くことになった。先に出たのが、国内で人気を二分するカメラメーカであるニコンが大幅にフィルムカメラの機種を削減するという発表だ。フィルムカメラとは、フィルムに映像を写す形のカメラという意味で、従来の「カメラ」のことを言う。新顔のデジタルカメラと次いで呼び分ける際の呼び方である。

ニコンは、昨年、フィルム撮影用のフラグシップ(「旗艦」という意味でカメラ屋の技術の粋を集めた最上級カメラを指す)の新作を出したばかりだっただけにショックも大きい。これと前後して入ったのが、フジフィルムの低感度のポジフィルムの生産中止だった。表向きは材料が入手困難とのことだが、写真、特に発色を重視するプロの写真家の用途が大きいと聞いていた種類だけに、グラビア写真などのデジタル入稿が随分と進んだのだろう。そして、最近入ったのが、合併して数年、デジタルの一眼レフカメラを出したばかりのコニカミノルタが写真事業から撤退するという発表だった。すでに、ソニーとデジタルカメラ分野の事業提携について発表済みだっただけに、カメラ屋がデジタル写真の分野で存在感を示せなかった結果に時代を感じてしまう。そんな訳で、2006年は写真の世界は、デジタルの方向にぐいっと舵が切られて始まった。

写真、写真と考えてみると、レンズなどを通して、映像を集めて、それを何かに焼き付けるのが写真というものの本質である。本来、写真というものに、芸術性も、非芸術性も、なにもないのだ。写真は単に映像を写し取る道具である。だから、単純に記憶を補完する手段としての写真もあるし、モノを紹介するための写真なんてものもある。一方で、観賞用だったり、表現の手段として写真が使われることもある。

ただし、道具を使うにはそれなりの知識も要る。特に、映像を写し取るには、カメラという機械だったり、フィルムという化学物質だったりとうまく付き合う必要があるし、最新のデジタルカメラであっても、映像を記録する電子部品とは仲良くしないとなかなか思うような写真は撮れない。そこで、写真学校に通ったり、カルチャースクールに通ったりということになる。それで、「すごい」写真が撮れるようになれば苦労はないが、大抵の場合、写真のうまい下手は学校の成績ではなく、学校以外の入れ込み方で決まったりするからややこしい。どれだけ自分で研究して、どれだけ写真を撮ったかで技術の上達は違うように思う。何事においても、机上の空論はあまりタメにはならないばかりか、かえって害になることも多い。そんなところだけは技術の一般解だ。

ところで、最近のカメラ(写真機)はその努力のハードルをなるべく下げる方向に技術を開拓してきた。一眼レフ化は、見た目で写真としてのイメージを捉えられるようになったという意味で、構図に対する敷居を下げたし、自動露出は難しい露出という作業をある程度、写真機が代行してくれるという意味で、簡単に撮れるようにしてくれた。今では一般的になってしまったオートフォースもややこしいピントあわせからカメラマンを解放したことの意味が大きい。そして、デジタル化は映像を即時に確認できる点で、「写っていない」リスクからカメラマンを解放した。そういう意味では、フィルムからデジタルに変わるという事は、写真機の進化という意味では正しい方向ではある。

ただ、デジタル化ということは自然界のそのままではなく、何らかのサンプリング結果を残しているだけに過ぎないことを忘れてはならないだろう。この点は、アナログレコードとCDの関係に非常によく似ている。サンプリング結果という事は、その違いにこだわる場合には、どうしても、アナログを使う必要があるということだろう。そう考えると、フィルムのカメラにもまだまだ活躍の舞台は残っているという事だろう。

今後、プロやアマチュアの作品作成の分野で、まだまだ、フィルムの需要は残ると考えているのだが、いかがなものだろうか? 願わくば、CDの愚を再度犯さないことを望みたい。




製本、かい摘まみましては(15)  四釜裕子




A4サイズに裁断された同じ種類のファンシーペーパーを100枚ほどそろえる必要があったので、東京・銀座の伊東屋をのぞく。紙売り場が別館から本館6階に移ったときに、裁断済みの種類はだいぶ減っていたが、探していた90〜110キロでめぼしいものがなく、130〜160キロというちょっと厚めのものが目立つ。とはいえ必要なのでそのなかから選び、紙の目が、短い辺と平行であることを確認してレジに向かう。二つに折って、見返しの紙として使うのだ。

念のため、お店のひとに紙の目を確認する。縦に横に紙を丸めてみて、「ええ、これはこっち目です」と指で短辺を指して言う。「これは」? 「これはって、この1枚は、ということですか?」「はい。できるだけ無駄が出ないように全紙を回転させて切りますから、目は縦と横と、交じっています」。そうであったか。あるサイズに裁断されたひと種類の紙の目は、同じであると思い込んでいた。いつも買うときに1枚ずつ目を確かめていたからよかったものの、あぶない、あぶない。100枚を全て確認するのは面倒なので、あらかじめ紙の目と平行に縞模様柄の入った紙を選ぶ。こういうのは、抄紙工程最初のワイヤーでつけた模様か。

伊東屋は昨年、東京・広尾店を「パピエリウム」と名付けて、紙に特化した店鋪に変えている。「スクラップブッキング」なるものが流行しているらしく、そのための材料を買うひとが増えているようだ。そうか、だから台紙になるような、ちょっと厚手で紙目無視のカット紙が増えているのだろうか。ここで開かれている一日教室には「ブックバインディング」なるものもあって、問い合わせたら、用意された無地のノートに、好みの紙を選んで貼った表紙を作ってかぶせる、とのこと。「これで簡単なブックバインディングの方法もマスター出来ます」とは、言い過ぎじゃない? でもいつも満席とのこと。1回約2時間、受講料は材料費込みで3,675円。

伊東屋を出て、紙百科ギャラリーの「私的装幀展」(2月25日まで)に向かう。アート・ディレクターの工藤強勝さんと、特種製紙・製紙デザイン研究所所長の杉本友太郎さんのトーク、「紙と装幀デザインの考察」を聞くのだ。工藤さんが装幀した本のなかで、特種製紙のファンシーペーパーを用いたもののいくつかが並べられ、装幀家と紙の開発者の意図の違いを愉快に話してくれた。工藤さんが『死体の文化史』(青弓社)の見返しに選んだ紙は、その柄に体毛の毛並みを連想したからと言えば、杉本さんが、あれは鳥の羽根をイメージしたんですと言う。工藤さんが葉脈を連想した紙については、道路のアスファルトの亀裂からイメージしたんですよと杉本さんが言う。

読者たるわたしはどうかというと、工藤さんの思いに納得している。それが装幀家の力のひとつに違いないが、なにしろふだん本を手にして、紙そのもののデザインに思いはいたらない。紙のデザインをするうえで、「○○をイメージした」ってどういうことなのだろう。杉本さんの話の核心はそこだ。とにかく日々出会う感動を心にとめ、写真におさめる。たとえば「岩はだ」という紙の場合は、長良川の川面にゆれる岩はだに魅せられ、写真を撮り、印象をデッサンしたそうだ。そしてそれを原画として石膏を手彫りして、紙にエンボス加工するための金属版の型にしたのだという。

実はわたしはこの「岩はだ」や「レザック」系のファンシーペーパーが好きではない。なにかこう、独得のもったり感が苦手なのだ。しかしその「もったり感」のゆえんを考えるに、おそらく紙そのもの質感というよりは、その紙を使った冊子に対する嫌悪感ではないかと思う。なにしろ公共機関や学校が配る冊子に「レザック」はよく使われていたし、町の印刷やさんが常備しているちょっと気の利いた紙といえば「レザック」だった。だからこれまであまりまともに見たことがなかったのだけれど、杉本さんの話を聞くと全く別物に見えてくる。




しもた屋之噺(50)  杉山洋一




家人が二日ほど家を空けると言うので、久しぶりに息子と二人、呑気に家で仕事を片付けています。窓の外には、先週の大雪が沢山残っていますが、今日の午後辺りから、漸く気持よい青空が戻ってきました。まだ言葉らしい言葉も発さない長男が、数ヶ月ぶりのイタリア、というより恐らくイタリア人に最初戸惑っていたのが新鮮に映りました。言葉としては発していなくても、頭の中は日本語のシナプスが飛び交っているのが分かるからです。人間というのは本当に神秘的なものだと、傍らで寝息を立てる息子を見ながら改めて思ったりしています。

久しぶりに会うというのに、一体目の前のこの男は何者かとさして訝しがるわけでもなく、仕事から帰ってくれば、満面の笑顔で出迎えてくれる息子が、この10ヶ月の間に蓄積した記憶とは、さてどんなものだったのかと思い巡り、眠りながら時に怯えて悲鳴をあげれば、一体何の夢かと想像を逞しくします。子供のころ、家のカーテンの陰の膨らみに人が隠れているような気がして、子供用のタンスのマークが怖くて、両親のタンスの木目も、まるで人の顔に見えて怯えたのを思い出します。いつの間にか、そんな単純で純粋な視点など、すっかり消えてなくなっていることに驚きます。

今月半ばまで、メルセデスに教えて貰った、ミゲル・エルナンデスの詩で合唱曲を書いていました。
エルナンデスがスペインの内戦でパルチザン運動に身を投じたのが1936年、彼が26歳のとき。翌年37年にはホセフィーナと結婚するため、ほん数日間だけ故郷に戻っています。38年、ホセフィーナとの間に生まれたマヌエル・ラモンを見つめ、エルナンデスはこう綴ります。


「……大いなる出産の時、満ち足りた豊饒の時。
お前の叫びに、時計は悉く砕け散り
全世界の扉、夜明けの全ての戸口は開け放たれ
憩いの巣を見出したお前の胎内に、太陽が生まれる。

以前子供はほんの翳であり、お前の慈愛の心と手が編んだ
掻巻き(かいまき)に過ぎなかった。
翳と掻巻きが、人類の萌芽がもたらした翳と掻巻きが
この生命を予告していた。

無人の翳と掻巻き、そして砂漠は
声を上げる子供に生命を授け
家中の扉を開け放ち、姦しく耀きの中心に据わる
活況に生命を授けた。

ああ、何たる生命か。身体が千切れんばかりの痛みよ!
お前が名付けた子供の生命は、翳と掻巻きをもたらした。
翳と掻巻きは、今こうして世界に一人の男を連れて来た。
誰もが翳だけを置去りにしてゆく。掻巻きと翳……」
Hilo de la luz 1938 Miguel Hernandez より)


昨日までホセフィーナが編む着物としか認められなかった存在が、突然声を上げ家の中を走り回るさまに、エルナンデスの視点は新鮮な驚きを隠せません。それを、彼は「身体が千切れんばかりの痛み」と続けます。何時フランコに拘束されるか知れない自らの境遇を鑑みて、目の前の子供の将来を案じ、身を張り裂かんばかりに書き綴ります。この叫びは、ただ読む者の心を穿ちます。
続く「光と翳の子」のエルナンデスの言葉です。


「暁に編み込まれ、彫り込まれた二つの蜂の巣は
乳首から滴る蜜を止められない。
暁に浮かび上がるお前の乳房は、母性の泉。
白色の迸りと闘い、飛び掛る。

新妻よ。お前の匂いが家中に満ちる程
お前の血管は月のように溢れ返った。
まるでお前は蜂の巣の民から生まれ
お前全てが泡立つ母乳の巣箱のよう(中略)

豊潤な女よ。お前の胎内に僕は自らを埋葬する。
お前の豊潤な胎内こそ、僕の墓穴だ。
もし鉄の焔で僕の骨を焼くのなら
そこにお前の姿が刻印されているのを見るがいい。

激しい懸念が希求するに任せ
子供の中に溶け、僕らは永遠に留まる。
二本の枝は、時間の枝、血の枝に溶け
二人の顔は、愛撫の束に、髪の束に溶け込んでいる。

燃え盛る、凍て付いた焔を振り翳し
死者たちは、生者とともに頑強に闘う。
子供がやって来て畑を耕し
傍らで僕らが見つめる、僕らが去ったあの家に棲んでいる(中略)

お前一人ではなく、連綿と先祖から受継がれて来た膨大な時間の裡にお前を欲し
お前の胎内に脈々と広がる、未来の裡にお前を欲する。
何故なら、自分が人として生まれたことを、掛値ない遺産として僕は享け入れ
等しくこの子が作る家族も、やはり人なのだから。

子供の奥底で、満ち足りた愛を背に寝起を共にし
僕らは口づけを交わし、ついてゆこう。
お前と僕は口づけを交わす時、死者たちが口づけを交わす。
世界に生まれた最初の民たちが、口づけを交わしている」
(Hijo de la luz y la sombra 1938 Miguel Hernandez より)


作曲の後、こうして詩を邦訳して、改めてスペイン語と日本語の語感の開きに未熟さを痛感させられました。自分が詩を読んで得た感動は、こんな拙いスペイン語力と日本語の表現力では到底伝えられるものではないからです。この詩を捧げたマヌエル・ラモンが、実は数ヶ月しか存命しなかったことを知ったのは、つい最近のことです。こうして書いている間、傍らのベビーベッドで、気持よさそうに寝息を立てながら夢心地に腕を動かす我が息子を目を向けると、思わず息が止まりそうになります。この後エルナンデスとホセフィーナの間には次男マヌエル・ミゲルが生まれて、間もなくエルナンデスは逮捕され禁固30年の刑に処されます。そうして獄中からわが子を思う詩を綴り、42年には肺炎をこじらせ31歳の若さで獄死します。

これだけ強靭な表現力を目の前にすると、作曲はただ何も考えず、自動書記的に音符を並べるだけ。難しいことは一切顧みず、エルナンデスの言葉の深さに圧倒され、言葉の響きに感激しながら自分の思いを音にする。せめて、言葉で伝えられないものを、音符で残せないかと一縷の望みを託すのみです。トリノからミラノ行最終に飛び乗り、闇の中の無人の客車で一人、大声でこの詩を朗読していて、突然身体を電光が走り抜けました。まるでゴヤの絵のなかに足を踏み込んでしまったような、ゴヤの描く登場人物が目の前で話しているような強烈な触感に、呆然としたのです。

1月27日アウシュヴィッツ解放記念日には、吹雪のなかピッコロ・テアトロでレオーネ・シニガーリアの作品ばかり振ってきました。
シニガーリアはプラハのドボルジャークの下で研鑽を積んだイタリアの作曲家で、ブラームスとも交友がありました。ドボルジャークに影響され、シニガーリアも故郷のピエモンテ地方の民謡を採集し、ピエモンテ民謡の主題による作品を多数残しました。

ユダヤ人だった彼は1944年療養中のトリノの病院でファシスト党に逮捕され、強制収容所に送還されるとき、持病の心臓発作で亡くなっています。貧しい羊飼いの家に生まれたエルナンデスと、ピエモンテの名家に生まれたシニガーリアは、ほぼ同じ時代に近しい政治背景に巻き込まれ弄ばれる運命にありました。

シニガーリアの作風はドボルジャークを思わせるところもありながら、マーラーへの憧れを顕わにしている部分も多く、同時代のプッチーニやレオンカヴァルロの響きに、マーラー風のエピソードが挟み込まれていたりします。「悲劇的アダージオ」のリハーサル中など、オーケストラの人たちが感激して、最後の一音を弾き終わると、みな余韻に酔ったまま黙ってしまい、どこからともなく静かに拍手が湧き上がりました。

シニガーリアが、世話になっている建築家・フェラーリの親戚と知り、妙な因縁に感慨を覚えましたが、同時にフェラーリが筋金入りの共産党員である理由を垣間見た気がしました。エルナンデスの言うとおり、時代は確実に繋がっているのです。
リハーサル会場のリバティ宮の周りは、降積もった雪が一面を純白に染め上げていて、練習を終え夜半、白銀の風景の美しさに思わず息を呑みました。

(1月31日モンツァにて)



ミンガス日記  三橋圭介




 1月11日

今日は仕事のあいまの休憩に、チャールズ・ミンガスききながら、買ったばかりの本を少し読んだ。

ミンガスはメロディや曲の構成を楽譜ではなく、口伝えでやったらしい。「直立猿人」や「黒い聖者と罪ある女」「ブルース・アンド・ルーツ」「オー・ヤー」「ザ・クラウン」「チェンジズ・ワン」などをきくと、少人数なのにビッグバンドを思わせるとても分厚い響きがする。その秘密こそが口伝えだ。メンバーが感じとったメロディの微妙なずれが生み出すエネルギー。このエネルギーこそがミンガス・ミュージックの命だ。サックスにエリック・ドルフィーやローランド・カーク、ジョン・アダムスなど一癖もふた癖もあるミュージシャンがいたのには訳があった。かれらの個性を自由に発揮させながらミンガスはエネルギーを結集し、自らの音楽を作り出す。

そういえば、ミンガスがダニー・リッチモンドのドラムのビートのずれについて書いていたが、水牛楽団の八巻美恵のタイコもずれる。映画「ブエナビスタ」のなかで誰かが「プロはドラムを叩けない」とも言っていた。さらにストラヴィンスキーの指揮もずれる。だから民族音楽のような厚みのあるサウンドが生まれる。

 1月20日 

ジャネット・コールマンはミンガスと最初に会ったとき、かれを白人と思ったと書いている。レコード・ジャケットでそんな風に感じることはないが、1976年のモンタレイのライヴを見ると確かに黒人には思えない。だが、ミンガスは黒人であることで、当然のように白人から差別され、また黒人のコミュニティのなかでは色が白いことで黒人の仲間からも差別された。だからこそ黒人としてのアイデンティティを大切にしたともいえる(ジャケットの写真はそれを強調しているともいえそうだ)。また「フォーバス知事の寓話」や「アッティカでロックフェラーを思い出せ」などの社会風刺や権力批判を繰り返した背景に、差別の問題が根深くあるし、さらにいえばかれと演奏するとき、その人の個性をまるごと受け止め、引き出していくのもミンガスだった。だから曲者がミンガスの音楽のなかで伸び伸びとプレイできたが、その中でも大きな役割を演じたのがD・リッチモンドだ。仮にドルフィーがカークで、カークがアダムスで代用できたとしても、かれだけは代用する人がいない。「チャールズ・ミンガス・プレゼンツ・チャールズ・ミンガス」(註)のなかで、リッチモンドはミンガスの辛らつな言葉を道化役として受け止め、笑いに転化させる。人物のキャラクターだけでなく、おどけ、いなし、はしゃぎまわるドラミングはミンガス・グループに必要不可欠だった。モンタレーー・ライヴでリッチモンドがミンガスのベースを身体で受け止めるシーンを目撃することができる。

註:このアルバム・ジャケットの写真は、ミンガスがピアノ(譜面立には楽譜が置かれている)に座っているところを横から撮っている(ミンガスの後ろあたりにベースが置かれている)が、これは作曲家ミンガスを強調するためだという。コールマンの本にはミンガスがパイプを加えている別の写真もある。




京極為兼――翠の虱(16)  藤井貞和




(今回は作品になってないヨタ話です。泥酔する私の友人の詩人が、めろめろになりながら、「フジイさん、オッカシインだよ」といつも忠告します。ふじいさん、もっとしっかりしろ、という意図です。おかしいぞ、へんだ、むかしはもっとちゃんとしていたはずではないか。でも泥酔の結果、オッカシインだよ、としかかれは言えなくなって。くりかえしているあいだに、オッカシインだよ、が大岡信〈おおおかしん〉に変わってゆきます。大岡さんへの批判へと移るので、私はまぬがれます。)



京極為兼という中世の歌人のことを、
だれかが話題にしていたとき、
きょう、ぼく、だめかね、と私は聞きまちがえて。


でも、そう聞こえたんだから、
きょう、ぼく、だめかね。


締め切りがちかづいて、
書けないとき、または用意した、
原稿が、これじゃだめだと落ち込むとき。


おかしいぞ、へんだ、
むかしはもっとちゃんとしていたはずではないか、
ふじいさん、もっとしっかりしろ。


そんなとき、私の京極為兼がやって来る、
きょう、ぼく、だめかね。
(というわけで八巻さん、今回はこんな作品でごめん。)





「冬の旅」から  高橋悠治




1月で「冬の旅」の冬の旅が一応終わった。訳詞の協同作業から公開録音、東京のシアターイワトからはじまって北へ向かったコンサートの旅。

5人が適当に手分けして訳したものを、斉藤晴彦が音符にあてて歌いやすくした以外に、訳語の統一はしなかった。「わたし」や「おれ」や「ぼく」がまざっているし、口調もいろいろ。これで「冬の旅」は日本語の物語になった。おなじメロディーにのってはいるが、物語をたどる日本語は、テンポがまるでちがう。対訳の訳詞にかがみこみ、ステージを見ず音楽も聴かないで、歌の途中でいっせいにページをめくる音が聞こえて来るのはいやだから、歌詞は配らず、字が読めないように客席を薄暗くした。それでも、買ったばかりのCDのパックを破って、歌詞カードをめくる人もいた。

日本語にしてみると、あらためてシューベルトのメロディーもピアノのうごきも音の絵となって浮かぶ。菩提樹の葉はざわめき、風見鶏は回り、犬が吠え、カラスが空を舞う。かんたんな線が描き出す風景と、わずかな移動でことばを照らし、影を投げかける和音がある。和声学や作曲理論ではない繊細な幾何学がはたらいているが、これらの歌はすこしずつ入念にしあげられたのではなく、相当な速さで一気に書き下ろされたものにちがいない。

歴史を知らなくても、「冬の旅」によって今の時代を語ることができる。この時代が再創造する「冬の旅」は、シューベルトやミュラーを、いわゆるビーダーマイヤーのせまい世間から連れ出す。演歌のなかにも生の政治、抵抗が隠されている。闇の輝きと色。ハンブルク・バレーの「冬の旅」のためにツェンダーがやったように、あるいは「レンダリング」でべリオがやったように、オーケストラでシューベルトに現代的な響きを付加するのは、やはり啓蒙主義でヨーロッパ近代思想だ。リズムやアクセントのわずかなずらしで「ぐらりと」させるだけでじゅうぶんだ。積み重ね、ためこむのではなく、支柱を外し、重心を狂わせること。

今回はシューベルトが書いた詩におなじようにして作曲してみた。「民衆に訴える」のドイツ語原詩にいくらかアイスラー風のメロディーをつけ、その音符に訳詞をあてはめ、アフロキューバン風に食い違うリズムでピアノパートを書く。「水牛楽団」時代のように、よけいな音楽性を取り除いた後にのこる、はだかの線とリズムのあそび以上には何もいらない。即興風に聞こえるかもしれないが、この曲の音符はすべて書かれている。次の段階は、もっと空白を残すこと、即興で埋められる空間を増やしていくことだろう。

この旅行では、いろいろな場所で演奏した。芝居小屋からはじまり、ロフトや公民館、病院の受付、ホテルの結婚式場、土蔵、喫茶店など、それにコンサートホールでも。それぞれの街で主催してくれた人たちも、ともだちのともだちで、この旅はインターネットでのやりとりから始まった。これは「水牛楽団」時代とはちがう。あの頃は、市民運動の波があり、組織の間で文化活動も宣伝手段と考えられていた。いまは運動の統一目標や上意下達の組織は、体制側に移ったようだ。いまは変化する流れのなかで、ゆるやかな結びつきと一時的な協力が見え隠れする。そのことの良し悪しを論じるのは外側から見ている人たちだろう。魚の群があらゆる方向に回遊していながら、ある時いっせいに向きを変えるような、バランスのゆらぎと思いがけないその崩壊が、固定した中心を作らせない、ちがういいかたをすれば、たえず焦点を移動させている、そんな運動をおのずから作っている、そんな時代だ。インターネットは手段というより運動そのもののたとえになっている。ふだんは見えないが、必要な時にひらいて更新することができるような、人びとのかかわりかた。




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