2006年6月 目次


ジャワ島中部地震の報道について        冨岡三智
ぼくたちにはミンガスが必要なんだ       三橋圭介
“束の間”は時間のチャーミング・ポイント   御喜美江
ナイト・ハイク in マツモト         大野晋
しもた屋之噺(54)             杉山洋一
雨(ナムフォン)     スラチャイ・ジャンティマトン
アジアのごはん(11)パクチーと海南鶏飯  森下ヒバリ
製本、かい摘まみましては(19)       四釜裕子
銀線──翠の虱(20)            藤井貞和
砂漠のゴール                 佐藤真紀
5月                     小島希里
反システム音楽論断片1             高橋悠治
  


ジャワ島中部地震の報道について  冨岡三智




5月25日早朝6時頃、ジャワ島中部のジョグジャカルタ(以後ジョグジャと略)州を中心に地震が起きた。

日本でのメディア報道では、被害の一番甚大なバントゥル県のニュースがやっぱり一番多い。バントゥル県はちょうどジョグジャ市街と、ジャワ島南海岸との間にある。被害が一番甚大な地域だということで、いろんな救援団体が入っている。それからプランバナン寺院が崩壊したことも、割と早い時期に報じられた。そのプランバナン寺院の東半分が属しているクラテン県の被害も結構大きいらしいのだが、私の友人が現地の知人らに確認したところでは、ここには支援の手(特に食料供給)がほとんど届いていない。

NIKKEI NETでは、5月30日午前の段階で地震の死者は5,428人、全半壊または損傷した家屋が約95,000軒とあり、クラテン県のホームページでは、同県の被害は同日朝7時半の時点で死者1,039人、全壊または損傷した家屋が77,683軒(公共施設、個人家屋の合計)だとある。バントゥル県では同日午後8時15分の時点で死者3,789人、崩壊・損傷した家屋が26,733軒。それぞれどういう風にデータを取っているのか分からないから(特に家屋のデータについては)比較できないのだが、クラテン県の被害も小さくないことは分かる。

それでもクラテン県の様子があまり報道に乗らないのは、1つにはこの県がジョグジャ州ではなく中ジャワ州に属しているからだろう。今回の地震はジャワ島地震という呼称にほぼなっているが、震源がジョグジャ周辺だと報道されているために、一般の関心はジョグジャと呼ばれる地域の範囲を越えることがない。その反対に、どの報道で使われた地図にも、ジョグジャ市、ムラピ山、プランバナン寺院と並んで、被害のなかったボロブドゥール遺跡の位置が示されていた。いま挙げた地域はすべてジョグジャ観光のメッカである。被害もなく震源地から65kmくらいも離れているボロブドゥールの位置を示すのは、それが観光ガイドではジョグジャの項目に入れられており、ジャワでは一番有名な観光地だからなのだ。観光ガイドではジョグジャ/プランバナン寺院観光のページの次は中ジャワ州/スラカルタ(通称ソロ)のページになっているから、ジョグジャの地域はプランバナン寺院で終わりという風に見えてしまうのだろう。

あるいはまた、こんな風にも考えられる。いったんバントゥル県が最大の被災地と認定され、救援部隊が次々にバントゥル入りするようになると、マスコミはバントゥルにいてその救援活動を報道してさえいれば、新しいニュースはいくらでも伝えられる。つまり、死傷者の数や崩壊した家の数などは必ず刻々更新されてゆくし、新しい支援団体もやってくる。それに支援団体の活動を伝えることは、日本の外交を宣伝する上でも、納税者(政府援助の負担者)や義援金を送る人たちを安心させるためにも重要な仕事だ。そうなると、クラテンみたいに支援団体に注目されていない地域については、手間ひまかけて報道するメディアが少なくなるんじゃなかろうか、と思えたりもする。

それから、もしかしたら地方自治体の首長の被災アピール度にも理由があるかも知れない。29日に見つけたのだが、バントゥル県のホームページのトップには、義援金募集の記事が出ているのである。2つの銀行口座が書いてあって「バントゥル県知事―天災」宛てに送る。どちらもドメスティックな銀行だから、国内に向けて支援要請を発信しているわけだ。(この文章を送る直前になって気づいたのだが、県の英語版のホームページには、この支援要請のお願いや銀行口座は書いていなかった。)それに続いて、被災データや救援物資の配給データへのリンクがあり、また県知事のSMS(携帯電話のショート・メール・サービス)センターの番号が出ていて、村民が知事に要求を伝えることもできることになっている。(今もあるのか知らないけれど、同様のサービスはユドヨノ大統領が以前やっていた。)地方自治体が直接、義援金募集のページを出したことに私は驚いた。いったいこの口座に寄付する人がいるのか、このお金が着服されずに、きちんと支援に廻される保証はあるのか、私には分からない。しかし、少なくとも、バントゥル県の知事は被害の大きさを外部に向かって強くアピールしている。そのために、クラテン県が割りを食っている面もないとは言えまい。

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こんな風にクラテン県のことが気になるのは、この県がジョグジャカルタとスラカルタの2つの王宮都市の間にあって、両方の宮廷に多くのダラン(影絵操者)や音楽家や舞踊家を輩出している地域だからなのだ。

ジャワの宮廷では、ムラピ山には王族の祖先霊が住み、南の海には、女神ラトゥ・キドゥルが棲んでいると信じられている。代々の王はこの女神と結婚することで、その王権の正統性を得ている。ジョグジャの王宮は、ちょうどこのムラピ山と南のジャワ海を結ぶ一直線上に位置している。この1ヶ月の間に、その北のムラピ山で噴火活動が活発化して火砕流が発生し(15日、地震後の29日)、南海岸側で地震が起きたということは、何か神々の怒りでもあるのではないか……と、ジャワ人でなくとも(あるいはジャワ人でないからこそ?)考えてしまう。




ぼくたちにはミンガスが必要なんだ  三橋圭介





「〜「俺はアメリカ国旗を信じる。信じる。虐げられた黒人、中国人、日本人がどうなるかを見守りたい。そのためにアメリカを信じる。信じてみたいんだ。」 ミンガスは念を押すように、かみしめるようにそういった。〜」(日記より)

「直立猿人」の最初の16小節は、死後発見された500ページに渡る「エピタフ」という作品の冒頭でもあり、そのタウン・ホールのライヴの記録(62年)が残されている。ジャズ・オーケストラのための作品で、ガンサー・シュラーは「アイヴスに匹敵する」と言った。たしかにそれまでにこうした作品がないという意味で、そうかもしれない。しかしそうではない。演奏をきくと、全体にぎこちなく(練習不足だったらしいが、そのためだけではない)、演奏者が不自由に縛り付けられている。以降、ミンガスはこの作品を封印し、多くを語りたがらなかった。いろいろなものを統合しようとしたミンガスの意図は失敗した。統合しようとして個々の演奏者の自由を奪った。それは音楽をミンガス個人のものにしてしまったにすぎない。しかしその2年後の64年のモンタレーでこの試みにひとつの答えを出した。

「メディテーション・オン・インテグレーション」。「メディテーション」として同じ年にヨーロッパでドルフィー(この時彼は亡くなっている)たちといっしょに演奏していた作品で、ここでは自分のバンドに西海岸のメンバーを加え、リハーサルを繰り返して完成させた(ライヴではこの曲だけが大編成になっている)。演奏中に、ミンガスは空を見上げ「もう死んでしまうのかもしれない」と思ったという。さらに演奏中にあまりにジャズとは違うので、聴衆がざわつきはじめたという。彼は「黒人だっていろいろ勉強しているんだ」とも書いた。ここに55年の「直立猿人」などからはじまったミンガスの頂点がある。それはミンガス・ミュージックとしかいいようがないものだが、それを作りだしているのはミンガスと演奏している個々のミュージシャンだ。ミンガスは大きな枠を作り、そこでそれぞれの人を自由に羽ばたかせながら、かれの理想とする世界を描いた。植草勘一は書いた。「ぼくたちにはミンガスが必要なんだ」。



“束の間”は時間のチャーミング・ポイント  御喜美江





5月5日、自宅の仕事部屋の窓からは細い坂道と数軒の家が見えた。ところが今日5月26日は、緑に生い茂る高い木々のほかに何も見えない。3週間前は“町”に住んでいたはずなのに、今は“森の中”。そう、ヨーロッパの春は一瞬の出来事。ちょっとぼんやりしていたら、あっという間に冬から夏になってしまう。だから人々はどんなに忙しくても、悪天候でも、花粉症でも、この“束の間の春”を心から愛し、風景の中を散歩する。

私たち人間は常に時間に支配されながら生きていると思う。仕事の内容を決定した時点で、「それでは今日は27時間頂きましょう。明日は14時間でいいでしょう」というわけにはいかない。「来年は受験準備ですので16ヶ月ください」とか「再来年はもう退職ですから、来年は6ヶ月で充分です」と、これも不可能。一週間の休暇はひどく短く、満員電車内の立ちっぱなし1時間は腹が立つほど長い。

子供の頃は一日が長かった。日曜日などは朝起きてから夜までが40時間くらいあった。これといってすることもなかった私は、よく地面に寝転んで空の雲を眺めていた。たまに来客のある日は、「今日のおかずは何だろう〜」と期待に胸を膨らませ、夕食までの時間が永遠に感じられた。学生時代は午前が強烈に短く(朝寝坊?)、結婚してからは週末が短くなった。

時間は容赦なく流れる。気がついたら2005年になっていた。日常生活の中でふと気がついたことを、短く書き留めておきたい、風景や物体を瞬間的な画像として付け合せたい、なんてことを夏頃から思うようになった。そこでインターネットにおける「ブログ」を始めた。「ブログ」と一口に言っても多種多様で、非常に内容が濃く緻密なものもあるが、私のブログは絵日記のようなもの。まずは写真を載せ、そこに短いコメントをチョコンと付ける、ただそれだけ。何十時間、何百時間も練習して、やっと一曲を仕上げる自分の“本業”に比べて、この“作業”は信じられないくらい楽しい。束の間の出来事を簡単に書く。関連性はあえて作らないようにする。

ところがこの7ヶ月のブログをとおして読んでみると、なぜか繋がっている。束の間と束の間が数珠のようになって繋がっている。支離滅裂であるはずが、それらは磁石のようにくっ付きあっている。これは新しい発見だった。

そんなふうに音楽も作れないだろうか。様々な風景の「束の間」が一枚の紙上で出会った時、思いがけない楽しい音楽が生まれるような気がする。

(ラントグラーフにて 2006年5月26日)




ナイト・ハイク in マツモト  大野晋




先月、マミヤが写真機から撤退と書いたら、その後、どうなるか決まっていないが、事業は移管するとの発表があった。できれば、よい形でマミヤのカメラが市場に残ることを望みたい。さて、これから、今月の話です。

このところずっとやりたいことがあった。
それは、夜の松本をカメラ片手に散歩することだ。

信州・松本は、他の日本の地方都市と違わず、夜がとても早く、そしてとても暗い。いやむしろ、東京などの大都市がやたら明るく、眠ることを知らないだけなのかもしれない。そのうえ、松本は内陸にあり、標高も高いため、夜になれば気温が下がり、湿度が低いために非常に心地よい。しかし、これだけでは深夜の徘徊の理由には不十分である。実は、私だけの思い出があるのだ。東京と横浜で育った私が進学して、信州で一人暮らしを始めたのはもう二十数年も昔のことだ。明るい大都会で育った私が、深い闇に沈んだ暗い街を知ったのは松本に移り住んですぐの頃だった。

夕方7時になると閉まって真っ暗な商店。
ぽつんと点いた裸電球。
暗い路地。

そんな情景は、家族から離れて暮らし始めた当時のふわふわとした感覚と共になつかしく浮かんでくる。たぶん、当時は不安だったのかもしれないが、今となってはむしろ、とてもリラックスした気分にさせてくれるのだ。だから、ときどき、松本を訪れても、夜の町を歩くことがとても好きなのだ。

数年前、ふと、ナワテの明かりが映る女鳥羽川の川面を橋の上から眺めていて、その様子を写真にしたいと思った。暗い中に浮かび上がる明かり、ひとつひとつを映像に写したいと思った。何年か、そんなことを考えていたが、この春、まだ肌寒い初春の夜の松本を、カメラ片手にぶらっと歩いてみた。

閉まりかけの商店。
人通りの少ない通り。
暗い路地。

そんなものをカメラのファインダー越しに見ながら、昔から好きだったものを感じることができた気がした。次は、もっと寒くなって、空気がもっと透明になってから、一脚でも担いでこよう。

暗い街の中で、ひとの、家族の暖かさを感じるために。そう。暗いからこそ、寒いからこそ感じられる人の営みがそこに感じられるのだ。
 




しもた屋之噺(54)  杉山洋一






ミラノは一年で一番気持ちの好い季節を迎え、空の蒼はまるでどこまでも深く突き抜けるように見えます。もう少しゆくと蒸して、じっとりと汗ばむ陽気になります。今は凛として清々しい空に沸きあがる積乱雲も、夏になると湯気のなかで茹だっているようです。

今日はミラノの市長選挙があり、先だって選挙で敗北を喫したベルルスコーニ率いる右派が巻返しを図って、あちらこちらでキャンペーンを張っていました。今回政権が変わり、低迷を続けるイタリア経済がどう変化するのか、特に一昨年に比べて70パーセント削減された文化予算が、今後どのように変化してゆくのか、みな息をこらしてじっと様子を伺っています。選挙前後、左派が勝利を収めた場合、今後の文化予算が変化することを見越して、出版社などから新しい委嘱が回り出すらしい、などと仕事仲間でまことしやかに話されていたようですが、特に顕著な変化はありません。あれだけ僅差では文字通り「頚の皮一枚」で繋ぎ止められている状況ですが。

尤も、左派イコール善、という図式はあまり頭に浮かびません。左派にも色々な考え方があるし、例えばうちの学校のグロバリゼーションを進めて来たのは、紛れもない元組合組織の幹部です。外国人排他の傾向が強い右派には、EU圏外の人間として暮らす上で、憤りを覚えるけれど、イタリア人でさえ仕事にあり付けない現実があるのなら、自国民を優先したいと思うのも当然だと思えるのは、自分が日本に生まれ育ったからかも知れません。

モンツァの市役所から先日、1歳になる息子に通知が届きました。
「これは国から君への初めての通知です。君がこの世に生まれてきたお祝いに、君のご両親に国から1000ユーロのボーナスをプレゼントされるのですよ。知っていましたか」。
ついては郵便局で同封用紙に書き込みサインせよ、などと書いてあり、条件としてイタリア市民であるか、もしくはEU圏内の国籍であることと小さく印刷してあります。どうかなと思いながら郵便局へゆき、ボーナスは受け取れるのか尋ねると、「よく分からないが、イタリア市民であることとだけ書いてあって、イタリア国籍であることとは書いてないから、いいんじゃないか。ここでは責任は取りかねるが、サインさえしてくれれば、すぐにでも1000ユーロ渡してあげられる。俺だったらさっさとサインして1000ユーロ貰っちゃうけどね。問題があれば、あとで国に返せばいいだけなんだから……」。
そう言われると心が揺らぎます。よほどサインしようかと思ったのですが、結局家に戻って関係部署に確認すると、両親が日本人の場合、出生地がミラノだろうとボーナスは貰えないのだそうです。ならば、どうしてこんな通知を送ってくるのかと尋ねると、「そりゃ自動的に全員に送っていますから」。

後でジャーナリストの友人に聞くと、受領資格のない外国人が間違ってボーナスを受取り、返金どころか国から多大な利子を請求されるのが問題になっていると聞き、危ないところだったと胸をなでおろしました。自分は無宗教だけれど、子供が万が一イタリアかヨーロッパに居つづけるのなら洗礼は受けさせたい気もするし、自らを顧みず貧しい人たちを支える人たちのことは、宗教家いかんに関わらず、いつも心から尊敬しています。モンツァの隣に、チニゼルロ・バルサモという街があって、友人の報道写真家、マリオが個展をするというので、家人と息子と連立って出かけてきました。

今回の個展はアフリカがテーマで、長年に亙って撮り貯めてきた、ウガンダ、ケニアやセネガルなどの白黒写真が並び、“Poveri per Forza”と題されています。「強いられた貧しさ」とも直訳できますが、「貧しさのなかの強さ」という意味もかけています。半年ぶりに会うマリオは元気そうで、一枚一枚ていねいに説明をしてくれました。

バラック集落で遊ぶ少女や、シンナーを吸ううつろな少年、バラック集落の入口に聳え立つ底抜けに明るいコカコーラの巨大な看板。誰一人コカコーラなど買うことなどない人々の前に、一体何のために建てられていたのか分かりませんが、市長ですらバラックの住人の数すら把握していなくて、400人くらいかも知れないし、700人くらいかも知れないと言ったそうです。肩にひろがるエイズのヘルペスを剥きだしにして呆然とたたずむ半裸の女性や、孤児を集め、自主的に運営される小学校、その講堂に集まりカメラに向かって笑いかける少年たち……彼らの半数以上が致死率20パーセントに及ぶ脳性マラリアに冒されていました。こうした自然な姿を撮るためには、時間をかけて受容れてもらわなければいけなくて、決して簡単ではないんだ、マリオはつぶやきました。
「でもね、別にアフリカの貧しさを紹介したくて写真を撮ってきたのではないんだよ」。
「見てごらん、この活き活きとした女性たちを。彼女たちは昔自らの身体を売らされていたんだ。エイズに罹っている人も少なくない。でも、彼女たちは人生を否定的に生きているわけじゃないんだ。共同体を作って、こうやって首飾りや郷土品を生産して収入を得ている。交代性になっていて、あるグループが働いている間、別のグループが、共同体全員の子供を分け隔てなく面倒をみるのさ。この写真で子供を抱いている彼女だって、抱かれている子は自分の子供かどうか分からないんだ。でも見てごらん、この素晴らしい表情を。まるで聖母のようじゃないか! 彼女たちは収入も全て均等に分けて、子供の人数によって分配率を決めているんだ。それだけじゃない。この写真のように、地方の村に出かけて、定期的に劇をするんだ。エイズに罹らないためにはどうすればよいかという寸劇さ。テレビもラジオもなく未だ因襲の闇に閉ざされた村々を、こうやって啓蒙して回る。どうだい、すばらしいと思わないかい。我々なんかより、ずっと人間の尊厳に満ちた人生とは思わないかい」

マリオは、とある孤児たちの小学校のスナップ写真の前で立ち止まりました。縦長の白黒写真の前面に、3歳ほどの幼女を抱いた、15歳くらいの少年が、こちらを向いて微笑んでいます。後ろには、10人ほどの子供たちがこちらを興味深そうに眺めています。抱かれた幼女はつぶらな瞳をこちらに向けています。
「この写真は、特に思い入れが深い一枚なんだ。女の子はエイズでね。実はもう末期なんだ。ふっくらしているし、とてもそうは見えないだろう。小学校を訪ねたとき、先生たちが言うんだよ。この子はもうすぐ死ぬから、写真を撮ってやってくれって」
マリオはそう言って、深く息を吸い込みました。
「でも、そんな事言われて、とてもファインダーを覗くわけにはいかないじゃないか。動物園に出かけて、飼われている動物を気軽に写真に収めるようなわけにはいかないだろう。戸惑ってしまってね。本当にどうにも出来なくて。言葉も出なかった。そうしたら、何一つ言葉も交わしていないのに、この少年が全てが理解してくれてね。とつぜんこの子と遊び始めてくれたんだ。女の子が末期のエイズだって、みんな知っている。ここイタリアで、マリオは末期のエイズだって言ったら、もう誰も夕食にも誘ってくれないだろう。もちろんエイズが簡単に感染しないことは皆よく知っているはずだけどね。だけど、この少年は、彼女をあやして遊んでくれてね、なんとかこの女の子を笑わせようとしてくれたんだ。ゲームのようにして、ファインダーに微笑を向けさせようとしてくれてね。心の底から感激したよ。本当の人間がどういうものか、学んだ気がした」。

実のところ、自分でも写真を通して何をしたいのかまだ分からない。マリオは告白しました。
「貧しいアフリカを助けよう、誰もがそう言う。確かに貧しいかも知れないが、アフリカがどれだけ天然資源に恵まれているかよく知っているだろう。それを搾取してきたヨーロッパが、どれだけ天然資源に貧しいかも知っているだろう。それなのに今でもアフリカは貧しい。そこに問題があることは今や明白さ。ところが、われわれと来たら、未だに物資を供給して慈悲を施したと、自身の宗教心に照し合せて自己満足する始末だ。学ばなきゃいけないのは、我々のほうさ。アフリカにもう10年近く通っているが、いつも学ぶのはこちらの方だ」。

報道写真家として、イラクやバルカン諸国にも長く通うマリオは、イラクの現状をこう話しました。
「91年からバグダッドに出かけているけれど、今は危なくてとても出かけられない。何より市民と触れ合うことすら出来なくなってしまった。昔は街角で子供たちの活き活きとした表情をカメラに収めることが出来たけれど、今はこんな小さな子供ですら、俺の姿をみると、あっちゆけ侵略者と言って逃げてゆく。ショックだよ。去年の夏二人のシモーナが誘拐された直前に、彼女たちと同じテーブルで夕食を食べていたんだ。そうしたら10メートルと離れていないところにミサイルが着弾してね。壁が一瞬にして崩壊した。運よく目の前に大木が数本立っていて、崩れる壁から我々を守ってくれたが、あのときは本当に一生分の自分の運を使果たしたと思ったよ。皆わなわなと恐怖に震えていた」

確かに自分たちには何もできないけれど、写真や音楽でお互い他者に伝えられるものはあるに違いない。何かできないか模索することも、無駄にはならないはずさ。

チニゼルロのドゥーモ広場を横切るわれわれに傾きかけた陽が、ひどく長い影を落としてゆきます。乳母車の息子を見つけ、まるまる太った人懐こい幼児が駆寄ってきました。チャオ、チャオと舌足らずの発音で懸命に話しかける姿は、可愛らしくも、いじらしくもありました。

(5月27日モンツァにて)

追記・報道写真家・マリオ・ボッチャの写真が見られるインターネットのサイトをいくつか紹介しておきます。アフリカの写真のうちのいくつかは、今回の展覧会にも出展されています。

http://www.legambiente.com/documenti/2002/0821johannesburg/foto.php
http://www.lanuovaecologia.it/pop-foto.php?ConId=3708&Ord=1&Tot=4




雨(ナムフォン)  スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳





雨(ナムフォン)は空からやってくる
涙(ナムター)はどこからくる
情(ナムヂャイ)が瞳と触れるあう
涙(ナムター)はだからこころからやってくる


きみの夢が潰えたとき
世界もそこで終わる
心臓が止まったと同じこと


夢にむかってひたむきに生きる
万重の山々は青く険しいけれど
遮ることはできない
歩く 歩く 歩く
紅い太陽のもとはるばる旅をした
こころは太陽の剛さ
人はみな 手があり足がある
心臓があり知能がある
悪があり善がある
意図した意味がある
人としての道がある
人 人 人
全身で人 であれ
頭のてっぺんから足の爪先まで人であれ


夢を止める
誰も止めることはできない
世界はばかげたところ
こころは現実とは違う
誰でもわかる
考えてみればわかる
しあわせだったり
苦しみだったり
熱かったり
冷たかったり
世界ってこんなものさ
こんなもの


5月になって雨季にはいり毎日スコールがやってきて熱気を飛ばしてくれて気持ちいい、と昨日会ったタイの友が言っていました。この歌は1997年のアルバムにあるものです。こんな季節に書いたものでしょうか。スラチャイがシーブラパー賞という文学賞を受賞したというグッドニュースがはいってきました。来月はそれについてご報告します。(荘司)




アジアのごはん(11)パクチーと海南鶏飯  森下ヒバリ





夏の気配がしてはいるのだが、まだ物陰に隠れてあっちを向いたりこっちを向いたりしている。少し出てきては、引き返す。そんな、もどかしい季節。夏が好きなわたしとしては、さっさときっぱり夏になってほしい毎日だが。

こんな季節には、夏っぽい料理を楽しむに限る。パクチーが食べたくなる。タイ語で「パクチー」と呼ぶ個性的な香りのこのハーブ、中国語では香菜(シャンツァイ)、英語ではコリアンダー、日本語ではこえんどろ。日本に入ってきたのは戦国時代とか江戸時代初めというから、じつはけっこう昔からあるハーブだったのだ。もっとも、現在のように、ちょっとしたスーパーなどでも売るようになったのは本当にここ数年のことだろう。

種を播けば、日本でも2週間ほどで芽が出る。春に播くとおいしそうな葉っぱが出てきたな、と思うまもなく蕾がつき、白くて可愛らしい花がすぐに咲く。花芽が出るといつのまにか葉っぱは細くおいしくなくなってしまう。バジルと同じく十分暖かくなってから播くか、夏の終りに播くのがいいだろう。種は手のひらで揉んで、二つに割って播くと早く芽が出る。

種は、オレンジのような香りがして、カレーのスパイスやピクルスなどに使われる。ヨーロッパやインドでは種の方がよく使われて、葉っぱは「悪臭」扱いの国も多い。日本人も初めは「カメムシの臭い」と思う人がほとんどかもしれない。いや、いまや「カメムシの臭い」なんて知らない人のほうが都市部では多いかも。「この虫、香菜の匂いがするわ〜」なんて……。

かつては、わたしもパクチーの葉っぱが苦手で、よけて食べていたのだが、初めてタイに行ったときパクチーを添えられた料理を食べるとウソのように喉を通っていき、しかも料理とのバランスが絶妙であることを一回で体得してしまった。以来、パクチーを大好きになった。もっともわたしがパクチーを苦手としていたのは、パクチー初体験が南米で食べた、ごはんが緑色になるまでパクチーを思いっきり混ぜて炊いたアロス・コンポーヨ(鶏の炊き込みごはん)で、過激な量を口にせざるを得なかったことにあるかもしれない。

種を一時に播いたのでぜんぶいっせいに大きくなって食べきれないから、と、パクチーを沢山もらったときに思いついた簡単パクチー料理がある。きゅうりを乱切りにして、パクチーの刻んだのをたっぷり混ぜ、ナムプラーのドレッシングで和えるだけ。すっごく簡単だけど、とてもおいしいので、ぜひ作ってみてください。暑い夏の夕方、ビールのつまみにぴったり。

*きゅうりのパクチー和え
材料:きゅうり2本、パクチー一株、ナムプラー、さとう、レモン汁、粉トウガラシ

きゅうりは縞に皮をむく。乱切りにする。パクチーは好みの量を洗って水気を切り、ざくざく刻む。なるべく葉っぱの部分。ナムプラーのドレッシングを作る。ドレッシングの割合は目安として、ナムプラー大匙1、レモン汁(夏みかんなどの汁でもいい。その場合は沢山入れる)大匙1、さとう大匙半分ぐらいで、好みで加減。粉トウガラシを好きなだけ混ぜ合わせる。少し水を入れても。このドレッシングできゅうりとパクチーをよく和えて、冷蔵庫で15分から30分くらい寝かせて、味がきゅうりにしみこめばできあがり。

このナムプラーのドレッシングは、サラダなどに隠し味でちょっと加えるとおいしい。茹でイカ、たまねぎ、トマトと合わせてタイ料理のヤムを簡単に作ることも出来る。この場合、仕上げにパクチーをひとつかみ混ぜると完璧。セロリとさきイカを合わせてこのドレッシングで和えてもおいしい。

パクチーと合わせると完璧なまとまりになる、という料理に、タイはもちろんシンガポールや南中国でもよく食べられている「海南鶏飯」がある。もともと中国南部の料理で、タイには華僑が持ち込んだのだが、タイ人もみんな大好物だ。タイ語では「カウ・マン・ガイ」といい、鶏肉の脂とスープを入れて炊いたごはんの上に蒸し鶏をのせ、タレをかけて食べる料理である。鶏のスープがついてくる。このスープにパクチーを浮かし、鶏肉の上にもパクチーをのせて、一緒に食べると大変おいしいい。

ところが、最近、バンコクではこの「海南鶏飯」の上にパクチーをのせなくなってきた。以前からのせない店も少しはあったのだが、いまやパクチーをのせる店のほうが断然少ない。わたしの定宿のある、プラトゥーナム界隈ではのせる店は皆無。なぜ? 地方に行けば、ほとんどの店で、鶏肉の上にコントラストも美しく緑色のパクチーがたっぷりのせられているというのに。バンコクの「カウ・マン・ガイ」業界に何が起こったのか。

プラトゥーナムというのは、バンコクの真ん中辺り、大きな衣料品市場と伊勢丹デパートがある地域で、センセープ運河沿いにある。ここには有名な「カウ・マン・ガイ」屋さんがあって、いつも混み合っている。ピンクのシャツを着た従業員が20人ぐらい働いている活気のある店だ。確かになかなかおいしい。しかし、ここもパクチー無し主義である。この店は20年近く前から知っているが、初めから一貫してパクチー無し主義であった。

10年ぐらい前まで定宿にしていたソイ・モーリンという路地の入り口に、当時とてもおいしい鶏飯店があったので、わざわざ有名店まで行く必要もなかった。ソイ・モーリンの店は小さな店で、おっとりとしたおばさんがのんびりとやっていたが、有名店よりもずっとおいしかったのだ。もちろんパクチーはのせる主義。

しかし、夕方からその店の道を挟んで向かいの広場に店を出す屋台のごはん屋のおばさんが、その店の人気を妬んだのか、店の権利を自分に売るよう、執拗に鶏飯屋のおばさんにつきまとい始めた。ごはん屋のおばさんは、外国人には必ず高い値段をふっかけるので、界隈の旅行者の嫌われ者だった。味はまあまあだが、目つきのこわい中国系のおばさんは、いつも何かに文句をつけ、怒ってばかりいた。そして本当に強欲そうな顔つきをしている。欲望というのは顔つきに出てしまう、という見本のような顔なのだ。

けっきょく強欲おばさんは、鶏飯屋の買収に成功して、居抜きで強欲おばさんの妹らしいおばさんが鶏飯屋をやりはじめた。あの、かつてのおいしい鶏飯は、パサパサのうまみのない鶏肉ののったただのごはんに成り下がった。強欲おばさんは、以前のように客足が伸びないので、いつも不満そうに店に座っていた。当たり前だ。あのおいしい鶏飯屋を返してくれ〜。


日本に帰り、数ヵ月後に再びバンコクを訪れたときには、ソイ・モーリンの入り口は高速道路の建築で、鶏飯屋も強欲おばさんの屋台もすべて更地になっていた。あれから、おっとりおばさんの鶏飯「カウ・マン・ガイ」を越える鶏飯に未だ、出会っていない。




製本、かい摘まみましては(19)  四釜裕子




旅先で予定外に竹中英太郎記念館(甲府)に立ち寄った。英太郎といえば、江戸川乱歩や横溝正史の挿絵、あとは、筑摩文庫の夢野久作全集(1992)の表紙絵くらいしかわたしは知らなかったのだが、この日たまたまご一緒していた中島かほるさんがおすすめくださったので、湯村の町をうろうろ探した。筑摩の夢野久作全集は中島さんの装丁、わたしが特に印象に残っているのは、黒地に真っ白な脚と蝶のようなものが怪しく卍型風に描かれた表紙だ。それまで古本でわずかにみていた英太郎の絵とはテイストが違うがそれを不自然に感じることもなかったが、実は30有余年、英太郎は画業を離れており、再び本格的に絵筆を握ったのは長男・労さんのすすめによるものだったらしい。

再開後の色彩豊かな作品は労さんが保管し、散逸を防ぐよう遺言を残して亡くなって(1991)からしばらくは美術館などで保管してきたが、次女の紫(ゆかり)さんが住居の隣にあったアトリエを改装して、父・英太郎と兄・労の作品を展示収蔵する記念館として2004年にオープンさせた。それ以前に描いた作品については、原画の一部は博文館の関係者から館に寄せられたそうだが、多くは散逸したらしい。また英太郎が、画業を離れたのちに営んだ鉄工場が廃止命令を受けたとき(1942)、自分の挿絵が載っている雑誌などを場内に積み上げて火を放ったそうだから、竹中家にはほとんど残っていないのだろう。

竹中労編による英太郎作品集『百怪、我ガ腸(ハラワタ)ニ入ル』(1990)を古本屋で探す前に、英太郎生誕百年(1906-1988)を記してまとめられた『美は乱調にあり、生は無頼にあり』(2006 批評社)を読む。甲府に移り住んだ英太郎が、のちに政治評論を連載した「新山梨」という月刊誌を編集発行(1982〜1993)していた備仲臣道さんの本だ。やや演出過剰な言い回しが気になるが、おもしろい。山名文夫との出会いの場面はこうだ。

大杉栄らの死を知った若き英太郎は「いまこそテロリストとして立つのだ」と熊本から上京する。同郷人が集まる東京・下落合に身を寄せ縁故をたどるうちに、ガリ版刷りの経験がいきてプラトン社の「苦楽」編集長・西口紫溟に紹介される。「妖気に満ち満ち」(西口)た絵が気に入られ、美術担当の山名文夫に引き合わされた。山名は『体験的デザイン史』にこう書いている。


  新聞や雑誌の小説のさしえは、明治から大正の初めにかけては、薄い
  和紙に毛筆で描いた原画を版下にして、木版に彫ったものである。...
  ところが、竹中英太郎の原画は、線画の部分があり、濃淡の部分があ
  り、従来の、凸版とアミ版のどちらで製版しても、原画の調子が出な
  いのである。...いわば、ハイライト版をさしえに導入して、自由な表
  現を可能にしたのが竹中英太郎であった。(p39)


「われわれは啓発され」、細い線やぼかしを併用したり絵と写真をモンタージュしたりといった挿絵の技術が、急速に開けた、というのだ。

今年4月、東京大学大学院情報学環が、 第一次世界大戦期プロパガンダ・ポスター・コレクション662枚をデジタル・アーカイブ化して公開するにあたり、印刷技術について調査したという記事を思い出した。石版を主体にした「平版」が約6割だったというが、石版による印刷を体験的に知るひとが今では極めて少なく、調査は難航したらしい。

戦時下にあって北欧からの用紙やドイツからのインキが途絶えながら、アメリカの五大湖周辺から東部にかけての技術は高く保持され、1910年前後には「HBプロセス」という「階調のあるカラー写真の分解と、殖版の新しい技術を応用した印刷のシステム」(同ウェブサイトより)も見られたそうだ。ポスターの持つ役割がいかに重視されていたかがうかがえる。求められて、技術は進む。

ところで「HBプロセス」とはなんだろう。アメリカで写真製版法の特許をとったウイリアム・ヒューブナーとブライシュタインの頭文字のHとBからとった呼称で、日本では1919年、大阪の市田オフセット印刷株式会社で最初に行われたようだ。以来湿板レタッチの技術として40年間続いたこと、その手法の様々、職人芸としてのレタッチは絶滅したことなどが、日本印刷技術協会のウェブサイトにあったが、むむ、よくわからない。ともあれ、求められて進んだ技術はやがて機械になりかわる。だがなにもかもことごとく、人の動きの再現なのだ。




銀線──翠の虱(20)  藤井貞和




古代緑青で、
屋根を葺くときの、
ちいさな願いごと。


こんじきひめにも、
銀のおしめんさまにも、
きっとできないはずのこと。


なめくじは考える、
「ぼくにできるしかた、
方法。
つまり這々の体。」


這いながら、
のたうって、
銀線を銅屋根のうえに。


(「ぼくは這い回るしかできないのでは」。というわけで、蛞蝓の這ったあとを、何と言ったか、ちゃんとことばがあるはずですが、銀線と言ってたひとがいた〈何かの作品?〉ので、前回のつづき〈蛞蝓線と言ったかもしれない〉。じょうずに早く古代緑青で銅屋根を蔽う科学着色法。)



砂漠のゴール 佐藤真紀




水牛の3月号に、お芝居の話を書いた。
永井愛さん脚本・演出の「やわらかい服を着て」が好評だ。
私の提案した、赤鉛筆おやじもちゃんと登場させてくれたのがうれしい。子どものころ近所に競輪場があって、オフのときは自転車で中に入って遊んでいた。赤鉛筆が落ちているので喜んで拾っていたころを思い出すが、日本もそれほど貧しかった。折角なので、初日のお芝居を見てからヨルダンに行こうと思い、一日出発を遅らせたが、なんやかんやと永井さんに付き合うことになり、おかげで、ロビーにイラクの子どもの絵を飾らせてもらったり、本やメッセージカードもご好意で売らせていただけることになり、準備が大変。稽古にも何度か付き合ったので出発前がどたばたしてしまった。その成果もあり、NGOの表現部分は、かなりリアルに出来上がっている。この内容のお芝居が、国立劇場で、言ってみれば、国の企画で上演できるわけだから、まだまだ日本は、捨てたもんじゃないなと思い、うれしくなった。

という訳で、日本に後ろ髪を引かれながら、なんとなく気が進まず、ヨルダンに出発することになったが、なんと今度はワールド・カップで席がないという。大体6月はシーズンオフなので、すいているんじゃないかと思っていたのが甘かった。しかし、なんとエコノミーが満席になったので、席をビジネスにしてもらえることになった。11時間以上も乗っているので、これはありがたい。僕は、普段はあまりサッカーなど関心ないのだが、ワールドカップ様、様だ。

イラクの子どもたちもサッカーは大好き。イラクは、結構強くて1986年のメキシコ大会に出場している。もし今回ワールドカップに出場できたら、イラク人はみんな、スンナもシーアも、クルドも関係なく盛り上がって一気に治安も安定なんて事になっていたかもしれない。たかがサッカーだが、どんな政治力よりも平和を作る力がある。かつては、アラブの復興、統一、社会主義を掲げたバース主義というイデオロギーと、サダムという恐怖が、イラクという他民族国家を一つにまとめていた。今はそれがなくなってしまったから、イラクが何なのか、混迷を続けている。日本との関係で言えば、1994年の「ドーハの悲劇」が有名。サッカーファンにとって見れば憎きイラク。どうせ、この時期、イラクの支援を訴えたところで、「なんでやねん」と言うことにしかならない。

そこで、どうせなら、サッカーとイラク人を結びつけて、今月も支援を続けようと「砂漠のゴール」作戦を考え付いたのである。いかにイラクのがんの子どもたちもワールドカップを楽しみにしているか。TV観戦するにも、きちんと薬があって治療を続けなければならない。残念なことに、イラク政府が供給していた薬ですら最近イラク国内で手に入らなくなっているというのだ。武装勢力とかテロリストとか、アメリカ軍もみんなワールドカップに熱中している間に、薬を病院に運び込むという作戦。薬局のおやじに作戦を説明していると、白血病の息子の治療のためにヨルダンに来ているムハンマッド少年の父親が薬を調達にやってきた。

イラクの子どもたちがいかにサッカーに熱中しているか早速聞いてみた。
「ヨルダンは物価が高くて大変だ。かといって、イラクには戻れないよ。私の住んでいる地域はスンナ派が多いので、米軍やイラク警察がやってくる。攻撃してくることもしょっちゅうだ。」実際、彼の家は、一月に空爆されたので、一家を連れてアンマンに出てきた。
「サッカーだって! 俺は、この年で、サッカーなんかやらないよ。農家の親父だから、もともとあんまり興味もないけど。そんな暇があったら鶏の世話をする」
「あなたのことはいいです。ムハンマッド君はどうなんです?」
「もちろんムハンマッドはサッカーが大好きだけど、今は、化学療法で強い薬を使っているからそれどころではないよ。いつも疲れているから」
「ムハンマドは、TVでサッカーを見ますか」
「テレビだって! この間は、がんのドラマをやってたさ、主人公が死んじゃうんだよ。ムハンマドはそれを見て、『自分は死んじゃうんだ』って泣き出しちゃったのだ。だからTVは見せない。プレイステーションを買ってやったんだが、この間はかんしゃくを起こして、壊してしまった。」
「ワールドカップが始まれば、どこのチャンネルも中継するでしょうから、そういうドラマはやらないでしょう。私は2002年から2003年にかけてよくイラクへ行きましたけど、カフェとかじゃ、サダムの出てくるTVより、みんなサッカー見てましたよ。」
「イラクではサダムが、毎日TVに出てくる。俺の友達は、TVにサダムの写真を貼って、『これならスイッチを入れなくてもTVを見ているのと同じだ』といって喜んでいたよ」といって大笑いしている。
話がどんどん違うほうへ行き、ムハンマッド君がどれくらいワールドカップを楽しみにしているかということは、結局わからなかった。「砂漠のゴール」作戦を説明したが
「何を言っているんだ、俺は、農民だ。鶏の話なら得意だが、そういうややこしい話はいいよ。」とはぐらかされてしまった。

ところで、ヨルダンとドイツの時差は一時間。ここにいると、夜明かしをしなくてもTV中継を見ることができる。サッカーの勉強を今のうちにしておこうと事務所で早速TVのスイッチをひねってみたが、ふんともすんともいわない。TVが壊れているのだ。うーん、この際、TVを買うか?


●「やわらかい服をきて」は6月11日まで 詳しくは
  http://www.nntt.jac.go.jp/season/updata/10000103.html
●「砂漠のゴール」作戦はhttp://www.jim-net.net/ 参照 




5月  木島希里




5月、がやがやは、なんども集まった。28日に、港大尋さんのライブに出演するため。

6日
港さん作「とおみのうた」から「なまえ」と「みどり」を歌う。
「みどり」の歌のいちばん好きなところは、最後のところ。
 みどら みどり みどる みどれ みどろ
 みだら みどり みどる みどれ みだろ
 まどり みどり むどり めどり もどり
 みどり みどり みどり みどり みどり
 みどり もえる

昨日、家でお風呂に入りながら、「みどら・みどり・みどる・・」と歌っていたら、お風呂のお湯に緑色の絵の具が混ざって、いろんなみどりががぐにゅーと溶けあっていった。いろんな「みどり」がまぜこぜになるには、どうしたらいいのか、みんなと相談する。スキップみどり、お経みどり、おばけみどり、絶叫のみどり、四色のみどりができた。

14日
今日は港さんはお休み。花崎攝 さんがきた。
「雨の音楽」という歌の主人公は「雨」と「太鼓」、この二つが答えとなるなぞなぞを考えた。
踊れ、といわれても、踊れない。音がなったからといって、動けない。とりあえず、そばにいる人の立ってりう格好、しゃがんでいる姿勢を真似してみよう。

20日
今日は、区内作業所の合同運動会だ。炎天下の運動会に参加してきた人たちが、真っ赤に日焼けした顔で遅れて登場。疲れているだろうと思い、少し休憩したほうがいいんじゃない?と声をかける。が、T君が「う・た・い・たいー」と歌いあげた。

お経みどりグループは昨日、自主的に集まったという。ペットボトルに折り紙を巻いて木魚をつくってきた。練習もしたという。すらすら暗記した「みどり」のお経を唱える。

21日
「てぃだ」は、恋の歌。
 悩ましい 狂おしい わたしはわたしをもてあます
 悩ましい 狂おしい わたしはわたしをもてあます(詩 加藤直 曲 港大尋)

がやがやには、目下のところ、恋人が二組いる。この歌が始まると、この二組、いつもにもましてぴったりと抱き合い、恋の世界にいっきにころげ落ちていく。
じゃあ、この曲の間奏のところはデートの場面にしようよ。わたしがそう言うと、いつも人目を気にすることなくべたべたしているくせに、恥ずかしいからいやだと一蹴される。面白いもんだ。

最後に、初めて「ぶつぶつ歌」を歌う。
港さんがブルース・ギターにのせて、文句をぶつぶつ言い始める。「この前、自動車税の請求書がきて――ブツブツ・ブツブツ」すると学生兼介護職の仕事をしながら、幼いこどもを育てている一人が日ごろのうっぷんをいっきに語りだす。「この前さあ、母の日だったのにー、旦那が明け方前から釣りに行って、夜遅くまで帰ってこないでサー、少しはさあ、いたわりのことばをかけてもらえるかと思っていたらこれだもんね」彼女のいきおいに引っ張られ、次々とみんなが自分のぶつぶつをつぶやく。

知らないうちにわたしたちは、今、自分たちが歌のなかでつぶやいていることを忘れていた。港さんがそばでギターを弾いていることを、忘れていた。となりの人の話に耳を傾け、向かいがわにすわる人の身振りを見やり、みんながぶつぶつと歌っていた。大きな身振りで、なにやらえんえんと訴えている人、港さんに背中を向け顔をくっつけあって話し込む人たち、みんなの様子ににやにやと笑う人、いろんな声が重なりあいギターの音といっしょに渦巻いた。その響きは、いつまでもいつまでも消えることがなかった。

27日リハーサル、28日本番
二日続けて、がやがやメンバー14人とともに、地下鉄でシアターイワトまで。待ち合わせ、トイレ、乗車、乗り換え、到着。そのたびごとに、人数を確認。逃亡者なし。

本番の「ぶつぶつ歌」は、一週間前とはまったくちがう歌になった。100人近い、見知らぬ人に囲まれたわたしたちは、ブツブツを声にだすことができぬまま、ギターの音に耳を傾けていた。すると、ふいに19歳のK君が客席をみて、弟さんの名前を呼びかけてから、こう命じた。
「立って」
中学生ぐらいの男の子が、すっと立ち上がった。すると観客が拍手をした。
K君はさらにつづけた。「お母さんは保母さん、お母さん立って」
弟さんの隣に座っていたお母さんは、顔の前で「いいです」と手をふり、立とうとしなかった。家族が観に来てくれたことをよろこぶK君に、今、ぶつぶつ歌が歌えるわけがないのだ。

一週間前、勉強しろとうるさい親の文句をぶつぶつ言った高校生は、「ここでは言いません」と港さんの誘いにのろうとしなかった。しばらくそんなことをつづけるうち、しっかり者のYさんが告げた。
「もう、いいよ」

ほかのどこにもない、今ここにいるわたしたちの歌がそこにあった。とわたしは思う。




反システム音楽論断片1  高橋悠治




糸(threads)として
声の場 リズムと身体 音色と空間 自律と相互調整 口と耳の交換 隙間とずれ ゆりくずす システムを作らない抵抗 こころみのプロセス さまよう 息 ゆるめる かぞえないで感じる など 思いつくまま

まずは 声の場

がやがや 音にかこまれていると ほっとする

みんなの声 みんなちがう声が 同時にちがうことばをしゃべっている それがだんだんに静まったとき 合意が成立している 合意は沈黙 理解は沈黙 異議は ちがいは声になる のか

それぞれにちがう声 声のあいまに別な声 折り畳まれた同時発声の空間から 余白の多い奥行きのある空間へ 聞くための沈黙 会話の空間 平等な空間

聞こえるから声がある 二つで一つ 声があるから音がある 一つは 内側に折り畳まれた二つ 

聞き分ける三つから七つのちがい 仲間のまとまり

声がきこえないとき きこえる高い音 耳が発振している それ自体細かく振動している鼓膜が 他の音の振動すべてをはこぶ 

聞こえる音は 声として聞こえている 聞きなし(patterned listening) 口でとなえられる音声だけが 音として聞こえる 聞こえる音の範囲が 人間の世界の限界になる 口と耳の交換

楽器の音色を声であらわす リズムを数えたり 記号であらわさず 口でとなえる 間の時間

今日はここまで




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