水牛通信

人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1986年5月号 通巻82号
        
入力 桝井孝則


水牛倶楽部計画第一弾
  林のり子 平野公子 田川律 津野海太郎 高橋悠治 八巻美恵
キリコのコリクツ  玖保キリコ
料理がすべて  田川律
走る・その五  デイヴィッド・グッドマン
病気・カフカ・音楽(その三)  高橋悠治
音楽時評  坂本龍一
水牛かたより情報
編集後記



水牛倶楽部計画第一弾
林のり子 平野公子 田川律 津野海太郎 高橋悠治 八巻美恵


津野 田川さん、まず林さんと公子さんの紹介をして下さいよ。
美恵 田川さんの紹介ってさ、だいたい、「林のり子さん、ぼくの友だち」――それでおし まいなのね。
田川 へへ。林のり子さんは田園調布の自宅でお惣菜屋さんをやってます。平野公子さんは 成城学園の自宅で、手づくりの衣類を中心にした……
美恵 家庭内店鋪……。
田川 ……という方です。平野甲賀さんは、きょうは釣にいってて、お留守です。で、いま 「水牛クラブ」とも「水牛ホーム」とも「水牛パレス」ともいわれているものについて、そもそものアレを、どなたかに……
悠治 はじめに思いついた人から……
津野 いや、美恵さんと冗談いってただけなんだけどね。「水牛通信」の再来年は一〇〇号 になってしまうし、そのあと、また雑誌のかたちで二〇〇号めざさなきゃなんないのはしんどいから、どこかにスペースをつくって、それを共同でつかっていく という仕方に変えられたらいいんじゃないかと。
 飲めて食べて、ライブ・スポットとしてもつかえて――という話を冗談でしていたら、田川さんの顔がパッと浮かんできたわけ。どうしても田川さんを中心に すえて、店長にしなければいけないというので、悠治と美恵さんが田川さんをくどいたら、イッパツでのってきたと。
田川 イッパツって――美恵さんなんか、どういったか! 「田川さん、老後どうするか、 考えなきゃいけないでしょ!」
美恵 ハッハッハ。
津野 それはよろしくないね。
美恵 どうして? だって、そういうことを除いては、考えられないじゃない、やっぱり。
田川 やるのは東京でしょう? そういう場所が実際に見つかるかどうかというのが、なか なかね……
津野 そういうむずかしい問題はあとまわしにしようよ。そこからはじめたら、なんにもイ メージが湧かなくなっちゃうから。
公子 どこかからでてくるもんなのよ、それは。
美恵 これもやりたい、あれもやりたいっていってるうちに、適当なのが見つかるかもしれ ないしさ。
公子 この家を借りたのもそうなの。すごくおおらかな、おばあさんの大家さんがいて、 「改造してもなにしてもいいわよ」といってくれるといいね、といってたらホントにあったのよね。
津野 だいたい、そういうものらしいよ。一年くらい、とにかく、いいつづけるんだって。 飲みにいっても、どこにいっても。
公子 いざとなってから考えるんじゃおそいしね。
美恵 条件がなけりゃ場所もさがせないし。
田川 デイヴィッド・グッドマンたちはさ、宿泊施設があるといいって。アメリカから帰っ てきたら、長期、泊まりたいって……
 YMCAみたい。
田川 YMCA!
悠治 フフフ。
津野 なにをやるかなア? 飲む、食うだろ? だけど、コックをやとうとか、そういうの はダメだね。
 倉庫とか、ふつう「裏」として区切られてるところが客席に露出しているのがいいと思 う。ネギとかなんとかがガバッと送られてきたら、やりたい人が何人かでドロを落とすの。そういう土間みたいな作業スペースが横にあって、片っ方で歌ってる とか。……よく私たち「テレビ仕事」っていうんだけど、手仕事っていうのは、なにかを見ながらやりたいわけね。
美恵 田川さんもお料理?
田川 そうね。いや、はじめ話があったときは、ぼくの周りで何人も店をもってる友だちが いるでしょう。そういうのを見てるとね、ぼくはうつろいやすい人だから、すぐイヤになるに決まってると思って。でもね、美恵さんは「べつにジッとそこにい なくても、田川さんはどこにいってもいい」と。
美恵 そこからでかけていけばいい。
悠治 じゃ、やっぱり「ホーム」じゃない?
 自分がいなくても、店長は、だれかをそこにはりつかせておけばいいわけだから、ね。
公子 でも日常的にシッカリやるというのがないとね。毎日やってるというのは、田川さ ん、むりだと思う。
美恵 それは最初から思ってないんだけど……ゴメンね、田川さん。
田川 いやア、そんなこと。
津野 ただ、シンボルとしてだれかがいなきゃいけないから……
美恵 ほかの人間はみんな欠陥があって、シンボルまで行かないのよね。お店の顔だから。
悠治 だからナプキンとか、ぜんぶ田川さんの顔をつけるの。弦ちゃんが描いた似顔絵があ るからね。
津野 ケンタッキー・フライド・チキンだな。
美恵 じゃ、ああいう等身大の人形を店の前におく? 田川さんが留守のときそうなえて。
津野 で、首にバネ入れとくのな。
美恵 ヒャッヒャッ、そうそう。
悠治 ほんとの古衣装を着せてさ。田川さんの着なくなったようなハデなTシャツとかね。
 その洋服についてだけ、田川さんに責任もっていただく。
田川 わあーッ!
 でも、いろんなところから、いろんなものが集まりそうな感じね。
津野 このあいだ、田川さんや林さんといっしょに大阪に行った。斉藤晴彦・三宅榛名コン サートね。あの空間はとてもよかったね。
田川 そうそう。
津野 大阪ガスのショールームをそのまま改造して、飲み食いもできるライブ・スペースに したんだって。ガス会社のショールームって、どこでもガラス張りじゃない? あれをそのまま使ってるから、道路から内側がまる見えなんだよね。音もすこし もれるようになってる。
田川 外の音もみんな入ってくるというやっちゃ。右翼の宣伝カーが行進曲なんか流して やってくると……
津野 榛名さんが「鉄道唱歌」やろうとしてたのに、なかなかはじめられなくなっちゃっ た。
美恵 いままでのそういうスペースは、地下にもぐったりして、ぜんぶ閉ざされてるもん ね。そういうんじゃないほうがいいね。
悠治 ニューヨークの劇場の本があったでしょ?
津野 うん。
悠治 あのなかの「スクォット・シアター」というのが、メンバー全員が一軒の家に住んで るわけ。その家は外から見えるのね。その一階の部屋で芝居をやってる。通行人が張りついて、外から見てるの。
津野 ロンドンに前衛的な建築グループがあって、十年ぐらいまえ、そこに行ったことある のね。そのスタジオがやっぱり外からまる見えになってて、デモンストレーションのスライドなんかを写しながら、講演会とか討論会をやってた。こういう集ま りも、そういうふうにしてやるといいな。
公子 外で、みんな見てるの?
津野 そう。だから自分たちの会議でも視覚的な工夫とか、いろいろワクワクするようなこ とをしなければならないわけよ。
悠治 六本木の俳優座の裏にある「ニューズ」がそうね。あそこも外から見えるね。やっぱ り外でたかってたりするよ。あそこはまわりもちでもってるんでしょ?
田川 あ、そうなの。
悠治 うん。あのね、会員制になってるわけ。それでね、一年に何日か自分の分があるん だって。自分の持ち日に展覧会でもコンサートでも、なんかをやる。それを人に貸してあげてもいい。で、年にいくらか払って維持していくわけね。
津野 パフォーマンスとかやってるんなら、外から見られていやなことなんてないもんな。 外に空缶おいといて、お金入れてもらうとかさ。
美恵 外料金ね。
 音だけの人と見るだけの人……
田川 鰻屋の匂いの話みたい。
津野 大阪のあそこは、まだ大阪ガスの所有なんでしょ?
田川 みたいね。
津野 いまの国鉄用地も、そういう仕方でオープンにしていけばいいんだよな。パリなんか だと、東京駅みたいにでかい廃駅を、そのまま美術館に使ってしまうとかさ、いろいろやってるんだって。大阪ガスだって、それとおなじ使い方だよ、ある意味 では。公共的なものじゃないと、あんなとこに、あんなでっかいスペースを楽にもってるわけないもんね。
悠治 汐留とかさ、貨物駅って廃止してるじゃん?
田川 原宿の皇室専用駅なんかでも、あれ使ってないよ。
美恵 そうよねえ。
田川 あと佐賀町の一階の喫茶店が、ちょっとそういう感じだよね。小池一子さんとこのス ペースの下。大阪のほど広くないけど、あっこも、ちょうど角になっててね。……で、海ちゃんはなにやるの?
美恵 読書会とかしたら?
津野 読書会? なんでぼくが……
悠治 大声で本を読んでるわけよ。
津野 じゃあ、高橋悠治の「カフカ友の会」とかさ。
美恵 病院仕立てにしてね。
悠治 フフフ、ベッドに寝てるわけよ。
田川 林さん、あそこでお惣菜屋をやりはじめたのは、なんでなの? あれ、もともと住宅 内店鋪というかたちでしょう?
 そう。最初は好きだからパテをつくって、ほしい方にくばってたわけね。そのうち、お 見舞いに使いたいから買いたいって人があわられて、それがだんだん二キロとかの単位になってきたのね。そのころ、主婦がお弁当つくって中毒になったという 新聞記事がでて、「食品衛生なんとかっていう許可をとってないとあぶないですよ」といわれて、それがちょうど家を壊すときに当っていたから。それで古い家 の流しとか全部はめこんで、食品衛生なんとかの最低限の設備だけをととのえて、二坪ぐらいの作業場をつくったわけ。そのまま、ほしい人にくばる態勢でやろ うと思ってたんだけど、どうせなら通りがかりの方にも買っていただこうかな、ということで、最後に作業場のはじっこを店にしたの。
津野 それが何年ぐらい前?
 十三、四年前。私、レバーなんかが好きだから、なにかそういう店やろうかなといって いたら、みんな焼鳥屋をやると思ってたみたい。レバー・ペーストとか、そういう感じはまだないころだったから。
公子 このごろは、わりと日常食になってきたけどね。
津野 ほら、美恵さん、きみもちゃんと話しなよ。サクラと遊んでばっかりいないで。
美恵 ちょっと待って。
津野 そりゃそっちのほうが面白いだろうよ。おれだってやりたいよ。
美恵 海ちゃんがやりたいってよ。
サクラ 積木? いいよ。
 ふふ、ドミノね。
サクラ サクちゃん、倒すんだよ、これ。……フン!
全員 ワアーッ!
サクラ ヤッター!
津野 公子さんとこは、ここ、いつはじめたんだっけ?
公子 つくりだしたのは三年ぐらい前――サクラが生まれてからだから。あと十年やれば、 なんとかなるかしら?
 私もはじめのうちは、石の上に三年っていうから、まあ、三年はやれるかなって思って たら……
公子 いま、ちょうどうちがそういう感じですね。私んとこはね……ずっと平野さんが芝居 の装置やってたでしょ。それで幕をつくったりとか、いろいろ人に頼むわけですよね。いちばん最初の「水牛楽団」のゼッケンもね、ペラペラの布じゃなくザ ラッとしたのがいいんだけどなって、そういうのを集めているうちに、だんだん家が作業場みたいな感じになってきたのね。だから、そういうのをなくしちゃう のはつまんないというのが、いちばんのもとなのよね。
津野 そうか。そういうのをつくっている人たちとのネットワークができてきて、それをな にかに利用できないかと思ったわけだ。
公子 舞台はそれで終っちゃうじゃない? それを「売る」というかたちにできないかなと 考えはじめたのが三、四年前ね。ここで自分たちでつくるっていうのがないと、売れないんですよね。売れないし、つまんないでしょ、集めてくるだけじゃあ。
 何人かでやってられるんですか?
公子 ええ。洋服なら洋服について、私自身にそんなに技術がないから、その技術がある人 が三人ぐらい――できたものを持ち寄るというかたちじゃなくて、こういうのがやりたいなとか、ほしいなとか話してるうちに、その人たちも、やっとここのや り方が面白いなと思いはじめてきたみたい。私自身もなにかつくらないとだめなんで、いま染物のほうをやってるんです。だから、はじめはここも技術中心で売 るのはたまたま、こういうのが着たいという人たちがきてくれればいいやと思ってたの。でも材料費もかかるし、ちゃんと売ってないと……
津野 それで、ここも作業場のはじっこがお店になっちゃったわけだ。
公子 一週間に一回、一人でも二人でもきてくれればいいなと。食べ物とちがって、ほら、 着る物は毎日いるわけじゃないから。
津野 以上、先達にまなぶ智慧だね。私たちはそういう内側のことを、あんまり考えてな かったから。
田川 うん。
 子育てしながら仕事をするというと、どうしても、それは家のなかからの延長になるわ けよね。
公子 洋服をやるからって、ファッションを追いかけるわけじゃないから、できるだけ家で 考えたことをつくっていこうと思ったの。でね、わたし、こんどのスペースの話をきいたとき、田川さんの料理教室だといいなと思ったの。
田川 なるほど。
公子 そうすれば、常時いなくてもいいわけじゃない? そのとき、私たちも習うわけ。
田川 ええっ。ぼくは教えるほど、そんな……
公子 だから、それは普通の教え方じゃなくてさ……
田川 普通の料理教室の発想じゃない料理を、みんなでやるみたいな。
公子 そうそう。それだとよりいいなと思ったのね。
美恵 そういう日もあってもいいし、それぞれがやりたいことを、そこで不満なくできれば いいんじゃない? それと、もちろん公子さんという人のこともあったのよ。
公子 私も「老後はどうするの?」っていわれたもんね。
美恵 はっはっは。
 みんなの老後ね。わア、こころづよい。
田川 自分たちがやる養老院っていうの、おかしいだろうね。老人たちがみずからやってる 養老院。
津野 どうも話がそっち行くな。ぼくは不満なんだ、それは。
 そんな人ごとみたいなこといってていいんですか?
津野 いや。でも、これ、どうも映画の影響だね。なんだっけ、あのオペラ歌手の養老院映 画。
悠治 アメリカにサン・シティっていうのがあってね。その話を読んだ。砂漠のまんなかに ね、六万人ぐらいいるんだけども、全員、五十歳以上。
津野 はっはっは。
悠治 すごいんだ、その感じが。なんか、やな感じだよ。
津野 だろ? やだよ、おれ、それ。
 それ小説じゃなくて、レポート?
悠治 宮内勝典っていう人いるじゃない?
津野 小説家ね。鹿児島の人。
悠治 うん。その人がアメリカの話を書いてんの。そのなかにでてくる。訪ねてくの。六万 人。五十歳以上。
津野 だからさ、あんまり養老院とかなんとかいうの、やめようぜ。
美恵 いってないじゃない。こんなに働こう働こうっていってるのに。
公子 ね、働くのよね、これから。それで、パテ屋さんは利潤があがってるんですか?
 いやー、場所代がタダだから。
公子 あ、そうか。
津野 ここだってそうだろ? 自分の家でやってるんだから。
公子 そうだけど、私、毎週にしたのは、四月から家賃が上がって、その分ここで出ればい いなとおもったからなの。
津野 その分でてる?
公子 うん。
美恵 すごいじゃない!
田川 でもね、新しくスペースをつくるとなるとさ、家庭の延長という感じじゃないから さ、その経費が大変だなとか思って……
美恵 田川さんに経費の責任もってもらおうとか、そういう考えはないから、安心してくだ さい。
田川 うん。でも、なんとなくね。
悠治 だから、店にするとしたら、それは商売にしなければいけないわけじゃない? クラ ブっていうのは、そうじゃないんじゃないかな。クラブって、どういうもんなの?
津野 会費だろ。
悠治 ふうん。それで?
津野 年額いくらって払ってくわけでしょう、基本的には。
田川 それで好きなときに利用する。
津野 それにかかった分は、そのつど払うわけ。ただ、メンバーは安くすむとか、いろいろ 特権があるんじゃないの? だから、ゴルフ・クラブの会員券だよ。
悠治 会員券ね。
津野 おれはその二段構えがいいと思うな。まず年額会費があって……
美恵 メンバーじゃないと利用できないってことでしょう。
津野 いや、そうじゃなくても利用できる余地をたくさんつくっておくということだよ。そ の二段構え。フラッと行っても、いくらでも使える。
悠治 窓ごしに外からみるとかね。
津野 はっはっは。
悠治 よくさ、喫茶店とかバーをやるというのがあるじゃない? そうすると、仲間うちだ けで外の人が入りにくくなって、たいがい潰れるんだよね、ああいうの。
津野 臭くなってな。
悠治 だから、最初からクラブにしとけばさ。
津野 うん。でも、いつもこれっぽっちのメンバーが集まってるんじゃ、あきるからなア。 かなりの数のメンバーがいなければ、すぐあきちゃうぜ、五〇〇人とかさ。
田川 だから、いまの読者の人に、そのまま会員になってもらう。
津野 年額いくらかで?
美恵 そうそう。
津野 その人たちは、普通の店よりも半額ぐらいで飲み食いできる。
悠治 郵便振替の受取りと照合してさ、たしかにあなたは購読してますとか。
津野 購読料がたまってますとか?
公子 自分の家でやってて面白いのは、まわりの人が「なにやってんのかな」とのぞきにき たりして、それで近所との関係がちがってくることなのね。
 うちはいちおうお店のかたちがあるから……
津野 いやア、お宅もかなり異様なもんなんじゃないですか?
公子 住宅街のまんなかでね。
津野 田園調布の住宅街のまんなかに、まっ赤な壁の異様な家があって……そうか、ちょっ とお手本がまずすぎたか。成城学園と田園調布じゃなア。
公子 いや、私んとこはどこでもよかったんだけど……。
 まえに九州にいて、そこで食べ物屋をやろうと思ったときは、九州大学のそばに住んで たの。学生食堂をやるのも面白そうだなと思ってた。でもレバ・パテとかは、やっぱり東京じゃないとイメージがわかないのね。
公子 そうね、住む場所によって、ずいぶんちがうと思う。私、日暮里のほうだったら、朝 鮮焼やるもん。洋服なんて、やんないもん。
津野 みんな順応性が高いんだよな。では、われわれはどこでなにをやるか――いま悠治が いったことがポイントだね。水牛クラブか水牛キャバレーかという極限の選択。クラブってのは、いい線だと思う。
公子 私もそう思う。みんな、あきっぽいもん。
美恵 ね。
津野 水牛デパートは? 林さん直営の地下食品売場とかさ。
田川 一階は公子さんの洋服売場。二階は平野さんの……
公子 そこで焼物展とかやって、即売して一割おいてくとかすれば、ずいぶんお金入るわ よ。
美恵 舞台装置のように内装やって、あきたら変えるとかさ。
 でも、そこにはコンスタントにだれかが……
津野 悠治が毎晩ピアノ弾いてるとかな。
 子どものためのピアノ教室?
美恵 みんなぐれちゃうんじゃない?
 それはもう覚悟の上で……
美恵 ね。
津野 基本はクラブ。それでいいんじゃない? そのかわりワガママな商売をすると。
悠治 でも、音楽教室なんて、やりたくないな。
美恵 そうやって、みんな他人に押しつけてさ、「コンスタントはあなたがやってくださ い」って。
悠治 だからさ、やりたいっていう人をさがしてきて、「あなたはコンスタントにやりなさ い」と。会費を払ってもらって、やってもらって……
公子 みんな自分の家から、そのこ通ってくるわけでしょ?
津野 そうじゃないとしたら? ……ぼくはだめだな。田川さんそういう力量ある?
田川 どういう力量?
美恵 そこに住まう力量。
悠治 そこに住まうなら、ショールームで寝起きしてもらう。
田川 はっはっは。すごいだろうね、それは。そういうのは類を見ないね。
津野 あれっ、人形とそっくりじゃないかってね。
 いないときは、そこに田川さんのお人形を寝かせておけばいい。
田川 なるほどなア。おそろしい発想だなア。
美恵 あのさ、この話を最初に津野さんとしたのは、その前に、公子さんから将来の計画っ てのをきいてたからなのね。
公子 あ、家庭解散論?
津野 ええっ?
美恵 家庭解散論っていうよりも、そのあとでつづけたいっていってたものがあったで しょ?
公子 あっ、そうか、あれね? いつか電車んなかで話した……
美恵 そうそう。
公子 連絡場所をちゃんとつくればいいねという話をしたのね。
美恵 共同の連絡場所をちゃんとつくって、そこに公子さんがつくってるようなものをおい といて……だから、それが発展したようなかたちでしょ?
津野 平野もそんなこといってたね。
美恵 「やっぱり、場所だよ!」
公子 そう。私たちんとこ、ずっと土地がないから。
美恵 それで、公子さんがいるから、って思ったの。
田川 しかし、ショールームで寝起きするっていうのは、おもしろいアイディアだな。
 あ、本決まりだ。
津野 田川さん、やっぱり、みんなが自分にパッと注目してくれないとおもしろくないって ことある?
田川 そんなことないよ、ぜんぜん。
美恵 それだったら、寝るのは悠治じゃない? かわりばんこに寝たら?
津野 はっはっは、おれだって一年に何日かは淋しい日があるんだからさ、その日だけ注目 ベッドに寝させてもらいたい。
美恵 希望者多数のばあいは抽選できめさせてもらいます。
悠治 「本当の注目ベッド」と表にでてるのね。よくあるじゃん? SFでさ、地球人のサ ンプルとして、みんなの見てるまえで……
津野 カート・ヴォネガットとかね。あと住宅のモデル・ハウスに、実際の家族を住ませ ちゃうという話があったよ。好きな家具を買ってくれて、たとえば平野一家がそこで生活をいとなんじゃうわけ。
田川 『ビギナーズ』っていう映画のなかで、そういうシーンがあったのね。二階建ての何 部屋かを縦に割ったとこを、こっちから写してて、そこで暮らしてる。
 『裏窓』みたい。
田川 そう。アパートの壁をとっぱらって、こっちで痴話喧嘩してるとかさ、こっちで料理 つくってるとか、ぜんぶみえちゃうの。
 アリの生態ね。
田川 うん、あれ! アリの生態観念みたいなやつ。
津野 さっき公子さんがいってた「連絡場所」って、なんなの?
美恵 みなさん、気むずかしいからさ、仕事の連絡でも……
公子 うん。水牛というのは、だれに連絡すれば、なにが分かるのかということが、なかな か分かんないわけ。だから連絡場所をつくろうと――ただそれだけなのね、いちばんはじめは。それで、だれかがずっといなければならないんだったら、その人 にお給料を払おうと。
美恵 それが公子さん。
公子 あら、そっちよ。
美恵 え?
公子 いろんなことやるんなら、やっぱり調整する人がいないと。私は家庭内店鋪をやって いくから、そこに出店をださせてもらう。
美恵 分かったわ、電話番ね。
公子 プロデューサーよ。
津野 じゃ、まず連絡場所で、全体としてのバランスはとれなくても、そこからいろんな活 動がトゲトゲみたいにでているというかたちだね。どうやら、きみたちにはシッカリしたイメージがあるんだ。
公子 やりだせば見えてくると思う。パテ屋さんの名前は知ってるけど、田園調布まで行く のが大変な人はそこで買えばいいとか。
 調理場の隣りでね、屑をあつめてやるのがいいな。
美恵 田川さんの隣にいて、その屑でパテをつくるのね。
田川 どっちかといえば、ぼくの料理教室だって屑でやるんだけどな。
 私は骨と皮だけでパテをつくる方法とかさ。
公子 そうすると、また「通信」がいるのよね。骨と皮だけでパテをつくる方法とかさ。
美恵 それはね、ワープロをそこにもってっておくわけ。フロッピーさえ自分のものもって れば、一ページぐらいのものなら、だれでも自分で打ってコピーしとけるでしょ。
公子 ちゃんと考えてるじゃない?
津野 そんなの日報でだせるよ。
公子 平野さんなんかさ、「きょうの釣の成果」とかいっちゃってさ。
津野 だんだんいじましくなって、養老院においつめられていく。
 いかに日常のこまかいことがおもしろいかということね。
公子 また、それとちがうことを一緒にやってるというのがいいのよ。
津野 そこで実力派女性たちと空虚な男たちがクロスできるわけだ。なるほど、やっと見え てきたね。
公子 コンサートもやるんでしょ?
美恵 楽器がうちにあふれそうになってるから、そこにおいてもらって。
公子 調理場の隣にピアノがおいてあるのね。
美恵 その上で材料屑を……
 はっはっは。
公子 いろんな部屋がある大きな家がいいね。
 チェルシー・ホテルじゃないけど、みんなが上に住んでて、夜、ちょっと下に降りてき て情報交換して、またパッと上に……
公子 染物ってね、料理にいちばん似ている。焼物ともにてるの。調味料じゃないけど、色 をだすためにちがう薬を塗ったりとか。
 料理でも、コネコネとかたちをつくって焼いたりすると、焼物にちかいかなと思うの ね。
公子 水とか火を使うものは、みんな似てるのよね。料理が苦にならない人は、染物も好き なんじゃないかな。
津野 ふーん。……そうやって、一か所にいろんな仕事がかさなってくるわけか。
公子 そうね。染物も料理場がないとできないしね。
津野 いつか田川さんと林さんが、川崎でやったAALA文化会議の食事をつくったでしょ う? あのときの話をきかせてよ。あのときは何食分つくったの?
田川 二日間で八〇〇食。
 私は衛生関係のことがいちばん心配だったのね。それで、幕の内弁当みたいに、みんな がこねくりまわしたものをつめるのだけはやめて……そうすると、煮たものと煮たものをパッと合わせるドンブリ飯しか考えつかない。
田川 ぼくはそんな心配なんか、ちっともしなかった。たくさんつくるには、いちばんなに が簡単かというと汁かけ飯――だから、どういう汁があるかということを考えた。カレーと肉どんと、マーボーどんと……
 チゲと、野菜だけのもの。野菜しか食べない人たちもいるだろうし、それなりのメ ニューをつくったのね。初日につくったのを、また次の日にもつかえるということで、いっさいムダがないメニュー――だけど、それじゃ淋しいというのが、す ごく心配で。
田川 そうか。ぼく、あんまり心配しなかった。
 あそこ、オープンしたばかりの新しい建物だったのね。建物を管理している側は汚され たくないから、内心、出前の弁当を入れてくれというのがアリアリで……
津野 調理場はなかったの?
田川 ない。それで最終的には競輪場の調理場でやった。さすがにすごかったけどね。
 すごい火力。でも、競輪場はすごく親切だったのね、感激的に。
田川 そうそう。
 ただ、なんか淋しいなというのが心配だったのね。で、あの建物の竣工式のとき、吹き 抜けのとこから見てたら、テーブルがでてて、そこに果物の盛り合わせがあったわけ。「なるほど、あれでやろう」と思って、ミカンを箱で買ってきた。あと、 そこらへんにコーヒーの香りをまきちらそうと思ってね、ズンドウ鍋に大きな金のザルをおいて、古いシーツをひいて、粉をいれて、ザーッとお湯をかけて、一 〇〇人分のコーヒーを瞬間的に入れちゃったのね。それから甘いものとしてバナナケーキ……
田川 それで、あとは川崎の生活クラブの人たちが三十人くらいきて、あっという間にやっ ちゃった。バババババーッとね。
 そう、すごい迫力でね。それで、ご飯だけは買ったのね、出前で。
津野 あのとき、ぼくはなに食べたかなア。カレーはおぼえてる。
 ああいうの、ホントに面白いわね。
田川 実際に調理してる時間なんか、ホントに短かったね。朝の九時ぐらいに集合して、も う十一時ぐらいにできてた。
美恵 ……あ、悠治、寝たぞ。
津野 朝鮮人参で寝ちゃったぞ。
 水平人間。
美恵 ね、こっちの部屋にこない。
津野 家庭内店鋪? 昨日の売れ残りを点検するの?
美恵 売れ残りじゃないわよオ!
 きれいねえ。
田川 その黄色いの、なに?
美恵 どうぞ、お召しになって。
 わアー、ピッタリ、田川さん。
美恵 これシルクだって。……あ、やめて、田川さん、これは。
 シルクって洗うのが大変でしょ?
美恵 手でいいんでしょ?
公子 そう。でも、いろいろ扱いがむずかしいみたいね。
津野 しょうがねえな。……じゃ、きょうはこれでおしまい。おれ、そろそろ帰るわ。



キリコのコリクツ  玖保キリコ


「引っ越し熱」も収まり、当分は大泉学園で静かな日々を送ろうと決心した矢先、私の引っ越し願望に火をつける事態が起こった。
起こった、といっても、それほど大した事件が起こったわけではない。
いつものごとく、しょうもない事である。
しかし、しょうもない事でも、同じ日に2つも起こったのである。
と、質は量でゴマ化して、とにかく話を先に進める。

その日、私はフラフラだった。
前日から一睡もしていない完徹状態であった。
それでも、午前11時までには、編集部に原稿を届けなければいけなかった。しかも、原稿は百%完成していたわけではなかった。
残された作業は、スクリーントーンを貼ることだけであるから、それは編集部に着いてから作業にかかっても、そう時間がとられるわけではない。
えへら、えへらと笑って、「まだできてないのー。でも、あとちょっとー」
とか言っていれば、どうにかなる。
特に急いで必要とされているのは、写植屋さんにまわすネームの方であるのを私は知っている。
でも、完成していない原稿をもって編集部に行くことは、確かに気の重いことであった。
その重い心と徹夜でボロボロの体を両方引きずって外に出ると、疲れが2乗にも3乗にもなる気がした。

全世界の苦労が私の肩に乗っかっている。

そんなことをブツブツ考えているうちに、私は編集部に着いた。
そして、あらかじめ予定していた、例の「えへら、えへら」を実行しながら、スクリーントーン貼りの作業に取りかかった。
その作業も実は時間が限られたものであった。
と、いうのも、私はこのあと、1時から始まる「プレンティ」という映画の試写会にいこうとしていたからである。1時までに東銀座にある松竹富士の試写室に 行くには、12時半前にはこの九段にある編集部を出なければならない。そうなると、時間はあと1時間ちょっとしかない。
の作業にそう時間がかかるわけではない。
 ただ、時間が限られているという意識が、疲れた心を圧迫するのだ。
何しろ、私の肩には、全世界の疲労が乗っかっているのである。
新しく加わったプレッシャーは、私の姿勢を前のめりにさせた。
また、誰にも聞こえはしないが、私の耳には、私の「ぜい、ぜい」という喘ぎ声が大きく響くのであった。
作業を無事に済ませ、試写室にかけつけたとき、時計はもうすぐ1時を指すところであった。
映画はメリル・ストリープの主演のどちらかというと重たいタイプのものであった。
私はすっかり暗い気持ちになって、よろよろと試写室を出た。(誤解のないように言っておくが、私がよろよろしていたのは、映画のデキが悪かったからではな く、単に、メリル・ストリープ演じる主人公の気持ちが感染しただけなのである)
さて、このあと。
何も後ろに控えていなければ、まっすぐ家に帰って寝る、というのが正しい漫画家の生き方である。
ところが、私にはクリアーしなければならない予定がしっかりと控えていたのであった。
その日の午後10時から俳優座で行われる「ブルータス座」に私はどうしても行きたかった。
「続清水港(代参夢道中)」と「鴛鴦歌合戦」という滅多に見られぬ2本が上映されることになっていたのだ。
「プレンティ」が終わって、アンパンの香りに包まれながら銀座木村屋でスケジュールの確認をしていると、時計はすでに4時を回っていた。
移動の時間は除いたとしても、あと5時間はどこかで時間をつぶさなければならない。
いったん、家に戻って休むにしては時間が足りない。
何しろ、私の家は23区内にあるとはいっても、都心に出るのに1時間半かかる。
つまり、行って帰ってくるには3時間必要なのだ。
くらっとしながらも、そのとき私はふと思った。
(都心に仕事場があったら、とても便利だろう。)
(引っ越す、と考えるから面倒な気持になるのだ。)
(仕事場ができる、と考えれば良いのだ。)
(仕事場さえできれば、すべてがうまくいく。)
(昼寝もできるし。)
ぼーっとした頭でそう考えつつ、ともかく、現時点では、「休む」という考えは捨てなければならないと思い、私は「ぴあ」をめくって、何か良い映画はないだ ろうかと探した。
が、どうもそそられる映画はなかった。
また、こんなに頭がフラフラしている日に、しかもそのあと確実に2本は映画を見ることになっている日に、わざわざ映画で時間をつぶすこともないだろうと思 い直し、私は「ぴあ」を閉じた。
そして、思いついたのが「《早目に済ましておくのが望ましい》打ち合わせを済ましてしまうこと」であった。
先方に連絡してみると、先方の指定してきた時間と場所は、ここ銀座からバスでだらだら向うには丁度良いものであった。
「時間をつぶすにはバスで移動するのに限る」とバスに乗り込み、私は次の場所である渋谷へと向った。
ところが、だらだらと進むはずのバスは、思いもかけず速やかに目的地へと着いてしまった。
待ち合わせの時間に30分以上も早く到着してしまった私の頭に、「仕事場があったなら」という思いがもう一度舞い戻ってきても不思議ではあるまい。しか も、「あったらいいな」は「なければならない」という形に変わりつつあった。
そして、打ち合わせの相手は、打ち合わせの終った後に、私に決定的な第2の原因となることを提案してきた。「もし時間があれば、ぼくがマネージメントして いる作家の仕事場に一緒に行ってみませんか? 彼の所には4万冊くらい本があるんですよ」
時間を埋めたい私は、その提案にとびついた。
そして作家の仕事場を目にした途端、自分の中で自分の欲望が具体化しようとするのを感じた。
やはり視覚的なインパクトは強い。頭でいくら「仕事場があればいい」と考え、理屈でそれを説明づけても、現実に機能する他人の仕事場の見学による納得度の 方がはるかに大きい。

ブルータス座の映画は2本とも、とても面白かった。
しかし、大泉学園→九段→東銀座→渋谷→代々木上原→六本木という大移動にくたびれ切って、その後の映画の話題にほとんど上の空であった私の頭には、しき りと「仕事場、仕事場」という天からの声が鳴り響いていたのであった。


料理がすべて  田川律

ビニール袋の中の酢と醤油
母の家を久し振りに訪ねた。家といっても2Kの公団アパート。かつて十年近くぼくたち一家が住んでいたところだ。今は母がひとりで住んでいる。場所は大阪 府八尾市山本。水牛楽団が二度ほど公演した西武八尾店の次の駅。もちろん、ぼくが住んでいた頃西武はなかった。
「何か食べたいもんある?」
「ええよ。駅の市場で買うて行く」
「ほんなら、ついでに、マンマンちゃんのお花(仏壇のことをいう)も買うてきてね。よろしくお願いします」
母は息子に、いやにていねいな口調で話す人だ。こっちはつい「うん」とか「ふん」とか「わかってるよ」とかつっけんどんになる。
結局、さばの生酢と、懐かしいかますごとほうれん草ぐらいを買って行った。かますごは関東ではどういうのか。ちりめんじゃこの親玉みたいな魚を茹でて生干 しにしたもの。網で焼いて、しょうが醤油で食べても、三杯酢で食べてもおいしい。今日は、焼かずにそのまま三杯酢にして食べようと思った。
母は、「たまに来たんやさかい、そのぐらいはわたしがしたげるがな」と作ってくれたが、酢や醤油を居間に置いてある白いビニール袋の中から取り出したのに はびっくりした。それぞれ小さな瓶に入っている。
「なんでそんなところに入れとくの?」
「持って歩いてんねやん」
「なんで、酢や醤油持って歩かなあかんね」
「死んだらあかんやろ」と、声をひそめる。
「死んだら、て。なんぼ持って歩いても、死んでもたらいっしょやんけ」
「ちがうの。うちへ置いといたら、わたしが留守の時、誰かが毒入れるかわからへんやろ。それ飲んだら死ぬかもしれへんやん」
「?」
かなり徹底した用心深さである。

トリ屋も花火屋も握り寿司
先号に登場したハナビシ・アチャコさんの家を訪ねた。あの号では、所在地を大麻寺と書いたが、あれはこっちの大きな思い違い。ホンマは当麻寺。大阪に住ん でたら、きわめて初歩的なミス、といえるほどなのだが、長いことおらん間に、こっちが当麻(タイマ)は大麻だ、と勝手に思い込んでいた。
ああ、こわ。
家が花火屋さんだと、なかなか嫁のきてがないとか、(やっぱり危険やと思う人がとても多いらしい)東京の迎賓館にロケット弾が打ち込まれても、ケイサツの 人が、お宅の火薬ちゃいまっしゃろな、と訊ねに来るとか、アチャコさんのお父さん、お母さんをまじえて、おもしろおかしく話してるうちに、また夕方になっ て、「こんな遠いところまで来ていただいて。なにもありませんがお食事ぐらい」といわれて広い屋敷で、四人で、握り寿司を食べた。大塚さんのお宅でもそう だった。
ぼくなんかむしろ、ご飯にお茶かけてお漬物でも、そのうちがいつも食べてはるもの食べさせてもろた方が気さくで楽しいのだが、とりわけ大阪方面では、お客 さんにはお寿司を、と考えるようだ。ぼくが寺に住んでいた時分に、よく寿司の出前を食べた記憶があるのも、父親が教えていた学校の生徒がちょくちょく遊び に来てて、その食事のお相伴にあずかったのだ、と今になれば思う。道理で、少々小さな町でも寿司屋は必ず一軒はあるのだ。

ゴミの花見と暁のラーメン
朝七時。京都・丸山公園。お花見。
さぞや美しかろうと、前夜から烏丸松原の「ビッグ・ノーズ」で、ちびちびとアルコールを飲みながら、この刻を待っていた。はじめは夜桜を見に行こうと思っ ていたが、土曜の夜だからなかなか花見客が減らないだろうと思っているうちに、店の中が盛り上がってディスコみたいになって、誰もが踊るのに忙しくて、花 見どころでなくなってしまった。
やっと朝になって、男A、B、C、それに女D、とぼくの五人が、無理矢理一台のタクシーで丸山公園へ。途中鴨川を渡る時、両岸の桜が美しく、べつに公園ま で行かなくても、この辺でと提案したが、酔っぱらってるABCたちは、公園へ行こうと。
ところが、公園の方は、落花狼籍とはこのこと。そこいら中にまだ前の夜から飲み続けていた酔っぱらいたちがうろうろ。地面は辺り一面ゴミだらけ。終夜あけ ていた屋台のオジサンが「今頃なにしに来よりましてん」といわんばかりに、そのゴミを掃いている。
花見どころやない。A、B、Cたちはそれでも、もう、あっちへふらふらこっちへふらふら。店から持ってきたハバナ・クラブを瓶ごと飲んでは、酔眼もうろう で、桜を眺めてる。
「こら、あかんわ」
「ラーメンでも食いに行こや」
と、24時間営業のラーメン屋へ。
たまに花見なんかしようと思うからこんな目に逢うのじゃ。

トム・ヤム・クン
渋谷・東急の地下の食品売場は、いろんなものがあってうれしい。それこそパクチイからフカの肉まで、たいていのものはある。どうせなら、クノールの「ト ム・ヤム・クンのスープの素」もぜひ置いて欲しいものだ。
ま、それは幸い、美恵さんにわけて貰ったのがあり、パクチイもこの日は売っていたので、マッシュルーム、といいたいとこだが高かったので、しめじで代用 し、エビをかって、「トム・ヤム・クン」を作った。「バンタイ」や「チャンタナ」でお馴染みの味がばっちりできた。ま、あたり前やけど。
おかずの方は、エビとビーフンと椎茸としし唐の甘辛いため。いつもはエビは殻をつけたままやることが多いが今回は不精をしないで、ちゃんと一匹一匹殻をぬ いてしたら、いつもとはひと味違うものになった。作り方は、いたって簡単。いつものように、ニンニクの乱切り(?)をゴマ油でいためてエビを入れ、椎茸と しし唐を加えて、砂糖、しょう油、トウバンジャン、で味付けして、あらかじめゆでておいたビーフンを加えて、ごちゃごちゃ混ぜ合わせてできあがり。スープ の辛酸っぱい味と、こちらの甘辛い味のとり合わせがうまくいった。

レモンと蜂蜜
といっても、どこやらのカレーの宣伝ではない。久し振りにどぎつい風邪を引いた。直接の原因は、四月二十一日に、市川の小学校で行われた「こどものための ジャズ」という催しで、司会と踊り(?)に熱演しすぎて、しっかり汗をかいたのに、着がえもしないでうろうろしていたためだ。だけど、風邪を引くとき、と いうのは、たいていその前からなんらかの疲れがたまっていることが多い。
熱を出して、うなっている時は、ひとり暮しは辛い。でも、熱をはかるとかえってそれがプレッシャーになるから、ひたすら寝てれば、と、もっぱらうつらうつ らしている。たまに電話がかかってきて「今、風邪引いてんねん」というと、たいてい相手は、「それなら」と治療方法を教えてくれる。これがまた見事に各人 各様。ようするに、あつーいものを飲めばいい、ということになるが、このあつーいもの、というのが、人によって違う。1卵酒。日本酒を人肌にあたためたも ので、卵をそうっととく。もわれができないようによくといて、それをぐっと飲む。人によっては、これに砂糖を入れるという。2大根おろしとしょうが。大根 おろしにしょうがををすりおろしたものを加え、そこにしょう油で味つけして、熱湯を注いでのむ。3ネギとしょうがと梅干。ネギをたっぷりみじん切りにし、 しょうがをすりおろす。梅干を焼いたものをこれに加え、水をそそいで、ぐつぐつと煮る。梅干はこの時、身をほぐす。これをあついうちにのむ。4レモンと しょうがと蜂蜜とラム。けっきょく、ぼうは初日は、これを作ってのんだ。二日目もこれをのんで、それでもしつこく夜になると熱がやってきたので、最期の日 は、ここからラムを引いたもの、ようするにラム抜きのものをのんだら、次の日から熱がぶり返さなかった。どうやら、何日かして、風邪が頂点に達しさえすれ ば、あとは熱が戻ってこない、ということではないか。

イレブン・セブン
今やすっかり「お忙氏」の斉藤晴彦さんには、現場へ出かけて行って会うしかない。今月は「芝居じかけの音楽会」に出ている新宿シアター・アプルへ出かけて いった。
昼の公演をみて、いつものように何か食べましょうやと、表へ出てうろうろしていると、ぷうんと鰻のにおい。「鰻なんか、良いですね」と、楽屋口のすぐ前に ある寿司屋さんへ。ずらっと鮨ネタの並んでいるカウンターに坐って「うなぎいっ!」と注文するのもなにやらおかしい。
この店、歌舞伎町に位置しているだけに、来ているお客さんも、どっか水商売風のお姐さまが多い。なかなかおいしい鰻だったので、晴さん、また来ようと思っ てか「何時までやってんの?」と聞くと「七時」「え? 七時」「朝の七時まで。イレブン・セブンですよ。もちろん従業員は交替ですけど」
なるほど。十二時間営業。「朝なんか、誰が来るの?」
「いや、ほかの店をやってて終った人とか、夜通し飲んでて、ここで食べて帰る人とか」
「サラリーマンが来たりして」と晴さん。「朝ご飯代わりに寿司食べてから出勤したりして。ずい分ぜいたくだね」

ブリの照焼き
下北沢に住んでいる時、アパートの近くに「とん水」という食堂があった。ここは、焼魚、といってもフライパンで焼く。ま、少々脂っこくなるけど、煙りはほ とんど出ないし、便利には違いない。というわけで、わが家でも、フライパンで、ブリの照焼きを作った。砂糖、酒、しょう油、みりんをまぜた汁にブリを三十 分ほど漬けといて、フライパンに少しだけ油をひいて、まずブリだけをしっかり両面焼く。これを皿にあげて、つけ汁だけを、このフライパンでひと煮立ちさ せ、ブリにかけて出来上り。美味、美味。
いつも「タラ豆腐」では、なんなので、いっそ、はじめから、汁にしょう油で味つけして、なんのことはない、タラと豆腐とネギのおすまし。そしてこれまたこ のところ得意の、ご飯にちりめんじゃこをかけて食べる。


走る・その五  デイヴィッド・グッドマン


チンガードはもうしなくなった。昔はよくしていたが、ちかごろは、ひらひらのランニングショーツについている一枚の布に支えられている。

チンガードにまつわる思い出は多い。子供のころ、YMCAの水泳教室に通った。「おたまじゃくし組」のぼくたちは裸で泳ぐのが鉄則だったが、十代の教師た ちは皆チンガードをしていた。フルチンのぼくはそれをみて、なんのための紐か、なにがどういうふうにつながっているのか、さっぱりわからなかったが、憧れ ていた。そして「大きくなったらぼくもチンガードをするんだ」とひそかに心に誓った。

ぼくのチンガードの日々は永くつづいた。ごく最近までは、水着の下とか、体操着の下とか、必ずチンガードをはめていた。古き良き時代であった。チンをしっ かり押さえ、金玉をやさしく支えたあのゴム紐は、なんともいえぬ安心感を懐かせてくれた。

ああ、懐かしきチンガードよ、いまはいずこ。十四のとき、中学校のアメリカンフットボールのチームに入ってみた。学校はヘルメット、ショルダーパッドなど 基本的な武装品は貸してくれたが、チンガードは当然、各“選手”が自分で購入することになっていた。フットボール用の特性チンガードで、表の袋が二重に なっていて、カップと呼ばれるプラスチック製の鎧が入るようになっていた。蹴られても、握られても大丈夫なようにできていた、というわけだ。

ランナーはもはやチンガードはしない、というわけではない。チンガードばなれしたぼくのようなランナーもいれば、チンガードを愛しつづけるランナーもい る。たとえば、冬の間は、ポリプロポリンという化学繊維でできている下着をぼくは穿いている。汗を吸収しない繊維で、皮膚の上の汗をどんどん外へ出してし まうから暖かい。下着の表面には、冷たい風を通さない一枚のナイロンが縫いつけてあるから、安全だ。ところがぼくの友達の一人は、愛人がくれた冬季専用の チンガードをして走っている。袋の中は兎の毛。とても暖かいらしいし、走っていると恋人の愛に包まれている感覚もうれしいという。だが、それにしても、兎 と大根なら話しはべつだが、兎と男根ほど無縁なものをそれだけ密接に付き合わせるのに抵抗を感じるのはぼくのみではあるまい。

チンガードが廃れてしまった背景には、チチバンドが弛んでしまったと同じような歴史的経緯がひそんでいるように思われる。五〇年代、大陸間弾道ミサイルの ようにオッパイを尖らせてみせてくれたチチバンドは、六〇年代になると、女性解放運動の影響でノーブラルックに変わった。いってみれば、一方的軍縮であ り、平和を願う若者たちの気持を表す現象の一つであった。そして遂に、現在のようなブラブラの無防備の時代を迎えた、というわけである。

      *

暖かな小雨が降りしきる五月四日の早朝、コーヒーをすすりながら、走ろうか、休もうかとぼくは考えていた。九三歳になる祖母が心臓発作をおこして、五日間 ほど見舞いにアメリカへいってきたぼくの頭はまだ時差でぼけていた。日本滞在は後わずかしか残っていないし、仕事も大幅に遅れているが、会わずに祖母に死 なれたらたまらないと思って旅立ったのだ。幸い元気だったので、安心して日本に戻ってきた翌々日であった。

テレビをつけた。六時のNHKニュースにチャンネルを合わせた。首都圏に降っている雨から、ソ連チェルノブイリの原発事故による放射能汚染が検出された、 というニュースをトップで伝えていた。今朝、雨の中を走れば、放射能に汚染された雨を浴びることになりかねない、と思いながらぼくはいやいや身体をのばし はじめた。三杯目のコーヒーを飲み干して、グァーと眠りつづけている扶養家族を起こさないように、静かに階段を下りた。突然ドアを開けられてびくりした新 聞配達夫は「おはよう」と挨拶して朝刊を渡してくれた。

きょうから東京サミットが開始される。新聞を見なくても、一歩街に出れば一目瞭然である。いたるところに警官、機動隊員、私服がいる。戒厳令同然だ、と思 いつつも、本当の戒厳令下だったら、走ることなど許されないだろう、と反省せざるをえない。それでも、無数の警備隊員に見守られながら走るというのは、不 愉快な体験である。青山通りを赤坂のほうへ駆けて、迎賓館を廻ってくるルートをあきらめて、昔閲兵式場であった絵画館の前を通って、信濃町、千駄ヶ谷、参 宮橋、代々木公園を行った。テロ防止対策として、皇居のまわり、迎賓館のまわりを走ってはいけないことになっているのだから。

まことに物騒な時代である。ブラブラのまま走りつづけることが、どうも、死に対するぼくのささやかな抵抗、という意味合いを帯びてきたようだ。



病気・カフカ・音楽(その三)  高橋悠治

〈おんがくいぬ〉

 こいぬ/ことばにならないこうふく/こうふくなこうふん
 こいぬが/くらやみのなかをはしる/ながいことはしる/それからとつぜんとまった
 ここがそれだ/そうかんじて

 そらはあかるすぎるあさ/それでもすこしきりにけむり/なみうつにおい/うっとりさせる/こいぬはきまぐれなあいさつをおくった
 すると

 くらがりから/すごいおととともに/いぬななひき
 なにもいわず/うたもうたわず/にがいかおが/じっとだまって
 かれらはからっぽなくうかんから/すごいおんがくをよびおこす

 すべてはおんがく
 あしのあげおろし/あたまがふりむく/はしったりとまったりもつれるかたちをくみかえくみもどし/つづけ

 ななひきめはちょっとふなれ/ひょうしがときどきふぞろい/そのときもほかのいぬたちが/ふどうのひょうしをとっていく

 よびよせたすごいひびきにさらされ/おとなしくたえる/いぬたち
 いっぽごとにけいれん/みかわすめのこうちょく/だらりたれたした
 はりつめたいぬたち/はじいるいぬたち/つみをかんじるいぬたち/じっとだまって
 い・ぬ・たち

〈ひこうけん〉

 ちゅうにただよう/ちっちゃないぬ/いぬのあたまほどもちっちゃな
 けなみととのえたきれいなけがわ/ひよわ
 いじめ/みじゅく/じんこうてき

 あしをあきらめ/やしないのだいちとわかれ
 いぬしゃかいのぎせいのうえに/やしなわれ
 からだをわすれ/かんがえるだけ
 たかみから/かんさつをかたるだけ
 たえまなく
 たえられなく

 この/むいみないのち
 ここでは
 むいみなものが/いみあることより/いみありげ

〈みしらぬいぬのうた〉

 わかりきったことも/もう
 わからない
 だれだろう

 うたがうかびだす/うたはだれだろう
 ぬねの/おくから/こっちへむかって
 おしてくる
 だれだろう

 のどはだまり/ひとりで
 はじのなか/うたは/はじまり
 だれだろう/うたは

 ふあんのなか/かおをふせ
 はずかしい
 だれだろう

 もううたいはじめた/のどは/だまったまま
 まだそれをしらない
 うたはだれだろう
 だれだろう

 うたは/のどからはなれた
 はてもなく/おおきくなる/おとが
 だれだろう/うたはだれだろう
 うかびただよい/おいかけてくる
 おおきくとびはね/かけだしても
 おとは
 ついてくる/うたは/だれだろう
 だまったままの/うた
 だれだろう/うたは
 だれ/だろう

〈ヨゼフィーネ〉

 しらずしらず/ふかくかんがえず
 ふつうののどの/だれでもだせる/いつものこえ/あれは
 うたなのか
 それよりよわく/たよりないこえでも
 うたなのか/ほんとうに

 せまいこのせかいに/ききせまるとき
 ふいうちの/ふあんに
 おいつめられた/すみに
 みがまえたうたが
 すてられ/はぎとられ/さらされた/すがたが
 たちまちそこにたち

 ふるえるむね/ふりあおぐめ
 ぞっとするほどそらした/かお/ねじれたかたち

 ねずみたちはまちのぞみ
 となりのけがわにかおをうずめ
 とりかこむ/ちんもくのなか/ちからないこえが
 どうにかして/こっちへこようと/もがいている
 ふこうにたえるちからを/どうしたらつたえられるのか
 くらしからかいほうされ
 おとろえたこえ
 あくいをきりひらく/ほそいのど

 やがて/うたいてはうたになり
 もううたわない
 うたはみをかくす/わすれられた
 あの/こえ


一九一一年十二月十三日のカフカの日記――「合唱協会のブラームス・コンサート。ぼくの非音楽性は基本的に、音楽をまとまったかたちで味わえないこと、た だそこここで作用するが、それも音楽的なものであることはまれだ。音楽をきくと自然とまわりに壁ができて、ただひとつ持続する音楽の影響は、ぼくがとじこ められて、自由なときとは別なものになることだ。」

グスタフ・ヤノーホに――「音楽は海のようなものにおもわれます。圧倒され、おどろきに心うばわれ、感動して、しかも不安で、はてしないものの前におそろ しく不安なのです。」

また――「音楽はあたらしく、もっと繊細で複雑で、だから危険な魅力をあらわす。文学のほうは、魅力のもつれを透明にし、意識にたかめ、きよめることに よって人間的にする。」

世紀末のオーストリア帝国の音楽文化のなかから、意識化・論理化によってあたらしい音楽の道をきりひらいたのはシェーンベルクだった。そこから現代音楽の 衰弱がはじまった。

それにたいして、保守主義は――「そのわずかな音とリズムから、音楽はあるひとたちにはプリミティブな芸術にみえる。だが、単純なのは表面だけで、これら の見えている内容の意味を可能にする実体は、まったくはてしない複雑さをもっている。ほかの芸術の外側はそれを暗示するが、音楽はだまっている。それはあ る意味でもっとも洗練された芸術だ。」(ヴィトゲンシュタイン)

このことばだって文字どおりにとれば、ということは、コンテクストをはなれて、ヴィトゲンシュタインやカフカのしっていた音楽の外側から逆転させれば、わ ずかな音とリズムだけで洗練にいたる単純なしかけをかんがえだすこともできる。それはシェーンベルクのようにかくされた複雑さの意識化と組織の方法とは反 対に、カフカの非音楽性がおもいついた単調にぴいぴいいうねずみの音楽や、沈黙したままの犬たちの音楽にちがづくだろう。





音楽時評  坂本龍一


……で、とうとう始まってしまったんである、初のコンサート・ツァーが。

「坂本龍一様へ。
私は京都に住む女子高生の1人です。この間の4月23日(水)京都会館のJAPAN TOURに友達と2人で行きました。運よく 前から7列目だったので すが ピアノをひくと キーボードがじゃまで おすがたが 見えませんでした。
さて、率直に感想を言いますと まづ 最初の髪型にびーっくりしました。登場の仕方が印象的でした。そしてわーっと立って みんなでついのってしまいまし た。私は今まで 坂本さんのコサートにいったことがなかったのですが、あんなにのれるとは知りませんでした。特に今回は 機械と肉体とを念頭においている からかも しれませんが。
そして 坂本さん自身が 力いっぱいやってるんだと思いました。いつも対談集での 小難しい態度ではなく、体をはって コンサートしてるなーと思いまし た。あの状態で 連ちゃんはしんどいですよね。特に後半になればなるほど 上着が汗だくで 私も手を振り続けて 痛いなーとは思ったんですが、あんなに一 生懸命と思うと やめられませんでした。
さて ミディピアノの事ですが、はっきりと聞きとれなくて わかりませんでした。でも すごいなーとは思いました。
本当 今回のTOURは とても良かったと思います。
でも難点が2つほど
1 全席4000円ですと、2階席等の人には高いと思う
2 警備の人が まわりの人々はのってるのに 1人くらくにらんで 雰囲気を こわしていた。
では 近いうちに KYOTOでもコンサートを 開いて下さい。
P・S・サンストの最終のを私は 聞きのがしてしまいました NHKにたのんで再放送して下さい」

「坂本龍一さま
今日(4月30日)渋谷公会堂でのライブを拝見致しました。思いがけぬ教授のエネルギッシュなアクトに大変感動しました。YMOの頃とは全く違った印象を 受けました。僕自身もノリまくりました。またGrand Piano Midimasterによるソロ・コンサートは クラシックのカラーがでていて 非常に良かったです。とくにE. Satieのジムノペディはサウンドストリーとの公開録音で教授が演奏されているのを聴いて、「ん! 僕も弾いてみよう!」と 楽譜を買ってきて一生懸命 練習したことのある曲なので とてもうれしかったです。アンコールでの“SELF PORTRAIT”と“PAROLIBRE”ははっきり言って胸にジーンときました。(この2曲は僕の最も好きな曲です。)とにかく今日はサイコーの日で した。これからも素晴らしい曲を作って下さい。乱筆乱文 御容赦下さい。ではこのへんで さようなら。30th Apr. 86
P・S・教授のショルダー・キーボードを弾いている姿、とてもカッコよかったですよ。」

ツアーというのはやはり大変です。前にレコード1枚作るのが大変だという話を書いたけど ツアーは そーですね制作費で言うとレコード3枚半くらい、か かっている月日で言うとレコード3枚分くらいですね。まづ小屋おさえが約1年前から始まり、同時に各地のイベンターの決定があり、バンドのミュージシャン の選定もボチボチ考え始める。ドラムス、ベース、ギター、サイド・キーボード、パーカッション、サックス、ボーカル、コーラス等リハーサルも含めて11週 間の滞在となると1人増えるか減るかで、数百万円も違ってくる。慎重になるのだ。だが、今回失敗があった。ドラムスに色んな人の意見で、マイケル・シュ リーブというおっさん(以前、サンタナと演っていた。ウッドストックにも出たことがある)を頼んでいたのだが、リハが始まり、うーんイマイチだなと思った けれども、まあ来日したばかりで疲れているのだろうと様子をみることにしたが、2日目も3日目もダメなのだ。バンドの中で1人だけノリがアナログなのだ。 ロックしているのだ。こりぁ、マズイなと思い4日目、思いきって決断し、クビにした。バンマスとしては辛いけれども、もうタイム・リミットである。素早く 代理が見つかっても、新人の為のリハは3日しかない。譜面が強くない海外のミュージシャンにとって3日で20曲前後を憶えるのは至難の技である……。と、 まあ、色々あって晴れてツアーに乗り出したのである。本当に問題は山積みされている。

しかしコワイのは、コンピュータのジャストなタイミングに慣れきった僕達は、ロックしてるおじさんのタイミングに、いても立ってもいられない程のいらだち を覚えてしまう、このことだ。耳は慣れ易いのだ。


水牛かたより情報


●四月十三日日曜日、爛漫たる桜花の下を走って帰ってきた。汗をたらしながら部屋に入ると、妻の和子は浮かぬ顔でぼくを迎えた。「いま電話があった。ハ ワードは昨夜おそくなくなった。」そうやってぼくはエイズに罹っていた友達の死を知らされた。二日前に様子を聞こうと思って電話をいれたところ、ハワード のお母さんが泣きながら出てきて、「きょうが最後の日じゃないか、とお医者さんにいわれてるの」といわれていたので、予想外の報らせではなかったが、それ でも非常に残念な気持がした。無常、命の儚さ、桜、くだらないことをいろいろ考えながら、ぼくは朝風呂に入った。(グッドマン)

●五月はじめ、藤本和子さんの新しい本『ブルースだってただの歌――黒人女性のマニフェスト』がでます。朝日選書。一〇〇〇円。
彼女が日本にいるあいだに、彼女の本が出版されるのははじめてのことなので、以下のとおり、出版記念会をひらくことにしました。読者のなかで出席してくだ さる方は、五月二十五日までに水牛編集委員会にご連絡下さい。
日時――六月六日(金)午後六時半。
場所――日比谷・松本楼。
会費――八〇〇〇円。
(津野)

●「68/71黒色テント」の公演があります。佐藤信のひさしぶりの書下ろし作品『タイタニック沈没』です。エンツェンスベルガーの連作詩をもとにしたと いう話ですが、詳細は不明。でも、なかなかの大作になるようです。「そして船が沈む。そして愉快だ。みんな溺れてる」――出演は斉藤晴彦、新井純など。
五月二十三日〜二十八日が築地本願寺、五月三十日〜六月一日が西武池袋線練馬駅近くのカネボウ跡地。開演はいずれも午後七時。(津野)

●音と動きのパサージュ――モダンダンスと現代音楽の交感。6月1日(日)午後4時、武蔵野市民文化会館小ホール(三鷹駅北口徒歩13分)。2500円 (全席自由)。予約・問い合わせTel 0422・54・2011武蔵野市民文化会館へ。
石井かほる(振付、ダンス)、三宅榛名(作曲、ピアノ)、高橋悠治(作曲、シンセサイザー)、松居直美(オルガン)他。ピアノをめぐる踊り。オルガン・シ ンフォニー。タンゴ。楽器の正三角形。音のない踊り。動きのない音。応援歌。等々。(高橋)

●柳生弦一郎「おしっこの研究」(月刊「たくさんのふしぎ」一九八六年五月号)。福音館書店。六百円。
一年以上の調査と研究をかさねて、ついに刊行された画期的研究絵本(小学生版だが、おとなでもわかる)。
自分の心は決して知ることもなく、その必要もないかもしれないが、自分のからだのはたらきを知ることは、役にたつ。とくに、ふだんかんがえたりしないとこ ろについては必要かもしれないね。さて、作者のことばによれば「おしっこの研究」はこんな内容です。
 おしっこをちょっとなめてみる?
 ぼくたちのからだからでてくるものは
 おしっことうんこは同じようなもの――かな?
 うんこはこうしてつくられる
 おしっこはじんぞうでつくられる
 おしっこは、血えきのなかからでてきたものなのだ!
 ぼうこう
 1日にどれくらいでるの?
 おしっこはきたないもの?
 おねしょ
 みみずにおしっこをかけると――
 (高橋)

●「リキッド・スカイ」(スラヴァ・ツッカーマンの映画のサウンドトラック)MILANレコード(スイス)。
愛のエクスタシーをくいものにする(文字通り)エイリアンの映画。音楽はリズムマシンと蒸気をたてるシンセ音にアダプトされたオルフの「アフロディアの勝 利」。打楽器オーケストラとコーラスではゴジラ風に、あるいはドイツ帝国風にせまってくるオルフのプリミティヴィズムも、このアナクロ(ルイジ・ルッソロ 風といってもいい)機械主義にアレンジされて、イロニーが全面にでてくる。そのほか「Me and My Rhythm box」がすき。(高橋)

●「МУЗЫКА НАРОДОВ ДАЛЬНЕГО ВОСТОКА」これもレコード。カムチャツカのイテルメン(旧名カムチャダル)、コリヤーク、サ ハリンのニヴフ(旧名ギリヤーク)各民族の音楽。かもめ、がちょう、風の楽器や、白樺の共鳴筒をつけた弓琴(口にくわえて響きを変える)と呪文をきいてい ると、ジョン・ゾーンとエリオット・シャープとネッド・ロセンバークとアート・リンゼイがいっしょにやっているみたいだった。一九八二年にメロディアから でている。(高橋)



編集後記

帰国を間近にひかえたジョン・ゾーンさんが遊びにきた。ちょうどお昼どきだったので、ありあわせのものでいっしょにごはんを食べた。フライパンでにんにく ととうがらしをいためはじめたら、もう「うーん、おいしいー」と叫びはじめ、それから食べおわるまでずっと「おいしい声」を出しっぱなしだった。食べると きはくちがふさがっているものなのに、器用なことをするなあ、と思ったが、かんがえてみれば、彼はサックスやマウスピースをあやつる口の持ち主であるの だ。
「ぼくのアパートにもおいで。おもしろいレコードいっぱいあるよ」というので、連休の一日、高円寺は健山荘の一室をたずねた。ドアに郵便受けを兼ねたボー ル箱の表札がとめてあり、そこには「除恩雑音」とある。四畳半の部屋にはレコードの山。LPが四百枚にシングル千枚。これをこの三カ月間に買いあつめたの だ。60年代のシングルなどは値があがっていて、一万五千円以上するのもあるそうだ。買う基準はジャケット。自分できれいだなと思えば買う。
内藤よう子の「白馬のルンナ」なんてなつかしい歌をきかせてもらった。これはアレンジがいいのだそうだ。しかも、このごろのアイドルと違って、ぶりっ子 じゃないからね、カワイー。
歌謡曲やパンクやいわくいいがたくへんなのや、ひとしきりレコードを聴いたあとで、駅前のレコード屋に出かけて、またしつこくレコードを買った。今ごろあ のレコードをすべて手荷物にして、ニューヨーク行きの飛行機にのっているはずだ。(八巻)




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