水牛だより番外 2001年9月11日について
メールで届いたメッセージを転載します。
戦争抵抗者連盟(War Resisters League)の声明
報道機関の煽る危機感 千田悦子
Copy of letter to White House
Copy of letter sent to NY Times
新世紀へようこそ 池澤夏樹
その殺害者たちは卑怯者ではなかった スーザン・ソンタグ
西洋とイスラムの対立ではなく…… エドワード・サイード
悪循環を避ける道 ノアム・チョムスキー
米国への「テロリズム」について、米国の非暴力平和主義のNGO、戦争抵抗者連盟(War Resisters League)が声明を出しました。以下がその拙訳です。(君島東彦訳)
戦争抵抗者連盟(War Resisters League)の声明
2001年9月11日
ニューヨークわたしたちがこれを書いているいま、マンハッタンは包囲攻撃を受けているように感じられる。すべての橋、トンネル、地下鉄が閉ざされ、何千人、何万人もの人々がマンハッタン南部から北へゆっくり歩いている。ここ戦争抵抗者連盟の事務所にすわっていて、わたしたちがまず想うことは、世界貿易センターの崩壊で命を落とした何千人ものニューヨーカーのことである。天気は快晴で、空は青い。しかし、煙りの下の瓦礫の山の中でおびただしい数の人々が死んだ。その中には、ビルの崩壊のときその場にいた数多くの救急隊員も含まれている。
もちろんわたしたちは、ワシントンの友人・同僚たちが、ペンタゴンにジェット機が突入したときに巻き添えになった一般市民について想っていることを知っている。そしてわたしたちは、この日ハイジャックされた飛行機に乗っていた何の罪もない乗客たちのことを想っている。現時点で、わたしたちはどこから攻撃が来たのかわからない。
わたしたちは、ヤサー・アラファトが攻撃を非難したことは知っている。もっと情報が入るまで、詳しい分析は差し控えるが、しかし幾つかのことは明らかである。ブッシュ政権はスター・ウォーズ計画に膨大な支出をすることを議論しているが、それが最初からでたらめであることははっきりしている。テロリズムはもっとありふれた手段でこんなにたやすく攻撃することができるのである。
わたしたちは、合衆国議会とブッシュ大統領に対して、次のことを求める。これから米国がどのような対応をするにしても、米国は一般市民をターゲットにすることはしないこと。一般市民をターゲットにする政策をいかなる国のものであれ認めないこと。これらのことをはっきり認めてほしい。このことは、イラクに対する制裁──何万人もの一般市民の死をもたらしている──をやめることを意味するであろう。このことはまた、パレスチナ人によるテロリズムのみならず、イスラエルによるパレスチナ人指導者の暗殺や、イスラエルによるパレスチナ住民に対する抑圧、西岸およびガザ地域の占領も非難することを意味するであろう。
米国が追求してきた軍国主義の政策は、何百万もの死をもたらした。それは、インドシナ戦争の悲劇から、中米およびコロンビアの暗殺部隊への財政援助、そしてイラクに対する制裁や空爆などに至る。米国は世界最大の「通常兵器」供給国である。米国が供給する兵器は、インドネシアからアフリカまで、最も激しいテロリズムを助長している。アフガニスタンにおける武力抵抗を支援した米国の政策が、結局、タリバンの勝利とオサマ・ビン・ラディンをつくりだしたのである。
他の諸国も同じような政策をとってきた。わたしたちは、これまで、チェチェンにおけるロシア政府の行動や、中東およびバルカンにおける紛争当事者の双方の暴力などを非難してきた。しかし、米国は自己の行動に責任をとるべきである。たったいままで、わたしたちは国境内で安全だと思ってきた。快晴の日、朝起きてみて、米国の最大の都市が包囲攻撃されているのを知って、わたしたちは、暴力的な世界においては誰ひとり安全ではない、ということを思い起こした。何十年もの間、米国をとらえてきた軍国主義を、いまこそ終わらせるべきである。
わたしたちは、軍拡と報復によってではなく、軍縮、国際協力、社会正義によって安全が保障されるような世界をめざすべきである。わたしたちは、きょう起きたような、何千人もの一般市民をターゲットにする攻撃をいかなる留保もなしに非難する。しかしながら、このような悲劇は、米国の政策が他国の一般市民に対して与えているインパクトを想起させるものである。わたしたちはまた、米国に住むアラブ系の人々へ敵意を向けることを非難し、あらゆる形態の偏見に反対してきた米国人のよき伝統を思い起こすよう求める。
わたしたちはひとつの世界である。わたしたちは、不安と恐怖におびえて暮らすのか、それとも暴力に代わる平和的なオルタナティヴと世界の資源のより公正な分配をめざすのか。わたしたちは失われた多くの人々を悼む。が、わたしたちの心が求めているのは、復讐ではなく和解である。
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これは戦争抵抗者連盟の公式の声明ではないが、悲劇が起きた直後に書かれた。戦争抵抗者連盟の全国事務局のスタッフと執行委員会のメンバーが署名して、公表される。2001年9月11日
asifullah
Carmen Trotta
Chris Ney
David McReynolds
Joanne Sheehan
Judith Mahoney Pasternak
Melissa Jameson
報道機関の煽る危機感
国連難民高等弁務官カンダハール事務所で働いていらした方―千田悦子(ちだ・えつこ)さんという方の手記です。千田さんは、国連難民高等弁務官カンダハール事務所で仕事をしていましたが、オサマ・ビン・ラディン氏をかくまっているとされるタリバンの本拠地へのアメリカの軍事行動などの危険性が出てくる中、一時的に勤務先をパキスタンに移転するという措置で、「避難」をしていますが、その緊急避難の最中に書かれたものです。
以下、千田さんの手記です。
9月12日(水)の夜11時、カンダハールの国連のゲストハウスでアフガニスタンの人々と同じく眠れない夜を過ごしている。私のこの拙文を読んで、一人でも多くの人が アフガニスタンの人々が、(ごく普通の一人一人のアフガン人達が)、どんなに不安な気持ちで9月11日(昨日)に起きたアメリカの4件同時の飛行機ハイジャック襲撃事件を受け止めているか 少しでも考えていただきたいと思う。テレビのBBCニュースを見ていて心底感じるのは 今回の事件の報道の仕方自体が政治的駆け引きであるということである。特にBBCやCNNの報道の仕方自体が根拠のない不安を世界中にあおっている。
事件の発生直後(世界貿易センターに飛行機が2機突っ込んだ時点で)BBCは早くも、未確認の情報源よりパレスチナのテログループが犯行声明を行ったと、テレビで発表した。それ以後 事件の全貌が明らかになるにつれてオサマ・ビン・ラデンのグループの犯行を示唆する報道が急増する。その時点でカンダハールにいる我々はアメリカがいつ根拠のない報復襲撃をまた始めるかと不安におびえ、明らかに不必要に捏造された治安の危機にさらされる。何の捜査もしないうちから、一体何を根拠にこんなにも簡単にパレスチナやオサマ・ビン・ラビンの名前を大々的に報道できるのだろうか。そしてこの軽率な報道がアフガンの国内に生活をを営む大多数のアフガンの普通市民、人道援助に来ているNGO(非政治組織)NPOや国連職員の生命を脅かしていることを全く考慮していない。
1998年8月にケニヤとタンザニアの米国大使館爆破事件があった時、私は奇しくもケニヤのダダブの難民キャンプで同じくフィールドオフィサーとして働いており、ブッシュネル米国在ケニヤ大使が爆破事件の2日前ダダブのキャンプを訪問していたというのも奇遇であった。その時も物的確証も無いまま オサマ・ビン・ラデンの事件関与の疑いが濃厚という理由だけでアメリカ(クリントン政権)はスーダンとアフガニスタンにミサイルを発射した。スーダンの場合は、製薬会社、アフガンの場合は遊牧民や通りがかりの人々など大部分のミサイルがもともとのターゲットと離れた場所に落ち、罪の無い人々が生命を落としたのは周知の事実である。まして標的であった軍部訓練所付近に落ちたミサイルも肝心のオサマ・ビン・ラデンに関与するグループの被害はほぼ皆無だった。タリバンやこうした組織的グループのメンバーは発達した情報網を携えているので、いち早く脱出しているからだ。前回のミサイル報復でも 結局 犠牲者の多くは 子供や女性だったと言う。
我々国連職員の大部分は 今日緊急避難される筈だったが天候上の理由として国連機がカンダハールに来なかった。ところがテレビの報道では「国連職員はアフガニスタンから避難した。」と既に報道している。報道のたびに「アメリカはミサイルを既に発射したのではないか。」という不安が募る。アフガニスタンに住む全市民は 毎夜この爆撃の不安の中で日々を過ごしていかなくてはいけないのだ。更に、現ブッシュ大統領の父、前ブッシュ大統領は 1993年の6月に 同年4月にイラクが同大統領の暗殺計画を企てた、というだけで 同国へのミサイル空爆を行っている。世界史上初めて、「計画」(実際には何の行動も伴わなかった?)に対して実際に武力行使の報復を行った大統領である。現ブッシュ大統領も今年(2001年)1月に就任後 ほぼ最初に行ったのがイラクへのミサイル攻撃だった。これが単なる偶然でないことは明確だ。
更にCNNやBBCは はじめからオサマ・ビン・ラデンの名を引き合いに出しているが米国内でこれだけ高度に飛行システムを操りテロリスト事件を起こせるというのは大変な技術である。なぜ アメリカ国内の勢力や、日本やヨーロッパのテロリストのグループ名は一切あがらないのだろうか。他の団体の策略政策だという可能性は無いのか?
国防長官は早々と戦争宣言をした。アメリカが短絡な行動に走らないことをただ祈るのみである。
それでも逃げる場所があり 明日避難の見通しの立っている我々外国人は良い。今回の移動は正式には避難(Evacuation)と呼ばずに暫定的勤務地変更(Temporary Relocation)と呼ばれている。ところがアフガンの人々は一体どこに逃げられるというのだろうか? アメリカは隣国のパキスタンも名指しの上、イランにも矛先を向けるかもしれない。前回のミサイル攻撃の時はオサマ・ビン・ラデンが明確なターゲットであったが 今回の報道はオサマ・ビン・ラデンを擁護しているタリバンそのものも槍玉にあげている。タリバンの本拠地カンダハールはもちろん、アフガニスタン全体が標的になることはありえないのか? アフガニスタンの人々も、タリバンに多少不満があっても 20年来の戦争に比べれば平和だと思って、積極的にタリバンを支持できないが特に反対もしないという中間派が多いのだ。世界が喪に服している今、思いだしてほしい。世界貿易センターやハイジャック機、ペンタゴンの中で亡くなった人々の家族が心から死を悼み 無念の想いをやり場の無い怒りと共に抱いているように、アフガニスタンにもたくさんの一般市民が今回の事件に心を砕きながら住んでいる。アフガンの人々にも嘆き悲しむ家族の人々がいる。世界中で、ただテロの“疑惑”があるという理由だけで、嫌疑があるというだけで、ミサイル攻撃を行っているのはアメリカだけだ。世界はなぜこんな横暴を黙認し続けるのか。このままではテロリスト撲滅と言う正当化のもとにアメリカが全世界の“テロリスト”地域と称する国に攻撃を開始することも可能ではないか。
この無差別攻撃やミサイル攻撃後に一体何が残るというのか。又新たな報復、そして第2,第3のオサマ・ビン・ラデンが続出するだけで何の解決にもならないのではないか。オサマ・ビン・ラデンがテロリストだからと言って、無垢な市民まで巻き込む無差別なミサイル攻撃を国際社会は何故過去に黙認しつづけていたのか。これ以上世界が危険な方向に暴走しないように、我々ももう少し声を大にしたほうが良いのではないか。
アフガンから脱出できる我々国連職員はラッキーだ。不運続きのアフガンの人々のことを考えると心が本当に痛む。どうかこれ以上災難が続かないように 今はただ祈っている。そしてこうして募る不満をただ紙にぶつけている。
千田悦子
2001年9月13日 筆
Dear President Bush:
Our son is one of the victims of Tuesday's attack on the World Trade Center. We read about your response in the last few days and about the resolutions from both Houses, giving you undefined power to respond to the terror attacks. Your response to this attach does not make us feel better about our son's death. It makes us feel worse. It makes us feel that our government is using our son's memory as a justification to cause suffering for other sons and parents in other lands. It is not the first time that a person in your position has been given unlimited power and came to regret it. This is not the time for empty gestures to make us feel better. It is not the time to act like bullies. We urge you to think about how our government can develop peaceful, rational solutions to terrorism, solutions that do not sink us to the inhuman level of terrorists.
Sincerely,
Phyllis and Orlando Rodriguez
Not in Our Son's Name
Our son Greg is among the many missing from the World Trade Center attack. Since we first heard the news, we have shared moments of grief, comfort, hope, despair, fond memories with his wife, the two families, our friends and neighbors, his loving colleagues at Cantor Fitzgerald / Espeed, and all the grieving families that daily meet at the Pierre Hotel. We see our hurt and anger reflected among everybody we meet. We cannot pay attention to the daily flow of news about this disaster. But we read enough of the news to sense that our government is heading in the direction of violent revenge, with the prospect of sons, daughters, parents, friends in distant lands dying, suffering, and nursing further grievances against us. It is not the way to go. It will not avenge our son's death. Not in our son's name. Our son died a victim of an inhuman ideology. Our actions should not serve the same purpose. Let us grieve. Let us reflect and pray. Let us think about a rational response that brings real peace and justice to our world. But let us not as a nation add to the inhumanity of our times.
by Phyllis and Orlando Rodriguez
新世紀へようこそ 001第一回目のはじめに
この時期に、この世界の動きについて、言いたいことがぽつりぽつりと出てきます。
われわれは2001年の9月11日から真の21世紀に入りました。
結局のところ人間はこういう形でしか新世紀に入ることができなかった。
今までは、作家という特権的な身分のおかげで、書いたものを発表する場には事欠かないと思っていましたが、それでは間に合わなくなってきました。二週間先に刊行される月刊誌では事態の方が変わってしまう。
そこで、しばらくの間、半ば私信のようなこの形式で、考えたことをお送りします。
当面は一日一通を目指しますが、ご存じのとおり決して勤勉な性格とは言えないので、抜ける日もあるかもしれません。次第に間遠くなることも考えられます。
内容にしても一般メディア以外の情報源があるわけではなく、少々の思考力と同じく少々の知識がたよりというだけです。
一回ごとにテーマを限って、文体もメール風に、短く簡潔に書きましょう。
以下に載せる一回目はいささか総論的ですが、後はなるべく各論として具体的に進めたいと考えています。
もしも幸いにして共感してくださったら、お知り合いの方に転送を。
池澤夏樹
----------------------------- 1 「しかし」について
今回の事件についての日本の論調には一つの型が見えます。
テロはいけない、許されないと書きはじめて、その後に「しかし」この悲劇を生んだ背景にも目を配らなければならない、という型。ぼくの基本姿勢もまたこの論調をはずれることはできないようです。
つまり、今回の事件(事変? 戦争?? 悲劇!)そのものが一つの大きな「しかし」であったということ。世界史年表に投げ込まれたゴシック体の、逆接の接続詞。
なるほどアメリカは繁栄しており、EUと日本もその余禄に与っている。
しかし……ですね。
冷戦終了以来の10年間でアメリカ文化は世界のいたるところに浸透しました。女性の顔さえ公の場で見ることのないサウディアラビアの首都を、半裸のアメリカ軍女性兵士が歩き回る。
それを見るムスリムたちの屈辱感を、半裸の女性に慣れきったぼくたちアメリカ文化圏の人間は想像しようともしない。
文化の価値を論ずるのはその文化を生きる人々だけです。アラブの文化について、アメリカ文化圏に属するぼくたちは、是非を問う立場にはありません。
冷戦後、一人勝ちのアメリカは結果として、世界各地に多くの屈辱感を強いてきました。
世界の低いところに溜まったその屈辱感を巧妙に集めて、いかにもアメリカらしい、ハリウッド的な広告戦略に沿った形でアメリカに返す、というのが今回の事件の
シナリオです。それが、おそらく実行者が事前に予想していた以上の効果を挙げた。
あれほど派手な、悲劇的なやりかた以外に異議申し立ての方法は無かったのかと問うてみれば、彼らからは無かったという答えしか返ってこないでしょう。
これがぼくの基本的認識です。(池澤夏樹 2001−09−24)
----------------------------- 八巻注・「新世紀へようこそ」は9/24発のこの第一回以降、毎日発信されています。転送をご希望のかたは suuigyu@collecta.co.jp までお知らせください。これまで届いている分をお送りします。3桁の番号になっていますから、きっとしばらく続くのではないかと思います。
また http://www.impala.co.jp/oomm/index_i.html から直接購読を申し込めます。
その殺害者たちは卑怯者ではなかった スーザン・ソンタグ
ショックに沈むアメリカ 論説の誤った一致性驚きのあまり声もなく、悲しみに沈むアメリカ人であり、ニュ−ヨ−ク人でもあるこの私にとって、この前の火曜日という日ほど、巨大な現実がわれわれの頭上から崩れ落ちてきたあの日ほど、アメリカという国がその現実の姿から、これほどまでに、大きく遠くかけ離れてしまったように感じられた日はなかった。
起こった出来事と、その出来事の受け止められ方と、理解のされ方の間におけるアンバランスは、すなわち一方では、ほどんど総ての政治家たちと(NY市長のジュリア−ニを例外として)、他方においては、テレビ解説者たちが(Peter Jennings を例外として)まったくひとりよがりのナンセンスな言葉や、恥を知らずの欺瞞に満ちた発言ばかりに終始していたという状況は、私の心を不安に陥らせ、重く憂鬱にさせるに十分過ぎるほどであった。この出来事を解説する(ことができる権限を持った)声というものは、あるひとつのキャンペ−ンを展開させようとひそかに示し合わせているのか、とさえ私には思えた。
彼らの目的とは、世間一般を、これまで以上に愚民化することである。
今回の出来事は、"文明" や "自由"、"人間の尊厳性" または "自由社会" に対する "卑怯" な攻撃などではなく、アメリカ合衆国に、世界で唯一の、自称最強国に向けられた攻撃なのであるという自明の事実を、どうして認めないでのあろうか? この攻撃は、アメリカという国がとった政治、国家利益の追求とその行動によって導かれた結果であることを、なぜ認めようとしないのであろうか? アメリカが、現在も、イラクへの爆撃を続けていることを、果たしてどれだけのアメリカ人が知っているのであろうか?
もし、"卑怯" という言葉を口にするのであれば、その言葉はむしろ、報復爆撃を空から行う者に向けられるべきであって、他の人間を殺すためには、自らの命をも断つことを覚悟した者に向けられるものではない。もし、われわれが勇気について、この唯一の、道徳的な見地からみて中立である美徳について語るのならば、暗殺者たちを、――たとえ、彼らをどのように呼ばわろうとしようとも――、彼らたちを卑怯であると非難することはできない。
われわれの政治リ−ダ−たちは、声を揃えて、すべては正常な状態にあると信じ込ませようとしている。いわく;
アメリカは何も恐れてはいない。
われわれの精神は不屈、不変である。
"彼ら" を探し出し、"彼ら" に罰を与えるであろう。
(誰がその "彼ら" であろうとしても)
アメリカは、これまでと同じように真っ直ぐに、揺らぐこと無く立っていると、まるでロボットのように国民の前で、何度も、何度も、繰り返して述べる大統領がこの国にはいる。つい最近まで、ブッシュ政府の外交政策を激しく批判していた公務に携わる多くの人物からは、いまや、ただひとつだけの声が聞こえるだけである:
それは、彼らが、アメリカの全国民と一緒になって、全員一致して、恐れることなく大統領を支えていこうという声である。テレビの解説者は、われわれが死を悲しむ人々のために、心の支えとなるべく懸命になっていると報じている。当然のことながら、国際貿易センタ−の中で働いていた人々が、どのような変わり果てた姿となってしまったかを伝える、戦慄を起させるような画像はわれわれの目には示されていない。そのような画像は、われわれを意気阻喪させるだけであろう。
ようやく、2日が経過した後の木曜日になって(ここでもジュリア−ニ市長は例外であったが)、初めて、犠牲者の数についての公式発表がなされた。あの火曜は卑劣な行為があった日として、歴史に記録されることになり、アメリカが再び戦争に直面した日とされているにもかかわらず、国民には、すべては正常な状態にある、または、少なくとも、正常な状態に戻りつつある、とアナウンスされていたのである。何がいったい正常な状態であったと言えるのであろうか?そして、今回の出来事は、あの真珠湾とは何ひとつとして共通するものなどありはしないのだ。
いま、最も真剣に反省され、考慮されなければならないことは、――おそらく、すでにもうワシントンやその他の場所で始まっていることではあろうが――、アメリカ諜報機関が露呈したとてつもない無能さぶりと、特に近東における、これからのアメリカの政策の在り方と、それと、この国におけるきちんとした軍事上の防衛計画についてである。しかしながら、はっきりと判ることは、この国の指導者たちは、――それは、いま現在職務についている者、その職務につこうとしている者、また、かってその職務にあった者らを総てをふくめて――、唯々諾諾としたメディア、マスコミの力を借りて、一般大衆にはあまりに多くの事実は知らしめまいと、心に決めていることである。かつて、われわれは、ソビエトの政党大会において聞かれたような全員がこぞって拍手賞賛し、自分たちだけが正しいとする月並みな発言を軽蔑し、さげすんでいた。ここ数日のメディア、マスコミにおける、ほとんど総ての政治家と解説者たちの口から出てきた、いかにも信心家ぶった、現実の姿をゆがめた美辞麗句による画一的な一致は、民主主義にはふさわしくないものである。
またさらに、わが国の政治指導者たちは、彼らが彼らに与えられた仕事とは、世論を操作することであると理解していることが明らかになった。それは、国民の信頼を得るための操作であり、死者への悲しみと苦痛を上手に処理するための手際である。政治は、ひとつの民主主義におけるこの政治は、――意見の不統一と、矛盾を結果としてもたらし、率直さを促進させながらも――、精神療法と取って替えられてしまっている。
われわれを共にして、死者を悲しまさせんことを。しかし、われわれを共にして、愚行に身を任せることの無きことを。ほんの僅かな歴史に対する意識が、すでに起こった出来事とこれから起こるであろう出来事へのわれわれの理解を助けることであろう。
"わが国は強力である"
この言葉は、すでに何度も、何度も繰り返し聞いた。私には、この言葉はちっとも慰めにならない。いったい誰が、アメリカは強力であることに疑いを持つというのであろうか? しかし、現在、アメリカが示すべきものは、ただその強さばかりではあるまい。
西洋とイスラムの対立ではなく…… エドワード・サイード(Edward W. Said)ニューヨークと、ある程度まではワシントンも襲ったこの壮大な恐怖は、新しい世界のはじまりを告知するものだった――目に見えず、だれともわからない者が襲撃し、政治的なメッセージも告げずにテロルを行使し、無意味な破壊を行う新しい世界である。
傷を負ったこの都市に住む人々には、狼狽、恐怖、持続的な憤慨感、そしてショックが長い間続くことだろう。これほどの大虐殺が、これほど多くの人々に残酷に襲いかかったのだから、心からの悲哀と苦悩も長く続くに違いない。
ニューヨークのルディ・ジュリアーニ市長は、いつもはひと好きのしない、不快なほどに戦闘的な人物で、時代に逆行しているような印象を与えていたが、ニューヨークの市民には幸運なことに、事件の直後から第二次世界大戦におけるイギリスのチャーチルのような役割を果たすようになった。冷静で、感情的にならず、異例なほどの同情心を示しながら、市長はニューヨークの英雄的な警察、消防署、緊急サービスを率いて、賞賛すべき効果をあげた(残念なことに、多くのスタッフの命を失うことにもなったのだが)。
パニックに陥らないように、そしてニューヨークの大規模なアラブとムスリムのコミュニティに、排外主義的な攻撃をかけることのないようにと、警告の声をあげたのはジュリアーニ市長が最初だった。苦悩する良識的な心を表明した最初の人物であり、破壊的な攻撃の後にも、日常の暮らしを再開するようにすべての人々に訴えたのも、市長が最初だった。
それで片付けばよかったのだが、全国テレビの報道番組は、翼をもったこの忌まわしい恐怖の怪物を、絶え間なく、しつこいほどに茶の間にもちこんでいる――しかもいつも啓発的というわけではないのだ。ほとんどのコメンテーターは、大部分のアメリカ人が感じているはずに違いないこと、すなわち恐ろしいほどの喪失感、怒り、憤懣、弱みを傷つけられたという感情、復讐したいという欲望、抑えようのない懲罰の願いを強調するだけでなく、実際には増幅しているのである。
どの政治家も、御墨付きをもらった権威筋や専門家たちは、たんに悲嘆と愛国心をきまりった言葉で表現するだけにとどまらず、アメリカ人はテロリスムを撲滅するまで、いかに屈しないか、思いとどまることがないか、やめないかを、いそいそと繰り返し続けているのである。だれもが、これはテロリスムへの戦争だと口にする。しかしどこで行われ、どこに前線があり、どのような具体的な目的を目指した戦争だというのだろうか。だれも答えない。「われわれ」アメリカ人は、中東とイスラムと戦うこと、テロリスムは破壊しなければならないことだけが、ぼんやりと示唆されるだけなのである。
それよりも気が滅入るのは、世界でアメリカがどんな役割を果たしているのかを理解するために、ほとんど時間が費やされていないということだ。平均的なアメリカ人にとっては、西海岸と東海岸にはさまれたこの大陸が〈世界〉であり、この大陸の外部は極端なほどに遠いところとして、意識の外においやられている。そしてこの外部の世界の複雑な現実に、アメリカがどのように直接的にかかわっているのかを理解するための時間など、ほどんど顧みられていないのである。
アメリカは、イスラムのすべての領域で、ほとんどつねに戦争状態にあるか、なんらかの紛争にまきこれている超大国であるはずなのに、まるで「眠れる大国」であるかのようである。オサマ・ビンラディンの名前と顔はアメリカ人にはあまりに馴染みになったために、ある種の麻酔的な効果を発揮している。そしてビンラディンとその影の支援者たちが、はあらゆる忌まわしいものを代表するシンボルになり、アメリカ人の集団的な記憶にとって憎むべきものとなるまでに、どのような歴史があったかなどは、跡形もなく忘却されているのである。
こうして、集団的な情熱が、戦争への衝動へと引き寄せられるのは、避けられないことだった。まるでモービーディックを追うエイハブ船長を思い出させるすさまじさだ。帝国の権力が自国の領土ではじめて襲撃を受けて傷を負い、はっきりとした境界もなく、目にみえる相手もいない状態で、紛争の地理的な状況が急変したというのに、自国の利益をひたすら負い続けているのである。将来にどのような影響があるかについては、善と悪とのマニ教的なシンボルと、黙示録的なシナリオが無造作に口にされるようになり、レトリックを過剰に利用することを抑制しようとするたしなみなどは、かなぐり捨てられてしまった。
いま必要なのは、この状況を理性的に理解することであり、太鼓をたたいて人々の戦意を高揚させることなどではない。ところがジョージ・ブッシュとそのチームが望んでいるのは、理性的な理解ではなく、太鼓をたたくことなのは明らかだ。しかしイスラムとアラブ世界のほとんどの人々にとっては、米国政府とは傲慢な権力の代名詞である。そしてイスラエルだけでなく、アラブの多数の抑圧的な体制をひとりよがりに気前よく支援することで有名である。ほんとうに悲嘆にくれている人々や非宗教的な運動との対話の可能性があるのに、そのことに注意も払わない国である。
この状況では反米感情が生まれるのは、現代世界を憎むためでも、先進的な技術を羨望するためでもない。アメリカの具体的な介入と、現実の場での収奪についての人々の物語から、反米感情が生まれるのである。現実にイラクの国民はアメリカが課している経済制裁に苦しんでいるし、イスラエルが34年もの間、パレスチナ領土を占領していることに、アメリカは支援を与えているのである。イスラエルは現在、パレスチナの軍事占領と抑圧を強化することで、アメリカの災厄を利用するという冷笑的な姿勢を示している。しかし米国の政治的なレトリックは、「テロリズム」や「自由」などという言葉を振りまくことで、この事実を隠蔽している。もちろんこれほど抽象的な概念を使うことで、さもしい物質的な利益への関心がほとんど覆い隠されてしまう−−石油産業、国防産業、シオニスト運動のロビー団体はいまや、中東全体への支配を強化しており、「イスラム」に対するむかしからの宗教的な敵対心が、そしてイスラムへの無知が、毎日のように新しい形で生まれ直している。
しかし知識人は現実をもっと批判的に受け止める責任がある。これまでももちろんテロルはあったのだし、近代のある段階からは、なにかを求めて苦闘する運動は、ほとんどつねにテロを利用した。南アフリカのマンデラのANCだってそうだし、シオニズムなどの他のすべての運動にもあてはまることだ。そしてF16戦闘機と攻撃ヘリを使って無抵抗の市民に爆撃を加えるというイスラエルの行動は、伝統的な愛国主義者のテロと同じ構造と効果をそなえているのである。
テロのまずいところは、宗教的あるいは政治的な抽象と、単純化する神話と結びつと、歴史と常識からは遠ざかってしまうことだ。アメリカ合衆国であるか、中東であるかを問わず、宗教的でない世俗のものの見方が、ここでとくに必要となる。いかなる大義によっても、いかなる神によっても、いかなる抽象的な理念によって、無辜の民を大量に殺戮することを正当化することはできない――とりわけ、少数の人々がこうした行動に走り、現実には大義を実現する権限がないのに、大義を代表すると考える場合には。
さらに、ムスリムについての議論が明らかにしてきたように、単一のイスラムというものは存在しない。複数のアメリカがあるように、複数のイスラムがある。いかなる伝統でも、宗教でも、国家でも、かならず多様性が存在してきた。たとえその支持者たちが、境界を確立し、自分たちの信条を明確に定めようと努力しても、結局はむだなのである。デマゴーグたちが考えるよりも、歴史ははるかに複雑で矛盾したものである。そしてデマゴーグの支持者や反対者が考えるよりも、デマゴーグたちは歴史を代表してなどはいないのである。
宗教的な原理主義や道徳的な原理主義の困ったところは、革命と抵抗について素朴な考え方を抱くこと、とくにみずから進んでひとを殺したり、ひとに殺されることを受け入れようとすることだ。そしてこうした考え方が、あまりにも簡単に先進的な技術と結びつき、人々を怯えさせる報復という行動に喜びを感じるようになることだ。ニューヨークとワシントンを爆撃して自殺した犯人たちは、貧しい貧民ではなく、教育のある中産階級の人々のようだ。賢い指導者たちであれば、教育と、大衆の動員と、忍耐強い組織活動によって大義を実現しようとするだろう。しかし貧しく、絶望した人々は、今回のテロのように、宗教的なはったりやたわごとで仮装した魔術的な思考方法と、手早い血なまぐさい解決策へと誘い込まれがちなのだ。
ところで巨大な軍事および経済的な力をもっているからといって、叡智や道徳的な見方が生まれるものではない。今回の危機においても、懐疑的な意見や人道的な意見はほとんど耳にすることがなかった。アメリカは自国の領土から遠く離れた場所で、長期的な戦争を戦う方向に進む用意をしている。そしてごく不確実な根拠に基づいて、いったいどのような目的に向かうつもりなのかも明らかにしないまま、同盟国に支援を強要している。
戦争を求める声や信念が声高に語られているが、わたしたちは、人々をたがいにへだてる想像の上だけの区別から一歩さがって、こうしたラベルづけが正しいのかどうかを再検討する必要がある。利用できる限られた資源について確認し、わたしたちが互いにどのような運命を分かち持とうとするのかを、決めるべきなのである。これまでの多くの文明はそうしてきたのだ。
イスラムと西洋の対決というモットーは、考えもなく従うにはあまりに不適切なものではないだろうか。この旗印のもとに馳せ参じる人々もいるだろうが、一息いれて批判的なみかたをすることもなく、不正と抑圧がたがいに結び付いてきた過去の歴史を振り返ることもなく、たがいに解放と啓蒙をすすめることを模索することもなく、将来の世代に長期的な戦争と苦悩の責めを負わせることは、必然的なことなどではなく、意図的な営みだといわざるをえない。
他者を悪魔のように考えるのは、品位ある政治の確固とした基盤にはならない。とくに現在では、不正なテロの土台を取り去り、テロリストを孤立させ、阻止し、テロを実行できなくすることが可能であることを考えると、これはとうてい望ましいこととは言えない。たしかにそのためには忍耐と啓蒙が必要だ。しかしこれは、さらに大規模な暴力と苦悩へと突き進むよりは、はるかに有効な投資となるだろう。
悪循環を避ける道 ノアム・チョムスキー (http://www.zmag.org/chomcalmint.htm9月19日掲載)
【問】11日の出来事は、ベルリンの壁と同じような影響をもたらすのでしょうか。
【答】9月11日の出来事は、その規模や性格のためではなく、その目標において、世界的にまったく新しい出来事だ。アメリカにとっては、これは1812年以来の未曾有の戦いだ。多くの人々は真珠湾攻撃と比較するが、これは誤解を招く。1941年12月7日には、2つの植民地の基地が攻撃された。しかし国内領土はこれまで攻撃されたことがなかったのである。この時期までにアメリカは、土着の数百万の人々を絶命させ、メキシコを征服し、周囲の地域に暴力的に介入し、ハワイとフィリピンを征服した(数十万のフィリピン人を殺戮した)。そして過去半世紀には、世界のさまざまな場所に軍事力を展開した。その犠牲者の数は膨大である。しかし初めて銃が逆に向けられた。これは劇的な変化だ。ヨーロッパについても同じことが言える。ヨーロッパは息の根を止めるような破壊の被害を受けてきたが、これは内戦によるものだ。一方でヨーロッパの強国では、極端な残虐さをもって世界の多くの地域を征服してきた。ごくまれな例外を除いて、外部の犠牲者から攻撃を受けたことはない。イギリスはインドから攻撃されず、ベルギーはコンゴから攻撃されず、イタリアがエチオピアから攻撃されることもなかった。だからヨーロッパが9月11日のテロリストの犯罪によって、完全なショックを受けたのは、驚くべきことではない。残念なことに、ヨーロッパが驚いたのは、規模の大きさのためではないのだ。この攻撃の方向の逆転、これこそがまったく新しい事態だ。
【問】この攻撃は、新しい政治的な状況を生み出すものではなく、「帝国」の内部の問題の所在を示すものだと思われます。政治的な権威と力にかかわる問題だと思うのですが。
【答】政治的な権威と力の問題があるのはたしかだ。攻撃の直後に、『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙は、銀行家、専門家、ビジネスマンなど、この地域の裕福なムスリム教徒にインタビューした。彼らは米国が過酷な権威主義的な諸国を支持し、「抑圧体制を支える」という政策で、この地域の独立的な発展と政治的な民主主義を疎外する防壁を構築していることは嘆かわしいと感じていた。しかし彼らがなによりも懸念を抱いているのは、アメリカのイラク政策と、イスラエルの軍事的な侵略にたいする政策である。貧しい人々の間では、これと同じ感情をはるかに強く抱いている。そしてこの地域の富が西側に流出すること、西側の大国が支援する腐敗した野蛮な支配者たちや、小規模な西側志向のエリートたちだけに富が集中することには、大きな不満を感じている。だから権威と権力の問題があるのはたしかだ。【問】アメリカはグローバリゼーションを制御するのに困難を感じているのでしょうか。
【答】アメリカは企業のグローバリゼーション・プロジェクトを支配しているわけではないが、主要な役割を果たしているのはたしかだ。この計画は南の諸国を中心に、巨大な反対活動を引き起こしているが、大衆の抗議活動は抑圧されるか、無視される。この数年は、豊かな諸国でも抗議活動が展開されているために、世界の強国は守勢に立たされていると感じており、大きな懸念を抱いている。【問】アメリカはこれまでは、イラクでは「インテリジェント爆弾」と表現し、コソボでは「人道主義敵な介入」といってきました。今回は名前のない敵にたいして、「戦争」という表現を使っています。その理由は。
【答】最初はアメリカは「十字軍」といっていた。しかしイスラム世界の内部に同盟国を獲得しようとするには、この表現のまずさは明白だ。このため「戦争」という言葉が使われるようになった。1991年の湾岸戦争は、戦争と呼ばれていた。セルビアの爆撃は、「人道主義的な介入」と呼ばれたが、これは一九世紀以来のヨーロッパの帝国主義諸国の冒険主義的な介入ではなじみの呼び方だ。最近の例では、日本の満州侵略、ムッソリーニによるエチオピア侵略、ヒトラーによるチェコのズデーデン地方の侵略は、どれも人道主義的な介入と呼ばれたものだ。犯罪が人道主義という仮面をかぶっていたのだ。しかし今回の事例には、どう考えても人道主義という呼び名は使えない。だからアメリカは戦争と呼ぶことにしたのだ。【問】今回の事件は反グローバリゼーション運動にはどのような影響を与えるでしょう。
【答】これが企業のグローバリゼーションに反対する世界的な抗議活動にとって障害となるのはたしかだ。こうしたテロリストによる残虐に行為は、世界のすべての側面にみられ過酷で抑圧的な要素にとっては贈物だ。こうした抑圧的な要素は、軍事化、社会民主主義的な計画の弱体化、わずかな数の人々への富の移転をさらに進めようとしている。しかしこれはかならずや抵抗を引き起こし、成功したとしてもごく短期間で終わるだろう。【問】中東への影響はどうでしょうか。
【答】9月11日の蛮行が、パレスチナにとっては破壊的な打撃になったし、パレスチナではすぐにそのことが理解された。イスラエルはいまや、パレスチナを破壊するための好機を手にして、臆面もなく喜んでいる。火曜日の攻撃の後の数日に、イスラエルはジェリコなどのパレスチナの都市に戦車を送り込み、数十名のパレスチナ人を殺戮し、だだでさえ厳しい住民への締め付けをさらに強化した。北アイルランド、パレスチナ、バルカン諸国など、世界のどこでも見られる暴力のエスカレーションという悪循環がふたたび始まろうとしている。【問】アメリカ国民の反応はどうでしたか。すでに戦争状態だというコメントもあるようですが。
【答】直後の反応は、衝撃、恐れ、怒り、恐怖、復讐の欲望などだった。しかし世論は割れており、すぐに反対の流れが生まれた。メディアの中心的なコメントにも、こうした意見が反映され始めた。今日の新聞をみてもよくわかる。【問】大手のメディアで取り上げられていない問題があると思うのですが、なにに注目すべきでしょう。
【答】いくつか基本的な疑問点がある。まずアメリカはどのような行動をとることができるのか、それがどのような影響を及ぼす可能性があるかということだ。ニカラグアではアメリカのテロ攻撃にたいして、世界司法裁判所と国連安全保障理事会に援助を求めたが、アメリカはこうした合法的に行動をとることは、まったく検討もしなかった。アメリカでは暴力的な行動の必要性がわめかれている。たしかにこれがまったく罪のない犠牲者にとってすざまじい被害を与えること、フランスの外務大臣が数日前に警告したように、ビンラディンがしかけた「悪魔の罠」にはまるものであることが、ごくまれに指摘されるだけなのだ。第二の問いは、なぜこうした行動をとるべきかということだ。メディアでも、町の中でも、この行動の根拠はまったく問われない。そしてこの問いが問われないために、今後もこうした行動が実行される可能性かますます高くなる。ビンラディンのテロ網は20年も前から、貧しい人々を犠牲にしながら、怒り、恐怖、絶望から力を汲み出している。それだから彼らはアメリカが暴力的な行為に進むのを、祈るようにして待っているのだ。アメリカが激しい行動にでれば、これまでテロ網を支援していなかった人々も、テロリストたちの大義に賛同してくるだろう。
暴力をエスカレートさせるのではなく、暴力の拡大の悪循環を抑制するためには、これらのテーマが新聞の第一面で検討されるべきなのだが。なんともはやである。
suigyu@collecta.co.jp
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