2006年7月 目次


アジアのごはん(12)ドクダミマイラブ   森下ヒバリ
製本、かい摘まみましては(20)       四釜裕子
団体活動室                  小島希里
風景が変わること               冨岡三智
しもた屋之噺(55)             杉山洋一
道楽性ということ                大野晋
しらいし──翠の虱(21)          藤井貞和
ワールドカップと子どもたち          佐藤真紀
反システム音楽論断片2             高橋悠治
  


アジアのごはん(12)ドクダミマイラブ  森下ヒバリ




ドクダミの花がことのほか好きだ。梅雨になると花芽が膨らむのを毎日待ち、咲き始めの一輪、二輪を見つけると、大事にもらって、小さな器に生けて楽しみ、いっせいに咲き始めると庭の整理もかねて刈り取り、大きな花瓶に生ける。

この季節、家の中にはそこら中にドクダミの花が生けてあり、アパートの前庭にはドクダミが蔓延って花畑のようだ。もともと、ここに越してきたときに、庭にドクダミは生えていなかった。散歩のたびに道端で摘んでいたのだが、一応、京都の市街地なのであまり沢山は摘めない。不衛生な場合もある。それで、あるとき、根ごと引っこ抜いて2本ほど植えてみたら、すぐに生い茂ってしまった。これはいい。おそらく、アパートの隣人はあまり快く思っていないだろうが、わたしはこの季節、たいへん幸せなのだ。

花が次々に咲く頃はいくら花瓶に生けても限界があり、ほっておくとものすごい勢いで隣の敷地にまで繁殖するので、やはり刈り取ることになる。刈り取ったものは洗って日陰に干しておく。かりかりに乾くとドクダミのお茶になるので、これまたうれしい。

白い花とハート型の葉っぱのコントラストもかわいい。日陰の花だのトイレの横に生える花だの、汚い・暗いイメージが一般的であるのが可哀想でならない。おそらくドクダミ茶が好きな人なら、ドクダミの花や葉っぱも好きな人が多いのではないか。それまであまり好ましいイメージがなくても、おいしいお茶の原料と思えば愛しくもなる。

白い花びらのようなものは萼で、その真ん中にしゅっと棒のように立っているのが花の塊なのだが、この花はあまり役立っているようには見えない。ドクダミは、種よりも地下茎を伸ばしてそこから分かれてどんどん芽を出して増えるからだ。移植は簡単で、根っこのついた地下茎の部分を土に埋めてやればいい。葉っぱや花、地上茎などはない方がつきやすい。日当たりのあまり良くない陰地のほうがよく茂る。

このように、ドクダミ好きなわたしでも、さすがにドクダミを食べようとまでは思わない。しかし、アジアの国々には、このドクダミを生で食べてしまうところがあるのだ。ベトナムの市場の野菜売り場では、いつも葉っぱがどさっと束ねて売られているし、ベトナムの米麺フォーに入れる生ハーブ(ほとんど野草)の付け合せの皿にも必ず入っている。

「ドクダミの葉っぱを生で食べるのかあ・・」
ハーブの盛ってある皿の中にドクダミの葉っぱを見つけて、思わず顔をしかめた。ドクダミの葉っぱは、ご存知のようにちょっと独特の匂いがあり、茎を切ったりするとねばねばした液が出て、これも臭い。できものに貼るのはいいが、あまり口に入れたくなるような匂いではない。

しかし、ベトナムに限らず、ラオスでもタイでも、ほとんど野草のようなハーブを汁麺に入れたり、肉料理の付け合せに生でかじったりする。おいしいものもあるが、なぜこれをわざわざ食べるの? と悩むほど渋かったり、エグかったりするハーブもたくさんある。何度か食べているうちに好きになる場合もある。意外においしいのかも・・。

思い切ってベトナム麺のフォーにバジルやミントと一緒にドクダミを入れて食べてみた。思ったよりエグミはない。たしかにドクダミの匂いもするが、どうやらエグミや匂いは日本のものよりずいぶん少ないようだ。しかし、すごくおいしい、というわけでもない。

慣れると好ましくなるかもと思い、ベトナムでは食堂などで出てくるたびに必ず食べてみた。その結果、なくてはならぬ感じにはやはりならず、日本でドクダミの柔らかそうなのをみつけて食べようとする・・にはまったく至らなかった。もちろん、日本に戻ってから比較のために葉っぱを口に入れてみたが、エグくて、すぐに吐き出してしまった。ベトナムのドクダミは日本のものよりソフトな栽培種なのかもしれない。

中国・雲南省の南部、タイ族の住む西双版納。中国語では訛って「しーさんぱんなー」と呼ぶが、タイ語では「シップソン・パンナー」。12の千枚田、という意味で、12の行政区が集まっている連合国の意味である。12というのは、正確な数ではなく、年回りの吉兆の数字であろう。

明朝以来、大なり小なり中国の支配下にあったものの、タイ族の国シップソン・パンナーが西双版納泰族自治州として中国の一部に組み込まれてしまったのは、チベットと同じく現在の共産中国になってからだ。この西双版納の州都・景洪は、ヤシの木が街路樹の明るい亜熱帯の町である。食事もおいしい。

宿の近くの米麺の米線(ミーシェン)屋さんでは、注文すると店の人がどんぶりに麺を盛り、汁をかけてくれる。それから自分で店の真ん中に置いてある各種の生の薬味と調味料を好きなだけ入れて食べる。赤い生トウガラシのすり潰し、香菜パクチー、にんにくみじん切り、分葱、粉トウガラシ油漬け、塩、砂糖、味の素、醤油などが並ぶ。

「これ、何かなあ?」
「なんか、ツクシみたい・・」
「ツクシにしちゃ、固いよ」
どんぶりに盛られている薬味のひとつは、これまで見たことのないものであった。3〜4センチの長さに切りそろえられた細長いものは、まるでハカマと頭を取った後の肌色のつくしのよう。口に入れると、生のそれはしゃきしゃきと歯ごたえがあり、摩訶不思議な味と香りがする。細いごぼうのような舌触り。
「う〜ん、どこかで記憶にある味と匂いなんだけど・・」

ものすごくおいしい、というわけではないが、不思議な香りが気に入り、いつも汁麺に入れて食べていた。あるとき、西双版納の小さな町のかなり大きな市場で、その謎の野菜の姿を目にしたとき、わたしははっと気がついた。パクチーなどの香味野菜と一緒に大量に売られていたそれは、20〜30センチの長さがあり、節のようなところにかすかに根っこがついている。束になっているそれを、鼻に近づけくんくんと嗅いでみる。間違いない。
「ドクダミの根っこだ〜!」

正確に言うと、ドクダミの地下茎である。これだけを、和え物にして食べたりもするという。疲れたときや、体調の悪いときには元気の出る野菜なのだそうだ。ちなみに西双版納では葉っぱの方は食べない。日本に戻って、ドクダミを引っこ抜いてその地下茎を口にしてみた。やっぱり、固すぎて、アクが強い。しかし、臭くはない。畑でドクダミを作ってやれば、もっと柔らかい地下茎に育つかもしれない。う〜む、ドクダミの地下茎サラダ、いかがです?




製本、かい摘まみましては(20)  四釜裕子





布素材に加えて革も扱うようになった鞄作家のxixiangのアトリエに出かけた。革用のミシンや革漉き機が揃い、専用の小道具も作業台にひろげられている。部屋全体が白っぽいのに、そこだけ黒っぽいというか茶色っぽいというか、ワイルドである。包丁の数がめっぽう多い。刃先はどれもまっすぐで、様々な大きさがある。革は上からまっすぐ包丁を下ろして「一発押し切り」(と言うか知らないが)するらしいから、型紙通りに断裁するには、いろいろな幅の包丁が必要になるのだろう。刃の磨耗も激しそうだ。どうしてんの? と聞いたら、「自分で研ぐのよ」。見ればキッチンに、砥石が整然と並んでいる。

悪夢が甦る。私のルリユール修行は革の扱いで挫けた。紙のうえでデザインしたものを革で実現するための、無限にも思える革漉き。(革漉きをマスターするためにルリユールを習いにきたのではない)と、何度も思った。それは「革装」の現実を知らなかったがゆえの思いあがりにすぎないのだけれど、最初から上等な革で上等に仕上げたいわけではないのだし、革の扱いが苦手なひとなりに革装を楽しむすべが与えられないのが息苦しかった。私の場合はとにかく刃物の扱いが決定的に下手。パンナイフで左親指をそぎ切るくらいだから。

製本で使う革包丁には、革の裏面の軟らかい部分を漉くための、幅50ミリ程度で刃先がゆるやかな弧状を描いたものがある。全体の均一の漉きは漉き屋さんにお願いして、本の背や折り返し部分を漉くのに使う。デザインにあわせて色・素材とりどりの革を組み合わせる作業(モザイク)には、幅15〜20ミリ程度で刃先が斜めのナイフと、医療用の小さなメスを使う。包丁やナイフは、作業しながら常に革砥で刃先を整え、切れ味鈍れば研ぎ屋さんに出す。メスの刃先は使い捨てる。ささやかな革漉き体験しかないので、研ぎ屋さんに出したことも、使い捨てたこともない。

革細工のための包丁というくくりでいえば両者は仲間だが、鞄と本、それぞれを革で作るための手足の不足を補うためにうまれた「もの」として見ると、結果的に似たようなかたちになっただけである。目的に寄り添う道具のなりわいが好ましい。

鞄でも本でも、作る道具には、包丁や目打ちや縫い針など、むき出しでは危ない道具がたくさんある。xixiangは革でケースを作り、持ち運びにも便利なようにまとめていた。奇妙な形をした道具がいずれもきれいに収まって、紐やらマグネットやらで愉快かつ実用的に結束されている。正確な採寸と設計がいかにだいじかがうかがえる。よくやるねえ。収納されている道具はハードだが、xixiangの手になるケースはどこか洋裁の香りがする。細部厳密、俯瞰で柔らかい。これはもうオブジェです。道具として使いこなすことは私にはできないが、ケースごと欲しいと思ったもの。

道具を手にすることの楽しみは、実際に使うのと別のものもある。趣味で製本するのに500ミリ立方大の卓上プレス機を巴屋から購入したときも、実用性なんて自分への言い訳にすぎず、ただ欲しかった。「自分へのご褒美」と、百万年の恥を覚悟してでも使ってみてもいいです。ところがその巴屋が、昨年11月に閉店してしまった。ちょうどその頃、まさにその卓上プレスを紹介して購入したひとから「最後のプレス機と言われた」と聞いていた。

「東京製本倶楽部」会報no.43によると、もともと刀工であった巴屋が鍛冶屋に転身したのは明治時代で、昭和11年頃に現在の東京・内神田に店を構えたようだ。製本道具としてはほかに、締め機、筋押し機、押切断裁機、作業台などを製作し、細かな注文や相談にも応じていた。需要に限りがあるなかで職人さんの高齢化も進み、やむなく閉店となったようだ。卓上プレス機や締め機については、部品の在庫がはけるまで、注文があれば制作すると聞いている。同会報の表紙にはこの卓上プレスの写真が配され、製本家や書籍修復家からの惜しむ声が寄せられていた。残念に思う。残念で終えず伝えたい。

他に欲しい製本道具のひとつに、かがり台がある。しかしこれはなくてもなんとかなるし、もしかしたら自分でも作れるかなと思うくらいシンプルな構造なので、値ごろ感とのかねあいが難しい。先月、山崎曜さんの『手で作る本』出版記念の展覧会会場に、かがり台があった。飾りではない。ご自分の製本教室で使うために設計したかがり台や手締め機を、バージョンアップして注文製作するという。かがりのための機能はもちろんのこと、コンパクトに美しく収納できるようデザインされていて好ましい。山崎さんがあまりにもうれしそうに説明してくださるので、えも言われぬ一抹の悔しさをおぼえつつ、注文した。もうそろそろ、届くはず。



団体活動室  小島希里





「指導者さんですよね?」
団体活動室でくじ引きの順番を待っていたら、隣に座っている女の人にきかれた。指導なんて、全然、してないんですよ、いっしょに遊んでるんっていうか、まあ雑用係というか・・、もごもご説明していたら、くじびき開始のベルがなった。

今日はついたち。月いちどの抽選会が行われる日だ。この障害者センターの部屋をつかって活動しているグループは、三ヶ月後に使う部屋を確保するためにこの抽選会に出席することになっている。小学校の教室、半分ぐらいの広さの団体活動室には、用意された椅子に座りきれないぐらいおおぜいの人が集まり、にぎやかだ。車椅子に乗ってきた若い男の人。手話で話すいろんな年代の男女のグループ。ご夫婦らしき、目のみえない年配の二人。でも圧倒的に、女の人が多い。それも、かなり年配の人たち。診療所の待合室のような、おしゃべりが聞こえてくる。「あっちもこっちもがたがきていて、会長なんて、とんでもないのに、ほかにやり手がいなくって」「ええええ、ほんとうに、こんなばあさんが・・」いえいえ、こんな風に出かけてくる用事がおありだから、そんなにお元気なんですよ。わたしも心のなかで、おしゃべりに加わった。どうやら、彼女たちは「親」の立場で活動を運営してきた人たちらしい。障害者本人でも親でもないわたしは、この部屋ではいちばんの少数派で、「指導者さん」という呼び名で括られている。

あるとき、用事があって団体活動室に寄ると、職員の人から声をかけられた。
「ねえねえ、がやがやさん、いつも通路のいすに座ってるカップル、がやがやさんのところの子たちよね。警備のおじさんが、いちゃいちゃしすぎだって言ってるんだけど、どう思う?」
わたしは、そうですか、でも、あの二人、あそこのいすぐらいしか、デートできるとこ、ないんでよねえ、とつぶやいた。するとその職員の人は、心からそう思うという感じで、そうだよねえ、と言った。そして「まあ、あそこで二人がパンツ脱ぎはじめたっていうんでもないんだもんね」と付け加えた。
思いがけない返答に、わたしが、この部屋の職員は公務員なんですか、ときくと、その職員さんは、とんでもない、と手をパタパタはためかせた。「病気で仕事やめちゃって、困ってたら、娘のつながりで、ここの仕事に推薦してくれたの、パートなのよ」

ナッノヨーンと、語尾がはずんで伸びた。わたしが笑うと、職員さんは話題をがらっと変えた。「がやがやさん、あなた、六本木ヒルズ行ったことある? 行ったほうがいいわよー、この辺歩いていても、どこに何があるのか、全部、わかってるでしょ。わたしなんか、目、つぶってたって、買い物できちゃうもん。だからね、六本木ヒルズに行って、お弁当買ってテラスみたいなとこで食べて、目が眩むようなたかーいもん見て、へーって驚いて帰ってくるの。それからねえ、これ」と机の引出しから、新聞の切り抜きを取り出した。「知ってる?ジュエリー・フェアー。半年に一回、有楽町の国際フォーラムでやるから、ともだちとぜったい行くの。一回手紙出したら、ずっと招待状がくるようになったから。うん百万もするような宝石見て、それから、喫茶コーナーというのがあるからそこでただのコーヒー飲んで、銀座をちょこっと観て、帰るの。それにねえ、ほら、これを全員にくれるのよ、ほら」彼女が、切り抜きの左端の写真を指差した。そこには、「ご来場者全員にプレゼント、銀製スリーストーンネックレス」という見出しとともに、ネックレスの写真がキラキラと印刷されていた。
「ほんとうに、もらえるんですか?」
「ほんとうよ、毎回行っているから、もう5種類もプレゼントのアクセサリー持ってるのよ。今度、持ってきて、見せてあげるわよ」

わたしが次の質問をする間もないうちに、職員さんはページをめくるように、ごくごくあたり前に次の章に話しを移した。「あのねえ、このあいだ風邪ひいたんだけど、そういうとき、わたし『死んじゃう、死んじゃう』って言うの。なんども『死んじゃう、死んじゃう』って聞こえるように。こどもって、お母さんはいつまでも生きているって思っちゃうから。あなたも調子が悪いときは、おおげさに大きな声で言ったほうがいいわよ、『死んじゃう死んじゃう』」

ここまできてやっと、わたしは気づいた。彼女は、障害者を家に抱える親の仲間として、わたしに生きる術を、息抜きの術を伝授してくれているのだ。

次の章は、どんな話なんだろう、身を乗りだしかけたら、どやどやと活動室に人が入ってきたので、わたしは本の表紙をしぶしぶ閉じるしかなかった。部屋の鍵を返しに来た人、部屋の鍵を借りに来た人たちが、いっきに列をつくった。わたしが「じゃあ、帰ります」と言って部屋を出て行こうとすると、彼女は部屋の貸し出しの手続きに追われながら、声をかけてくれた。「いつでも寄ってね」ヨッテネーという語尾が、また、弾んで伸びた。




風景が変わること  冨岡三智




ジャワ中部地震が起きてから1ヶ月が経った。私はまだ大きな地震に遭ったことがないから、被災について語る資格はないかも知れない。けれど、私自身の経験した小さな不幸について書いてみる。

最初の留学から帰国して間もなく、私は妹を亡くした。そのときになって初めて私は、今まで家族を亡くした人の気持ちを全然分かっていなかったのだと思わずにはいられなかった。私が留学している間に、私が舞踊を師事していたJ先生は夫を亡くし、P先生は父親を亡くしていた。私はお葬式に参列し、特に親しく師事していたJ先生の夫の年忌にはずっと参列していた。当時の私は私なりに先生達の悲しみに同情しながらも、ジャワ人は死を神の思し召しとしてあっけらかんと受け止めているように見える、などと感じたりしていた。私自身の身にそんなことが降りかかるまでは。

いかに第三者には気丈に見えていても、人の気持ちはそんなに簡単に割り切れるものではなく、いくら信仰心厚くとも(P先生はカトリック、J先生はイスラムを信仰している)、感じる悲しみの絶対量に違いはない、と今は思う。死をあっけらかんと受け止めているように見えていたのは、人生の不条理さをジャワの人々が心得ていて、それを受け止める心構えができていたからだと思う。そして逆に、当時の私には、そのことに気づくだけの感性がまだ備わっていなかった。

妹を亡くした後、私は舞踊の練習を1人で続けた。漠然と、ジャワ舞踊を手放してしまったら自分が崩壊してしまうような気がしていた。ガムランの曲を聴くだけでも胸が締めつけられて息苦しかったのに。なぜそんなにまでしてジャワ舞踊にしがみついていたかったのだろう。

「メナック・コンチャル」という舞踊曲がある。出陣する王子の雄雄しい姿の描写の後に、想いを寄せる姫の面影を追う王子の姿が描写される。曲の形式がそれまでのラドランからクタワンというゆったりとしたテンポに変わり、ボーカルが切々とした思いを歌い上げる。王子は今度の戦いで死ぬことを予期しているのだ。この作品のクタワンに移行する部分で、急に涙があふれてきた。死ぬことを予期した王子の激しいやるせなさが、急に私の胸にも突きあげてきたのだ。こんなことは、ジャワで練習していた時には一度としてなかったことだった。いくら作品のテーマや歌詞の意味を理解してはいても。また一度そんな風に聞こえてしまうと、もうそれ以外のようには聞こえてこなくなる。

妹が亡くなって1年半後、私は再びジャワに留学し、「カルノ・タンディン」という舞踊作品を習っていた。これは「マハーバーラタ」の中の物語の1つで、アルジュノとカルノという異父兄弟が敵味方に分かれて戦い、最後にはカルノが敗れる様を描いている。この曲には2人が離れていったかと思うと、向きを変えて近づいてくる、という振付が何度か出てくる。その向きを変えた時に歌が入ってくるのだが、そこで、カルノとアルジュノが自分と妹にダブって「もう2度と会えない」という気持ちがよぎったり、もう時間を元には戻せないと感じて、そのたびにいつも涙が止まらなかった。けれど、その箇所でそんな思いがこみ上げてくるということは、いくら作品を分析しても出てこないに違いない。この演目は重い演目で、上演される時にはお供えが必ず用意される、ということをいくら知っていても、それはやはり頭の先の理解にとどまっていて、お供えを用意せずにはいられない心の内をわかったことにはならない。

昨日の続きの今日があって、そして明日に続いていくという世界が破綻したとき、それまで見ていた風景は一瞬にして変わる。いくら被災地の映像を見、同情の念をもよおしても、この風景が変わらなければ被災者の気持ちには達し得ない、と思う(私は救援活動に携わる人々を批判しているのではない)。そしてまた芸術というのは、たぶん、それまでの安定した世界が破綻しようとするときにこそ見えてくるもののような気がする。





しもた屋之噺(55)  杉山洋一






6月も下旬に入ると、ミラノの陽気は途端に蒸暑くなり、数日毎に石畳を叩きつけるスコールを待ちわびる日々が続きます。

ポリターノのためのスブコントラバス・ペッツォルドリコーダーとヴァイオリンの作品や多治見の童声合唱などを書きつつ、ロスで演奏するドナトーニやカザーレ、ロミテルリ、ソルビアティ、ジュネーブで録音予定のジェルヴァゾーニやミラノで演奏するランツァ、レッジョ・エミリアでイヴェントが組まれるリッカルド・ノーヴァやローディで初演するヴァリーニなど、赤ん坊の駆け回る狭い家で、逃げまどいつつ譜面を広げています。勢い、どうしても子供を寝かしつけてから本格的に仕事するので、睡眠時間が極端に減り、暫くはメヌエルの症状に悩まされて偉い目にあいましたが、それはともかくイタリア人の譜面ばかりをこんなに読むのも久しぶりで、特に初めて一緒に仕事をするランツァの玩具の楽器を使う発想や、何年もインドで学んだターラと、ディスコ・ミュージックを手がけ培ったテクノの知識をアッサンブラージュするリッカルドの着眼点は興味をそそります。
数ヶ月ぶりにリッカルドがミラノに戻るというので会いにゆくと、三ヵ月過ごしたアフリカの砂漠から帰ったばかりの彼は、ポルタ・ヴェネチアに近いルイザ・ヴィンチの家に寓居していました。ピサカーネ通りにある家の表札には、ロミテルリ・ヴィンチと書いてあって、亡くなったファウスト(ロミテルリ)がすぐそこにいる気配がしたし、テクノやアンダーグラウンドを熱く語るリッカルドを前に、思わず、パリの望月嬢がファウストにテクノを教わった話を無意識に重ね合わせていました。

「48時間休み無く続けられる原住民の熱狂的な祭りに、ジェネレーターと機材を携え、テクノのアーチストと数名のミュージシャンも参加してもらって、途轍もないトランスをスカイTVで中継させようと思うんだ。2000年前と全く同じピュアなリズムとテクノの出会いなんて、なかなか出来る体験じゃないから」。

この手の話を聞くと思い出すのが、100年前にルッソロやプラテルラがイントナルモーリとオーケストラを共演させて作ったコンピュレーションで、それならいつかヴァレーゼのルッソロ博物館から小型のイントナルモーリを借りて、騒音音楽家やテクノ・アーチストと共演させたらどうかと思うのですが。

リッカルドのプロジェクトは、二つのアンサンブルを併せて、インドからは打楽器奏者二人、ベルリンからパンソニックというテクノ・ユニットも参加し、それらをカヴァレリッツァ劇場の四方に配置して、天井にはヴィデオを流す一時間強のイヴェントで、曲ごとに11とか7など基本のターラが決まっていて、セクションずつ重ねあわされてゆきます。

リッカルドにサンプルを聴かせてもらいながら、変調され激しくぶつかり合う楽器の身振りに、近年ファウストが欲していた、暴力的で本能的な弓使いや息遣いを思い出しました。ファウストの初期の傑作「時間の砂」について前に書きましたが、楽譜通りの音より、むしろそれを下敷きにして、実際はずっとテンションの高い、鋸の刃が剥き出しの音響へとデフォルメするのです。ファウストがスペクタクル派仕込みの線的な音響体を特徴とするなら、リッカルドは南インド仕込みのリズムが特徴なのでしょう。ダンスカンパニーとのコラボレーションが多いのも肯けます。

部屋のそこかしこにファウストの遺品や写真がさりげなく飾られていて、そこでリッカルドと二人話し込むシチュエーションも不思議な気がしました。そして、何となしに、辻二つへだてたクレメール通りに住むルチアーナを思い出しました。ミラノ現代音楽界のパトロンとして、彼女の世話にならなかった音楽家は皆無でしょうし、リッカルドやファウストはその中でも寵児だったわけですから。

ミラノに住み始めた頃、彼らを含めたミラノの若い作家たちを「ドナトーニの周りをめぐる無数の惑星のようだ」と形容しましたが、あれから10年以上経ち、全てが流転し淘汰されてみると、彼らもそして自分も、当時は想像もしなかった居場所にいるのを、改めて感慨深く思います。

当時彼らと一緒に活動していたジェルヴァゾーニが、パリからベルリンに戻ると嬉しそうに電話をくれました。
「絶対ダメだと思っていたパリの音楽院のポストが手に入ったよ! 早速母親に電話したら、もちろん喜んでくれたけど、それより離れる時間が多くなるのが寂しいみたいだった」。
ベルガモの小料理屋で、ロバ肉のストラコッタとポレンタの極上の組み合わせに舌鼓を打ちつつ「定年になったヌネシュのポストに、一応アプライしようと思って」、と声を潜めて話してくれたのはまだ寒さの残るころでした。
「それで蓋を開けてみれば、ジェラルド(ペソン)も一緒でね。昼メシを皆で一緒に食ってきた。ストロッパがドイツのポストを見つけて突然辞めたから。何だか行く先々一緒になるんで、どうも彼とは運命共同体という感じだな」。
ジェルヴァゾーニの弾んだ声がとても印象的で、こちらまですっかり愉快な気分になりました。

さて外を見ればそろそろ陽も高くなり、今日の暑気も一段と厳しそうです。そろそろ赤ん坊を起して、昼飯の支度に掛かろうと思います。


(6月30日モンツァにて)




道楽性ということ  大野晋





このところ、出費を見ていると、写真も、クラシック音楽(CD集め)も、とにかく道楽だと認識を新たにした。
なぜ道楽か、というと、まずは金にならない。それどころか、とにかく、些細なことに違いを見つけ、ああじゃない、こうじゃないと言いながら、その違いに対して金をかけたがる。道楽じゃなくて、プロになってしまえば、それ相応の対価に見合う投資を考えなくちゃ、お飯(まんま)の食いあげだから、細かいことは言っていられない。とにかく、細かいことに理由をつけて、なんやかやと道具やら、CDやらを集めるから、そいつあ、道楽というものだろう。

しかし、道楽者のいるところ、商売が成り立つのだから、道楽者もばかにはできない。
一時期、レコードからCDに変わったころ、オーディオなる道楽が衰退したことがあった。円盤から音を取り出すレコードは、確かに凝れば凝るほど、出てくる音もずいぶんとかわったものだった。円盤の会社やマスターの作り方、音を取り出す機械の組み合わせから果ては聞く部屋にいたるまで、様々な組み合わせで微妙に変化したものだ。しかし、CDの登場で状況は一変したのだった。どう取り出しても変化しない音源は、技術としては正しい進化だったのだろうが、趣味性という面では一切の遊びを許さない。遊べないということは道楽の対象にはならないのだから、かくして、オーディオ趣味は道楽の道から外れ、多くの企業が稼ぎ場所をなくした。

さて、このところ、道楽事情が少しおかしい。
カメラがデジタルになり、細かい凝る部分が少なくなった。細かな画像の変化は撮った後に、コンピュータソフトでなんとかなってしまうのだから、撮影装置に道楽する余地が少ないように思うのだ。
一方、クラシックのCDの業界でも、新しい演奏者がなかなか出にくくなっているように思う。
CD化で、演奏者や演奏時期でしか、道楽性を発揮しなくなった音楽の世界では、道楽の余地は、曲、演奏者などの組み合わせにしかない。(どうやら、CDのプレスメーカによってもかなり差が出るらしいが、今のところ、それがわかる環境にはない)この新しい‘魅力的な’組み合わせが選択の余地がなくなってきているとすれば、道楽の危機である。

市場や流行、新しい技術もよいが、人間が楽しいと思うための余裕を残しておかないと、やがて、その反動は変化をもたらした側に跳ね返ると思うのだが、いかがなものだろうか?

できれば、多くの場面に、無駄な道楽性が残されることを望みたい。

道楽は日本を救うのだ。




しらいし──翠の虱(21)  藤井貞和





ひすい、しらいし。


〈むかし、もっとも短い詩に、
「凍土」というのがありました。
題が「Tundra」で、


  Tundra


とだけありました。 あれ誰だっけ。
思い出せない書き手のなまえを、
ここに書きたいのです。〉


〈「借りる」「貸す」、
ひとこと、ふたことを、
ほしくない、借りたいだけです。
どこかにほんとうの書き手はいませんか、
聴かれる音のちいささを、
書いてください。 誰?〉


〈かっこだけになっちまいし、
なっちまいし、われらのことば。〉



(あれ何だっけ――小説家の中沢けいさんが言っている、〈精神科の医者とか心理学者とかは、個別単位の人しか扱わないから、社会の重力とか浮力とか、あまり扱わないんですね。こないだ大平健さんという精神科医と話していて、なんで脳の研究が進まないのかというと、個体の脳を研究するからだと。だけど人間は他人の脳を借りて生きているんだと言うんです。たしかに三人いたら、なにか忘れたときに、「城戸さん、あれ何だっけ」って訊けるじゃない?〉〔『討議詩の現在』思潮社、二〇〇五〕。)




ワールドカップと子どもたち  佐藤真紀




ヨルダンではドイツとの時差が一時間。今回のヨルダン滞在は、全く一人なので、ワールドカップの試合をTVで見て時間をつぶそうと思っていたが、もくろみが外れてしまった。折角修理してもらったTVであるが、肝心な番組がやっていないのだ。聞くところによるとサウジアラビアの衛星チャンネルArab radio and TV network(ART)がワールドカップの独占放映権を握ってしまい、契約しないと番組を見ることができないのだ。契約金は330ドルもする。

ちょっと金持ちな連中は、モールや、街中のおしゃれなカフェで大型スクリーンに映し出される映像を見る。テーブルチャージが300円ほど。コーラを頼んだだけで500円といった具合。金持ちのヤングが中心。特に女性は、モールのカフェがお気に入り。ブラジルやドイツのTシャツなどを着て応援している。

貧乏人は、ダウンタウンのTV小屋。テントのなかにちょと大き目のTVがおいてあって、普段は映画なんかをやっていて、水タバコやアラブコーヒーなんかをすすりながら、出稼ぎ労働者などが一人で時間をつぶすのに使う。ここならチャージは半額くらいで収まる。女人禁制でおやじが渋くサッカーを見ている。アラブ服が多く、特にサッカーのサポーターの服を着ているわけではない。これらの安いカフェは、ARTとは契約せずにヨーロッパの放送のスクランブルを解除するソフトを入手。解説は外国語であるから、ラジオのFMアンマンの音を流す。

それでも、お金がない人のためにと王様が23ヶ所に巨大スクリーンを設置してただで見れる場所を作ったという。

しかし、かわいそうなのは子どもたちだ。遅い時間に外まで出かけていってサッカーを見るわけにも行かない。もっとかわいそうなのは、イラクの子どもたち。

バグダッドでは、また大規模な『対テロ対策』が、6月14日から始まり、夜の9時からは外出禁止令。することもなく家でワールドカップをTVで見るのは、楽しみだったのに、ARTが独占。こちらは3ヶ月の契約で40ドルという。今のイラクで40ドルをわざわざ払ってみようという人は限られている。野外のスクリーンなど、この治安の悪化では、危なくて使えない。がんの子どもたちにとってはなおさら楽しみにしていたワールドカップが見られないという状況が起きている。

コフィ・アナン国連事務総長は、ワールドカップ開催にさいして「我々国連にとってもっともうらやましいと思うのは、W杯は到達すべき目標がはっきりと見えることである。私は何もゴールのことだけを指しているのではない。国家と人間による大きな地球家族の一員として、共通の人間性をたたえる場であること。それこそが最も重要なゴールではないか。」と延べ、ワールドカップの盛り上がりから、皆さんが途上国の問題にきづき、取り組むよう示唆している。

2002年にはロナウドとジダンが、「貧困撲滅に向かって取り組もう」とUNDP(国連開発計画)の作成したCMに出演。ロナウドのスキンヘッドは、イラクのがんの子どもたちも勇気付けた。普段、抗がん剤で髪の毛が抜けた子どもたちも、なんとなくロナウドみたいになりたいとあこがれたのだ。

しかし、今回のARTの独占は、貧しい子どもたちから多くの楽しみを奪っている。こんなワールドカップは初めてだ。幼い子どもがTVを見て選手に憧れやがて、ワールドカップに出場する事を夢見る。しかし、TVが見れないとなると、関心もわかない。金持ちの子どもたちだけの楽しみなのだろうか? コフィ・アナン氏が指摘するような機会の平等からはどんどんと外れていってしまった。




反システム音楽論断片2  高橋悠治




さて今月は あれこれ本をよみ
理論の手がかりになることばを さがしてはみたが

哲学は 創造に追いつけない
解釈し 判断し 意味をもとめる以前に
手は ひきよせる
耳は ふたしかなゆびに ついていく
眼は うごくゆびを じっとみる

あらかじめ考えられた目的 意味 方法ではなく
美学や 理論 システムもなく
かすれた声 ためらう声 遠い声
かすかな音 わずかな音
ざわめき ささやき つぶやき

ほつれた線 たよりない かぼそい ちからのぬけた 線
つなぎとめようもなく ただよい はなれてゆく 
おもいがけず なつかしい あらわれ
ためいきのように そっと別れをつげる

かぞえない はからない じかん
ふいに はじまり きゅうに とぎれる うた

ひとつのうごきにこたえる(respond) もうひとつのうごき 二つでひとつ
ひきうけること(responsibility)

しみだす しみこむ 空気をそめる 色
あいまいな ひろがり 

ゆすぶり くずす かたち
ゆびのしたで 穴だらけの 粗い織り

耳をすますと ゆびはもつれる
舞うからだ のみこまれ ころがりおちる 
踊りの手足 枝分かれする ベクトル

こうして書いていると 
これはいつか書いたことば
くりかえしではなく すこしだけちがう地点からの



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