水牛通信
人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1980年2月号 通巻8号
       
入力 大河原哲


詩 ごえもん風呂  小泉英政
三里塚ワンパック  三里塚微生物農法の会
まつりのあとで  岩木要
水牛雑感(続)  畑野潤
〈朝鮮語〉の学び方II 大いなる〈ことば〉  李銀子
楽譜 新人民軍の歌
楽譜 ふかいなげきの日
楽譜 工場の灯
蜚語「六穴砲崇拝」を観て  金佑宣
サトウキビ畑の即興劇  堀田正彦
編集後記



詩 ごえもん風呂  小泉英政

のら仕事を終え
夜道を「てって てって」と帰ってくる。
それから
「つきよのあかりで せんたくをして
まいばん かやをひとたば まるめ
ふろに へいってよ
それから
つかれたときは
さけを いっしょう かってくるわ
それを こっぷさ にはいずつ のむ。
そで
きょうは くたびれたから
もうすこし いいかなってんで
もういっぱい のんじゃうね」。

一人ぐらしの よねが
そのころ つかっていた風呂は
野天の ごえもん風呂だった。

一九七一年二月 三月の
第一次代執行
私も よねの家に やっかいになった。
闘いのない日には
私はよく薪をひき 薪をわり
よねの家の ひさしの下に
積みあげた。
よねの家の両脇に 小屋がたち
若者たちが たくさん
とまりこんだ。
飯たくかまどには いつも火が燃え
ごえもん風呂は
毎夕 煙をあげていた。

一九七一年九月二十日
第二次代執行
前日 よねは 湯につかったかな
ごえもんは ふたをかぶっていたかな
ふたの上に タルキがくずれ
すのこの上に 土壁がくずれ
ついには ごえもんが
くずれたか な。

東峰の このプレハブに
よねが移り住んで
青年行動隊は 大工らが中心になって
風呂場と便所を よねに贈った。
風呂場には
ガス釜だったか 石油釜だったかが
すえつけられたが
だれかが空炊きをして
まもなく こわれた。

「こんな ふべんなものは ねえ
やっぱり ごえもんが
いちばんだ
ごえもんは じょうぶで いい」。
いきさつは うつろだが
私はよねから
風呂づくりを たのまれた。

条件派のやしき跡から
リヤカーで
雨ざらしの ごえもんをはこび
二日ほどで 完成した。
よねは ニコッとして 喜んだ。
その風呂に
こうして
私が 毎日毎日 はいるなんて
思っても みなかった。

あのころから
風呂場は ちっとも変らない。
私たちが 息子になったころに
ほのかに感じとった よねのにおいも
すっかり 消えて
私は三里《みさと》と一人《ひとり》と
美代は双《そう》と湯につかる。

思いおこせば
東京で銭湯につかった時期を
のぞけば
私は うまれてから ずっと
こんな風呂で
よごれをおとしていた。

赤さびがうかぶ ドラムカンの風呂も
なつかしい おもいでだ。
ドラムカンに 背中をくっつけると
やけどしそうで
小さな体を ちぢこませて
じっと はいっていた。
たしか 野天で
雪が ちらついていた。

赤々と燃えるおきを
ぼんやりと ながめながら
湯がわくのをまつ時間が 好きだ。
おきのなかに
よねがいて
仲間がいて
ひざがあたたかい
闘いが 見える。

一九八〇年一月十一日


三里塚ワンパック  三里塚微生物農法の会

三里塚ワンパックという野菜の自主流通をおこして、早や丸三年と四カ月ほどたつ。

ワンパックとは、あまりいい呼び名でないとの声も耳にするし、私たちも、そう思っているのだが、それに代わる呼び名がない。名前はどうでも、子は育つわけ で、やりがいのある三年であった。

ワンパックというと、よくスーパーマーケットで、きれいにパックされている野菜を思いうかべる人が多いだろうが、実は、そういう代物とは、風貌、質におい て対極をなす野菜が、30×50×30の箱に、毎回十種類ほどつめこんである。

八百屋さんの野菜とどこが違うかといえば、まず、無農薬で有機農法で育てた野菜であること。従って、見かけは悪いものもあるが、味はバツグンなこと。次に 旬の野菜であること。更に、収穫したままの姿で、泥つきであるが、とても水々しい鮮度があること。手前味噌で、自慢しだせばきりがないが、三十八人から出 発して、現在、千人ほどの人々が、この野菜を食べているが、そのように、成功した訳はといえば、味のよさが大きな比重をしめていることは確かだ。誰も、ま ずい顔をして、私たちの野菜につき合うことなどないのだから。

このワンパック野菜を、現在、五軒の農家の共同経営で育てている。三年前は、三軒で、その後、四軒になり、五軒となった。もちろん、六軒目をさがしてい る。

五軒の農家で、お互いに七反歩ずつ土地を提供し合い、合計三町五反歩がワンパックの畑となっている。その畑から年間にして、五十〜六十種類の野菜が収穫さ れる。

畑を共有し合い、労働も共同で、収入も均等割が、大まかな原則。途中の草とりなどの仕事は、分担し合うけれど、その遅れは、全体で取り戻す。植えつけや、 収穫、パックづめなど、人手のかかる作業は全体でこなす。配達は各家が一コースずつうけもち、野菜にそえて会員に手渡すビラも、五軒で交替交替で書く。そ して、ある事情で、全く仕事ができないことがあっても、その配分は保証されている。

ワンパックの特色は、反対同盟の農民同士が、闘いを共にすることに加えて、農作業や、生活という根っこの部分で、具体的に結びつきを強めたというところに ある。

始めてから、丸三年と四カ月、野菜は、種類や量が、少なくなることはあっても、途絶えることなく三里塚から運ばれた。そして、その野菜とともに、ビラも、 毎回毎回、白紙になることなく、よくも続いたものだ。正確には数えていないが、通算すると、だいたい八十号ぐらいになるだろう。これは、ワンパックの七不 思議のベストワンになるのじゃないか。

これは、理屈ぬきだった。野菜を育てるのに、鶏糞がいるように、パック野菜を通わすのに、ビラは不可欠となった。鶏糞が野菜を育てるこやしなら、ビラは、 野菜を通して、三里塚の私たちと、都市の生活者とを結ぶこやしとなった。ワンパック野菜とビラという組み合わせは、いつのまにか私たちの運動の、おおげさ にいえば、伝統となった。

ビラ当番の順番があるのだから、前もって書いておくという手もあるが、私をふくめて、全員が、ぶっつけ本番だった。パックづめが終ると、ほとんどが夕暮 で、それから、翌朝の配達に発つまでの間に、「こりゃ大変だぞ」という感じで、書いたものだ。下書きなんてない、推敲なんてない、もろ、ボールペン原紙と にらめっこして書きあげたものだ。

それにしちゃ、できがいいなんて、おだてないで下さいな。ここに載せたのは、ほんの一部でちゃんとボロはかくしてありますので。


   ワンパック満一歳 一九七七年九月下旬便

三里塚をわたる風はもう秋です。ワンパックの中味も少しずつ秋らしさを増していきます。三里塚ワンパックの第一便がでたのが一年前の九月二十五日でした。 相模原の「くらしをつくる会」との間で実験的に動きだしてから一年たちます。第一便は三十八ケースでした。

保存してあるワンパックのビラを読みなおしていると、いろいろなことが想いうかびます。スクラップブックのページをめくるごとに、ワンパックを通じて知り 合った人々の顔が、にぎやかになっていきます。三十八ケースから出発して、今では四七〇ケースになりました。

約四七〇人もの人々が、その家で食べる野菜のほとんどを、このワンパックでまかない、膚で三里塚を感じているということは、私たちにとっての大きな支えで す。

私たちの側といえば、まだ共同化をはじめて月日も浅いもので、どういう成果をうみだしたかということを、明確にまだ語れませんが、簡単に言葉にならないも のとして、内なるものとして、とても大きな可能性を秘めて発酵しています。

この頃、ワンパック会員の人の、三里塚訪問が、少しずつですがふえています。援農をしてもらったり、交流会をもうけたり、三里塚現地を見てもらったり、短 い時間ですが、生産者と消費者というわくを、とりはらいつつあるように思えます。

三里塚へ行ってみたいなと思いたったら、是非来て下さい。子供をつれて来て下さい。私たちの都合の許すかぎり、どんどん交流を深めたいと思っています。


   土地を守り、土地を開くこと 一九七七年十月下旬便

このワンパックの運動は、単に私たちが農法の問題として、有機農法、無農薬の農業を実行し、会員の人々に安全な野菜を届けるということだけではなしに、深 く、農民としてどう生きたらよいのか、そのように生きる為にどのような関係をつくり、その力を基礎にして、どのような闘いをつくりあげていけばよいのかな どということに連なっています。

三里塚で空港建設に反対し続けている私たちは、この地に空港をつくろうとする政府、空港公団の、強権的な土地収奪に、人間として当然の叫びをあげて、闘い つづけています。その方法としては、さまざまな創意をこらしながら抵抗していますが、その根のところにある、どっしりとしたものは、やはり、自分が所有 し、耕しつづけている農地を守る、土地を売らないというところにあります。

土地を守るということは、たとえて言えば、自分の土地の周囲に柵をめぐらすことだと言えます。

しかしながら、柵をめぐらすには、柵をめぐらす決意に加えて、柵を維持し、強化する力が必要です。

国の決定したことに、最初から抵抗することを放棄する人、柵をめぐらす気持があっても、柵を維持する力の弱い人、さまざまな人びとの事情で運動のゆくえは 左右されます。

そのような個人的な事情、個人的な決意による不安定な運動の構造を、土地を守るうえでも、闘いを太くしていくうえでも、変えていくことがとても大事なこと となっていきます。

そういう場合、土地を守る、土地を売らない、土地の周囲に柵をめぐらすということを、根本的に問いなおすことが必要とされます。

個人的な事情を少しずつ、身ぢかな人々の共同の力で解決していく、個人的な決意、思想を、日常的な仕事を通じ、日常的な闘いのなかで、共同でさらに肉づけ していく為にも、土地を開くということ、自分の土地の周囲にめぐらした柵を、闘う仲間同士で開きあうということが、具体的な問題として私たちのなかにあり ます。


   仮処分が却下されるまで畑とともに眠る 一九七七年十二月上旬便

私が畑へ泊りこんで四日目の朝をむかえています。夜はとても冷えます。特に午前四時ころからの冷えこみは、こたえます。それに加えて、公団、ガードマン、 私服警官などのいやがらせがつづきます。それでも、この四日目も、朝方は雨がしとしとしてましたが、西のほうより晴れはじめ、連日、日中は暖かです。畑の 作業もとてもはかどり、まもなく、まれなる、きれいな畑になりそうです。

私が泊りこんでいることは、新聞、マスコミなどですでに知られていることと思います。その理由については、もう一枚のビラに書いています。

この畑を人間にたとえれば、無実の罪で死刑台におくられようとしているところです。十一月二十九日に大豆の収穫をおわり、代って、この畑を守るのは、元気 に芽をだしたそら豆の番です。

このそら豆は来年の六月ごろ、みなさんの手元に届く予定です。このそら豆とともに、私はこの畑に居続けます。いわれなき仮処分が却下されるまでよろしく御 支援をお願いいたします。

十二月二日朝 小泉英政


畑の泊り込みを始めてから、野菜を買っていただいている多くの方々から、激励の電報や電話をいただきました。

ワンパック共同作業を始めてから、様々な事情で、全員が作業に加われない事もありましたが、共同の力を出し合って、乗り切ってきました。今回、我が家二人 が仕事に出られなくても、出荷や、畑の仕事が、とどこおることなく進んでいます。仲間の力に助けられて畑を守る戦いに起てることを、本当にうれしく思いま す。

一日三回、畑に入るたびに、公団、ガードマンのいやがらせが絶えませんが、多くの方々の励ましが私の支えです。

自分の家のいそがしい仕事をおいて、炊き出しや、ワンパックづめを手伝って下さる人達、ワンパックの仲間、そして励まして下さるワンパック会員の皆様に、 心から感謝いたします。

十二月二日夜 小泉美代


   この一年をふりかえって 一九七七年十二月下旬便

早いもので、もう今年最後の便となりました。白菜がなくなったかわり、お正月用に八ツ頭が入ります。里芋もセレベスもかなわない、コクのある味は、おせち 料理の豪華な一品となることうけあいです。

この一年は、ワンパックが本格的にスタートした年でもあり、又、空港反対闘争の上からも、ずいぶんいろいろなことのあった年でした。五月に鉄塔が倒され、 東山さんが殺されて、夏には騒音テスト、動労のジェット燃料輸送阻止の闘い、そして開港宣言が出て、十一月末からの小泉夫婦の畑を守る闘い、岩山や横堀の 要塞建設と、めまぐるしい攻防をくりひろげてきました。

ワンパックの方も、最初はワンパックに対するイメージも、仕事のやり方も、三人三様でなかなか足並がそろわず、時間的なロスがかなり出て、草とりなどずい ぶんためてから、やっとやったりする有様でしたが、ポツポツときてくれるようになった会員の皆さんの援農のおかげもあって、何とかこなしてきました。

闘争と生活をどの様に両立させ、両方含めたところでの固い団結を、どのように作っていくか、その答えを求めて始められた共同管理、共同作業ではありました が、各家の条件の違いや、それからくる仕事に対する感覚の違いを、あまりうまく調整し得ぬままに、スケジュールをこなすのに精一杯で、前半は仕事にふりま わされているきらいもありました。

これでも、とにかく一年間、月六回の出荷を、とどこおりなくこなしてきたということが、私達に大きなおちつきを与えています。

そして今、小泉夫婦がぬけていても仕事は順調に進められ、彼等の穴をうめていることによって、一緒に畑に坐りこんでいるのと同じ位、彼等の闘いを支えてい るのだということが、残る他のメンバーの支えになっています。こうした関係が互いの間でできたということで、ワンパックの第一の目的は、果たされたと思い ます。

この一年は、家の建設で言うなら、基礎を打ち土台を固めたところでしょう。やっと整ったこの土台の上に、どんな家を建てていくかは、来年の課題です。

香り高いこの三里塚の土のように、ワンパックも、そして、私達一人一人も、豊かなひろがりをもって、成長していきたいと願います。


   鯉のぼりは見られっかな 一九七八年四月下旬便

八十八夜のわかれ霜といわれるように、寒さの感じが遠くなります。それでも今年のように、こぶしの花と、桜の花の間がひらいている年は、暖くなるのが遅く 感じられます。

三里塚にとっては、大変忙しい春をむかえることとなりましたが、一同元気にがんばっております。

さつま芋の苗作り、さと芋、セレベス、八ツ頭の芽出し、にんじん、ねぎの植付、こかぶ、ラディッシュ、ほうれん草、なっぱ類の種まき、それに、とうもろこ しやかぼちゃの種も蒔きました。

なす、ぴーまん、ししとうがらしなどの苗も急に大きくなり、三月まめやグリンピースも背を伸ばしはじめました。

二月に蒔きつけた小かぶがもう食べられます。ねぎの苗は三反歩に植え付けが完了し、これから、いんげんの種蒔きをするところです。五月二十日の出直し開港 が予定されている頃までには、なんとか蒔きつけ計画を完了させ、各々の田植にもメドをつけなくてはなりません。

一方では「話し合い」ムードなどという風潮が流れはじめています。国は予定の開港計画が実現できなかったと、かな切り声をあげています。しかし壊れてし まった管制塔といえどもせいぜい「物」であり、これまでの政府の強引さをもってすれば、時間と金で、そのうめあわせは可能となるでしょう。

ところで、壊された村、はぎとられ捨ててしまった土、もうとりかえしのつかない親子兄弟、肉親などの人のつながりにおける対立と亀裂、コンクリートの下に うめこめられた百姓の魂。これらのものは、いったいどのようにすれば取り返しがつくというのでしょうか。

東峰の石井家のおじいさんの武さんは、去る三月二十六〜二十七日の横堀砦のたたかいの中で逮捕され、すでに二十六日もの長い時間、不当にも拘留されつづけ ています。

それどころか、検察当局は、ありもしない四つもの罪名をぺたぺたとはりつけて、起訴しているのです。

二十一日、小雨のふり出した頃運よく面会することができました。

石井さんは、開口一番、「パックの方は大丈夫かい」と、にこにこしながら元気な声です。いく分、色が白くなったかなと思っていると、「腰が少し痛むけど、 七年前には若いしらは四ヵ月もがんばった。年寄りががんばれねえはずはねえさ。でもよ、孫の鯉のぼり見られっかなあ」と。


   作物と価格 一九七八年六月上旬便

政府が政治の命運をかけて、この十三年間いつだってそうしていたように、力にまかせて、このたびは「開港」という行事を強行したにすぎません。

一方、お百姓のほうは、六十日にもおよぶ戦いの日々があっても、たとえ一家の主人が長期の勾留を強いられていても、農作業をやめているわけにはゆきませ ん。

つゆ入り前ともなるとさすがにほとんどの農家では田には早苗が根づき、畑も根付けられた作物の緑が次第に広がってゆきます。

「開港」と農業のあいだにはこのようにはるかな距離を感じますが、同じように、価格と作物のへだたりを気に止めないお百姓はいないように思われます。

たとえば、私たちは、じゃが芋一個の値をどのように算出するのでしょう。一個のじゃが芋を食べる人はその値の根拠をどこに求めているのでしょう。1/3に 切った芋の種をまだ霜柱の立つ畑に根付けたお百姓は五月の初夏を想わせるような日にはじめてさがし当てた一つのほやほやなじゃが芋にいくらの値だんをつけ ればよいのでしょうか。ぜひ、みなさん考えてみましょう。

みなさんの手もとにとどいた葉物を、よおく見てください。もしかしたら、一つぶの露が残ってはいませんか。これから暑い夏にむかいなるべく葉物がしおれな いように、三里塚に朝日が昇りはじめしっとりぬれたころ、私たちは畑で仕事を始めます。


   待ちに待った雨がふりました 一九七八年九月上旬便

「お盆にごぼうを掘ったところ、ごぼうの長さほど、土が乾燥していたぞ」。
「いつもは、ももまでもぐってしまう田んぼに、今年はバインダー(稲刈り機械)が入ったぞ」。

何十年ぶりの干ばつとやらで、顔をあわすたびに、誰もが予想もしなかった気候にとまどい、心までがひからびそうになりながら、それでも、今日こそは、今日 こそはと、見上げていた空から、ついに雨がふりました。なにが嬉しいと言ったって、こんな嬉しいことはありません。早速、秋野菜の種まき、法蓮草、小か ぶ、大根、春菊と、種まく心もうきうきです。雨々ふれふれ、雨よふれ、今日も明日も明後日も。

  染谷のおばあちゃんに励ましの手紙を

いつも元気にワンパックの野菜づめを手伝ってくれている染谷のばあちゃんと、田中のばあちゃんは、二軒とも、二期工区予定地内で暮しています。

そのうち染谷のばあちゃんの家では、ばあちゃんが体の具合を悪くするほど大きい悩みがありました。

ばあちゃんがほとんど一人で開拓した土地を、今まで一緒に生活していた息子夫婦が、空港公団に土地を売って、東峰部落を去ることになったからです。その話 しを聞いたのは、昨年でした。その時から、染谷のばあちゃんは、一人になってもここを動かないと、心にきめていました。

その頃からです。私たちのパックの仕事を手伝ってもらいはじめたのは。私たちは一人で生活するようになるばあちゃんの、生活のいくらかのたしにしてもらい たい、私たちも仕事を手伝ってもらえば、大変助かるし、そういう関係のなかで、精神的にもいくらかの支えになればと思っていました。

息子夫婦が、つい数日前に引っ越しをすませたそうです。その時も、息子の光重さんが、「ばあもはやく荷物をまとめろ」と言ったそうですが、ばあちゃんは、 きっぱりと、「どこにも動かないと言ってやった」と語っていました。

息子夫婦、孫たちのいなくなった家で、ばあちゃんとじいさんの二人暮しになってしまい、それでも、「せいせいしたよ」と気丈夫なばあちゃんです。

染谷のばあちゃんは、大木よねさんと、大の仲良しでした。「大木よねのとなりの墓に埋るんだ」と、七十八才のばあちゃんは、ひたすら生活に、空港反対の闘 いに、うちこんでいます。


   いい車だなあ! 一九七九年六月上旬便

六月一日、待ちに待った黄色いキャンターが届きました。ワンパック会員が、毎回五十円ずつ出資することによって購入できることになったワンパックの配送車 です。頭金の約二十五万円は、三里塚側で出資しました。今後、二年間、皆さんの五十円ずつのローンでトラック代金を支払います。

初乗りしてみたら、緊張したり興奮したりで、初恋の人に声をかけるような、ドキドキした心もちで体がふるえました。

農民と都市の生活者が力を合わせて、新しい農業と暮しを創造していく、一歩一歩その足場を組んでいくその成果が、共同出荷場の建設、そして配送車の購入 と、確実になしとげられています。

三里塚の地で、力ずくで建設されている空港に、わが身でもって反対し、息づく作物とともに農民の誇りをかけて、堂々と、新しい戦う農民の農業のあり方を、 手さぐりで追い求めてきたことが、具体的に形や人の輪をともなって伸びていくこのことを、多くの人々とともに喜び合いたいと思います。

今まで、ワンパックの配送に使用していた石井新二家のキャンター、どうもおつかれさまでした。感謝!

神奈川コースでは、最近こんなことをしています。神奈川コースの途中にある協同電子労組の労働者に、野菜を無料で届けはじめました。私たちは、協同電子労 組の闘いを、相模原のくらしをつくる会の人々から聞いたり、さがみ新聞で知ることができました。

協同電子労組の四十七名の人々は(パートタイマーの主婦の人々が大半を占める)、会社側の倒産攻撃にあいながらも、工場を自主管理し、労働者の当然の権利 を守る闘いをおこしています。しかも、その闘いが、とても明るく、活き活きとしている様子が紙上から伝わってきました。失業保険を分けあいながら力を合わ せて闘っているその人々、野菜を食べてほしい、新鮮で安全な野菜こそ、そのような人々の栄養となるべきだと思いました。

そのころ、ほうれん草が暖冬のために沢山できていました。第一回目に、そのほうれん草を届けました。二回目はラディッシュ、三回目は小かぶと、届ける量 も、まだ少量ですが、ずっと続けていきたいと思っています。

闘う労働者に野菜を届けるのは、闘う農民のつとめではないか。心と体が、そう思い、そう動く。野菜をとおして、また新たな顔と出合い、闘いと出合う。


   ワンパックに仲間入りして 一九七九年六月下旬便

いよいよ梅雨入りですね。適当な湿りがあってしかも高温で、作物もほきる(勢いよく成長すること)でしょうが、草の方もすぐ山になってしまいます。田植お 茶摘み等自家用の基本的食料の確保をすすめた所で、慣れないパック詰め、共同の植付作業等に追われていると、畑の方は野菜と草の背くらべになっています。 これからは草との長い闘いが始まります。

昨年末から予告されていましたが、六月よりワンパックの仲間に加わりました木ノ根部落の小川です。木ノ根はご存じの方もあるかと思いますが、二期工区内の C滑走路(横風用)予定地です。

皆さんに是非来ていただきたいのですが、私の家は、おそらく反対同盟員の中でも一番飛行機が間近に見えるのではないかと思います。三・二六に管制塔を占拠 した時は、じゃが芋畑からよく見えたのですが、その後開港までにあわてて作られた鉄板の壁で目かくしをされましたが、その壁一枚と向うのバリケードをはさ んで、こちらは農作業、あちらは赤い巨大な尾っぽを見せてエンジンテストをしています。言葉を交そうにも聞きとれないので近頃は無言の事が多くなりまし た。

一年中機動隊に見張られての農作業、かえって気の張りになる位です。時には若い隊員をからかいながら。

さて私達は昨年から「微生物農法の会」に入って有機肥料、無農薬の農法を始めましたがパックの中にも入ったことのある大根、牛蒡等の出来は全く今迄に経験 したことのないものでした。どちらもネマ線虫に主根を喰いちぎられて蛸足になり、大根はとう立ちが早く、蝶々が乱舞する花畑になってしまい収量は大きく減 りました。やはり化成肥料や殺虫剤等で長い間痛めつけられたこの土を、豊かな作物の採れる土にするには、相当の長い年月がかかりそうです。それでも今出し ている春播き大根や小蕪が、東峰のおばあちゃん達に賞められたりすると、まぐれかもしれないのに、土がよみがえって来た、あの時は息も絶えだえの状態だっ たに違いない、この農法を選んでよかった等と、単純に嬉しがっています。

そしてまた、この度木ノ根に、反対同盟によって(もちろん大勢の方々のカンパによって)灌漑用水設備が作られることになりました。有機農法は日照りにも比 較的強いと言われますが、これからは昨年のような辛い思いをしないで済み、木ノ根の原は、一面豊かな緑のジュータンの様になることでしょう。

それにつけても、この地を飛行場にしてこの土をコンクリートの下にして殺してしまおうとは、とても考えられない許し難いことです。私達は土をよみ返らせ育 てていく中で、ますます怒りが強まっていくのを覚えます。ひるがえせば、私達がどんどん土を肥やし、立派な農作物を作り、安定した農業を営み、ゆうゆうと 生きていくことは、飛行場を作ろうとする人達にとって大変恐ろしいことだと思います。

その為にも、私達は「食べる側もひっくるめた共同経営」者であり「互いの生命と暮しの一部をあずけあう日常的連帯」者である皆さんと、もっともっと結びつ いて強くなっていく必要があるし、農民の未来もその辺りに見定めたいと…。少し大袈裟でしょうか…。でもこう書いて来て今思い出します。農民放送塔の垂幕 を。「日本農民の名において収用を拒む」

それでは、永いおつきあいを、どうぞよろしくお願いいたします。



まつりのあとで  岩木要(川崎・石の会)

異常な長さで続いていたうっとおしい雨が、うそのようにあがり、雲ひとつない青空をみせた十月のある日曜。この日京浜コンビナート直下の労働者 居住地域=川崎・桜本の公園で一風変わった“まつり”が行なわれた。まつりのタイトルは“自立をめざす地域祭”。

昼すぎ、三里塚からもちこまれた風車が会場となった五〇〇平方メートル余りの児童公園を見守るようにゆっくりとまわりだして、まつりが次第に始まってゆ く。鉄パイプで会場の囲りに組まれた“出店《コーナー》”では京浜地域で各々の課題を掲げて活動してきたグループが、趣向をこらして祭にきた人々にアピー ルする。

針灸治療や健康相談のコーナーでは真剣な眼差しで治療を見守る。血圧測定には行列ができる。無農薬野菜の人気も上々、人手不足をみかねて手伝いをかってで る人もいる。反公害のパネル展は川崎に新設されようとしているLNG基地の恐ろしさを訴える。三里塚農民の写真展はなかなかの迫力である。紙芝居もやって いる子供達の広場は一番にぎやかだ。沖縄のコーナーではCTS基地を紹介、ここで売られたパン(サータアンダギー)は特別おいしいものだ。ハンドマイクで 熱心に呼びかけをするのは自分達の共同作業所をつくったばかりの脳性マヒ(障害者)の人達である。そして在日韓国人の青年写真家による外国人登録証用の写 真撮影場では、静かに在日朝鮮・韓国人の法的不条理をつきだす。時おり、会場中央に設けられた小舞台の前で若い女性弁士が童話の朗読をする。子供たちは食 い入るように話に聞き入る。

陽がおちかかる頃、まつりは後半の部となり中央の小舞台を中心に次々と出しものがとびだしてくる。出しものの紹介役=日雇労働者に扮した二人の狂言まわし は、「黒テント」の人達からの特別の(?)演技指導をうけただけあってなかなか達者な立ちまわりで、終始人々の笑いをさそった。朝鮮の民族音楽、朝鮮語学 習のための紙人形芝居《ペープサート》にはじまり、反公害の怒りに満ちた悪徳市長糾弾の芝居には拍手喝采。労働者のための空手紹介では見ごたえある演武 と、試し割りでは予定外の飛び入りもでる。また三里塚闘争のフィルムを背にした被解雇者の語りもあった。日がとっぷり暮れて、最後に沖縄青年による躍動感 あふれるエイサーとカチャーシをみんなで踊ってフィナーレとなるまで、参加者にこの一風変わった“まつり”を満喫してもらったのである。

のべ数百人の住民の参加、常時百余名の滞留、野菜売上げ七万円、針治療者30名等の規模は主催者側で予測していた最低の線をなんとかこえたものである。共 産党の妨害宣伝のことを考えれば、最初にしてはまずまずであろう。予定開始時刻に充分な準備ができなかったことや、住民参加者がもう一まわりほしかったこ となど、いくつかの反省点があげられながらも“自立をめざす”まつりは今後に残しうる小さな手応えを得たと思う。

ところで、かくも種々なグループによるいろいろな企画が、ひとつの場に混在しあって我々は何を目ざそうとしたのか、ここでかいつまんでふり返ってみたい。


   (1) 表現能力の拡大、多様化をめざす

政治意志の伝達(大衆への呼びかけ、働きかけ)がおおむね“ビラまき=集会=デモ”というパターンに終始してきた。これにかかわる言葉と行動の組み合わせ は、確かに一定の有効な表現系となってきただろう。だが、それはあまりにも味気ないものになっているのではないか。民衆的感性と縁遠くなっているのではな いか。現状の表現能力の狭隘《きょうあい》さに満足できない衝動が、我々に今回の“まつり”を思いつかせた。

安易に考えれば、大衆うけしない難解なアジテーションよりおもしろいことをやった方が受けるにきまっている。問題はソフトに働きかけることがラジカルなも のに背を向けることになるのではないかという危惧である。しかし、このことはほとんど杞憂にすぎないという思いを祭のあとで一層深めた。ソフトか、ラジカ ルかの二元論ではなく、ラジカルなものをいかに多面的に表現し、多様な大衆的感性と響きあわせるのかという問題である。

風刺のきいた芝居は、百のアジ演説よりももっと根深く人々の心をゆさぶることもできると予感させたし、歌、おどりは解放への衝動を突き動かす確かなリズム となれる。針、空手は身体を呪縛してきた因習から人々を解き放つ有効な武器たりうる。写真、絵、語り、食べ物、遊びも、各々に固有な方法で人々に変革を語 りかけることができることを証明した。

これは、政治参加への便宜上の手段ではない。これらのひとつひとつが重要な意味ある変革をはらむものである。知的感性を偏重してきた抽象的表現系に代っ て、人間の五感すべてに訴える豊饒な政治的感性=具体的表現系をより発展させることが大切になってきている。


   (2) 異質なものが対等にまじりあう

通常、ひとつの行動、ひとつのスローガンを決定するのに我々は必要以上に長い退屈な議論をしてこなかったか。必要以上というのは、議論だけでは埋めること ができない相互の差異を形式的にでも一致させなければ共同できないという信念を満足させるために払われてきた努力のことである。具体的根拠と固有の歴史を もつ異なる運動体が議論だけで互いに完全に理解しあうことはもともと不可能なことだ。むしろ、異質であるお互いを対等に尊重し認めあうことから本当の理解 が始まり、互いによい刺激を与えあうことができるだろう。今回のまつりの準備でも我々はもっと“自立”とか“地域運動”とかについて議論したかったが、そ れよりもなにより優先したのは、いろんな人々が自分達の個性をひとつの場に存分にぶつけあえる環境を作ることであった。実際この祭を通して、多くの人々と 初めて知りあうことができた。これ自身大きな成果だ。“まつり”に限らず我々の思いは、自由な空気の中で屈託なくお互いを批判し、信頼、支持しあえる協働 関係を深め拡げてゆくところにある。


   (3) 自立をめざす……

“まつり”を企画した直接のキッカケは三里塚の風車であった。農民の自立魂が風車に象徴されているとすれば、我々都市労働者はどうしたら“自立”を具体化 することができるだろうか。確かに生産手段をもたない我々にとって、自主管理闘争を別にすれば、このテーマはより文化、生活上のことにかたよってイメージ されるかもしれない。だが、既成の秩序、諸サービス制度に依存せず自分達の力と創意で、小さくても何か実際的なものを協働で生み出せたとしたら、その自信 はもっと大きな“自立”の可能性を見させてくれるだろう。

健康、食品、公害、差別、労働、教育、親睦……いろんなことが労働者住民の内発的意志と主体的参加のもとで討議され、協働で解決されてゆく。そうした自立 した共同空間を地域の中にうちたてたい(狭い地域内に自己充足したものでなく)というのが我々の希望である。今回のまつりはこの意味での地域の人々への メッセージでもあった。



“水牛”雑感(続)  畑野潤

水牛のあの立派なツノも、地域によって形や大きさがかなりちがっている。たとえば湿潤熱帯のインドネシアで見る水牛は、ツノが比較的まるみをお びていて、あまり長くなく、その姿にはやや女性的な趣きがある。半湿潤帯のタイで見る水牛は、三角に角ばった大きなツノがよく写真で見るように頭の左右に 形よく張り出していて、男性的な力強さがみなぎっている。乾燥地帯を流れるナイル川流域などで見る水牛は、比較的みじかい角ばったツノが後向きにのびてい て、いかにも遠慮ぶかいといった風情がある。おそらくは、それぞれの地域の気候風土や用途などに応じて品種の選択・改良がおこなわれてきたものであろう。

他の動物にさきがけて頭脳を発達させ、文明を獲得した人類は、いく種類かの動物を馴らして家畜化することによって、労働や運搬などの役用に使ったり、食用 にしたり、あるいは狩猟用や愛玩用などに利用してきた。一方、家畜化された動物の方では、動物のなかで最強の力をもつにいたったヒトに従属し、ヒトのため に奉仕することによって、餌を安定的に確保したり、肉食獣などの強敵から守ってもらっているのだ。家畜は一面ではヒトが勝手にその動物の運命を左右し、利 用しているのだが、別の見方をすれば、両者は共存・共生の関係にあると見ることもできよう。

野生の動物とは家畜のようにヒトに依存することなく、自然の状態で生きる動物のことである。かれこれもう十年ほど前のことになろうか。上野動物園飼育課長 の中川志郎氏(現多摩動物公園勤務)が動物園で飼われて見世物とされている野生の動物の飼育条件に関連して、アニマル・ミニマムについて月刊雑誌に論文を 発表したことがある。当時は美濃部都知事のミノ笠の下でシビル・ミニマムという言葉遊びがさかんにおこなわれていた時代である。シビル・ミニマムとは、 「市民が市民として生きるための最低条件」のことを意味する。アニマル・ミニマムとは同様に「野生の動物が野生の動物として生きるための最低条件」のこと を意味する。中川氏のアニマル・ミニマム論の骨子はこうだ。

一、野生の動物は、自分で餌(草木や他の動物)を探しあるいは捕えて食べるのである。動物園内のようにじっとしたままヒトから餌を与えられて食欲を満足さ せているのは、本来の食餌のとり方ではない。二、動物は、生殖の相手となる雌あるいは雄を、ライバルを退けながら自分で選ぶ(獲得する)。第三者(ヒト) から相手をあてがわれるのは動物本来の生き方ではない。三、動物は、自分の住まいや餌場を侵入者から守ったり、自分の生命を守るための警戒本能をもってい る。外敵の攻撃を第三者(ヒト)によって防いでもらうのは動物本来のあり方ではない。動物園に飼われている動物たちは、このアニマル・ミニマムを否定され ているのだから、それを少しでも取り返せるよう飼育環境にできるだけ自然を取り入れていきたい……云々。

家畜は、まさにアニマル・ミニマムの否定のうえにはじめて地球上に存続することを許されている人為的な環境下の動物たちである。だが、同じ家畜とはいって も、大陸の広大な草原に放牧している牛や羊などと、日本の畜産業のように、狭い空間にぎゅうぎゅうつめこみ、高タンパクの濃厚飼料を毎日無理矢理食わせて インスタントに太らせている牛や豚とでは、月とスッポンほども条件がちがっている。家畜はたしかにヒトのために奉仕し、あるいは食われるために存在してい る動物である。だが、家畜も動物の仲間である以上、野生の動物にアニマル・ミニマムがあると同様、家畜にも家畜ミニマムがあるはずなのだ。

たとえば、反すう動物である牛や水牛には胃が四つある。その仕組みは複雑なので一言で説明することができないが、要するに第一番目の胃の中に生息している 細菌や原虫などのはたらきを利用して食べたものを栄養に転化してゆく独特の消化機構なのである。この消化の仕組みが正常にはたらくためには、草や藁などの 粗飼料《そしりょう》が十分に与えられなければならない。ところが最近ではその粗飼料の入手がむずかしいところへもってきて、輸入品の濃厚飼料がいくらで も手に入るので、勢い粗飼料不足のまま高タンパクの濃厚飼料を多投することになる。この結果、牛の第一胃が異常発酵を起こしたり、かいようになったり、あ るいは乳牛の第四胃が変位したりする病気が多発しているのである。豚や鶏も大同小異の状況下にある。この国では野生動物のアニマル・ミニマムは無論のこ と、ヒトが自分の手で飼育している家畜にたいする家畜ミニマムすらふみにじっているのである。

ところで、シビル・ミニマムとは、市民一人につき畳何畳とか、五〇〇メートル単位に街の中に小公園を一つとかいったもので、いわばマイホーム主義の最先端 をゆくものであった。それはどちらかといえば、アニマル・ミニマムよりも家畜ミニマムに近いといえよう。なぜなら、そこには自分で餌を探し求める自由への 欲求もなければ、体制に飼い馴らされた核家族社会や男性支配下の私有財産制を基盤とする現在の一夫一婦制にたいする批判精神もないからである。家畜のため の家畜ミニマムの必要は声を大にして叫ばなければならない。しかし人間にとっては家畜ミニマムの延長線上にあるシビル・ミニマムよりも、むしろアニマル・ ミニマムに似た生存への欲求こそが必要なのではあるまいか。そして、管理社会と物神崇拝を否定するエネルギーはこのあたりから出てくるのではなかろうか。

最近、東南アジアにも農耕用のトラクターが進出し、水牛を追放しつつある地方が出てきている。ボルネオ島の一角では、水牛を肉用として飼育しはじめたとこ ろもあるという。わたしは、あの野生味あふれる水牛が、この国のような運命にさらされることのないよう強く望んでやまない。



〈朝鮮語〉の学び方II 大いなる〈ことば〉  李銀子《イ・ウンジャ》

(ハングル多用のため掲載を省略)



楽譜 新人民軍の歌(フィリピン)

新人民軍は人民大衆の武器
革命の軍隊
自由をその手でまもる

党の指導のもとにたたかいは前進する
革命の戦士は
新人民軍につどう

赤旗をうちふれ たたかいの旗を
槌と鎌もつ かがやく歴史

赤旗をうちふれ たたかいの旗を
革命をすすめよ 勝利の日まで


楽譜 ふかいなげきの日(フィリピン)

ふかいなげきの日よ
やみにとざされ
祖国のためにたおれた
同志をいたむ

道は血と犠牲の
泥にみちて
われらはたたかいひきつぐ
勝利の日まで

警官のなげた爆弾で殺された十五歳の活動家フランシス・サンティリヤーノをいたんでつくられた歌。それ以来、軍隊や警察に殺された人たちをいたむ集会に は、いつもうたわれるようになった。



楽譜 工場の灯(韓国)

きれいにひかる灯
工場の灯
ゆくあてもなく
かぼそい作業灯だけ

これじゃかえれない
ふるさとの村
さむい夜ふけ
ここもまたふるさと

韓国の紡織工場の女子労働者のたたかいをえがいたミュージカル「工場の灯」の主題歌(台本は「水牛新聞」5号にのっている)。ウェスタン風リズムにのって うたわれる。 このミュージカルは、二月十七日(日)日本音楽協議会「はたらくものの音楽祭」で上演される(東京都勤労福祉会館)。
オリジナル・テープと楽譜は韓国問題キリスト者緊急会議(東京都新宿区西早稲田×× 電話××-××《当時の連絡先につき省略》)へ申しこめば入手するこ とができる。テープは千五百円、楽譜は二千円。上演時間三十四分。



蜚語「六穴砲崇拝」を観て  金佑宣《キム・ウソン》

火種プロダクション制作、金芝河の詩によるコンポジション・幻燈による第三回作品『蜚語——六穴砲崇拝——』を観た。なぜかブレヒトを思い出し た。そして彼の代表作のひとつである『第三帝国の恐怖と貧困』(ナチスが着々とそのプランを遂行しつつあった第三帝国内での日常的な事件を、異化の目でみ た二十数シーンで構成された叙事的演劇)の三分の一だけ観せられて終わってしまったような、そんな欲求不満を感じた。この物足りなさはなぜなのか考えてみ た。そして私自身の独断めいた考えを言えば、火種プロのメッセージ「私たちは詩人金芝河の抵抗の姿勢と作品に自らを問い、芸術もまた時代変革の担い手であ りたいと願っています」(後略、「蜚語」宣伝用チラシより)とあるような金芝河の抵抗の姿勢がトータルなイメージとして作品から伝わってこない。それは、 この作品の出来、不出来が大きな原因ではないように思われる。

つまり、金芝河という人間が、譚詩『蜚語』一編だけでは、とうてい語りつくせぬように、火種プロダクションの人間解放の場に立ったたたかう芸術のあり方 ——芸術の新しい草の根運動も、決して『蜚語』一作で語り尽くされるものではない。言いかえるならば、この第三回作品ひとつ観ただけで、作り手と受け手の 新しい連帯の場がうまれ、完成されうるものではない。『しばられた手の祈り』(第一回作品)・『めしは天』(第二回作品)・『蜚語』(第三回作品)、そし て当然創作されるべきである第四、第五等々の作品の新しいうねりを通して、「芸術の新しい草の根運動」は、ともにたたかう新しい連帯の場を獲得し、その中 から芸術のあり方を模索し続け、発展し飛躍してゆくのだと思う。そう考えると私には、これらの作品は当然三作品一挙に上映運動にかけられるべきだと思われ た。たとえ十作品創作されようが、一挙に上映すべきだという原則はかわらない。しかし、ブレヒトの『第三帝国』が反ナチス運動の状況・対象・規模の変化に 対応してそのつど二十数シーンのうちから、いろいろと場面を選択して上演運動を続けたように、この火種プロによる力強い芸術運動にはそういった方法も可能 なのではないだろうか。あくまでも観客にとって必要なものは、金芝河の全体像と彼のおかれている状況のトータルなイメージであり、かつまたこの八十年代の 流れを変えようとする火種プロの芸術運動の模索とたたかい、そして発展の路程である。金芝河の一昨品の紹介そのものが目的であってはならないのではなかろ うか。

私が、金芝河の作品と姿勢を通じて、いつも感じることは、〈土着的なもの〉という概念である。私たちはつい最近まで〈土着的なもの〉の対立概念として〈世 界的なもの〉を想定してきた。そして、〈土着的なもの〉は偏狭なナショナリズム(民族主義)に基づくものであり、私たちの芸術が〈世界的なもの〉となるた めには、国際社会へどんどん進出し、内容・形式ともに世界的でなければならないと考えていた。しかし金芝河の作品における〈土着的なもの〉とは、そういう ものではなかった。彼は、〈土着的なもの〉を支えるナショナリズムとは、民族が直面している歴史的な状況に、もっとも柔軟性をもって対応していく概念であ り、民族全体の歴史の転換期のその瞬間、その瞬間にもっとも適確なナショナリズムが理論的にも、実践的にも構成されなければならないと考えている。

過去に私たちは、日帝植民地時代のナショナリズム、解放後分断を強いられた時代のナショナリズムを経験し、そしていま、南北分断の悲劇を止揚し、統一へ向 かう時代のナショナリズムの定立が求められている。そして金芝河こそが彼の作品と抵抗姿勢をもって、この定立に挑んでいる。彼の作品を脈々と流れる〈土着 的なもの〉とは、このことをさしているのだろう。言いかえるならば、植民地政策・分断政策によって強要された偽りの近代化のなかで、でっちあげられた民族 文化を清算し、われわれ自身の民族的伝統をどのように復元させていくことができるかというところに金芝河の作品の真価があるのである。

そして、そのことがただ、われわれの〈土着的なもの〉の問題としてだけではなく、われわれが創造しなければならない〈世界的なもの〉の問題として自覚され るとき、われわれが、これをどのように芸術運動化することができるかという問題は、けっして簡単なものではないだろう。



サトウキビ畑の即興劇  堀田正彦

   四、ホテル

P先生は高校の英語の教師だ。
シェークスピアを、この島の方言に翻訳したいという夢を抱いている。やはりサトウキビ生産を唯一の産業とする小さな町で教鞭をとっている。
先生とは、二カ月ほど前に、マニラで行なわれた夏期演劇ワークショップで知り合いになった。四月と五月の夏休みを利用して、六週間の「芝居の書き方コー ス」に参加し、学び、自分の学校の演劇部の指導にあたろうというのが先生の目的だった。参加費用は学校持ち。
「でなきゃ、とても参加できませんよ。」
先生は、すこしまぶしそうな顔でそういった。島から一人息子を連れてきていた。
渡航費、滞在費、参加費をまとめれば八百ペソぐらいになる。日本円で約二万八千円。先生の給料は、現在九百ペソとちょっと。もうすぐ次の子供が生れるし、 とても自費では参加できない。学校持ちだとしても節約しなければならない。そこで、つてをたどって、ぼくが泊っていたある学校の学生寮に潜り込んできたの だ。すぐビール友だちになった。
ある休みの日、先生とぼくはマニラ市内の一流ホテルのロビーにいた。
これから先生がモノしようとしている戯曲の参考のために、一流ホテルを見学しようというのだ。外国人のぼくが案内役をかって出たというわけ。だが、ホテル の前で、
「ドアボーイが、あんな立派な制服を着てますよ。大丈夫かな?」
と先生がいう。いわれてみれば、ぼくは洗いたてとはいえGパンとワイシャツ。先生もよそいきの格好をしているとはいえ、どう見てもボーイの純白の制服の方 が仕立ても値段もずっと良さそうである。
「大丈夫ですよ。気楽に、気楽に」
と、カラ元気で先生を励まして、
「ヨッ! ヤアッ!」
と、田中某風にドアボーイに声をかけて、とにかくロビーに入り込んだ次第だった。
ロビーはヒンヤリと冷房が行き渡り、ギリシア風の円柱がそびえ立っている。かつて、「マレーの虎」山下奉文が総司令部にし、マックアーサーが本部にしてい たという由緒あるホテルだ。先生は、一歩足を踏み入れて呆然とし、カチカチになってしまった。
手近のテーブルに先生を坐らせ、ビールを頼んだ。ここでも、なんとなしに「ヨッ! ヤアッ!」と田中某風の仕草になってしまう。日本人の旅行団が画一的に 見えるのは、この心理状態のせいではないか、などとあらぬことを考えてしまった。
「ビール、いくらです?」と先生。
「一本七ペソ(二百円ぐらい)……」
「アッ……」
先生は、ますます呆然としてしまった。普段、われわれがビヤホールで飲むビールは、一ペソ五〇。高いところで三ペソぐらいである。しばらく、ビールの金色 の泡をジッと見ていた先生は、グビッと一口、思い切ったように口に含むと、低い声でしゃべり始めた。
「七ペソといえば、私の村の男たちが稼ぐ日当と同じですよ。このビール一杯が、あの男たちの一日分の汗と同じだなんて……」
「……おととしでしたか、隣人の子供が木から落ちましてね。家に金を借りに来ました。治療費です。というより薬代です。診察は無料だけど、医者は処方箋を くれるだけ。薬は自分で買わなきゃならない。無料だから診察も良い加減。……家には貸してやれるお金はなかった。その子は、三日ほど苦しんで死にました」
「隣人たちで、町まで行きましてね。街角に立ってお金を集めました。……お棺を買うためのね」
ぼくたちは、大方のビールを飲み残したまま、早々にホテルを出た。


   五、“サカダ”

P先生がその時語った〈私の村の男たち〉が、「実践教室」にやってきた。
二人のサトウキビ労働者と一人の組合活動家だった。その夜は、彼らからサトウキビ農場の話を聞くという時間が組み込まれていたのだ。参加者のほとんどは、 多かれ少なかれサトウキビと関わっている。この交歓会は都市の人間たちのために、地元が準備したものだった。
サトウキビ労働がどんなものなのか、二人の農民がトツトツと語る。
「八十キロはあるなあ。刈り取ったキビをジュート袋に詰めたやつだ。そいつを、畑からトラックまで運ぶ。十四ぐらいのガキが、押しつぶされもしねえで、よ く運ぶもんだ。おとななら一日に百袋以上は運ぶかな。なにしろ、一袋かついでたったの九センタボにしかなんねえもんな……」
九センタボといえば、二円七〇銭である。ぼくともう一人のヘビースモーカーが、顔を見合わせる。
(いま喫っているタバコが、一本二十五センタボ……。八十キロの袋を二・七個運ばなきゃ、これ一本も喫えねえぞ)
気軽にタバコを喫う気にもならない。
農民はつづける。
「刈取りと植付けは、半年に一回だ。後の半年は、賃金なしで暮らさにゃならん……」
「刈取りも請負制だ。貧乏人同士が値段の下げあいをして、仕事を奪いあう。自分の首をしめても、生きて行かねば……」
組合活動家が歴史的背景を説明する。
「サトウキビ農場は、封建的荘園制の遺制を未だに引きずっています。この島の五分の三がサトウキビ畑で、その全面積がわずか八つほどの家族によって所有さ れています」
「農場はその所有者の名前をつけて、××ハシェンダ(荘園)と呼ばれます。このハシェンダに住む土地を与えられて生活している農民が、サカダです。彼らは ただ住むことを許されている、あるいは黙認されているだけの季節労働者です」
「住む土地を与えてやったのだから、無償で働け。これが、ハシェンデーロ(荘園主)の論理でした。また封建制のもとで、サカダたちもそう考えることに慣ら されてしまいました。彼らは、与えられた土地に野菜を作り、ヤシを植え自給自足の生活に甘んじていました」
「もともと俺たちの土地じゃねえからね。前の地主が死んで息子の代になったら、何十年そこに住んでたかもお構いなしに、俺たちを追い出しやがる……」
「賃金を貰わにゃ、生きていけん。貰う賃金は雀の涙だ」
「マルコス大統領の戒厳令によって、賃金の引き上げを求めるストライキ、デモ等は禁止されています。しかも、砂糖の世界市場での競争力をつけるため、大統 領命令によって、砂糖の輸出価格が突然切り下げられるということがあります。これが農場主たちに賃金据え置きの絶好の口実となります」
「有名な話さ……昨夜、大統領から長距離電話が入った。彼は、輸出価格を十%切り下げるといっている……」
「だから、俺たちの賃金は上げられねえ、というわけだ」
ザーッと降り続く雨の音に時おり消されながら、農民たちの話は深夜まで続いていた。

(つづく)



編集後記

「水牛」が雑誌として出発してからはやくも第2号をおとどけする時がきました。書く、作る、売るの作業は小人数の編集委員にはかなりきびしいことです。そ れでも、何通かずつ送られてきている予約購読の申込みにはげまされて、いつか「水牛」の輪がひろがってゆくことに思いをはせています。誌面づくりにご協力 ください。読者の視点からの熱いメッセージを期待しています。原稿等は一切お返しいたしませんのでご諒承ください。

(J)


いろいろな場所で「水牛通信」を読んでいるさまざまなひとを思いうかべながら2号をつくる作業をするのは楽しいことでした。
下に購読のご案内がありますが、5部以上まとめて送るほうが送料はずっと安いのです。グループを組んで申し込んでくださるのもひとつの方法です。
1号に誤植がありました。15ページ上段の13行目、加藤儀一の『家畜文化史』……は、加茂儀一の誤りです。訂正しておわびします。
3号には、部落に伝わる守子唄や民話のほりおこし、天皇一家総登場の寸劇、ペトリカメラの保育所訪問記などを予定しています。
(M)





はじめにもどる / 水牛通信電子 化計画にもどる