水牛通信

人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1986年3月号 通巻80号
        
入力 桝井孝則


編集事務所の昼下がり ル・マルス
キリコのコリクツ 玖保キリコ
本橋先生の整理学
料理がすべて 田川律
走る・その三 デイヴィッド・グッドマン
病気・カフカ・音楽(その一) 高橋悠治
音楽時評 坂本龍一
水牛かたより情報
編集後記



編集事務所の昼下がり ル・マルス 田中和男


水牛 この事務所、いつきても変わってませんね。四谷愛住町の古ビルの四階ね。この十年 間、いつきても、まったくおなじ感じがする。田中さんの白髪がふえただけ。
田中 いやア、ふっふっふ。
水牛 あのさ、この『グラフィケーション』っていうのは、田中さんたちの「ル・マルス」 でだしてる富士ゼロックスのPR雑誌なのね。いまは、おもに先端科学や技術の問題をとりあげてるわけ。そのくせ、ここにはワープロもないんだもんなア。
田中 はっはっはア。そういえば、こないだ室謙二さんの事務所でパソコン通信なるものを 見せてもらいましたけど、あれも半信半疑だな。「コンピュサーブ」とか……
水牛 「ザ・ソース」とかね。アメリカのデータベース。
田中 ちょうどフィリピンの問題がはじまったとこだったから、「じゃ、きょうはワシント ン・ポストの論説をとりますか」なんて。
水牛 ふふふ。それは室がデモンストレーションやったんだな。でも、かれなんかが実際に 考えてるのは、そういう他人より早く情報をとるということよりも、パソコンを対話的なメディアとしてつかえないかというようなことなんでしょう?
田中 そう、やりとりのおもしろさね。電子メールとか電子会議とか……
水牛 電子雑誌とか?
田中 うん。おもしろいんだけど、でも、もうちょっと先だな。
水牛 印刷雑誌をあまく見てもらっちゃこまると。で、『グラフィケーション』はいま何年 目? 十年ぐらい?
田中 いや、十五年ぐらいですかね。はじめの十年は文化論が主だった。スポンサーが外資 系でしょう。外資系といっても半々なんですけどね、いま考えると、アメリカの企業が日本でうけいれられやすいイメージをつくるには、日本文化に対する理解 をしめす必要があったんだろうと思うんです。最近のIBMなんかもそうですけどね。ぼくはそういうことはぜんぜん考えずに、タイミングよく大衆文化論とか 日本文化論とかをやれる雑誌があるというんで、それではじまったんです。
水牛 あと複製文化論とかね。
田中 そうそう。そっちまで強引に裾野をひろげていっちゃった。当時は企業も余裕があっ たから、ビジネスに直接かかわらなくても、まあ、講座でもやるような感じで……
水牛 あのころの企業PR誌っていうのは、版元・取次・書店という、いままでの流通シス テムとはちがう場所での出版のこころみだったと思うのね。地域のミニコミなんかとは別の場所での「もう一つのメディア」だったんだね。とりわけ『グラフィ ケーション』の場合は、ミニコミの交通がさかんだったでしょう?
田中 そこらへんは意識的に、ほかのミニコミとくっつけようとしたんですよ。それまでも サントリーの『洋酒天国』とか資生堂の『花椿』とか、有名なPR誌がいっぱいあったけど、どれも商品の流れにそってながれていくというか――たとえば『洋 酒天国』はバーでくばってたし、『花椿』は化粧品屋の店先でしょう。それは江戸時代とおなじなの。江戸時代にも小間物屋や呉服屋がだしたPR誌みたいなも んがあったんです。その延長上だから。
水牛 そりゃそうだ。
田中 だけどゼロックスは地盤もないし、そういう流通の流れにそってPR誌をだしていく ということはできなかったんです。それよりもむしろ野次馬に徹して、ミニコミ誌とかタウン誌に似たものをつくるほうがいい。
水牛 ライターなんかもミニコミ的な人がおおかったね。ぼくなんかもしばしば助けていた だいた。(笑)おなじこと書いてもミニコミじゃお金にならないけど、ここだとホラ……。
田中 はっはっは。
水牛 すごいありがたかった。金のない連中は、みんなずいぶん世話になったんじゃないか な。
田中 そのへんはよくわかんないけど、まア七〇年代ですよね。
水牛 そのあと「教育」や「子供」にテーマが移ったんでしたね。
田中 ええ。だからミニコミ的なイメージではじめながら、だんだん総合雑誌的なつくり方 にひろがってったみたいね。
水牛 ゼロックスっていえば、やっぱりハイテクの世界じゃないですか。そういうとこから 問題はでなかったんですか?
田中 いや、まだハイテクじゃなかったのね。ビジネス・マシーン。つまり事務機なの。ほ ら、あるでしょう、ガシャンとボタンを押すとお金がでてくるの。レジスター? あんなようなイメージですよ。
水牛 そうかなア。それはちょっとちがうんじゃない?
田中 いや、あの程度じゃないかなア。原理的にはさ、ゼロックスっていうのは日光写真と おなじで、それ以前は青図でしょ。つまり光で反射させる。それをただ静電気を利用して定着させるという、その点では技術的にすこしすすんでいるけど、原理 的には素朴なもんだと思いますけどね。オフセットだったら水と油、日光写真だったら薬品の反応でやるところを静電気でやる。それだけのちがいですよ。
水牛 なるほど。そういうふうに考えて、田中さんはミニコミとの共通点をさがしたんだ な。(笑)
田中 そういうとこもあったかもしれないけど、まア、複製ってのはおもしろいんですよ。 映画とか、ほかのメディアだってそうだと思いますけど、時代の精神みたいなものにかさなってますからね。
水牛 それでよくワープロとかに関心もたないでいられますね。
田中 いや、すごく関心はあるんだけど、なんか規格とかがあいまいな気がしてね。タイプ ライターみたいに法則がきまってて、だれがやってもおなじようにできるというふうになればいいんだけど、ちょっとまだ複雑すぎるような気がするんだよね。 機械は素朴なほどいいんですよ。
水牛 それは異論ないけど、それこそいまエレクトロニクス産業がめざしているところじゃ ないですか。「ヒューマン・インターフェイスの日立です」とかいってさ。
田中 速記者なんか、みんなワープロになりましたね。おっしゃるとおり、そりゃあ自分で やればいいんですけど、ウチはね、もともと速記はぜんぶ外にだしちゃってるんです。そこは手をつけたくないんです。
水牛 いそがしいから?
田中 それもあるし、ホラ、日本から速記者がいなくなるとさびしいじゃないですか。
水牛 はっはっは。
田中 ああいう職業をうばっちゃいけない。あれも早稲田速記とか何十年かの伝統があっ て……
水牛 田鎖鋼紀さん以来のね。
田中 うん。そういう仕事をちゃんとやる人がいたほうがいいと。それをなんとか残してい かなければと。
水牛 田中さんとこは、いっかんしてそういうふうにやってる。そこがおかしいね、ハイテ クのくせして。
田中 またまた。(笑)自分ではあまり意識してないんだけど、仕事のぜんぶをここでやっ ちゃいけないと思ってるの。分業がいい。絵だってね、そりゃあ自分で描けば描けるんだよ。
水牛 あ、そうか。もともとは絵の人なんだものな、あなたは。
田中 まあ。「こんなオレだって描けらア」というような下手くそなのもあるけど、それを 自分で描いちゃいけないと思うのね。そこんとこでグッと我慢して、どんどん若い人がでてくるのを待つべきだと思う。(笑)えらそうなこといっちゃいますと ね。
水牛 いいんじゃないですか、ふえた白髪の分ぐらい威張ったって。「ル・マルス」って編 集プロダクションの走りみたいなものだったのかな?
田中 「コスモPR」とかの大手はありましたけどね。
水牛 ぼくなんか、そのうち編集プロダクション主体になるだろうと思ってるんだけど、そ れもよしわるしでさ。たぶん映画とかテレビとおなじ下請けによる業界合理主義にゆきつく可能性のほうがつよいよね。
田中 ウチもはじめたときの気分はそうだったな。映画屋さんのやり方で、月給じゃなく、 もうかった分はぜんぶギャラとして分配しますというシステムではじめたの。
水牛 独立プロのシステムね。
田中 うん。会社に残す必要はない。ぜんぶ分配しちゃおうという。
水牛 何人ぐらいいたの? 田中さんと高田さんと……
田中 あとカメラマンが三人、デザイナーが三人。
水牛 そんなにいたの!
田中 ここ以外の仕事をやってもいいということでね。自分一人で処理できる仕事は自分で やって、みんなの力を借りなければならない仕事はみんなで相談してやるというふうにやってきた。ぼくが統率して、その収入はみんなで分ける。つまりフリー 職人があつまった協同組合的なかたちね。
水牛 自由な職人の自由な連合ね。
田中 そのころは映画なんかもやったんだよ。とびこみでPR映画とかコマーシャルとか。 いそいで映画の専門家たちをあつめて、こっちは素人だから知ったかぶりして。
水牛 でも、そういうかたちでつづけていくのは、この世では、なかなかむずかしいでしょ う?
田中 やっぱり法人としての蓄積を考えなきゃダメなのね。だけど最初は経営のことなんか 分かんないから、ドンブリ勘定っていうか、蓄積ゼロ、ぜんぶ分配しちゃった。それがいちばんスッキリしてるんだけど、企業としての力はたくわえられない と。
水牛 そういうこと。で、いまは何人でやってるの?
田中 常勤は三人。ぼくと高田と、もうひとり若い人と。ほかにデザイナーとカメラマンが 三人。
水牛 おもな仕事は『グラフィケーション』と、あと川崎市の文化雑誌がありましたね。
田中 ええ。
水牛 それがわるいっていうんじゃないけど、自治体が自分とこの雑誌の編集を外部にたの むっていうのは、どういうことなのかな?
田中 本来はおかしんだけど、そういう仕事に人間をさけないということがあるもんね。な んとなく自信がないということもあるし。でも、本当は、もっと素朴でいいと思うんだよね。それで、ぼくもいつもいってるんですよ、「編集は自分たちだけで やったほうがいいんじゃないの」って。だんだんなれてきたみたいですけどね。
水牛 文化的な仕事っていうと、自分とこに経験を蓄積しないで、どんどん外にだしちゃ う。なんでもそうだもんね。そのことで風通しがよくなるっていう利点あるけどさ。
田中 結局、住民の感覚とはなれちゃうとダメなんですよ。だから、いずれは内部でだすべ きなんだけど。ただ意図としてはね、啓蒙っていうとおおげさだけど、市の文化団体とか行政内部のいろんなセクションを刺激したいってことがあったみたい ね。文化についての関心を深めるためには、とりあえず、ちょっと洗練されたものが必要だと、そういうことではじまったみたいですね。
水牛 いや、田中さんぐらいのとこがいっしょにやるのはいいと思うの。本気でとっくみあ いをやるんだから。そうじゃなくて、そのやり方が自動的にふくらんでって、それこそ電通とか博報堂がでてきたらさ、結局は、いずこもおなじ文化的な中央集 権がくりかえされるだけで。
田中 そういえば、『宝島』をだしてるJICCがそうでしょ?
水牛 あそこは区とか町レベルまで、まるでジュータン爆撃みたいにやってますよね。日本 中、板みたいにまったいらにして、それで金をもうけたんだもんね。
田中 ああいうとこが、もっとでてくるんじゃないかな。
水牛 話をかえましょうか。(笑)いままでの『グラフィケーション』で、どの号がいちば ん記憶にのこってますか?「崔承喜」特集?
田中 うん、ひじょうに印象ぶかいですね。あの号はまったくなくなっちゃったもんね。
水牛 いわゆる「半島の舞姫」ね。対日協力の疑いとか北で粛清されたとか、いろいろ複雑 な事情があって、それこそ、モンロー級のスーパースターだったのに、日本どころか、韓国でも共和国側でも、あえて無視されてきた。PR誌といったって、あ あいう大胆なことができるんですからね。
田中 一つには、ただの民族資本じゃなくて多国籍企業だということがあるんですね。韓国 とか東南アジアにも需要をもっている。そういう市場性があるから、日本の文化とそれぞれの国の文化との関係についても無関心ではいられない。あのころは 「柳宗悦」特集もやったし、ほかにもいくつか手をつけてるんですよ。
水牛 そうでしたね。
田中 いちばん最初は、七〇年代のはじめに「在日朝鮮人」を特集したのね。ビジネスとし ての多国籍企業にはいろいろ厄介な問題があるけど、文化の問題としては間口が広いから、こっちとしてはやりやすいんです。
水牛 すくなくとも天皇制にはならないわけだ。
田中 そうそう。そこからはなんとか逃げだせる。
水牛 多国籍企業のPR誌に、ふつうの商業雑誌よりも自由なとこがある。逆説的だね。
田中 なんといっても売る必要がないですからね。まア、どっかで企業のイメージと抵触す るとは思うし、あまり矛盾するとバサッとやられるんだろうけど、いままではそういうことはなかった。だからビジネスっていうのは、以外とバカにできないと 思うんです。商売とダブらせながら考えていくと、ふつうの概念では「これどうかな?」と思うようなことでも、案外、自由にやれたりすることがあるのね。マ ルコ・ポーロなんてのも、あれ商人でしょう? 商人が、ああやってアジアを歩いてるんで、ていねいに考えれば、まだ知られていないマルコ・ポーロの側面が たくさんあると思う。
水牛 そういえば韓国だけじゃなく、東南アジアについての特集もいろいろあったな。
田中 「東南アジアのマンガ」とかね。平野甲賀さんにもタイのマンガについて書いても らった。
水牛 『グラフィケーション』はきれいだからいいよな。ふつうだったらミニコミのきたな いのでしかやれないような特集を、カラーできれいにやっちゃうのがおかしい。でも経済的には大変なんでしょう?
田中 でも、この四、五人がメシ食っていけばいいんで、なにがなんでもビルを建てなけ りゃとかいうことはないからさ。みんな身すぎ世すぎでやってるだけだから気楽ですけどね。ふつうは車を買ったりとか、もっと手びろくやるんだろうけど、ウ チにあつまってくる人たちは、どうもそういう意欲がないんで……
水牛 はっはっは。
田中 わるくいえば、自分のカラからでようとしない。なんか半端なことをやってるんです よ。
水牛 そうかもしれないけど、ちょっとちがうと思うの。こういう場所に田中さんみたいな 人がいて、「ル・マルス」みたいな組織があるというのは、いろんなやつにとって力になりますよ。さっきもいったけど、ぼくも経済的に苦しいときに、「ル・ マルス」にすがりついて食わしてもらったおぼえがあるもん。なんていうかさ、その人がその場所にいなくなると、みんな、なんか生きにくくなる――そういう ことがあるんじゃないかな。
田中 いまさらスポンサーにゴマするわけじゃないけど、経営者の平均年齢がわりと若かっ たから、無名の新人とかユニークな人とかを起用して、それで雑誌の特徴をだしていくことに抵抗感がなかったのね。大先生に書いてもらったら、そこにかなら ず無名の人をくみあわせるとか、そういうことはある程度やれたと思ってますね。だから「むかし売れないときに助けになった」と、あとになっていわれること がよくあるんです。それで有名になってからでも、多少はムリがいえるとかね。
水牛 ここに一人、いつまでたっても有名にならない人がいるけどね。
田中 はっはっは。それはそれでいいんじゃないですか。



キリコのコリクツ  玖保キリコ


得意なものは? と尋ねられると、私は何も言えなくなってしまうのだが不得意なものは何か? と尋ねてくれれば、いくらでも答えられる。
不得意なものの中でも、まっ先に私の頭に浮かんでくるのは「名前をつけること」である。マンガを描く商売をしていると、この私が不得意とする作業――名前 をつけるということ――をせずに済ますわけにはいかない。話はあらかたできていたとしても、登場人物たちの名前が決まらなければ彼らはちゃんと動いてくれ ない。だから、名前が決まっていない状態というのは、私の心を非常にくらーくする。
現在は、きっとそれほどでもないが、プロになる前の頃は、名前を考えるのがいやで、KとかFとか登場人物たちの名前を記号化して済ませるわけにはいかない だろうか、と悩んだりしていた。ただ、そうすると、まるで、『観念マンガ』になってしまうので、実行はしなかったのであるが。
それよりもっと前の時代――つまりアマチュアと呼ぶよりは、単なる遊びであった時代――の私の描いていたマンガの登場人物たちの名前は、ひどいものであっ た。
『チュチュリア』
『ジュヌヴィーエーヴ』
いまだったら、赤面を通り越して大笑いといった、これらの名を恥ずかしいという意識もなく、使用していた。
そういうゴテゴテした名前が、当時は好みであった。そういう年頃だったのだ。まったく国籍も時代も考えていない名前のつけ方だった。
ちなみに、彼女らはたいてい、金髪に緑の瞳である。で、何故か、彼女らの親友、もしくは姉妹とか従姉は、栗色の髪で、瞳は青だったりする。
もちろん、これらは、ギャグマンガではなく、7・6頭身(8頭身以上の頭身がハヤるのはもっと後である)の美人で頭の良い少女が活動するシリアスなストー リーマンガである。
彼女らは、複雑数奇な運命の歯車に巻き込まれ、出生の秘密が、二重三重に暴かれていくのであった。
あーっ、大笑い。
このように、当時の私のマンガの登場人物たちの名前をあげていくだけでも、かなり楽しめると思うのだが、残念なことに、自分のつける名前を恥ずかしいと気 づいてしまった、ちょっと昔の私によって、これらのマンガは処分されてしまった。
若いということは、本当に心の狭いことよ。
故に、私の小学校〜高校にかけて描かれた、鉛筆描きのすばらしい作品は、ただいま存在しない。
とって置けばよかった。ぶつぶつ。
そういうわけで、自分でつける名前のかっこ悪さに気づいた高校時代から途端に私は名前をつけることが、わずらわしいと思うようになってしまった。いったん 恥ずかしさを知ってしまった私は、もう外国ものが描けなくなってしまった。
本格的に投稿を始めた大学時代の作品の人物たちは、すべて日本人である。
それでは、日本人の名前なら、上手につけることができるのか? というと、そうでもない。もっぱら、漢和辞典を愛用した。
おかげで、肩の張る名前が多かった。彼、彼女らは自然に素直に動いてはくれなかった。名は体を表すというものな。ふむふむ。
実在の人間なら、名の前に存在があるけれど、マンガの中の人間は存在の前に名があるということか。
で、プロになった現在はどうか、というと、やはり、名前をつけるということにおいては、進歩がない。
自分のペン・ネームなんて、すごくいいかげんだ。『キリコ』はまだいい。ジョルジョ・デ・キリコから取ったのだもの。どうとでも、アカデミックにゴマ化せ る。しかし、『玖保』の方はそうはいかない。ええい、バラしてしまおう。『玖保』というのは『長久保』のクボなのだ。『長久保』というのは私の家の近くに あるバス停なのだ。
ローカルな話で申し訳ない。
『長久保キリコ』では、あまりといえばあまりな名前なので(神楽坂カヲルみたい)『長』を取って、『久』にめでたそうな『王』をつけたのだ。この話を始め たときは興味シンシンで私のペン・ネームの由来を知りたがっていた人々も、話が終る頃には、すっかり馬鹿にした顔になることは確実である。
がっかりしたって、私は傷つかない。慣れている。
そういう人間がつける名前だから、「シニカル」の登場人物たちの名前だって、およそいいかげんである。
ツネコだって、シーちゃんだって、ツン太だって、ののちゃんだって、簡単テキトーにつけた。
キリコなんて、作者のズボラさをそのまま世間に示しているのだが、作者と同じ名前である。これには深い意味など全くないのである。名前を考えるのがめんど うだっただけなのである。この手抜きは、後々までも影響し、私は色々な人々に「キリコは私ではない。作者と名前が同じだけなんだ」と何度も何度も説明しな ければならないハメになってしまった。
新しい登場人物を登場させる場合、キャラクターの設定とおなじくらいやっかいなのは、そのキャラクターに名前をつけることである。
名前がそのキャラクターに合わないと、うまく、彼、彼女らはうごいてくれないのだ。
もちろん、キャラクターが決まると同時に、名前もすっと決まってくれる場合もある。
そういう時、彼、あるいは彼女らが本当に天から降りてきてくれたような気持ちになる。
また、キャラクターがはっきり定まっていなくても、それに名前をつけて動かしているうちに、その名前っぽいキャラクターに変身していく場合もある。名前が キャラクターに反応するのか、キャラクターが名前に反応するのか、それはよくわからないが、とにかく、どちらかが反応して、決して、名前とキャラクターが 分離された状態のままではない、というのがおもしろい。
とりあえず、「シニカル」のキャラクターたちは、それぞれの名前で収まっているので、非常に作者としては安心である。
ついでに告白してしまうが、名前に関連して、私はタイトルをつけるのも極めてヘタである。
最初に、たまたまつけたタイトルが「マジカル・ミステリー・アワー」であった。あとは、韻さえ踏んでいればいいわい、と流れにまかせて、「シニカル・ヒス テリー・アワー」「ロジカル・アレルギー・アワー」とつけた。坂本龍一+ラジカルTV/浅田彰のビデオ「TV WAR」のブックレットに載せられた私のマ ンガのタイトルなんて「デジタル・イージー・アワー」である。
本当に自分でもイージーだと思う。
時々、私のマンガのタイトルをほめてくださる方もいるのだが、私はその度、心苦しいような、後ろめたいような気分に襲われる。
もちろん、一生懸命考えようとする努力はしているのだが、努力しただけでは、プロとしては許されないということも、私は知っている。


本橋先生の整理学

二月十八日。大雪の朝。丸木美術館を訪問するため、東中野の本橋成一さん宅にあつまった。主人は早朝から築地魚河岸の撮影に行ったまま、な かなかもどってこない。記録映画作家の西山正啓さんと、ぼんやりと窓につもった雪を見ながら――

津野 西山さん、いつも七つ道具をもってるんですか?
西山 カメラはうちのかみさんのを使わしてもらうんだけど、テープレコーダーはぼくので す。あとメモ帖。大きいのと小さいのと。あと、これ……
津野 透明フォルダーを綴じたやつ。
西山 ここに自分の映画のチラシとか、人からもらったいろいろの情報を入れておくんで す。それで映画会のあとなんかで、自分の話ばっかじゃなくて、友達の話とか、相手に情報をいっぱい提供するんです。
津野 ああ、そうか。あそこではこういうことをやってたとか……
西山 こういう人がいるとかね。話題がゆたかになっていいんですよね。
津野 えらいなあ。いつもそれをもちあるいてるんですか?
西山 ええ。で、半分あけとくんですよ。それにまた、そのときもらった情報とを入れて。
津野 チラシやなんか、みんなとっておくんですか?
西山 おくスペースがなくなって、ダンボールの箱に整理してドサーッと入れるだけなんで すけどね。時間をおいたら必要じゃなくなる情報ってありますでしょう? そういうのはメモだけしておいて、どんどん廃棄しちゃうんですよ。だから、いまの ところ家にかさねてあるのは、『水牛通信』のほかは『子どもと行く』と長野県の『ちくま』と『映画新聞』と、あと『水俣』ですよね。
津野 えらいなあ。おれ、みんな捨てちゃうもんな。
西山 だって『水牛通信』なんか捨てられないでしょう。棚につんでおいて、人がくると 「こういうのあるよ」って見せるんですよ。
津野 わあ。
西山 でもね、土本(典昭)さんはすごいですよ。新聞はかならず切りぬいてね、それも水 俣とか、そういうのだけじゃないんですよ。もう全般。ぜんぶ項目別にスクラップしてあるんですよ。チラシとかも、ぜんぶスクラップ・ブックに貼りつけて。
津野 へえ。
西山 あれが生きがいなんじゃないかと思えるぐらい。だから『原発切り抜き帖』の発想は あれなんですね。
津野 ぜんぶ手ものにある切りぬきでできちゃうわけ?
西山 三分の二ぐらいはそうだったかもしれませんね。
津野 すごいなあ。それを毎日やってるわけ?
西山 家にいるときは、午前中、かならずやってるみたいですね。そのへんはすごく勤勉な んですよ。逆にいえば、すごく整理能力がある。
津野 ああいうしんどい運動を長年つづけるためには、そういう基本的な能力がないとダメ なんだろうな。
西山 ええ。でもファイルをみますと、七四、五年くらいからですね、全般的にワーッとあ るのは。
津野 じゃあ、中年以降。
西山 四十五すぎぐらいから。
津野 だったら、おれも可能性がないわけじゃない。しかし、こう見ると、本橋さんとこ も、ちゃんと整理されてるみたいじゃない?
本橋夫人 整理だけはすごいですよ。
津野 土本さんも本橋さんもドキュメンタリストで、しかも、でっかい組織に属してるわけ じゃないから、自分でやっておかないと、どうしようもないんだろうね。
本橋夫人 生活面はじつにだらしなくてね、脱いじゃポイッ、あれはどこいった、これはど こいったなんだけど、自分が興味ある資料の整理だけは、まめにやってますよ。こないだどっかのカメラ雑誌で、「本橋先生の整理学」ってとりあげられたくら い。
津野 ネガの整理なんか、ほんとに大変だろうな。
本橋夫人 ベタは大きい紙に貼って、そこに日付けとか、そのときの状況とかが書きこめる ようになってて……
津野 それがぜんぶ、あのスチールのキャビネットにはいってるわけ? 三十ぐらいあるの かな。
本橋夫人 ちょっと見てみます?
津野 ええ。……ははあ、こういうふうになってるの。一枚一枚の紙に、撮影場所、撮影 日、ネガ番号、タイトルを書きこむ欄が、これハンコで押したのかな?
本橋夫人 ハンコが好きな人なの。で、ネガのほうも同じように番号を打ってね、ホラ、こ うやってはいってるの。84と84というふうに。
津野 あ、これだったら大丈夫だ。えらい。本橋さん、えらい。
本橋夫人 あと、ちょっと焼いたりしたのは、ああいうふうにテーマごとに紙箱に入れてあ るのね。
津野 「キャバレー」「女子プロ」「河内音頭」――えらいえらい。しかし、これやらなけ りゃ食えなくなっちゃうもんな。でも、えらい。ぼくは整理はダメですね。とっとくべきものと捨てるものとの区別がわかんなくなって、結局、みんなすてちゃ う。
西山 ぼくは一カ月ぐらいおいとくんですよね。そうすると、だんだん必要な情報と必要 じゃない情報とが整理されてきますもんね。
津野 おれはそういう厳密なデータを必要とする生き方をしてないんだな。漠然たる感じだ けで……
西山 でも編集者の仕事は、そういうとこにこだわってたらできない。
津野 いや、やる方はやるんじゃないですか。ぼくなんかはインチキですから適当にやって ますけど。
西山 たとえば映画のプロデューサーとディレクターの関係みたいなものを思っちゃうんで すよ。編集者はプロデューサー。書き手だったら、どうしてもデータをもってないといけませんでしょう?
津野 そういうことはあるかもしれませんね。でも、結局は気質でしょう。自分の部屋を データベースみたいにつくっちゃわないとイヤだという人もいるし、そのつど、どっかでしらべてくればいいやって人もいるし。

 本橋さんが、やっと帰ってきた。

本橋 いやあ、お待たせしました。なんか、おもしろくて。
津野 大変でしたね。
本橋 タマゴ焼きとか赤貝を買ってきましたから……あれ、お酒のんでるじゃないの?
本橋夫人 コーヒー。
津野 だって、いまお酒のむわけにいかないよ。
本橋夫人 わっ、すごい。ウニなんかもあるじゃない。もう行く気ないでしょう、みんな?
西山 行きますよ、もちろん。
津野 待ちくたびれて、『水牛通信』のためにね、ただの話を録音させてもらってたの。 ちょうどよかった。築地はどうでした?
本橋 入荷はあるけど、客がどうもね。ともかく赤貝をつくって、一杯だけ飲んできましょ う。あそこにブラック・ニッカがあるからさ。
西山 去年もね、ここにきましたら、やっぱり築地の取材がおわってね、こんなタイ三匹!  昼からタイ刺し。
本橋 とった写真をもってくと、「ホラ、一匹もってけ」なんて、でっかいタイもらっ ちゃって、そうすると重くて写真なんかとれないでしょう。それで八時ぐらいに帰ってきちゃったりさ。仕事にならないですよ。
津野 でも上野駅の取材より、やっぱり築地の取材のほうがいいね。
西山 実入りがいい。

 本橋さん、台所へ。

津野 西山さんは、お酒を飲む人なんですか?
西山 飲みます。高橋悠治さんと似てます。飲んでて寝るときがあるんです。ユージさんは 量を飲むんですか?
津野 どうなんでしょう。でも、いまはやめてますね。そしたら病気になっちゃった。とす ると、もしかしたら、お酒っていうのはからだにいいものなんじゃないかと。
西山 この空間はね、しょっちゅういろんな人がきてて飲むんです。
津野 いま西山さんはどうしてるんですか? 例の英語版を?
西山 ええ、名取好文さんの『おもしろ学校』。四月中頃にはできます。
津野 国際交流基金でしたっけ。英語版をつくってどうするんですか?
西山 在外公館におくらしいですね。
津野 日本の学校はみんなこうだって誤解を与えるんじゃないですか? これはいい国だっ てことになって。
西山 いや、コメントをつけます。これは少数派だって。

 ウニと赤貝

西山 わっ、おいしそう。
津野 今朝は本橋さん、何時ぐらいにでかけたの?
本橋 六時半。もっと早くいきたかったんだけど、きのうの夜、また十一時すぎに人がき ちゃったのよね。
西山 今日みたいな日はチャンスものですもんね。
本橋 そう。雪が降ると、なんとなく町全体が変わっちゃうでしょ。
津野 みんな興奮しててね。
本橋 「まいっちゃう」とかいっててもね、なんとなくうれしいの。
津野 今朝のテレビで築地から中継してたよ。エビの人なのね。お兄ちゃんが二人で、六時 になっても、まだ荷が一つもはいってないって。
本橋 みんなトラックだからね、長距離輸送の。
津野 いい写真とれた?
本橋 いや、はんぶん遊んでるみたいなものだからね。スリップした車を撮ろうと思った ら、「おい、そこの、手つだえよ!」って。「押せ!」って。ぜんぜんしらないのに、そういうとこがおもしろいね、あそこの町はね。なんの義理もないのに、 だまって手つだわなきゃなんない。
津野 築地をはじめてから、もうどのくらい?
本橋 二回目のお正月がすぎたから二年目かな。月に一度か二度、思いたったときに。
津野 一つのテーマって、だいたい、どこらへんでケリがつくわけ? どこでケリがつい たって分かるのかな。
本橋 ケリって、なんなんでしょうね。一コ一コ、終ったと思ってないし、なんかこう……
津野 いくつかの基準があるんでしょうね。三年なら三年で終っちゃう部分と、それもふく めて十年、二十年つづく部分と、いくつかの時間があるんだろうな。
西山 ぼくらでも青林舎でもテーマをきめてやるでしょう、原発とか障害者問題とか。そう いうのと本橋さんの求め方とはちがいますもんね。
本橋 まあね。
西山 ぼくらだとケリをつけてしまうでしょう。意味ばかり追うでしょう。それはそれでい いんですけど、本橋さんはちょっとちがうのね。上野駅の場合でも、新幹線が大宮始発にきりかわるというところで一つのピリオッドは打ってるけど……
津野 それが十年たつと、べつの意味をもってくるのか。
本橋 そうですね。じゃあ、ここの写真も撮っときますかね。フィルムがあまってるの。料 亭で雪見酒……ちょっと、そこの手を。ハイ。
西山 そのライカ、新しいんでしょ?
本橋 そう、ぼくの友だちがもってきてくれたの、カナダから。もうけちゃった、おれ。
津野 魚河岸って、なんかまきこむ力があるんですか?
本橋 ありますね。絶対ありますよ。サーカスだってね、あれ二十代でやってたら、ぼくも あそこにいってたね、いまにいたるまで。それとおなじような力がありますよ。……これ、こないだ丸木美術館で撮った写真。まだ焼いてないんだけど。これな んかホラ、囲炉裏のまえでさ、俊さんがいろんな話やったでしょ?
津野 俊さんのほうがよくしゃべるんですか?
西山 教訓的なんです。
本橋 そうそう。
津野 位里さんは破滅型なの?
西山 雑多なの。こないだ行ったときも、二人に連絡がいってなかったらしいの。そした ら、行ったとたんに焼酎をさしだして、「おお、飲まんかね」だって。
津野 昼間っから。いいね、あそこ、ほんとにいいや。
西山 最初は位里さんが焼酎ナミナミついで、いっぱいしゃべってくれる。ところが俊さん がでてくると、とたんに下むいて黙々と……。
本橋 ほんとにそうね、あの二人。
西山 で、俊さんは、あそこのチャボが生む寒タマゴについてえんえんとしゃべりながら ね、「最近、位里は夜ねむれなくて、朝三時か四時ぐらいに起きだして、私がおしえたタマゴ酒をつくるの」まず風呂にはいって、それからタマゴ酒をつくって 飲むんですって。で、「俊、起きろ、起きろ」って、「私はまだ眠むたいのに」起こすんだって。「へえ、最近は位里先生、やさしくなったんですね」っていっ たら、「そうなんだよ」だって。
津野 ああ、そうか。タマゴ酒を俊さんに飲ませようとして起こすわけ?
西山 そう。
津野 丸木夫妻はおいくつなの?
西山 八十五と七十四かな。
津野 おっ、雪が落ちた。ドサッと。あったかくなってきたみたいだから、そろそろでかけ ましょうか。
西山 電車で二時間かな。
本橋 東松山についたら、駅前でおソバ食べましょうね。


料理がすべて  田川律


てんごくのてんぷら
2月11日、てんごくへ行った。てんごくは銀座にあった。てんぷらを食べた。なかなかのものだったが、つなはちより三割高くついた。
東京の人なららかるように、ホンマは“てんごく”でなく、“てんくに”で、「天国」と書く。KDDのテレビ・コマーシャルに出たおかげで“おいそが氏”に なった斉藤晴彦さんが出ている「Oh SONO SONO」を見に行った帰りに行ったのだった。
その話を八巻さんにしたら「あたし、前行った時、てんごくだと思って、店内で大声でそういったら、周りにいたお客さんがみんなこっち向いたのよ」と大笑い した。
そういえば、この店のすぐ隣に「手打ちうどん 四国」というのがあってこれは讃岐の手打ちうどんで、東京では珍しい、薄味関西風のうどん屋であった。今は ないみたい。てんごくの方はこの日が初めてだったが、しこく方には以前に何回か行った。
むかーし、結婚などしていた時、連れ合いの父親が、神戸の「魚国」という仕出し屋さんのようなところ――ほとんど父親なる人と話をしたことがないので、ホ ンマはどんな会社かついにつまびらかに知ることなく、そのひとは義理の父ではなくなってしまったのでいまだに「魚国」という名前しか覚えていなくて、それ が時折、この「天国」とぼくの頭の中でごっちゃになる。

ファザー・コンプレックス
ということばは、本来は、女の人についていうことばらしいが、このあいだ、函館の古くからの友人、小崎さんと話していて、どうやらかれもぼくもそういうタ イプ――フロイトのいう意味ではなく、父が苦手、とでもいうような意味で“ファザコン”だということに気付いた。さっきの義父の場合もそうだが“父”なる 人と話すのがとても苦手だ。小崎さんの場合は、子供の頃さんざんしかられたりしたことが理由らしいが、ぼくの場合は、碌々話す間もなく死んでしまったこと が原因のようだ。おまけに、ぼくには子供がいないので、父親、という感覚が見事に欠落している。
だから、とりわけ、他人の家へ行って、友だちとその父親なんかがいる時とても話がしにくい。そのかわり、といってはなんだが、多くの男が持つ、「まず父は 乗りこえなければならない存在だった」という気持ちもいっさいない。つい先日、2月22日も、戸塚へ久しぶりに岡林信康のコンサートを聞きに行ったら、彼 の父が去年七十八歳で大病し、看護した時の体験をステージで話していた。その時も、若い時には、かれの前に壁のように立ちはだかっていた存在の父が今目の 前で、小さくなって白いシーツに包まれている、ということを感慨深く話していたが、そういう気持がぼくには“実感”できない。へんかなあ。

北の家族――ペンギンズ・バー
なにか気持悪い、といって、渋谷の東急本店へ行く道の途中、右側にある巨大なビル、その中に入っている一連の居酒屋ほど気持悪いものはないと常日頃思って いるのに、その地下の“ペンギンズ・バー”へ行く羽目になった。特に、去年のいつ頃か、NHKのテレビで、これらのチェーン店が、そのメニューの幾つか を、タイで下ごしらえしている、というのを放送したと知って、いよいよ行く気はなくなった。
それが、1月29日の夜は、そこにしか行けなかった。というのも大塚まさじのコンサートがジァンジァンであって、おわった時に残ったメンバーが、帯広から 東京に来ているノリちゃんと飯田くん、それに厚岸から沖縄方面へ出稼ぎに行く途中で東京に寄ったという漁師のキンちゃん、かれの三人のガール・フレンド。 もうひとり、キンちゃんの友だちの国鉄につとめていて分割民営におびえている人もいた。都合八人で急に何か食おうか飲もうかとしたら、しかもみんなたいし てお金を持ってないとなると、結局こういうことになってしまった。なるほど、店の中は広いから、どっかあいている。
はやるはずやなあ、と妙に感心したけど、ぼくら大学生の頃は、そういう時はいつもの喫茶店へ行って、オムライスを食べて、コーヒーを飲んでた、という気が する。当時は大阪にいたが、キタやミナミの盛り場にきまって“マンモス喫茶”があって、何階かは“団体専用”で、時には、その上が“同伴喫茶”になってい た。店は「こだま」とか「バンビ」とかいう名前がついていた。現在、それにあたるのが、このテの居酒屋だと思えば、特に不思議がることもない。コーヒーか らお酒にかわったのは、その分世の中豊かになったのだろうか?

のり
そのキンちゃん。厚岸は北海道の根室と釧路の間にある漁師町で、そこで漁師をやっているが、全国でも数少ない“魚を取らない”漁師。カキとアサリとコブと ノリをとる漁師。あんな寒いとこで、と思うが、ここのカキがおいしいのは、昨年の「野の音コンサート」でも食べさせてもらってわかっている。今はでも、養 殖で“タネ”は松島から持ってくるという。それを、五年も六年もかけて育てるのだそうだ。
今回はお土産にのりをくれた。都会でおめにかかる“上品な”のりにくらべて厚手のようだが、食べてみるとなんとおいしいこと。まさに海の匂いがぷんぷんす る。2月9日には、こののりをふんだんに使って手巻ずしを作った。ぼくの歴史の中ではすしは“よそ”で食べるもの、だったが、この日は見よう見まねで、 “すしめし”も作った。なに、ご飯をたいて、酢、酒、砂糖をまぜたものをご飯にまぜるだけのこと。具は、トロのブツ切り、イカ、赤貝、青柳、カイワレに納 豆。近頃“そと”のすし屋では納豆巻なんか頼むと、デコレーション・ケーキのクリームを出すみたいなチューブから納豆を絞り出すが――なるほど、これなら ねばねば手にくっつかない――こちとらそんなものはなし。


雪の北海道、冬の北海道は大好き。2月も一週間ほど行ってきた。札幌、小樽、帯広、とまわったが、小樽では小説にもなった「海猫屋」の増山さんに「鱗」と いう店へ連れていってもろた。小樽では「一心太助」というおかしな名前の店が有名だが、こっちはもうちょっと“高級”なというか、しっとり落着いた店。板 前頭(?)が増山さんと小学校から同級生、ということで、おいしいものが勝手に出て来た、という感じ。なかでも、八角という魚を塩焼きにしたのがとてもう まかった。それとこの店、北海道では珍しく、焼酎が、吉四六とかなんとか科学製法のものでない。

シェイキーズ
札幌にも「古狸」というおいしい店があるのだが“花金”の夕方でえらく混んでいて入れなかったため、うろうろして、ついふらふらと「シェイキーズ」へ入っ てしもた。ジャマイカにもこのチェーン店――どんな関係か知らんけど、ま、ほとんど関係ないわな。があって、あそこではついに入ろうと思わんかったのに、 東京と違って少しはうまいか――なにが? 使われているトマトがうまいのか――と思ったが、やっぱりうまなかった。

熱気球とおしょろこま
帯広では、市内から車で一時間半ぐらい北へ行った、大雪国立公園の西のはずれにある然別湖へ行き、そこの湖畔ホテルに泊めてもらった。本来なら“実験バン ド”と来るはずが悠治さんの急病のため三宅さんだけが来た。
帯広は道内で雪が少ないとこだが、然別は山地でたっぷり雪が降る。湖は厚く凍った上に雪が積もって、広い空地といった風情。その上で朝早くから、熱気球を あげていた。高所恐怖症と好奇心とが相あらそって、結局好奇心が勝って載せてもらった。するすると上がっていくうちは気持良いが、百メートルも上がると、 コワイ、と思ったら、そのコワサがどんどん増幅されて、気球のカゴの中に坐り込んでしまった。あとでみんなから「もったいない! せっかく素晴らしい景色 なのに」とバカにされた。そういえば十年ぐらい前、テレビ神奈川の正月番組で元キャロルのジョニー大倉と対談した時、ディレクターが“かわったところ”で と、局のアンテナ塔の上でやろうと企画。むき出しのラセン階段をのぼって行くうちに足がすくんでしもて、ジョニー大倉だけずっと上に昇って、上と下で「あ んたビートルズ好きなん?」「そうでーす!」という“距離を置いた”インタビューをした。あれ、本番でどない編集されててんやろ。
然別湖では、ほかにスノー・モービルを運転したり、山スキーしたり、要するに主として遊んでたが、昨年「野の音コンサート」に来た時泊まった「ヤギ牧場」 の裏のトッタベツ川で釣ったおしょろこまの大きいヤツを、ホテルの養殖場まですくいに行って、刺身で食べさせてもらった。身の柔らかい上品な味がした。

豚のお尻とアジのチーズ焼
帯広の手造りハム・ソーセージの店「エル・パソ」のマスター平林さんが帰る間際に「えい、太っ腹のとこ見せよう」と豚のお尻半分のハムをくれた。片手でぶ ら下げられないほど大きいヤツで、帰っていろんな人に配ってまわった。もっぱらそのまま食べたが大根とハムのサラダも作った。大根を千切りにし、ハムも千 切り(?)にして、コショウとレモンの絞り汁をかけマヨネーズであえる。
この時、アジのチーズ焼も作った。大きめのアジをフライパンでバタ焼きし、最後に“トロケル”チーズをスライスしてのせて溶ける程度にあたためるもの。
大根は、その前はキンちゃんののりを使って、大根とカイワレとちりめんじゃこのサラダを作った。千切りにした大根とテキトウに切ったカイワレをまぜ、それ にちりめんじゃこを加え、レモンの絞り汁、ゴマ、しょう油をたして、最後にのりを細かくしてまぜ合わせる。ここでもキンちゃんのりは、いい香りをしてくれ た。こののり、一帖百八十円! で売っている――もちろん厚岸のあたりでだけと思うけど。
キンちゃんは今、徳之島で砂糖キビ刈りに精を出している。厚岸ではそんな風に“外出”する人は少く、キンちゃんは“浮いてる”そうだが、“外出”がまたか れの漁への熱意のもとだ。



走る・その三  デイヴィッド・グッドマン

きょうは哲学の道をゆこう。

哲学の道というのは、琵琶湖疏水にそって、銀閣寺橋から若王子橋にいたるまでの、約二キロの小道である。戦前、西田幾多郎が思索の場としてこの辺をよく散 策したから「哲学の道」と名づけられたらしい。東山の中腹をとおる、桜などが茂り、車が入れない、ランニングに絶好の道である。

ぼくは百万遍のわが家を出ると、京大のキャンパスにそって、今出川通りを東に駆ける。ゆるやかではあるが、坂道だから、つらく感じることがある。吉田神社 の北参道の鳥居の前をとおって、白川通りまでのぼる。信号がかわるまで足踏みして道をわたり、銀閣寺のほうに走る。秋、この辺は観光客で混雑して、とおり にくかったが、銀閣寺が拝観停止となってから、街はしんとして走りやすくなっている。銀閣寺橋で、疏水にそって右にまがって、哲学の道に入る。右手には、 弥勒院、法然院、安楽寺など、名所だらけ。若王子に近づくころ、右手に京都の街の全景が見えてくる。

若王子神社あたりで哲学の道が終る。百メートルほどの坂を下りて左折して、南禅寺にむかう。ここからはアスファルトの道で走りやすい。

南禅寺の中へ入ると、左側に三門という、巨大な門が孤立している。石段をのぼって、門に近づく。敷居が高くて、ハードルを飛び越すようにして門をくぐる。 映画『ロッキー』よろしく、いつもこの巨大な門の舞台の上で、手を頭の上にのばして、勝利のおどりをおどってみたいという気持にかられるが、べつになにも 勝利していないから、一度もやったことがない。
南禅寺の中門をくぐって、豆腐料理の店が軒をつらねている通りに出る。食べたいなと思いながら通りすぎて、八千代という旅館の前までいく。八千代は一泊二 食つき四万円もする。ここは上田秋成が晩年をおくった土地だそうで、秋成が原稿を丸めてポイと捨てたといわれる「夢の井戸」は依然庭に残されているらし い。

ヤエルとカイの大好きな動物園をとおって、平安神宮のけばけばしい、ばかでかい鳥居をすぎて、東大路から万里小路へ帰る。経過時間四十五分八秒。

      *

計画が大幅に遅れて、『火山灰地』の英訳をアメリカの出版社に発送したのは正月に東京へ発つ寸前のことであった。『火山灰地』は久保栄が昭和十 二年から十三年にかけて書きあげた、北海道十勝地方の農業的状況についての社会主義レアリズム劇で、作者曰く「日本農業の特質の概括化」および「科学理論 と詩的形象の統一」をこころみた作品である。膨大なこの戯曲は、文字通り新劇運動の記念碑であり、戦後の新劇の基調をなした重要な作品である。翻訳をはじ めたのは八三年の五月だから、ちょうど二年半かかった。

ということは、去年の秋、京都にいながらも、ぼくの想像力は北海道をさまよっていた。ぶつぶつ言いながらすすめた翻訳ではあったが、歴史の雫したたる、し かめっつらの京都から、広大な開拓地に逃亡することは、精神衛生上おそらくぼくにとって必要なことであった。

八四年の五月、岡村春彦さんと二人で、『火山灰地』の現地調査のため、帯広をたずねた。ある早朝、小雨に降られながら、十勝川のほとりを走った。七時ごろ だったが、川べりでおこなわれていた、いくつもの野球の試合はもう終ろうとしていた。だだっぴろい土地、冷たい雨、旅で疲れて風邪をひいていたぼくは、よ みがえった気持がした。

それに比べて、京都を走るのはまるで障害物競争のようだ。走っていると歌枕につまづきそうである。吉田兼好、法然上人、上田秋成の幽霊が群れをなして、 おっかける。桜の木の下には、死体が埋まっているそうで、おっかない。木、道、空、建築物、あらゆるものにこびりついている記号、意味は濃霧のようで、ど んなに早く走っても、切り抜けられない。

京都にいながら北海道を考えていると、久保栄、有島武郎、小熊秀雄など、たくさんの近代作家や詩人が北海道になにを見たか、わかるような気がする。京都を をはじめ、「内地」全体は単なる生活の場ではない。理念の塊である。記号、象徴、意味の蜘蛛の巣にかたく、きつくしばられている。久保などは、縛られてい ない、幽霊の出ない北海道の空間に日本人の新しい可能性を見出そうとしていたにちがいない。反復ではない歴史、解放にむかう線状の歴史は、北海道なら想像 できる、ということだったのではないかとぼくは思う。

だが北海道の「内地化」はもはや決定的であり、進出してきた日本の幽霊たちはもう追い返せない。残念だ。北海道の「内地化」ではなく、京都の蝦夷化が企て られたら、どんなにおもしろいだろう、と思えてならない。そのほうがずっと走りやすいにちがいない。





病気・カフカ・音楽(その一)  高橋悠治


信仰を自分のことばと自分の納得との間に正しく分配すること。納得したことが、それを体験した瞬間にしゅっと終らないようにする。納得が負わせる責任をこ とばに転嫁しないこと。納得をことばによって盗ませないこと。ことばと納得したことの一致はまだ決定的ではない。よい信仰でもそうだ。そんなことばがそん な納得をいつでも状況によって打ちこんだり刻みこんだりできるのだ。

発言は、原則として納得を弱めることを意味しない――それについては嘆くこともないが――、それはむしろ納得の弱みなのだ。(カフカ)

病気は突然はじまる。おもいがけないところの、おもいがけない痛み。それがうすらいでいくにつれて、自信がもどってくる。だが、これからが本当 のはじまりなのだ。健康だと信じていた間も病気はもうそこにあった。それはいま自覚症状さえないからだをしっかりつかんでいる。からだだけのものともいえ ないだろう。健康でいた時間全体にわたって、生きていることそのものが病気の表現だったと、おもいあたることになるのだ。その時はもう病院にいる。
まずはベッド上安静。点滴。横になっていてできることは、本をゆっくりよむこと、ヘッドホンでラジオかカセットをきくこと。ヘッドホンは音を耳のなかいっ ぱいにひびかせるので、なんとなくききながすことができない。本をよんでもすぐつかれるので、興味のもてないものをふりすてて、選んだものをゆっくり、ま たはくりかえし、よんだりきいたりすることになる。
北ヨーロッパに3年、アメリカに6年いた間は外国人のくらしとアウトサイダーのしごとしかなかった。週一度ともだちとあって、月一度あるかないかのコン サートで演奏する。それ以外は家で、あてもなく作曲し、ピアノを練習し、本をよみ。東京にもどってからの数年はしごともそんなになかったから、おなじよう にすぎた。だが、いつかいきていることからはなれて、しごとだけがスピードをあげていく。しごとのためだけに生きていることからはなれて、しごとだけがス ピードをあげていく。しごとのためだけに生きるようになる。しごとに支配されている。しごとがあるのが当然だとおもっている。生きている日々の、あのゆっ たりしたリズムのなかにしごとをひきもどしてやることを忘れて、ひき返せないところまで踏みこむ。ことばで社会を批判しても、そこにくみこまれているの だ。批判を口にできるのもアウトサイダーには許されなかった特権だった。
そんな時だ。無視されたからだが、そこにあることも知らなかった器官から停止信号を送るのは。病気は警告でもあり、休息でもある。一息つく、そこに展望が ひらける。それも錯覚かもしれないが。
病室の窓の向こうの夜明けはいちめん白っぽく、地平線の向こう側が影のように青い。その上に赤紫の帯があらわれる。それがうすれるにつれて、遠いビルの白 が輝きを増してくる。近くの方は影のなかにある。光が白い反射からあたたかい色に変わり、やがて、影になっている町も光のなかに浮かびあがる。この変化を 感じるには、じっとながめているより、目をそらしていて、時々ふりかえる方がいい。
病気がすこしよくなると、食事は食堂でたべる。ガラス張りの壁の向こうに二七〇度にひろがる地平線までの都市を見おろしていると、未来の塔のなかにおきざ りにされたようだ。地平線がまがっているから、地球はまるい。この都市の昼はほとんど白い廃虚。夜は遠いビルの色とりどりの灯りがあって、昼よりも人間ら しく、なつかしい。
病院の日課。午前5時、検温。脈をとり、必要なら血圧をはかり、検尿、検便、採血。8時、朝食。午前中は各種検査。12時、昼食。検温、脈、血圧。3時か ら7時、面会時間。5時、夕食。食事がたべられたかどうか、どこか痛むか、排尿と排便の回数を記録する。人間は管の束にすぎない。その入力と出力の記録と 点検から一日をくみたてる。
病院にいると、からだは自分のもちものとはおもえない。からだはだれのものでもない、別な生きもので、それをあずかっているだけの自分がいる。からだのな かには何があるのか、時々耳をすましてみる。かすかな信号でもきこえてはこないだろうか。
健康でいた間に内側をきく力は弱まった。さむいとか、いたいとか、基本的な感じもにぶっている。壁の向こうから伝わってくる合図のようだ。それに直接こた えるかわりに、習慣になった反応ですませる。それも、かなりおくれて。たいしたことはない、と決めてから。
おかしいな、とおもう瞬間もあったが、それもたちまち過ぎた。
健康がからだをおさえつけている。そのとき、病気はもう内側に食いこんでいる。
健康な人間のステレオタイプとなった反応は、その人と世界との間の関係の決め手になっている。世界を自分のものとみなして、おさえつけているうちに、さら さらとこぼれていくものがある。ひびわれを食いとめようとして、攻撃にでると、ものごとを一層わるくする。
表現を方法でおきかえること、何も感じていないのに発言すること、表面のゆたかさをけずり、みがきながら、するどく、同時になめらかな刃となって、世界の ほんの端でもいいから、傷跡をのこしたいという衝動。
この病室は6人部屋。それぞれのベッドの上で6人が、それぞれちがう病気、ちがう時間を生きる。ことばをかけあい、ひとの病気が何か、ここにくるまでどん な生活をしてきたかを知りたがるのは、むしろ自分の場合とのちがいをたしかめるためのようだ。となりあわせはまったくの偶然、ただようボートが風に吹きよ せられただけ。ルクレティウスの原子のかたよりのように、おたがいをしばることのないついあい、友情の見かけが生まれる。見かけにすぎないのか。友情とい うものも、風に吹きよせられてとなりあわせる限られた時間のなかに、限られていると知っているからたいせつにされるのでは。やがて、それぞれの時間がずれ はじめ、いつの間にか相手を見失う。
ここにいると、待つことをおぼえる。自分では何もできずに、医者や看護婦にしてもらうまでじっと待っている、というだけでなく、何よりも、からだがひとり でに回復していくのを感じながら、ただ待ちつづける日々。
病名どころか、からだのなかで何が起こっているのか、本人も医者もわからないままに入院している人たちがいる。すこしずつさぐりをいれながら、じっと待っ ている。何を待っているのか、だれもわからずに。
病院の夕食は5時。その後はもう、することがない。自分のベッドのまわりにカーテンを引き回し、消灯時間を待たずにしずかになる。それぞれの病気だけを相 手に夜をすごすのだ。
それはたいがい夜中におこった。突然ゴボゴボと水の音。「だれか。ボタンを押してください。」夜勤の看護婦の急ぎ足の足音。病人をベッドごと運びだす。次 の朝、拭ききれなかった血の跡が黒ずんでいる。昼間病気を忘れていても、病気が追いついてくる。
昼間入院してきた時は、何の病気なのか、ただしずかにねていた人が、夜中に突然あえぎだして、その合間に、「くるしい、くるしい」とつぶやき、その声がだ んだん大きくなる。当直の医者がきて注射をすると、たちまちしずかになった。ところが夜の明けきらないうちに、またあえぐ声。3回ほどで、「たすけて」と 小さな声がして、急にしずかになる。発作がおさまったのか、それとも。様子を見に、向いのベッドまでいったものだろうか。
看護婦の足音がちかづく。大声で名前を呼んでいる。からだをバンバンたたく音。もう一人の看護婦と医者がきて、ベッドごと運びだす。次の朝にはもう、遺族 がロビーにあつまって、葬式の相談をしている。
本当にたすけをもとめる時、人間はあんなにつつましい声しかあげないのか。たすけがくることもほとんど信じていない声。だから、それをきく方でも、たすけ が必要なのか、自分のなかにとじこもったつぶやきなのか、よくわからないままにききすごしてしまう声をのこして、ひとりで死んでいくのだ。それに、そう なってから、他人に何ができるだろう。死んでいくことをひきうけた人のしている何かを、むだにそらし、さまたげること以外の何ができるか。だが、これだっ て仮定にすぎない。だれもたしかめるわけにいかないのだ。
人は夜明けに死ぬ。夜明けを待ちかねて、しかもその光にさらされることには耐えられない、とでもいうように。

夜のこわさ。夜でないこわさ。

ひとことでいい。もとめるだけ。空気のうごきだけ。きみがまだ生きている、まっているというしるしだけ。いや、もとめなくていい。一息だ け。一息もいらない。かまえだけ。かまえもいらない。おもうだけで。おもうこともない。しずかな眠りだけでいい。(カフカ)

すこしよくなると、病気を忘れる。世界がしたしいものに見えてくる。だが、病気はいつでもそこにある。(つづく)


音楽時評  坂本龍一


CONCERT
 2月8日、武道館に「FOE+J・B」を見に行く。FOEとは細野晴臣さんが新しく始めたバンドでFRIENDS OF EARTHの略です(これをイニシャライズするなんて、とってもユニーク)。ヒップホップのスタイルにすごく近いんだけれど、つまり機械的にビートやラッ プやら、何となくニューヨーク産のとは違って聴こえる。日本人っぽい丁寧さ(悠治さんが前書いてた)の問題。これは僕にも言えることだけど、表面をツルツ ル磨いてしまう癖から抜け出られない。
コンサートとしてはFOEの完全な失敗。あんな広い場所でパフォーマンスじみたことやっても全く伝わらないし、ジェイムス・ブラウンのファンクを前にし て、テクノ風のアレンジで超ヒット曲「セックス・マシーン」をやるという神経も全く分かりません。又、PAの音質がハードすぎて1Fで聞いていても耳が痛 かった程。それにガイド・クリックが外にもれていて何とも恥ずかしかった。演奏自体はちゃんとやっているのに、その他の失敗が蓄積して悲惨なものになって しまった。細野さん、がむばってください。
2部のJ・Bはさすがにこの道20年。最早、伝統芸の域に達していて、言う事無い。唯、前回見た時より老いが増していたのが気にかかる。恒例のガウン掛け もたった2回しかやってくんなかった。前は10回もやったのに。

 2月21日、青山円形劇場で「矢吹誠+横浜ボートシアター 始原聲聞――饗宴の森へ」というものを見た。少数のアジアの楽器と手づ くりの沢山の楽器。矢吹誠は元黒テントの音響をやっていて、僕も手伝ったりした仲間だ。二人で武満徹や秋山邦晴を中傷するビラを作って、今はもう無き現代 音楽のコンサート会場に撒きに行ったりしたものだ。あんなに過激だった矢吹が、「深くアジアを哲学する心」などと書いているのを見て足がよろめいたが、そ れは置いておいたとして、いまいちのところで「音楽」になっていないのが、残念だった。確かに会場には懐かしいアジアの音が鳴り響き、それはそれで心地良 いものだ。もちろん音楽はプロが占有するものでもないし、たった一つの鐘の音に自分を同一化させて深く共鳴させることで近代的な世界観から自己を解放する 態度もわからぬではないが、そしてそこに70年代型のいわゆるヒッピーのりのエコロジーとは少し異なる新しい芽があることも何となく感じるのだが、余りに ピュアーすぎるものに対しての反発はどうしても押さえることはできない。創造力の衰退は各所で起こっている。こんなことは新しいことではない。心地良いア ジアの音色に衰退するのも、過激にハイテクする衰退もメダルの表裏だ。こんなことも言われ続けてきたことだ。外部へ、外部へと突き進んで行った先が自己の 深奥の内部だったりするという図式にも、そろそろ飽きてきた。

RECORD
 昨年の7月から10月までレコーディングしていた矢野顕子の新作「峠のわが家」がやっと発売された。金と時間を費やしてパワーステ イションまでドラムの音を録りに行っただけのことはある。ほんとにいい音してる。ガッツがある。それにもまして、そんなガッツのあるドラム・サウンドを従 えて、フニャフニャ歌ってる矢野顕子はスゴイ。照れるなー。これは一年に一枚のアルバムです。

 で、それに続いて11月から2月28日まで録音していた僕の新作「未来派野郎」もやっと出来ました(4/21発売)未来派とは 1909年にミラノでマリネッティを中心として開発された芸術運動ですが、その中の一人、ルイージ・ルッソロが発案したイントナルモーソなる楽器こそ、世 界初のサンプリングマシーン(正確にはノイズ発生器)でありまして、フェアライトを中心とする昨今のサンプリングマシーンの発達こそ、未来派野郎達が夢に 描いていた道具=テクノロジーなのではないか。彼らの夢がエレクトロニクスを駆使できる現在、やっと達成されつつあるのではないか、というアルバムな訳で す。未来派野郎共の機械・スピード・戦争・電気等に対する愛の宣言は、そのまま現在の資本主義的環境を言い表わしているのではないか。強引に20世紀は未 来派の世紀だった、なんて言ってみたりする訳です。因に現在最も注目に値するレーベルで、トレヴァー・ホーン率いるイギリスのZTTはマリネッティの自由 詩 ZANG TUMB TUMB のイニシャルであるのだ。

DJ
3月をもってNHK・FMの「サウンド・ストリート」を降ります。水牛も紹介したりして多少は貢献したかな。

GAME
現在までのほとんどのゲームソフトは客観映像だったが、「ZONE」というソフトは主観映像です。しばらくやっていると完全に体が浮いている様に感じられ ます。手が腱鞘炎になっちまった。


水牛かたより情報


●ニコ。4月10、11日。渋谷THE LIVE INN。6時30分。前売3900円、当日4300円。問合わせスマッシュTell444・6751。
 ニコという謎の女がくる。メンバーは二人のキーボードとドラムス。本人は水牛楽団とおなじハルモニウムをひくということ以外、何もわからない。でも何が あるかわかっている人よりはおもしろそう。
 (田川)

●「ナチュラル・ヒストリー」ローリー・アンダーソン。4月3、4日。日本青年館。7時。4月10日、7時。12日、3時、7時。簡易保険ホー ル。前売4300円。当日4800円。問合わせ、ツルモトルームTell406・1351。
この前は体中にマイクを埋めて、人間打楽器をやっていたが、今回は何をするのかなあ?
(田川)

●「ぼくの演説」江原光太ガリ版詩集(限定二百冊、五百円。札幌市東区北31東2・7・202創映出版)
このワープロ時代にわざわざ輪転謄写印刷機を買って詩集をだす人もいるのだ。「印刷技術が革命的に進歩を遂げたばっかりに、ぼくらのもっとも安あがりの、 原始的なガリ版技術は、詩を道連れにして、とっくの昔に死んでしまったのである。」とはいうものの、まだ死にきれずにいる詩精神がここで出版業をかねてほ そぼそとつづいている。「ガリを切るときのカリカリという音、あれは魔性の音楽とみえて、ぼくの脇腹はこそばゆくなった。」
「ぼくはいままで七冊の詩集をつくった。そのうちガリ版詩集が三冊ある。活版であれ、オフセット版であれ、それを詩とよぶには気がひけるが、詩に通じる作 業であったことは確かだろう。詩をつくることは才能であり、努力でもあろうが、なによりもひたむきに生きることでもあったのだ。のんべんだらりにみえよう が、なりふりかまわず、自分ともたたかいながら。無頼派・野盗のかたわれとして。
ぼくなど六十才になって、まだ詩人の域に達していない。まして七冊の詩集をつくるなど、おこがましい限りだ。ほんとうの詩人は、生きているうちは詩集など に眼もくれず、ひたすら声もたてずに、喉の奥で歌っているのかも知れない。そんな友人たちの姿がときおり、ぼくの高慢なこころを、激しく打ちつけるのであ る。」 札幌の居酒屋で焼酎のコップを前にいつも若い人たちといっしょにいる江原さん。自分の詩集を質にいれた小熊秀雄やシベリア帰りで精神病院で市街戦 を夢みながら死んだ同志に心を通わせ、死んだ奥さんの写真に水をそなえながら、若い女たちに惚れては振られているのだろうか。「ぼくの演説」とは気ばった 題だとおもったが、よんでみると、からいばりすることばはどこにもなかった。「喉の奥で声もたてずに歌っている」詩といっしょに生きていくのは、なかなか すてきなことではないか。(高橋)

●「かえるのごほうび」木島始
鳥獣戯画絵巻を見開き絵本にくみたてなおして、ひらがなの物語詩をつけたもの。こうしてことばがつくと、あらためて絵のこまかいところまで見て、いきいき した動物たちの表情やのびのびと抽象化された水や枝の流れる線に感心する。木島さんのことばも、うさぎやかえるといっしょにとびはねている。「ねらえ ね らえ まとのまんなか おへそを ねらえ/やあい かえるに おへそなんか あるもんか/あっ そうか はっ はっ はっ」「ぎゃういー ぎゃういやあー  やあー/やっ やっ やっ」と、おうえんだん。さるのおきょうは「なむ なむ きゃお けきよう ほくきょう」。いそぎ足でどことなく字余り風なのが木 島さんのリズムだね。最後は狂言風に、「うさぎと かえるは どこまでも/ずるがしこい さるの にげるのを/おいかける にらみつける おいかける/ どっき どっき どっき」(佑学社 九八〇円)(高橋)

●ベルトルト・ブレヒト「子供の十字軍」長谷川四郎・訳 高頭祥八・画(リブロポート 千円)
これも絵本。現代絵画のテクニックをいろいろつかっている。地平線上にうかぶ鉄かぶと、こどものかなしい目と火の柱。夕日とからすの群。枯木と黒い少女の 横顔。
ふしぎにおもうのは、はじめ50人いたこどもたちが、死んだ子もいるのにいつの間にか55人にふえていることだ。ブレヒト学者の説明をききたい。(高橋)

●エティ・ヒレスム著 大社淑子訳「エロスと神と収容所 エティの日記」(朝日新聞社朝日選書、千四百円)
アムステルダムに生まれたユダヤ人女性エティの一九四一、ニ年の日記。という事実から抱く想像だけではとてもとらえきれない日記。(八巻)



編集後記

午後、ジョン・ゾーンさんが遊びにきた。きょうも「ぼくのトクチョウ」と本人がいう左右色違いのソックスと靴をはいて。編上げの、もともとは白い靴。右が 紺、左は赤に塗りわけてある。二月から三ヵ月間、東京にいて、いろいろな人と演奏をする。その間は高円寺のアパートの小さな部屋に住んでいる。
何を飲む、ときくと、水、という返事。お茶もコーヒーも苦いし、カフェインがあるからヨワイんだ。
去年浅草の木場館という、ふだんは浪曲をやっているところで、彼と津軽三味線の佐藤通弘さんとの演奏を見た。木場館にとても似合っていた。おわると、長い 足ですたすたと近くのレコード屋に行く。歌謡曲のレコードのコレクターなのだ。好きのは尾藤イサオや克美しげる、弘田三枝子など、60年代後半のもの。曲 もかっこいいし、ジャケットもいい。「ジョニー、リメンバーミー(と、歌う)なんていいよね、知ってるでしょ? 悠治さん」「知らないねえ、そのころいな かったもん」「あれ? だけどジョンだってそのころはいなかったよね、日本に」
歌謡曲のすばらしさを人に説明して納得させるのはとてもむずかしい。ニューヨーク中で三人ぐらいじゃないかな、わかるのは。
きのう見た『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がおもしろかった、と言ったら、ニューヨークに住んでると、ああいうのはおもしろくない、それよりテレビ で見た『肉体の門』はスゴイ、信じられないよ、と彼は言うのだった。四月は毎火曜夜、新宿シアター・プーに出るそうだ。見に行こう。(八巻)




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