水牛通信

人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1980年7月号 通巻13号
       
入力 川合彦二郎


コラージュ韓国1980年
タイ東北部の声
  楽譜 村からのノート
  封 建階級の生き残り諸君にもの申す ジット・プミサック
  ティーパゴン=ガウィーガーンムアン トンバイ・トンパウ
青森県「六ヶ所 村」 馬場 仁
「ごえん玉」って何だ
絵解きバナナ植民地(図版のため未公開)
フィリピン日記 福山敦夫
編集後記


韓国1980年
血の抗争の記録

狂犬全斗煥を
追いだすことが
できなければ
われわれが
子孫に残す遺産は
かぎりない
抑圧と搾取のみで
あることを
肝に銘じ、
われわれみなが
闘争の一線に、
立ちあがって、
愛国歌を
声の限り
歌いながら
前進しよう!


村からのノート

ラサート・ジャンダム 詩
カラワン楽団 曲
天野和子 訳

ハー
 おれの村だよ おれの村
 昔から みんな住みなれたこの土地
 守り神も 共に耐えてくれた
 町の悪魔になやまされても
  みんなでいっしょにくらしてきた

ハー
 よみかきも 学校もしらず
 わき目もふらず はたらくだけさ
  はたらくだけさ
 森をひらき 風にさらされ
 日にてりつけられ にげるすべなく
 町の悪魔に 吸いとられる

ハー
 今じゃ若者は いない
 のこされた 老人子ども 死んだように
 さびれた村 水牛もきえて
 ひあがった田 コメもない
 町をうらむ このみじめさ
 くるしみへらず 抑圧はつづく
 夜も昼も 無数の村で

プラサート・ジャンダムはこの詩をタイ東北部イサーンのことばでかいた。カラワン楽団はイサーンのことばでうたわれる歌をいくつかレパートリー にもっていた。プラサートはタマサート大学をでて、東北部コンケン県サプデーン村であたらしい村づくりの運動をおこした。「サプデーン詩集」、「水が空を ひたし、魚が星を食う」をだした。この「村からのノート」はその後、ダム建設で土地を追われる貧農をえがいた映画「トンパン」の主題歌になった。


封建社会の生き残り諸君にもの申す   ジット・ プミサック
                       天野和子 訳

 

 財宝 遠きものに非ず
 賢き者 そを得ること易し
 いずこたれども 道行きつくものを
 されど怠け者 田得ることあたわじ

この詩は何世紀にもわたってタイ人が聞き慣れて来た箴言である。アユタヤ時代から現代に至るまで、小さな子供から大人に至るまでほとんどのタイ 人は、ナライ王時代から流布して来た説教集「ジンダマニ」(珠玉)の中のこの一節を暗唱させられることによって、このように教え込まれて来たのだ。

この詩を通り一ぺんに聞けば、人々に勤勉に労働にいそしむことを諭したもので、いつの時代にも通用する生活訓に違いない。しかし別の視点から見れば、この 詩は、金というものはどこにでもころがっていて賢くさえあれば人並み以上に豊かになれる、貧しくて食べていけないのは怠慢で働かないからであるという味方 を植えつけて来た。この詩が教えて来た考え方こそ、貧困と欠乏の原因は怠惰であると多くの人々に信じさせて来た元凶である。「怠惰でないことがあろうか」 ラームカンヘン大王すら、かの石碑でうたっている。タイはよきところ、「水あれば魚すみ、田あれば稲有り」、もし勤勉ならば二、三度網をうってみるがい い、必ずや大きな魚が漁れるだろう。種蒔きし田植えるところ今少し広げてみるがいい、香り高き新米を味わうことができるものを。奴らは生れついての怠け 者、働きもしないで喰うものがない、あげくの果て人のせいだ……非常に多くの人間がこのように言う。これは封建時代以来の古い考え方が、阿片のように脳を おかして来たせいだ。たとえば封建階級の代弁者、民主党の書記長スウットチャートは、東北地方の貧しい農民を臆面もなく「怠惰だ」と決めつけている。

去年のことだが、国会議員ソムサク・ソムブンサップは、東北地方の人間を、手を洗わないでものを食べる、不潔だ、と言ったことでかなり物議をかもした。東 北タイ人や経済の見地から現実を把握しているものにとって、これを聞いた怒りがまださめやらぬうちに、民主封建党書記長スウィットチャート議員先生が社会 的生産者たる民衆を怠惰! 呼ばわりしてくれたことは「不敬罪」にも匹敵するものだ。さらに民主封建党党首クアン・アパイウォン氏は同党書記長を弁護し て、何が悪い、怠惰とは単に比喩的表現だ! とのたまわる。それならば抑圧された民衆、誰でもいいから誰か一人の顔を、犬、しかも飼主の恩を仇で返した犬 にそっくりだと言ったところで、別に何も悪いことはあるまい、ただのたとえにすぎないのだから……まあこんなところか?

東北地方が自然災害にみまわれる度に、中央部への農民の流入現象が起こる。そしてその度に、東北は飢えていないという騒々しい反発の声が上るのだ。県に よっては中央部より豊かだ。「水あれば魚すみ、田あれば稲有り。」乳飲み子を小脇にかかえて、仕事もしない。時折新聞が、東北地方《イサーン》は飢餓にお そわれている、豚同様バナナの幹、コオロギ、カメレオン、虫まで食べている、と報道したことがあるが、その度に猛反撃を受ける。そんなことはあり得ない、 タイは大きい、餓死などということは起こり得ない。奴らがカメレオンを食うのは、親子代々何世紀も前からそれが好きで食っているだけだ。食い物が無くて食 うわけではない! 時折東北の農民は雨期に入ってからバンコクへ出て行く。去年がそうだった。東北問題にくわしい評論家氏によれば、彼らは博打を打ちに来 たのであって田植え時になれば農作業をするために戻って行くというのだ。全く奇妙ではないか! 彼らが出て来たのは雨期であり、まさに田植え時である。田 植え時が来れば自然に戻って行く、などという言い方から解釈すれば、東北では干期に田植えをするとでも思っているのか!

確かに誰でも怠惰な人間に、憎しみを感じる。働かずに、働いた人間から地代や、利子、礼金を吸い上げるだけの怠惰な人間を。人にあるまじき行為であり、奴 らに食べさせるべきではない。勤勉と労働の尊さを説き、寝そべって善良な民から利益を収奪することをいましめている国の憲法では、「働かざる者食うべから ず」と明記している。なんと公平ではないか。労働する者のみ食う権利があり、幸福な生活を享受できる。ところがタイ社会の現状を見てみるがいい。正反対で ある。労働する者は食べる物が無くて死にかかっており、ぜいたくに食っている連中は生産に一切たずさわっていない。彼らがしていることといえばせいぜい地 代や利子をとりたてるための計算か、高い収益をあげるため国内向け海外向けを問わず商品の独占を行うこと、そしてさらには働いても自分の手許にはほとんど 何も残らない貧乏人を指して「怠惰」呼ばわりをすることぐらいなものである。

さて、「水あれば魚すみ、田あれば稲有り」「タイは大きい、餓死などあり得ぬ、どうやって餓死などできるものか」と説く愚かな封建主義者諸君、先月タノ ム・ギティカチョン首相は自ら東北地方を公式に視察して回り、新聞の記者会見に応じた。彼は東北タイの人々が豚の餌同様、ぬかとバナナの幹をまぜて煮たも のを食べており、栄養失調で子供を失った女にも出会ったと語っている。首相がこれ程はっきり認めたにもかかわらず、愚かな封建主義者諸君、まだラームカム ヘン大王の八〇〇年も昔の石碑に依拠するおつもりか? タノム首相が言ったことは嘘かどうか、ためしに討論してみられるといい。てん足の封建主義者諸君、 是非試みていただきたい。

愚かな封建主義者殿は目を閉じて念仏をとなえる如く、「東北人は怠け者」をくりかえす。思い出してみるがいい、現在バンコクでサムローを運転しているのが 誰か。繊維工場やその他の工場で働いているのは誰か。あなた方が毎年地代を搾りとっている田で田植えをする小作人は誰か。バンコク以外を見ても同じこと だ。チョンブリの地獄のような作業場で働くものは誰か。何百という製糖工場で働く者は誰か。南部の鉱山やゴム園で働く者は誰か。彼らの九〇%は東北人なの ではないか。水浴どころではなく汗水たらして労働に従事する彼らを怠け者と呼ぶのか?

自分の生れ故郷を誰がすすんで捨て去るものか。親や子、兄弟、妻を残してあえて見知らぬ土地に行くことを誰が好むものか。東北人とて、家を愛し、村を愛 し、家族をいつくしむ心は同じ。しかし彼らは仕事を求めてその土地を去らねばならない。東北の地が彼らに提供する仕事がないからである。彼らの土地に稲は 無い。干魃のため植えることができないのだ。水の中にも魚はいない。というよりもそもそも水が無いのである。そこを動かずに居るということは餓死すること に他ならない。毎日列を成して何万もの人々が他の地方や外国(ラオス)での生計の道を求めて移動して行く有様は、彼らが心から仕事を求めていることを十分 証明しているではないか。生きのびて行くための労働をである。彼らが怠惰なら移動などする必要はない。そのまま寝そべって死を待つ方がましではないか。

干魃が来る度に破産した東北の農民たちは、蟻が砂糖に群がるように製糖工場に働きに集まって来る。彼らはすずめの涙ほどの労賃とひきかえに二十時間も働か ねばならない。時には、彼らの手足を呑み込もうと待ちかまえている機械に自らの生命を犠牲《いけにえ》として奉げださねばならない。ある者たちは道路工事 の人足として一トン当りの掘り賃たったの三バーツで働く。てん足の皆さん、一つやってみてごらんなさい。半ヤードも掘ったらあごを出すに決まっている。一 体何にたとえたらいいのか。これでも彼らを怠惰だと言うのか。

貝殻みたいに小さな足したてん足の皆さん、貴方がたは冬に寒い思いをしたことがあるか。東北地方の肌さす寒さを、貴方がたは御存知ない。温度のことを話し ているのではない、降った雨が霜になる程の寒さのことを言っているのだ。今年の冬バンコクは暑かったが、東北は例年通り寒かった。たとえばウドン県ノンブ アラムプー郡のような山と山にはさまれた谷あいの地方の民のことを考えてみたまえ。どれ程寒いか。何に触れても手が痛む程で骨までしみるような寒さだとい うのに冬着も毛布も無しで耐えるのがどんなことか想像がおつきになるだろうか。彼らはどのようにしてこの寒さに耐えているのか。冬服はいくらでも売ってい る。ただそれを買う金がないだけだ。一着八十バーツもするということは、彼らが耕して得たもみつき米約十五タン(一タンは約二十リットル)を持って来てよ うやく一着買えるという勘定だ。十人家族とすると、米一五〇タン必要となる。それだけの米をどこから捻出するというのだ。彼らの田の収穫量は少く自分たち の食べる分すら無いのだ! 封建階級の諸君、彼らに職をさがしてやってみてはいかが。衣類や毛布を買うために彼らは朝から晩までせっせと働くに違いない。 こごえ死にしたい者などいるはずはない。

暇があったら東北地方の経済的現状を調査してみていただきたい。彼らに対する中傷誹謗がいわれのないものであることをその目と耳で確かめてほしい。我々の 調査した一例をあげるだけでも十分よく分る。すなわち、ウドン県ノンブアラムプー郡バーンノンタン村一つとってみても、二百余人の村民の中で冬着も毛布も 持たない家族は四十世帯に及ぶ。ウドン県全体でみれば一体どれ程の人間が寒さにふるえているか考えてみたまえ。

水が必要なのだ。彼らは生きて行くために田を作りたい。東北に仕事があれば、何も競ってバンコクへ出て来る必要は全く無い。ところが水が無い。仕事も無 い。従って彼らは勤勉にも出て来る。のばした両手で一心に仕事を求めて。それにもかかわらず彼らは、不当にも「怠惰だ」と非難されるのだ。ああ、こんなこ とがあっていいものか。

このような極貧状態をかんがみれば、彼らに対するいかなる蔑みも非難も受け容れることはできない。東北の実情をよく調査して、問題を解決し彼らが自立でき るようにするための長期的プロジェクトをたてる必要がある。タノム首相はこの面で何らかの役割を果たそうとしているようだが、封建階級は東北地方振興政策 には何故か力を貸そうとはしないようだ。それどころか、全てを怠惰に帰着させるため太鼓を打ち鳴らしている。これは民族の福祉に何ら責任を負おうとしない 封建階級がはるか昔から使い古して来た常套手段である。民衆が貧困に苦しむ時は、怠惰だからと唱え、自らは利益を収奪してやまない。

我々はこのように、「無責任な」態度にがまんできない。従って封建的政治体制を打ち倒して民主主義体制をとった。ところがこの民主主義の時代と言われる今 なお、封建階級の残党が以前と変わらぬ獅子の咆哮をあげている。人民は、彼らを蔑んでおいて、彼らの労働の代価を勝手気儘に横盗りする議員を欲してはいな い。彼らの望むのは彼らの生活の安定をおびやかす問題を解決してくれる議員である。

怠惰の連呼とは別に、封建階級の中には、貧困の原因を一切、ピブンソンクラム政権の政策のせいにしている者たちがある。たとえばかれらの週刊の新聞に載っ た「タイ人の負債」と題する評論によれば、利子が払えない、地代が払えない、従って村を出なければならないという問題はピブンソンクラム政権の乱脈な財政 の結果である、と述べている。我々もこの政権の乱脈ぶりを認めるのにやぶさかではないが、彼らはすでに散り果て今は死骸も同然である。何故今さら死体をね らう「禿鷹」を演じなければならないのか。過去の政権をこきおろすという方法は封建階級の人気を高めている。何故なら読んで痛快であり、すかっとさせてく れるからだ。しかしながらお尋ねしたい。それで何か少しでも問題が解決したのかどうか、封建的土地所有者の高利から民衆を解放することができたのかどう か、地代、礼金の搾取から彼らを解放することができたのかどうか。否、全く否。タイの社会を丸呑みにしようとしている「封建階級」自身から人民の目をそら そうとしていただいては困る。彼らは気づいていないことはない。タイ人民の苦しみが過去の政権の悪政によることは部分的に真実である。しかしながら、高 利、地代による搾取から起こる困窮の責任者はまさに自分たち封建階級であることを言い忘れてもらっては困る。封建階級のこの残存勢力を一掃しない限り、ど のような政党が政権をとっても農民大衆の困窮を一掃することは不可能だ。

封建階級の本質は明らかである。怠惰やピブンソンクラム政権を元凶にしたて太鼓打ち鳴らし、自らは一切責任をとらず、解決のための方策を考えてみもしな い。

ラームカンヘン大王の言葉「水あれば魚すみ、田あれば稲あり」を唱えてさえいれば、タイが豊饒の地になるありがたい御言葉ででもあるかのように思い込んで はいけない。「タイは大きい。餓死などありえぬ」という七世王の言葉を王宮や諸候の屋敷の外のタイ全土に通用すると思い込んではならない。今現在、東北に は水が無く、魚がおらず、田は干からびて稲は無い。犬だけではない、人間も餓死しているのだ!

水あれば魚すみ、田あれば稲有り、という豊かな地にするにはどうしたらいいのか。豊かになってもまだ、ただすわって食べ物が口に入って来るのを待つだけの 怠け者がいたらそれこそ「怠惰」と非難するがいい。

封建階級が真に人民に仕えようと言われるなら、人民を中傷するのをやめたまえ。過去の政府の遺骸を禿鷹のようにあさるのをやめたまえ。長期的な経済計画を たて、工業をおこし、不平等条約を廃棄し、封建的搾取制度をなくすことを考えてみてはどうか。そうなれば選挙の投票日には封建党に一票を投ずるように誰に でも推選してさしあげようではありませんか!


ティーパゴン=ガウィーガーンムアン  トンバイ・トンパウ

彼と初めて知りあったのは、ずっと以前私がまだ新聞社に勤めていた頃のことだ。その頃彼はチュラロンコン大学学生会誌の編集責任者としてすでに その名をとどろかせていた。それは彼の思想が、彼と同世代の人間または彼より年輩でありながら思想的には彼より遅れていた人びとよりはるかに先行していた からに他ならない。それに対して彼が受けた褒賞は、彼の思想に共鳴しない者たちに襲いかかられ、〔大学の講堂の壇上より〕投げ落されるということだった。 その後大学当局は彼を訊問し、停学処分にした。

ほどなく彼は、「タイ・マイ」紙の編集部で働くことになった。当時、編集長はタウィン・ウイチアンチュム、編集顧問にはスパー・シリマノンがいた。私はと いえば、まだかけだしの記者で、活字の校正、すなわち現在では編集部校閲課と呼ばれるところに配属されていた。彼の書くものは尖鋭でかつ説得力があった。 とくに彼の思想は、彼の同世代人の想像の範囲をはるかにこえて進んでいた。彼は、「タイ・マイ」にはさほど長くいなかった。というのは、復学が許されて大 学にもどったからである。学部課程を終了して文学士として卒業した後、ぺトブリ・ピタヤロンコン教員養成学校の教師として赴任した。当時彼は、友人のス ティー・クプターラック、プラウッティ・シーマンタ、ピニット・ナンタウィジャンたちと、彼ら新青年の新聞「シアン・ニシット」(学生の声)を発刊して、 文芸界に新思想を吹きこんだのである。

その他にも彼は、当時の有名な新聞のいくつかに作品を発表していた。たとえば「サーン・セーリー」には、「生きるための芸術」、「人民のための芸術」が掲 載されたが、これによってティーパゴンは世に出たのである。

『ニティサート』(法学)など学術雑誌にも彼は書いていたが、とくに『ニティサート二五〇〇年特集号』の重要な内容を形作ったのは、ソムチャイ・プリー チャージャルンの論文だった。

彼の本名は、誰もが呼ぶように「ジット・プミサク」である。私が言及した名前、ジット・プミサク、ティパーゴン、ソムチャイ・プリチャージャルン、ガ ウィー・ガーンムアン等々は、どの名も例外なく「封建階級が憎悪し、帝国主義者が恐れおののいた」名前である。

彼がタイ・マイ社を辞めた時に、私はふたたび彼と会うことになるとは想像していなかった。あにはからんや、一九五八年一〇月二一日からほどなくして、われ われは再会したのである。ただし今度は事務机を前にしてではなく、牢獄の檻の中でであった。

「おーい、バイ〔トンバイ氏の通称〕こっちへ来いよ」。大声で私を呼ぶ声がする。折しも、身のまわり品一式をぶらさげた私は、警官にともなわれて公安警察 の捜索課から拘置課の監禁房にやってきたところだった。私には声の主が誰なのかすぐ分かった。「よお、ジットじゃないか」私はふりかえりざまに呼びかけ た。「ここへ来いよ。おれたちはみんなここにいるぞ」よく通る声で彼は叫んだ。

私は何のためらいもなく、所持品をぶらさげて声のする方へ向った。警察官にはこの房に入りたい旨申し出ると、彼は私の希望どおり鍵を開けてくれたので、 さっそく中へ入った私は、彼がここへ来ることになったいきさつをたずねたのである。

「例の一〇月二一日以来さ」彼は答えた。「いつになったら君が来るのか、ずっと待っていたところだ。なんでこんなに遅れたのかい」。まるで避暑に行く話で もしているような調子で、彼は訊いたものだ。「仲間がどのくらい集まるか様子を見てたのさ。一人じゃ寂しいからな」私の答に彼は笑った。

「アイランもここにいるぞ」。彼がアイランと呼んだのは、ステイー・クプターラックのことだ。
「それじゃアイアチャンは」と私はたずねた。
「彼は取調室にいる」。アイアチャンとはプラウッティ・シーマンタのことで、彼は教師をしていたのでこう呼ばれていた。教えるのが上手く、博学で、何か分 らないことがあると彼に聞けば分かったので、私たちは彼をよく「先生(アチヤン)」と呼んだのだった。時々は「アイランヤイ(大)」すなわちスティーに対 して、彼を「アイランノイ(小)」とも呼んだものだ。

彼とスティーとは、私を手伝って、今まで人が入っていなかったため埃だらけだった私の房を掃除して、寝られるようにした後、逮捕された時の模様や訊問のこ となど話してくれた。ジット・プミサクに対する取調べは、非常に厳しかったため獄内に知れわたっていた。それは、彼が警察の取調官に対し、へり下った態度 を決してとらなかったためである。彼は答えたことと、調書に書かれる内容が違っていることを決して許さなかった。したがって激しい口論になった。ジットが 陳述することは、取調官は記録しようとはしなかった。なぜなら、彼らの意図した項目に当てはまらないからだった。彼はそれを許さなかった。断固として自分 の陳述どおり記述させたのだ。彼によると、彼の取調べにあたった係官は元刑事犯の担当だったため、刑事犯の訊問を行なう調子で政治犯の訊問にあたったの で、ことごとくぶつかりあい、ついにその取調官を交替させるにいたった、という。

彼が訊問された内容は、以前彼が書いたもので、学生時代すでに事情聴取され、そのことによって壇上から投げ落された例の一件をふたたび持ちだしてきたもの だ、と彼は語ってくれた。その後彼は、この一件により、反共法違反および王国内外において治安を乱した科によって告発され、法廷に立った。国防省軍事法廷 は、一九六四年、六年余にわたる身柄拘禁の後、彼に無罪を言いわたし釈放した。

彼は不当と妥協するということが無かったために、ラートヤウ監獄に収監されるまでにもたびたび獄を移されることになった。パトムワン拘置所からプラサム ヨート拘置所、そしてまたパトムワンヘ。そして最終的には、ラートヤウ監獄へ移される最初のグループに入れられた。ラートヤウへ行ってから彼は、人に託し て次のような手紙を私に届けてきた。


親愛なる友
この手紙とともに、われわれが「タイヤカレー」と呼んでいるカレーと、魚の干物との見本をご覧にいれたいと思います。
われわれの食事がいかなるものか、とくと観察されたし。いずれ賞味されることと、お覚悟のほどを。

ジット  


彼の警告の手紙と「タイヤカレー」の見本、そして身よりも小骨ばかり多くやたら塩辛い「魚の干物」の見本とは、これから私たちがどのような食生活をとれ ば、この事態をのりきることができるか考えさせずにはおかなかった。そしてこれが、私たちが「相互扶助」の原則にもとづいて共同組合を真似て、食事を共同 でするという考えを生みだすきっかけとなった。これは当時、私たちのおかれた状況下では最良の解決策だった。私たちはこれを「コミューン」と呼んでいたの だが、実際は相互扶助によって食生活を共同化したというだけのことで、厳密な意味では「コミューン」にいたってはいない(ただし、この本の中では、私たち の以前の習慣にしたがって「コミューン」と呼ぶことにする)。

彼は、私よりもだいぶ先にラートヤウ監獄に送られたラートヤウ入りしたごく最初のグループだったといえる。彼の少し前に、地方から逮捕連行されてきた人た ち、とくにテープ・チョーティヌチットとともに告発されたシーサケート県の農民たちが、ラートヤウ送りになっていた(実際は、彼らはテープ・チョーティヌ チットより一年も後で逮捕されたのだが、警察はこの六一人を彼の共犯者として起訴した)。この人たちの他に、元国会議員で、社会主義戦線副議長をつとめた ハイドパーク運動党党首タウィーサク・トリプリーなどもすでにいた。

私がラートヤウに着いた時は、以前と同様ジットと彼の仲間たちが暖かく迎えてくれた。悲しみや絶望とは縁のない、いつもの彼一流の笑顔で。彼はいつもにこ やかで、そしていつも闘志にあふれていた。昂然と、そして後退することなく。恐れとか絶望という言葉は、彼の脳裏には皆無だった。彼はきわだった秀才で あったばかりでなく、その胸のうちには、資本家や封建階級、帝国主義者の砦を一瞬のうちに粉砕してしまうようなダイナマイトをかかえていた。誰もが彼を 「過激派」と呼んだ。ある者たちは、「ならず者」とすら言った。それは彼が不正との闘いにおいて、決して妥協したり屈服したりすることがなかったからであ る。

私がジットを誰にも増して羨ましいと思ったことが一つある(私は小さい頃から孤児だった)。それは彼には最良の母と姉がいたことだった。母セングン・プミ サク、姉ピロム・プミサクとは、私がかつて出会った最もすばらしい母と姉である。私たちも彼にならって、「お母さん」、「お姉さん」と呼び、そして実際そ う思ったのである。私は、ジットの人となりがかくあったこともなるほどとうなずけた。彼を鍛えたのは母と姉という最良の窯だった(私は、彼とつきあってい る間に、一度も彼の父親についての話を聞いたことがない。私もあえてたずねてみなかったため、今でも彼の父のことは分からないままである)。彼は小さい時 から母と姉とのいつくしみのもとで育まれ、彼の母は、ジットとその姉とを女手一つで育て、最高学府にまで送ったのだった(彼の姉は薬学を専攻し、スカラー シップを得て海外に研修に出たこともある)。彼は以前地方にいたことがあると話していた。プラチンブリ県やカンボジアである。彼はカンボジア語が非常に上 手かった(とくに、彼の筆跡は玄人はだしで、ヤン〔特殊な書体で密教的呪文などを書いた護符〕を書かせたら、充分売物になるほどみごとだった)。ピマイの 石碑を解読して現代語に書き著わしたのは他でもない彼、ジットである(一九五三年頃の芸術局の文学雑誌をひもとけばみつかるはずである)。当時石碑を解読 できる人間がほとんどいなかった頃に、である。彼はホーモク〔バナナの葉で包んだ食物〕売りや、ガイドのアルバイトをしたこともある。とくにアンコール ワットは、目をつぶったままでも案内できたくらいという。

彼は文学と歴史学に抜きんでた才能を持っていたが、同時にいろいろなタイの楽器を弾いた。とくに「ジャケー」と呼ばれる楽器を、彼はラートヤウにまで伴っ ていった。食事の後や休み時間に、よく楽しそうにジャケーを弾いていたものだった。彼がその音色の美しさに恍惚としていたのだと考えるのは早計で、弾きな がら曲を考えていたのである。後で分かったことだが、彼は作詩と作曲を別々にしていた。したがって彼が弾いていたのは、ほとんどの場合、できあがった詩に 曲をつけて何度もなおしながら練習していたのだった。彼の作った歌はどれも、私たちに、目標をもって力強く前進することを呼びかけたものである。

彼は、ラートヤウの「学生グループ」や「青年グループ」のリーダーだった。思想上はもちろん、〔「コミューン」のための〕労働や活動の面でも彼は誰よりも 献身的に運動をリードした。それは私たちがラートヤウに移って、食事を共にすることを決定した時のことである。すなわち金を出しあって食料を生産し、食生 活を共同化したのだ。もっとやさしく言いかえれば、持てる者が出して持たざる者を扶け、均しく食べられるようにしたのである。持てる者とは、バンコクの人 間で親類縁者が近くにおり、なにがしかの金品を提供できる立場にあった者たちのことであり、持たざる者とは地方の人間、すなわちほとんどの場合貧しい農民 たちだった。彼らは貧しいばかりか、シーサケート、スリン、ナコンシータマラート、ソンクラ、ハドヤイ〔上二つは東北タイ、以下の三つは南タイの県名〕な ど遠隔地から来ていた。ある者は家族からの送金があったが、全くない者も多かった。外に残された家族たち自身の食いぶちすら満足に確保できない状態だった からである。一年を通じてただの一度も、家族の面会を受けない者もいた。どうして来られよう、はるばるやってくる汽車賃も船賃もないというのに。

ジットは他人の苦しみを自分の痛みとして感じるタイプの人間だったから、金銭、労働、頭脳のすべてを提供して、全身全霊で「コミューン」に奉仕した。私 は、彼が「青年の模範」だったと考えている。働くこと、学ぶこと、民衆に仕えることにおける彼の勤勉さ、そして思想・行動・闘争における彼の果敢さとに よって。実際のところ、彼がエゴイストで自分だけ生きのびようとすれば、彼ほどすばらしい親と姉がいたなら、ラートヤウ監獄よりももっとひどいところで も、なんとか居心地よく過せたはずである。なぜなら彼の母と姉とは、彼が不自由しないようにいつも差入れに来てくれていたのだから(ジットは胃病の持病が あり、また彼は、彼の姉にとっては唯一人の弟、母にとっては唯一人の息子だった)。けれどもジットは、一人で食べて、楽しみを独占するというようなことは 決してしなかった。

彼は学究の徒であった。ラートヤウにいる間にも、彼はたくさんの作品を残した。私は彼が翻訳したゴーリキーの『母』の原稿を見せてもらったことがある。彼 はそれを全部訳し終えていて、その訳文は胸を打つ立派なものだった。彼はまたインドの文学、『慟哭する大地』や『インドの母』を訳し終えていた他、少なか らぬ数の詩、および私が「ラートヤウの歌」と呼んでいる一連の歌もこの間に書かれたものである。私にとってこれらの歌は、私の人生の一部を歌ったものであ り、珠玉の価値がある。この他にも彼は研究論文をいくつも書き残したのだが、彼がそれらをどこへ持って行ったのか分からないままである。なぜならジットは 私より二年早く釈放され、その後私は彼とふたたび会うことはなかったからである。

「プラチャーティパタイ」紙の読者なら、一九六三年または六四年頃の紙面に載ったラタナゴーシン遊詩調で書かれたガウィー・ガーンムアンの有名な詩を覚え ておられるかも知れない。この詩は、その後雑誌や本、タマサート大学刊行の『ニティサート』のような学術誌もふくめ、たびたび印刷されたものであるが、こ れもまた彼、ジット・プミサクの作品である。

「コミューン」の活動では、彼は生産隊を志願した。生産隊というのは、畑を作り様々な野菜を植えるのが任務である。彼らの作った野菜は、毎日台所へ運ばれ て一〇〇人の人間を養ったばかりでなく、売りに出されて月々数百バーツの資金を「コミューン」にもたらした。私は終始一貫して彼と共に働いていたうえ、 「コミューン」の事務局の書記で、すべての活動の世話人という立場でもあったため、誰が何をどのようにしているかについて把握していた。したがって私は 「コミューン」の活動的部分と当然にも親しかったわけだが、とくにジットと彼の生産隊は誠心誠意労働に励んだグループだった。彼らと私は、共に肥桶をかつ ぎ畑にこやしをやり、烈しい雨で野菜が水びたしになる時は、畝から水をかきだすのに精を出したものだ。放っておけば洪水になり、野菜は全滅してしまうから だった。時には雨が一日中降りつづけ、私たちもまた一日中水をかきだす作業に奮闘したこともあった。みごとに育っている野菜が、水をかぶってみすみすダメ になってしまうのは耐え難いことだった。ようやく水をかきだし終わって一息つくかつかないうちに、またどしゃ降りになった時などは、全く泣きたい気持だっ た。もう一度初めからやりなおしだった。ラートヤウのインテリたちの中で、「背中で空と闘い、顔で泥(どろ)と闘う」人間は彼唯一人だったことを、私は確 信をもって言える。彼ほど骨身おしまず働き、またその成果をあげた人を、私は他に知らない。

畑作りの他に、蛋白質の不足を補うため、私たちは池を掘って魚の養殖をはじめた。ここでも彼は、私たちの重要な戦力だった。魚を育てて大きくし、最終的に はそれを手でつかまえる仕事である。飢えたことのない人間は、飢餓がどういうものであるか想像がつかないに違いない。私たちが監獄から受けとる食費は、一 日に二食分として二バーツ九四サタンにすぎず、米代だけで二バーツかかり、副食費は一バーツに満たない、という勘定だった。これで、いったいどんなものが 食べられたか想像していただきたい。すなわち死なない程度に生かしておけばいいわけであり、それには「飯(めし)つぶ」さえ与えておけばよかったのであ る。当局の基本方針は、牢獄は快適に住むところではなく、刑罰を受けた人間が懲りて改心するべきところであり、生かしておくに足るほどに食べさせておけば いいのであって、満腹することなど望むべくもなかった。彼らは、食事がよく、快適に過ごせたら牢獄が満員の盛況になってしまうと考えていたくらいである (そのうえ、タイの監獄にはまだ差別が残っていた。タイ人の囚人には植民地現地人の標準を適用するということで、食費は非常に低くおさえられ、何十年もそ のままだった。生活必需品の価格はその間に次第に値上がりしたにもかかわらずである。一方外国人、とくに白人の囚人にはタイ人より高い食費が支払われてい た。わが国の監獄の体系は、白人の囚人をタイ人の囚人より一段高く見なしていたのである。それが人道的だということにより、白人は白人のレベルでの洋食が 提供されていた)。

この食事の問題は、ウトン・ポンラグンが一度改善の要望書を提出したが、私が釈放されるまでに遂に解答はなかった。

したがってわれわれは、自分たちの生命は自分たちで護らねばならなかった。読者の皆さんが当時ラートヤウをのぞいて見たならば、ジットと彼の「若者グルー プ」が、堀の水に首だけ出したり潜ったりして、魚をとったり、カニやカエルをつかまえている有様を目撃したことだろう。これらの収獲はみな私たちの食膳に 上った。大した量がとれない時でも、少なくともナムプリック〔魚や唐がらし等をねって作るタレ〕の材料となり、私たちの菜園でとれた新鮮な野菜につけて賞 味することができたのである。彼らの労働の成果は、私たちに野菜や魚を供給してくれたばかりか、その後アヒルや鶏の卵や肉までも分配することができるよう になったのである。これらは私たちが〔監獄当局および内務省矯正局との〕闘いを重ねて勝ちとった権利であり、また献身的労働の成果でもあった。

ジットのふだんの服装は、黒い半ズボンにパカマを胴に巻いただけのいでたちで、外に出て働く時にはパカマは日よけのため頭に巻いていたものだ。上半身は何 も着ていないことが多かったため、強い日ざしと雨との中での労働の結果、筋肉質でかつ皮膚は赤銅か鉄のような色になっていた。それは細身ではあったがたく ましいものだった。服を着る必要のある時には、中国風のグイヘンか紺色の農民服(北タイのモーホム)を着ているのが常だった。彼が白いワイシャツを着て長 ズボンをはいたのは、出廷する時だけだった。

私たちが運動のためにしていたスポーツには、彼もほとんど何でも参加した。ただしほどほどにという程度で。彼の身体はあまり無理することができなかったか らと思う。彼はバレボールや蹴鞠(タグロー)に興じていたが、バドミントンとバスケットボールは好まなかった。その他サバートイやボーリングをすることも あった。しかしながら彼の日常は、生産隊員としての労働の他には、研究と著述にそのほとんどを費していたといえる。毎日私たちは、彼の弾くジャケーの調べ を聞いたものだ。時々は彼と彼の仲間の若者たちが一緒になって彼が作詩、作曲した歌を練習していることもあった。

彼は音楽的才能にめぐまれていたのみでなく、学習する能力、教育する能力においても並はずれて優秀だった。彼はその頃中国人から中国語を習っていたのだ が、習得の早さと正確さは類稀れなるもので、教えていた人が「彼の発音は生粋の中国人よりまだ正確なくらいですよ」と、驚きをかくさなかった。もう一つ私 の心に焼きついていることがある。当時、私たちと同様ラートヤウに収監されていた者たちの中に、ムーセー族の年寄りと若者がいた。彼らはタイ語が話せな かったので、まるで唖同然で、一語一語を絞りだすように語る様は、山中で鉱脈を捜しあてるよりさらに困難なふうだった。そんな彼らとつきあって最も親しく なったのはジットであり、その成果を彼はタイ語とムーセー語の辞書にまとめはじめていた。けれどもこの二人のムーセー族は、彼の辞書が完成するのを待た ず、釈放されて帰って行った。辞書は完成しなかったとはいえ、彼らは監獄を出た後は、それ以前は全く解さなかったタイ文字をなんとか読んだり書いたりでき るようになったうえ、話すこともできるようになったのだった。彼らの唖を治した人は他ならぬジット・プミサクなのである。

ジットは政治的には革新であり、自らの思想に確信を持っており、また主義に殉じるタイプの人間だった。彼の政治思想は確固としたものでありかつ正しかっ た。間違った考え方と妥協しようとはせず、粉砕するまで手をゆるめなかった。資本主義・封建主義・帝国主義を、彼は心底憎悪した。ラートヤウの中には日和 見主義・温情期待論・事なかれ主義が少なからず横行していたので、ジットを好まない人間も多かった。この連中はジットの才能や鋭さを毛嫌いして、「頑固 者」、「ならず者」その他ありとあらゆる悪口を言った。それというのもジットが、あらゆる不義あらゆる特権、あらゆる不正に対し、生命がけで闘う人間だっ たからに他ならない。

獄内での待遇改善運動や、様々な不正に対する抗議、裁判を要求する闘争等においても、ジットは憶することなく、われわれと共にそれを推進した。ついに彼が 軍事法廷に立たされた時には、私たち弁護士グループは彼に多少の法律知識を伝授したにすぎないのであるが、彼は被告として、大学で法律学を専攻し職業柄法 律援用のエキスパートである軍事法廷の検事や、証人として出廷した行政の内情に通じた陸軍や警察軍の高級将校と立ち向い、彼らと彼らの策謀をやすやすと打 ち負かしてしまった。検事や他の専門家たちですら、彼の法廷での闘いぶりには兜をぬぎ、本職の弁護士でもかなうまいと述べたほどである。私も彼の裁判を傍 聴した一人であるが、「彼が法律を学び弁護士になったとしたら、彼の右に出る者がないほどすぐれた弁護士になるだろう」と思ったことだ。彼が自分で自分を 弁護したこの裁判で、彼は勝利した。国防省軍事法廷は公訴を棄却し、一九六四年、六年余の拘禁の後彼を釈放したのである。

彼は天才だった、と私は思う。両親にとっては誇るべき息子、友人にとっては敬愛すべき友、ジット・プミサク、ティーパゴン、ソムチャイ・プリチャージャル ン、ガウィー・ガーンムアン、どの名であろうとも。

『ジット・プミサック——戦闘的タイ詩人』(鹿砦社)より転載



青森県「六ヶ所村」  馬場 仁

「だいたい馬場の感想が多すぎるね。ルポだったら『時間がないのでー』なんていいわけめいた文章は除くべきだし、その他の結果についても最初か ら決めつけすぎてるね」

「中途半端な表現はやめるべきだ。この本の革新性をどこに求めるかが問われているのに、この文章には何も新しいものがない。つまりそれは著者自身に革新性 がないからなんだよ」

「結論づけが概念的で甘いんじゃないの。被害者論も単純すぎるし、著者の視点がこのままでは自主制作の意味がないと思うね」

一九七九年九月二十九日、東京、東中野にある私たちの共同事務所(J・P・ユニオン写真事務所)で行われた写真集「六ヶ所村」制作例会で、私は言われ放題 だった。私が書きあげた本文原稿の第二稿が全然面白くないという。出席してくれた六人の友人たちと四時間半の討論をした結果、結局原稿は全面的に再び書き 直しと決ってしまった。

八年前の一九七二年から通ってきた青森県六ヶ所村のことを本にすることが決まったのは、七七年九月だった。「開発」の中で生きている村の人びとの記録をま とめたいという私の希望で、共同事務所の出版部(J・P・U出版)が自主出版することになったのだ。事務所の自主制作は七七年六月に出版された島田興生写 真記録集「ビキニ・マーシャル人被曝者の証言」に続く二号目だった。その後、集中的な二年間の撮影が終り、具体的な編集に入ったのは昨年の九月。以来毎週 一、二回の制作例会が続けられてきた。

編集会議の原則は、各スタッフが自分の関わりに責任を持つ以上、言いたいことは遠慮なく発言するということだった。おかげで初期の例会では冒頭のような発 言が続出、ひたすら開発の反住民性を告発したいと主張する私に対し「観念的だ」「視点が甘い」と批判が集中した。しまいにはドサクサにまぎれて「単細胞」 「マイホーム主義者」などと、批判を通りこした? 発言も出るしまつ。本の構成案も二転、三転して、結局私と村との関わりを素直に出すため日記形式にする ことに決った。はじめは「日記」にすることにこだわり続けていた私がそれに従うことにしたのは、ふつうのルポではあまり書かれることのない側(この場合は 私)の取材生活をも含めて語った方が、より村との関わりを理解してもらえると思ったためだった。だが、実際にやってみると、日記を書くのは難しいことだっ た。日々のなにげない言葉使いや人との対応の中に、自分の人間性がもろに現われてしまうのだ。これが恐しくなくなるためには、腰を据えてかなりの枚数を書 かねばだめだった。そして編集作業の大半を終えたいま、私の気持には村の人びとの生きかたを伝えるという行為のもつ責任の重さがどっしりとのしかかってき ている。

      * * *

青森県六ヶ所村は下北半島の太平洋側のつけ根に位置する小さな村だ。人口約一万人。冷たい偏東風《ヤマゼ》と出稼ぎが多いことは、いまも変わら ない。

はじめて村を訪ねたのは、一九七二年の八月だった。私がこの村に来るきっかけを作ったのは、その四ヶ月前に沖縄、平安座島で受けたひとつの印象だった。当 時、先輩カメラマンの一人と「本土復帰」直前の沖縄に撮影のため滞在していた私は、彼の紹介で本島東部の平安座島にあるガルフ石油の集合煙突に登れること になった。そのころ平安座島の人びとは、すでに島の大部分の土地をガルフに譲り渡していた。外資系資本の石油やアルミなどのコンビナート建設が、現地でさ まざまな問題をひき起こしていることを知っていた私は、その現場を見る良い機会だと思い、喜んで煙突に登った。地上百数十メートルの高さから見た光景は、 いまでもよく覚えている。整然と並んだ巨大な石油タンク、地上に輝く精製装置や数えきれないほどのパイプライン、そしてそれらの間を見え隠れする豆粒ほど の作業員の姿——。島は、全体がまさに巨大な石油コンビナートなのだった。それは南国の太陽を受けて、実にメカニカルな美しさを放っていた。私は夢中で写 真を撮った。

だが、私が石油基地から受けた明かるい印象は、島の反対側にある住民の部落を訪れた時、完全に消されてしまった。百軒にも足りないその部落は、ガルフに土 地を明け渡して先祖の墓まで移転させた島の人たちのものだった。ひっそりと静まりかえった家々から漂ってきた雰囲気は、陰湿で暗かった。私は、この部落全 体がなにか影のようなもので覆われているような気がした。土地と引きかえに多額の補償金が入ったはずの部落から、なぜこうも暗い雰囲気が漂ってくるのか。 それは石油基地で受けた明かるい雰囲気と重なって強く私の心に残り、東京に戻ってからも消えなかった。あの部落で受けた暗い印象は、いったいなんなのか。 それは決して論理的なものではなかったのだが、私の漠然とした問題意識とともに日毎に強い印象となっていった。私は、できるなら平安座島の開発とそこに住 む人びとの暮しを追ってみたいと思った。だが、当時フジテレビ社会教養部の契約カメラマンとなったばかりの私には、それはできないことだった。そんな個人 的事情と、自分なりの問題意識がぶつかって私は多少のうしろめたさを感じながら、別の開発現場を探し始めた。

「六ヶ所村で土地ブーム・開発野獣の犠牲者続出」という見出しを、中央紙の社会面に見つけたのは、それから間もなくだった。新全総の候補地として名前が知 られ始めたこの村のことは、新聞記事などで知ってはいた。しかし、この時まで行く気になったことはなかった。私はすぐこの村に行ってみることにした。その 年の八月、私は一人で村に向かった。

      * * *

最初に村で出会ったのは、当時、村長の寺下力三郎さんを先頭にした反対運動だった。私はこれを追って、開発の反住民性を告発しようと試みた。だ が、何度か反対集会に通ってみるうちにそこで叫ばれる参加者のスローガンが実に空しくきこえてくるようになった。反面、開拓地などで会った土地を手放した 農家の人たちの話には、実にその生活を反映したリアリティがあるのだった。私は最初敵対視していた開発賛成派の人びと、特に開拓農家の人たちを追い続け た。それは私にとって苦しい仕事だった。最初、反対運動を追っていた関係上、土地を売った人たちには、私はなんの人脈的なつながりもないのだった。特に新 住区と呼ばれる移転地に移り住んだ「元農民」たちから話をきく作業は、スパイ呼ばわりされる中で、進行した。

      * * *

一九七八年十月二十八日(土)
夜、新住区の佐藤信一さん宅を訪ねる。ちょうど佐藤さんの帰りと玄関先でぶつかってしまった。彼はトラックの助手席から降りてきた。かなり酒くさい。相当 飲んでいるようなので心配だったが訪ねた目的を話した。とたんに「駄目だ。駄目だ。お前、県の手先だろ。まただますべえ。新聞社でも何でも駄目だ。私 《わ》なんにもしゃべらねえ。だれにも会わねえど。」という答えが返ってきた。そしてさっさと家の奥に消えてしまおうとする。「県の手先」と思われたので はたまらないから、玄関先でねばる。「ねえ、佐藤さん、お願いしますよ。僕は県とは関係ないんだしね。新納屋時代のことを話してもらえればいいんで、十五 分でもなんとかして下さいよ」こんな調子で二十分ほど玄関に立っていたら、彼はいったん入った奥から戻ってきた。「おめえら、嘘ばっかり書くから駄目だ。 おめえ、どこの新聞社だ」という。私が新聞記者じゃないというと「そんじゃまあ、あがれや」といって、中に入れてくれた。この間三十分。諦めないでよかっ た。酒が入っていい気分の時に、悪いと思ったが新住区の人の話を記録しているというと、喋りにしゃべってくれた。かなり不満がたまっていた感じだ。二時間 ほど話をきいて、家族の写真を撮った。最後に私《わ》のいったこと、雑誌さ書いてくれるなら金出すぞ」といわれたのにはまいってしまった。(馬場仁写真日 記「六ヶ所村」・本文より)

      * * *

村に通いはじめて八年たった。いま、一九八〇年の夏をむかえて村は大きな変貌をとげようとしている。開発関連事業として次々と整備された村内の 道路、立派に建て替えられた公共施設群。村内の子弟を対象にした県立高校が開校したおかげで、村の進学率は一段と高くなった。確かにこういった村の外観だ けを見ると、開発はまさに恩恵をもたらし続けているかに思えてしまう。私を県の手先とか反対派のスパイ呼ばわりした移転者たちの家も、百坪近い立派なもの だった。だが、土地買収に応じ農地を手放してしまった彼らの暮しは、その外観とは反対に惨めなものだ。農業という生活の根を失った彼らの多くは、あいも変 わらず日雇いや出稼ぎ生活を続けなければ、その生活を維持してゆけないのだった。そんな彼らの暮しこそ、私が平安座島の部落から受けた暗い印象の実態だっ たのだ。平安座島の部落に漂っていた暗い雰囲気は、住み続けた土地を手放し、生活の基盤を失った人たちの暮しから滲み出た暗い影だったのだ。私はいま、そ れと同質の印象を六ヶ所村の新住区から受けることができる。

      * * *

六ヶ所村も含めて、巨大開発の記事がマスコミから姿を消して久しい。青森県が当初ぶちあげた「むつ小川原巨大開発計画」も、あいつぐ石油ショッ クや不況で、いまや単なる石油備蓄基地に終ろうとしている。この間、無責任な県や村の行政におどらされて、多くの農民がその土地を手放し離農して去った。 だが、私は現在でも開発予定地内に、崩壊してない農民の暮しを見ることができる。開発決定以来、いまだに土地買収に応じず、自分の暮しを守り続けてきた少 数の人びと。「開発」という困難な状況の中でも、確実に営まれ続ける彼らの暮し。私は、このなんの変てつもなく見える彼ら農民の暮しこそ、開発と全面的に 対峙しているものだと思うのだ。まるで大地に根をおろしたかのような彼らの暮し、そんな暮しの確かさや重さの中にこそ、いま私たちが学ばなければならない ものがあるのではないのか。決してマスコミの紙誌面を飾ることのないそんな彼らの暮しこそ、私たちにとっては伝え記録する価値のあるものだと思う。


ごえんだま ——下層・下請労働者の生活と意見——


『ごえん玉』って何だ

五円玉が廃止されるという。もう「カネ」としての意味がないからだそうだ。だが、廃止されるのは通貨としての役割だけではない。五円玉の図柄(稲と歯車) そのものが廃止されるということだ。労働の価値を象徴するような通貨が許されない世の中になりつつあるということだ。私たちは、工業と農業の違いはあって も働くものの生活と権利を守りたいと思う。たかが五円玉であっても、「稲と歯車」が示す精神を捨ててはならないと思う。もう一つ、「ごえん」は「御縁」に 通ずる。労働者同士の御縁、つまり団結を意味する言葉でもある。

この世の中でひとりひとりが切り離され、仲間にも心を閉ざしている労働者の、本当の胸の内を聞き、表現していきたい。誰でも本当は仲間がほしいのだ。

「ごえん玉」は、このような趣旨で、仕事のこと、暮らしのこと、何でもいいから皆に知ってもらいたいことを書いてもらいたい。みんなの言葉で表現し、心を 開きあえるような場にしたい。

よろしく頼む!

『ごえん玉』編集委員会




フィリピン日記  福山敦夫

先日私は黒テントのメンバー九名と一緒に四月二十二日から五月二十日まで、フィリピンへ行ってきた。

今回の目的は、PETA(フィリピン教育演劇協会)の招きによる黒テントの公演と、PETAの主催するワークショップに、黒テントのメンバーが参加するこ とであった。私自身は、彼らの演劇の音楽を担当することと更に、水牛楽団等で歌われている歌を、そこで紹介するということが目的であった。

私が歌う歌は、すべてタガログ語に訳されて、タガログ語による朗読のあと歌うというふうにやった。曲目は、チリの「不屈の民」「農民への祈り」タイの「人 と水牛」韓国の「その日が来る」三里塚から「茶つみうた」「管制塔のうた」フィリピンは「祖国」という具合で、最初の二日ほどはアガッてしまったり、野外 のため風で譜面が見えなくなったりで、うまくゆかなかった。

我々の出演した場所は、マニラ市内のパシグ河に面しているフォート・サンティアゴ公園の奥にある舞台。要塞(フォート)跡であり、日本の統治下の時は監獄 だったとこで、多くのフィリピン人を殺害した所だと、PETAのメンバーが説明してくれた。その監獄だった場所は、分厚い石の壁でできていて、大した改造 もせずすばらしい野外劇場として使われているのである。

ここで我々は八回の公演を行ったが、うち一回は雨のため中止した。中止を客につたえたころから雨があがり素晴らしい星空になってしまったので、歌だけ予定 通りに演奏した。歌の伴奏は、黒テントの服部良次にピアニカをやってもらい、私のギターの弾き歌いというのが毎晩のやりかただった。

客の入りは当初非常に悪く、だいたい二、三十人位だったが、終りの二、三回目位に、やっと九割の入りになったようだった。三里塚の歌の前に説明を簡単にす るのだが、いつも大きな拍手がおこり、勇気づけられる。実際戒厳令下のマニラ市内で、こういう歌を、しかも私のような日本人が歌うということは一体どうい う反応をうけるのだろうかと内心心配をしたが、事実は実にやわらかな、しかも熱い拍手に支えられて、気持ちよく歌えた。実際にやりがいのある仕事だった。 しかしどうして日本の時はこういうふうにうまくいかないのだろうか。それと「祖国」という歌だがこの歌はどんな人々の間でも実によく知られていた。このよ うに人民の解放を歌った歌がいつも好んで人々の間で歌われているというのは、本当に素晴らしいことで羨やましい限りだ。事実この歌を最後にタガログ語でや れば、確実にうけてしまう。だけど、三十数年前に、日本軍によって多くのフィリピン人が殺された場所で、私たちがその多くの霊にかこまれた中で公演をやる ということは、何か複雑な気持ちである。


四月二十四日
夕方、PETAのカリナンガン・アンサンブル(PETAの専門的俳優集団)による本公演が、フォート・サンティアゴであるというので出かける。「カヌプリ ン」という実在した人の芝居で、フィリピンのチャーリー・チャップリンといわれた人だ。アメリカから輸入されたスタイルの「ステージ・ショー」という歌・ 踊り・コミカルな寸劇・手品などのバラエティ・ショウで活躍した人で、晩年は仕事もなく、トンドのスラムで酒びたりの生活をするようになり、昨年暮れにな くなった。芝居は、彼がチャップリンにあこがれ、成功し零落して行く過程を描きながら、それがそのままフィリピンの現代史を浮かびあがらせるという筋のよ うであった。全体には、ショー的な要素に力を入れすぎて、テーマがよくわからなくなってしまうという印象をうけた。もっともタガログ語で上演されているの でよくわからない。でも踊り、歌が上手だった。

それともう一つ、PETAの重要な活動であるワークショップで行われた、五つのクラス別の試演会は、どれも非常にわかりやすくおもしろかった。たとえば、 平和な漁村の暮らしにある日突然大きな漁船があらわれ、魚を根こそぎとって行ってしまう。漁民達が抗議すると発砲しておどし、そのうちの一発が漁民の一人 にあたり死んでしまう。漁村では集会がもたれ、討論のすえにみんなでたちあがり戦いにむかう、といった具合であった。どれも具体的で真実を語っていると 思った。

これに参加しているメンバーは、タイ、マレーシア、インドネシア、日本、フィリピンの人々で、日本、インドネシアはほとんどが専門家にちかい人たちで、タ イ、マレーシアは学生およびソーシャル・ワーカーたちである。


四月三十日
芝居に使う楽器を作る。
すべてフィリピンの竹を使って作ったが、こちらの竹は目があらく、楽器によって向き不向きがあるようだ。竹筒マリンバ、シーク、竹ボラ、ケーナ、横笛、鳴 子、コロンである。最後のコロンというのは勝手につけた名前で、これは他の楽器を作っていて発見したもので実によい音がするのだ。これは日本に帰って特許 をとろうかと冗談で話したが、面白い楽器である。詳細は後日。

竹製のこれらの楽器は、実はフィリピンのルソン島北部、カリンガ族の楽器にすべて同じものがあり、むしろ種類も豊富である。先日、フィリピン大学へ、ホ セ・マセダ教授に会いにいった時(彼は西ドイツに行っていて会えなかったが)彼の研究室にこれらの楽器が収集され、またいくつかは彼が作ったものであった が、実にさまざまな楽器があった。鼻笛や琵琶、琴、竪琴、舟型の木琴、さらに口琴や胡弓など、北部、南部では大分違いがあるが、実に多様である。PETA のメンバーが珍しそうに見ていたが、思えば変な話ではあるが、わからないこともない。

話が後になってしまったが、ホセ・マセダ氏は、音楽学部の教授で、フィリピンの民族音楽の研究をしながら創作をしている音楽家である。


五月二日
芝居の音楽をやるのに手伝ってくれる人をPETAに頼んであったのだが、今日その一人がきた。ノエル・サントゥイルという男でテレビ局のディレクターであ り、PETAのカリナンガン・アンサンブル(これは専門の俳優たちの集団である)のメンバーでもある三十才位の男だ。日本の太鼓やら、フライパン(五つの フライパンを叩く)、鈴、それに先日作った竹楽器を彼と二人で分担して、劇音楽をやるのだが、ギターが専門らしく、他は苦手そうなので簡単なものをやって もらうことにする。


五月八日
今日から黒テントの公演が始まる。十一日まで四回やって三日休み、十五日からまた四回やって終わるという予定だ。

フィリピン国歌斉唱で始まり、黒テントの紹介、タガログ語の解説がところどころに入るやり方で、一部「西遊記」をやり、休憩の前に私が数曲歌い、休憩の後 「極楽金魚」をやるといった具合だ。客の入りはパラパラ。反応もよくわからないといった感じ。


五月十一日
今日から、私だけASI(アジア社会事業学校)に宿泊所を移る。というのは、集団でいるのにそろそろ私は堪えられなくなってきていたのと、ASIにはフィ リピン各地からと、アジア各国から、ソーシャル・ワーカー(社会事業家)の勉強に来ている学生たちと一緒に生活できるという魅力があるからだった。それ に、公演は既に始まっているから、練習に付き合うことも要らないわけだ。

実際ASIに移った時は、それだけである種の解放感を味わった。人々は親切で、すごく暖かく私を迎えてくれたし、とても家庭的で何ともいえずいい気分に なった。

ここにいる中国系マレーシアの林青青《リムチンチン》という若い女性が私を農村やスラムへ案内をしてくれた。私は実際、農地やスラムに入ってゆきたかっ た。彼女達は実習のために良く行くので、いろいろな所に詳しいのだ。


五月十二日
最初に行ったのが、マニラからバスで二時間程南のカヴィテ州のダスマリニャス・A地区の教会で、ここの神父さん宛に紹介状を書いてもらい、独りで訪ねて いった。

この地域は、A地区、B地区、C地区というふうにそれぞれ分割されていて、更にそれぞれが1区、2区、3区と分かれている。たとえば、A地区では、1区と 3区が住宅区域、2区は洗濯工場となっている。

住宅といってもバラック小屋がほとんどで板を張り合わせただけの家から、ブロックを積み上げた家とかで、井戸は共同のものが数カ所にあるだけ、サリサリス トア(雑貨屋)が二、三軒ある。都市のスラムより密集した感じはないが、庭があるといったふうでももちろんない。でも路地には子供たちがいっぱいいて、に ぎやかで、なごやかな、実にあたたかい、やさしい雰囲気をもっている。

近くの工場で働けるのはわずかな人々で、一日当り十五、六ペソ、あとはマニラとか、近くの町へ、日雇いに出かけるしかない。まわりには広大な土地があるの だが、政府の土地で、政府は工場用地として管理しているので、荒れたままになっている。このA地区の人々は、五年前からマニラから移住してきた人達であ る。マニラからスラムをなくそうとする政策だと聞いた。

大体一つの地区には二千四百から五百位の家族が住んでいるという話だ。なかの一軒の家に神父さんとあがり込んで、お茶をご馳走になりながら話す。御主人は 船員でイギリスに行ってるそうだ。息子さん二人はバンドをやっていて、マニラ・ガーデンに毎晩出演しているという話である。日本にも時々来るそうである。 でもこの家は、まだいいほうなのだろうと思う。しかしここ数年のインフレはものすごくどうにもならないというふうにこぼしていた。「全くここの政府は馬鹿 な政府でね」といって神父をチラッと見て笑ったが「それは私達も同じです」というと「おやまあ、あんたたちもかい」といって笑った。

話は米の話になって、教会でご馳走になった炊きたてのご飯は実においしかったけど、我々が普通食べる飯というのは古米ばかりで普通米がキロ当たり三百円以 上(十ペソ)するというと、びっくりしてたが、日本の物価と我々の生活費等、とても信じられないという風であった。こっちの米の値段を聞いたのだけど、 ちょっと今、残念だが思い出せない。教会へ戻って夕食後、歌を歌えというので三里塚の歌や、チリ、タイの歌を歌う。神父たちもフィリピンの民衆の歌を聞か せてくれた。


五月十三日
八時にノックの音で目が覚める。朝食後、今度はC地区へ行く。ここの住民は3年前からの移住者達だそうだ。約二千四百家族で、みな仕事がないので、若者も 家の囲りでブラブラしてるしかないといった風情である。

又、一軒のサリサリストアをやっている家を訪問する。とにかく神父と一緒なので、実に愛想よく日本人を受け容れてくれる。この家で昼食をご馳走になる。ヤ リイカのしょうゆ煮、ニガウリと芝海老の煮物、豚肉を豚の血で煮こんだシチュー、それに焼豚風の料理とスープ、デザートにマンゴー、スイカである。突然の 訪問にかかわらず、こんなもてなしを受けて恐縮したが、これには実際びっくりした。

とにかくどれもこれも典型的なフィリピン料理だが、実にうまい。

この家は又特別である。隣近所はいうに及ばず貧しく食べる物さえないというが普通で、体力を使わないように、じっと横になったままで起きてこない。実際神 父が声を掛けても返事はなかった。何だか、だんだん複雑な味が口の中にひろがってきていた。

二時頃のバスで神父さんと一緒にマニラへ戻る。
ASIへ着いてシャワーを浴び横になるとウトウト寝てしまった。

五時頃、頭をポンポン叩いて呼ぶ人がいるので目が覚める。林青青《リムチンチン》女史である。五時からスライド・ショウがあるので来ないかというのだ。 ASIでは毎日五時からスライド・ショウをやっている。今日はトンドとミンダナオのスライドだ。そういえば、三月に川崎の石の会で見たフィリピンのスライ ドもここからの物ではないだろうかなどと思う。北部ルソンのチコ河ダムの話と同じ、ミンダナオのダム建設に反対するモロ族の人達のスライドである。それ は、モロ族の人達の生活は、大地と水と自然に適応するやり方で支えられているのであり、そのどれも欠けては成り立たないということと、ダムは工場(資本) と都市生活者のものでしかないことを訴えていた。即ちダム建設はモロ族の人々の死を意味するということだ。トンドのスライドは、劣悪の生活条件に対して早 急な救済が必要であることを写していた。


五月十四日
朝食後、ASIのメンバー三人と一緒に、トンドへ行く。彼らは時折、トンドへ行き、コミュニティのリーダー達と話し、写真を取ってレポートするのだそう だ。

ジープニーでトンドの入口まで行く。
中へ入って行くと下水道がないせいなのか地面が水びたしになっていて、悪臭が漂よう。

奥へ入って行きZOTO(トンド第1区組合)の事務所を訪ねる。そこで訪問者の署名を頼まれ、名簿を見てびっくりした。とにかく日本人ばかりなのだ。それ も団体でたくさん来ているのが解った。

私は何だか、マニラの名所めぐりの観光客に自分が思えてきて、署名するのは気がひけたが、しかし、実際それと何も変わらないのだと思い直し、十ペソ払いパ ンフレットをもらい、署名をした。

各コミュニティのリーダーを見つけインタビューを試みようと彼らは人を訪ねたが、不在らしくだれにも会えないようだった。路地を抜けてしばらくすると、金 網があり、その外には、ポツンポツンと、バラックが建っている。どうもこの金網の外と内とでは、全く感じが違っているのだ。子供たちが水浴びをして居るの で近くに行って見た。すると、彼らの顔見知りの人々がつぎつぎに集まって来た。子供を抱いた婦人や年寄りたち、それに混じって、コミュニティのリーダーが いた。話を聞くと、この二日程前に白昼、暴力団のような連中に襲撃を受け、家もバラックの診療所も壊されてしまったということだった。壊すだけでなく、そ の木材もトラックで持っていってしまうので、仕方なく知り合いの家に居候しているのだといっていた。政府はここに大きな新しい国際港を建設する計画なのだ そうだ。これはまるで、三里塚じゃないか。

母親に抱かれた子供は、熱でぐったりしている。風邪をひいているそうだが医者にかかれない。一回医者に診てもらうと百ペソである。残念だが持ち合わせがな いし、どうにもならない。どうすりゃいいんだ。台風が来ている。この子は金さえありゃ、薬さえありゃ治るんだ。私はただただ怒るしかなかった。

しかし、確実にここでは組織づくりが進んでいるようだ。リーダーが何日後かに大きな集会をやるといっていた。私にはタガログ語なので(英語も怪しいもんだ が)よくは解らないが、ここの人々の怒りが激しいことは充分に感じられた。私は覚えたてのタガログ語で、精一杯激励をするほかなかった。

マママヤング・ナグカカイサ・アイ・ヒンディ・マササコップ(団結した人民は決して打ち破れない)



編集後記

タイの革命詩人ジット・プミサクのしごとを紹介することは「水牛新聞」時代からの課題でした。天野和子さんの協力で、ひさしぶりに再開することができまし た。「水牛」の出発点となったのも、かれの「生きるための芸術」のかんがえ方です。かれの友人であったトンバイ・トンパウさんは、バンコクの軍事法廷で学 生指導者「バンコク18人」の解放をかちとった弁護士であり、タイ・ジャーナリスト協会の会長であり、作家です。7月には鹿砦社の招きで来日する予定で す。

日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ美術家会議は7月11日から20日まで東京都美術館でアジア芸術祭をひらきます。パレスチナとタイの現代美術が展示 され、「水牛」をはじめるきっかけをつくった劇「みにくいJASEAN」の作者テープシリ・スークソパさんも参加します。20日(日)には「水牛」もくわ わってイヴェント「アジアとわれわれの午後」をひらきます。映画、スライド、物語劇、音楽をやります。1時から5時まで。前売券五〇〇円は「水牛」編集部 にあります。




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