2006年8月 目次
スラチャイ、文学賞受賞のニュース 荘司和子
い行(ゆ)き──翠の虱(22) 藤井貞和
金持ちの娘 小島希里
ネズミを食べる真面目な猫の話 御喜美江
アジアのごはん(13)クン・テン 森下ヒバリ
踊りの謝礼〜1 冨岡三智
花にも歴史がある 大野晋
ジャズ・カントリー 三橋圭介
しもた屋之噺(56) 杉山洋一
音楽を記述すること 石田秀実
干からびたメロンと竹下夢二 佐藤真紀
反システム音楽論断片3 高橋悠治
スラチャイ、文学賞受賞のニュース 荘司和子
去る5月5日、われらがスラチャイがシーブラパー財団より選考委員全員一致で18人目のシーブラパー賞受賞者に選ばれました。シーブラパーは1974年亡命先北京で69歳で客死した作家、ジャーナリスト。高校生のころから詩や小説を書き始め多数の作品があり邦訳されたものもあります。日刊紙、週刊誌の編集、新聞協会会長も務めたほか、1942年日本軍のタイ侵略と政府の対日協力に反対して逮捕されるなど、戦中戦後を通して平和と言論の自由のための活動にも力を注いだ先駆者でした。
シーブラパー賞はそのような作家を記念して贈られる賞なので、他の文学賞とはちょっと違った特色があります。贈る対象が作家、詩人のみではなく思想家、ジャーナリスト、翻訳家を含む広い範囲になっていて、かつその人の生き方がすぐれて人びとの手本となっていること(これについてはスラチャイを個人的に知ってる者からするとわっはっはあ、ですが)、社会と人間性について価値を創造している典型的な作品であること。現在に至るまで20年以上作品を出し続けていること、など。
スラチャイは「生きるための歌」(songs for life=タイのメッセージソング。訳語を作ったのは高橋悠治さん)の大御所、先駆者と呼ばれています。詩人でありかつたくさんの短編も書いていますが、生きるための歌の主張を生き方としても貫いた思想家、という側面も見据えての受賞だろうと考えます。それにしてもスラチャイ、おめでとう!
新聞に載った慶びのことばを抜粋して紹介しましょう。まずはモンコン・ウトック
「スラチャイは30年も前から音楽を主な仕事にしてきたというのに、音楽界からは何の賞も受けていませんよ。なんなんでしょうかね、この業界。作家の世界が彼の作品をクラシックだと見てくれたのですね。(中略)普段の生活では彼はもの書きですね、ぼくは絵を描けというんですが、道具がいっぱい必要だからって彼は言う。線を描くとうまいんですよ、ペンの使い方がすごい。でも時間がないから文を書く。それがまた真似ができないのは、彼はどんなところにいても書ける、ってとこね。車の中、喫茶店、そば屋、何所にいても書けるんですね。歌詞でも記事でも本でも。彼はタイの社会を写しとっている。仕事は速いけど質は高い。この受賞で次々別の賞をうけることになると思う」
カントゥルム・ジャンティマトン(次男、12歳)
「お父さんがたくさんの人たちに知られているって嬉しいです。お父さんはぼくにいろいろなことが分かるようにって言います。お父さんの本は1冊だけ読んだことがあります。「高原より」っていうの。ん、お父さんの後についていきたいな。本を書きたい。音楽もやりたい。でもやりたくないことがひとつある。歌はうたいたくない。うたうの好きじゃないもの。でもギターを弾くのが好きさ」(去年津波のチャリティコンサートではお父さんのバックバンドをモンコンと並んでつとめていました)
グライサック・チュンハワン(チャチャイ元首相=92年軍事クーデタで失脚、の息子で当時首相顧問。現上院議員。70年代民主化運動でスラチャイたちの仲間だった経歴の持ち主)
「スラチャイが女性だったらもうとっくに結婚を申し込んでいたね。彼の書いたものでも歌でも、彼がタイの生んだ優れた詩人であることがわかる。それと「生きるための」詩人としてのあり方、ことば遣いの美しさ、それが社会と分かち合っている愛にうらうちされている。同時に強い正義感を秘めているね」
その他の文化人
「彼はタイの社会史、政治史を体現する軌跡そのものである」
「どの作品も彼固有の魅力にあふれている。(中略) 性格が真正直で自分を飾ることがない。短編は印象派の絵のようで情景と光と色彩にあふれている」
「彼の短編の際立ったところは色彩、光、音すべてをイメージさせる美しいことばの使い方にある」
著名人のことばのほか一般の読者のことばも50人以上掲載されています。
「ナンにも来てください。待っています。 ナン河畔のこどもより」
「以前ガーおじさんの曲に関心がなかったのですが、王宮前広場でデモに出発する前に大きい音でかかっていたのを聞いて好きになりました。歌の意味もわかったし。受賞おめでとうございます。 都会の子」
スラチャイのニックネームはガーといいますが、以前はピーガー(ガー兄さん)とみんなに呼ばれていましたが、今回のは若い作家からもファンからもナーガーと呼ばれていて、おぉおぉ、スラチャイも「ガーおじさん」になってしまいました。歳相応、というべきですかね。
スラチャイの文学的表現の美しさや独自性に言及している人が多いのですが、白状すると訳すのはとてもむずかしいのです。辞書にないような彼だけの2字熟語を創り出すこともよくあります。何をイメージしているのか分からないこともしばしば。わかっても日本語力に問題があってもとの美しさ、独特のいいまわしの魅力を現しきれないこと、こころからシアジャイ(残念)です。
い行(ゆ)き──翠の虱(22) 藤井貞和
おおあめますののぼる川、
いまはのぼらず、
きたかぜあれば川波みなみへさかまき、
いまはながれず、
みなみかぜあれば川波きたへうずまき、
いまやいさごかず積もり、
おおあめますのおくつきは、
くずれた山城(やまじろ)のかげですがたを消す、
川の走り出を目にたどるほかすべなくて、
説話の岸にまぼろしはたたずむ。
八月にすがって川面を寄りくるあり、
あれがネッシーではないか、
うたびとに聴け、ネッシーの唄、
い行(ゆ)きはばかり、
帰らぬ川の人工湖、巨人のべんとうばこを、
腐った水面の移動する。 あれは流木だ、
流木だったむかしをいまに流れる筆記、
ただひたすら流れて書く身の腐敗。
(流木の唄。「い行きはばかり」は万葉語。)
金持ちの娘 小島希里
部屋の外に漏れるわたしたちの声に引き寄せられ、YYさんは、入り口から覗き込んでいた。ちょっとここで待たせてくださーい、と言うか言わないうちに、すすっと扉のこっち側に入ってきて、扉に寄りかかったまま携帯電話をかけ、切ったかと思ったら、なにやら廊下にいる人たちと協議をしてメールを送り、そしてまた、5人ほどの、同じ年恰好、たぶん二十代後半ぐらいの若い女の人たちとああだこうだやり取りしながら、電話の相手に返事をしている。あ、YYさんだ、と部屋のなかにいる「がやがや」の一人がつぶやく。みんなの視線が集まると、YYさんは電話機に話しかけながら扉の外にすっと戻り、廊下にたむろしているともだちのなかに消えた。
ねえねえ、ちょっとなにやってんの? しばらくするとまた、YYさんが戻ってきた。今度は入り口を少しはいったところの、あがりかまちっていうんだっけ、あそこに座った。YYさんが、長いさらさらの前髪をかきあげて、もういちどたずねた。ねえねえ、なにやってんの?
そのとき、わたしたちは、10人ぐらいいたがやがやのメンバーは、二つのグループにわかれて、ののしりあっていた――「犬!」「ナス、きゅうり、トマト!」「うま、牛、ヘビー!」窓側に並んだ人たちは動物の名を、壁側の人たちは野菜の名を、憎々しく叫びながら、前進していき、足をふんばりにらみ合った。「芋! ピーマン!」知らないうちに、YYさんも大きな声で野菜の名を叫んでいる。下半身は座ったまま扉の側に向け、上半身をぐるっと部屋の中に向けて。
がやがやには、彼女の知り合いがたくさんいる。養護学校時代のともだち、「習いごと」の仲間、ともだちのともだち。YYさんが、前髪をかきあげ、また、きいた。ねえねえ、なにやってんの?「劇の練習なんだけど、入ってきていっしょにやる?」とわたしが声をかけると、YYさんは「むりむり、忙しいから」と言って、即座に断った。今日は、向かいの部屋で行われている手話の講座にきたのだという。が、その日はそのまま入り口のところ座ったり、廊下に出てしゃがんでともだちと話たりして、夕方まで、わたしたちのいた部屋のそばから離れようとはしなかった。(手話はいったいどうなっちゃったんだろう?)みんなが帰宅の準備をし始めると、YYさんは近寄ってきて、わたしにたずねた。「今度、いつ?」
それから必ず、YYさんはがやがやの集まりに顔を出すようになった。いつも自分のともだちを連れてきた。何かの集まりにいっしょに参加してきたからなのだろうか、4、5人のともだちを連れてにぎやかに登場したこともあった。じゃあ、にぎやかに参加したのかといえばそうでもなく、やりたくない時には、「見学だから」といって壁際に座ってともだちと並んで携帯電話を眺めていて、やる気が出るような内容が始まったときだけ、すっと壁際を離れ、みんなの意見をまとめ、また壁際に戻っていった。
ところが知らないうちに、YYさんは「見学者」から、正規のがやがやメンバーに昇格していた。たぶん、二年ほど前のがやがやの発表会、「なぞなぞの国ものがたり」に出演した頃あたりから、彼女は俄然やる気になり、率先して劇作りや片付け、ほかのメンバーへの連絡を引き受けてくるようになったんだと思う。金持ちの娘役のYYさんは、今日もシャネルにディオール、ヴィトンにプラダ、たくさん買い物できましたわね、と紙袋をたくさん下げ、毛皮のマフラーを首に巻き登場し、母親役の人とともに、うきうきと声を響かせて貧乏人に悪態をついた。養護学校のときにも、「森は生きている」のミュージカルに出演したことがあったが、「あのときは貧乏な娘の役だったでしょ、こんどは金持ちの役だったから、楽しいよ」と、発表会のときの楽しさを、彼女は今でもときどきわたしに話す。
YYさん、そして彼女が連れてきたともだちは、親やヘルパーを介さなくても、自分で電車や電車を乗り継ぎ出かけることができる。だれかの力を借りなくても連絡を取りあうことができる。だから、ふらふらと「がやがや」の稽古の中に、進入することもできたのだった。彼女たちには、自分の意志でだれかと会い、絶交し、いさかいを起こし、仲直りするという日常を生きる自由があるのだ。そこには、これまでがやがやに集っていた、彼女たちよりも障害の重い人たちの暮しとははちがった色合いの緊張感がみなぎっている。
彼女たちは、いつもごたごたした人間関係の中にいる。電話やメール、待ちぶせ、ひそひそ話。いつもせわしなく忙しい。そのごたごたは、「がやがや」の時間の中にも持ち込まれる。○○さんが出るなら、いっしょにコンサートには出たくないだの、あの人はわたしとの恋は遊びだって言ったのと、歌のあいだにもおやつの時間にも、切れ目なくさざなみを起こし、ときに大嵐となっていろんな人を巻き込み、ふりまわしあう。激しいことばのやりとりに、わたしは逃げ出したくなる。ところがYYさんも、彼女のともだちもめげない。めげるどころか、面倒くさいすったもんだもひっくるめて、人とのつきあいを謳歌してさえいる。タフなんだ。
YYさんがともだちとともに持ち込んだのは、もちろんごたごただけではない。彼女たちの具体的で明瞭なことばは、彼女たちだからこそ知っている世界を鮮明に伝えてくれる。YYさんが朝、仕事場についてすぐに卵を17個片手で割り、冷蔵庫にいれる前に割った時間を書いた紙をボールに貼っているということを、ある作業所の指導者は気に入らないことを誰かがやると、雑巾を絞るように腕を締め付けるのだということを、○○さんは障害者手帳を持っていないから障害者ではないのにいつもついてきて困る(と彼女たちが考えている)ということを、今、わたしが知っているのは、そのおかげだ。
YYさんは、ファミリー・レストランの洗い場で9時から4時まで、正規職員として働き、その残りの時間はめいっぱい様々な活動に当てている。手話、手話ダンス、青年教室、「たまり場」。どれも親しいともだちといっしょに彼女が長いことつづけている「習いごと」だ。彼女の手話は、おしゃべりと同じでやっぱりにぎやかなのかなあ。いつか、そっとのぞいてみよう。
ネズミを食べる真面目な猫の話 御喜美江
今日は木曜日。「木曜日は真面目な日」なんて誰も言わないけど、木曜定休日ってドイツ、オランダではあまり聞かないし、銀行や店の営業時間、そして医者の診療時間も木曜日が一番長い。金曜日の午後をすでに週末と考える傾向が強いなかで、少なくとも木曜日は遅くまでちゃんと真面目に人々は働いているように思う。
演奏家にとっては、日曜日も木曜日もあまり大差ないかもしれない。本番日を軸として、その日程からリハーサル日、練習日、休みの日などを決める。人混みの多い週末や連休にあえて買物に出かけようとか、旅行しようなんてまず思わない。
犬や猫の場合はどうだろう。四季の感覚は確実にあると思うが、週を7日と意識しているようには思えない。しかし人間が作る生活のリズムを感知して、それに合わせようと努力している様子はうかがえる。それがたまらなく可愛いい。
一つ例をあげてみると、すでに何度かこの「水牛のように」に登場しているオス猫カーター君の場合。彼の本宅は我家の斜め向かいにあり、そこは手入れの行き届いた大きく立派な家。猫を二匹飼っているが、どちらも毛並み美しく、性格温厚、頭脳明晰。まさにいいお育ちのお坊ちゃま、お嬢ちゃまといった感じ。このお坊ちゃまの方が小さい頃から我家が好きで、夫がピアノを練習していると、半開きになっている音楽室の窓から「ア〜ン、ア〜ン!」となきながら入ってきた。それ以来、我々がいると本宅には帰らず一日中ここにいる。昔は夜になると外に出してしまったが、ある厳寒の冬の夜どうしてもそれが出来なくて“お泊り”をしてしまってから、何となくお互いに(本宅も含めて)それを認知し今日に至っている。
彼はお客さんがとても好き。とくに女学生なんて大好き。「わぁ〜可愛い!抱っこ抱っこよ」なんて撫でてもらうと、もう喉はゴロゴロ鳴りっぱなし。だがしばらく遊んでもらうと彼にもプライドがあるらしく突然その膝から飛び降りて、毅然と外へ出掛ける。そして必ずネズミを銜えて戻ってくる。女学生達が「キャー、ネズミ!」と騒ぎ出すと大満足で、ネズミなんて実はどうでもよく、その辺に放り出して、また女性のお膝の上でゴロゴロ甘えている。しかし私はこのネズミ捕りがどうしても好きになれないから「食べないなら捕らないの!」といつも叱る。すると可愛い声で「ア〜ン」と返事。ところが先日おかしなことが起こった。
ある夕食会から午前一時ごろに夫と帰宅した。いつもなら私達の足音を聞くと植え込みから犬のように走り出てくるのに、その時は姿が見えない。ちょっと気になったので約10分後に玄関をあけて「カーター君、カーター君、どこにいるの?」と小さな声で呼ぶと「フニャ〜」とヘンな返事があって階段を上がってきた。見ると口の辺りがなんかおかしい。また近所の猫と格闘して引っ掻かれたのかと思ったら、小さなネズミがそこにはまっている。「あぁ、またまたそんな酷いことして、カーター君なんて嫌い! 食べもしないのネズミを殺すの大嫌い!」とちょっと声を荒げてしまった。すると一旦床の上に置いたネズミを再びくわえて居間に入り、夫にそれを一生懸命見せている。夫は優しい声で「おう、またネズミを捕まえたのか。上手いもんだなぁ」なんて暢気におだてている。「こういう教育が一番いけないのよ」とさらに怒る私。するとカーターは突然その小さなネズミを頭から食べ始めた……それはまるで殻のついた海老を食べるような音。シャリシャリ、シャリシャリ、これには本当にびっくり!
初めはあまりのことに呆然と立ちすくんでいた私だが、「あっと、写真、写真!」とデジカメに飛びつき、恐ろしながらもシャッター。シャリシャリとシャッターの音が不気味に混ざり合う。結局カーターは最後のしっぽまで全部平らげてしまった。「夜中になって腹が減ってきたからネズミを捕まえたのさ。でも誰も食べたがらないから、僕が食べたってわけ。遊びで殺しているんじゃないよ。だからもう怒らないでほしいニャ〜。」と真剣な眼差し。ゴロゴロ喉を鳴らさない。
私達の見ている前で、カーター君はシャリシャリ、シャリシャリ、ネズミを一生懸命食べていた。その姿は本当に真摯で健気で、残酷な光景なのに何故か感動してしまった。猫だって一生懸命、真面目に、生きようとしているのかもしれない。(2006年7月27日ラントグラーフにて)
アジアのごはん(13)クン・テン 森下ヒバリ
タイをはじめとするアジアの国々を旅するときに、これまで必ず守っていたことがあった。それは「生ものを食べない」ということ。この生ものとは、生水と生肉と生の魚貝類のことである。肝炎はじめ、赤痢とかウイルス性腸炎とかの旅行者がかかりやすい病気は、だいたいこの生ものから感染する。この手の病気は、まず、大変苦しい。体が衰弱する。病院に行かなければならないが、タイの病院の薬はきつくて2回もショック症状を起したことがあるので、二度と行きたくない。日本に持ち帰ると隔離されたり消毒されたり……などなど、いいことはひとつもない。
タイで生ものを食べないようにすることは、あまり難しいことではない。タイ料理には、あまり生ものがないからだ。また、日本料理の刺身が食べたくなっても、南の海の魚は締りのない身をしていて、まあこんなものかな〜という程度の味しかしないし、日本料理屋に行って、日本のレベルの味の刺身を食べようとすると、たいへん高級な店に行く必要があるので、そんなところには行けないからだ。
問題はタイの食文化の中にわずかにある生ものである。自分ですすんで店で注文したり、市場で買ったりしなければいいのだが、タイ人に勧められる場合は、断りにくい。タイ人は基本が田んぼと川の民で、ナレズシをのぞいて生の魚や貝などはふつう食べないのだが、やはり幾つかの例外はある。
一番よく食べられているのは、赤貝によく似た、ホイ・クレーンだろう。これは、じつは軽く蒸すのだが、ほんの気持ちだけしか蒸さないので、貝の中身は半生状態である。白い二枚貝の間から、赤い貝の汁が滴る。タイ人はこれがとても好きだ。わたしは、タイに通い始めた頃に何度か味見をしてみて、肝炎のおそれと味と鮮度の信頼性を天秤にかけた結果、ホイ・クレーンには手を出さないことに決めた。勧められると、「あんまり好きじゃないので」とニコニコと断る。
そのほか、あひるや牛の生肉と血でつくる料理などもあるが、もちろん避けていた。避けていたはずであるが、じつはここ最近立て続けに生ものばかりを食べていることに気がついた。生もの食べない主義はどこに行ったんだか。
今年の春、まずバンコクの友人の家で生エビを食べた。エビの殻を剥いて開き、ナムプラーとタイのレモンのマナオ汁(それにトウガラシ、ニンニク、レモングラス、パクチーのみじん切りを加える)で浸したクン・チェート・ナムプラー(生エビのナムプラー浸し)である。うまかった。
その後、友人に連れられてバンセーンという港町に行き、タイで初めて生ガキを食べた。うまかった。「絶対に当たらないから。その店に今までたくさんの日本人を連れて行ったけど、まだだれも生ガキには当たってないから」と誘う友人に、「う〜ん」と生返事をしていると「レストランは生ガキの養殖場のすぐそばにある」とさらに言われ、それなら、と行くことにした。タイでは生ガキを食べさせる店はあまりない。
店はタイ人で大賑わい。これだけ繁盛していれば、当然材料は新鮮。もちろん、養殖場は店から見えている。他の料理も安くておいしかった。「黒い殻のプー・マーという蟹はよく当たるよね」と、生ガキをいくつも食べながら話す。しかし、このカキやカニでよく起こる中毒は肝炎や腸炎とはまた違うものであり、貝やカニが死んでから時間が経つと体内で毒が増殖して、それを食べた1〜2日後くらいに吐き下し、高熱に襲われるものだ。加熱したものでも当たることがある。
その後、海から遠くはなれたタイ北部のチェンマイに行くと、友人のトクが「クン・テン食べに行こう」と言う。クン・テンというのは、小エビの踊り食いである。また生食いですか。クン・テンをそれまで食べたことはなかった。しかし内陸のチェンマイで生のエビ? 聞くと、淡水の小さなエビで、そのレストランはこれまたそのエビの養殖場の横にあるという。
チェンマイ市街からサンカムペーンに向かって20〜30分ぐらいのドイ・サケット通り沿いにあるその店「チャーイトゥン・クンテン」は、エビの養殖池の横というか、半分池の上にあり、吹き抜けの大雑把な作りの店であった。夕食にあわせていくと、かなり大きな店のほとんどが客で埋まっている。なんとか席を確保して、クン・テンと他の料理を注文する。
クン・テンは、直径10センチの丸い蓋つきの器に入って出てきた。蓋をそ〜っと開けると、とたんに小さなエビが何匹も跳ね飛んで出た。中ではたくさんのエビが蠢いている。「うわ〜、い、生きてる……!」すぐに蓋を閉める。エビの体長は1.5〜3センチぐらい。
「どうやって食べるの?」「蓋をしたまま、こうやって混ぜるんだよ」。器の中のエビの下には、ナムプラーなどの調味料と生ハーブが仕込まれているらしい。それを、蓋をしたまま器ごと手に持って上下に振り、エビに調味料を絡ませ、つまりナムプラーやマナオ汁によって弱らせて大人しくなったところを頂く、という段取りらしい。
「わたしは、これで……」と、トクの連れ合いの日本人の夕姫ちゃんが、かばんから醤油とわさびを取り出した。彼女のクン・テンは調味料もハーブもなしのエビだけ。特注である。さっそく、器を上下に振ってよく混ぜ、そっと蓋を開ける。エビはまだ動いてはいるものの、シャロットやパクチー、トウガラシ、レモングラスなどにまみれてかなりぐったりしている。さじですくって口に入れてみると、かなりスパイシーな味つけ。甘みもあるエビの味と混じりあってなんともいえずおいしい。エビの殻も固くはない。
「これも食べてみて」と日本式クン・テンに目を細める夕姫ちゃんから醤油とわさびでシャッフルしたクン・テンを受け取り、口に。「あ、これもいける……」「でしょう〜」スパイシー・クンテンと日式クン・テン、どちらも捨てがたい美味ではないか。次回は日本からわさびと醤油を持って来ようと、ひそかに思いつつクン・テンの器の蓋を閉めた。そこに、ピンクに茹でられた小エビが運ばれてきた。
「生がこんなにおいしいのに、なんで茹でたのなんか注文したの?」とトクを睨むと、「いや、これもいけるから」。そう? と気もなく口に入れると、茹でたのもこれまたうまい。ごはんがすすむ。こんなにおいしいのは、ひとえにエビの鮮度がいいからだろう。
その後、バンコクに戻って宿の近くの市場を散歩していて、近くの路地に小さなイサーン料理屋があるのを見つけた。店の前には水槽があり、あの小エビが泳ぎ回っていた。そのぐるぐる泳ぎ回るエビを見ながら、思い出したことがある。20年近く前、初めてイサーンの村に行ったときのこと。泊めてもらった家の娘が「エビを取りに行こう」と言い、近くの池に行って一緒に布ですくって小エビを捕ったのだ。子どもの頃メダカをすくったように一枚の布の端を二人で持ち、せーのですくった。少ししか取れなかったが、あの時はたしか茹でて食べた。
タイ北部とイサーン地方で食べる食材は、タイ族にとってはどれも歴史の古い食材が多い。おいしい小エビは、ちょっと池に行っては捕ってくるタイ人の古くからの食材だったのだ。やっぱり食べるには池のそばのお店に限る、ということか。
踊りの謝礼〜1 冨岡三智
中ジャワ・スラカルタの音楽家・舞踊家の間には、PY(ペイェー)という隠語がある。お金をもらって上演するという意味で、プランバナン寺院での観光舞踊劇「ラーマーヤナ・バレエ」が始まった1961年頃から使われ始めたという。PYとはpayu(パユ)=お金になる、の子音を取ったもので、それはつまり芸術行為によってお金を頂戴することを賤しむ気風があったからこそ生まれた言葉なのだ。この語を使い始めたのは、「ラーマーヤナ・バレエ」の総合振付家クスモケソウォの長男だと言われている。
「ラーマーヤナ・バレエ」はインドネシア初の観光用・大型野外舞台劇で、その中心的な担い手はクスモケソウォが教鞭を執るスラカルタの芸術高校関係者(教員、学生、教員の子)を中心に、あちこちにいる弟子たちなどだ。この人は宮廷舞踊家で、その中でも最も保守的な人だったから、芸術を学んでいる者がお金を手にするのはよくないと考えていた。宮廷舞踊家にとっては、舞踊は人格の陶冶のためにあるべきだったのだ。だから1960年代頃のギャラは「ミー・アヤム一杯分」だったという。当時大人だった人から子供だった人まで、世代の異なる3人が3人ともそう表現した。ミー・アヤムとは鶏肉入りラーメンだが、屋台で食べられる最も安い食事である。スラカルタからプランバナン寺院までバスで行って(団体バスで行くのだが、今の道路事情でも片道1時間余りかかる)舞台をつとめるのだから、子供ならともかく、大人にとっては全く割のあわないギャラである。出演自体を嬉しい、有難いと思えないと続かない。
だから、ラーマーヤナ・バレエの初期を担った、当時まだ中高生だった踊り手たちは、大学に進学するとラーマーヤナ・バレエから離れてしまうことが多い。例外だったのは初代ラーマ王子役で、ジョグジャカルタにある大学の医学部に通いながら、1968年に留学するまでずっとラーマをつとめた。これは親(医者)が裕福で、息子をクスモケソウォに習わせており、かつ「ラーマーヤナ・バレエ」の仕掛け人の1人だったから可能だったのだ。
それはさておき、大学生になったラーマーヤナ・バレエの踊り手は、ホテルなどで舞踊のアルバイトをする。ジョグジャカルタでは、スラカルタと違って、毎日のようにどこかのホテルで公演がある。実際、クスモケソウォの孫娘もそうで、ジョグジャカルタの芸術大学に進学して下宿しながら、ホテルでの公演やパク・アラム王家主催の公演に出て授業料や生活費を稼いだという。
またジョグジャカルタの大学に進学したが、スラカルタに戻ってスリウェダリ劇場に出演していた元・出演者もいる。彼は最初、スリウェダリ劇場のギャラがラーマーヤナ・バレエよりはるかに高額なことに驚いたという。そのギャラで学費を全部賄えただけでなく、当時は高価なものであった自転車まで買えたという。スリウェダリ劇場は商業施設で、歌舞伎興行みたいに毎日公演を打ち、そのチケット収入で採算をとる。ここではしかるべき対価をもらって上演するのが当たり前であり、恥ずべきことではなかった。(続く)
花にも歴史がある 大野晋
最近、あちこちで日本にいないカメが出ただの、釣り人がブラックバスを話して困るだのという話を聞く。植物の世界でも昔からそういう話はあって、どこそこの山のコマクサはどこどこの山小屋の主人が植えたらしいだの、どこそこの水芭蕉はなにがしの旅館の主人が植えただのそんな話を聞くことがあった。しかし、たいていの場合にはそういった「もともと生えていない」植物は環境に合わずになくなってしまったりするので事荒立てる必要もなかったのだが、一部の例では環境を戻すために蔓延ったコマクサを根こそぎ退治する事態になっているらしい。
そんな話を聞くと、「きれいな花が咲いているんだからいいじゃない」とか、「どうせ高山植物なんだからいっしょに大切にすればいいじゃない」などと言われそうなのだが、実はそう簡単な話ではないのである。たぶん、高校の生物の授業、そういえばそんな科目がまだあるのだろうか?、で習うであろう植生遷移とやらでは、野原や山の自然植生は極相とやらになるらしい。ただし、それは実は机上の話で、ほとんどの場合にはいろいろな条件で簡単に極相になんてなってもらえない。
たとえば、南アルプススーパー林道の長野側の谷の植生は、もともと、崩れやすい地質のせいでカラマツ林が縞枯れのように伸びては枯れ、伸びては枯れしており、それ以上はどんな植生にもなりはしない。
また、上高地の大正池周辺を掘ってみると、泥炭と土と火山灰が交互に出てくるのだ。どうやら、焼岳の噴火で川が堰止められ、やがて高層湿原ができ、それがだんだんと乾いてカラマツ林になるのだがやがて焼岳がどーんと噴火するのでまた池に逆戻り、そんなことを延々と繰り返していたらしい。
一方、北アルプス白馬岳に生えるウルップソウは日本ではここと北海道に飛び飛びで生えている。どうやら、氷河期に離れ離れになった名残らしく、比較的古く、雪の深い白馬岳だけに本州では残ったらしい。
そんなショクブツがある一方で日本一の標高を誇る富士山には実は高山を代表するハイマツが生えていない。これは、富士山が比較的新しい山の証拠だそうで、氷河期が終わって高山植物が北に追いやられてから富士山ができあがったからだという話である。
要は、そこに何が生えていようが、その生えている植物には長い長い歴史があるということだ。だから、国立公園内の保護地域での植物の採取は禁止されている。ただ、こういう話を知れば、禁止される前に恐れ多くて触れないのではないか、などと思うのだがいかがなものだろうか?
実は、そんな話は私たちが住んでいる周りの森や草地についても言えることで、今話題のカシ・クヌギ林の枯死も、実はもともと人手が入って、炭焼き用に切り出すことで萌芽更新され、勢いの良かった雑木林が近年、荒れ放題にされた結果、生命力を失った結果だといえるだろうと思う。これなどは逆に人手が入っていた歴史を人が勝手に手抜きした挙句、そのしっぺ返しを受けた形なのかもしれない。
さて、花にも、草にも、木々にも歴史あり。
頃は夏休みである。近くの森の研究でもしてみてはいかがだろうか?
ジャズ・カントリー 三橋圭介
ナット・ヘントフの『ジャズ・カントリー』(木島始訳)。この本はジャズというものを考えるときに通らなければならないものかもしれない。すでにジャズは様式化してしまい、ジャズといえばだいたい「ああういうものか」という了解がある。特に近年のピアソラの流行はジャズの復権にも関わっておしゃれなジャズも数多く登場するようになった。いったいジャズとは何か。
かつてミンガスは同じジャズ・ミュージシャンを批判する言葉を投げかけた。そのなかにはスタン・ケントン、ジャズの最高のピアニストとされているビル・エヴァンスがいる。だが白人だけではない。オスカー・ピーターソン、MJQもそうだ。「あれはジャズじゃない」。ミンガスのいうジャズとジャズでないものの違いは、かれらの演奏から判断することができる。簡単にいうならリズムの脈動だろう。
ジャズはそもそもヨーロッパの音楽の技術と黒人のリズム感の融合からはじまった。エリントンはドビュッシーの音楽に影響を受けたが、リズムはアフリカ的な脈動が常に流れている。だが、ケントンはジャズ・オーケストラでクラシックをやり、MJQもバッハの影響を受け、そのリズムはクラシックのものに近い。オスカー・ピーターソンは巧みな技術で一直線に進む。そしてエヴァンスはスクリャービンまで取り入れ、かかとからつま先のリズムにジャズを孤高に芸 術化した。
「きみがきみの足をうって拍子をとれなくちゃ、ジャズじゃないんだなんて。そんなの、ナンセンスだ。問題はきみが聞いているとき脈動を感ずることができるかどうか、だ。いつもドリルみたいにきみの耳にがんがん鳴っている必要ない。注意してチャーリー・ミンガスを聴いてごらん。かれのは、べつのやり方だ。かれのビートは、うねって入り、うねって出て、ゆったりとし、速まっていき、曲線みたいなんだ。それは生きているだ! それは、かれなんだ! そこが大事なところだー時間を自己流に感ずる感じかたを見つけるってのが。」(『ジャズ・カントリー』)
ジャズとジャズでないもの。その区分は今は存在しない。だがヘントフはジャズ国を扱った。「ジャズ・カントリー」のモーゼ・ゴッドフリーは、そのパトロンである白人のヴェロニカ(ニカ男爵夫人)の存在から容易にモンクを連想(神と僧侶の関係)させ、また、人種的な隔たりを越えようとした(ゴッドフリーな)社会的な意識の高さやライヴで説教するあたりはミンガスだ。
モンクのかかとを踏みならすリズムはアフリカ的なものだろう。ミンガスのはアフリカ的なものというよりもっと広くアフリカを含むアジアなどの伝統音楽のズレから生まれる厚みある響きを思わせる。白人である主人公トムはヴェロニカにいう。「どうやってなかに入っていったんです?」。黒人の自由の音は、自由を得るための努力や葛藤、戦きなどから生まれる。トムはそれをしどろもどろにだが、少しずつ見いだし、「なかに入っていく」。それは規則正しいリズムのなかには決して存在しない。
しもた屋之噺(56) 杉山洋一
現在朝の5時ちょうど。ひんやり気持ちのよい外はまだ真っ暗で、隣の部屋から子供が自分のベッドで大きく寝返りを打つのが聞こえて、開け放った窓から、さらさらと中庭の大木の葉をわたってゆくそよ風が音を立てているくらい。耳をそばだてると、遠くかすかに薄いホワイトノイズの帯が絶え間なく続いているのに気がつきます。普段は気にも留めないまるで換気口のような響きが、日常生活の底に流れています。世界中どこでも、都会といわれる街の朝には、この音の帯が無意識下に存在しているように思います。逆に言えば、普段街に住んでいる人間がこの音のバックグラウンドがない朝を迎えると、理由はわからないけれど、とても新鮮で、すがすがしい心地がします。
街で出会う知り合いや、連絡をくれる友達など、ほとんどが夏の休暇を愉しんでいるようで、実際街はゆきかう車も少なく閑散としています。もっとも、先週末のミラノは摂氏40度だったといいますから、極力戸外での無駄な運動は避けたいのは誰も同じに違いありません。
ブソッティに会いにでかけたのも、太陽の照り返しがきつく、まだ街がワールドカップの優勝の余韻漂う朝でした。最近になって彼が引っ越したミラノのゴニン通りで本を読みながら待っていると、たどたどしいフランス語で、何かお困りですか、と犬を連れて散歩している婦人が声をかけてくれました。大丈夫ですよ、ただ人を待っているだけですから、と言うと、安心したようにティラナ広場にぶつかる横断歩道を渡ってゆきました。
10年以上もイタリアに住んでいながら、ブソッティに会うのは初めてでした。もちろん、彼の講演など聴きに行ったことはありましたが、一緒に仕事をしたこともありませんでした。こうして思い返してみると、一種の人見知りなのか、単なる怠惰なのか、自分が好きだったり興味があったりした人物に、自分から連絡を取って会ってみようというバイタリティが根本的に欠けているところがあって、イタリアに住んでからドナトーニに初めて連絡をしたのも、思えば大分時間が経ってからのことだったし、ドナトーニ以上に心酔したカスティリオーニは、音楽院の廊下で出会った老人に、ぜひ連絡をくれ、と言われていながら、そのまま暫く放っておくうち、帰らぬ人となってしまいました。こういうことがある度、一期一会という言葉を肝に銘じて行動を起そうと思うのだけれど、結局ブソッティに連絡を取ったのも、これだけ長い時間が経ってからのことでした。高校生くらいの頃は、渋谷や銀座のヤマハにゆけば、ブソッティの楽譜は山ほど積んであって、それを片っ端から小遣いを叩いて買い込んだのは、独特のおどろおどろしい表紙や譜面に、思春期特有の憧れが加味されたようなものだったのでしょう。桐朋の図書館で、マルブレやラーラが入ったレコードを数え切れないほど聴いたのも、今から思えばただ懐かしい思い出です。高校に入った当時、たびたびブソッティに言及されていた八村義夫さんが亡くなられたばかりで、彼が桐朋の図書館に取り寄せてくださった数多くのブソッティの資料が、「独特の匂いを放っていた」のも確かです。
そうして凝り固まった固定観念をもって本人に会ってみると凡そかけ離れた人物であったりするわけですが、実際、ピンク色の半そでシャツに紺色のベストを着てゴニン通りを笑いながらこちらに歩いてくる小柄な老人は、75歳とは思えないほど闊達で、およそ、おどろおどろしさとはかけ離れた、陽気でエネルギーに溢れていました。
ひょんなことから来年一緒に日本に行かないか、という話が持ち上がり、その打ち合わせのために、顔を見て話そうと会いに出かけたのですが、話好きでとめどなく会話は流れてゆくのです。脱線ばかりひどくて、なかなか本題が煮詰まらないのが困ったところなのですが、その脱線談がとにかく愉快で、ひたすら腹を抱えている始末でした。
会ってまず尋ねられたのが家族構成で、妻と子供も一人いるというと、子供は一人では可哀相だからせめてもう一人は作るべきだ、君はどう思うのかね、兄弟はいるのかい、などと話したあと、ところで自分には中国人の子供を養子にもらったパリに住んでいる甥がいてね、いやあ中国人というのは、何というか身も蓋もない言い方をするんだよ、と笑いながら、ヴェニスに初めてやってきて運河を見たら、水は臭いし汚いって言うしね、容赦無しだ。まだ6歳だというのに大したものだ。ところで中国人は日本人とは犬猿の仲なんでしょう、そりゃあねえ、日本と中国じゃ大分文化だって違うしね……。
こういう按配で、話はどこまでも果てしなく続いてゆきます。
「自分が小さいとき、父はフィレンツェの市役所の登記係で働いていてね。父の仕事机の後ろには、一見それと分からないまあ一種の隠し扉みたいなものがあって、でもそれが今でも開くんだよ。それを開けると隠し通路が隣のウフィーツィ美術館に繋がっているんだ。何でもその昔メディチ家が何か有事に備えて作らせたらしいんだけどね、その通路を抜けるとボッティチェルリの部屋にすぐ出るんだよ。だから、子供のころ、いつもそこを通ってウフィーツィに出かけては、飽きるほどルネッサンスの名画に親しむことができてね。写生とかしているうちに、結局それが自分とオペラや視覚芸術全般との関わりに大きく影響していると思うんだよ。
どういう思い込みなのか、わたしには芸術の才能があると勝手に思い込んだパトロンがいてね、彼がとにかくパリにゆけと薦めてくれたんだ。それで彼のパリのアパートに住みはじめて、色々と周りを訪ね歩いて、どの作曲家に習えばよいのか、と相談していたら、ちょうど住んでいるアパートの近くに住んでいたマックス・ドイッチェを薦められてね。
それで、いざレッスンに出かけてみると、まずやらされたのがイタリアオペラの分析だった。最初の年はトスカだったかな。それを半年くらいかけて、ものすごく丁寧に分析させられた。先生、僕はパリくんだりまでイタリアオペラを勉強しに来たのではありません、前衛音楽を習いたいんです、と泣きついたこともあったけれど、今思えば、あのときに勉強したオペラの知識、特に言葉と音楽、ドラマツルギーと音楽との関わりについて、かけがいのない勉強をさせてもらったと思っているよ」。
彼が何度となく舞台監督をつとめたプッチーニやモンテヴェルディのオペラの話になり、プッチーニのオペラで一番好きなものは、何と言っても「西部の娘」だといいます。自分も偶然個人的にはあのオペラは大好きで繰り返し聴いたけれど、でも何でわざわざ「西部の娘」なのか、と改めて尋ねますと、あんなに話の展開も、旋律の美しさも際立つオペラは他にはないと言います。考えてみれば、冒頭の序曲からして、ブソッティのオーケストラ曲の出だしを彷彿とさせますし、場面転換や構成、それに音楽の質感全体も、なるほどブソッティ好みなのが納得できるような気がします。
「プッチーニの実の娘とかなり親しく付き合って、色々な逸話や大事な資料なんかも見せてもらったりしているんだけども、プッチーニって男はセンチメンタルな部分で問題があった男でね。とにかく行く先々でどの女性からも好かれてしまう」と笑ったあと、「それはともかく、西部の娘の最後で、丘の向こうからヒロインが馬に乗って助けにくるシーンがあるでしょう。あそこの場面のために、プッチーニはリコルディに12頭、生きた馬を用意すること、と契約条件に入れたんだよ。実際ニューヨークで初演されたときには用意されたらしい。でもね、そんなこと普通は他の誰も出来やしない。ところがね、わたしが演出をしたときには、本物の馬を5頭も用意したんだ。それが本物の木の合間から抜けてくるように作ってね。そんな演出を実現したのは、プッチーニ以外お前だけだって皆に笑われたけどね」。
「ところで、アメリカといえば、全然英語が出来ないんだけれど」
日本でワークショップなどを考えようと思っているので、言葉の問題が気になったのでしょう。
「サドによる受難劇をニューヨークでやったとき、数ヶ月滞在したから、今度こそ絶対英語が話せるようになると思ったんだけどね。ダメだった。何しろ皆周りがフランス語が話せちゃうものだから、全然上達しなかったよ。ところで、最近肉は食べないんだけれど、日本はベジタリアンでも大丈夫かな。もっとも、魚はよく食べるんだけどね。それじゃベジタリアンじゃないか」。
日本なら魚料理は大丈夫ですよ、心配しなくても、と言うと、
「ああそう言えば、その昔武満さんが日本に招いてくれたときは、鶏肉の串焼き(焼き鳥のことか)、あれは大好きだった。今じゃもう肉は食べられないんだけどあれの魚版なんてあるのかな。武満さんとはフランス語で話して、ずいぶん仲良くさせてもらったよ。彼はローマに暫く住んでいたことがあってね。おそらく映画音楽でも書いていたんだろうね。それでお互い近所でね、なぜかイタリアの同じ銀行に口座があって、銀行の窓口で何度か会ったな。きっと彼を雇っていた映画会社かなんかが給料の支払いかなんかのためにそこの銀行を使っていたんだと思うんだけど。そうだ、日本に行ったら自分と武満さんとの関わりについても是非講演させてもらいたいね。彼は僕に曲まで献呈してくれて、いやあ本当に良い人だったよ」。
と、この按配で話は続くのでしたが、傑作なのは最後に、
「ところで、旅行中は君も一緒に来てくれるんだろうね。普通はロッコが僕の面倒をみてくれるから何とかなるんだけど、一人でふらふら歩いているとね、もう空港とかすぐに面白いものが目に入ってしまってふらふらとそっちへ行ってしまってね、いつも元の場所に戻れなくなってしまうんだ。どうかそれだけはよろしく頼むよ」。
というわけで脱線してしまうのは、どうやら話だけではないことが分かりました。さて来年の企画はどうなりますことやら。よく分かりませんが、なにやら愉しみではあります。そろそろ外も青空が広がってきました。今日もまたとても暑い一日になりそうです。(モンツァ7月28日)
音楽を記述すること 石田秀実
音楽を記述するとはどういうことだろう。もちろん音楽のすべては、記述することができない。変化運動し続ける時空全体を振動させて、音楽が現れているとき、それらすべてを記述することなどできるはずがない。
音楽を記述するとは、だからそのほんの部分を選んで書きとめる行為となる。その一部分とは、心覚えのようなかすりがきであることもある。音の運動のかたちをもっぱら記すものであることも多い。音の色彩的変化を追う記述もある。音と共に変わる空間の変化を記述することも、音楽を記述することである。
こうした多用な「音楽の記述」のうちで、音の継起的な高さの変化と、持続の変化に中心をおいた記述が、今の私たちの文化を支配している。そこでは音の色彩や運動の変化、音が形作る空間の記述は、脇のほうに置かれがちである。
音の継起的な高さと持続に心を配るのは、たぶんそれらがひとつの直線の上を持続しているという意識があるからである。線のように捉えられた時間軸を、当然の前提とする考え方がそこにはある。
時は、だが必ずしも一直線に流れるものではない。私たちの身体に現れる時間は、「いま、ここ」というより、「今ですらない、ここですらない」分節以前の時間だけである。カントのいうようなニュートン的時空の先見的枠組みを持ち合わせているのでもない限り、私たちの身体は連続変化している時空を、切り裂くことなく連続のままに感じるだろう。
たとえば鐘の音や、大地の響き、あるいは能管の響きでもよい。私たちはそれらを、かならずひとつの直線のうえの継起的持続として聴いているだろうか。それらは、むしろひとつの空間、「ひとつの今ですらない、ここですらない」時と場として現れるのではないか。
ひとつの直線の上を、継起的に変化しながら、音の高さが変わり、その長さが変化していく、という捉え方をした上で、それらが動いていく筋道を、予測し、できうればそれらを二次元平面の上に記述する。
二次元平面上に静的に記述された音高と持続の変化は、そこで今度は、時間的であるよりも、記号的に扱われる。こうした操作によって、音の響きそのものよりも紙の上でより鮮やかに見える対位法や、記号となった音を言葉と照応させたり置き換えたりして浮かび上がる意味が、音の代わりに音楽の中心に躍り出る。
こうした音楽のある種の制度を前提において、その直線的時間の上の成り行きを、今度は意味や規範ではなく、音そのものの聴取として考えようとするのは、ひとつの立場である。そのためには意味や規範を、あいまいにし、むしろひとつの意味や規範としては聞こえにくくする工夫が必要となる。意味や規範が後景にしりぞけば、聴く人は音そのものとむきあわざるをえない。もちろん意味や規範以外のものを聴こうとしない人は、そこにそれらの恣意的で粗雑な代用品を見出すか、あるいは何も聴かないかもしれないけれど。
でも問題はむしろ、そこで前提となっているひとつの直線上を継起的に進む時間という考え方、ないしは表象の仕方にあるのではないか。それは必ずしも必然的な時間のあり方ではない。とりわけ西欧音楽の文脈では、そうした線的時間は、伝統的に独我論的な存在論宇宙と一体になっていたように見える。うつろい、変化であるにすぎない時間と、環境の中に埋もれてあるにすぎない私たちのあり方から、「今ですらない、ここですらない」、いわば分節を越えた時と場に、現れる音楽の別の在り方を考えられるのではないか。
干からびたメロンと竹下夢二 佐藤真紀
見えないところで話が進んでいくというのはアラブ世界ではよくあること。ヨーコによると、ディアールが、私が日本からかわいらしい洋服をお土産に買って帰ってくれると楽しみにしているという。はて、そんな約束はしたかなと思いあたるふしはないのだが、ホープレスとされて、治療すら受けさせてもらえないがんの少女が楽しみにしているのにがっかりさせるわけには行かないだろう。「浴衣とかそういうのが欲しいのかな」ヨルダンにだって、ベネトンとかもあるし、イスラムの国でもローライズのジーンズだって売っているのだ。特に最近では、モールがあちこちにできているから、かわいらしい女の子の服は、わざわざ日本で買う必要はない。
ヨーコからのメール。
「ディヤールの服ですが、和風というよりは、『日本からわざわざもってきた』ことが大事だと思います。ピンクとかのかわいいお花とかうさちゃんとかリボンの方が好きなように思います。最近の流行はわかりませんが、和風柄のパジャマとかだと、おばさん、おばあちゃん用ならあると思うけど。先日、私があげたウサギのぬいぐるみ(ピーターラビットみたいなワンピース着たうさぎさん)お気に入りでキスしたり、だいて寝たりしてます。着てる服をみたりしても、きっとそんなのが好みなのではないでしょうか?」とアドバイスをしてくれるのだが、複雑な思春期の乙女心を読みながら、一体どんな服が似合うのかなとおもい、ちょうどパルコでバーゲンをやっていたのでのぞいてみたが、お姉さんたちが獲物をむさぼる殺気立った群れの中にはどうも入れずに退散する。ああ、この敗北感といったら!
結局、宿題は、成田まで持ち越された。飛行場にユニクロがあって、竹下夢二Tシャツなるものを売っていた。これならいける。タグも日本語で書いてあるからはるばる日本から買ってきたという雰囲気がかもし出されている。
再開したディアールはすっかりやせてしまい、顔は黄色く、どす黒かった。それでも、僕たちは冗談を言い合うことができたし、写真を撮ったりして遊んだ。彼女は、お土産を喜んでくれた。しかし、それからディアールの体はどんどん弱っていた。
6月2日
ディアールの様子を見にいく。最初は寝ていて、隣で母さんが電話で父さんと話して泣いていた。ディアールは、気持ち悪いのか起き上がると胃液のようなものを吐いていた。それからものすごく苦しそうにもがいていて、婦人警官も涙を浮かべて、男性の警官も涙した。ドクターが来て私と男性の警官は外に出された。もうこれでおしまいかと思ってしまう。その後、モルヒネを撃ったのか少し落ち着いたみたいだ。おなかにかなり水がたまってきている。顔色はますます黄色くなっている。
6月3日
ここのところ、アンマンは暑い。40度近くまで気温が上がる。私の仕事はといえば、冷えた水とテレホンカードを差し入れることだった。ベッドの脇のスチールの開き戸棚には、干からびたメロンがしまってあった。ディアールは、苦しそうに起き上がるとまた胃液を吐いた。しばらくするとソーシャルワーカーだと名乗る女性がやってきて、ニコニコしながらお母さんに向かって「どうして泣くのかしらね」と諭していた。彼女は優しそうにディアールの背中をさすってコーランを読んであげていた。ディアールも少し落ち着いたのだろうか。おそらくは、モルヒネが効いてきたのだろう。ソーシャルワーカーの女性もディアールを抱きしめると、ディアールには見えないように涙を流していたのである。「5年、5年」ディアールは苦しそうに叫んでいた。彼女はがんになって5年たつのだ。5年も苦しんだという意味だろうか? あるいは、5年もがんばったよと言う意味であろうか。
6月4日
今日も朝から、暑い日であった。ちょうどディアールの父が、難民キャンプから会いに来る日になっていたので、薬屋のハイサムと一緒に病院に出かけた。父はあわただしく動き回っていた。もうホープレスといわれながらも、がんの専門病院になんとかディアールを入院させようと躍起になっていたようだった。ディアールは眠っていたように思えたが、起き上がってなにか話した。声は小さい。モルヒネが効いているのだろうか。少し楽そうだ。握手をして、肩を抱いた。一日でまたやせたようだ。少し、微笑んだので、私たちは安心してその場を去った。夕方、ハイサムのところに電話が入った。聞くまでもなかった。ディアールが亡くなった。
ディアールの姉は、ヨルダン人と結婚して近くに住んでいた。義理の兄は、ディアールの遺体を引き取り葬儀をとりおこないたいと警察に申し出た。しかし、「ディアールは、難民であるがゆえに、国連とヨルダン政府の契約によって、難民キャンプ以外での外泊はゆるされません。だって、ビザをもっていないでしょう!」と言うことか? もちろんヨルダンの警察はそんなことを説明する必要はないわけで、ただ、「だめだ」と一言、言うだけでいい。
私たちが警察と交渉している間にディアールは冷凍されてしまっていた。
気がつくといつの間にか日は落ちていた。母親が、病院の中庭で喪に服していた。意外と落ち着いていた。吹っ切れたのだろう。ディアールは、もう苦しむことはない。確かにこれ以上彼女の苦しむ姿を見るのは限界だっただろう。病院に付き添えるのは母一人だけだった。一人で苦しみと悲しみを背負いこんでいたのだ。
翌朝、私たちは、難民キャンプから外出を許された家族たちと合流して、ディアールを埋めにいった。アンマンを抜けて、郊外のくず鉄などが集積されている地区を通り抜けると、砂漠の真ん中に共同墓地があった。まるで、ディアールを捨てに行くようだった。棺桶もあてがわれず、遺体は白い布にまかれストレッチャーで運ばれた。墓地にあるモスクに遺体を横たえる。ディアールの父はコーランを暗誦するが、途中で詰まってしまう。横にいたハイサムが助け舟をだす。ディアールの家族はシーア派で、ハイサムたちヨルダン人はスンナ派だ。イラクでは宗派の違いで殺し合っているがここでは助け合う。
墓穴は2メートルくらい掘る。太陽はぎらぎらと大地を焼き焦がす。土煙が舞い上がる。天国へ行くはずなのに、地獄へ埋められるかのようだ。アラビア語で地獄はナール(炎)という。
みんな土ぼこりに紛れ、ディアールを埋めた。父は、「一体どうやって、ディアールの墓だとわかるんだ」といった。墓石もないのだ。男たちはその辺に落ちていた板切れをもってきて、ボールペンで弱々しく、「ディアール、イラク」と書いて、小石を集めて支えた。「あそこの方向にモスクが見えるだろう。そこに木があって、何メートル離れているところと覚えるんだ。いいか」そんな風に教えていた。
埋葬が終わると、家族たちは、イラク国境近くの難民キャンプへと去っていった。
私は、たまらなく悔しくなった。「わが国は、世界第2位の経済大国として、戦争が始まった場合は難民の支援を行う」とわが国の外務大臣が言っていた言葉が耳に染み付いて離れないのだ。頭上には灼熱の太陽が、紅炎を高らかと吹き上げて笑っているようだった。私たちは何もできなかった。ああ、この敗北感といったら。救いは、最後までディアールが夢二の絵をデザインしたTシャツを着ていてくれたことだろうか。
反システム音楽論断片3 高橋悠治
演奏者は演奏のためにだけ集まる
しごととあそびがひとつになる場
結果の一回性をうしなわないために
練習の回数は必要最少限にとどめる
他の演奏者の音をきき 自分の音の入るべき時まで待つ
音があらわれ 消えていくまでを
注意深くききながら
音それぞれのきらめきとうごきを
さまたげないようにする
ひろびろとした
風通しのよい空間のなかで
さまざまな音が 固有の時間で点滅しながら
一度限りの関係を織りなす
遠く離れた星が
ある角度からは 星座に見えるように
引力と
それから逃げようとする遠心力のバランスが
衝突しないように
それぞれの音の軌道が決められている
ひとつの音は 他の音とのちがいによって
輝く
メロディーやハーモニーのように
制度化された文法から離れて
ばらばらにされた音と
他の音 環境音さえも との出会い
計算された構成ではなく
発見の継続の一時的組織
プロセスとその結果を分離させないような
作品の提示
自由な音楽は
聞きたい音をつくり
こうありたいと思う音の状態を
音楽としてつくりだすことによって
非暴力直接行動による平和な社会のモデルをさきどりする
その音楽は だれのものでもない声
だれでも使うことのできる
手順であることが のぞましい
個人的なスタイルは 商品となり
ブランドとなって その所有者が
そこから出られない魔法の輪になる
作品や演奏のスタイルが その作者をしばる
音は自由であり
音楽は 音の関係の自律的な調整でありうるが
音楽家は
資本と国家が暴力で維持しているこの世界のなかで
自由ではない毎日を生きる
それでも 音の場で
一時的な協力関係にはいって
音の出会いに触発された発見の時間には
権力のはいりこめない 親密な対話と
呼吸できる空間が残されている
ちいさなゆれ かすかなずれ
いつでも起こるこうした偶然
失敗とみなされてしまうようなほころびが
世界をしめつけている管理された時間に穴をあけ
ちがう風景を一瞬見せてくれる
思い通りにうごかない手
その手にまかせて あらわれる音
手についていく 意図から解放された まがりくねる道
思うままに音を操る手からは
予定された音しか出てこない
安全だが おなじところを回っているだけで
どこにも行き着かない競技場のコース
並行して落ちる雨の粒の
理由のない 偶然のわずかな偏りから
ぶつかり はねかえり 飛び散って
遠く離れたものが結びついた
世界が生まれるという エピクロス派のクリナメン
世界はひとつではない
たくさんの世界がある
それぞれの時間が またたいている
知っている世界が こわれ
かけらがあつまって 別な世界が生まれる
知っている音楽を ばらばらにして
遠い響きをたどりながら 別な音楽が立ち上がる
知っているはずの音なのに
どこかがちがっている
音楽を演奏することは
受け継ぎながら 変わっていくプロセスの一部
作曲も 変わっていくおなじもの
即興は くりかえし踏み固めた けもの道から
知らない脇道に踏み出そうとする
歴史と同時性の入り組んだ迷路のなかで
今月はここまでにしよう
つづきは また考えることにして
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