水牛通信

人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1981年1月号 通巻17号
        
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屋号の話  安部 誠
ドドン・サン トスさんにきく
フィリピン抵抗詩 エドガル・ マラナン
大久保闘争案内図(図版)
千葉君不当解雇撤 回!
みな さんに訴えます 千葉辰雄
三里塚の野菜(図版)
楽譜
百姓は草
ワンパックの歌
野槌の歌
水牛通信第二巻総目次
物 語に見はなされた人たち 高橋悠治
編集後記



屋号の話――『三里塚情報』より―― 安部 誠



  1 渡辺千秋家(横堀)『イノウ』

三里塚に来て悩むことのひとつに、屋号の問題がある。屋号といえば、例の『三河屋酒店』の類しか思いいたらぬ。おまけに『タナカ』とか『ミヤシ タ』などという、名字まがいのものまである。かくいう拙者も悩める子羊なのである。
今号から屋号の由来など、つたないながら勉強して発表していきたいと思う。
第一回目は、合宿所のある横堀部落の渡辺千秋さん。渡辺家のおばあさんからの聞き書きを以下若干。
『イノウ』という屋号である。『伊能』とあてる。国道51号で佐原へ行く途中にある地名なのだそうだ。横堀は開拓部落である。もうわかるだろう? 出身地 が屋号になっているのである。
おばあさんは、横堀・渡辺家の二代目のお嫁さん。千秋さんは三代目のオヤジ。明治二十四年以来、渡辺家は営々と大地を耕やし、根付き、今、空港を阻む。
おばあさんは、六十六年前に宿部落から嫁いできた。十九歳の九月の、秋トンボの乱舞する午後のことである。「お嫁入りの日のことを覚えていますか」と聞い たら心持ち頬が赤くなったように見えた。

一九八〇年四月某日午前・合宿所にて


  2 熱田一家(横堀)『デーヅカ』

御存知ナニガシとでも言いたくなるような御仁がいる。わが横堀部落でいうなら、今回登場の熱田家の当主、一氏である。
屋号は『デーヅカ』。豪放、磊落、二月要塞戦士、歩く革命的楽観主義、人によって言い方はマチマチであるが、そのオヤジの性格そのままの屋号の由来を今回 は書くのである。
『デーヅカ』は『内塚』と書く。『内塚』は『ダイヅカ』と本来は読む。訛った。
約六十年前に横堀の地に居を構えた。横堀に来る前は、九十九里浜沿いの野手にいた。現在も野手には、親類・縁者が多くいる。
野手の人々も含め、熱田一族は黒潮にのってやってきた。基点は名古屋である。名字の熱田は、熱田神宮の熱田であり、『内塚』の内は、内裏様のダイ。事実、 熱田神宮とのつながりは深いという。ところで、もっといえば『内塚』の塚の由来は、熱田一族より出たある少女(だかどうだか)の悲恋物語、死、それにまつ わる塚の意という説もあるらしいが確認はできない。
それはさておき、熱田一族には、六十六年に一度かかさぬ儀式があるという。一族郎党その日は朝から野手浜に集まり笛やタイコでお祭り騒ぎ。最後に夕陽に向 かって酒樽をつんだ御神輿を海に流す。その御神輿はどうなるのか? オヤジに語ってもらおう。
「それがどこをどう通るのかは知らねえが、熱田神宮の近くに届くだよ。届いた酒で宴会をやるっちゅうからな」
真顔である。その儀式が一番最近におこなわれたのは、反対同盟が始まった頃だったという。ただし、デーヅカのオヤジは都合が悪くて不参加だったとのこと。
横堀の地で全世界に希望を送りだすデーヅカの話、本当なのであろう。



  3 龍崎主計家(辺田)『トノジタ』

辺田は横堀などと違い古村である。その家がいつから住みついたのか? という質問は無意味である。無用な詮索である。だいたい誰も知りゃしな い。土から人が湧いてでたという、そんな感じである。
今回の龍崎主計家も含め、そんな辺田の中で龍崎一族は一大勢力であった。俗に龍崎七軒党という。文字通り昔は七軒あった。闘争開始時五軒、今は三軒である が。
『トノジタ』は『殿下』とあてる。青行隊の春雄ちゃんの家である。
その由来は、ジイちゃんに聞いても確かなことは言えないという。一説には、家の裏山で時の領主が弓のけいこに登るので下にある家は『殿下』になったともい う。
ところで、古村の屋号は人名を使うのが普通である。『ゴロベエ』とか『ジューゼム』(ジューザエモンの訛り)であるとか。百姓に名字がなかった頃、それ は、代々の当主が“襲名”するという感じであったらしい。そういう意味では、この家も『チョーベェー』という名前があり、屋号が二つあるともいえる。
いつの頃からか、『殿下』が定着した。
往時の龍崎七軒党は、辺田の吉祥院を建立したという。その子孫たちは今、〈三里塚〉の中で着々と希望を現実のものにするための事業に鍬をふるう。



  4 山室繁家(中郷)『チトセヤ』

前回の帰り、トノジタのジイさんが、「ウチは源氏じゃ」とポツリともらした。
そういえば合宿所によく来る人の間でも、オレの家は藩士だだの、郷士で悪かったなあだのいう先祖談義が冗談まじりで、とりわけアルコールの入った時に行な われる。
読者諸君はムッとするだろうか。見ているとただ無邪気というだけの話だと思うがね。
『チトセヤ』。『千歳屋』と書く。妙な屋号である。縁起はいい。中郷部落の山室繁さん宅の屋号である。
ところでチトセヤのオヤジといえばすぐに写真マニアと答えが返ってくる。いつか、援農に行った折みせられたアルバムは、百姓というより被写体の狩人であ る。どこへ行ってもパチパチやっている。一体に〈型〉に興味があるらしい。
枕が長くなった。本題に入る。
昔、稲葉の辺りに城を構えていた山室飛騨守とて、武に勝れ、知に富む一将あり。チトセヤはその子孫であり、維新までは武士であった。
明治になって武士はなくなったが、山室家は金満家であった。ところが明治初年の頃に継ぎし当主がひどく芝居好きで、丹那衆のキップの良さ、芝居の興行に手 を出した。ここまでは粋だねえというレベル。仕舞には道楽がこうじて自分でも役者の真似事を始めた。屋号をまで名乗って舞台に上る。衣装・道具にこりだ す。
やがて破産した。本物の百姓になった。
かつての当主が名乗った役者としての屋号とは何か。『千歳屋』なのである。自嘲的とはいうまい。愛すべき無邪気さというべきである。



  5 鹿島利司家(中郷)『ミヤシタ』

菱田学区の古村にある御宅に、「御当家は一体いつ頃から辺田に(あるいは中郷に、東に)住んでいらっしゃるのですか?」とたずねると、かならず 「ハテ、知んねえよ。とにかく昔から住んでいるよ」要するに、エライ昔から、ということだけわかる問答に終始する。
『ミヤシタ』と書く。中郷部落の鹿島利司さん宅の屋号である。
由来は中郷神社の足下に御宅があるためである。
ところで、中郷神社では例年すもう大会が催される。いつ始まったかわからない。江戸時代の中期位の話じゃないかと思うのだが、確証はない。
百年だか、二百年だか、いつのことやらわからないのだが、一度だけすもう大会をやらなかったことがあるという。
次の年、赤痢が流行ったという。
その因果について、読者諸氏の興味をひく珍説を書こうと思っていたのだが、枚数の関係でね。
ところで、件のすもう大会は今年もある。八月二十四日である。力自慢のキミ、ひとつ参加してみなさいよ。キミの肉体美にオッカアたちがタメ息をつくかもし れないぜ。
廃港めざしてハッケヨイ。矢倉太鼓の響き、空港の爆音を吹きとばす。



  6 瓜生彦重家(辺田)『ツキヌキ』

『ツキヌキ』。やけに戦闘的な屋号である。辺田部落の瓜生彦重さん宅の屋号である。いったい何をツキヌくんだろう。などと言っちゃいけない。辺 田の御宅と同じように数百年の風雪に耐えた由緒正しき屋号なのである。
『ツキヌキ』、『月貫』とあてる。もっといえば、ツキヌキ井戸の『ツキヌキ』である。
瓜生彦重さんの御宅に限らず、辺田部落の谷津際のどこにいっても豊富な湧水が援農に入った君を待っている。感激すること請け合いである。
辺田部落は、今も昔も反対同盟最大最強の拠点である。
権力の暴虐をツキヌキ、辺田の泉は、革命の水路へ流れでる。
(PS 今、本職の落語家が合宿所に滞在して居られるので、別にそれを意識したわけではないが、つまらぬオチ[#「オチ」に傍点]でありました。)



  7 鹿島清家(辺田)『タナカ』

『タナカ』とは、辺田部落の鹿島清さん宅の屋号である。『田中』と書く。日本語のアクセントなど、あまり信用ならないが強いていえば、タ・ナ・ カという順に下がっていく。
『タナカ』。名字だと思っている人、思った経験のある人は多いかと思う。私だって初めはそうだった。『タナカ』妙な発音じゃねえかと思っていた。けれど屋 号だった。
その由来についてオヤジさんに一度だけ聞いたことがある。どうもハッキリしないのである。というよりはテンデ無とんちゃくなのである。先祖は先祖、俺は俺 のとはやや違う。『タナカ』の家も、古村、辺田部落の一軒である。
家の周りが田んぼで囲まれているから、田中=タナカ。これではまるで芸がないように見える。けれど、私はこの解釈、然りと思っている。かつてこの鹿島家 は、例の龍崎七軒党と並ぶ、辺田の雄であった。屋号につまらぬ工夫などいらない。辺田の中の辺田[#「辺田の中の辺田」に傍点]なのかもしれないとも思え る。
ところで、青行隊の始めた実験田を読者は御存知と思う。そして、ここのオヤジがその試みに真っ先の賛同をしたことも御存知かと思う。その中で「実験田を通 した新たな結が作れないか」とオヤジは言うのである。それが実現した時、辺田は、反対同盟はさらに強固になってゆく。



  8 菅沢昌平家(加茂)『ミセ』

中谷津、横堀は〈高地〉である。たとえていえばである。共に開拓部落なのである。そして、比較的広く、川沿いにひらけた水田を有するのは千代田 学区であり、言ってみれば〈低地〉である。同じく古村であるが、菱田学区はやや〈高い〉所に位置している。典型は辺田である。千代田学区の諸部落とは趣が ずいぶんと違う。それぞれを鳥の巣にたとえるなら、菱田のとりわけ辺田などは、フクロウの巣であり、横堀など開拓部落は、孤り天空を睥睨するワシである。 それに比すれば千代田学区はスズメの巣である。別にけなしているわけじゃない。千代田学区は兼業が多い。典型的な現代日本農家である。矛盾は激烈である。
千代田学区、加茂部落の菅沢昌平さん宅は『ミセ』という屋号を有する。たぶん『店』の謂であると思う。
明治以前は、名字帯刀を許されていたそうな。山をたくさん持っていたそうな。まずは、土地の名望家である。
昌平おやじの四代くらい前まで、木樵りさんらを相手に日用品などを扱う店[#「店」に傍点]を開いていた。旅館業めいたこともやっていたらしい。おやじさ んはそれを称して“三文商い”というが。屋号の由来はこれだと思うが、だとすると、先々は、『シンブンヤ』『デンキヤ』などが屋号として認知されても異と するにたりない。今だって『タタミヤ』なんていうのがあるのだから。
この店、明治以降破産した。道楽である。どういう類の道楽かは知らないが、おきまりの道楽であろう。きっと、ごく真っ当に破産したにちがいない。
全体に芝山町は〈後進〉地区であるが、千代田学区はまぎれもなく〈資本主義社会〉である。曰く、スズメの巣である。空港に連なる〈先進〉性を持っている。 反対同盟はどの部落においても少数派である。
私は〈先進〉性を嫌うが、〈後進〉性をほめるつもりもない。ただ思うのは、加茂部落57軒のうち同盟は5軒、〈資本主義〉の世の中でも人間は〈思想〉で 立っていける、ということだ。
甘い感傷ではない。祭りあげるのでもない。それは、むしろ希望である。その証拠に菅沢昌平がそこにいる。


『三里塚情報』は三里塚闘争連帯労農合宿所の発行。屋号の話は連載中です。



ドドン・サントスさんにきく

  はじめに

『水牛通信』では、八十年に、五、八、九、十一号と、フィリピンの農民闘争とそこでの文化について伝えてきました。とりわけ、ミンダナオ島のバ ナナ食民地においては、伊藤忠、住商などの日本資本が現在ただいま、フィリピン農薬労働者を農薬づけにして支配し、搾取し、抑圧し、そしてストライキに よって反撃されています。

十一月上旬から十二月上旬までの一カ月間、ひとりのフィリピン人が、福岡から札幌まで駆けまわり、日本人労働者との集会をひらき、実情を訴えていました。 マルコス戒厳令下で、御用組合の支配を脱し、たたかう組合をつくりながら、ストライキにたちむかっているフィリピン農民のたたかいは、彼らの犠牲によって 繁栄している日本と、飢えとストライキを忘れかけた日本人労働者を痛撃しています。

バナナ労働者の代表としてオルグにやってきた、ドドン・サントスさんに、この一カ月間にみた日本を語ってもらいました。彼は小柄で、柔和な、三九歳にはみ えない運動家です。


     * *

――日本にこられて、もっとも印象的だったのはどんなことでしょうか。
サントス 日本に招待されて一カ月間、いろいろな運動家や、問題意識をもって活動している人たちに会ってよかったとおもいます。そのな かで一番深く印象に残っているのは、日本の人々のなかに、アジアの問題に対する関心が強くなりつつあり、しかもそういう問題に対して、何かしよう、何かで きるのではないか、と真剣に考えていることです。

――日本にこられる前と後で、日本に対するイメージが違っていたのはどんなことでしょうか。
サントス 日本人に対するイメージは、フィリピンにいるビジネスマン、観光客などから与えられたものだと思うのですが……。ビジネスマ ンは信用できない。たとえば、フィリピンの実業家の不満には取り引きをするときに、非常に一方的で、日本人に有利なほうに物ごとが決められていくというよ うなことがあります。それともうひとつには買春観光という目的でフィリピンに来る人たちで、こういう人たちにはとても暗い印象をもっています。また、技術 を教えるにしても、何かをいっしょにやるにしても、冷淡だという感じがしていました。ところが日本に来てからは、日本人はあたたかくて親切だというふうに かわりました。

――この一カ月間、どんなところで、どういう人たちに会ったのですか。 
サントス 地方の都市に行きました。京都、大阪、広島、福岡、名古屋。それから東京にもどってきて、また札幌と仙台に行きました。会っ たのは主にクリスチャン、各地の活動家、反原発運動、反公害運動、消費者運動、日韓連帯、三里塚農民、千葉反公害塾、労働情報の活動家などです。労働者で は、福生で印刷労働者、川崎ではエレクトロニクスと石油労働者、横浜では港湾労働者に、それから上智大学では神父さんたちに会いました。そこで話したの は、フィリピンのバナナ労働者の実態と、それにあらわれているような、いま、フィリピンがかかえている根本的な問題についてです。なかには、はじめてバナ ナ農園の実情をきいたという人も大勢いて、とても熱意が感じられましたね。これがフィリピン労働者のたすけになることはたしかです。

――日本の労働者にあって、彼らをどうおもいましたか。
サントス フィリピンでも日本でも、基本的には経済的不正に対して、自由のために同じたたかいをしているのですが、状況はかなり違いま す。日本では堂々とストライキができるわけですからね。日本で戦闘的労働組合といわれているところのストライキのフィルムを二本見ました。

――戦闘的労働者や活動家ではなくて、独占資本下のふつうの労働者にあう機会はなかったんですね。
サントス 右翼的労働者のことですか? 彼らにはあわないですみました。私がこの一カ月間に会ってきた労働者には、フィリピン労働者と 共通の目標や問題をもったたたかいをしているのだという感じが強くしたし、言葉の障害があるにもかかわらず、コミュニケイトしようという熱意と、自分たち の経験をわかちあおう、共有しあおうという願いが感じられました。

――マルコス政権の戒厳令のもとで、バナナ労働者はどういう状況にあり、どうたたかっているのですか。
サントス 搾取と抑圧のもとにあるバナナ労働者は、低賃金で長時間はたらかされ、化学薬品や殺虫剤など、つねに危険にさらされているわ けです。しかも住む場所も満足に与えられず、栄養失調の人も大勢います。そのなかで、まず労働者を組織しようという運動をやっているわけです。一つは未組 織のものに対して、もう一つは、イエロー・ユニオン、つまり御用組合といわれているものを、ほんとうに労働者の利益になるための組合に再組織しようという 運動をたたかっています。

――弾圧はありませんか?
サントス 合法的な活動なので、組合づくりそのものには弾圧はありません。しかし組合にはストライキ権がないので、ガデコ農園のストラ イキには軍隊が介入しました。

――バナナ労働者は、どれくらいいるのですか。
サントス 調査の上では二万九千人といわれていますが、これは常雇いの人なので、下請けと臨時雇いの労働者を含めれば、実際には三万五 千人くらいになるでしょう。そのなかで組合に入っているのは一万五千人くらい。とくに私たちのやっている、労働者のための組合に加入しているのはほんの少 数なのです。

――日本の企業が資本を出しているバナナ農園にはどんなものがあるのですか。
サントス 住友系のダバオフルーツ、イーホ、ツイン・リバースで、日本の出資金は全資本の40パーセントまでです。そこではたらいてい る労働者はダバオフルーツに三千人、イーホに千人、ツイン・リバースは千人以上います。

――その労働者は、自分が日本企業ではたらいているということを知っているのでしょうか。
サントス 日本人は目に見えるところにはいません。職制も経営もフィリピン人です。しかしひじょうにわかりにくいけれども、管理体制に は日本の影がちらついているのです。労働者は、日本の資本にやとわれているとはおもっていないが、資本の一部が日本のものであることは知っています。

――日本以外の外国資本はアメリカだけですか。
サントス そうです。圧倒的にアメリカが多いですね。

――日本とアメリカでは、労働条件、労務管理、賃金などに違いはありますか。
サントス 実質上の違いはありませんね。米資系のドールの労働者は少し条件がいいようですが、それだってバナナ以外の労働者とくらべた ら実質上ましだということはありません。

――それでは日本資系の農場ではたらいている労働者の怒りが特別強いというようなことはないわけですね。
サントス そうですね。日本もアメリカも抑圧者であり搾取者であることにかわりはありませんから。

――そういう状況に対して、日本人として、どうしたらフィリピンの労働者の期待にこたえられるのでしょうか。
サントス 日本国内でどういう行動をとればフィリピンの労働者をたすけられるかを、日本の労働者自身が決定すべきだとおもいます。

――バナナ農園になる前にそこの土地にいた農民はどうなったのですか。
サントス 追われた農民はたくさんいます。農園労働者になった人、別の農地を求めた人、小作人になった人、都市に行ってスラム住民に なった人、森や農地としてみとめられていないところで農業をはじめた人など。
 小作人は地主が土地を売ってしまえばおしまいです。自作農の場合でも、土地を占有しているだけで所有者ではないことが多いので、政府でなく、資本家でも かんたんに彼らを追いだすことができたわけです。

――そういう過程での農民闘争はあったのでしょうか。
サントス 農民たちのたたかいは、主としてダバオ・デル・スルでおこっていたようです。くわしいことは知りませんが、大部分が字を知ら ない人たちと少数民族だったので、あまり大きくならずに消えてしまったようです。

――労働者を組織し、オルグするには、どういう方法をとっていますか。
サントス まず組織しようとする会社に、オルグがでかけてゆき、労働条件、会社の実状、地域の問題などを調査します。それによって報告 書をつくり、戦略をたてます。御用組合に対抗するために、労働者をひきつける。目立った争点をえらぶことがだいじです。一方、組織しようとする会社の労働 者のなかからめぼしい人を選び、非公式なセミナーをひらきます。それから、セミナー参加者はそれぞれ自分の会社に帰り、労働者を集めて、自分たちでセミ ナーをやるのです。
セミナーでは、まず労働者自身の問題をとりあげ、それを基本的な問題にむすびつけます。それから世界やフィリピンでの労働組合運動の歴史、現在の戒厳令下 のフィリピンの労働協約、労働者の法的権利もとりあげ、フィリピンの歴史を深く研究します。

――そうすると、たとえば農園に行ってビラをまくという方法ではなく、個人をオルグするわけですね。
サントス そのとおりです。まずつきあいがひろく、影響力のある労働者をえらんで中核部分をつくり、ある程度組織化がすすんだところ で、労働者に組合結成の申請を出し、それが認められてはじめて選挙がおこなわれるわけです。

――日本のように個別資本に対して賃金引上げを要求するということはないのですか。
サントス 個々に会社に交渉するわけですが、組合がいろいろあって、組合別にそれぞれ交渉するのです。たとえばスタンフィルコ(ドール バナナ)の場合だと、二つの組合があり、一つは技術者を組織している組合で、これは御用組合です。もう一つのほうは一般労働者を組織する組合で、それぞれ 自分たちの組合だけの要求をするわけです。

――サントスさんの組合には、バナナ農園ではたらく人びとのほかに、どんな労働者が加入していますか。
サントス ゴム農園(これはフィリピンで最大の農園です)、ホテル、病院、港湾労働者、製鉄労働者、多国籍企業のロープ製造業、日系の カーボン産業、銅山にはたらく人びとです。

――このなかで、バナナ労働者が一番悪い条件で労働しているのですか。
サントス とくに悪いとはいえないですね。多かれ少なかれ、どこでも同じような状況です。

――フィリピンの労働運動のなかから生み出された文化運動には、どのようなものがありますか。
サントス アメリカや体制側が長年おしつけてきたものとは違う文化がでてきているとおもいます。「カマオ(こぶし)」のような出版物も たくさんでてきています。

――日本の港湾労働者に会われたそうですが、フィリピンと日本の労働者の違いはどんなことですか。
サントス 時間が限られていたので、くわしい話はできなかったのですが、賃金の違いにはおどろきました。同じ日雇いでも、フィリピンで は一日はたらいて十六ペソ(四百円)なのに、日本人は一万円以上ももらっている。
フィリピンと日本の労働者の違いということですが、集会で、活動家の人にはたくさん会ったのですけれど、労働者には直接会っていないので、具体的には ちょっとわかりません。もっぱら彼らからの質問が主だったものですから。私の方から日本の労働者が社会に対してどうおもっているか、どんな展望をもってい るかをくわしくきくことはできませんでした。でも、日本の労働者のほうが、フィリピンとくらべたら、ずっとめぐまれているとおもいます。それなのに、彼ら はさらによい賃金を要求しているんですね。全体としては、日本の労働運動は経済的なものに傾いていると思います。北海道で、何人かの労働者に会ったとき、 彼らが日本帝国主義と天皇制を批判していたのが印象的でした。

――三里塚農民に会っての印象は、いかがでしたか。
サントス 三里塚のたたかいは、行ってみてはじめて知りました。正しいたたかいだし、彼らはそのたたかいの中から、共同の生活をつくり 出していて、それがさらにたたかいを強くしているのだということがよくわかりました。

――サントスさんが労働運動にかかわるようになったのは?
サントス 私はネグロス島の出身で、学生のころは学生運動をやっていました。当時から、農民や労働者をみて、この人びとのためにはたら こうとおもっていたのです。卒業してから、労働運動の弱い地域をいろいろしらべて、その結果ゼネラルサントス市に行きました。当時そこには何の運動もあり ませんでしたが、そこであれこれやっているうちに、御用組合からさそわれて、加入しました。そのなかで、できるだけ労働者の側に立ったたたかいをしようと おもったのですが、しばらくするうちに、矛盾が大きくなってきました。つまり組合幹部と労働者のちょうど中間に立って、幹部の感覚で労働者に接するように なったのです。これでは労働者の側に立てるわけがなく、そこをやめました。その頃、ある友人からの誘いで、弱体化して地方支部が四つしか残っていないとい う組合に加入したわけです。そこではたらいて、今は支部が二十ほどある組合をつくったのです。

――労働組合に入って学んだことはなんですか。
サントス 労働者の現実の問題です。こういう問題にこたえていくということが、私自身のコミットです。

――そこが、日本の学生運動と違うところですね。
サントス フィリピンでは学生もコミットしていますよ。

――現在の労働運動の制約は?
サントス 戒厳令下では、ストライキ権のないことが最大の問題です。

――戒厳令撤廃要求と多国籍企業支配の問題とはどうむすびついているのでしょう。
サントス 多国籍企業は昔からあったが、戒厳令のもとで、いっそう進出しやすくなっています。まず、人民が共通にのぞんでいるように戒 厳令が撤廃されれば、外国資本にも当然影響がおよぶことになるでしょう。

――それは外国資本を追放するということですね。
サントス 追放ということばをあなたの口からきけて、うれしくおもいます。


フィリピン抵抗詩  エドガル・マラナン



きみはトタン屋根のしたで
はなれ星をかぞえる人ではない

やつらはきみをつれさった あんなにうつくしい
雨と小川と竹のであう場所から
そしてはてしないゆめから


空につつまれ
朝のかがやきにはじまり
西にかたむく日にいたる草原から


きみをつれさった かわいい妻から
生まれてくる子にうたいかけていたそのとき
きみがいなくなり 目も心も赤くなった


かなしみと勇気がいりまじり
涙がわき 手をにぎりしめた
きみのおもいでときみのおしえのなかで


あそこ 野では勇気も陽気
そこからきみはひきさかれた 愛するものすべてから
石牢のなかで脳までひからびるようにと


だがきみの物語はわすれられない
語りあおう きみはトタン屋根のしたで
はなれ星をかぞえる人ではない

チリでとらわれている女性に


暗い時代だ
とりまくハゲタカ
国中にたくらみの
とぐろをまくアナコンダのしるし


ドイツ産シェパードがきみの獄舎をのしあるく
かぎ十字の脚おっぴろげ
看守のあいことばのいいなりに
やがてけだものじみた兵士が
きみを突き刺すのだ サンチャゴの勇敢な花よ!
たぶんきみは犠牲者がするように
悲鳴をあげはしない ライオンの前の
殉教者のように あれだけ血を流しても
たぶんきみは歯をかみしめ
こぶしをにぎりしめるだけ
同志たちやアンデスの
花々をおもい 沈黙のうちに
山や野のチリ人と心をかよわせ
ともに信じる この犬ども
ファランガ 突き棒 こん棒の天才たちにも
終りはくると


くらい時代だ 恐怖は
きみをとらえた奴の犬歯をむきださせる
泡を吹き 何度もきみをつれだし
ああ 国の母にして自由の娘
犬どものやるように
くらやみの地割れにきみをつれこんで!
くらい時代だ 勇敢なコンパニェーラ
だがきみのたたかいは先へとせきたてる!


ああ サンチャゴの花よ!
花びらがちったなら
トゲをそだてろ
犯された大地に流したきみの血潮で

つばめ

湖から白くとびちるもの
百羽の鳥のつばさは
解放のときめきのよう


百本の矢 よろこびは
青い空間をよぎり
北風にぶつかってゆく


世界の囚人たちの鳥よ!
やがて群れはつらなり
天でひとつになるだろう


鳥はひとにうたいかける!
雲まであがり
山や湖もとびこせるなら


どんな距離でもこえられ
どこでも自由になれるはず

エドガル・マラナンはフィリピン大学の政治学講師だった。
獄中からだした詩集は、英語とタガログ語の両部門で一九七七年度の賞をうけ、
詩人は次の年の十二月に釈放された。



千葉君不当解雇撤回! 一九八〇年七月十日

東京地評東部ブロック共闘会議
墨田区労働組合連合会
大久保製壜闘争支援連帯会議
東京東部労働組合大久保製壜支部


三十六名の仲間による、あのキリスト教会ろう城からすでに五年近くたち、不当にも千葉君が解雇されてから、もう三年も経ちました。

過去十数年間にわたる心身障害労働者に対する暴力・差別・虐待・酷使によるすさまじい搾取は、大久保製壜資本を「韓国」に侵出する程に肥え太らせました。

数々の労基法違反・過去二回もの労基署による書類送検・社長を筆頭とする暴力、虐待の横行・取締役は女子寮に深夜しのびこみ女子身障労働者に強姦を行なお うとし・体の弱い精薄労働者には、深夜労働を一カ月のうちなんと二十日以上やらせ、十六時間の通し勤務、年次有給休暇の制限、低賃金、とまさに悪事の限り をつくしてきたのでした。

このような長年にわたる日常的屈辱の前に百名近い心身障害労働者はもちろんのこと、大久保製壜で働く多くの労働者の苦しみは極限に達し、ついに昭和五十年 十二月、心身障害労働者を中心とする三十六名の労働者の首をかけた決起を呼びおこしました。

昭和五十年十二月のこの十日余りの「キリスト教会ろう城闘争」は、組合結成、連日の実力闘争、そして地域の闘う労組、部落解放同盟、牧師、保母、住民の身 を挺しての支援そして全国の皆さまの声援のもと、全面勝利を勝ちとることができました。

しかしながら、自らの悪虐非道の一切を暴露され、職場内外から追いつめられた大久保資本は、逆に憎さ百倍となりあらん限りの組合破壊攻撃を開始したのは、 職場復帰の直後からでした。労務ゴロ・ガードマン導入、買収、暴力、おどし、不当配転、不当解雇一名を含む四十件近い大量不当処分、四件の不当告訴、二年 に及ぶ団交拒否、組合員にのみ年末一時金不払い……

とりわけ昭和五十二年三月の、突然の千葉組合員への不当解雇は、あまりにも露骨な組合つぶしであり、障害者差別そのもののやり口です。

教会ろう城闘争直後の熾烈な組合攻撃の前に、いったんは組合をぬけた千葉君が、大久保資本の組合つぶし、障害者差別、搾取の復活に怒り、再び組合に復帰 し、大久保資本の不当労働行為の一切を暴露し、大久保資本を追いつめた、その直後の不当解雇でした。

大久保資本は、千葉君とEさんの三年間にわたる交際・恋愛・結婚の約束を充分承知のうえで、なんと「精薄者であるEさんは、恋愛など社会的に信頼し得る能 力を有しない」という理由で、Eさんの意思を乱暴にも抹殺し、刑法一七八条(準強制ワイセツ)という罪状を千葉君に無理矢理押しつけてきたのです。

二人は、三年間の間大久保資本による日常不断な差別、抑圧や迫害、また世間や回りの偏見や差別に負けることなくたちむかい、愛しあい、結婚生活を望み、決 意していました。そしてこの結婚の決意を、職場の仲間たちに真剣に相談もしていました。

二人を暴力的に引き裂き、千葉君解雇をはじめ組合つぶしに血道をあげるこの大久保資本は「精薄者には意思能力がない」「素直であるということが一番のとり えの精薄者」と、現在も都労働委員会をはじめ、平然と公言しています。

まさに心身障害者の社会的立場の弱さを、逆に金もうけのために利用し、しぼるだけしぼりつづけた大久保資本ならでは考えられないやり口です。

このような千葉君解雇をはじめとするめちゃくちゃな組合つぶし攻撃に対し、千葉君を先頭とする十四名組合員は、ただ団結のみに依拠し、闘いつづけました。 職場で、地域で、労基署、裁判、都労委で。そして地域支援の仲間達も連日連夜この闘いを支えつづけ、当該組合員と一心同体となり、敵の攻撃をひとつひとつ はねのけ、一歩一歩前進を勝ちとってきました。

述べ四十万枚に及ぶ地域、戸別ビラで大久保資本を地域的に孤立させると同時に、工場包囲デモ、社長宅抗議闘争、門前抗議闘争、総行動などを通じ、この三年 余りの地域支援は、当該組合員が職場内で職場大衆と団結し実力で闘いつづける大きな支えとなっています。

職場内で追いつめられ地域的社会的な批判をあびながらも大久保資本は、何ら反省することなく、逆に組合つぶし攻撃は卑劣さをきわめています。

このような状況の中で、とりわけ千葉君への不当解雇攻撃を粉砕し、なんとしてでも千葉君の職場復帰を勝ちとり、大久保製壜闘争勝利をめざし、今、私達は、 再度、全国の仲間の皆さんに訴えます。



みなさんに訴えます 昭和五十二年三月三十一日 千葉辰雄


私の入社は昭和四十五年である。私が、カートン室でケガをして、左足ひざにヒビが入った時、会社から病院まで一時間くらいかかって、病院に行き、約二カ月 入院した時、のとや課長、あなたは「おまえのきもちは、おれがよくしっている」などといった。本当におれのきもちがわかるのか。九月に左手指先を切断した 時、上役は「指の一本、二本なんだ。一本二本なくても仕事はできる。休むなよ」といった。社長に「ケガをするものは大バカだ」などといわれた時の、おれの 気持が、ノトヤあんたにわかるはずがない。

しかし、ひさみさんは、入院している病院まで、みまいにきてくれた。そして、「給料三千円しかもらえないので、ろくなもの買えなかった」と言いながら、た くさんのバナナを私にわたした。

そんな彼女を好きになっては、いけないことなのか。

退院して、彼女にいった「君が好きだ」と。そして、さんぽ、野球、食事で、彼女といつもいっしょにいた。そして、おれと結婚しようといった時、ひさみさん は「おいしいもの作ってあげるね」といった。これを会社のいう自己判断におとるというのか。

一度、検労組をやめた時、社長はよろこんで私のところに来て、私になんといった。

「嫁さんを世話してやるから、わるい仲間にまどわされず自分の道を進みなさい。君でも、部課長になれる。とくべつ目をかけてやる」などといって、また私が 組合にもどると、とんでもない理由で解雇するとはなんだ。

社長はよく、休み時間中、休んでいる者にそうじをしろとどなり、やらせた。こんなことを思いだせば、思いだすほどハラがたつ……くやしい。十年近く、結局 利用されていただけなのか。

私は、このような大久保を心から反省させるため、全力をあげて闘っていきます。

皆さんのご支援をお願いします。





三里塚の歌 水牛楽団


百姓は草


聞け 土の声を
わすれるな 土の魂を
百姓は土に生きる草だ
土に生きる草だ
土の奥ふかく 根をはる草だ
土をはなすな 土にもぐれ
土に埋もれても 土を渡すな


百姓は……からは、北富士忍草母の会が、三里塚反対同盟におくった檄による。



ワンパックの歌


土をまもれ
土をひらけ
星キラキラ
雨のやさしい手


三度マメ サトイモ ネギ
ウド パクチョイ ハツカ大根


石がひびわれる
うなりがとまる
飛行機がきえる


作物がほきる
どろにまみれ
露ひとつぶ


三里塚微生物農法の会のビラからひろいあつめたことば(水牛通信2巻2号)


野槌の歌


野槌がかけめぐる
ひろいトウモロコシ畑
白い夜明けの光
赤いつめたい風のなか
こわれゆく風景に
野遊びの歌がきこえる


島寛政の「野遊びの歌」による。野槌は野の精霊。土にしたしんだ生きものや人間は、死ぬと野槌の仲間にはいる。



物語に見はなされた人たち  高橋悠治


  物語はどこにある

イエスがきいた――何がほしいのだ?
見えるようにしてください。
すると、目があいた。
神はすべてを知るもの。わかっていることを、なぜたずねるのだ?
わかっていても、たずねるのは、相手を尊重するからだ。対等な立場にたってこそ、対話がある。対話によびさまされ、問題はおのずからとける。
神はこうもいった――もとめよ、さらばあたえられん。
まず、もとめねばならぬ。
おれたちはもとめた。何十年も、何百年も。なぜ、あたえられないのだ? 門をたたきつづけ、まだひらかれない。なぜだ?
もとめたりない。たたいて、たたいて、たたきのめせ、地主も、帝国主義も。

フィリピン農民の神学。
たたかいはながい。イデオロギーや理論だけでは、毎日のたたかいをささえきれない。神の正義がともにあるというしるしが必要だ。
農民や労働者が、自分たちのくるしみの歴史を、神の受難の物語とおりまぜる。人々のくるしみに神がやどるなら、解放する力も人々のなかにあるはずだ。
韓国の都市産業宣教も、労働者の社会的伝記と聖書物語を交差させる。物語をつたえ、物語をきく、現場の神学。
本をひらくことがなくとも、物語は口づたえにひろめられる。おじいさんから孫へ、そのまた孫へと。

フィリピン農民ペドロが、三里塚にいった。三里塚農民は聖書をもたない。だが、祖先があるじゃないか、とペドロがいう。
そうだろうか? 小作人のくるしみ、開拓農家の苦労ばなしは、いまのたたかいに生かされているか? 大木よねの孤独なたたかいは、だれの胸にきざまれてい るか?
かれらの物語は、すぎた日の記憶か? いまもつづく毎日のたたかいのたて糸と交差するよこ糸か?

国家が農民の土地をとりあげる。カネのために土地を売る人もいる。農業に希望をうしなって、土地を手ばなす人もいる。部落も家族もひきさかれる。人間の古 いきずなは、近代化の暴力には歯がたたない。
不意打ちか? だが、畑をつぶして空港がのりこんでくる前から、農業は死にはじめていたのではないだろうか?
牛や馬が耕運機にかわる。化学肥料、農薬、ビニールハウス。作物にカネをかけ、作物をカネにかえる。人間関係だって、かわらずにはいられまい。
農業の産業化はいい。だが、農業より工業は、もっといい。畑よりは空港だ。
国家は、農民自身がはじめた近代化を農民の手からとりあげ、谷底をのぞきこんだところを、うしろからけりおとした。

三里塚のたたかいをささえるのはなにか? 人間の古いきずなはやぶられた。血縁や地縁ではなく、たたかいに心をよせる人たちの志の自由なむすびつきから出 発しようというのか?
エピクロスがといた友情も、魂の自由なむすびつきだった。原子の雨がまっすぐにおち、どこかでかすかにかたよる結果、むすびつき、ぶつかり、とびちり、世 界をつくる原子の、かぞえきれないくみあわせがうまれる。この原因のない、かすかなかたよりが、魂におこるのを、エピクロスは友情とよんだ。
友情を原理として、エピクロスの庭の学校では、女やこども、どれいたちも対等に哲学した。そのことを、近代におもいださせたのが、マルクスの最初の哲学論 文だった。
だが、魂の自由は、くずれゆく古代社会のなかでかがやいた、ちいさな火花だった。大波がおさまったとき、エピクロス派もいっしょにしずみ、キリスト教の世 界になっていた。
三里塚によせる志の自由なむすびつきも、近代化の一面にすぎないのではないか? 祖先の物語も、色とりどりのぬいとりにおおわれた古い布目ではないか?


  物語を伝える手段がない


経験からつかみだされた行動の指針がある。労働運動のなかにも、いくつか例がある。
連帯をもとめて孤立をおそれず。
心に赤腕章を。
だが、経験をもたずに、どうして、これらのことばにはいりこめるだろう? 経験がことばにまとめられたとき、たたかいの日はおわる。すぎた日をかみしめる だけでなく、見しらぬ人たちをむかえいれるためには、なにか別なかたちがあるはずだ。
中国でみんながふりかざしていた、小さな赤い本は、なにをおしえたか?
教訓のランプではてらせない道もあること。
モラヴィアが中国で労働者作家と論争した。二人はおなじ赤い本をもち、ページをめぐっては、相手をやっつけることばをさがす。それはかならずみつかった。
ペドロの聖書も、これににている。もとめることばは、かならずみつかるだろう。だが、それは行動の指針ではない。なにをするかは、はなしあってきめる。か かれたことばは、展望をみせるだけだ。
聖書物語は、二千年前の記録ではなかった。ペドロたちがこれからつくる歴史だった。聖書物語をいま、ここで生きるのだ。神はかれらといっしょにくるしみ、 死に、よみがえる。

とうそうがいちばんたのしかっただ。
それだけのことばに、大木よねの一生がこめられた。ことばがなんだ。闘争はたのしい、といってみて、なにがわかる? ことばはかるく、生活はにがかった。 よねの生活をもう一度生きなおし、にがさをのみほさずに、ことばがなにになる?
よねの物語をつたえる手段がない。これが日本の人民運動の限界だ。
歌だって? だれもうたわない。うたうことをわすれている。ものみな歌でおわる、と花田清輝がいった。だが、たたかい自身がひとつの歌にならねばならぬ。 よねのように、自分の歌をうたいきらねばならぬ。
善意の作家たちが、差別や抑圧を小説にする。それらが運動に展望をもたらしたことがあっただろうか? 運動を小説にして消費しただけではないだろうか?  せいぜい、問題のおもさに人の足をとめることができただけだ。とまった足は、なかなかすすまない。
悪漢小説は、処世術の本でもあった。初期の教養小説には、生の目標があった。
いまの小説はカビだ。いたるところに繁殖し、手のふれたものをくさらす。えがかれた思想はうそになり、えがかれた人間は性格のなかにおしこまれ、できごと は過去になる。
希望のない社会が、小説という形式をえらぶ。小説が、詩も演劇も映画も汚染する。
よねの一生を小説にすることを想像してみれば、小説では語れない物語があることもわかるだろう。よねのたたかいに性格や心理の枠をはめることはできない。 よねの運命は、よねの死でおわってはいない。これから、たくさんの人にふりかかってくるのだ。

ききがきという形式がある。くるしむ人がいると、だれかがとんでいって、あれこれききだし、本にする。結果は、電話の一方だけをきくのとかわらない。
ひとりは、自分のことだけをはなし、もうひとりはひたすらかく。この関係は、どこかおかしくないか? 語られることばに自意識がつきまとってはいないか?  みじめな過去をききだそうとする人にたいして、不信やあざけりの目が、用心ぶかくみまもってはいないか?
むかしのはなしを、なんのためにききたがるのだ? よむ人を感動させても、生活をかえるほどにはうごかしはしない。他人の不幸だ。すぎたことだ。
三里塚をとった映画がある。画面いっぱいに農民の顔。なにかしゃべっている。茶わんが画面をよぎる。相手がいるのだ。質問する声。標準語の、ものわかりの いい声。姿はみえない声。
これでは、まるで警察だ。つよい光をあびせ、くらい側から表情をよみとり、誘導尋問する。この方法で真実が語られるとおもうかね? この映画の観客も暗闇 にいる。かれらは刑事の椅子から三里塚をながめることになる。
はなしは、ききだしにきた人からききだし、映画をとりにきた人たちを映画にとればよい。こうすれば、すくなくとも、うそは見えてくるだろう。

歌をならうには、うたってみなければならない。わかりきったこと。
文章をならうには、かきうつしてみなければならない。よむだけでは、かかれたことがらが身につくことは、ついにない。
本をよむとは、本をうつすこと。それだけではない。その本によって生きること。
たくさんの本はいらない。ひとつの本からは、引用によって別の本ができる。古代中国には、いまはうしなわれた本の引用でできた本がある。引用は、他人の思 想や文章のぬすみではない。それはよみかき術そのものだ。
生活やたたかいも、それを生きなおしてみて、人につたわるものになる。ひとつの生活は、引用されて別な生活になる。転生。
いまは、コピー機械の時代だ。手をうごかさないでえたものは、身につかない。どのみち、小説はながすぎて、コピーできない。その大部分は、コピーして保存 する必要もない。
引用の技術もうしなわれた。原典をひとつにさだめ、思想の所有権を主張する。著作権をはらってまるごとかきうつした文章は、不消化な異物のように、のどを つまらせる。


  だれが語るのか?


高銀は、東一紡績の娘たちに詩をささげた。

  娘たちよ
  わたしが仁川産業宣教にゆき
  きみたちの脈をかぞえ
  きみたちの頭をなでるとき
  反対にきみたちがわたしの脈をかぞえ
  きみたちが倒れたままで
  わたしのよわい心をつよくした

高銀は、娘たちに語りかける。娘たちのかわりに語ったりはしない。娘たちがかれになにをしてくれたかを語り、きみたちの道についてゆく、というのだ。
娘たちには代弁者はいらない。自分たちが語り、決議し、宣言し、てがみをおくる。労働者階級のどん底にいる娘たちが語りはじめる物語は、わかちあうべきも の。問題をわかちあい、こたえにもいっしょにゆきつく。

日本の運動には、代弁者がなんとおおいこと。
フィリピン農民ペドロがやってくる。連帯集会によばれてゆくと、解説者がまずたちあがり、一時間もしゃべる。
日本の労働者は、フィリピンがどこにあるかもしらない。地理、人口、統計、政治状勢、運動の現状とその目標。全部があらかじめ説明される。
さあ、ペドロさん、ごあいさつを。時間がないので、十五分で。
フィリピンのことをはなすために、日本にきたというのに、わたしのいうことは、だれかがみんないってしまった。それも、農民の生活からしみだしたことばで はなく、統計のことば、理論のことば、知識人のことばで。現地農民の標本が、それに太鼓判をおすことを、人々はもとめている。それだけだ。
人々は、なまのことばと予備知識なしにむきあうことをおそれる。無知をさらけだしたくないのか? アジアの現実に無知であるのが、日本の現実なのに。
人々のききたいのは、あいさつだ。日本は帝国主義の国かとおもったが、人民もいることがわかってうれしかった、とかなんとか。
ペドロは、ほほえみさえうかべて、型どおりのあいさつをする。
では、どなたか質問を。
沈黙。やがて、おずおずと手があがり、最近の新人民軍のうごきにっいて、どうぞひとこと。
ペドロは、その方面にくわしくない、とていねいにこたえる。
人々がおもいつくのは、こんなこと。フィリピンときけば、新人民軍。ペドロがなにをしているかには関心がない。解説者が農民運動については、整理してくれ たじゃないか。
人々は日本にのこり、集会の次の日は、ペドロも新人民軍も、もうわすれているだろう。ペドロの方は、戒厳令下の祖国にかえってゆくのだ。どんな報告が、さ きまわりしてかれをまっていないともかぎらない。かれがある日姿を消しても、だれも気にしたりはしないだろう。無名の農民には、救援運動もとどかない。軍 の銃弾が、一足さきにかれを救出するだろう、この世のなやみすべてから。


  忘れっぽい人たちの運動


六〇年安保や三井三池闘争の、なんと遠いこと。たった二十年前のことが、六十年前のロシア革命より遠い。
国会前や三池にあつまった人たちは、なにをかわらずもちつづけたか? 敗北感だけだろうか?
人々はバラバラにおちいらされ、ひとりひとり自分の過去を否定し、わすれた。運動は二度とたちあがれなかった。ちがう場所で、ちがう運動がはじまっただけ さ。
打ちのめされた人たちにつきまとい、記録しつづける少数もいる。ふたたびもえあがる炎をかくした消し炭は、ここにはない。恨の化石とでもいうべきか。
この国では、いつでもこうだった。ある集団がうちたてられると、コチコチになり、かわることができなくなる。ちがうことをやりたければ、でていって、別の 集団をつくるよりない。それもすぐ化石になるのさ。
でてゆく側は、古い体質のまま、あたらしい集団に移住する。権威に反抗する権威主義。権力に反対する権力亡者。反スターリンをとなえるスターリン式党派。 病気からにげられたとおもったが、どっこい、ガンは自分の方だった。
だが、なにをするにも集団は必要だ。集団は安心だよ。個人をみとめない全体がいやなら、全体をみとめない個人の集団をつくる。意見があわず、やりたい奴だ け、かってにやる運動でもいい。集団がなければ、それもできない。群をはなれたら、恨に化石するのみ。
内部批判をゆるさない集団では、自己批判の方法は、自殺しかない。内部告発が恥とされる社会で、管理されている大衆を、どうやって運動にひきこむことがで きるだろう?

過去は過去。現在は現在。過去はみじめだった。現在は安楽だ。未来はきっと天国だ。
これが高度成長時代の宗教。革命のない社会主義。
その裏に、第三世界の現実。過去はみじめだった。現在はもっとひどい。未来は? ふざけるな。
大木よねは、日本一の貧乏ばばあだ、と空港公団がののしった。貧乏は悪。見すごすことはならない。よねの一間だけの小屋もひきたおし、わずかな所帯道具も うばいとり、六十四歳のおばあさんを道ばたにほうりだす。歯まで折って。こんなことを国民大多数の名でくりかえし、国家はますます繁栄する。国のなかだけ でなく、外でもおなじことをやってきた。
一方にだけ流れる時間のベルトコンベアをとめ、すぎた日のできごとに、まだあらわれない日のきざしをよみとり、世界でいちばんちいさなネジにも、ユートピ アのカギをみつけよう。だが、だれが? どうやって?


  わかちあえないかなしみ


ひさしぶりであった高史明は、自信にみちていた。祖先の物語などは、ひとことでしりぞけられた。親鸞は、父母のために念仏したことは一度もない、といっ た。いのちのすべてに念仏するのだ。
よむならあげる、といって、かれの本をくれた。ページをめくると、本のなかには、こんな風景があった。
神は、ひとのあばら骨をとり、ひとの助け手をつくった。
こんなことばが不意にうかぶ。人の骨が砕けるのをしって、あばら骨ということばがある。自分の骨が砕かれてはじめて、ひとの助け手となる。そうとも。そう だよ。
かれは、声にだしてみる。暗い天井。近くで、うめくような泣き声がする。
また、ことばがうかぶ。
自然に生きるなら、身近なものをたすけることができる。
親鸞のことば。だが、本にはその通りのことばはなかった。

本をひらいて、ことばにたすけをもとめるのはむだだ。ことばは背をむけている。つかまえても、すりぬけ、こぼれる。
ことばにたすけられるとき、それはむこうからやってくる。内側からわきだしたように、いつかそこにいることばにつかまれてしまう。

『歎異抄』も、こうしてかかれたにちがいない。親鸞は死んでひさしく、教団がコチコチの組織になったとき、ひとりの弟子の内側から、数十年前にきいた師の ことばがよみがえる。なつかしいおもいでではない。教団指導部をののしり、その原則を異端とする、たたかいのことばだ。
親鸞も論争の人だった。自分の息子も見すてた人だった。他人をののしった自分を罪ふかきものとする、おだやかなくいあらためではない。自分を罪ふかきもの とする分だけ、他人をののしり、ののしりたおすのだ。
このことばの力が、数十年後の弟子に『歎異抄』をかかせ、数百年後の百姓たちに、さむらいをおいだして、百年もつづいた百姓の国をつくらせた。

内側からわきあがったことばは、かれの目になった。親鸞がじっさいにはいわなかったことばを通して、親鸞が見られている。
ことばをよびさましたかなしみが、かれの見る世界を染める。かれのかなしみではない。世界のかなしみだ。
これは解放か?

高史明は、自分の息子をなくしてから、子をなくした親や自殺志願者のために生きているようなものだ。知らない人が、てがみ、電話、また直接あいにくる。自 分の生きる意味がみつからない。他人に自分の意味をみとめてもらえば、死なずにすむのではないか。こんなおもいが、人々をかれの方へおしやるのだろうか?
「私」は、いのちに生かされていることをわすれている、とかれはこたえる。
いのちのふかい海に、たよりない「私」の小舟がういている。だが、ほかの小舟はいないのか?海はくらく、なにもみえない。
『もうたくさんだ』というフィリピンのスライドがある(『水牛通信』5号)。子どもが死んでも、かんおけにする木もなく、窓板をはがさなければならない。 庭にうめて、花をささげ、家族と、あつまった村人たちが祈る。
このかなしみのときに、家族が日々のつとめをつづける力をください。われらすべてが真実と正義のためにはたらくべき、歴史のこのときに、仲間のだれも欠け ることのないように。
このようにわかちあえる死は、日本の社会に欠けている。死をわかちあえなくて、生がなんでわかちあえよう。ひとりで生き、ひとりで死ぬ。そのかなしみも、 ひとりでせおって。
ここから出発して、どこに解放の道があるだろう? 
高史明の息子のかきのこした詩。

  ぼくは
  うちゅう人だ
  また
  土のそこから
  じかんの
  ながれにそって
  ぼくを
  よぶこえがする
       (岡 真史)

これが祖先の声。とうに死んでしまった祖先でもあり、まだうまれてこない祖先でもある。道にさきだつひとの声だ。父母は、まだあらわれていない世界で子を まっている。
地獄の火にかこまれた、ほそい白い道。
だが、わかちあうことのできない希望は、希望をもつ人をおしつぶす。



編集後記

雑誌の二年目です。
今回の「屋号の話」、歌、絵は、三里塚にかかわるものです。絵は、昨年十月、反対同盟が東京で一週間街頭に立ったとき、野菜を売った袋のデザインです。
さまざまなかかわり方をゆるし、人々にひらかれているたたかいは、日本ではすくない。かかわりあいからあたらしいものが生まれるようなたたかいは、まれで す。三里塚がいつも危機のなかにありながら、十五年も人々をひきよせる力をもっているのも、そこに流れる自由な空気のせいでしょう。
見えない管理の壁にさえぎられ、街頭にでればテレビ怪獣のように不細工な機動隊がはしってくる。枠をはめられたところでたたかう人もいつか、枠にはまった やり方でうごいているだけの自分をみいだすのです。棒みたいにコチコチになれば、ポキンと折れるだけ、とうたったビアマンにならって、内側からも枠をはず し、風をいれたいもの。
あるかないかの、かすかな風を感じとる、ぬらした指先であれ。水のにおいをはるかにかぎあてる水牛の鼻先であれ。




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