ヒョナ」ヘィミナ

人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1984年6月号 通巻59号
        
入力 藤山敦子

どぶろくとコンピュータ  鎌田慧
「スター」日記(3)  坂本龍一
家族・友だち日々の糧  志沢小夜子
料理がすべて(3)  田川律
特別休暇  くぼたのぞみ
たのしみがない(3)  高橋悠治
行ったり来たり(3)  西山正啓
子供たち  柳生まち子
ブタ草雲にのる  竹内晶子
てがみ  桜庭章司
ぼくが作った本(3)  平野甲賀
わるいくせ(3)  八巻美恵
下手の横吹き笛日記(3)  西沢幸彦
友だちと呑めば本になる(3)  津野海太郎
二点カット  柳生弦一郎
編集後記



どぶろくとコンピュータ  鎌田慧

4月27日 大宮発十七時ちょうどの新幹線盛岡行き自由席は満員。それで指定車に入りこんで空いている席に坐っていると、発車まぎわに券の所有 者が出現してアウト。永年のカンからすると、この先坐れる可能性はまず、ない。さあて、と窓の外に眼を移すと、反対側のホームに列車が入っている。掲示板 に、十七時十分発盛岡行きとある。不思議だ。時刻表にはない列車である。そのためか、ガラ空き。坐りそこねた先発列車がホームを出るのがみえた。通路に ぎっしり立ち並んでいる。一方、十分遅れのこっちの方は、前の席をまわし、足を投げだすゼイタクさ。行き詰まったら横を視よ。そこにはあらたな可能性が待 機している。なあーんて、いい気分。

4月29日 上智大学に留学中のカナダ人と会う。GM(ゼネラル・モーター)で働いていた、というので大いなる関心を示したのだが、まだ初級日 本語ていど。意志を疎通するには、あと一年、彼の上達をまつ必要がありそうだ。再会を約して別れる。

4月30日 上野のビジネスホテルでオランダ人記者と会う。バスケット選手二人分の大男である。通訳はPARCの山鹿さん。
「日本の少数派運動に可能性ありやいなや」
「可能性は定かならざるも、それしきゃないのが、現実である」
などと話す。ズック製のバックに片手では持ちあがらないほどの資料を詰めこんで、彼は日本を去った。「取材は体力」の見本のような男だが、質問項目はよく 整理されていた。

5月3日 憲法記念日。神戸の市民運動の集会で彫刻家の金城実と対談。六〇すぎの老人の発言が多かった。「満州」に徴兵されていたという老人 が、「敗戦を予知した幹部たちは先に日本に帰っていた」と、いまなお口惜しそうに語った。聖戦など、ある訳ない。

5月7日 千葉地裁。「どぶろく裁判」第一回公判を傍聴。被告人は前田俊彦。「どぶろく」といえば「濁酒」よりも「密造」とくるのが中年ものの 連想で、それはたぶん新聞記事によって形成された深層心理である。ところが、三里塚住民・瓢鰻亭こと前田俊彦は、まったくの下戸にもかかわらず、国税庁が 禁じている「どぶろく」を製造し、公然と人を集めて「利き酒会」などをひらき、国家を挑発していまようやく、念願かなって裁判長とむかい会うことができた のである。その冒頭陳述はなかなか格調高く、造る自由を声高らかに主張して好演だった。一方、起訴状朗読のうら若き女性検事は、どぶろくはおろか清酒でさ え呑んだ気配なく、自分の役柄をどのように演じていいのか、いまだ釈然としない仏頂面。そもそも、自分で呑むものを自分でつくるのが御法度とは、酒会社と 酒屋の利益を保護し、その酷税(マージン)によって三菱や日産などの生産を助けようというものだから、どう考えても非は国家にある。いわば、どぶろくは、 平和の象徴である。まあ、いまはやりのコピー流にいえば、「どぶろくかミサイルか裁判」ともいえるんじゃないんでしょうか。裁判終って、地裁門前の教育会 館に三里塚反対同盟のひとなど集まって、とぶろくで乾盃した。

5月9日 長野県坂城(さかき)町。といっても知る人はすくないが、戸倉上山田温泉に隣り合った町。ここはいま、「テクノハート」と自称して、 日本のシリコン・バレーたらんとしている。本家のシリコン・バレーのアップル社は、ガレージから出発したサクセスストーリーの典型だが、こちらも鶏小屋や 納屋から輸出メーカーになり上った成功譚がゴロゴロ。大企業にむこうを張る意気は買うとはいえ、コンピュータや射出成型機を手づくりすると英雄となり、酒 をつくると縛につく。おなじ自前でも、労働者を絞るコンピュータはよく、労働者を喜ばす酒は悪い、というのが、大日本の国策なのであります。

5月12日 三鷹市の主婦たちの集会によばれる。愛知、千葉で完成された「管理教育」が、いまや東京にも現れた、との報告が多かった。「朝、あ いさつしましたか」「歯を磨きましたか」「ウンチしましたか」○をつけなさい。公教育は、寄ってたかって、従順な人間をつくっている。教師たちは抵抗せ ず、卒先実行。とにかく“きまり”が好きなのである。抵抗の魂は、三つ子のうちから摘み取られる。

5月13日 愛知の教師一人と千葉の教師二人を集めて座談会。愛知の教師は校長へのつけ届けに夢中になり、千葉の教師は校長から「バカ女」と罵 倒される。教師の世界がいじめ社会となり、人間の荒廃の見本市となったなら、批判的な子どもは暴れるしかない。締めつけられる一方の教師が、子どもを伸ば すことなど考えられる訳はない。もう三年も春闘ストはなく、ひとびとは出世と自分の生活を考えるだけで精一杯。ひとのことなど、構っていられない時代が、 豊かな時代とよばれるようになった。


「スター」日記(3)  坂本龍一


ワーッ、疲れた。今月は疲れた。ひどく疲れている……。

4月16日 音響でソロの録音。

4月17日、ホテル・ニューオータニで酒造メイカーのパーティ。音響でソロの録音。打合せ。

4月18日、音響でソロの録音。

4月19日、赤坂ざくろでCMの打合せ。NHKで「サン・スト」の録音。ゲスト、ミカドとデュルッティ・コラム。下北沢の本多劇場で「野獣降 臨」(夢の遊民社)を糸井氏と見る。

4月20日、ラフォーレのモッズでカット。音響でソロの録音。

4月21日、音響でソロの録音。

4月22日、家に居る。もちろんモドキと遊ぶ。なんて可愛い奴だ!

4月23日、音響、ソロ、録音。

4月24日、音響、CMの打合せ、ソロ、録音。

4月25日、音響、ソロ、録音。インタヴュー、「広告批評」の島森さんと。お酒を飲むと、すぐロレツが回らなくなる。物を忘れる。

4月26日、日比谷で「ノンノ」取材、十数年ぶりの日比谷公園。「ゴロー」取材、神田神保町、古本屋街。大学以来だ。僕の世界はなんて狭いんだ ろー。二、三百円の可愛い洋書も5冊買う。事務所で打合せ。AKKOのコンサートの事、パルコのアド・ウォールの件。

4月27、28日、音響、ソロ、録音。全部スタジオで考え、作曲し、演奏する。即興を積み重ねて曲にする。結果的には残らない無数の音がある。

4月29日、友達のスタイリストが電撃結婚した。パーティで挨拶。飯倉ラフォーレ・ミュジアムでモリサ・フェンリイのパフォーマンスを観る。楽 屋で挨拶。

4月30日、家でボーッ。

5月1日、音響、ソロ、録音。モリサがスタジオに来る。来年のパフォーマンスの為に音楽を作る事を頼まれる。即答できない。

5月2日、音響、AKKOのCMのアレンジ。

5月3日、池袋西部のGORO展でご挨拶。そういえば世の中連休。僕には関係ない。子供達は朝から江ノ島に行った。真赤な顔してる。5月1日で 美雨は4才になっている。僕が4才の時は? 憶えていない。

5月4日、音響、ソロ。ピテカントロプスにミカドを観に行く。

5月5、6日OFF。予感している事は現実化するし、感づいていることは素早くやらねば、と思う。

5月7日、音響、ソロ、録音。NHKで「サン・スト」の録音。月の初めはシブ・リクといって渋いリクエスト曲をかける。渋いとは、まあ他のプロ グラムであまりかからない曲だな。

5月8日、目黒のパイオニア・スタジオで「音楽夜話」の録音。AKKOの「オーエス・オーエス」の宣伝。銀座東急ホテル、朝日新聞のホット・ ヴォイス取材。「長電話」の宣伝。音響、ソロ、録音。ウーム、最近毎日日記を書かなくなった。気持ちが言葉にいかない時って、ある。

5月9日、パルコにロケハン。音響、ソロ、録音。ロビン・トムプソンがSAXを吹きに来る。浅田彰さんがスタジオに遊びに来る。共同通信、イン タヴュー。「長電話」の宣伝。芝の大門前の新亜飯店で「長電話」の打上げ。悠治さん、冬樹社、本々堂、編集の秋山氏、協力してくれた糸井氏、浅田氏等。二 次会でシリンに行く。午前二時頃まで雑談。

5月10日、NHK「サン・スト」録音。ゲスト高橋鮎生君。悠治さんの一番のライバル!? 有栖川スタジオのCMスチール撮り。浴衣を着てソー メンを食べさせられる。マイッタ!

5月11日、音響、ソロ、録音。ミカドのグレゴリーがドラムを叩きに来る。来週やるフランス国営放送の特番の収録の為のロケハン。グレゴリーは 一日かかって一曲を完全にできなかった。バカヤローッ、頼んだ僕が悪いのだ。フランス国営放送のクルーと会食。

5月12日、音響、ソロ、録音。尚美学園ホールでシムポジウム。悠治さん、三宅さんも一緒。性に合わない事を頼まれて、非常にアガってしまっ た。汗ばっかりかいた。悠治さんはカッコ良かった。落ち込むよ。

5月13日、ラフォーレのモッズでカット。明治神宮、フランス国営放送の特番の撮影、雨の中で。明治神宮の後、新橋駅へ。疲れが始まる。

5月14日、音響、ソロ。スタジオにカメラが入り録画。今週一週間はカメラがついて回る。10時までやってクタクタ。

5月15日、青山ヴィクターのカッティング・ルームで「オーエス・オーエス」のカッティング。音響、ソロ、録音。が、ほとんど録音にはならな い、もちろん撮影の為。今日、「長電話」の発売日。宣伝もやったし、それなりに売れてくれるダロー。

5月16日、朝6時、パルコの3m四方の壁に「長電話」の表紙、裏表紙を貼り始める。カメラマンの三浦憲治、デザイナーの奥村さん、本々堂の義 江さん、アシスタントの富永君等。途中、休んだり、AKKOの作った弁当を食べたりして、完成したのは12時過ぎ。雨が降り出した。1時間ぐらいのヴィデ オにするつもり。音響、ソロ、録音。が、録音にならない。疲れた。

5月17日、西麻布のシリンで撮影。インタヴュー。夜、パルコに壁を見に行く。雨で無残な姿。写真を撮っていたら、悠治さんに肩を叩かれる。三 宅さんも一緒に記念撮影、フフフ。


家族・友だち日々の糧  志沢小夜子

四月一七日 美恵さんと『ノスタルジア』を観た。雨だの霧だの温泉だのと次々と水、水、なので、終ってトイレにかけこんだ。その足で平野公子さ ん宅へ、この一週間自宅でいろんな服や陶器など展示即売。試着をしながら、公子さんの服は、何て私に似合うんだろうと自画自賛、でもホントに着心地よくて デブの私によく似合う。夜、甲賀さんが友人の中野さんという人と飲んでいるところへ参加させてもらって、結局夜中の二時、中野さんて面白かったネと美恵さ んと話す。

四月一八日 仕事で国民文化会議の山部芳秀さん、山住正巳さんと。そのあと『海盗り』の試写、親友の山川みづほ、清水能親氏と入口でバッタリ。 中でこれまた親友の中井由紀子、佐々木ゆう子さんと。映画の中ですごく面白い会話があったから、アッハハと笑うと後にいた高木仁三郎さんも笑った。私のと こだけ笑って、思わずみんながこっちを見る、笑いについてみんなどうしてこう臆病なんだろう。この日もまた飲んだ。一緒にいた画伯と呼ばれる貝原浩氏が、 子宮の話をしていたら地球ととり違えた。子宮は地球だ、ホントそうです。

四月一九日 仕事で高橋悠治氏宅へ。台所のプリマドンナ美恵さんは降ってきた雨をみつめ洗濯物のことを考えている。あれこれと鬼才に教えを乞う ているとたちまち昼、ついでに昼食をいただき、酒など飲んだら、職場に帰れなくなった。エーイ、半休だ!!

四月二一日 山川さんと妹の幸子と再び甲賀さんとこへ。晶文社の原さんと子息に会う。面白い子で、私笑いすぎ。夜、下北沢で映画『薩摩盲僧琵 琶』を、終って山川、清水、現代書館の村井、菊池両氏、貝原画伯、村岡小の名取氏などなど、飲んで、さわいで一二時過ぎ頃妹と家へ着くと、夫の岡がまだ起 きて将棋などしている。家で三人で宴会、すっかり盛り上り、あまりにはしゃいだので、ひさしぶりにはいた。

四月二四日 きょうは本当に忙しかった。朝職場へ出て、半休をとり池袋で所用をすませ、三時からのPTAの役員会というのに出て、学童クラブ、 保育園と二人の子どもをひろって、夕食の支度をして、六時半に新宿のモッサンへ。相手は来ていない、イライラ待っているとモッサンの昭ちゃんが、今月で モッサンは終りで、高島さんと新しい店開きます。ボトルはそっちへ持っていきますのでと、安心した。そこへ、私ね、恋をしていてスキップしている感じなの と、台風のように新井ひふみ嬢がやってきた。今月はこの私にインタビューが二つあって、この日はその一つ。もう一つは一六日にあった『私たちの就職手帳』 女子大生の就職ガイド誌、今日はひふみが編集バイトをしているものなんだって。私のように真面目な働く母、働く妻、働く女ってのは、あまりに真面目で取材 しにくいのではないかと思うが、どうだろう。この年になると、やさしくにこやかに未知の人と応対ができて、自己嫌悪の素を自分でふりまいている感じだ。 『手帳』の方はひふみが鬼の編集長で、取材には立教大の木戸さんがきた。見事に「女子大生」のイメージを体現したような人で、私は興味しんしん。どうして みんなそうなるの?大学の門をくぐった時は同じになりたくないと思うんだけど、同じにならないとだんだん不安になるの。うーんなるほど、一木一草天皇制と はよく言ったもんだ。ひふみとは結局、インタビューは早々にきりあげ、中国の話や、男や女の話など二人でしゃべりまくった時間は六時間余、ふと気がつくと 夜中の二時を回っていた。ひふみは今年早稲田を休学して国費の留学生として中国に二年行くんだって!

四月二五日 江崎さんに会う。通称グリコちゃん、彼女たち三人で作った本『女の子と男の子の本』出来たので見せてもらう。なかなか面白いので、 紹介できるとこでやってみよう。

四月二六日 仕事で林光さんと、渋谷のフランセ、たそがれていく渋谷の町をみていたらビールが飲みたくなった。光さんはNHK放送センターへ。

四月二七日 中井さんに同時代の原稿手渡す、元気のない私に輪をかけて元気がない、同居の戸田徹氏の具合がいま一つとのこと。

四月二八日 朝九時の新幹線で岡山へ出張、列車の中でよく寝られるよう昨日はあまり寝なかったら、座る席がない。身体の具合もよくないので、 エーイ、グリーン車で行ってやれと車掌室へ飛びこんだ。国労バッチの車掌さん、一人?と聞いてじゃと普通席へ、何と空いてる席があったのだ、幸運幸運。会 議が終って、駅前の高島屋で、きび団子、おかずなど買い四時半の東京行へ。ビール、ウィスキーを飲み、すっかり酔ってしまった。

四月三〇日 恐怖のGW、豊島園にスカイパイレーツというすごい海賊船が出来たとかで町内会が招待をうけた。乗り物三つタダって言ってもネー。

五月三日 晴れやかなメーデーを失礼したからずっと二九日から休んでいる。もう豊島園はやだと思ったが、行くとこないんだ。家族パスというのを 作ってルンルン。昼頃、浩太郎がいない、迷子のとこへ行ったり、探し回って四時、仕方なく岡を残して家へ帰る。胸が高なって不安がつのる。そこへ、あっお 母ちゃん帰ってたのー。事情を聞くと一人で乗り物を楽しみ自転車で友人のとこへ行ってたんだと。この五才の息子、ホントに世話かけるネー。


料理がすべて(3)  田川律


5月8日から19日まで、フィリピンに出かけた。ネグロス島のバコロドとルソン島のバギオまで、日程の割にはいそがしかった。

〈今月の外食〉
「ナントカ・ファクトリー」(ネグロス・パコロド)チキン照焼、生ガキ、バルート。総勢約二〇人。ぼくの食べ分、27ペソ(約四百四十五円) 「店名忘 却」(同前)ヤキメシ、豆と肉の煮たもの、豚のレバーとジャガイモのカレー煮。総勢15人。ぼくの分、23・5ペソ(三百八十七円)  「KAWAetc」(同前)魚のスープ、魚の甘酢あんかけ、エビ天、生エビのマリネ、小型のハルマキ、焼ソバ総勢30人の打上げ。およばれ。「ナントカ、 ファクトリー」(同前)チキン照焼、生カキ。総勢12人。ぼくの分、20ペソ(三百三十円)「シム・シム」(ルソン・マニラ)ポーク・カレー煮、ワンタン メン、カラマンシー・ジュース、総勢4人、ぼくの分29.9ペソ(四百九十五円)「店名忘却」(ルソン・バギオ)ベーコン・サンド、コーラ13.5ペソ (二百二十二円)「南国麵家」(ルソン・バギオ)牛肉ガユ、12ペソ(百六十八円)「マニラ空港レストラン」(ルソン・マニラ)イワクイガタイ・スパゲ ティ、鳥ソバ、コーヒー28ペソ(三百五十二円)
日程の割に外食が少いのは、およばれや、弁当の暮しが結構あったから。

〈今月のおよばれ〉
@バコロドでは、かつおぶし会社の社長の家へ日本人の男4人とペタの1人が泊らせてもらい毎朝豪華な食事。ベーコン、スクランブル・エッグ、焼魚、マン ゴーなどなど。当家の主人の話。工場はミンダナオのザンボアンガにあり、取引先は日本。毎年一、二度は焼津を中心に出かける。ただし、このところケズリ節 の需要はどんどん減る。「日本の若い人がカツオブシを食べなくなった
A5月9日の夕方から、バコロドから車で一時間モルシャー地区の砂糖きびのプランテーション、カルメン・ハシエンダを訪問。オルガナイザーたちの村落で夕 食と次の日の朝食をご馳走になるといっても、どちらも同じメニュー。魚の干物、豆の煮たもの、米。総勢15人。ハシもスプーンもいっさい使わずすべて手。 皿はひとり一枚。家は床の高い南方型の竹と木の作り。どの家も何もない、に等しく、組まれた木の壁から裏がすいて見えるほど。古いラジオが一台だけあっ た。年中温かいので布団の類もなく、暁け方誰もが寒くて目覚めた。
B5月17日、暑さにまいって訪れたルソン島の山中バギオで、組合運動や、選挙ボイコットのオルグをしている女性パエラ・ヴィザーさんの家で夕食をご馳走 になる。カニとコーンのスープ、自家製ソーセージ、魚の甘酢アンカケ、マンゴー、米。

〈今月の発見〉
日本で野菜や肉類の味が“なくなり”つつあると思っていたがフィリピンでその事はいっそうはっきりした。かなり食べたトリについていえば、明らかに日本の トリはブロイラーで、ブヨブヨに肥り、味がない。野菜の多くも、温室で季節に無縁に作られ、勾いも味も変質してしまっている。フィリピンでは、社長の家の 庭にも、砂糖キビ畑の労働者の家のまわりにも、等しくニワトリが放し飼いにされ、ヒヨコ、ヒナ、成鳥と各段階のニワトリがいた。そんなことは“あたり前田 のクラッカー”なのだが、日本ではもうめったに見られない――北海道中川郡のはずれでも出会えなかった。

〈今月の不思議〉
@バルート。考えようによっては実に不気味なゆで卵。つまり、ふ化寸前の卵をゆでてある。くちばしや軟骨がある。味は当然トリの味。生卵が普通1コ7ペソ であるのに、これは約三倍の値段。
Aコーヒー。フィリピンでコーヒーといえば、ほとんどインスタント。それもインスタントで出してあるのでなく、注文するとカップに白湯が入って出て来て、 それにコーヒー、ミルク、砂糖などが袋に入ったものがついて来る。普通は3〜3・5ペソ(約五〇円)。空港のロビーでは、それが倍もした! もっともコー ヒーの木がないわけでなく、バコロドや、バギオではそれをネイティブ・コーヒーと呼ぶ。先出のバギオのパエラさんの家の裏にも数本のコーヒーの木があり、 そこからとれた実を集めて選別していた。

〈今月の弁当〉
5月11日〜13日まではバコロドの大学の構内でワークショップをやっていたので、昼、夕食共に支給された。もっとも弁当といっても、ご飯をビニール袋に 入れたもの、とおかず(日によって、野菜のごった煮、豆とポークの煮たもの、煮魚、とそれぞれ違ったが)をこれまたビニール袋に入れたものを各1コ受け取 り、皿一枚、スプーン、フォークで食べる。一度だけ、鶏ガラと野菜を煮たものがひと鍋来たことがあって、豪華!と驚いた。

〈今月の市場〉
フィリピンの市場の野菜類は、日本と共通するものが多い。キャベツ、白菜、ジャガイモ、ナス、トマト、タマネギ、ショウガ(これが少し高い)、ニンニク。 それに多くの果物。マンゴーを中心に、生のナツメ、パパイヤ、バナナ(もちろん、日本で見る今の発育過多の日本人みたいなバナナでないヤツ)、パイナップ ル、カラマンシー(四国のスダチに似た酸っぱく青い果実)。魚はほとんど干物。イワシ、アジのほか丸い葉っぱに似た魚など。総じて塩が強い。肉はほとんど 売ってない。トリも珍しい。



特別休暇――東大病院産婦人科病棟入院日記  くぼたのぞみ

2月8日 下腹が張り肩がこる。オカシイと感じてひと月。重い心で東大病院の婦人科を訪れる。以前近くに住んでいて、安さにひかれて二度ほどこ こでお産をしていたからである。卵巣嚢腫と診断される。要手術。うわあ、大変だあー、でもキラッと一筋ひかる気分。3人の未就学児を抱えた半幽閉生活から 一時開放され、しかも悲劇のヒロイン(!?)になる大義名分がたつかもしれない、などと不謹慎なことを考えているのだ。
外来で偶然診てくれた医師が、私と同世代で、“安田講堂”から15年ですかあ、なんて話が進むにつれ、共通の知人の名前さえとび出し、遠慮、気後れの壁が 一気に吹き飛んだのは好運だった。何でも質問、何でも注文、という態度で最後まで貫き通せたのは、この医師との出逢いがきっかけだったと思えるからだ。
でもやはり心配で、書店の医学書コーナーへ直行。「女の立場から医療を問う」(中村智子著)など買いこむ。生憎、子宮筋腫がメインテーマで卵巣嚢腫はあま り登場しない。富士見病院問題にも触れ、東大の態度が批判されている。一層不安がつのる。
とにかく大学病院という所は、患者をモノみたいに扱うので覚悟が必要だ。第一に、研究対象なのだから。モノと言えば、例の内診用の診察台。うす汚れた(目 が汚してしまうのだ)カーテンで身体をまっぷたつに切断される厩舎まがいの囲いの中で、しきりに藤本和子さんの「砂漠の教室」のくだりが頭に浮かぶ。アイ ツら何をするのかわからないゾ。ゴム手袋と闇の世界。
不要なモノは取ってあげます式の手術は自粛しているのか、こちらが問う前に「健康な組織は極力残すようにします。」とその同世代医師が言うので、手術する ことにしたが、執刀するのは別の医師と聞く。「責任あるちゃんとした医師がやりますから」と言われても、顔さえ知らない人間にどうやって信頼をよせること ができるだろう。密室性の高い制度そのものが信用できないのに「心配いりません」と言われても不安は消えるわけがない。思いあまって、前者に出てくる賛育 会病院の女医を訪ね、第二の意見を求めたりもしたのだ。

2月24日 入院。慌しく検査。診察。病棟内の診察台のカーテンの向うで、名も顔も知らぬ医師たちによる診察。一言の自己紹介があるわけでもな い。人と人との付き合いの最低限の礼儀の欠如。ムカッとする。後で病室にやって来て、担当医ですと名告った時、「あっ、先程は下半身からのお付き合い で……」と皮肉まじりに言ったことばの真意が伝わったかどうか。担当医と言っても患者一人に三人の医師がつく。34才、30才、25才くらいのコンビで、 執刀にはさらに教授、助教授格の医師が加わり指揮をとっていた。(これも説明があるわけではない。実際、手術前日のオペ診まで執刀医は決まらなかった。)
続く土、日曜は全くすることがない。散歩がてら赤門前の本屋でマンガを買って読む。差し入れのレゲエのテープを聴く。(何だか場にそぐわない。)文字通り の特別休暇である。病室は四人部屋で、私以外は術後の人ばかり。いろいろ情報をし入れる。(これは意外と貴重で役に立つことが多い。)

2月28日 いよいよ手術。前日から食事量の激減と下剤でフラフラする身体に注射一本うたれて、意識もうすぼんやりしているうちに手術台の上 だ。前夜説明にやってきた麻酔医に、喉に管を入れるのはイヤ、悪夢をみる薬はイヤと、さんざん注文をつけた結果、ほぼ注文どおりの処置になる。でも背中に 針が入らなくて何度もやり直しているうちに、ぞろぞろと一見して学生とわかる一群が見学に入ってきた光景は奇妙に良く憶えている。
凍った鉛の湖を下腹にかかえて目が醒めてからは全て他人まかせの身体だ。この職場20余年というヌシのような付添いのおばさん。結局、卵巣嚢腫ではなく偽 嚢胞とかいうモノで卵巣その他に異常はなく、メデタシメデタシとゆきたい所だが、何故そんなものができたか、再発するのか、全然ワカラナイ。体から管をぶ ら下げて、痛みと熱でうなりながら数日、寝返りをうつ。術後5日で半抜糸、7日で抜糸と幸い順調に恢復に向った。

3月10日 雪のなかを退院。

《回想場面、その1》
病棟医長回診。ぞろぞろと白衣の群れ。私の傷を指差し、何だこれは? こんな上等な糸をここに使うのはもったいない! 縫合した医師は赤面。その頭を先輩 格の医師が、それみたことかとこづく。患者さんの前ですよ、とどこからか声。説明にとり繕う医長。苦笑。

《回想場面、その2》
同じく病棟医長回診。四人部屋に独り。空のベッドを眺め、やおら私に向って、退院したら近所の人に東大病院に来るよう言って下さい。真顔である。あっ気に 取られた医師群に向い、何ごともコマーシャルですからね。シーン。シラケタ雰囲気が流れると、患者の症状も聴かずに皆行ってしまった。残された身はさらに シラケル。





たのしみがない(3)  高橋悠治


4月17日 美恵と別れるゆめ。ののしりあったすえ、あんたなんかひとりでうちさがしもできないんでしょう、といわれる。夜はひとりで酒。

4月18日 美恵が津野海太郎をつれてかえってきた。また酒。

4月19日 朝、志沢小夜子がきて打ち合せ。昼にはのみだして気がつくとねていた。

4月22日 アート・アンサンブル・オブ・シカゴのコンサート。当日券は二階の最後列。前半はねてしまった。

4月26日 マリー・シェイファーの映画と講演。音風景とは自然との調和というより、自分の設計した音で自然をみたしたい、というようにきこえ る。夜通しの儀式を作曲したはなしで、きき手がつかれてくるのにつけこんで操作できるからドラッグとおなじだ、というのであきれる。

5月1日 朝、葉弥が仮病。家庭科でつくるみそ汁にねぎがはいるので、試食のときにたべられないのだが、そういえないから休む、という。先週か らの計画だったらしい。頭痛といっているのを、どなりつけて追いだすと、元気にあるいていった。

5月3日 窪田さんによばれて、韓国政治犯のつくった歌の訳詩とコードをつけて、夕ごはんをたべさせてもらう。その近所のプランBで、夜はピア ノ演奏。有料入場者が53人いたので、入場料から経費をひいたのこりを主催者と折半。(58400−19500)/2=19450円
三宅榛名の変奏曲の変奏曲を即興しようとして失敗し、帰り道に作者におこられる。

5月4日 榛名にでんわしたら、ちょうど〈長電話〉で話題にされたところをよんでいて、いつものことだがけんきょさがたりないね、といわれる。

5月6日 買ったばかりのシンセサイザーを練習につかってみたが、ぜんぜん気にいらない。買う前は毎日カタログを朝から晩までながめくらした が、買ったらたちまち熱がさめた。生活費がたりなくなった。

5月7日 ブーレーズの「エクラ・ミュルティプル」の練習4時間。指揮は指で合図をおくるのに、だす指の数をまちかえてしまう。つかれた。

5月9日 ブーレーズの練習のあと〈長電話〉出版記念会食。浅田彰と糸井重里にはじめてあった。

5月11日 ヴァリオ・ホールのこけら落しでブーレーズの「エクラ・ミュルティプル」を指揮する。はじまってすぐ、あわなくなって中断し、やり なおし。お客は音楽ジャーナリストなど約二百人。

5月12日 おなじホールで演奏つきシンポジウム。諸井誠、船山隆、三宅榛名、坂本龍一、矢野賜と。討論は、いつものことだが、それぞれかって にしゃべって終る。演奏は榛名と、二人の曲に坂本龍一の二曲。シンセサイザーで失敗したので、トイピアノとハルモニウムにもどる。ピアノ一台を中心に補助 楽器を二人でつかうかたちをためしてみる。ピアノを立ったままでひくスタイルを考える。榛名の「鉄道唱歌ビッグ変奏曲」を近くから見たのが、いちばんおも しろかった。足で拍子からはずれたリズムをとりながら、この汽車はどこまでも脱線してゆくのだった。

5月13日 横浜こども科学館でクセナキスのUPICシステムを見る。波形やエンベロープを磁気ボールペンで入力したあと、できた波の一部を切 りとってアコーディオンのように圧縮してまうやりかたで、あたらしい音色をつくっている。パリにもどってくれば、しごとはいくらでもあるのに、とコーネリ アにいわれる。

5月14日 ジァンジァンで〈現代音楽は私〉。西沢幸彦がゲストだし、水牛関係者が一列とっている。満員。立見客多数。短い曲のメドレー。この 何日かで数曲つくったはずだ。それぞれにおかしな方向をむいている。バスフルートとヤンチンが意外とピアノにあっている。榛名のこういう曲をきいている と、だんだん自分で作曲する気がなくなってくる。必要がないみたいだ。

5月16日 坂本龍一をスタジオにたずねる。キカイにかこまれたスタジオ生活。フェアライトの説明をしてもらう。CRTを見ているうちに目がい たくなる。エンベロープの速度がキーボードの音域と連動しているのがよくない。低い音はのろのろ、高い音はあっという間。サンプリングの一部を切りとって くりかえすことで持続性をもたせるやりかたは、クセナキスがUPIC以前に確率波から規則性をつくりだすのにつかっていた。フェアライトではなぜか、これ がトレモロ風の不連続音になってしまう。現実音をディジタルで再構成したり、変形するメカニズムはなかなかいい。坂本龍一は、音色にいちばん興味がある、 といっていた。キカイを操作しながら音色をつくりだすスタジオ飛行のパイロットか。


行ったり来たり(3)  西山正啓

四月十五日 早朝、つれあいがインドネシアへ写 真取材に出かける。二月のパラオ行につづいて今回も又、しばらくは主夫業に専念せねばならぬ。朝八時に起床、わが息子の為に食事づくり。そして、九時には 保育園へ。夕方五時半には迎えに行かなければならないので日中の動き方には神経を使う。最近はようやく逆の立場。つまり不自由さが解ってきた。それにして も今年は、これまで我輩ばかりが東南アジアに出かけていた分をまとめて返して貰っているようだ。まあしっかり頑張って下さい。

四月二十五日 近所に住んでいる八王子中央診療所所長の山田真さんの長女で小学五年生になったばかりの涼の遠足に同行する。涼は半身マヒの女の子で、世の 中的には「障害」児と呼ばれるが、地域の小学校に通っている。涼と私のつき合いは、彼女が三才になったばかりの頃だから、もうかれこれ八年になる。共同保 育所「にんじん」は涼のためにつくられたといってもいい。そして、周囲の大人や子供の関わりも彼女の存在を抜きに語れない。鉄棒の手摺りを使って歩く練習 をしていた頃が妙に懐しいが、共同保育をする中で、「健常」児と追っかけたり追っかけられたりする内、彼女はいつの間にか自力で歩き始めた。「障害」児に は特別の訓練を、と行政は“教育”の名を借りて、「養護学校義務制」を施行したが、遊んだり、食べたり、勉強したりする生活そのものが訓練になるのだとい う事を私は涼から学んだ。今日、彼女の遠足に同行したのは、親が介護しなければ遠足にも行かせられないという学校側の都合に依る。車を運転出来る、母親の 小児科医・梅村浄さんが同行出来ない故、私がボランティアを買って出た訳だ。しかし、なぜ親の手を借りずに、クラスの仲間や、先生たちの手で一緒に彼女を 連れて行けないのかと思う。何か事故が起ったら責任が持てないからとの理由で、プールにも入れぬ、運動会や遠足にも参加出来ぬと言う状況に普通学級の「障 害」児は現在ある。学校っていったい何だろう。

四月二十七日 新座市教育委員会に息子と共に出向く。中学校入学を控えた普通学級に通う「障害」児が、親に知らされることもなく一方的に「養護学校」へ措 置された“事件”をめぐって、「よろず屋」の構成メンバー十数人が、真相を確かめるため教委に押しかけたのに合流する。教委側は措置した校長との連絡ミス を主張。つまり、教委は「障害」児を「養護学校」へ行かせるよう指導はしていない。責任は校長にある――なのだ。同席したあるひとりの母親は“子供の就学 通知が来ないので教委に電話したら、取りに来ればあげますよと簡単に言われた。子供に「障害」があるから通知が来ないのか、国籍が違うから来ないのか、い ろいろ悩んだ。そんな親の気持を教委はいったいどう考えてるんですか。”と、教育長に切々と訴えていた。その間、わが息子はふたりを仕切るテーブルの上で 寝そべっていた。今年は彼の「就学時健診」の年でもある。親の意志は勿論、“拒否”。帰宅したら、つれあいがインドネシアの旅から帰っていた。お疲れさ ん。

四月三十日 再生不良性貧血症で六才半の命を断たれた女の子の八ミリフィルムを毛利蔵人氏と一緒に観る。やはり辛い。毛利さんの弾くピアノ曲に覆われた美 しい“鎮魂”のフィルムにして両親に捧げようと決心した。

四月二十九日 絵本原画展が成功したからという訳ではないが、「にんじん」共同保育所・文庫が十部屋もある一軒屋に引越をする。これ迄は、たった三部屋の 中に十数人の大人と子供がワイワイしていたのだから夢のようだ。とは言え、経済的運営には相変らずの厳しさがつきまとう。

五月二日 三鷹たべもの村“村の教室”の企画会議。たべもの村はその名の通り“食べ物”のことや反原発、環境問題に取組む女の人たちが、自前の場を持ちた いとして創った、いわば、“食堂・喫茶・居酒屋”。“村の教室”は隔週土曜日の夜に開かれ、スライドあり、映画あり、レポートあり、とに角、酒を飲みなが ら賑やかにやっています。

五月三日 幼な友達が我家に来る。夜、彼から寿司をおごって貰い家族三人は大喜び。飢えていたんだねえ……

五月十日 キャメラマンの一之瀬正史と、いま撮りたい記録映画の構想について話す。テーマは「学校・地域・子供たち」。鎌田さんが著書「教育工場の子供た ち」の中で述べられているように、いまの学校はおしなべて“工場施設”化している。ここら辺りを映像でルポしたいと思っている。

五月十三日 志木市民会館で灰谷健次郎講演会。主催は実行委方式だが、実費は“よろず屋”に集う連中が中心になっている。我輩はビデオ記録班。つれあいが 写真記録。夫婦そろって新座の人たちの営みに関わっていることになる。夜、灰谷さんとの交流会を終えた後、皆で撮ったビデオを再生してみる。メンバーの各 々が登場する度に拍手、ひやかしの大歓声に包まれる。ビデオは撮影現場に現像所がくっついているようなもの、こうしてすぐ再生して見れるのがなんともい い。最近になってようやくビデオの生かし方が解ってきたような気がする。そうそう講演会場は通路に座り込んだ人、立見まで含めて千人。灰谷さんの人気を改 めて実感。皆よく頑張ったね――。


子供たち  柳生まち子


雨の日、黄色い買物カゴをさげて出かけて、気がついた。あ、全身黄色づくめになってしまった。

小学校が近いので、家の回りは下校時には子供たちが道いっぱいになる。道で行き会う子供たちは、子供だからと思うから遠慮なくじろじろ見させて もらう。くりくりしたおしりにジーンズの小さな半ズボンなんかはいて、茶色のよく焼けたすらりとした足の子などみかけると、あんまりきれいな足なのですっ かり見とれてしまいながら、だいじょうぶかなあ、あんなきれいな足をあんなに出してと、ほんとによけいな心配をしてしまう。

ところで子供たちの方は、道で会うどんな大人たちを気にするのかな?

小学校の裏の道で、高学年の三人組が、なんかぐにゅぐにゅニタニタ歩いて来るのに会った。すれ違ったとたん、聞こえた。

「ははは……黄色いカサに黄色いレインコートに黄色い長グツ!」

ほら、子供の方だって負けてはいない。


ブタ草雲にのる  竹内晶子


きょう、のんちゃんと遊んだ。夕方、山下公園に行って、円盤みたいなベンチの上をとんだりはねたりした。そばで、ピラピラのスカートの女の子たちと皮ジャ ンギンギンの男の子たちが、「君はファンキーモンキーベイビー♪♪・・・」に乗って腰をふりふりさせていた。久し振りにああいうのを見たね、とのんちゃん と二人で見つめていた。でも、原宿なんかと違うのは、あの子たちの向こう側が海だということ。昼間はいろんなものがプカプカ浮いてて変な海だけど、夕暮れ は違う。ロックなリズムに浮かれながら、あたしとのんちゃんは、あの子たちと一緒に海に溶け込んでしまいたい気分になった。ところが現実は厳しい。私たち 二人が何となくそばを通りかかると、「おばん」という鋭い視線が私たちに注がれたのを私は見逃さなかった。

もう遅いので『氷川丸』もおしまいで入れなかった。せっかくセーラーカラーのシャツに赤い靴で、水兵さんを気取ろうと思ってきたのになあ。残 念。それにしても、去年の四月のはじめにみんなで鎌倉の海でパシャパシャしたときより、今日の山下公園の海は冷たそうだったなあ。今年は寒いや。

あっちこっちのベンチに寄りそう若いカップルのところへ駆けよっていって、「すいません、週刊女性ですけど、あなたたち今、どんな気分?幸 せ?」なんてインタビューしたらおもしろいだろうね……と言ったりしながら、ヘラヘラこんにゃく歩きの私たちだった。出店のとうもろこし・四百円を食べな がら、元町の方に向かって歩いた。途中で新品の歩道橋らしきものを見つけたので、夢中で駆け上がった。石とかレンガとかでできていて素敵なんだ。手すりか ら足を外側につき出してブラブラさせながら、遠くに行っちゃった恋人の話とかした。ちょっと寒かった。下を見ると公園があった。こんなところで野外劇とか やりたいねーなんて。のんちゃんは、あたしの10倍くらいの時間をかけてとうもろこしを食べた。

横浜は疲れているときに、とてもやさしくて静かな都会だと私は思っています。

昔のんちゃんと一緒に芝居をやったとき、蛍光色のピンクやきみどりのポスターをぶらさげて、地下鉄の中や原宿の歩行者天国をのし歩いた――上野 の花見客に混じって、虫の浮いた紙コップのぬるいビールを飲みほし、『DOLLになって踊っちゃった――あの時も、あの時もあたしたちは溶けそうだった。

それから、如月のおばさんちで酋長ごっごをした時、楽しかったなあ。顔中化粧して、頭や首に羽根や真珠をつけて、極めつけ、ケンタッキーフライ ドチキンの食べ残しの骨を鼻の下にのせたり口につっかえ棒をしたり……あたしたちは、夜通しのーてんきだった。

のんちゃんは、インコの目や大川栄策のマネがうまい。あっ、私の郵便局マークを見せてあげるのを忘れちゃったよ。

今度の私のやるお芝居は仮面劇です。別に木馬座でもサーカスでもないんだけれど、みんなお面をかぶってお芝居することになっているんだ。普通役 者さんは顔を出したままで、にらみつけたり笑ったり泣いたりして熱演するけれど、私たちのはちょっと違う。顔はスッポリお面で包まれてしまうから、私がい くらにらんでもお客さんはちっとも恐がらないし、どんなにたくさん涙を流しても誰も気づかないね。目立ち屋で『お顔■命』の私は、ちょっと寂しいんだ。

でも、もしかしたら、今日のんちゃんとあたしがお面をつけていたら、山下公園であの子たちと一緒に君はファンキーモンキーベイビーって踊れたか もしれない。そうしたら、海ももっと暖かかったかもしれない。この頃あたしのお顔はどんどんあたしに反抗的になってきた。このままだと全身がうそつき病に 犯されてしまう。イ・ヤ・ダ。

お面をつけた私が舞台で舞う。すると、いろんなお客さんがあたしのお面にいろんな顔を描いてくれる…といいな。そのいろんなお顔が舞台の上にこ ろがったりぶらさがったりはりついたりしていて、そのまわりを、溶け出したあたしが光になったり音になったりして駆けめぐるでしょ。じっとしていられなく なったお客さんたちもみんな人のお面に顔かいたり、洋服の裾ちぎっちゃったり髪の毛剃ったり、動物になったりジェット機になったり、ほら大地震が起こるか もしれない。私はそんなお祭りみたいな大災害の中でなら、地割れに落ちてはさまれて死んでも恐くないかもしれない……などど思えたりもします。

今日も、赤い靴をはいたブタ草は、異人さんに連れて行かれはしなかったけれども、のんちゃんの雲にのってしばし夢をみました。きっと明日の目覚 めは最高でしょう。そして“おはよう”とあなたに駆け寄る私は、また一つ若がえっているかもしれません。


てがみ  桜庭章司


前略お許しください。
大変に長い間御無沙汰致しました。「水牛通信」の毎号の贈呈、有難うございます。毎度礼状を怠けていることを何卒お赦し下さい。申しわけございません。

四月号は5月1日に戴きました。「水牛通信」の売れ行きもよいとのこと、お慶び申し上げます。

昨年12月号の古屋能子さんの追悼特集はすばらしい読物でした。同じ人間でありながら、古屋さんと自分はどうしてこのように大違いなのかと、僅 か九才早生まれの古屋さんについて考え込みました。僭越ですが、私も御冥福を祈っております。

11月号のカラワン特集も興味ある号でした。タイ人の民族性が匂い立ってくるような感じでした。八巻さんの同号の中の「カラワン楽団の日本日 記」は印象深いものでしたが、八巻さんが20年ほど前迄松本市にお暮らしだったと知り、なつかしい想いに包まれました。八巻さんもあの白っぽい夏の高原の 町の風景を眺めた体験がおありなのですね。私は松本生れで、敗戦の6日前から四年間余、16才より20才迄、松本で過しております。その後、26才から3 年間、一九五五年より五八年迄、やはり松本市に合計一年近く暮らしております。一九七六年2月初め、18年ぶりに松本市を訪れて、あまりの変貌ぶりにとて も驚きました。あれから、もう8年以上です。初めて「水牛通信」を郵送して戴いていからあと2ヵ月ほどで4年となります。当時、新聞ニュースだったOAも 「OA職業病」が言われ始めて久しくなります。社会は光速より速く変っているのでしょうか。

昨年の「水牛通信」で深い感銘を受けた藤本和子さんの御本「塩を食う女たち」を一週間前よりくり返しくり返し拝読しております。QC(救援連絡 センター)の田中美恵子さんが差し入れて下さったのですが、それまでは、藤本さんがこのようなすぐれた作家、というより、叙事詩人であるとは知りませんで した。葬儀社のオービー夫人の章は幾度読み返しても新鮮な印象を受けます。そして他の章からは、人間について多くの事実を教えられております。 10−30、82の初版で、私が戴いたのは、7−10、83の第三刷ですから、やはり、読者は正直だということでしょうか。

最近、改めて「文は人なり」を思い知らされております。そして、環境こそ、その「人」を作るということも。丁度、四年前に府中刊八王子拘置支所 から、東拘へ移されたのですが、八拘が屠殺場に思われるほど東拘は人道的処遇でした。東拘での3年6ヵ月余の間、筆読に徹夜して、白み始めてくる空を眺め て何かしら得体の知れない感動に包まれた体験は珍らしくありませんでしたが、やはり益々非人道化しつつある法務省の行刑方針のため、七転八倒して苦しみま した。そのため、時には、読み返しますと、恥ずかしさで下痢が生じるような文章の手紙を書いております。確か八巻さん宛にも一通そんな手紙を差し上げてお ります。

昨年10月31日、府中刑拘置区に移されましたが、私が東拘で苦しんだのは、心がけが悪かった(?)からだとわかりました。私は愚かにも、にほ ん国であるのに、人間的な被告人生活を求めておりました。それでは苦しむ筈です。5月7日付朝日新聞の夕刊(P.3)は、アメリカは連邦法で刑事被告人の 食事衣服費用の一人一日当りは$36.66と報じております。$1=¥230として、8433円で、これはわが国の七百円以下の12倍以上です。これで は、にほんは経済・文化超大国とは言えないような気がします。しかし、法務省の一見、生来性犯罪人学説を信じているような行刑、即ち囚人獄殺(獄殺と申し ましても、未必の故意的な間接的緩慢病死化ですが)処遇行刑は、現在の如き多様化した価値観の下では非難され難く、国家経済則上、極めてすぐれた政策のよ うです。

府中刑拘置区に住んでおりますと、東拘が天国のように思えてなりません。自分の現金な性格に少し呆れております。実は、本年一月号か二月号の 「水牛通信」で、意見や思想の表明ではなく、体験の叙述の原稿なり「水牛通信」に載せて戴けることもあると知り、当所の体験を日記風にまとめようと試みた ことがあります。一ヵ月ほど努力したでしょうか。結局、著述不能の環境を、その環境の中で著わすことの不可能であることを確認したに終りました。こういう 当り前にさえ迂闊になるのは環境以外、私が受けたCL(チングレトクトミー)の脱落症にも原因があるようです。肝心の本人の自覚がこのような有様ですか ら、私の一見達者な口頭による自己表現に接している看守達には、CL脱落症など空想もできないのは無理ないと思います。

CLされますと、文字にて表現するのは、甚だしい重労働となりますが、正しくは「CLされると、劣悪環境による文字書き能力の喪失が急速にな る」というべきかも知れません。四年前の私は、今よりもかなり立派な文字を書いておりますから。ただ、何事にも、CL前のような行動力が消えたことは体臭 の消失と併せて、CL直後からの特徴です。

当所は私の終の棲家と決まりましたが、この廃人化処遇の中で、私が得た最大の体験は(自分はこれ迄二回も入所し《今回で三回目》、今日迄、既決 合計4年9ヵ月、未決計7年弱で、12年近い獄中生活を体験しているわけですが)法務省の役人は上から下まで、無責任を極めており、自己の利益を前にして は、囚人は全く人間と看做さないという自明の事実です。生きて行く上でこの種の事実認識は大きなマイナスであることもわかりました。もっとも私の精神が弱 いからであり、藤本さんが紹介していらっしゃる黒人女性のような勁い精神でしたら、話は全く違うと思います。弱い精神とは、本状を書いていても、ひっきり なしに音を立てて行われる、好意の全く見られない監視によって、気が散り、何を書こうとしているのか、頭が混乱してしまうというようなことです。又、現実 を直視せず、法文や法の理念、又は建前を前面に出して、官の違法性を非難するということも「非男性的」と表現できるかも知れません。事実は、単に私は疲れ 切っているだけなのでしょうが。

しかし、府中刑の獄中者を、便宜上物体的に扱うという体質は是非廃止させたいのです。こういう非人間的処遇では、被告人も既決囚も社会復帰能力 を益々低めて行きます。この点のみはCLされて脆弱化した私の頭でも明確に確信しております。日々、接している看守達にうとまれ易い発言をするということ は、耐え難い苦痛ですが、これは、今、私が発言していないと、この廃人処遇を正常であると看守自身信じ込んでしまい、累犯者養成は止どまるところを知らな いことになると思われます。

自由刑の唯一の目的は、社会防衛のみに限るべきだとの見解が世界的な定説ですが、にほん国はその逆を歩いています。囚人の更正を真に求めるの は、社会経済則上不利益であるとの考えから、一見、生来性犯罪人説、いわゆる犯罪者に生れつき遺伝学的に決定しており、更正はあり得ないという妄想です が、を信じている態度をとっているのが、法務省です。私の短期を含めて10ヵ所近い施設の体験から、看守の労働量が大きいほど、処遇は劣悪となっておりま す。当所の看守は極めて忙がしく、担当を例にとれば、東拘の5、6倍の労働量です。瑣末極まる規格を絶対命令の形で汚ない野犬を罵る態度で、行うというの は、看守自身人間扱いされていないためでもあります。府中刑は特に被収容者の反社会性(このことばの意味を理解できる看守は当所にはいないようです)を高 めておりますが、こういうことが、裁判所で犯罪と認定されない限り、事態は解決しません。そして、現状の反動的な首都圏の裁判官では、絶望的です。

申しわけございません。二日がかりとなり、今日は5月12日です。土曜日で、午前中でしめ切られますので、大変な乱筆となりました。実に下らぬ 事柄を長々と乱筆にて書き、情けないことですが、このまま郵送致します。

乱筆、重ねてお詫び申し上げます。
皆様の御健康を祈っております。僭越、許してください。

敬具   


ぼくが作った本(3)  平の甲賀


連休になる前に、さっさと仕事をかたずけて旅に出ようなどとは甘い考えだった。ちょっとのどがイガラっぽいなとおもったら、休みにはいるやいなや爆発し た。熱が出た。おまけにぎっくり腰が再発して、四つんばいで、ゲボゲホやっている図は、もはやこれまでと思わせた。

●小日本主義。石橋湛山外交論集、増田弘編、草思社。巻頭の論文の日付は大正二年五月で、当然ながら、「我輩は……」であり、巻末の論文は昭和 四二年なので「私は……」となる、つまらないところで感心してやがると思うけど漢文調の初期の論文のほうが迫力もあるし国語の勉強にもなる。カバーデザイ ンはちょいと迫力不足だが。

●ともだちは海のにおい。工藤直子、長新太絵、理論社。先月も書いた理論社のシリーズの一冊、詩人の工藤さんによる、「くじらといるかの、ある 日あるとき」の記であり、たいくつすると「心がゆるんで」きて、「戸じまりを忘れて、ドアが、ばたんばたんゆれる」そうだ。最近の長さんの仕事はやや雰囲 気がかわった。沈みこんでいる。低調だというのではない、沈みこんでなにやら静かである。

●北条早雲のすべて。杉山博編、新人物往来社。早雲という人知ってますか、戦国時代はこの人から始まったんですよ、と編集者がおしえてくれた。 小田原城は早雲の城だったんですよ。小田急沿線に住んでいてそのくらいのこと知らなくちゃ、だけど彼の生涯は実に謎にみちているのだなあ……。というわけ でなんにも知らないデザイナーがカバーをデザインするのです。

●カウラの突撃ラッパ、零戦パイロットはなぜ死んだか。中野不二男、文藝春秋社。編集者氏によると戦争を知らない世代の戦記ものだそうで、なぜ 死ななければならなかったか、そこが理解できないというとこから書かれたもので……。オーストラリアのとある海岸に不時着してしまった零戦のパイロット が、ずっと内陸のカウラ収容所にいれられて、なぜか突撃ラッパを吹きながら大脱走、なんの計画も持たないこれは集団自決、オーストラリアの文献では、勇敢 なサムライの死だなんてもてはやされているそうで、どうにも疑問である。そんな気分がデザインにも影響していまいち冴えない。

●大コラム。書下ろし一〇〇人一〇〇〇枚、これだけ面白い人が集まると、やっぱり面白い、と思った。小説新潮臨時増刊’84SUMMERこれは 全部表紙に書いてある文字、原田治絵、新潮社。とこれだけでわかってもらえると思うけど、要するに小説新潮の中に、大コラムという情報頁があって、それを 拡大して雑誌風な単行本のような、例の「苫ザラ」、少年マンガ誌でよく見るあのザラ紙を使って、ぶ厚いけど持ってみると意外と軽いという体裁。いまでもこ だわっているけどこの本のタイトル、小説新潮があっての大コラムなんだから、小説新潮というロゴタイプにぶらさがったように大コラムという看板をひっかけ る、そんなダミーも作ったけど、いつしか体制は「大コラム」のひとり歩きとなる。はたしていかに。

●深夜酒場でフリーセッション。奥成達、桑原伸之絵、晶文社。内容はタイトル通り、桑原さんは奥成さんの友人ということで絵をお願いした。肥満 した風せんみたいな人物が、ポカッと空に浮いて自重で地上10センチに静止した。といった案配の絵の人だが、今回は画風をかえたとかで、いまいちの感をい だかせた、描き直してもらったのです。

●インタヴューという仕事。スタッズ・ターケル、中山容他訳、晶文社。まさか売れるとは思わなかった(編集者はそんなことはないよと言ってた が)前作「仕事!」に引きつづき、こんども売れてくれよの願いをこめて、「仕事!」のカバー写真(カラー)を表紙に使い、文字のレイアウトも「仕事!」と 同じというなんとも奇妙なカバーの本。見返しにターケル自身の写真が刷り込んであって、その内の一枚にアベドンかペンかが撮った写真がある、たしか「三文 役者」という題だと思うけど、ターケルという人も実はいろんな仕事についていたことがわかる。神経の太そうな本。

●手と目と声と。灰谷健次郎、坪谷令子絵、理論社。以前に箱入りの本として出版されたものをカバー装にして出したいということ。値段をさげて読 者のためにというより、どうやら書店対策がねらい目のようだ、出版社にとっては、近ごろこれが重大のポイントになってきているようだ。出版社対読者といっ た単純な構図ではなく、もっと複雑な流通のシステムの中で、本とブックデザイナーはきりきり舞いさせられるのです。令子さんの絵はどうもモダニズムだな、 なんか変んなシッポがついてるぞ。

●牧師の娘。オーウェル、三沢佳子訳、晶文社。せっかくの文章なのに、デザインがまずいねもっとなんとか出来ただろうにと批評されたけど、もう これで完結。今後気をつけます、反省。

●トンボの本、聖書の世界。白川義員。現代の茶会。井上隆、梅原猛、千宗室白川さんの写真はすごいです。


わるいくせ(3)  八巻美恵


四月十八日 水牛楽団が休業中なので、しばらく顔をあわせるチャンスのなかった亀田伊都子と渋谷でおちあう。津野さんもさそって、あかるいうちからズブロ フカなぞのみ、いい気持になる。日暮れて、酔いがまわり、金がないという津野さんをつれて家へ帰ると葉弥と悠治はむかいあってそれぞれの勉強をしていた。 葉弥は遠足で行く鎌倉のことを調べ、悠治はブーレーズのでっかい楽譜を調べている。うちの書斎はアッという間に酒場にかわる、便利な多目的一部屋。

四月十九日 夕方渋谷で小泉英政さんとあう。この秋にカラワンをよんでいっしょに農村をまわる計画を、彼はたてているのだ。はじめてその計画を きいたときから、協力を約束している。タイ語が「できる」といったって、たかが知れているし、第一ほとんど文盲に近い。手紙を書いたりするのは時間がかか る。でもね、それでも役に立つのなら、努力はおしむまいぞ。

四月二十日 近所の商店街にオープンしためがね屋で、悠治はめがねを新調した。いろいろかけてみて、店の人に、一般的です、とか、無難です、と かいわれるのは、絶対に気にくわないのだ。わたしは目も必要以上によく見えるし、病院に通ったこともかぞえるほどで、ずいぶん安あがりにできているなとお もう。

四月二十六日 「エレンディラ」をみる。ウソはよい。水牛楽団が休みのあいだは、充電期間とおもって、みたいものだけをみ、よみたいものだけを よみ、ききたいものだけをきく、というふうにする。

四月三十日 疾走する「知」のハイブリッド、と題して、中沢新一と浅田彰が選んだ本のリストがある。疾走してどこへ行くつもりなのかなと、一八 二冊の書名をながめているとキャッ、「水牛楽園のできるまで」というのがある。水牛楽団はできたけど、水牛楽園もできるといいだろうねえ。誤植までハイブ リッドなのは、さすが。

五月五日 藤本和子さんがイリノイから帰ってきた。ほぼ一年ぶりに会う。手術のせいですこしやせたかな。でもやつれてはいないので、安心して夕 方から夜中までしゃべりあう。いまのこと、むかしのこと、これからのこと。わたし自身の生活が世間の常識や習慣からはずれているという自覚は、今ではもち ろんあるけれど、それだけではない、なにか同類の直感のようなものが、彼女の仕事だけでなく、とてもふつうとはいえない彼女の生き方にまで、わたしを向わ せる。

五月十四日 朝のうち水牛の荷造り。昼すぎ下北沢のワンラブブックスに水牛をとどけ、ついでに五番街というレコード屋で、サボテンのLPを買 う、二七〇〇円。通りがかりのカバン屋でずっとさがしていた、イメージにほぼ適う、黒い袋もみつけた、二〇〇〇円。下北沢はよいところだ。夜はジァンジァ ンで、三宅榛名さんのコンサート「現代音楽は私」をきき、かつみる。奇妙なモーツァルトは「現代音楽は私」というタイトルをなあるほどとおもわせて、思想 にみちている。ゲストの西沢さんは、吹く楽器によって感じがガラリとかわるのが、みていておもしろかった。楽器と演奏者の関係にもいろいろあるってことか しら。

五月十五日 小夜子とさそいあわせて、こんにゃく座のオペラ「フィガロの結婚」をみる。斉藤晴彦伯爵は出てくるだけでおかしい。バジリオのカ ヴァティーナはあらゆる女をあほうと歌うのだった。どうせわたしはヤセ女あほうで、小夜子はデブ女あほうですよ。


下手の横吹き笛日記(3)  西沢幸彦


4月16日 六本木に新しく出来た西武のビルの中にある、セディックスタジオで、さる弱電気メーカーのコマーシャル音楽の録音。下の階の本売場でぐうぜん 悠治さんに会った。その売場に「水牛通信」を置かせてもらっているので、配達に来たとのこと。

4月17日 三時からアオイスタジオでコマーシャルのダビング。後、NHKで「午後のリサイタル」のリハーサル。

4月18日 三時半からNHK502スタ。子供番組の録音。

4月19日 先日録った、CMのとり直し。スポンサーの気に入らなかったようだ。書き直してきたのも余り変らないように思うのだが。五時から NHKへ。「午後のリサイタル」の録音。ミヨー作曲「ルネ王の暖炉」木管五重奏の曲、当時の劇伴奏音楽である。ほとんどとり直しをせずに、多少のミスは問 わず、演奏会の感じでとってみた。このやり方の方が全体の流れがスムーズで良かったようである。他にマルタンの「ノネット」。

4月20日 昼近くまで寝ている。鏡でみると、目がくさりかけのカキのようだ。ブラブラしていると、麻雀のお誘い。明け方までやっていた。きょ うは充実していた。

4月22日 六時半からアバコスタジオで、林光さんの音楽、俳優座で行う「肝っ玉おっ母」の録音。

4月25日 市ヶ谷サウンドインスタジオ。広瀬量平さんのコマーシャル録音。

4月27日 上野の石橋メモリアルホールで、フルートばかり七人のコンサート。楽器メーカー主催で七人全員が金のフルートを使う。獅子舞いの獅 子が金の総入歯をしたよう。久し振りにえんび服なんていうものを出して着てみたが、よくみてみるとあれも何だかふざけたかっこうのものだ。

4月28日 六時から十一時までアバコスタジオで池辺晋一郎作曲の劇の音楽取り。六時から一時間程待って、実際に吹いたのはほんの一時間位。す ぐに終ってしまう。

4月30日 信濃町のソニーで、カラオケのメロディー入れ。最近のはやり唄なので全然しらない節を吹く。歌詞を知らないので、原曲をきいて納得 し無事終了。

5月1日 14日に三宅榛名さんの音楽会に出演することになったので、打合せのため三宅さんの家に行く。七時から信濃町のソニーへ。

5月2日 友人の笛吹、中川昌三さんが家へ来る。フルートの歌口(息を吹き込む所)を直してくれという。吹く人それぞれ口の型も歯の型も違うの で、自分にもっとも良く合った歌口というのがあるはずで、それは自分が一番よくわかる、見ず知らずの楽器を作る人には、微妙なところまではわかるはずがな いという持論を持っているので、今吹いている楽器はほとんど自分で作り直したものばかりなんです。何本もやっていると、それなりに技術なんていうものが身 についてきたりして、今ではある程度の所まで直せるように思う。もっともこれまでに十本以上もダメにしたけれども……。そうそう、それで中川君の楽器を直 してあげる。大変気に入って帰る。もうすぐお中元の季節、何かくるなあ、きっと。

5月3日 又々信濃町のソニーへ。二曲録音して、鎌倉へ行く。車で北鎌倉から鎌倉まで一時間かかった。こりゃなんだという位の人が歩いていて、 休日の鎌倉はひどい。本当にひどい。

5月4日 一時から三時までサウンドインスタジオ、CM録音どり。七時からNHK509スタジオで、武満さんの音楽、何かのテーマMだと思う。 木管楽器ばかりのめずらしい編成。

5月5日 三里塚の小泉英政さんのお宅へ、福山一家と共にたけのこ掘りに行く。二、三本も掘ると切れる息や泥だらけになって遊ぶ子供達をみると やはり都会に住む不自然さのようなものを思い知らされる。山のようにいただいたたけのこや野菜、山菜を帰りに悠治さんのお宅にもおすそわけ。小泉さんどう もありがとう。

5月7日 テイチク会館でダビング。

5月9日 十一時からサウンドインスタジオで録音。三時に三宅榛名さんのお宅へ。14日のジァンジァンのコンサートで演る曲で、まだ出来てない のがある。大丈夫かなあ。

5月10日 一時にコロンビア1スタへ。アルトフルートで何やらカラオケのダビング。

5月11日 三宅さん宅へ。最後の練習のつもりであったが、前日もう一度やることにする。曲一つ一つは出来てはいるが、全体の流れが今一つつか めない。

5月13日 アオイスタジオでコマーシャルの録音。一時間半待って、十分で終る。最近はマルチチャンネルといって、基本的な楽器を録音しておい て後でメロディー楽器を録音したりするのでこのような事が多い。仕事としては非常に楽で良いが、どんなものをやっても何となく不満が残る。夜、三宅さん宅 へ。何とか流れがわかった感じ。

5月14日 ジァンジァンで三宅榛名さんのコンサートに出演。前半、三宅さんが一人でピアノをひく。すごく自由な感じ、特にモーツァルトがおも しろい。後半は一緒、バスフルート、フルート、ケーナ、パンパイプ、洋琴を使う。さあと言って始め、妙な方向へずれていく。何とも絶妙である。こんなやり 方もあるんだなあ。お客さんも沢山入り、まあうまくいったかな。


友だちと呑めば本になる(3)  津野海太郎


ひさしぶりに晶文社をたずねてきた佐藤信と、お茶の水駅前の喫茶店で話す。昨年の秋から半年ほどかかって、ようやく「黒テント」の組織的なくみかえが一段 落したらしい。

私が「黒テント」の活動から遠ざかって、もう三年になる。はじめは「しばらく休ませてくれよ」程度のつもりだったが、ひとつの集団にながれる時 間の速度はゆっくりしているようでいて、案外、はやい。いまの「黒テント」は、三年まえに私の一時的な隠居をみとめたそれとおなじであって、しかも、まっ たく別の集団である。顔ぶれが変化しただけではない。集団のなかでのことばのつかい方や身ぶりにも微妙なちがいが生じている。これから私がそこにもどって いこうとすれば、つとめて、あたらしい言語体系を習得しなければなるまい。なかなか楽ではないぞ。

一九七〇年代のおわりから、この集団は必要あって活動のクモの手を八方にひろげてきた。ひきつづき半年間の腕ぐみ。なにしろ腕ぐみするのがクモ だからね、おおいにこんぐらかる。その結果、ようやくメドがついたらしい組織上の問題については、いま当事者でない私がうんぬんすることはなにもない。マ コトは持ちまえのつよいアタマで、あいかわらずギリギリ考えつめている。「このへんで柏餅を売ってるとこない?」「さあ知らねえな」「そうか。……だった らその辺を散歩してみるよ」と、旧連雀町方面にむかうだらだら坂をつんのめるようにしておりていった。戯曲『灰とダイヤモンド』著者校のゲラ、きょうもも どらず。

三時きっかり、二分後に出発する予定のヒカリ三六五号にのりこんだ。すでに席にすわっていた高平哲郎君が、これ、食堂車ついてないんですって、といそいで つげる。おおいに落胆。開店と同時に食堂車にかけこみ、そこが最上と自分たちで勝手に信じこんでいる特定のテーブルを確保して呑む。それがかれと新幹線に のるさいの唯一のたのしみなのだ。

名古屋着。ホテルに荷物をおいて、すぐに納屋橋のヤマハ・ホールにかけつける。十年がかりでつくった内田修さんの『ジャズが若かったころ』とい うちいさな本が、ようやく数日まえにできあがった。それにあわせて、かれの主催するジャズをきく会の創立二十周年を祝うコンサートがひらかれている。渡 辺、高柳、山下、日野兄弟、坂田、富樫、森山などなど。

終演後、ちかくのジャズ・クラブで出版記念会。鹿児島で「黒テント」の面倒を見てくれていた中山信一郎さんがいる。とうとう家業をつぶしました とのこと。日本のさまざまな土地にこうしたきまじめな放蕩息子たちがいて、地つきの諸運動にかかわる人たちと手をたずさえ、ときに、というより、しばしば そっぽをむきあいながら、この間のジャズや芝居の場をささえてきた。岡崎でお医者をやっている内田さんもその代表的なひとり。いまは昔――まぼろしの銀巴 里セッションの時代から、病気・金欠・クスリなどになやむミュージシャンたちの共同のおやじといった役どころをひきうけて、こんにちにいたる。持続的な熱 中という点にかんしては、私はまったく自信がない。そのぶんだけ内田さんのような人に興味をひかれる。

翌日の昼、京都につく。待ちかまえていた橋本憲一が、カイちゃん、残んの桜を見せてやるよと、バスみたいに巨大な車に私たちをのせて琵琶湖の北端までつれ ていってくれた。れい子夫人、四人の子どもたちも同行。この一家は原則として単独行動をしない。家族の行動が学校や幼稚園のきまりに優先する。

かれらは百万遍で「梁山泊」という小料理屋をやっている。そのシロウト商売のてんやわんやについて『包丁一本がんばったンねん』という本をかい た。かれらの店がなんとかなりたつようになったのは、とりたての魚を京都にはこんできて、路上であきなう伊勢湾の漁師とめぐりあったからだ。その魚が、よ その漁場で密漁したものであったことがわかった。イキのいい魚をくいたい、くわせたいというささやかな欲望をみたそうと思えば、いやもおうもなく、あたら しい友人である漁師たちの海賊行為に加担せざるをえなくなる。納得がいかない。その理由をつきとめてやろうと、お父さんは一年半、休みのたびに手あたりし だいの漁場・市場・役所を馳けめぐった。もちろん自家用バスに家族全員をつみこんでね。

車中でその話をきく。やるもんだね。いつのまにか、陽気な小料理屋のダンさんが日本の漁場と環境汚染の専門家になっていた。桜よし。くわえて夜 は「都おどり」をふるまわれる。ただし全員疲労。いねむりの列。「都おどりは、よーいやさァ」という開幕の掛け声を英訳すると、「シャル・ウイ・ダンス・ ザ・チェリーブロッサム・ダンス」となるということを知った。



編集後記

今回フィリピンで覚えたタガログ語はたった三語。カラバオ、ゴマメラ、バヤである。カラバオは水牛。フィリピンもタイ同様水牛が多い国だ。また木彫りの土 産物にも水牛が圧倒的に多い。本物の水牛は、牧場で二頭が長い綱につながれ、のんびり草を食んでるかと思えば、その背に人を乗せ、車の放列の中でもマイ・ ペースで歩いている。ゴマメラとはハイビスカス。この国は日本でもおなじみのこの花に“八重”のものがある。前者はシングル・ゴマメラ、後者はダブル・ゴ マメラと“チャンポン”で呼ぶそうだ。バヤ、とは支払いを意味するようで、ジプニーに乗った時に誰もが使う。十二人乗りトラックともいうべきジプニーはま ことに騒々しくそれでいて乗ってる人はこの時ばかりはまことに親切で、運転手は魔法使い、なにしろ、運転をしながら、ひとりひとりから料金を受取り、細か くおつりを渡し、歩道にいる人々を勧誘し、そのうえ、乗客を乗せたまま、ジプニー同志で競争までする。車体はイスズを中心に日本のものが多いが、その使い 方は、近代日本に一度もなかったユニークなもの。(田川)

桜庭章司さんの「てがみ」は、八巻美恵にあてられた私信です。桜庭さんとは水牛通信が月刊になったころからのつきあいで、よく手紙をいただきます。水牛の ために原稿をおねがいしてはあるのですが、今回のこの手紙は、わたし個人のものにしてしまうより、水牛を手にするすべての人が読むべきだとおもい、桜庭さ んの許可をまたずに掲載することにしました。「PU(獄中者組合)特派員」として府中刑に「駐屯」しているという桜庭さんのことですから許してくださるで しょう。桜庭さんの住所は、府中市晴見町4の10です。また、桜庭さん救援会が、文京区本郷の7の3の1東京病院精神科病棟一研の気付にあります。会報に は桜庭さんの文章が毎号のっています。
ブタ草の竹内晶子さんは如月小春さん率る劇団ノイズの女優サンです。6月9日から17日まで「トロイメライ 子供の情景」と題する公演があり、彼女はゾロ ダンスも御披露するそうです。会場は丸井新宿店インテリア館8Fのマルチパーパス。くわしくは〇三−三五六−七五三三ノイズまで。(八巻)




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