2006年9月 目次
5年後のNY 佐藤真紀
ビン スラチャイ・ジャンティマトン
tsu tu t──翠の虱(23) 藤井貞和
しもた屋之噺(57) 杉山洋一
朝の演説 小島希里
製本、かい摘まみましては(21) 四釜裕子
へんなこと 大野晋
ホリデーの憂鬱 三橋圭介
反システム音楽論断片4 高橋悠治
5年後のNY 佐藤真紀
早いものでNYの同時多発テロから5年たつ。暑い夏が終わり気持ち的には、のりのりのはずなのになんとなく沈んだ気持ちになってしまう。
先日NHKで「どうして戦争をするの」という番組がオンエアされた。子役の俳優が3人スタジオで石田伊良、本城まなみとトークを繰り広げるという番組。私も少しながら番組制作に協力したのだが、番組の一部で印象にのこったところを紹介したい。
911で息子を失ったセクザーさんが、イラク攻撃を行う際に、自分の息子の名前を書いた爆弾を落としてくれと米軍に頼んだそうだ。「ジェイソン・セクザー、あなたのことを忘れない」と書かれた爆弾がイラクに落とされた。
「うれしかったです。爆弾は復讐のひとつにはなりました」しかし、NYのテロとイラクは何の関係もないことをブッシュ大統領自ら認めた。それでも、セクザーさんは、「自分のしたことを過ちだと思わない。アメリカはこれからもテロの犯人を探し出してやつけるべきだ」という。
この話を聞いて、思い出したことがある。2002年、私の親友が突然死でなくなった。私はイラクに行っていたために葬式にいけず帰国してから、線香をあげに山口県の彼の実家を訪ねた。お母さんは、「申し訳ないのですが、私は、あなたたちのことが憎くて仕方がないのです。こうしてあなたたちがいるのに、私の息子はなぜここにいないのかって」そういうとお母さんは泣き崩れてしまったのだ。私は正直面食らってしまった。しかし、冷静に考えれば、お母さんは、私に爆弾を落としたりはしない。私はテロリストでもないし、彼を殺したわけでもない、何よりも彼の死を悲しんでいる人間の一人なのである。お母さんがそのことを理解するのに少し時間が必要だった。
昨年、私は、18年ぶりにNYへ行った。中東での生活が長かったので、アメリカにはいい加減うんざりしてしまった。たとえば、セクザーさんのような人を見たら私は耐えられないだろう。アメリカの帰還兵で平和運動をしている人がいることも知っていたが、接点を持つことは気持ち的に不可能だったのだ。私は貝のようになっていた。しかし、アメリカが落とした爆弾が一体どこに落ちたのかをしっかり伝えなければいけないとおもった。劣化ウラン弾は、その後も放射能を出し続けるから、何年にもわたって子どもたちを殺していくのである。白血病で死んでいったイラクの子どもたちが描いてくれた絵をNYに持っていってアメリカ人に見て欲しかった。グランドゼロにそれをもってくると、なんだか自分が逆立ちをしているような気分だった。するとどうだろう。爆弾が降ってくるのが見える。ムスタファ、ザイナブ、ファラ、ラナ、ヌール、アッバース……、無数の爆弾が落ちてくるのだ。私は、NYに来てよかったとおもった。子どもたちの絵は、私の復讐なのだ。爆弾は、壊し、殺し新たな憎しみしか残さない。でも、子どもたちの絵は、なによりも「私たちのことを忘れないで」と訴えている。NYの人たちにもしっかりと焼きついたのではないだろうか? これからも、私は、「復讐の手段」として、イラクの子どもたちの絵を紹介していきたい。『ヒバクシャになった帰還兵』 佐藤真紀編著 大月書店
9.10、11は荻窪のBUNGAに子どもの絵を展示します
ビン スラチャイ・ジャンティマトン 荘司和子訳
ビン、ビン、聞こえるかい
ぼくらの呼ぶ声が
きみは蒼穹に飛び立った
悲哀の雲のように
ビン、きみは漂う
風と戯れ
風に乗って行く
ビン、こころゆくまで楽しめ
痛みの海を超え
鮮血の海を超え
山々 水田 切り株 草 埃
人びとの繰り返し呼ぶ声を超え
骸骨の山から歌声がする
時計がもろく砕けていく
壊れた車の山
死んだ街の土埃
ビン、飛んで行け
誰なのか
ビンを見るのは
聞こえる 誰かが
大声で呼んでいるような
何故だ 俺の涙が
頬を伝って落ちる
ビン、ビン 大地が呼んでいる
人びとの応える声がする
別れ 未来永劫の
別れ
前回とは別のスラチャイの受賞記事の中にあった詩です。これは1985年「カラワン8」というアルバムにある歌で、長いこと意味不明でした。なぜならタイ語で飛ぶ、はビンですからビンだらけで何うたっているんだか?だったわけです。
この記事の筆者によれば、スラチャイの歌は書かれたときにその状況にいた者でないとわからないものがよくあるが、として「ビン」が例としてあげられています。
ビンは北部少数民族ラフ族の戦士の名前だったのでした。百戦錬磨の兵で、賢く、勇敢で同志から愛され信頼されていた隊長で、ナン県での戦闘で戦死したということ。古いアルバムを出して聴いてみました。ビン、初めて分かりました、あなたのこと。
tsu tu t──翠の虱(23) 藤井貞和
t
(短詩に、「津」というタイトルで、
津
というのがある。もっと短いのをさがすと、アイヌ語に「tsu tu t」という三音韻があり〈ttuもある〉、どうしようかと思うあいだに、t)(これは困った。意味のフロアーを一段、さがらなければならない、t)(しかし、意味のあるような気がする。t と言って、飲みこんだ意味があるなら。原意味があるなら。)(ttは意味をなさない。だから「tt」という短詩は考えなくてよい。)(tが語頭にくることはない。そうすると、詩は語頭をもたなければならないか、という疑問に立たされる。これまで日本語で安心し、意味に寝てたのに、こんな危機感は。歴〈レッキ〉)
しもた屋之噺(57) 杉山洋一
先月の猛暑が嘘のように、8月の声を聞いた途端、ミラノは秋の気配に包まれました。結局今月は譜読みと作曲を続けているうちに過ぎてしまった感があります。今は連日の合わせが終わり、エルナンデスの詩で合唱を書きながら、秋にロサンジェルスで演奏するドナトーニの「最後の夜」を勉強しています。思い返せば、高校のころ、篠崎先生のお宅で、「最後の夜」のヴァイオリンのパート譜を見せてもらったのが、ドナトーニとの最初の出会いで、あれから20年近くたって、漸く自分で演奏する機会が巡ってきました。久しぶりに一つ一つ音符を追いながら勉強して痛感したのは、言葉で表現できないドナトーニの凄さです。彼の亜流とか弟子たちの作品でよく書けているものはたびたび見かけますが、楽譜を勉強して改めて感じるのは、ドナトーニの素晴らしさは作曲の技術でも書法でもなくて、彼自身の音楽性によるのだという至極当然の事実でした。
「最後の夜」は、ポルトガルの詩人フェルナンド・ぺッソアのテクストを、タブッキが伊訳した断片からなっています。こうして譜読みを粗方終えて、ふと、納戸にしまいこんであったエンツォ・レスターニョのインタビュー記事を読み返してみたくなりました。
「1980年に書いた、<最後の夜>という、フェルナンド・ぺッソアの詩による女声と五楽器のための叙情的な短い断片集があるだろう。君とぺッソアとの出会いというのは、誰もの興味をそそるところだと思うんだがね」
「いや、あれは実は偶然なんだ。それまでぺッソアは全く読んだことがなかったんだけれども、あの年の夏、マリゼッラ・デ・カルリが<たった一つの多性>を読み始めてみて、絶対僕にぴったりだと確信して、渡してくれてね。ぺッソアが色々なペンネームを使って、さまざまな人格に成りすました例のエピソードに魅了されたんだ。だから、あちらこちらから断片を集めて、ちょうど書かなければならなかったフランス放送の委嘱新作を書いたというわけさ。1980年の10月から12月までかかってスコアを仕上げた。あの頃、また新たな欝病の症状に呑みこまれつつあったところだった。直後の1981年の初めから、結局精神分析にかかって、なんとかあの状況から脱しようと試みるんだ」
こう答えたあと、エンツォは、欝病に悩まされる人間が、ぺッソアのような絶望的で暗い世界を読むのは到底良いとは思えないが、と続いてゆきます。
この年の春、ドナトーニはチェロ協奏曲「階段の上の小川」を作曲しました。この曲は「最後の夜」とともにこの時期の傑作として双璧を成していますが、「階段の上の小川」の44頁を作曲中、ドナトーニは精神病の発作が起きて作曲を中断せざるを得ませんでした。作曲にあたり下書きを用意せず、いつも直接清書をしていたドナトーニの精神状況は、この44頁の長いフェルマータの前後で大きく変化するのが、聴くものの心を穿ちます。そして、まさにその直後に書かれた「最後の夜」のために、ドナトーニが選んだぺッソアの断片は次のようなものでした。
「暗がりで、自ら解さないままに独りごちた。遥か彼方、神が忘却の都市を築いた砂漠を、今日わたしはこの手で知る」
「あたかも一日が死にゆくような風景の、旧く静かな夜に立ち戻るために」
「(風。戸外のあちらに)」
「皆、死んだ赤ん坊を抱いて、あやそうではないか」
「どこでもそうであるように、ここでも異邦人だ」
「静かなる夜よ。わたしにとって、どうか母性であってくれ」
「闇の些細な羽音、さもなければ葉のかすれる音に、際立つ沈黙」
「病人。翻る旗のまにまに、滅びゆく剣の刃の夕暮れは、王国の最後の夜が焔に包まれて」
全体がシンメトリーの8章の歌曲集は、歌詞もまたシンメトリーになっていて、冒頭と終章は、同じ詩集から採られています。原詩にはかなり長大なものもありますが、ここではどうやら詩の前後の脈絡なしに、作曲者の一定の視点に沿って切り出されたようです。
ドナトーニが欝に呑み込まれそうになりながら編んだ言葉は、果てしない闇のなか音もなく燃えあがる崩れかけた彼自身の姿を彷彿とさせます。様々な人物に自在に変容しながら紡がれるぺッソアの言葉は、底なし沼に足をすくわれかけていたドナトーニにシンパシーを呼び覚ますものだったに違いありません。
「最後の夜」が書かれた1980年、ドナトーニは二冊目のエッセイ「Antecedente X 作曲の困難について」を出版します。「Antecedente X」は、難解で有名なドナトーニの本のなかでも特に理解が難し いと言われますが、多くは精神科の医師の勧めに従い夢をそのまま書き留めたもので、内容は幻想的で怪奇な情景が続きま
「最後の夜」には、こうした当時の作曲者の精神状態がはっきりと刻印されているように思います。どんなに音が交ざり合って混濁しきっていても、感情は空虚で、絶対に濁らないのです。虚無感にも通じるような、この感情不在の不安感が浮かび上がらせる夜の風景は、どこまでも透明で、人間的な触感が極力排除されているようです。そしてこれらのファクター全てが、ぺッソアの言葉と結びついて、強烈な個性を放つことになります。ぺッソアのように、直接自己を露呈せずに借り物の他者に言葉を託す姿勢が、当時のドナトーニにそっくり当てはまるからかも知れません。
とにかく楽譜を勉強してゆくうち、この透明感、虚無感にすっかり魅せられてしまいました。そして、ああまたこの色だ、この暗い、くすんだ茶色のような色調が、イタリアのリアリズムの色なんだと妙に納得するのです。ミラノ中央駅のくたびれた色の剥き出しの鉄骨のような、ダルラピッコラの肌触りのような、イタリアン・リアリズムの白黒映画のような、暗くて鈍い色が、ここにも一面に塗りたくられているように思います。でも、そこから全ての感情を抜き去ってしまったような超越感があって、まるで剥製になったピエロ・リュネールのような按配です。編成から鑑みても、何箇所かの女声の扱いを見ても、ドナトーニがピエロ・リュネールを意識していたのは間違いありません。
4曲目の歌詞に出てくる「死んだ赤ん坊をあやす」という下りで、原語では「男の子の赤ん坊」と書かれています。これを読んだとき、ドナトーニには一人幼くして死んでしまったマルコという男の子がいたのを思い出しました。「Antecedente X」の前書「Questo」をマルコに捧げるほど、彼はいつもマルコのことを心に留めていました。この歌詞を選んだとき、ドナトーニがマルコを意識していたかどうか分かりませんが、「死んだ赤ん坊を、figlio morto...」とこの曲を 結ぶところで、「死んだ morto」という言葉を最後まで言い切らずに「mor....」だけで二重線が引かれているのが印象に残っています。
6曲目の「わたしにとって、どうか母性であってくれ」という部分では、ドナトー二は曲の最後を「どうか母性で」で終わらずに、また延々と「静かなる夜よ」と繰り返し、一番最後に「hahahahahahaha」という女声の奇怪な笑い声だけで終わります。この意味はぺッソアの原詩「Passagem das Horas」を読んでみてもよく分かりませんでした。一人っ子だったドナトーニにとって、母親はとても強い存在だったのは良く知っています。たびたび話に登場しましたし、彼の家の玄関に、ドナトーニそっくりのお母さんの写真がいつも飾られていたのを思い出します。
この曲がマリゼルラに捧げられているのは、もちろん最初にぺッソアの本を渡してくれたからですが、1980年なら、まだ彼らが付き合いだして3、4年というところではないでしょうか。前の奥さんや子供たちとの関係も一番複雑だった頃だと思います。
マリゼルラと二人、トリノ近郊のモンテウという山村に住んでいた、前妻のスージー宅を訪れたことが何度もあって、2000年頃リハビリを兼ねてドナトーニはずっとこの家に滞在していました。当時、スージーとマリゼルラは表向きまるで家族のような付き合いをしていましたが、それでも一人でモンテウを訪ねるより、誰か同行者が欲しかったのでしょう。よくマリゼルラから誘いの電話をもらいました。ピエモンテの田園風景に車を走らせながら、その昔、確執が激しかったころの話をしてくれたのが、今となってはとても懐かしい気がします。
当時からアルコール漬けで身体を壊していたスージーは、ドナトーニの死んだあと、しばらくミラノの子供たちのもとで治療を続けていましたが、去年やはり肝臓を壊して亡くなったとマリゼルラから電話をもらいました。久しぶりの電話でうちの子供の誕生を喜んだあと、ところで、と声を落として話してくれました。彼女も、長年お母さんと住んでいたローディ通りの家を売り払って、もう少し中央に小さなアパートに引越して、新居に遊びにゆくよと言いながら、互いに忙しさにかまけてそれきりになっているのが、ずっと気にかかっています。(8月28日モンツァにて)
朝の演説 小島希里
月いちど、近所の公民館で青年教室という名の講座が開かれている。区の教育委員会が知的障害者の余暇を充実させるという目的で行っている事業で、「青年教室」といっても実際には学校を卒業したばかりの18歳から70歳前後の人たちまでいろんな年齢の人が参加している。日曜日の朝から夕方までぶっ通しで行われているこの講座では、午前中の2時間、クラブ活動が行われることになっていて、わたしはそこの「表現クラブ」に講師として顔を出している。全員で七十人ちかくもいる受講者たちは、「皮工芸」「料理」「造形」「学習」「表現」のクラブの中から、自分が属するクラブを選ぶ。わが「がやがや」の人たちも、この青年教室に通ってきている人が多い。というより、この講座を介する彼らとつきあいがあったから、「がやがや」も生まれたのだった。
「クラブ活動」の始まる前、三十分間ほど、学校でいえば朝礼のような会合が広い体育館で開かれる。横、十列ほど整然と並べられたパイプ椅子は参加者用、その横に一列並べられた椅子は講師用、その椅子に座り、講師と参加者は司会の先生が朝の会を始めるのをじっと待つ。先生は、まず今日の連絡事項を読み上げる。読み終えると、先生が言う。「みなさん、何か、発表したいこと、報告したいできごとがありませんか?」はいはい、はいはい。おおぜいの人が元気よく手を挙げる。先生の指名を受けた人が、前に進み出て、マイクを受け取る。
発表が始まった。「みなさん、電車のパスカードを使い終わったら、どうしていますか」両手で握り締めたマイクと平行に、上半身が少し左に傾いでいる。「みなさん、電車のパスカード、ご存知ですか。あのカードを、捨てたりしていませんか。」唐突な問いかけに、あたりはいっきに静まりかえり、深刻な空気に包まれる。「どうぞ、あれを捨てるのは、やめてください。使い切ったら、ぜひわたしにもってきてください。わたしが集めて、福祉協会に寄付して、恵まれない人たちのために役立ててもらいます。」一語一語間を空けながら情感たっぷりに声を響かせ、今日の悲しいお話を歌いきった。「どうぞよろしくお願いします」深深と頭を下げ、マイクを先生に返すと、にこっとして自分の座席にゆっくり戻っていった。
40代後半ぐらいのこの女性は、やはり青年教室に通ってきているペンキ職人の男性と結婚し、みんなからWさんの奥さんと呼ばれている。旦那さんのお母さんと協力して掃除、洗濯をこなし、お弁当もつくり、家計のやりくりも任されているという。いつもはその暮しぶりにふさわしく、早口でしゃきしゃきとしゃべるというのに、いったいどこでこんな演説術を身に付けたんだろう?
余暇の充実と銘打たれているものの、この講座は学校をモデルに設計されている。朝礼のような集まり、クラブ活動、退職した元校長先生たちがずらっと並ぶ講師陣。そこには、なんともいえない堅苦しさが付きまとう。ところがそんなことを感じているのはわたしだけなのか、がちがちの枠組みに萎縮することなく、演説好きが次々と手を挙げる。
「女優の杉田かおるさんの離婚が秒読みの段階となりました」そっぽを向きつまらなそうにぼそぼそと中年太りの男性が始める。彼は、毎月必ず、芸能ニュースのなかから気に入ったものを選び、記事を丸暗記したような書き言葉でみんなに報告する。結婚でも離婚でも、出産でも訃報でも、嫌々ながら仕方なく発表する点は一貫している。次の青年――ほんとうの青年だ――が、鉄道路線についての発表をする。タイム・テーブルの変更が、不思議な節回しにのせて伝えられる。来月の一日にですね、西武線の練馬駅発のダイヤがですね・・・。と、そこに、ひょろっと背の高い30歳前後の男性が、小走りに手をあげながら登場する。急に、みんながざわめく。先生のとなりの、発表者が立つはずの場所にたどりつかぬうちから、大声でなにやら叫んでいる。どうやら、「関が原の合戦で、もし家康が負けていたら、どうなっていたと思いますか」と言っているらしい。だれにも、答えられない難問をいつも用意してくる。
「わかんねえよ!」「早く、やめてったらあ」なぜか、みんな彼に冷たい。マイクを受け取った彼が背中を丸め、同じ問いを、太い声でつぶやく。どもりどもり、なんどもくりかえされる問いと、不機嫌な聴衆の声とがぶつかり、はじけ、飛び散る。
最後の演説好きは、スポーツマン。「先週の日曜日、区民マラソンで優勝を果しました。タイムは○時間△分×秒でした。」首からかけたメダルを誇らしげに掲げる。「無事、最後まで完走することができました。どうもありがとうございました」
聴衆が、すごいすごいと拍手を浴びせる。演説が山場を迎える。「沿道のみなさん、警備の方々、みなさんのおかげで、この優勝を勝ち取ることができました。どうも、ご声援ありがとうございました!」
製本、かい摘まみましては(21) 四釜裕子
きのう、豪華な夢をみた。立て膝して足の指の爪を切ろうとするが、爪切りがうまく爪にあたらなくてスカスカしてしまう。おかしいなとのぞき見ると、左足の爪がそれぞれ違う色の「革」になっていて、裏側に小さな宝石がキンギンスナゴ状態でついている。スカスカするのは爪が革で柔らかだからで、ああなんだ、この裏側の宝石に気づかせるためのものだったのねと感激したところで目が覚めた。身体に生えたらしいキンギンスナゴを換金して姫のような暮らしをするでもなく、ただ感激したところで終わるといういかにもな「夢」だったが、目覚めた朝はいい気分だった。
前日、川田順造さんがどこかの大学の刊行物に連載している「もうひとつの日本への旅」で、三味線の皮職人を訪ねた記事を読んでいた。三味線といえば猫皮というのは私の思い込みで犬皮もあること、犬皮使用の場合は猫の乳房を模した点を描き込むこともあること、なにより、国産の「素材」調達がほとんど無理になったいきさつが端的に記されていて衝撃であった。犬猫をむやみに捕まえようとしているわけではないのに、「動物の愛護及び管理に関する法律」がそれを許さず、また、保健所が焼却処分を決めた猫を買い受けることもできないのだという。その職人さんの作業場の奥には大きな冷凍庫があり、中国から輸入した選別前の生皮が、大量に保存されている。
三味線は、弾くうちにまた湿度の変化によって皮が破れるから張り替えることが日常であった江戸では、「琴三味線」屋が町内ごとにあったそうだ。今私がよく通る都心の小道に、その「琴三味線」の看板を掲げた店がある。時々なかをのぞき見るが、折よく作業中ということはめったにない。修理中の琵琶がたてかけてあったり、大きな材木から琴らしきものが削り出されていることが数回あったが、三味線をみかけたことはまだない。小さな小さな店である。
今年六月にワセダギャラリー(東京)で開かれたオーストラリアの製本家組織BEAによる「本の声、土の香り」展では、ワニにヘビにカンガルーにエミュー、実にいろいろな動物の皮で装丁された本が展示されていた。実際はなかったが、ここに犬猫が加わると俄然「印象」は変わるだろう。ウシやワニはいいけど犬の皮は残酷、三味線はすばらしい日本の文化だけど日本の猫の皮を剥ぐのは許せない、革装本の材料は「革」だから生皮がどう加工されたかなんて気持ち悪くて考えたくもない、など、私たちはいつも頓珍漢なところに勝手に境界線をひく。
へんなこと 大野晋
夏休み、高速道路を走っていて、へんなことを発見した。
‘流れている’道路で急に渋滞に巻き込まれるのだ。おかしいと様子を見ていると、走行帯が右の方(要は追い越し車線)から順に混んでいる。ふつう、高速道路というのは、左の走行車線を走っている車がときどき前の車を追い越すときだけ追い越し車線を走行するものだから、左の車線から順に混んでいるものだろう。しかし、その常識を破るように、右から混んでいるのだ。
「おかしいな」と観察していると、渋滞の先頭に、車が二台並んで走っているのが見えた。どうやら、それが渋滞の現況らしい。さすがに、車線すべてをふがれてしまえば渋滞してあたりまえだ。
一般に、高速道路の渋滞の原因は、自然に発生する渋滞としては、料金所などを通過する際に溜まる場合とゆるい上り坂などに気づかずに速度が落ちる渋滞に二分されると聞いているから、それとは違う種類の渋滞なのだろう。もしくは、人為的に車線をふさいでいるわけだから、人為的な渋滞と言うべきか。
とにかく、どちらかにどいてもらわないと皆困るのだが、走っている方ははなはだそんなことには無頓着らしい。そういうしているうちに、並んでいるどちらかが根負けしたのか、道が一気にすき始めた。
いやはや、困ったものである。
思い出したが、以前、走行車線ではなく、追い越し車線を走行車線と同じスピードで走っている車に往生したことがあった。そのときは、普通の大衆車だったが、その車は無頓着に、我が物顔で追い越し車線をそのまま走っていた。よく見ると、家族を乗せたおじさんだったのをよく覚えている。マナーの悪いのは、家族が見ていてもお構いなしという事らしかった。実は、最近、本人はおとなしいと思っているのだが、他人にはおとなしくないと言われるクーペに乗り換えた。面白いことに、すると、我が物顔で追い越し車線を走り続けている車が、近づいただけでそそくさと走行車線に戻るようになった。どうやら、前の車は後ろの車を見ながらどくか、どかないかを決めているらしい。困った確信犯である。
ということは、やはり、人為的な渋滞なのだから、これはきちんと安全運転義務違反と走行帯を守らない罪で捕まえるに限る。ぜひ、全国の高速道路を守るパトカーに期待したいと思う。
おしまい
ホリデーの憂鬱 三橋圭介
ブルースは悲しく
寂しいことでもあり
教会にいくようなもの
でもあるときは幸せなことでもあるのよ。
ブルースにはハッピーなブルースと
悲しいブルースの二通りあって
今までに同じテンポで歌ったことは一度もない。
ある晩はゆっくりと
次の晩は明るい調子
その時々に感じたまま歌う。
なんでも歌うわ。
だってそれが人生のすべてだから。
ビリー・ホリデーは投げやりに、しかも老婆のような声で語る。そしてレスター・ヤング、ベン・ウェブスター、コールマン・ホーキンスなどをバックにFine and Mellowを歌いはじめる。だが、この歌も投げやりにきこえる。この感じがホリデーの特徴でもある。それはさまざまな偏見にさいなまれてきた人生そのものであり、黒人のブルースという根と太く繋がっている。
ブルースは社会的な歌、生きるための歌としてアメリカで生まれた。奴隷船から降りてきた黒人はブルースをまだ知らなかった。その嘆きは白人に対する黒人個人の答えだった。呼びかけではなく、淡々と語りかけるように個人が歌う。
ホリデーの歌は白人たちにレコードに録音され、印税などはまったく入らず、録音され続けた。白人の歌手も出てきた。彼女の歌をまねする人も有名になった。しかし盗まれなかったものが一つだけある。それがホリデーの憂鬱ともいえるあの投げやりだ。アメリカのエンターテイメントのなかで個として生きていく。この絶妙なバランスのなかで、この投げやりこそが抵抗であり、根っこにある民族と結びつけている。それは誰の胸に突き刺さっただろうか。
反システム音楽論断片4 高橋悠治
静寂を聴く
まわりの音すべてになじむ
音をメロディーの一部ではなく
切れかたや明るさ 音質がそれぞれちがう
単独事象とみなす
考えたり 計画なしに
ためらいがちに 風に揺れるロウソクの炎のようにたよりない音
それから沈黙
書かれた音のあとに 指定された音の範囲で演奏する
短いフレーズ
和音表
20世紀の音楽は
旋律と それを支える和声という 単線的時間と垂直な支配構造から
リズムと音色にもとづく多時間的水平組織に向かった
どの音色(声)も他の音色(声)を支配しないためには
他の音色のために隙間を残すこと
他の音色の存在を意識しながら しかも自律的な進行をつづけること
それぞれの特異性をたもつことが必要になる
各音色が反復する異なるリズムとそれを区切る沈黙
あるいは中断をふくんだ短いフレーズの反復
これら多様な輪(loop)の組み合わせは
回転しながら進む多時間の織物となる
ここで個々の声の反復は
反復の周期の重層がゆっくりした波をつくるが
他の周期との組み合わせによるずれにより
波はかき乱されて
複雑に伸縮する襞が折り込まれてゆく
単線的な時間構成が
緊張と緩和をくりかえしながら頂点へと向かう
一方向の統制と拘束力をもつのに対して
水平組織は自発的参加を原則とする
ちがう声との出会いによってリズムは揺れ
軌道からわずかにずれていく
ずれが大きくなれば
畳み込まれた襞が内側に収まらなくなり
全体が組み替えられて 波が方向転換することになる
この変化は劇的ではないし 目立たないが
気づいた時には もう引き返せない地点にいる
複数の逸脱から合成されたベクトルを 外側から制御することはむつかしい
ところで 輪というたとえは正確ではない
短いフレーズが終わり また反復されるとき
円を描いて出発点へたえずもどっていく輪とはちがって
終わりと次のはじまりの間には断絶がある
流れを中断しながら進むこと
その中断が音色ごとに不規則に起こることが
音楽を身体的なものにする
と同時に
中断による瞬間的な停止が
音色の差異の断面を乱反射する
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