2006年3月 目次


もう3月                    御喜美江
イメージアップ                 佐藤真紀
テントの中のバレンタイン           スレイマン
多(たね)祢──緑の虱(17)         藤井貞和
ここ10年のインドネシアと日本(2)電話    冨岡三智
マルマルマル                  小島希里
クラシック音楽?                 大野晋
しもた屋之噺(51)              杉山洋一
製本、かい摘まみましては(16)        四釜裕子
日記プラス                   三橋圭介
コンピュータ音楽のいま             高橋悠治
  


もう3月  御喜美江




ついこのあいだお正月を迎えたと思ったのに、今日はもう2月24日。戌年は時間のテンポが他の年よりずっと速いように感じられる。カレンダーを見るたびに「えっ、もう一週間経っちゃったの?」と驚くことを繰り返しながら、ふと気が付くと来週からは3月が始まる。わんわんわん、あぁ、もう3月……

3月は毎年日本へ帰り「御喜美江アコーディオン・ワークス」という演奏会を行っている。今年は初めての浜離宮朝日ホールで、初めてロマン派だけの作品にプログラムをしぼってみた。クラシック・アコーディオンのレパートリーというと、古いものか、新しいものかの2つに分かれることが多い。それは一つに、この楽器の歴史がまだ浅く、オリジナル作品の全てが20世紀後半から始まるのと、もう一つは“鍵盤楽器”として古い時代の音楽もオリジナル・テキストのまま編曲せず演奏できるからである。

でもアコーディオンが産声をあげたのは1829年、まさにロマン派の時代だった。そして19世紀において、この楽器はいろいろな国や場所で改良され発展していった。その過程において、アコーディオンは様々な言葉や民族色を受け入れ、キャラクターも多種多様に変化していった。アルゼンチン・タンゴのバンドネオン、ロシアのバヤン、フランスのミュゼット、チロル地方のディアトニック等など、育った気候や環境は楽器のキャラクターを全く別のものに変えていったように思える。

しかしどの国のどの時代の“アコーディオン”にも共通している遺伝子のようなものが実は2つあると思う。それは一つに「うた」、もう一つが「超絶技巧」だ。アコーディオンの蛇腹は“うたう器官”、そして左右の指はピアノより細い鍵盤と小さなボタン上を“特急テンポ”で飛び交うことが出来る。この2つの遺伝子だけは、産声をあげてから今日まで全く変化していないように私は感じる。

ところで、この2つの要素が最も大きな役割を果たしている時代はいつだ(った)ろうと思うとき、“ロマン派”にぴったりとそれがおさまるようだ。

しかし19世紀におけるアコーディオンはまだその幼年期でオリジナルの作品は少なく、一晩リサイタルするだけの作品は、質に量に残念ながら見つからないのだが、そんな中で、ドイツのヴァイオリニスト兼作曲家ベルンハルト・モリク(1802−69)が、コンセルティーナのために書いた作品は貴重なオリジナル作品。彼は49年以降ロンドンで活躍し、当時コンセルティーナの名手として広く知られていたジュリオ・レゴンディのために、協奏曲やピアノとのデュオ曲を残した。ここではアコーディオンが非常にヴィルトーゾなメロディー楽器として登場する。歌う楽器&超絶技巧の楽器として、モリクの作品はアコーディオンに心地よい満足感を与えてくれる。

とくにアコーディオン協奏曲ト短調は、メンデルスゾーンのピアノ協奏曲ト短調と雰囲気がとても似ていて素敵だ。でもこんなヴィルトーゾなことをコンセルティーナで演奏したジュリオ・レゴンディという人は、どんな天才だったのだろう。録音がないのは本当に残念だが、でも作品をとおしてレゴンディの素晴らしさは充分伝わってくるような気がする。

昨日大学でワークスのプログラムを初めて全部とおして演奏し、自分の学生に聴いてもらった。今回も第一部は「引き出し」構成で、故郷・うた・祈り・人・涙・踊りの6つの「引き出し」に20の小品を収めてみた。自宅で練習するのと、学生を前に演奏するのは何から何まで大違い。とくに初めて弾く曲は何が起こるかやってみないと分からない。テンポとダイナミクスの関係も、テキストと表現のバランスも、ロマン派の作品は脆く壊れやすい。明後日はデュッセルドルフの教会でもう一度おなじプログラムをする。

まだあと4週間ある、とはいえ戌年はあっという間に1週間が経ってしまうから、う〜ん、油断は禁物。これからもう一度「祈り」の引出しを開けてみよう。この引出しには私の大好きな詩も入っている。
「寒い真冬の真夜中に、柔らかい蕾から一輪のバラが咲いた……」(作者不明)。

(2006年2月24日デュッセルドルフにて)




イメージアップ  佐藤真紀





あっという間に3月だ。3月といえばイラク戦争が始まってもう3年目になる。
脚本家の永井愛さんが「やわらかい服を着て」という新作に取りかかったというので、事務所に取材にいらっしゃった。イラク戦争をきっかけに、NGOが立ち上がるという話だ。
「主役は誰ですか?」
「吉田栄作さんです」
「いやー、そんな、格好のいい人なんてNGOにはいませんよ。かっこいいことはいいことですが、ちょっと気恥ずかしいじゃないですか。そういうのって」
しかし、2枚目役者がNGOスタッフを演じると、イメージアップにつながる。

現実はどうか。この前も、バレンタイン募金のチョコレートの袋詰め作業をやった。自宅でプリントしたカードを二つ折りにして、チョコレート4粒といっしょに袋詰めするという作業。集まってきたスタッフが見事におやじであって、しかも、怪しくて危ない。ホームページに「みんなでがんばっていますよ」と言う写真を載せようとしたが、やめにした。すると「どうして載せないのですか? 当局が圧力をかけてきたとでも?」とHP担当。仕方がないので例の写真を送ると「やっぱり掲載はやめましょう」と簡単に納得してくれた。おかげで、バレンタイン募金は好評だった。

別の団体は、カレンダーを売って、活動資金を集めていた。そこで、スタッフからカレンダーボーイを選んで、宣伝しようということになった。早速新聞社が来てくれて、「カレンダーボーイ」が、カレンダーを持ってポーズ。翌朝の新聞記事で流れた。しかし、さっぱり、電話がならないのである。担当は、「おかしいですね。いつもなら電話が鳴り止まないくらいの反響があるのですが」
カレンダー・ボーイではなくて、実はその写真、どう見てもカレンダーおやじである。しかも、頭は丸刈りで、セーターの柄が細かくて新聞の印刷は実に汚らしく写る。「こりゃ、暴力団の押し売りだわな」と誰かがつぶやいた。

ところで、子どものころ、TVでワニ人間の恐怖という映画を見たことがある。ストーリーは、あまり覚えていないのだが、確か行方不明になった恋人を探す女性の物語だ。何とか手がかりを見つける。彼は沼地にいるというので、彼女の友人が代わりに探しに行くが、交通事故で死んでしまうのだ。しかし、ストーリーは死んでしまった友人のことにはお構いなく主人公の愛の物語として展開していく。僕はこの友人のキャラクターを結構気に入っていたので、悲しくなった。こういう話の展開はありがち。主人公の愛のために、脇役がどんどんと犠牲になっていくヒロイズム。最後に男女のカップルだけが助かってめでたしめでたしというのだ。しかし、この映画は、違った。彼女は恋人を探し当てるのだが、その恋人は放射能を浴びてワニになってしまっていたというお話で、ぜんぜんハッピーエンドでないのだ。子どもにはショックであった。しかも、このワニ人間、笑ってしまうような被り物である。

私が、子どもながらに感じたワニ人間の不条理な衝撃をお芝居に取り入れたらどうなるか。それでいてこういうご時勢だから、最後はハッピーエンドにしたい。
「なんか、味のある爺さんが、正義感にあふれる若者を制止して、結局それで世界が平和になるようなのがいいですよ」
「爺さんですか。うーん爺さん出てこないんですね」
そこで、僕なりに考えてみたのが色鉛筆おやじの登場だ。
NGOの事務所におかれた色鉛筆のセット。事務所に遊びに来るのは競輪好きのおやじ。国際協力なんて一切お構いなしだ。「酒と、女と博打が人生」といきがる。来るたびに、赤鉛筆を持っていって競輪場へ向かう。NGOの女性スタッフがイラクに色鉛筆を持っていく。好きな色は? と子どもたちに聞くと、「赤」。赤い花、赤い太陽、赤い洋服。。。ところが色鉛筆には赤だけないのだ。

そこで、戦争が始まり子どもたちは、赤い絵を描くまもなく子どもたちは死んでいく。その話を聞いて色鉛筆おやじは反省して、競輪で稼いだお金を寄付しようとするが、かえってすっからかんになってしまう。申し訳なく思い、競輪場に落ちている赤鉛筆をかき集めて事務所に届けるのだが。。。
「あんた、何かんがえているのよ。この人でなし」と若い女性スタッフに追い出されてしまう。確かに、なんとなく不条理さは、かもし出されているが、これじゃあ、あまりイメージアップにならないな。

JIM-NETでは引き続き、「限りなき義理の愛作戦」と称しホワイトデー向けチョコレート募金を行っています。今度は、ホワイトチョコ。詳しくはhttp://www.jim-net.net/をご覧下さい。カフェでの展示も行います。



テントの中のバレンタイン  スレイマン(翻訳・千早/TUP)





愛しいイラクの女たちよ

イラクにはびこる 痛ましい状況の中で苦しんでいるあいだに
あなたの家族のまわりに落ちる 爆弾の音を聞いているあいだに
そしてあなたが子供たちに「怖がらないように」と言い聞かせているときに

イラクの女性であるが故に、あなたが米兵たちから身を隠しているときに
あなたがテントの帳(とばり)をおろし、
ありあわせのものを 毛布代わりに子供にかけてやるとき
「明日、この子に何を食べさせようか」と思案するとき

いずれのときにも
愛しいイラクの女たちよ
この世に「愛」と呼ばれるものが存在することを
決して忘れないでおくれ

世界中の人々が、バレンタイン・デーを祝っている
もちろん……
私は、あなたがバレンタインに花一輪すらもらえないことを知っている
けれど、どうかバレンタイン・デーを覚えていておくれ

あなたの辞書から「愛」という言葉を奪おうとしている彼らに
成功させないことはとても大事だから

それに、あなたはいつかきっと再び「愛」を使うから
そんな日が、遅かれ早かれ
きっとやって来ると どうか信じておくれ

彼らはすべてのものを殺してしまう――だが愛だけは
愛だけは永遠に生きる
だってそれは空の彼方からの贈り物だから
その愛をあなたの心から奪うことなど、彼らにできるはずもない

そして愛は、彼らの兵器よりずっと強いものだから

愛しいイラクの女たちよ
愛し続け、バレンタイン・デーを忘れずにいておくれ
それが彼らを敗北に導き、
あなたの人生を取り戻してくれるのだから


(訳注:文中「あなたが米兵たちから身を隠しているときに」とあるのは、 レイプされることを示唆するのではなく、「米兵たちが『女性をとても大事に扱うイスラムの慣習』を全く理解せず、女性たちに対しても怒鳴ったり、手荒に扱ったりすることを指しています」と、スレイマンより補足説明がありました。)





多(たね)祢──緑の虱(17)  藤井貞和




           海をいちまい、
       折りたたんで島にする。


         ガロー山、聖なる、
       ガローとは珊瑚石灰岩。


               刳り舟を、
掖(やく)玖とのあいだに浮かべて、


               西之表象は、
            塩田に迷わせろ。


 
(さきに「ホットルケンの人」を書いたあとで、いまポルトガルにいる横木徳久さんから、『リスボアを見た女』〈阿刀田高、一九九二〉を教えてもらった。ホットルケンという名が出てくるわけではないが、鉄砲を作る秘伝を得るために、刀鍛冶は娘の若狭をポルトガル人に与える。若狭はポルトガルの地を踏んだという。翌年には帰ってきて、父と娘と再会する。数日にして若狭大病し、死すと偽って棺をつくり殯葬するとは、ホットルケンの話にそっくり。)




ここ10年のインドネシアと日本(2)電話  冨岡三智




1度目の留学から1年半をおいて同じ町に留学してみたら、電話事情も大幅に変わってしまっていた。携帯電話やインターネットが普及し始めていただけでなく、従来のワルテル(ミニ電話局)より小規模の公衆電話があちこちに出来ていたのだ。電話回線の整備が遅れており、電話がない家もまだある割には、通信事情は格段に良くなった。というわけで今回は、私の生活圏での電話事情がどう変わったのかについて書いてみよう。

  ・家庭の電話

私は2度の留学とも市役所の裏に、電話のある1軒家を借りた。電話付というのが私の譲れない条件だったのだが、しかしこれは結構大変だった。町の中心部でも電話がない物件がいっぱいあるのである。全部で合計20軒くらいの貸し家(どれも街中)を見て廻ったけれど、電話のある家は私が借りた家以外になかったように思う。

電話回線の整備が追いついていないとは言っても、電話が確実に増えているのは確かだ。1度目の留学の間――1996年から1997年頃――に電話番号の桁数が1つ増えて6桁になった。スラカルタ市内の電話番号は冒頭に6が、郊外では8がついた。当時電話局に貼ってあったポスターによると、この電話回線の普及にも各国の援助が入っていて、ブロック毎にそれぞれの国の管轄があった。確かジャワ島ブロックは日本(NTT)の管轄だったように思う。

  ・ワルテル

ワルテルというのはミニ電話局のことで、1980年代後半からインドネシア全土に広まったという。中央電話局同様に、そこにある電話ブース(3台くらいある)から電話をかけたり、ファックスを送受信したりしてもらえる。しかし電話料金の支払いはできない。電話機に料金が表示され、その代金を窓口で支払うというシステムだから、おつりももらえてコイン式やカード式の公衆電話よりずっと便利だ。

私が初めてインドネシアのソロに行った1989年3月、日本に電話をかけたいと言うと中央電話局に連れて行かれた。この時点では、1992年以降よく利用することになるワルテルはまだなかったように記憶する。で、中央電話局ではと言うと、まずオペレーターに電話をかけてもらい、「○○さん、△番のブースへどうぞ〜」と呼ばれて初めて電話口に出ることができる、というシステムだった。国際電話だけがこうだったのではなく、国内電話でも同様である。それが1992年2月にはすでに、パサール・ポンにワルテルが登場し、自分でダイアルして電話をかけられるようになっていた。インドネシア全土にワルテルが広まったのは、きっと「自分でダイアル式」になってからのことに違いない。

現在ではそういう老舗ワルテルだけでなく、店や下宿などの一角にブースを作って電話機1台を置いているだけ、というタイプがそこここにある。これらが広まったのは、1998年の暴動の時にコイン/カード式公衆電話が多く焼かれたからだ、と聞いた。こういうワルテルの料金は老舗ワルテルに比べて高く、かつ値段にばらつきがある。(端数は決まって切り上げられる。)また職員についても、老舗ワルテルの場合はたぶん電話局の職員だ(まだ聞いてないけれど、ワルテル間で異動があるという話は聞いたことがある)。しかし新しいワルテルの職員(お金を取る人)は、明らかにその店や下宿のオーナーである。

ちなみに、こういう新しいワルテルの電話機はモジュール・ジャック仕様になっているから、嫌がられること請け合いだが、インターネットにつなぐことができる。老舗ワルテルの電話機はしっかりした箱型で、回線も太くて抜けない。

  ・携帯電話

これも暴動後に急速に普及した。最初の留学(〜1998年5月)では、私の知る芸大の先生たちはまだ携帯電話を持っていなかった。それが2000年2月に戻ってきたらぼつぼつ携帯電話を持つ先生がおり、その後の3年の内に、ほぼ皆が持っているくらいに普及してしまった。この頃は、「○○先生はあの研究プロジェクト予算(教育省からおりる)で携帯電話を買った」というような話を、学生達から時々耳にした。研究経費を浮かせてその分を携帯電話にまわしていたらしい。

そして今では芸大学生や留学生の多くも携帯電話を持っている。暇があるとSMS(メール通信のようなもの、ただしインターネット経由ではない)を打っている光景も日本と変わらない。このジャム・カレット(ゴムのように伸び縮みする時間の意)のお国では、相手が約束を忘れているのか、遅刻しているだけなのかわからないまま悶々・イライラと人を待つことが昔はよくあったけれど、そんな文化ももうなくなるだろうという気がする。





マルマルマル  小島希里





マルマルマル・ダンケナワマル・シュライゲニッテ・マルゲラワー
マルマルマル・ダンケナワマル・シュライゲニッテ・マルゲラワー
シュラーイゲニン(ポン)・シュラーイゲニン(ポン)・シュライゲニッテ・マルゲラワー
シュラーイゲニン(ポン)・シュラーイゲニン(ポン)・シュライゲニッテ・マルゲラワー


「がやがや」のメンバーがあつまると、まず最初に、この歌を歌う。
決めてあった開始時間をすぎてだらだらと世間話をしていると、いつもきまってTさんが「えーと、ではマルマルマルをはじめます」と宣言する。宣言といっても、控えめな口調だから、だれもすぐには従わない。そこで頃合をみはからってもう一度、「マルマルマル、はじめます」と言うと、話し声はゆるやかに下降線をたどり、みんな床に腰をおろす。お尻をずらして、輪をつくる。輪といっても隣同士くっつきあっているところや、離れているところがあって、無造作に置かれた飛び石のような感じで、ぽつんと一人、部屋の隅っこの場所に座っている人や、ホワイトボードに向かって字を書きつづけている人もいる。「マルマルマルのリーダーです」と自ら名乗っているTさんが「では、せーの」と言うのに合わせて、にぎやかに「マルマルマル……」と歌いだす。歌に合わせて、左右、両隣にいる人の膝と自分の膝を順番に叩く。

シュラーイゲニンの後の(ポン)と書いたところは、手拍子を叩いたり、自分たちで考えた身振りとことばを入れることになっている。何年か前、歌い始めたばかりの頃は、一拍のなかに無難に収まる、簡単なポーズを取っていただけだったけれど、歌いこむうちに、一拍のなかにおしこむことのできないような長いことばや身振りを加えるようになってきた。

「ポンのところは、自分で考えます」リーダーがポンのところに挿入する語句を考えるようみんなに声をかける。「恋はターノシーはどうでしょう」クラシックの声楽家のように片腕を広げて歌い上げ、オペラ好きの男性さんが提案する。「昨日一日考えました」すると恋愛中の女の人がいう。「恋は辛い、辛いよ」だから「恋はツーライー」と自分のからだを抱きしめるようにして言う方がいい、と。じゃあターノシーでもツーライーでもカーナシーでもみんな好きなこと、同時に言えばいいじゃないの。別の人が言う。

スリランカの漁師の歌だという「マルマルマル」の歌は、ボーイスカウトだかYMCAだかを経て世界のあちこちに広まったらしい。その歌が、今、この小さな部屋のなかで、恋の思いをいくつも同時に鳴り響かせながら、笑い声をあげている。

だいたい六種類ぐらいポンのヴァリエーションを考えたら、一つ目に考えたものから六つ目のまでをとおして歌う。歌いきり、へとへとになると、笑い声がとだえる。するとTさんがすっと立ち上がり、みなに告げる。「立ち上がってくだッサイ。『お茶を飲みに、来てください』をやります」


お茶をのみにきてください
はい、ありがとう
いろいろお世話になりました
はい、さようなら


リーダーの掛け声に促され、ばらばらと立ち上がり、「お茶を飲みにきてください」の歌を口ずさむ。いつの頃からか、わたしたちは「マルマルマル」の歌のあとに、この歌をうたうようになっている。「ありがとう」でお辞儀をして、「さようなら」でお辞儀をするだけの単純なわらべ歌。なんども、なんどもくりかえし歌いながら、いろんな人と挨拶しあう。どうってことない歌なのに、「お茶の歌、歌おう」とだれかがかならず言い出すのはどうしてだろう? くりかえしくりかえし歌っても、いやにならないのはどうしてなんだろう?

「マルマルマル」と「お茶」をのんびり歌っていると、すぐに30分以上経ってしまう。やらなきゃならないことがたくさんある日も、ほかに何もやることが決まっていない日も、「がやがや」の一日はいつも歌で始まる。




クラシック音楽?  大野晋





最近、クラシック音楽がブームだそうだ。

「だそうだ」とは、私の中では年中ブームのためだが、CDショップの店頭に並んでいないくせに、よく売れているらしい。その筆頭は、クラシック音楽の「あんこ」ばかりを集めたアルバムらしく、昨年のアルバム売れ行きのトップ1を射止めたとのこと。どうやら、今までクラシック音楽を聴かなかった若者層に訴求した結果なのだそうだ。クラシック音楽とは知らなくとも、CMや映画、ドラマの中で挿入曲として取り上げられることが多いから、局所だけの方が違和感がないのかもしれない。

クラシックといえば、今年のトリノオリンピックのオープニングはパバロッティの「誰も寝てはならぬ」(プッチーニ「テゥーランドット」)のアリアで始まりました。しかも、女子フィギアで日本唯一の金メダルを取った荒川選手のフリープログラムの曲も同じということで、なにやら、日本の住人に「誰も寝てはならぬ」と深夜から夜明けの生中継を強制されているようで面白かった。なにやら、この冬のテーマソングになりそうです。

さて、クラシックブームの火付け役がコミックとの話もありまして、若い女性向けのコミック誌で連載している「のだめカンタービレ」というマンガの単行本が発行部数で700万部を超えたとか、男性向けのコミック誌で「ピアノの森」という作品が読者からの再開要請で、雑誌を移して連載が再開されたとか、そんな話もありました。どちらも、曲を知らない層の読者に対して、「画」という表現を通して、読みたくさせるような表現技法がさすがです。

最後に、私も一昨年あたりから、一時休んでいたレコードコレクション(最近はCDですが)を再開して、ごそごそとクラシックのCDの中で暮らしていたりします。しかし、CDショップの店頭が寂しいと書きましたが、対するネットショップの便利さが際立ちますね。特に、ジャズとか、クラシックとかの場合、演奏者だの、作曲家だの、レーベルだので検索できるので、普通は探し出せないCDも探し出せちゃうのがいい。しかも、CDになって消えていた「ジャケ買い」の悪癖も、ディスプレイ上の画像を見ながら復活してきたもので、かなり、これは私にとってはまずいのかもしれません。

そうだ。斉藤晴彦さんのシューベルト「冬の旅」聴きました、なんて話題もあったけど、お話が発散しきりましたので、また今度。ペーター・シュライアーあたりのCDと聞き比べておきますので。

では。




しもた屋之噺(51)  杉山洋一




本当に自分のまわりをするりと時間だけがすり抜けていったような一ヶ月でした。ここまでくればもうすぐに暖かくなりそうなものが、二月も終わりに差しかかって、夕べは気温が下がって雪まじりの雨が降りました。

ローマで作曲のロンバルディと豚しゃぶをつつきながら女子フィギュアの生中継を見ているとき、ミラノのリコルディからLが解雇された話をききました。辣腕のプロモーション責任者として有名だった彼女が、数年前ミラノのツェルボーニ社からヘッドハンティングされてリコルディに入ったのは、かなりセンセーショナルな出来事で、彼女のおかげでリコルディは頑張っているなあと思ってみていたのに、解雇理由は例によって、現代音楽部門の縮小だそうで、ニューヨークでのロミテッリ作品の演奏について、嬉しそうに書き送ってくれた年始のメールが最後になってしまいました。そんな話を始めれば、やれヴェニスのフェニーチェ劇場の新しいプロダクションが、政府の経費削減でつぶれたとか、フィレンツェの劇場の新しいプロダクションは、今年はたった一つに減らされたとか、暗い話はつきません。

ミラノに戻ってきた次の日、作曲のダリオからの電話で、ミラノの国立音楽院の近況を聞くと、ラッヘンマンのワークショップの宣伝だけは大きく打ってしまっているのに、資金のめどが立たず、実はまだ作曲家本人には誰も連絡さえとっていない有様だよ、とため息をついていました。

去年まで関っていた学生オケのクラスから、今年は指揮のクラスに配置換えになり、再び昔の恩師と一緒に指揮科の生徒の面倒をみています。懐かしい古巣に戻ってきた感じで、オケに参加するよう学生を説得するストレスもなく、実に気楽で楽しいものです。指揮の授業のため協力してもらっているオケも、今年はお互いよく知っている「ミラノ・クラシカ」なので、合わせの間もいろいろ四方山話に花を咲かせています。

ある昼休み、オーボエの一番のルカが、去年つぶれたカンテッリという別のミラノのオケを、他のオケのメンバーたちと一緒に何とか立て直そうと頑張っている話を聞きました。資金繰りにゆきづまったオケの財団から、オーケストラ本体を切り離し、オケマン自身が新しくオーケストラを運営するんだ。マエストロ・カンテッリのご子息も、このオーケストラを僕らが存続させることに大いに乗り気でね。お前もこれからひとつよろしく頼むよ。あんまりお金は出せないけどね。イタリアの惨憺たる状況のなかでも、こうして逞しく生きている連中もいるのには励まされます。

さて、赤ん坊には下歯が2本生え、ウサギ肉のペーストを野菜の煮付けに混ぜると大喜びで平らげるようになりました。紙の片方を人に持たせて、びりびりと破るのが気に入っていて、すっくと立ちあがるかと思えば、得意げな顔をしてみせます。肺が強くなったのか、急に大声でわめくようになり、もどかしそうに、何やら懸命に早口で話しかけてきます。

あと数日で久しぶりの東京なので、今から気もそぞろです。今回こそは、味とめで水牛のみなさんにお会いできるのを楽しみにしつつ!

(2月28日モンツァにて)




製本、かい摘まみましては(16)  四釜裕子




前回触れた伊東屋の「パピエリウム」が、東京・広尾店に続いて銀座2号店の1、2階にもオープンしていた。立ち寄ったまさにそのとき、2階奥のスペースでちょうどなにか講座が開かれていたのでのぞいてみた。接着剤付きでテープ状になった色柄美しい紙テープとイタリア製の紙がそれぞれ数種類用意されており、そのなかから好みのものを選んで、ホワイトブックにかぶせて「オリジナル」のノートを作りましょう、というものだった。所要時間2時間。背筋伸ばしてみなさんお話聞いていたけれど、楽しいのかなぁ。

お店のひとに、これはなんの講座ですかとたずねると、ブックバインディングです、との応え。「バインディング」ってどういう意味だったかなと思い辞書をひく。厚さ約10mm、閉じる時に指の肉をはさみがちな古いタイプのその電子辞書の英和辞典・ジーニアスによると、binding:[名]1)縛る(結ぶ)こと、束縛、2)縛る物、ひも、包帯、3)(本の)表紙、装丁、製本、4)(衣類の補強・飾りの)縁取り材料、とある。表紙の厚紙をぺたっと貼るのもバインディングでよろしいのでしょうけれど、手取り足取りはいいかげんにして、もうちょっと本の構造に寄せた内容にしたらどうでしょう。

売り場には、「スクラップブッキング、カルトナージュ、ブックバインディング、カードメイキング、ギフトラッピング、カリグラフィーなど」に用いる紙と、そうした作業に必要な道具や装飾品が揃っている。紙は、革や生地柄を模したものや欧州の街の地図柄など、洋菓子店の箱に使われるようなもので華やかだ。印象としては、どんなに特別な日の贈り物のためといえども、それを包むために折り目をつけるのははばかられる。製本用に数枚購入したが、今後品揃えがどれだけの頻度で入れ替わるかに注目だ。

包装紙と言えば、子どものころ、いただきものの包みは丁寧に開けるのよと母に言われたことを思い出す。表はつるつる裏はざらざら、わりに薄いので、貼りついたテープを剥がすのが面倒だった。ひとしきり折り目を伸ばしても、母がくるくる巻きにしないでやんわりと畳んでストックするのにも納得がいかなかった。それに、どうせとっておいても、登場するのは遠足や運動会。アルミホイルにくるんだおにぎりをさらに包んでくれるのだが、母が選ぶ紙がいつも花柄で、これがなんとも気恥ずかしいのであった。

包装紙に使われている紙の多くは、印刷する表面だけ紙の繊維をつぶしてあるので、裏側に折りやすい。また裏側から透けてみえる柄の具合も好ましく、懐かしい質感である。最近では、その表裏の質感の違いを活かしてチラシに用いたり、本の扉やカバーに用いて乙女趣味を匂わせた装丁もみかける。比べて、パピエリウムでみた輸入紙の多くは、厚みがある。折り目をつけるのがはばかられるととっさに感じたのは、見た目の豪華さや値段の問題ではなくて、単純にその厚みに由来していたのだろう。

紙を布のように束ねてボリュームを活かすよりもぴしっと折って包むほうが、わたしは好きだ。日常にその習慣は残っていないけれど、600年の歴史がある折形の国、日本に生まれたことも影響しているだろう。折り目くっきりは、まず折る側の気持ちがいい。製本の作業でも、紙を折る工程がいくたびかあるが、こんなとき、裁縫用のへらを使う。へらの平らな面を紙に押しあてて、折山をつぶすのだ。折れ目ができる。すうっとできる。歯磨き粉のチューブを絞るようなもので、折った紙の間から余計なものがみゅうと出るようだ。きっと、なにかが出ている。



日記プラス 三橋圭介




1/22
「…いま(リュック・)フェラーリのLES ANECDOTIQUESが小さく鳴っている。さまざまな場所の音にノイズや声などがかぶさっている。かれは現実音(特定の町の雑踏や鳥の声など)と抽象音(サンプリング音など)のバランスを測ることを意図したと書いている。その境界はあいまいに、現実と非現実が交錯する。美しい場所の記録…記憶…夢…繊細で凶暴なフェティシズム。」

この「LES ANECDOTIQUES」は晩年といえる2001年から2002年の作品で、初期の50年代後半の「Etudes」や60年代初頭の「Tautology」や「Und so weiter」などのフェラーリとはずいぶん違っている。初期の作品についてかれはまるで「他の人の作品のようだが、当時のセリエルとはずいぶん違っている」といっている。この頃の作品は、シェフェール流のミュジック・コンクレート、つまり「具体音(ノイズ)によるソルフェージュ」という音の分類学と組織化が、かれの音楽を形作っている。素材のテープを細かく切り刻み、音を継ぎ接ぎする。そこでは音と音の関係性を際だたせる組織化への努力が明らかに感じられる。いまきくとそうした操作に基づく作為が窮屈に感じられるが、その意味でも、ケージがシェフェールを批判する根拠とした「使い古されたソルフェージュによる組織化」を免れていないし、まさしくセリエルの同時代音楽だ。

増幅されたピアノとコンクレートによる「Und so weiter」は凶暴さというエクスタシーの作品だが(75年の「Cellule」や86年の「Collection」はもっとクールで都会的洗練、遊戯的な感覚を持っている)、すでにこの頃から「LES ANECDOTIQUES」への序章がはじまっている。さまざまな場所の記録を取り込んだこの「LES ANECDOTIQUES」は、外面的にはいわゆるサウンド・スケープを装ってさえいるが、そのように聞くことを決して許さない。たとえば、フェルドの採ったカルリやターブルのいくつかの録音を部屋の環境音のように聞き流せたとしても、フェラーリのそれはかれの自意識や美学がどうしても音それ自体へと向かわせる。現実音にかぶさるかすかなエコーや控えめなノイズ、現実音の細部にたいするフェティッシュともいえる関心(繰り返しへの偏執狂的なこだわりがある)の上で、全体を統合していく。それはすでにソルフェージュではなく、感覚や遊びの論理に基づく厳密な組織化といえるが、そこにある優しさやユーモアで武装したエクスタシーと凶暴さの政治学はかなり罪深い。夢とは閉じた眼の遮ることのできない、圧倒的な現前。フェラーリは夢を分析したりはしない。それ自体を語る。音を説明するのではなく、イメージの類似と距離による明晰な構造として結びつける。リュック・フェラーリの映像特集が3月にアップリンクで開催される。




コンピュータ音楽のいま  高橋悠治




この二、三日はコンピュータでライブに使うパッチを作っていた。文章を手で書かないで、コンピュータに打ち込むように、音楽もコンピュータでモジュールを寄せ集めて編集するほうがらくにできるようになってしまった。メロディーやハーモニーのかわりに、リズムとサウンドでつくる音楽は、いまではコンピュータのかんたんな手順で作ることができる。楽器のための音楽も、モジュールの組み合わせで考えるようになる。

モジュールの組み合わせは、曲ではなく、演奏でもない。押しボタンやオン・オフ・スイッチのついた数個の黒い箱を設計する。箱の内側はできるだけ単純な操作と、思いがけない音の出現でできている。以前はクセナキスのように、自然現象の確率論的モデルを使っていた。音の出現間隔や、ある音階のなかをあてどなく歩き回る音程のシミュレーションを積み重ねていくと、手を出さないでもかってに音楽を作り出す自働機械ができる。クセナキスは、最少限の条件付けで確率波の合成から一曲全体までを自動生成するプログラムを作ろうとしていた。それはオーケストラのための作曲プログラムから始まり、コンピュータ音楽の生成プログラムにまでおよんだ。

クセナキスの音楽をいま聞き直すと、コンピュータを使わない曲のほうが、はるかに魅力的だ。建築の構造計算を応用した初期の音楽の曲面や、魔女メドゥーサの髪がのたうつようなメロディーの束、炭火のはぜる音や地震の震動などを極限まで増幅したノイズミュージックなど。限界を越える対象をなんとか制御しようとする意志が見える。荒々しい自然や、暴力のなかに投げ出された孤独な人間の、生きるためのたたかいが、この音楽への共感を誘うのだろう。

この意志にさらされる他の人間は、それに引きずられ、緊張と大きな努力をともにすることになる。クセナキスの音楽は演奏者に過酷な要求をする。見せつけるための名人芸、そう受け取られてしまうことになりがちだが、疲労の極に自意識からの解放がある。それまでは、自分の意志ではなく、作曲家のイメージと精密な楽譜にきびしく縛られている。

作品のイメージやすでに創られた設計図によらず、内側の動きが予想できない黒い箱を使うのは、作品ではなくてその場での創造の過程、おたがいに干渉し撹乱する対話の場をひらく。リズムは演奏者の身体的介入であり、音色は箱のなかから思わぬ順序で現れる。その撹乱が次のリズム介入を誘い出し、対話は予想しない方向に逸れていく。偶発性は確率ではなく、ケージが使っていたような易をプログラム化したもの、それも変爻とよばれる、陰陽が逆転したものを手がかりにしている。一様乱数とはちがって、状態を変えるより、保存するほうにバランスがいくらか傾いている。

黒い箱はそれぞれがモジュールであり、数個以上の音を入れたもの、一個の音の速度変化、交代するループ、これはブレーキのかかった状態、音楽でいうブレイク・リズムにあたるもの、それに短いことば、断片化される引用を組み合わせながら演奏でもあり、即興でもあり、あるいは作曲でもある行為がつづく。

これらのモジュールは最近の数年かけて創られ、使っては修正をかさねている。完成はあり得ない。いつまでも継続する作業であるだろう。それはいまの段階ではコンピュータ音楽はまだ発展途上だから、というだけではない。それは、その場での介入なしには音楽としてなりたたない音色の箱にすぎない。それは一つの環境、一つの場であり、マセダのタイトルを思い出しながら「リズムのない色彩」と、仮に名付けている。

それはそれだけで完結してはいない。コンピュータとそこに介入する身体は、さらに他の演奏者や演奏の場によって、さらにひろがっていく。作曲家のイメージや構成はここにはない。表現する個ではなく、二つのベクトルの積が基本単位であり、そこから数個の家族関係へと向かう。音楽は、あるいは音楽も、社会関係であり、楽器や声を介した関係の確認と発展だと言えるだろう。人間的な関係さえエレクトロニクスのモデルによって理解されるのが現代だろうか。

おなじ創造過程が、逆に楽器の音楽や歌にも使われなければならないが、それはかんたんではない。最近発展したコンピュータやエレクトロニクスによる音楽にくらべて、楽器や声の技術には伝統がある。作曲家が支配し、演奏家がスターになり、即興はステレオタイプの寄木細工になりがちな場では、競争や上下関係から水平の協同関係に近づくのはたいへんだ。楽譜を書けば、イメージの再現に終わるだろう。書かなければ、結果は保証されないし、余白を残した断片から、それに誘われて書かれていない音楽が現れるようにするには、どうしたらよいのか。それをずっと考えあぐねて来た。しかも、音楽は苦しみながら創るものではない。その場その時にすばやく創られる、そういうものだから、努力の痕をとどめてはいけない。こうありたいという社会や人間関係をさきどりするものとしての音楽は、悦ばしい変化そのものになる。




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