水牛通信

人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1986年2月号 通巻79号
        
入力 桝井孝則


うまい酒が呑みたい  橋本憲一・津野海太郎
キリコのコリクツ  玖保キリコ
本屋さんの昼下がり  BOOK INN
料理がすべて  田川律
走る・そのニ  デイヴィッド・グッドマン
音楽時評  坂本龍一
水晶島を望む  鎌田慧
水牛かたより情報
編集後記



うまい酒が呑みたい  橋本憲一・津野海太郎


京都百万遍の小料理屋「梁山泊」の主人・橋本憲一さんが、めずらしく東京にすがたをあらわした。水牛楽団などが京都に行くと、いつも世話になっている。
昨年、彼は『うまい魚が食いたい』という本をだした。生きのいい魚を食いたい、食わせたいと思えば、かれの店に伊勢湾の魚をはこんでくれる漁師たちの密漁 に加担せざるをえなくなる。日本の漁業と流通のしくみは、ちょっとおかしくなってるんじゃないのと、そのあたりのあれこれを商売のあいまにさぐっていく本 だった。
いま、かれは日本酒についてもしらべている。そのため新潟の酒屋さんをたずねた帰りに、一日だけ東京にたちよった。さて、どこに行こうか。浅草はどう?  うん、ええね。という次第で、久しぶりに「駒形どぜう」まで足をのばしてみた。

     *

津野 ……こういう店もいいな、テント劇場の客席みたいで。
橋本 よろしね。この板一枚いうのがよろしね。
津野 そうそう。たたみに細長い板がしいてあって、それがテーブルになるのね。かなり年 代もんだよ、これ。まっ黒になってる。
橋本 いま、こっちにくるとき、あっちの板けとばしてきた。ふふふ。わからんもん。また いでいいのかどうか、わからんでしょ。
津野 だけど、またがなきゃ坐れねえもんな。
橋本 でも、抵抗あるんよ、ぼくらには。お膳またいで怒られたし……。
仲居さん お待たせしました(と、熱いどぜう鍋が登場)
橋本 あっ、すんません。……あっつつつ。
仲居さん ネギ、ここにおきます。
津野 はい。
橋本 どうしますか?
津野 え? うん。こうやってドジョウの上に、ネギを山もりにするの。
橋本 うまそうやね。……これ、タマゴ入れたりしいへんの?
津野 それは柳川ね。あとは七味とサンショ……。
橋本 あっ、もうちょっといれてもろうてもよろしわ。
津野 へえ、やりますね。
橋本 はア、タイじこみで。
津野 なるほど。そういえば、去年はタイに行ったんだもんな。
仲居さん はい、どうぞ(と、さらしクジラが来る)
津野 きれいだね。
橋本 京都では、これ花クジラいうんよ。湯どおしすると花が咲くみたいになるんよね。 昔、いまみたいな料理やるまえは、こういうのばっかり出してたから。へっへ。だから、これ加工せいいうたらうまいよ。いろんな薬味入れてね。
津野 おい、ドジョウ、もういけるぞ。
橋本 ……うまい。ネギは生煮えのほうがうまいね。
津野 うん。でも、ペチャペチャになってもおいしいんだよ。
橋本 ゴ、ゴホ、ゴホ
津野 ほら、やっぱり辛すぎたろ。
橋本 ん、まあ。ネギも辛いし……でも……うん、そうか……。
津野 お正月は、お店いつから?
橋本 六日から。権四郎(伊勢から魚をはこんでくる元漁師の魚屋)が来ないから、いまは ヨメはんが、毎朝、明石に行ってんねん。
津野 明石は、松本栄治のとこ?
橋本 そう。あいつ結婚したんよね。
津野 かれのとこには魚があつまってるの?
橋本 うん。あいつ漁師やし、仲買いの権利もってるからね。どういう段取りで船が入って くるか全部わかってるから、あいつに頼むの。
津野 礼子さん、朝何時に出るの?
橋本 毎朝八時半。そのあいだ、ぼくは子どもを保育園に送って、仕込みの手つだいをす る。彼女が二時か二時半に帰ってきて、そうするとその日のメニューがきまるわけ。いそぐときは、なにを買ったっていうのが明石から電話で入って、それで料 理の段取りをたてて……ま、そういうことですねん。
津野 ふうん。
橋本 安いよ、明石は。船からあがってきたてのタコ、一キロ八〇〇ぐらいの。どんなうま かった!
津野 それ、いくらぐらい?
橋本 七〇〇〇円。あと高速代とガソリン代入れて、明石まで往復で七〇〇〇円かかるけ ど、でも、合うの。
津野 おっ、新しい鍋が来た。
橋本 東京では、このネギしかない?
津野 あるよ。だって、このザク切りじゃ、ソバ食えないだろ。
橋本 食えへんね。京都では、これ関東ネギっていうの。
津野 京都って、こういう入れ込みのお店ってすくないんじゃない?
橋本 人口がすくないから。
津野 こういうふうに、いっしょに鍋をつつくっていうのは……
橋本 あるある。沖スキでしょ。それから湯豆腐。
津野 だけど湯豆腐っていうのは、なんか小座敷みたいなところで……
橋本 そうそう。ここはお風呂屋さんの上がりみたいな感じだけど、京都はまア個人風呂や ね。家族風呂。
津野 はっはっは。そこに懐石みたいにチマチマした料理が順々にはこばれてくるのな。ド ジョウ鍋とか鳥スキとか、一品だけのあきないってのもすくないでしょ?
橋本 うん。お通しっていうか、前菜からはじまって……。ぼく思うんやけど、前菜がなぜ 必要かいうのが、だんだんわかってきたんよ。季節感なんよね。京都は外に季節感がありすぎて、みんなマヒしてるから、料理をとおして、もういちど外界を見 なおすみないなところがある。
津野 でも、きみんとこ、はじめはオデン屋だったじゃん。
橋本 ふっふっふ。でも。オデン屋にも季節感、あったんよ。
津野 はっはっは。
橋本 今年の一月十日でまる十三年。いま十四年目よ。
津野 ようやってきたな。京都では、そこそこうまいものを安く食わせる店ってあまりない のか?
橋本 ない。料理屋で働いてきた人だと、ちょっとしたもんつくって、これで三万とれると 思ってしまうんよ。だけど、ぼくは料理屋で働いたことないから、「こんなんで一万もろうていいんやろか、なら、もうちょっとなんかせなあかんで」と……。
津野 酒の話をしようか。いま、きみは菊姫という石川県鶴来の酒造屋さんを中心に、お酒 のことをしらべてるわけだ。橋本の場合は、いつも一点突破なんだよな。権四郎とつきあってると、そこから日本の漁業問題がバーッと見えてくる。菊姫とつき あってると、だんだん日本の酒や醸造の問題が全体的に見えてくる。
橋本 うん。一点突破しか方法がないんよ、ぼく。
津野 はっはっは。でも、そのつど、うまい一点にぶつかってきたとこともあるな。のびる 糸口な。のびない糸口だってあるんだからよ。
橋本 ラッキーやね。おなじ鶴来の酒でも、福泉やったらむりやったと思うわ。ええっと ね、はじめて菊姫大吟醸を知ったのが、ちょうど四年前の今時分よ。カイちゃんが吉祥寺の「あき」で飲ましてくれたんよ。一合が一五〇〇円。そういう価値観 ちゅうのが自分のなかになかったから、はじめはむかついたわけよ。「たかだか酒が、なんでこんなにすんねん」と。うちはそのころ、おつくりが一五〇〇円 やったからね。死にもの狂いで買うてきた魚さばいて、生ワサビをすってつけて、それで一五〇〇円。それとおなじ値段よ。おれはなんなんやという気持ちも あったし、もう反抗的にイヤやったんよ。
津野 はっはっは。
橋本 でも、まア、おごってくれはんにゃし、呑んだらええわと思うて呑んだら、びっくり したんよね。一五〇〇円、これはやむをえないと。
津野 おれも量を呑んできたというだけで、酒の通でもなんでもないし、うまいとかまずい とか口にだしていうのもイヤなたちじゃない? ところが、あれだけは、なんていうか、バカでもわかるうまい酒だったのね。ふしぎな体験だったな。
橋本 高いったって、最初から最後まであれで通す必要ないし、毎日呑む酒でもない思うの ね。でも、いま呑んでる酒のうしろに菊姫がある、冷蔵庫のなかに大吟醸が一本ねむってるという安心感があるわけよ。いままで思うてた酒とは、ちょっとちが うみたい。
津野 なるほど。
橋本 で、なぜ星野さんがああいう酒を売ろうかと思ったかいうとね……
津野 星野さんは新潟の酒屋さん――菊姫を発見した人ね?
橋本 いや、発見したんは、池袋の笹周っていう飲み屋さんを中心にした、「笹周会」って いう日本酒愛好会があって、そこの人たち。星野さんも笹周ではじめて菊姫大吟醸を呑んだ。それが五年前だって。
津野 たった五年前?
橋本 そうよ。だからカイちゃんが呑みはじめたよりか、ほんのちょい前よ。そのときいっ しょに津村さんが呑んだらしい。
津野 錦糸町の酒屋さんね。あっ、そうか。「あき」にはその津村さんから入ってきてるん だからね。とすると、じゃあ、津村さんは東京で菊姫をあつかってる、ほんの数軒の酒屋さんの一つだったわけだ。
橋本 そう。あと神田の和泉屋さん。それで星野さんは新潟に一升ビンを一本もってかえっ て、それを奥さんが台所でこっそり呑んで、「なにこれ!」って。
津野 はっはっは、星野さんは酒飲みじゃないから。
橋本 でも、奥さんはものすごう呑むんよ。で、菊姫大吟醸も呑んで、「脳天カチ割られ た」いうわけね。それがはじまり。それまで星野さんとこは松竹梅の量販やってた。十本売れば、おまけが二本ついてくる。百本売れば、それが三本になると。 それで量を売ればいいとういうことでやってたのね。だけど百薬の長のはずの酒が、もう一方では人をくるわせもする。酔っぱらって人殺しをしたとかいう新聞 記事を読んだりすると、そういう恐い水を売ってる人間として、じつに心ぐるしいって星野さんはいうんよ。
「たとえば橋本さん、フグで人が死んだっていう新聞記事読んだら、ただで見すごせないでしょ」って。
フグで死なれるいうのは最近すくなくなったけど、酒で死ぬいうのはずいぶん増えたんやて。それが本当にイヤいうのね。昭和四十年ぐらいまでは、職人が一日 はたらいて二合呑めるかどうかというくらい高かったんだって、酒の値段が。一升が二千円なんて酒はなかった。いまの収入でいえば一升一万円ぐらい――ちょ うど菊姫大吟醸といっしょだというわけよ。
津野 なるほど、酒屋さんの実感としてはそうなんだ。
橋本 そう。それで身上をつぶして一家離散だとか、いまでいえばサラ金だとかで、その恨 みをかうでしょ。だから「酒屋三代、女郎一代」ちゅうことばがあるのね。
津野 人の恨みで自分の商売もつぶれちゃうわけだ。
橋本 それでかれらは量を売ることをやめた。で、最初はワインをやったけど失敗して、つ ぎに焼酎。全国の焼酎を売ろうとしたんだけど、新潟の肴は煮つけとかで焼酎と合わない。それで日本酒をさがしたんやて。それが昭和四十五年ごろ。あそこに 弥彦山という山があって、その向こう側の海岸に野積っていう杜氏の村がある。そこの杜氏さんたちが星野さんとこ出入りしてたわけ。で、「一番目の酒はなに か?」ってきくと、みんなが「おれの酒だ」と。
津野 はっはっは。
橋本 「じゃあ、二番目は?」ときくと、「越の寒梅」だと。どの杜氏も寒梅だというんで 訪ねていって、そこで社長の石本さんの仕事のすさまじさに感銘をうけて、日本酒にふみきった。つまり量から質への転換ちゅうわけ。
津野 東京で寒梅の名前をききはじめたのは、いつぐらいだったかな。「幻の名酒」とか いってさ。おれは呑んだことなかったけど。
橋本 十年。早い人で十年前。
津野 そうやって星野さんが寒梅を発見して、じゃあ、あれがあんなにひろがったのはどう して?
橋本 それも星野さんなんよ。あのころ四合ビンいうのが一五〇〇円してたのを、新潟の人 が星野さんの店で買って東京にもってっていた。だから土産酒だったんよ。ところが、それをもってくと、一万何千円のウィスキーがお礼にとどくんよ。それで 土地の人たちも、だんだん寒梅を評価しはじめた。だから露骨に東京の評価なんよ。それが逆輸入された。結局、いま吟醸酒をどうつくるかという基礎を築いた のは、やっぱり「越の寒梅」だったのね。石本さんいう社長、醸造研究所の田中さん、杜氏の叉平さんの三人のチームワークで、三十年かかって、あの基礎がで きた。だから、いま「越の寒梅」をわるくいう人があるけど、それは自分の好きな酒をわるくいうのと変わりないわけ。
津野 ふっふっふ、新潟で洗脳されてきたな。
橋本 洗脳されるの早いから。でも、そうだと思うわ。田中さんは気がくるって寒梅の蔵に とじこもって、結局、そこで死んでるんよ。
津野 すさまじいね。
橋本 新潟の人いうのは、ものすごく地方ナショナリズムがつよい。
津野 田中角栄だ。
橋本 すごいよ。角栄は新潟三区でしょう。三区の道路はトラクターみたいに大きい除雪機 がはいってね、道路のすみまでビーッと切りたって、きれいになってるの。天井のないトンネルみたい。ところがね、二区いってごらん。ガタガタ。裏道なんか 入れない。
津野 星野さんとこは?
橋本 二区。
津野 はっはっは。
橋本 造り酒屋の人たちは角栄と親しいんかときいたら、あっちは土木だから関係ないん だって。
津野 なるほど。
橋本 それほど新潟ナショナリズムのつよい星野さんが、いまは菊姫という石川の酒をほめ ざるをえない辛さいうのがあるわけ。「越後で菊姫をこえる酒をつくるいうのが私の悲願です。でも、できません」いうわけよ。「雪もおおいし、水もあるし、 いい杜氏もいるし、なぜできないのか」って。
津野 なんでできないんだよ?
橋本 ぼくもそうきいたら、越後杜氏いうのは、自分がいままでつくってきた酒のいちばん いいやつをベースに、その酒にできるだけ近づいて、それをコンスタントにつくろうというのがパターンなんやて。ところが菊姫の杜氏は自分の思い込みの味を ぜんぶ忘れさせられて、社長の柳さんに、「もっとええ酒できるやろ、もっとええ酒できるやろ」と……。
津野 ふふふ、老社長、自分は酒呑まないのにな。
橋本 だから、酒にたいする思い入れがないわけよ。いままでの歴史にとらわれないし、と らわれようもない。それで「もっときれいにできないか」とか「もっと品がないと」とか、抽象的で哲学的な注文ばっかりするわけよ、杜氏の農口さんに。
津野 おもしろいね。だいたい、いい演出家っていうのは、そういうもんだよ。
仲居さん こちら下げてよろしいですか?
津野 はい。お腹いっぱいになった? もっとなにか食う、柳川とか?
橋本 柳川一つだけ。
津野 いいよ。
橋本 まあ、そういう意味で、菊姫はいままでの酒造りの枠にしばられないという……
津野 そういう意味じゃ前衛的な酒造りなんだ。そういえば、あそこに行って話をきいてて も、むかしの話はあんまりでてこないもんな。「江戸時代からですか?」「いやー、まあまあ」なんてさ、伝統とスッと切れちゃう。
橋本 でも、古いことは古いんよ。それがお父さん――いまの社長さんのとこで切り替わっ たんよ。
津野 京都大学。
橋本 そう。経済学部と法学部卒。勧業銀行につとめて……。
津野 むりやり呼び戻されて、杜氏の農口さんと出会った。名コンビだね。あのコンビは寒 梅とちがって、三十年も死ぬまで蔵にとじこもるというよりも、なんか、もうちょっと科学的な感じがするな。
橋本 星野さんの奥さんはね、ああいううまい酒は、屋根の下が一体になってないとできな いとうのね。女の人の感じ。それで実際に行ってみて、へんにクレージーな人がいないって。もちろんクレージーなんやけど、見たとこはフワーッとしてる。だ から一方では科学的だけど、もう一方では非常に人間的なの。その両方があった。星野さんが「勝てない」いうのも、やっぱりそこだね。
津野 農口さんは能登杜氏だな。
橋本 そう。能登杜氏、南部杜氏、越後杜氏、丹波杜氏――その四つが日本の名杜氏のグ ループなの。そのある部分では、いろいろなかたちで交流があるみたいやけど。
津野 農口さんもシーズンじゃないときは、能登の自分の村にかえって農業をやってるん だ。
橋本 煙草ね。ロング・ピースの葉っぱをつくってる。
津野 酒と煙草か。わるい人だね。自分は呑まず吸わずだろ?
橋本 いや、吸っとるよ。あの人、ハイライト吸っとったね。
津野 そういえばさ、こないだ電話でも話したけど、例の皇太子の話――
橋本 あっ、そうそう。
津野 金沢に皇太子が来たとき、侍徒から電話がはいって、ぜひ大吟醸をほしいっていうん だって。ところが、あそこはメチャ厳密だからさ、ぜんぶ予約ずみです、おまわしできるのは一本もありませんってことわっちゃった。そしたら、その侍徒があ わてて車でとんできて、もう皇太子に宣伝しちゃったんで、面子がたたない、なんとかしてくれと頼みこんだのね。それで四合だけわけてやったって。はっはっ は、根性だなア。
橋本 それ、星野さんにもいうたんよ。そしたら「はあーッ」て、よろこんどったよ。
津野 日本ってホラ、むかしは村ごとに小さい神様があったわけよ、ものすごい数。それを 明治時代にぜんぶ国家神道に統一していった。三十家族に一つぐらいあった小さな神社が税制やなんかで意図的につぶされて、それで神社の数が何百分の一に 減っちゃった。南方熊樟が怒って反対運動をやったやつな。おれ、このことを思いだした。地酒って、どこか小さい神さんっていう感じがするな。日本の酒が巨 大資本に完全に統一されそうになったところから、すこしづつ小さい神さんが分離しだして、それぞれの土地で酒をつくりはじめたっていうような。
橋本 その一つの契機が小売りなんよ。星野さん、津村さん、和泉屋さんたちが問屋をとお さずに、じかに取り引きをはじめたでしょ。
津野 ゲリラ商売だ。
橋本 そう、ゲリラ。たとえばね、蔵に行って桶を買うてしまうわけよ。桶の酒をグッと飲 んで、「杜氏さん、これいい酒だな」というと、杜氏がニカーッと笑う。そこで「この桶買う」と。杜氏は経済はわからんけど、その年できたいちばんいい酒は 自分の子どもだと、その酒をそのまま飲んでほしいと思ってるでしょう。ところが、蔵元は酒のことはわかんないからね。杜氏が「まアまアのできです」いうた ら、その桶の値段はやすくなるの。
津野 いま酒の流通っていうのはどうなってるの?
橋本 問屋がとりしきってる。たとえば白滝という越後湯沢の造り酒屋があって、そこの酒 は問屋をつうじて星野さんとこにはいってた。ところがシートをかぶさずはこぶわけ。そんなことしたら酒の質がわるくなるから、問屋をとおさずに直接入れて くれという交渉をしたんだって。それと問屋は値切るわけね、一〇〇本買うから一二〇本入れてくれとか。そうすると酒造りのほうは、二割方値切られてもいい 酒をつくることになる。
津野 それこそ漁業だったら大洋漁業とかさ、お酒にはそういう大きい問屋はないの?
橋本 ない。新潟に三軒とか、書籍取次ぎでいえば大阪書店とか、ああいったレベル。
津野 東京の小売店なんかは?
橋本 やっぱり問屋をとおして仕入れてる。酒は人気商品なんてないから、依然として地方 の小さな問屋が……ほら、酒販連いうのあるやん? あそこに大きな取次ぎみたいのをつくって、そこで流通さすわけ。でも、造り酒屋はかならず問屋に売らな ければならないかというと、そうじゃなくて、小売りにじかに売ってもいい。だけど、直に造り酒屋と取引きしてる小売りっていうのは、ものすごく数がすくな い。
津野 へえ、ふしぎな気するね。
橋本 桶買いすると、ずいぶん率がよくなるんよ。一桶で何千本にもなるわけね。それを年 に何桶か買うから、いい酒を安く売れる。
津野 産地直送。
橋本 そうそう。だから魚は権四郎をとおして買うように、酒は星野さんをとおして買う の。いまは宅配便のシステムがうまく使えてる。
津野 ふうん、石川の地酒を新潟の小売りをとおして京都で買うわけか。
橋本 星野さんは「地酒」っていわないで「銘酒」というのね。その土地の人間が土地の食 べ物で飲んでおいしいのが地酒で、もっと普遍性があるのは銘酒。
津野 うーん、おれはちょっとちがうな。さっきの話じゃないけど、その土地の小さい神さ まといっしょにつくりのが地酒だよ。
橋本 でもね、地酒というと、なんかイヤな気がするね。
津野 きみや星野さんが銘酒といいたいって気持ちはわかるんだよ。いまは地酒ブームだか らさ。「手づくりの味」みたいにさ、一品一品ていねいにつくって、お手もとにお届けしますというふりをして、それを売りものにするのはイヤだっていうんだ ろ?
橋本 そうそう。
津野 だったら、そんなものに頼らないで、お酒の味一本で勝負するんだという、そのこと はいいわけ。だけど、そこで新しい名称を考えたりしても、しようがないと思うんだ。土地の人が自分とこの酒を高級なものとして印象づけようとして、地酒を 銘酒とかいいかえたりしたら、また新しい堕落がはじまると思うよ、おれは。
橋本 それはそう。
津野 たかだかこの冷たい村で生まれた、しかし、どこにも負けない酒ですよということだ けでいいんじゃない?
橋本 でもね、土地の人は大吟醸は飲めないの。地酒いうのは、土地の人が飲んではじめて 地酒やと思う。
津野 それはそうだけど、ぼくらはやっぱり鶴来という土地といっしょに飲んでるよ、大吟 醸を。ああ、こういう町で、こういう生活のなかから生まれてきた酒なのかと思いながら飲んでるよ。それを銘酒というように普遍化して、ものにはいいものと わるいものの区別があるというふうにさ、上下の関係だけで固定しちゃうのはまずいんじゃないの? ワインだって普遍性より地方性を誇るわけだから。
橋本 そう。そのことは一方にきちんとあるわけ。だけど土地の人が飲めない酒っていうの もあるから。
津野 そうなると金持ちが飲める酒がいい酒で、貧乏人が飲める酒がわるい酒だってことに なっちゃうでしょう? そういう話はしたくないからさ。
橋本 そういう話になりつつあるよ。
津野 それは、堕落の方向だね。
橋本 堕落どころか、それで自分の首をしめるわけ、きっと。いまのままでいけばね。ただ ね、去年の十一月に菊姫に行ったとき、社長の柳さんは、大吟醸なんかの高級酒は、もうこれ以上つくらない、つくって赤字になる経費を一般酒――いわゆる一 級酒とか二級酒にまわして、地元に人たちに負担をかけないようにしないと、蔵としてはもうかっていかないっていってた。高級酒の赤字を埋めるために、土地 の人に飲んでもらってる酒を値上げしたくないって。
津野 商売っていうのはそういうもんなんだろうね。きみのとこだってそうでしょ? そ りゃもうけるにこしたことはないけど、その分、かならずはね返りがくるんだからという微妙なあわいのとこで、こころある商売人や生産者は悩むんじゃない の?
橋本 そうよ。うちだって二万五千円とれる質と量で、一万円でやるわけだから。そりゃ あ、おれあそこで突っ張るよ。企業家的に料理をかんがえて、これなら客観的に三万はとれるから三万とるなんてのは、よくない思うよ。自分の稼ぎで一万まで 払える客はたくさんいるけど、二万、三万となってきたら、こりゃもう金持しかないもん。金持のためにやる意味ないからね。
津野 むずかしい。でも、おもしろいとこでもあるな。
橋本 いま銘酒に二万円だす人はいるだろうけど、そのシステムの総体がくずれるよ。いず れ菊姫にしても、なにかが起これば総スカンをくうだろうって星野さんはいってた。飲んだことない人まで越の寒梅の悪口をいいだしたように、もっときついこ とが菊姫には起こる。「それは想像がつきますよ」って。「でも、私は菊姫はそれに応えられると思います」って。
津野 地酒っていうのはそういうものなんだと思うよ。だって柳さんとか農口さんとか、具 体的な人がつくってるんだから。その具体性が数字になおされて、機械化されてさ、コンピュータに入れられてさ、仮に農口さんが亡くなっても、まったくおな じようにやっていけるというふうにはいかないわけだろ?
橋本 いかない。勘やから。個人の手法やから。
津野 米や水はもちろんだけど、道具のつくり方やえらび方、手入れのしかたまで、ぜんぶ その人だろ。それがうけつがれなければ、たった一代でダメになる。ところが銘酒は銘だからさ、ブランドだからさ、なかみが変わっても名前で売ることができ る。
橋本 そうやね。銘酒じゃなく質酒なんやね。
津野 地酒っていうのは、そういう不安定なものなんだよ。
橋本 おれ、ずっとそう思うてるよ。いま菊姫を飲んどかないとって。
津野 一期一会。いちばんいいときにぶつかった。そういうところがいいんじゃない? そ ういえば、おれ、梁山泊のいちばんいいときに食べさせてもらって、よかったなあ。
橋本 へっへっへ。うちはこれからですよ。ずっと下降、やっと上昇。
津野 はっはっは。はじめの十年、ほんとに大変だったもんな。まア、きみんとこの一家な ら首吊ることはないだろうと思ってたけど。
橋本 そうよ。おれががんばらな、みんなおちこむよ。
津野 みんなそう思ってんだろ。四人の子どもまで、みんなそう思ってんじゃないの?
橋本 ユーイチは二学期の成績、クラスで一番よ。塾も行かへん、家庭教師もなしで。ええ 根性で、がんばりよったよ。
津野 へえ。なんでそんなにがんばったの? あっ、『子供!』にでたからじゃないか?
橋本 あいつにとっての『子供!』っていうのは、すごく大きかったみたい。ちょっと空気 入ったもんな。
津野 おまえんちは、親子そろって、本を書くと空気が入るんだな。
橋本 わっはっは。
津野 まず宣言しておいて、なんとかそれに内実をともなわせなきゃっていうんで……
橋本 正しい。
津野 いま、きみんちのいちばんの問題って、なんなの?
橋本 おれ。
津野 おまえ?
橋本 存在がジャマ、いわれとるよ。「あんたがいいひんなんだら、みんなよう働いてスッ キリするのに、あんたがいるために、みんなギクシャクせんならん」って。
津野 はっはっは。
橋本 おこづかいかて、きびしいよ。雑誌にちょっと書いた原稿料とか対談料とか、それだ けよ。いうんよ、ヨメはん、「世の中で金もって伸びた人、一人もいいひん」って。
津野 はっはっは。
橋本 でも、今日はありますから、ご馳走しますよ。
津野 いやいや、今日は私がもちますよ。そのぶん出張費を浮かしなさい。
橋本 ふっふっふ。

     *

このあと、橋本さんは一週間、菊姫の蔵ではたらいた。蔵の上の部屋で寝起きするのだが、分単位のスケジュールをきっちり守ってやらなければなら ない仕事なので、三時間とつづけては眠れない。しかも農口さんは、伝説的なまでにきびしく原則をつらぬく杜氏なのだ。「いま京都にもどってきたとこ」と、 昨晩おそく、じつにうれしそうな声で電話がかかってきた。
「えらそうなことしゃべったけど、ぜんぶ取り消すわ。米も水もないの。要するに、ものすごい綿密な重労働。それを農口さんが信じられんくらいがっちりとや りぬくの。それだけよ、菊姫の秘密は。三キロ痩せました」



キリコのコリクツ  玖保キリコ


私は完全なものがあまり好きでないらしい。
「完全」というと、あまりにも漠然としているのだが、簡単な例でいえばシリーズものとか全集ものを揃えることとか、同じブランドで統一することとかだ。本 当に簡単な例だ。
ある作家をすごく気に入ったとする。もちろん漫画家でもよい。
そうすると、その作品を全部読みたくなるの。で、読み始める。
半分以上読んだ頃、何故か急に読むことが止まってしまう。
あきてしまうわけではない。
それをすべて読んでしまうと、次にはその人の日記とか手紙とかまでも読まなくてはいけないような気になってしまい、それが仮に、実行できても、さらにはそ の先まで、たとえば、その作家に関わった人の文献までも手を広げなければいけない気がしてくるのだ。
そう考えると、非常に気が重い。
もちろん考えるだけで、そこまで徹底して何かを実行したことはない。
本屋で本を探しながら、自分がまだ読んでないおもしろい本が、いったいどのくらいあるのか、そして死ぬまでにその何分の一が読めるのか、などと考えだそう ものなら、もう収拾がつかなくなって、ぼうっとしてしまうあの感じに似ている、と説明したらわかってもらえるだろうか。そんな感じなのだ。
こういうことを言っていると、まるで私は完全主義者であるかのような印象を与えてしまうかもしれないが、行動面においては、そんなことはないと断言でき る。
ただ、頭の中では、完全、完璧が、限りなく膨張していってしまい、そこまでするのは無理だという結論に達する。そこで、途中で降りてしまうのだと思う。
それと、完全にしなければならないという恐怖が予測される。
ある文房具が、使いやすくて、デザインもよくて、とても気に入ったとする。文房具の場合は、本とは多少異なる。文房具に関しては、それが気に入った時点 で、そのシリーズを少しは揃えてみたいと思うが、それは決して全部ではない。そのシリーズがいくつかある中に別のブランドのものもいくつか混ざっているの がいいかなと思うのである。もちろん雰囲気は似ていなくてはいけない。だったら、全て統一ブランドにすれば楽ではないかといわれるのだが、それは、ダメな のだ。
これも、私の気のせいだと思うのだが、仮に、全てが同じブランドで統一してしまった場合、私がそのブランドを使っている、ということよりも、私がそのブラ ンドに囲まれてしまうのではないかと思う気がするのだ。
思う気がするというのはエラク、まわりくどい言い方だが、実際、私はブランドの統一というのをしたことがないので、予想で話しているのであり、それは、本 当に気のせいかもしれない。ただ、考えただけで気が重くなる。
それに、なまじっか、そのブランドで統一し始めてしまったりすると、そこから出てくる新製品をいちいちチェックしなければならない。
チェックするのはめんどくさいし、チェックし損ねたらし損ねたで、きっとくやしい。
ああ、考えただけで気が重くなる。
そうなのだ。私はものぐさなのだ。単なるものぐさだったら、始末がいいのだが、変にこだわるものぐさだからいけないのだ。ただ、どんなにこだわっても、も のぐさはものぐさだという事実からは逃げられない。
それで終ってしまうと、あまりにも自分が惨めなので、(自分に)優しい私は、ちゃんともう一つの理由を用意する。
完全なものには悪魔がとりつく、といって、わざと調和を崩した色や形を織り込むという、インドの織り物の話ではないが、わざと統一を崩すという美意識が、 私にはある。
もちろん悪魔がとりつくほど完全なものなど、私には手の出しようがないが、それでも、一応、自分で崩してるんだぞ、と思うと気持ちがいい。
だから調和のとれた、安定したものも、それはそれで美しいと思うが、危ういバランスのものとか、ぎりぎりのバランスのものとか、アンバランスのバランスの ものとかに非常に魅かれる。
ビアズレイとかエゴン・シーレが好きなのは、そういう理由からだと思う。こういうとたいてい笑われる。イメージがあまりにも違うせいか。
あと、バラバラのものの中から選択してある種統一感をもたせたものも好きである。
これは実践していた。
はるか昔のことだが、俗に言う「お人形さん遊び」というのを私もしていた。当時は、リカちゃん人形の全盛期で、さまざまなリカちゃんの洋服はもちろん、リ カちゃんハウス等の小道具なども、巷に出回っていた。
小さいお皿に乗った目玉焼きとか、小さいコーラとコーラのケースなんてものまであるのだ。
それは、楽しいミニチュアの世界だったことは私も認める。認めはするが、自分では決して、それらを自分のものにしようとは思わなかった。
自分で揃えるのは、ほんとにあっちこっちから集めた、バラバラのコップとか皿とかイスとか机で、どう説明していいのかわからないが、自分なりのある観点か ら統一したものであり、親とか他人の目から見ればそれは単なるガラクタの寄せ集めにしか見えなかったかもしれないが、その選択に満足していた。
そういう選択のし方は、現在までも続いていると思う。
だから、きちんと揃ったものに対してあまり魅力を感じないのだろう。
きちんと揃ったものというのは、自分のものだという気がしない。
誰がやったって、同じになるからだ。誰がやっても同じになるものなら、私がやる意味がない。バラバラの中である統一感でものを揃えるということは、ある統 一感というのは、私にしかわからない感覚なのだから、私にしかできないということになる。
とっても「自分のもの」だという気になる。
結局、現在は、自分の身のまわりを自分なりの統一感でまとめて満足して暮らしていると思う。
もちろん、私の部屋を他人が見たらごっちゃごちゃの、ぐっちゃぐちゃ、と思うかもしれないが。

「完全」という概念からは、ちょっとはずれるかもしれないが、料理とかお菓子とかも、きれいすぎる盛りつけとか、形よりも、多少、ごてごて、と かでこぼこした方が、かえって食欲をそそられる傾向が私にはある。
私には、料理をおいしく作ろうという意識はあっても、きれいに作ろうという意識はぜーんぜんないし、お菓子なんて、くずれたり、ちょっとこげてたりする方 がおいしそうだと思っているくらいだから、私が何かを作るとたいてい不評である。
私の美意識を理解してくれないのである。


本屋さんの昼下がり  BOOK INN

水牛 こんちは。集金です。
笠原 ああ、どうも。……コーヒー飲まれます?
水牛 はい、遠慮なく。あのさ、なんでここで水牛通信をお願いするようになったんだっ け?
笠原 定期的にとりたいってお客さんがいらして――その人はやめちゃったけど。(笑)で も、いま新しい定期の方が二人と、あと店売で二、三人という感じですか。
水牛 このお店、すごくきれいだよね、棚の感じが。日本の本も案外きれいだなと思わされ るほどなんだけど、きれいにしておくコツがあるんですか?
笠原 いやア、お客がすくないからじゃないかな。大書店とは、手にとる人の数がちがいま すから。それにうちは一冊しかおいてないものが多いですから、お客さまが帰ったあと、髪の毛がついてたりとか、オビが破れてたりとかはないように気をつけ てます。
水牛 どの本もピカピカ光ってるもん。
笠原 おいてる出版社の本がかぎられてますから、原色をガンガンつかったりとか、過激な デザインの本があまりないんですね。
水牛 笠原さんがこの商売をはじめたのはいつ?
笠原 この店が五年で、そのまえに四年ぐらい本屋につとめてたんですよ。そのまえは居酒 屋ですけど、そのころから憧れだけはあったんですね。いつまでもキャバレーにビールはこんでるだけじゃなく、すこしでも本にふれられるような環境に身をお きたいなと思って、それで本屋に入ったんです。
最初はあまり面白くなかったんですけど、一年ぐらいして面白くなってきまして、すすんで業界紙なんか読むようになった。そのころ『エディター』に池袋の芳 林堂の商品管理の記事がのってましたでしょう? 売り上げカードを集計する小さな箱の写真なんかがあって、すッごい世界だなと思った。それやこれやで、本 屋が面白くなってきたんですね。
ところが、このときつとめてた本屋は給料が安かったもんですから、二年半の経験をどっかで買ってくれないかなと、もうすこし条件がよくて、もうすこしス テップになるような本屋の募集をさがしてたんです。それで次の本屋に移って――そこは隔週土休だったんです。
水牛 いまから考えると夢のようじゃない?(笑)
笠原 そりゃそうですね。そこでは外商もすこしやったんですよ。商社とか保険会社とかに 行って、そこでお客さんに「この本、いいですよ」みたいなかたちで売ってまわって、それで客注が沢山とれたりすると面白くなってきまして、これなら自分で やってもどうにかなるんじゃないかなと、あまい考えをおこしまして……(笑)
水牛 ついはじめちゃった。
笠原 そうです。それが八一年の七月。
水牛 じゃあ、はじめっから一人だったんですか?
笠原 いや、最初はカミさんと一緒にやってたんですけど、子どもを保育園に迎えにいかな きゃなんないとかあって、なんとか態勢をととのえなおそうと思ってたんです。そんなこんなしているうちに、お客さんで仕事をやめるという人がいまして、本 のこともくわしくて、一緒にやらないかと、その人をさそいこんだんですよ。そのかれが二年ちょっといました。
水牛 ふうん。それでいまは……?
笠原 ええ、ついに一人になっちゃいました。(笑)
水牛 しかし、一人ってのは大変でしょう? 待てよ、いまは月曜日が休みでしたっけ?
笠原 火曜日ですね。
水牛 あとは毎日、お昼の十二時から夜の十一時まで! それで、お住まいが東村山で しょ? ここまで来るのに一時間ぐらいかかる。店しめて家に帰ると十二時か……
笠原 だいたい一時ぐらいですね。それから風呂はいって、新聞チラチラと見て、二時か三 時に寝る。だれもなにも迎えてくれないという悲惨な生活なんです。(笑)
水牛 お子さんが三人。下が双児でしたっけ。それで、笠原さん、いまおいくつなの?
笠原 二十九です。今日は三十日ですよね? 明日、三十になるんです。
水牛 それはそれは。じゃあ、これは誕生記念インタビューですね。
笠原 これがはずみになるといいんですけど。(笑)
水牛 で、一人だと、ここに坐っちゃうと、一日中、もう外に出られなくなっちゃうわけで しょう?
笠原 ええ。だから銀行いったり郵便物だしたりとかの雑用は午前中に処理して……
水牛 じゃあ、仕入れは?
笠原 それも午前中。でも、午前中だと辛うじてしかできないんで、火曜日に集中してやる んです。神田村(小取次がかたまっている)に行って、ちょっと真剣にまわると六時間かかりますね、往復入れて。
水牛 だったら、実質的には休みなしじゃないですか?
笠原 そうです。そうすると家族と接触する時間がなくなっちゃいますから、仕入れのあと 御茶の水とか新宿で待ちあわせして、夕飯くったりとかしてかえってくるんです。悲惨な生活ですよね。
水牛 悲惨というか……でも、あきんどって、おおかれすくなかれそういう生活でしょ?
笠原 そうかもしれない。いままではそう思えなかったんだけど、去年の暮あたりから、商 売人ってそうじゃないと嘘だなという感じが、なんとなくわかってきたみたいですね。それまでは変な合理主義があったり……
水牛 というのは?
笠原 たとえばお店をあけてても、たいしてお客さんがこないなら効率がわるいとか、光熱 費がどうのこうのとか。そういう考えがあったんです。そうじゃなくて、もっと謙虚にお客さんを待つ態度が必要だなと、最近、つくづく思います。(笑)まえ の気持ちでやってたら、苦痛で逃げたくてしょうがないと思うんですけど、いまはそんなことないですよね。逆に、たとえば十一時ちょっとまえにお客さんが見 えたりすると、すごくうれしい力になりますよ。
水牛 仕入れのときの本のえらび方なんか、なにか根拠があるの?
笠原 ぜんぜんないですよ。それ聞かれるの、いちばんつらいんです。
水牛 そんなことないでしょう。ずいぶんきちんと揃ってるもの。
笠原 まあ、この出版社だから、この著者だからというのが、いちばん基準になりますね。 あとは書評と……勘ですね。わりと勘って当たるんですよ。新刊の顔を見たときに、力のある本とない本とが、なぜかあるんですよね。力のある本っていうの は、ちゃんと売れますよ。
水牛 なるほどね。ほとんどが常連のお客さんでしょう? この人だったらこの本を買うだ ろうとか、そういう当たりはつきます?
笠原 ある程度はつきます。ただ、お客さんの買う金額って、おおむねきまってるんですよ ね。ある月に、その人が買いそうな本が沢山でちゃうと、どれかオミットせざるをえない。(笑)うちは単行本が主体だし、いま単行本は値段あがってますし ね。
水牛 しかも、ここは高いやつが多いもんね。なんで雑誌とか文庫とかマンガとか、あるい は小説とか、もっと売れる本をおかないの?
笠原 それも確たる方針はないんですけどね、たとえば小説だと、自分があまり触れてない ということがあると思うんですよ。それと、最近の定期的に産出されてくるようような小説のたぐいを追っかけてもしようがないような気がしちゃって……。
水牛 これで何冊ぐらいあるのかな。ここ何坪あるんです?
笠原 九坪。だいたい六〇〇〇冊ぐらいだと思います。だから小説でも、いいものはおいて みたいという思いはあるんですけど、なんせ資力とスペースの問題があるから、状況を見つつ充実させていきたいと……。
水牛 芸術と思想と……そのあたりが中心かしら?
笠原 支離滅裂です。あんまりジャンルとかは気にしないで、ひとつの面白い有機体として 存在できればいいと思うんです。
水牛 うん、お客さんもふくめてね。ここはお客さん、どういう人が多いんだろう? 学 生?
笠原 学生はあまり買わないし、その時期はやってるものを追っかける人が多い。やっぱり 社会人ですね。
水牛 ああ、それで夜の十一時までやってるのね。
笠原 ええ。夜おそい方がおおいですね。それと、どちらかというと、貧乏なお客さんが多 い。(笑)このへんは車の停めやすい場所なんですけど、うちのお客さん、歩く人と自転車の人ばっかり。(笑)
水牛 私もそうです。(笑)いま、こういう仕方で商売してる本屋さんは、どこも苦しいん でしょう?
笠原 児童書の本屋さんも苦しいらしいし、ウニタ書店もなくなっちゃいましたしね。で も、だからって中途半端なやり方でやってもしようがないみたいな気はするんですよ。
水牛 月一回、お客さんたちとの集まりをやってたでしょう?
笠原 年末年始、ちょっと休んじゃったんです。それに今年から十一時までにしちゃったん で、それでちょっと頭が痛いんです、早終いしなくちゃならないから。月例会自体も、もっと面白い仕方ができないかなと思ってるもんで、みんなが忙しいのを いいことに、保留にしちゃってるんです。
水牛 どういう本が売れるのかしら? そういう差ってあります?
笠原 あまりないんですけど、ただ大書店で十部売れるものが、こんなちっぽけな本屋で五 部売れるとか、そういう要素はありますけどね。だけど、うちだけで得にうごくというものはないみたいですね。ただ、一時はバレーの本が若干……
水牛 なんで? 近所にバレー・スタジオなんかがあったの?
笠原 いや、バレーの本を一生懸命おいていたことがあったんですけど、いまはもう意欲が なくなっちゃったんです。そういうお客さんはきれいな写真見て終りで、そういう本しか利用していただけないんで、つまんないんですよ。バレーの本読む人が 身体論の本を読むとか、そういうつながりがあったっていいと思うんですけど……
水牛 わアー、きびしいな。(笑)でも、それがあなたのいう有機的な本屋さんの空間とい うことなんだね。
笠原 ぼくだけだと穴ぼこが多くて、とんでもない商品構成になっちゃうから、そこをお客 さんのリアクションで埋めていきたいんです。ただ、お客さんのほうにも遠慮があるから、あんまり文句をいってくださらないんですよね。ぼくのほうはもっと 小言をいっぱい聞きたいんですけど、みなさんやさしいから。
水牛 でも、二、三回くれば、なんらかの会話はあるでしょ?
笠原 それは人によりますね。十何回きてるのに、ぜんぜん口をきいてくださらない方もい るし、こっちから話かけて、なんかうっとおしそうな顔されると、ああ、この人はこえかけちゃいけないんだなと……(笑)
水牛 ちょっとコーヒーが飲めるとか、そういうコーナーがあるといい。
笠原 ええ。結局、うちにきて本を買って、それだけの空間しかないんですよね。いまみた いにカウンターでちょっとお茶飲んだりとか、お客さん同士で自然に話をしたり目録をくったりとか、そういう感じがほしいんですけどね。でも、狭いもんです から、一巡して必要な本を買って出てっちゃう、遊びがないから。なんとか工夫してみようとは思ってるんですけどね。
水牛 ここは口でおしえるときは、どういえばいいの。ええと、阿佐ヶ谷駅で降りて……
笠原 阿佐ヶ谷駅北口を降りて、中央線と直角にまじわる「けやき通り」を北に十分ぐらい 歩いた左側です。
水牛 わかりました。じゃ、また。コーヒー、ごちそうさんでした。


料理がすべて  田川律


スペアリブ
12月末から1月はじめにかけて、ジャマイカとニューヨークに出かけた。12月22日夜のエア・ジャマイカ航空のニューヨーク・ターミナルは異様な混雑ぶ りだった。クリスマスで帰国するジャマイカ人で溢れたターミナルは、まさに“黒い熱気”に包まれている。いつものことだが、この飛行機は、乗合バスに翼を くっつけたようなもので、若い男の多くは、頑丈でデカイ“ラジカセ”をぶら下げているし――日本で見るようなカラフルでスマートなヤツでなく、メタリック な輝きにみちたとても大きいヤツ――中には、クリスマス・ツリーまで機内に持ち込もうとしている。カウンターの受付も、列があるようなないような、割込み したり、それを文句をいうのがいたり、こちらがよほど忍耐強くないと、気でも狂いそうなハチャメチャぶり。結局、キングストンのホテルに着いたのは、翌朝 の六時。寝呆け眼のフロントのおニイさん「どこの飛行機?」「エア・ジャマイカ」「そうだよな」と、当然のような顔。
さてそのジャマイカで、今回一番おいしかたのは、映画「ハーダー・ゼイ・カム」のラスト・シーンに出てくるライム・キイという島で食べたスペア・リブ。べ つに変哲のない塩味のスペア・リブだが、豆料理が主体のこの国では珍しいらしいし、半円形の“ストーブ”(バーベキュー・セット)で焼きたてのものは、ほ かにトウモロコシの団子と豆ご飯がついて六百円。

タイとクレンソンの水炊き
ニューヨークへ戻って、出発の日に友人の家で水炊きをした。チャイナ・タウンへ買出しに出かけたら、タイらしき魚があったので購入。野菜は、白菜とクレソ ン(!)。ほかに日本のものを売っている店でポン酢からしいたけまで見つかった。なにしろ、現在マンハッタンには五百軒もの日本レストランがあるという。
さて、タイ。これが帰って切ってみると、白濁している。まるで一度火を通したみたい。なるほど、アメリカ人は生魚を食わない、これでは食えない、と妙に感 心。クレソンはセリみたいで、苦味があっておいしかった。

ぶっちぎり鮨とえびのカラ揚げ
80年に桜の季節に外国にいたら、帰ってきてからもずっと春が来なかったような気がしたが、“新年”の方は、年越しそばを食べずとも、紅白を見なくとも、 雑煮を食べなくても、帰ってきて届いていた沢山の年賀状を読み、周りから、忘年会や新年会の話を聞けば「年があけた」という気になる。
と思ったら、日教組教研修会の助言者として大阪へ出かける日が来た。全体集会の会場がぼくの生まれた家のすぐ前、その頃は“立入禁止”の連兵場だったとこ ろ。去年札幌では、すっかり食事の“ガイド”にされたが、大阪でも「あなたの本場」ということであてにされた。が、いざとなるとふだんはいないし、すっか り変貌しているしで、どこ行ったらええねんと、悩んでしまった。かえって同じグループの助言者、本誌にも連載していた映画監督の西山正啓さんに教えられ て、キタの盛り場のド真中の“元祖ぶっちぎり鮨”へ行くほど。ここがコワイところ。ネタがトランプの札ほどのサイズで厚さがこれまたゆうに一センチはある というようなものが出てくる。なんぼ大阪やいうても、これはちょっとやりすぎちゃうか。鮨食うてるちゅうより、魚のぶつ切り食うてるみたい。
その大阪でカゼを引いたので、いちにち、主治医とぼくが勝手にきめている友人のうちへ出かけ、幾つかの揚げものをした。その時、かれの連れ合いのフミコさ んに教えてもらった“エビの唐揚げ”。生きている芝エビ、大きいのは頭だけとって、塩、コショウしてしばらく置き、これをパン粉の上でスリコギを使って、 ギュッと押し潰す。早い話が、エビセン状にして、カラッと揚げる。この日、揚げるのだけ手伝ったけどうまかった。

毛ガニと越前ガニと甘エビとタラ
1月26日は、こんなゼイ沢な一日だった。昼間、前日川崎の生活クラブ生協の大売出しで生きている毛ガニを買い、それと東急地下で買ったタラを使って、ゆ でた毛ガニと、そのゆで汁を使って、いつものタラ湯豆腐を作って食べた。夕方、近くの林のり子さんのうちで「金沢フードピア」の打ち合わせ、とかで出かけ て行ったら、今度は越前ガニと、甘エビと、生のタラの白子がたっぷりあって、ひたすら食ったあとで、ここでもタラの水炊き。一日に二回同じ種類のものを、 全く別の場所で食べるのも珍らしい。
それから二、三日は、また“同情”されそうな、タラ湯豆腐の残り物再生料理。最後は、トマトを入れ、餅を焼いて加え、味噌味にして一種の雑煮を作った。タ ラとセリとトマトの雑煮、とでもいえばいいか。どんな味がしたか、ちょっとイワクイイガタイ。
林さんとこの“つまみ”最高。ジャコ、干エビ、ニンニク、ショウガ、長ネギをミジン切りにしていっしょに油であげる。残った油はタカノツメを入れてラー油 として使う。



走る・そのニ  デイヴィッド・グッドマン

一九七七年。マンハッタン島の西側を流れるハドソン川からおよそ一〇〇メートルはなれた市営アパートの玄関から、おずおずと顔をだす。きょうこ そ強姦されるかもしれない。
短い階段を駆けおりて、川から吹き荒れる風にぶつかって、きょうもゆく。それっ!

五分しか走らないが、勇気がいる。ここはなにしろ、同性愛地帯。左にまがって川のほうに駆けていく。角まで三〇メートル。ここまでは大丈夫だが、ここでま た左にまがれば、ゲイ専用のバーの前をとおらなければならない。右にいけばむかし屠殺場だった、人影の少ない物騒な区域で恐い。ぼくは直進する。五車線の ハイウェーだが、しかたがない。七〇キロもだしている車のあいまをぬって、もうとっくに使われなくなった埠頭にたどりつく。

だが、ここにもいた! 女装した男娼はここで客を待っている。ときどきビュービュー走る車が止まって、娼婦をのせる。腕に入れ墨をした大男が運転するト ラックであったり、グレーのビジネススーツに身をかためた家長風の男が運転するステーションワゴンであったりする。ぼくは一目散にそこをはなれて、川に そって、逃げるように走る。

ひき殺されるより強姦されたほうがましだと、何度かこの危険な横断を繰り返しているうちに、考えるようになった。ゲイバーの前を通る道を走ることにした。 あのゲイバーの前を通ると、先に鉤のついた、長い長ーい杖は戸口からのびて、ぼくの首をつかむ、ぼくはゲイバーの中へ引きずりこまれてしまうにちがいない が、死ぬよりましだ。クリストファー・ストリートに面して、鞭をショーウィンドに飾っているゲイ・ブティークの前も通らなければならない。でも大丈夫。ぼ くも男だ!

あつい夏のある日、白いテニス・ショーツを穿いて、買物にでかけた。クリストファー・ストリートでは、ニューヨーク市長の出席も予定されていた、ゲイ・リ ブの大集会がひらかれていた。ブリーカー・ストリートと十四丁目の交差点までいって、信号をまっていると、道のむこうにぼくをじっと見つめている男がい る。信号がかわって道を渡ろうとすると、男は道の真中で立ち止まり、両手を腰にあてて、ぼくに叱るようにいう。「あんた、きょうゲイなことは一つでもし た? 仲間のためになにをした? いってみなさい!」

     *

エイズで入院している友人に会いにいったのは、今からちょうど一年前のことである。「出てくる前に、必ず手を洗うように」と病室のドアに貼紙が してあった。入ってみると、「面会の前に、手を洗うこと」とあって、洗面場の鏡の横に、手の洗い方についてのこまやかな指示もしるされていた。病人の菌を 病室の外に持ち出さない、外界のばい菌を病室の中へ持ちこまない、ということであった。

ランニングの仲間でもあり、現在はぼくが所属しているイリノイ大学の東アジア・大平洋研究センターの同僚でもあるこの友人は、好きだけど、それほど親しい 友達ではない。ぼくらは同時期にエール大学に在籍していたが、たしかに会っていると記憶しているぼくに対して、そういう記憶はないとかれはいう。そして家 族を養うことで忙しいぼくの世界と、同性愛者仲間を中心とするかれの世界とは、あまり交差することはない。

<後天性免疫不完全症候群>がうつったらどうする? とは一度も考えたことがない、といいたいが、大病をしたことのあるぼくにとって、病気はやはり恐い。 でも、納豆が恐くて豆腐屋に近づけない、というのでは、はじまらない。

なるべく定期的にその友人に会うことにした。真菌性脳膜炎がなおって退院したかれは週に三回、その都度六時間もかかり、モルヒネを併用しなければ痛みに耐 えられないという点滴をはじめた。「致命的状況に直面している患者たち」を専門的にみている精神分析医のところへも通いはじめた。左の目の視力が、やはり 真菌性の炎症で極度に衰えたり、「エイズ患者は、みない」と眼科医にいわれたりして、いろいろとあったが、去年の七月、ぼくたちがアメリカを発つ前には驚 くほど元気であった。一度だけ、自分よりあとでエイズと診断され、それから六カ月もたたないうちに死んでしまったかれの友達のことを話してくれたときだ け、かれは泣いた。

     *

イリノイでは、零下十七度(摂氏零度)ぐらいになっても外で走ることにしている。それ以上温度が下がれば、仕方なく体育館のコースをぐるぐるま わったり、プールで泳いだりするが、なるべく外に出る。

零下十七度というのは、寒い。零下六、七度でも、風のある日はつらい。吹雪の中を走っていると、「アホウか、おまえ!」と我ながらおもう。

だが、それでも、走る。なぜなら、それはぼくの人間としての威厳にかかわる問題だからだ。





音楽時評  坂本龍一


コンサート
先月はコンサートの話題がメインだったのに、年が明けた(っていうのも何か変だけど)今月は全然いかずじまい。どういうコンサートがあったのかも知らな かった。それというのも例のスタジオ・ワークのせいなのだが、という訳で――

レコーディング
だいたい、スタジオ奴隷とか言ってるけれど、何故にそんなに時間がかかるのか、なんて思われる方が沢山いるだろうし、自分でも時々、なんでこんなに時間か かっちゃうんだろうって思う。
そこでスタジオで何が行われているのか、ちょっと分析。

先月も書いた様に、今アルバムを製作中です。メインの卓はイギリス製のSOLID STATE LOGIC、メインのレコーダは、SONYの3324 DIGITAL RECORDERです。この3324にはトラックが24あるので3324(因にもうすぐ48トラックの3348が発売されるそうです)。録音はこのメイン レコーダーに一音一トラックづつ入れていく訳です。だから普段同時に一つのものとして聞いている曲の中には、分解してみると、バラバラの数十個の音が含ま れているんです。24トラックでは足りない、もっと音を入れたい! という場合もでてきます。例えば、普通のポップスを考えてみると、ドラムスだけで、足 太鼓(キック)1・小太鼓(スネア)1・タム3・ハイハット1・シンバル2ともう8トラック使っています。それにベース1・ギター4(ステレオ×2)シン セサイザ2(ステレオ)、もうここで15トラックも使ってしまいました。しかし今どきシンセサイザが一個だけなんていうことはあり得ないので、このオケ (カラオケのオケ)の段階でほぼ3324はうまってしまいます。しかしよく聞いてみると、弦楽合奏だコーラスだ金管楽器だ逆回転風効果音だ、に加えて「う た」が入りますから24トラックでも足りない訳です。その場合には他のマルチ・レコーダーとデジタル・クロックによる同期 (SYCHRONIZATION)をしてトラックを増やします。さてここで僕の場合をみてみると、これらのトラックに録音されている音一つ一つをたった一 人で作っていくのです。演奏はほとんど全てコンピュータでやりますから、そのプログラムに要する時間は演奏内容によってケースバイケースですが、色々試行 錯誤をしていますと30分から1時間かかります。それに音色の設定があります。デジタル・シンセサイザやサンプリングマシンですと決定しなくてはならない 要素が沢山あり、一つの音色の決定が曲の中の他の要素とのバランスで、アレンジの要になっていくので慎重になります。ここで1時間。演奏自体は5分の曲な ら5分、3分なら3分と、マチガイなく完璧な演奏をやってくれるはずなので極めて短時間。要するに1トラックの音に長い時は2時間もかけちゃったりする訳 ですから、単純計算で24トラック録音すれば2×24=48時間、1日8時間労働したとして6日かかってしまうのです。アルバムに10曲あるとして60 日。しかしこれは録音だけの時間で、作曲に要する時間は含まれていません(くらーい気持ちになる)。その他に細々と雑事が山程あるのです(と弁解)。です から1枚のアルバムを制作するのに2カ月も3カ月も費やしているからといって、決してノンビリやっている訳ではないのです(と、キッパリ言う)。もし1枚 のアルバムに3カ月かかったとすると、1年でたったの4枚。レコードの売れない昨今、これでは家族4人とノラ猫1匹が食べていくのにキューキュー。それに 加えて自分のレコードを作っている間は収入がないっ!! 因に数年前の数字で、音楽産業のシェアは全国の豆腐屋さんと同じだったので、現在はもっと低下し ているでしょう。別に豆腐屋さんと同じだから情けないという訳ではけっしてありませんが、ハデな割になんとも小さなマーケットだということがお分かり頂け るのではないかと思います。ハハハッ、思いっきり暗い話になってしまいました。なんとかこの環境をスルリとかわしてしまうやり方はないものだろうか?

 制作時間の短縮化
  音楽を変える→短い時間でできる音楽。
  テクノロジーの効率化。システム・アップ。金がかかる。
 分業化
  僕のクローンをつくり同時並行で作業。延べ時間はかわらないが日数を短縮できる。
  曲だけ作る人になってしまうとか……。制作をチーム化する。

などと、くだらないことを考えてないで、今日もスタジオ行こっと。だけど本気で環境を変えないとね。


水晶島を望む  鎌田慧


根室市長の初夢は、ソ連軍の侵攻だった。突然、市長室に攻めこむ兵士に驚き、かつ目覚める、というのは、いささかできすぎた話だが、それはけっしてわたし の創作などではなく、根室に駐在している友人の記者が市長からきいた話である。

道東とよばれている根室、釧路、別海町などクルマで走ると、道ばたのあちこちに「返せ! 北方領土」の看板がたてられてある。一年中、そんなスローガンを 眺め、市長の座に坐っていると、ソ連軍上陸の悪夢にうなされるようになるのであろうか。

昨年暮、根室の市街地に奇妙な物体が発見された。爆弾らしい。警察の鑑定によるも正体不明で、自衛隊で調べた結果、ソ連製の模擬弾だったという。潜水艦か らまちがって発射さっれたものらしい。その騒ぎが、市長の神経をいたく刺激して、ありがたくない初夢になったらしい。

どうしたことか、友人は卒然として札幌を去り、根室通信局に単身赴任のわび住い、すでにこの辺境の地に三年も滞在している。釧路まではいったことはある が、その突端まで足を伸ばすチャンスなどめったにあるものではない。それで、パイロットファームの取材を考えだして、北方領土の見える町、根室をたずねる ことにしたのだった。パイロットファームとは、昭和三十年代のはじめ、世銀借款によって建設された機械化大酪農地帯のことだが、その後離農者続出となって 失敗に終った大事業である。

さて北方領土である。日本の教科書では、ハボマイ、シコタン、クナシリ、エトロフの四島に赤い線を塗られ「ここは日本領だ」と強調されているが、いまだ日 本には帰属していないのであって、独善的な教育というしかない。

根室の市街地から巾の広いなだらかな傾斜をオホーツク海にむかって降りる。その先端に突きだしているのが、ノサップ岬である。
「クナシリがみえるよ」
運転台の友人が声をだした。助手台の窓から、左手の水平線のうえに眼をこらすこと、雪雲とまじりあって島影がみえた。想像していたよりはるかに高い。雪が チラついている。はたして、それよりちいさなハボマイ諸島がみえるかどうか。ふたりとも、期待と不安に支配されておし黙っていた。

岬にむかう道の両端にひらべったくひろがっているのが歯舞町である。ちいさな船溜りがみえる。漁師町なのであろう、軒の低い人家が寒風の中にたちすくんで いる。やがて前方に海がひらけ、岬の突端についたのがわかる。はやる気持ちを抑えてクルマを降りたが海のむこうには濃いガスがかかっていて視界をさえぎっ ている。
「灯台だけみえる」
指さすほうに眼を細めると、棒杭のような細長い影があらわれた。貝殻島の灯台。三・七キロ先だそうである。二回ほどいった与那国でも、ついに台湾をみれず に終っていた。島影のようなものはみたのだが、冷静になってみればやはり雲だった。対馬に滞在していたとき、一度だけ韓国の島をみたことがある。金達寿の 小説に対馬まではるばる故郷の島を眺めにいき、ついにみられずに帰るのがあるが、わたしの場合、国境のむこうに、さほどの想いがあるわけではない。

ラーメンでも喰おうや、ということになって、一軒だけのお土産屋にはいった。
「ステンカ型がきたよ」
双眼鏡をクビからぶらさげたまだ若い店主が、顔馴染みの記者のそばに寄ってきた。いつの間にかガスが晴れて島がみえている。

お土産屋の隣に「望郷の家・北方館」がある。ここを訪れた鈴木善好や安倍晋太郎などの写真がパネル板になって飾られている。案内人の指先の彼方に、北方領 土を望んでいるポーズで収まっているのだが、その日はあいにくガスが濃く、彼らは何もみずに帰った、という。

北方館の二階の窓際に、六、七台の望遠鏡が備えられている。観光地によくある奴である。観光地とちがうのは何分見ても無料。それがわたしをご機嫌にさせ た。ありがたき政府の配慮である。

水晶島がみえた。七キロ先である。切り立つ断崖のうえにソ連の監視所がある。横に長い島を静かにパンすると兵舎らしき建物も映った。風が強いためか、兵士 の姿はみえない。双眼鏡に映った陣地から鶴がゆっくり飛びたつ長谷川四郎の小説「鶴」のファーストシーンを思いだした。晴れた日にソ連兵が洗濯しているの がみえるよ、というのが、記者の触れこみだった。わたしは、その国境のむこうの陽だまりの中にある「日常生活」にイメージをかきたてられて、根室までやっ てきたのだった。

ずうっと右手の沖合いに、ソ連のネズミ色の快速警備艇がじっと停泊しているのがみえた。左端に独航船が二隻荒波にみえかくれしながら奮闘していた。ウニの 密漁船である。ソ連艦が動きだすと、彼らは二発の船外機を全開ににして逃走する、という。平和な風景だった。
夜、水晶島のむこうで獲れた、という花咲ガニを食べた。密漁の味である。


水牛かたより情報


●片岡義男『幸せの白いTシャツ』
十七ページ分のテープおこしをすませてホッとしていたのになア。モーツァルト・サロンの『カール・ファレンティン特集』も終ってしまったし、手帳のどの ページをひっくりかえしてみても、お伝えするに足る情報が一つも見あたらない。入院しているわけでもないのに、なんのひろがりもない生活をつづけている証 拠だろう。
ちなみにファレンティンはブレヒトのお師匠さんともいうべきドイツの伝説的な奇席芸人。そのコント集だったが、期待がでかすぎて失望した。ギャグがくどく て、おもくるしい印象。
タイトルに降参して、ずっと敬遠していた片岡義男の『幸せの白いTシャツ』を読んだ。若い女性がバイクで日本のあちこちを走る。その途中でさまざまな人た ちと知りあうというだけの簡単な小説なのだが、その簡単さがミソである。「幸福」という主題にかんする極度に抽象的な作品という意味では、幸田露伴の『有 福詩人』とか、あるいは武者小路実篤を連想させる。露伴→実篤→片岡という幸福文学の流れ。日本では不幸な系譜だ。(津野)

●黒川創『「竜童組」創世記』亜紀書房・一八〇〇円。
黒川創こと北沢久のはじめての本である。一九八四年に宇崎竜童が「竜童組」をつくってからの一年間、かれらとともに行動してつくった記録。
音楽業界で仕事にあきあきした宇崎が、ダウンタウン・ブギウギ・バンドを解散して、川崎の街頭で新しいバンドをはじめる。二十四歳が三十九歳の本を書き、 それを四十七歳が読む。読むことができる。そこがおもしろかった。一冊の本を仲立ちとする老中青結合といえばおおげさか。おおげさだなあ。
黒川さんは京都の人で、いま新京極についての本を準備している。かつての不良少年の天国が、よく管理された観光町になってしまうまでの経過を、町の人々の 話をつうじてたどろうとする本。うまくできあがるといい。(津野)

●中野区中央に住む読者の矢部百合子さんから「お菓子のなる木」の歌詞を送って貰った。矢部さんの手紙によるとなんとSPレコードにもなってい たそうだ。二十年近くもぼくの中で、ただ“記憶”でしか鳴っていなかった歌が、ホントに実在したと知って、ひと安心――だって、周りはこの話をするたびに 「どうせ、あんたの創作だろ」というんだから――。

  お菓子のお山のおじさんが
  お菓子のなる木をくれました
  お菓子のなる木を植えたなら
  三年三月で実がなった
  ぶらりとさがったチョコレート
  おせんべ、あんぱん、カステイラ
  朝なる昼なるうれしいな

ぼくの“記憶”では、最後は“うれしいな”でなく“晩になる”で、昔は本気にどうして、晩でもなるのだろうか、と思ってたものだ。矢部さんの手 紙では、二番が「おもちゃのなる木」で、三番が「お金のなる木」さらに、ひょっとすると“おべべのなる木”もあったかも、ということです。ぼくも“おも ちゃ”“お金”は覚えがある。“おべべ”については全然覚えていない。でも、それぞれに、どんな“おもちゃ”“お金”“おべべ”が出てくるのか。キン肉マ ンや、ガンダムやミニ・スカートでないことだけはたしかだ。それにしても矢部さん、レコードを二年ほど前処分してしまわれたとか。残念! もし、ほかの方 で、このレコード、楽譜などお持ちの方はぜひ教えて下さい。
それにしても、「水牛通信」の力は偉大である。たった七百部だというのに――。(田川)



編集後記

「映画時評」は執筆担当の高橋悠治が急病のため、今月は休載します。病気の騒動は一月なかば、前立腺炎ではじまりました。この病名が明らかになってみる と、それぼくもやったことあるけど、イタイんだよな、という男の人が、身のまわりだけでも意外に多いのは、ちょっとしたおどろきでした。症状など体験者の はなしから察すると、前立腺炎とは、女の人にとっての膀胱炎に匹敵するもののようです。
ところで前立腺はどこにあるか。家庭の医学などという本で調べると、ただしくは膀胱の直下にあって尿道をとりまいているということになっています。しか し、男の人はこの「前立腺」という名前と自分の生殖器の機能をむすびつけつぎて、尿道のもっと先端にちかい部分にあるとおもいこんでいる場合も少なくない のですね。田川律さんもそうかんがえていたひとりですが、彼の場合は「前立腺肥大」という持病があるのに、というおまけつきです。
このような前立腺談義をしている間も当の病人は治療に専念していました。治療とは、ただ抗生物質を飲みつづけることなのですが、その抗生物質のために肝炎 を併発。苦痛は去ったものの当分静かな生活をしなければならない境遇となりました。
去年は津野海太郎の痛風であけたのでした。来年は誰の番でしょう。
きょうは節分。「津軽海峡波高し。八甲田丸にて」というメッセージとともにゼンソク持ちの鎌田さんから原稿が速達で届いて、無事……いや、有事ながら今月 号もなんとか。(八巻)




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