水牛通信

人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1987年5月号 通巻94号
        
入力 桝井孝則


歩く人――長谷川四郎が死んだ  津野海太郎
ショートな初体験・ぼくも逮捕された その三  R・リケット
火種となるまで  富山妙子
律とまち子のふぁっしょん読本3
ぬきがきうた  木島始
みちのく旅日記  鎌田慧
水牛通信一〇〇号記念コンサートのおしらせ
可不可(その三)  高橋悠治
走る・その十四  デイヴィッド・グッドマン
編集後記



歩く人――長谷川四郎が死んだ  津野海太郎


4月18日の午後おそく、ベッドに横になって、さっき杉並区立宮前図書館で借りてきたばかりの川崎彰彦の『夜がらすの記』という連作短編集を読んでいた。 数年まえ、ノア編集工房という関西の小さな出版社から刊行されたもので、図書館に行くまで、川崎さんにこういう本があることを私は知らなかった。

川崎さんは私より何歳か年長の売れない小説家である。たしか早稲田の露文出身で、函館でしばらく新聞社につとめたあと、十年まえから大阪近郊の小さな町の 学生下宿で一人暮らしをつづけている。面識こそないが、私にとっては、かがやかしくもわびしいシングル・ライフの先達の一人なのだ。川崎さんが書くのはい わゆる私小説で、どの作品にも、きまりもののように、作者自身を思わせる青西敬助という超貧乏作家が、夕方、飲み屋があく時間をまちかねるようにノレンを くぐる光景がでてくる。その光景がたいへん魅力的なので、たいていは、私も読みさしの本をとじて近くの飲み屋にかけつける羽目になる。

その日も例外ではなかった。「さっき聞いたんだけど、中野重治が死んだって本当ですか?」という友人の電話をきっかけに、いきつけの飲み屋に常連があつ まって追悼の句会をひらくという場面にいたり、矢も楯もたまらず、私はベッドを這いだし中央線にとびのって吉祥寺の酒場に突進した。

酒を飲みながらも読みつづけ、いつのまにか大酔して、夜の五日市街道を歩いて帰宅したのが午前2時、それとも3時ごろだったか。突然、枕もとで電話が鳴っ た。時計を見ると、朝の8時である。「クソッタレ!」と受話器をとると、電話線の向こうの声が「小沢信男ですが……」といった。「ありゃりゃ、まだ昨日が つづいてるのかしらん」と思ったのは、酔っぱらう寸前までカウンターで読んでいた小説に、小沢さんの名前が何度か印象的なしかたで登場していたからだ。東 京在住ではあるが、小沢さんは川崎さんのしたしい友人なのだ。「ハイハイ、どうなさいました?」と私。すると飲んだくれ小説の時間からはいだしてきた小沢 さんが、ささやくような低い声で飛んでもないことをいった。「四郎さんが、さっき松沢病院でなくなりました。いろいろあるんで、ちょっと会えないかしら」

私は虫の知らせを信じない。もし万が一にも死の予兆というものがあるとして、でも、私にはそれを感じとる能力は皆無であるだろう――ということのほうを私 はかたく信じている。長谷川四郎が脳硬塞で入院中の都立松沢病院で急になくなったのが0時30分ごろ。そのとき私は「あき」のカウンターで完全に酔っぱ らっていて、もちろん四郎さんのことなどまったく頭になかった。

ただ、四郎さんの死をつげる小沢さんの声をきいたとき、その前日からの、いつもならどうということない一連のできごとが、ひとかたまりのものとしてワッと 私のほうに押しよせてくるような気がしたのはたしかだ。いままで一度も行ったことがない図書館で川崎彰彦の小説集をみつけ、そこにでてくる中野重治追悼句 会だか飲み会だかの記述に追いたてられるように酒場に急ぎ、作中人物のひとりである小沢信男からの電話で四郎さんの死を知った。しかのみならず、小沢さん がそうであるように、川崎さんもまた文学的には長谷川四郎さんエコールの誠実すぎるほど誠実な一員なのである。たぶん青西敬介が主催するであろう四郎さん の追悼句会は、中野さんのときのそれよりもいっそうつらい調子のものになるにちがいない。

と、白状するまでもなく、いま私は少しセンチになっている。おセンチついでに、小沢さんの電話で呼びさまされたというひとかたまりのものの内容について、 もうちょっとしゃべられせいただきたい。ひとかたまりのものとはなにか? それはいまから四半世紀まえ――まだ私が二十四、五歳だったころの記憶にかかわ る。

当時、私は『新日本文学』の編集部につとめていた。一九六二年に大学をでたのだが、芝居にかこつけて就職の準備をさぼり、さて、どうしたものかと迷ってい たとき、いまはない『日本読売新聞』で編集部員募集の広告をみつけた。あとで知ったことだが、それまでは共産党関係か付属の文学学校からスタッフをあつめ ていた新日本文学会が、このときはじめて(そして最後の)一般公募をおこない、私はふつうの就職試験をうけるつもりで応募して、長谷川四郎、武井昭夫、針 生一郎といった人々の面接をうけ、補欠採用されて、そこに三年間、ワラジをぬぐことになったのである。

一方で日本共産党との決裂にいたる争いがあり、他方では花田清輝・吉本隆明論争などがあって、当時の新日文は大荒れに荒れていた。

しかし私は、そうした争いの前提となる戦後共産党内抗争についても、あるいは六〇年安保期からめだちはじめた新左翼内部のセクト対立についても、ほとんど なんの知識ももっていなかった。運動組織の事務局員というのも、はじめての体験だった。それでも雑誌はつくらなくてはならない。往生した。見るに見かね て、「魯迅の小説に湖の向うから霧にまぎれてやってくる黒い人というのがでてくるだろう」と、古くからいる事務局員が私に忠告してくれた。「左翼的な運動 組織の事務局員とか書記局員というのはあれなんだよ。こんなとこに長くいると、だんだん皮膚の下に黒いものがたまってくるんだよな」

なるほど、と思った。まさしくそのとおりの感じだったのだ。事務局員とかぎらず、複雑な党内抗争を生きのびてきた人たち――とりわけリーダー格の人々の多 くは、だれもかれも皮膚の下に相当程度に「黒いもの」をためこんでいて、ときに政治的な効果をねらった大声を発したりするから、なかなかうまくなじめな い。そのなかに、それまで共産党やその党内政治にはあまり関係がなかったらしい少数の人たちがいて、かれらといっしょにいるときだけは楽な気持ちになるこ とができた。あたりまえで、ブキッチョで、けっしてオルガナイザーふうにしぶとくふるまったりしない人々――その代表者格が四郎さんだったというわけだ。

どんなに議論が激しさをましても、ときあり、「ノーノー!」とか「ストップ!」とか、つぶやくみたいに叫ぶだけで、長谷川四郎が流暢に演説しているところ など、いちども見たことがない。

むりに文学学校の授業にひっぱりだされたときは、「おれは十五分しかしゃべらないよ」とことわって、きっかり十五分間、チリやギリヤークの詩人たちについ てボソボソと話し、そのまま怒ったような顔をして黙ってしまった。花田さんが『江古田文学』からみつけてきた若き日の小沢信男も、そして私が編集部にいる とき、泉大八や佐木隆三や田辺聖子と前後して「まるい世界」で新日本文学賞を受けた川崎彰彦も、おおかれすくなかれ、そうした気質のもちぬしだったように 思う。

もし文学における東ヨーロッパの小国的スタイルといったものがあるとしたら、当時の四郎さんたちは明らかにそのスタイルを共有していた。

大きな身ぶりで世界に対する責任をとろうとする社会派ではない。どちらかといえば古風な純粋芸術派であろう。しかし、生きているかぎりは、自分も世界や歴 史に責任があると感じていて、それが全然ないふりをしてみせるほど器用でも鈍感でもない。「なんであんたみたいな片隅の人間が、そんな責任を感じなければ いけないの?」という露骨な視線をあびて、なおのこと、いっそう自分を小さな場所に生きる小さな存在と規定しつづける。ガタリのカフカ論にならっていえば 「マイナー文学」派。もっと私の好みにひきよせていうならば、ようするに「歩く男」派である。

川崎さんの主人公は酒を飲んでいないときは鳥類図鑑や植物図鑑を手に大阪や大阪近郊の町を歩きまわっている。以前、晶文社で『わが忘れなば』という小沢さ んの小説集をだしたことがある。このタイトルは「この道を泣きつつわれのゆきしこと、わが忘れなばたれか知るらむ」という無名氏の歌からとられたものだっ た。おなじ歌が川崎さんの『夜がらすの記』にも引用されていたので、あれれ、と思った。じゃあ、四郎さんは? かれが書いたものを読みなおすひまがなかっ たので、お葬式でくばられた日本現代詩文庫版『長谷川四郎詩集』巻末の小沢さんの解説から孫引きさせてもらう。詩集『原住民の歌』のための自家広告――

「普段着で街路をあるいていくと行手にバーがはってあって、それをどうやらとびこえて二本の足で街路上におり立ち、また歩きつづけていくと いったようなつもりで書いた。詩というよりソングといいたいから、いずれも題を「……の歌」とした。作ろうと思えばいくらでも出来るだろう」


責任などとおそろしい言葉をつかってしまったけれども、いつもの道を歩いていても、ふと、行く手にはられたバーの存在に気づかざるをえないのが東欧小国派 インテリの特徴だ。とはいうものの、バーはバーで掟の門ではないから、ぴょんと跳びこえて、そのまま歩きつづけることもできる。街歩きだけではなく、 『鶴』や『シベリア物語』が典型的にそうだったように、歩く男は道なき道をもカジュアルなかっこうのまま平気で歩いてしまう。四郎さんは、そのように歩く ことで海や荒野のまんなかに大小の道ができてくる、という魯迅やブレヒトふうのイメージがきらいではなかった。
もう一つ、訳詩集『風の神の琴』のあとがきから――

「道を歩いていって道ばたで、ひとやすみすると、そこに一人の詩人もまた休んでいて、その詩人が詩を語ってくれました。それをよくきいて、 おもむろに訳そうとこころみ、どうやらこれなら同じ母国語の仲間たちの前でよんでもいいだろうとかんがえられたものが、この本となったのです」

こうした文章を読むと、実際に、まことにさかんな「歩く男」であった長谷川四郎の在りし日のすがたが自然と眼にうかんでくる。カフカやリルケや デスノスやロルカが好きで、それら道ばたの「マイナー文学」の先人たちとおなじように、四郎さんもまた、アタマだけではなくカラダごと歩くことが好きで、 路上のできごとやみせものが好きだった。それらのできごとやみせものにチラッと目をやりながら、まるで歩くためにつくられたみたいな頑丈な骨格をもった大 男が、ポケットにドイツ語やフランス語や中国語やロシア語やスペイン語の小型詩集をつっこみ、水夫用の耐水コートをひっかけてスタスタと歩をすすめる。そ のすがたをみるたびに、私はむなしくねがったものである。おれだって本当は四郎さんみたいに歩きたいんだよ。でも、ダメなんだろうなア。

ちなみにいえば、中野重治は私が新日文にいたころの幹事会の議長で、会議で話がこじれだすと、すかさず「ちょっと便所に」と席をはずしてしまうような端睨 すべからざる政治的技量のもちぬしだったが、同時に年期のはいった「歩く男」の一人でもあった。そのものズバリの「街歩き」という題の小説まである。青西 敬介が追悼の句会をひらいたというのも、たぶんかれが中野さんのそうした側面に共感をもっていたからなのだろう。

その後、私は新日文をやめて晶文社で仕事をはじめ、一九六五年から六六年にかけて四巻本の『長谷川四郎作品集』の刊行にかかわった。

これと平行して黒テントの前身の一つである六月劇場という劇団をつくり、四郎さんにもカフカの小説を下じきにした『審判――銀行員Kの罪』という芝居を書 いてもらった。ヨーゼフ・Kが道を歩いていてバーに足をとられてひっくりかえる芝居だった。紀伊国屋ホールでの初日がおわったあと、新宿の路上で「おい、 へたくそだな。でも、千田是也よりましだよ」となぐさめてもらったことをおぼえている。去年の秋、NOISEの『DAIYL』という舞台を見た。かれらの 世界も「道」であり、そこを若いKさんやKくんたちがバーにけつまずきながら歩いていた。これを四郎さんが見たとしたら、やっぱり「おい、へたくそだな」 といっただろうな、と私は思った。と同時に、おそらくかれは「おれには津野よりも如月小春の舞台のほうがいい」と感じたのではあるまいか。わたしたちとは よくつきあってくれたけれども、四郎さんは基本的にはアングラがきらいだったからね。

さらに十年がすぎた。そこで、こんどは『新日本文学』編集部の同僚で、当時、『文芸』の編集部にいた福島紀幸の協力をえて、十六巻だての本格的な『長谷川 四郎全集』をつくることにした。途中、石油危機にはじまる紙飢饉のあおりをくらって大いに難行し、ようやく完結したのが一九七八年。そして、その前年の 秋、歩く人であるところの四郎さんに一つのできごとが起こった。

「ある夜、十一時頃、私は自宅へ帰る路上にあった。アルコールは体内に入っていなかった。道路は舗装がよくて、ほんの少しばかり下り傾斜に なっていた。あたりに人はいなかった。私は走りたい欲求に駆られ走り出した。兵隊式に手を腰に当て、号令こそ掛けなかったが、一二三とばかり走り出した。 そればかりではない、足下の傾斜のせいだろう、だんだん加速度がつくようだった。その結果止まろうとしたら前のめりに転倒、したたか下あごをコンクリート 舗装にぶっつけた。出血多量だったが骨折はなかった。以来、私は身体にガタが来て、歩く平衡感覚を失ってしまったようである。すっくと立って、さっさと歩 きだすということができなくなってしまった」

そのころ、偶然、新宿駅で長谷川四郎に会ったことがある。プラットホームの階段を下りようとすると、小柄な夫人にからだを支えられた四郎さんが 片手で手すりをつかんで、おぼつかなげな足どりでこちらに上がってくるのが見えた。そういう四郎さんのすがたを見るのははじめてのことだったからガクゼン とした。どうしていいかわからず、私は夫婦が階段の上にたどりつくまで、ぼんやり待っているしかなかった。「歩く男」が、歩く力を不意になくしてしまっ た。「すっと立ってさっさと歩きだす」のではない長谷川四郎は、まるで長谷川四郎じゃないみたいだった。おそらく、だれよりも四郎さん自身がそう感じてい たにちがいない。

しばらくして入院。都内の三つの病院を転々として、最後の六年間は読むことも書くこともできず、ベッドに寝たまま、それまでに自分が書いた作品のことも徐 々に忘れてしまった。そして、4月19日の朝、二日酔いの私の部屋に小沢さんからの電話が鳴りひびく。電話のベルは「わが忘れなばたれか知るらむ」と鳴っ ていた。

四郎さんはそう信じていたようだが、かれの発病は本当に路上で転倒して頭を打ったせいだったのだろうか。たしかにそれもあるかもしれないが、私には、やは り長年のみつづけた酒のせいだったような気がしてならない。その晩、アルコールは一滴もはいっていなかったと、わざわざことわっているのがあやしい。かれ の酒は猛烈にピッチが速かった。たったいまここにいたと思ったら、もう次のウィスキー・バーめざして大股で歩きだしている。それを何軒もくりかえす。 「しょうがねえなア。四郎さん、そろそろ帰りましょうよ」と、うしろから腕をつかんでひきとめようとするのだが、いかんせん力がある。
「きみは帰れ。おれは帰らん」
と、そのままのスピードで新宿の大通りを突っ切って歌舞伎町のほうに入っていく。やむをえずあとを追うと、大男は一軒の閉店したバーの前に立ちどまって、 無言でシャッターを叩きはじめる。どうやら以前に一度か二度きたことがある店らしい。だれもでてこない。でてくるわけがない。なのに、いつまでも叩きやめ ようとしないので、こんどこそ覚悟をきめて、私も懸命にかれの重いからだを押したりひいたり、やっとのことでタクシーに乗せ、桜上水の家まで送っていくと いうようなことが何度かあった。

で、すごいのが翌朝だ。私のほうも酔っぱらっているから、その晩は進駐軍の払い下げ品らしき四郎さんの兵隊ベッドを占領して気絶同然に寝てしまう。夜があ ける。奥さんが「ご飯ですよ」と起こしてくれるのが十時すぎ。最悪の気分でとなりの居間にいくと、昨夜の酔漢がすっきりした顔で「うん、起きたか」と朝刊 から顔を上げる。信じられない! この人は、もう七時には玄関のわきの三畳ほどの仕事部屋にはいり、さっさと一仕事すませてしまったというのである。
ことほどさように、長谷川四郎には常人ばなれした体力があった。

かれの肺はまっ黒であったと、4月22日、お葬式のあとで中薗英助が話していた。いっしょにシベリア旅行するまえに健康診断にいったら、医者がふしぎそう な顔をして、「この人は炭鉱夫だったんですか?」と中薗さんにきいたそうだ。シベリアに抑留されていたとき、コークスかなにかを袋につめてはこぶ重労働を 何年もやらされ、肺の内側に石炭の粉が大量にくっついてしまったらしい。つまり、その点で四郎さんもまた、皮膚の下に「黒いもの」をこびりつかせて戦後を 生きてきた人であることに変りなかったのだ。なのに、いや、だからこそだったのかもしれないが、かれは深夜まで飲み、早朝に起きだして仕事をする習慣を捨 てなかった。自分の体力を信じすぎた。私のほうは見ないようにして、一度だけ天に唾させてもらうが、もう少しからだを大事にしてほしかった。案の定、四郎 さんがいない世界は、なかなかさびしいのだから。

一九七二年に平野甲賀の装丁で晶文社からでた『原住民の歌』の最後におかれた「むすびの歌」――

 さて立ちあがり
 出ていった
 そのあとに
 ゆれているのが
 ゆり椅子で
 ゆりの花
 風と共に
 去ったきみの
 萼といい
 うてなといい
 からっぽ
 そこにまたきて
 腰かけるまで

おそらくその前夜もさんざん酔っぱらったのであろう。そんなある日の朝、四郎さんは玄関脇の三畳間で、小さな学習机におおいかぶさるようにし て、これらの文字を原稿用紙にしるした。このとき、もちろんかれは自分が消えてしまったあとの世界を意識していたはずである。文字に書かれた言葉というの はふしぎなものだ。死んだ人になぐさめてもらっているみたいで、へんな気がしてくるじゃないか。



ショートな初体験・ぼくも逮捕された その三  R・リケット


毎朝早く、渋谷拘留所は騒がしくなり、起床、布団の片付け、点呼、洗顔、小用、朝食などで、容疑者たちは忙しい一時間を過ごす。そして、騒ぎが急に静ま り、しんとした三十分後、手かせをかけられ、細なわでつなぎ合わされた数人の人たちが現れれる。先頭と後を看守さんにはさまれ、彼らが無表情に一列縦隊で ぼくの房(第一)の前をゆっくり進行し、「裏」(護送口)に消えて行く。夕方五時ごろ、同じ人たちがぶすっとした顔でのろのろと帰ってくる。十二月三〇 日、朝八時すぎ、ぼくの番もまわってきて、書類と一緒に検察庁へ護送された。

しかし、ぼくの場合は他の容疑者と違って、裏から出たのではなく、渋谷署のど真中をたった一人用心深く案内された。署内の警官が急に立ち止まったり、秘書 たちも仕事を中止したりして、全ての目が当惑した囚人をみつめた。中庭につくと、その四方には非常線をしくかのように、三〇人ほどの制服警官が気をつけの 姿勢で物々しく立っていた。ぼくは数人の私服警官に取り囲まれ、中庭で待っていた護送車にあわただしく乗せられた。門が開くと、外に集まっていた友人たち の叫び声が上がった。七人の乗りこんだ車は窓掛けを引いたままラッシュアワーの六本木通りにさっと飛び出した。ややはでなお見送りであった。

検察庁に到着して間もなく、第三幕『異端審問』が開演した。

気のおけない、人間くさいN警部補に比べて、N検事は若くて、りこうで、自尊心の強い、公安検察の法維持者。話を聞くと、法そのものが厳然と語っているか のようであった。「悪法でも法だから、守ってもらわなければ困る」としたり顔をして、机を軽く扇子で打ちながら、検事は取り調べに乗り出そうとした。が、 「では、拒否した理由は?」への答えにN検事は額に八の字をよせた。「個人的な思想に基づくことだからこの場で検察に強制的に取り調べられるものではない はずだ」「何ですとッ」と恐い顔を見せる。はっとさせられた容疑者は「つまり、公の場なら全部言う」とあわてて説明する。「検察庁は公の場所ですよ」とN 検事の冷淡な声。「じゃ、これは?」とチャリンと鳴る手錠を持ち上げると、静かな数分が続いた。検事が難しい表情をしながら「任意呼び出し状に応じれば簡 単だったのに」と言った。

確かに「任意」は二回来たが、応じなかった。去る十一月、警察は関西関東を中心に拒否者に対して大量の呼び出し状を一斉に手渡した。誰でも自宅に警察が出 入りするのを喜ばない。近所の思惑、仕事や学校などへの心配から出頭呼び出しを無視できない拒否者は多い。まして、この地に生まれ育っても法律上生活権が 保証されていない人たちは、警察に対して立場が弱い。呼び出し状の渡し方もそれぞれ違うのだろう。ぼくの場合は、刑事たちは説得に知恵を絞って、色々工夫 をこらした。例えば、十一月上旬朝早く、二人の私服警官がぼくの連れ合いのアパートを訪れた。呼び出し状の受け取りを断った彼女に、結婚生活に関わる「事 情聴取」に応じるようおどしをかけた。これが思うようにいかなかったので、翌日の朝、三つ揃いの背広の五人の刑事が今度はぼくの研究所に現れた。呼び出し 状が手渡された途端に、元気な若い警官が飛び出して、記念写真をパッと撮ってくれた。その後、見張りと尾行が相次いで、いくら反省しても、出頭する気持ち にならなかった。というふうに説明しても、N検事は納得しない。「ものわかりが悪いね、あなた。それとも、自分は特別な人間だと思っているのかな」その後 も次から次へと苦言が出た。例えば、現在八五万人ほどの在日外国人がいる。一九五二年に外国人登録法が設けられて以来、五〇万人にのぼる人々が登録証不携 帯で連行されたり逮捕されたりしてきた、とのぼくの指摘に対して、検事の答えは「あなたは被害者意識が強すぎる」調書の審問に応じないと「これを拒否し て、あれを拒否して、自ら悪い種ばかりまいている」「どうも、こういう性格なものですから……。よく人に言われます」としか答えようがなかった。

検事はまじめな法体制の保護者であるが、すぐれた役者でもある。N検事の柔軟役は特にうまかった。例えば、「アメリカ人は自分の意見を主張するのが好きで しょう。今はいい機会ですよ」と言う。これに対して強硬役が得意な検事もいるのだろう。十一月二〇日指紋反対デモの時に東京都庁の前でつかまったMさんは 公安検事に「血の池に落とすぞ」とか「キミの目玉をくり抜いてやる」とか言われたそうだ。

ぼくの場合はもっと穏やかなやりとりだった。が、「検察と警察とは別だから、ここでは安心して自由に話していい」という甘い言葉に対して「いや、拒否者に してみればあんた達は同じ権力なのだ」と自然に口から出てしまった。それを聞いたN検事が突然飛び上がり「“あんた達”とは何という言い草だ! こちらは ちゃんと“あなた”と呼んでいるじゃないか!」とどなりつけた。「失礼なことを言ったつもりはないけれど」となだめようとしたら相手はいっそう激怒した。 「これはいかん! キミー、無意識に言ったとは益々ゆるさん!」その時点で、二人とも頭を冷やすためか、三〇分の休憩に入った。午後のやりとりでは、午前 中と同じことを何度となく繰り返したあげく、検事はそれまでにこだわっていた拒否の理由を諦め、調査は拒否事実だけにとどめることにした。

ぼくはその日の夕方六時ごろ釈放され、渋谷に寄り集まっていた友人達と合流した。
二泊三日はまさにショートな初体験。しかしぼくにとって「蛙の面に水」だったはずの経験が、結局はそれ以上の意味をもつようになってしまった。名前、住 所、職業、指紋不押捺という事実をのぞいて、警察・検察の調書には応じなかった。けれど、後で考えてみたら、刑事・検事と密着した雑談たっぷりの三日間 だった。そうして、警察の調書への署名は拒否したのに、検事の調書は承認し、おまけに銭も時間も労力もかかる正式裁判をさけるために「略式」処分に合意す ることまでしてしまった。
  指紋を盗まれた
  てのひらにまで
  黒い墨をぬりつけられて
  心にもべっとり
  墨がはりついた
と、三里塚闘争の初期に逮捕された農民、加瀬力さんが一九六八年に書いている。取り調べに完全黙秘を守りきった加瀬さんは「何日黙っているんだ――一言ぐ らい口を割れ!」と激怒した検事に対して、「国家権力に踊らされている猿まわしの猿!」と沈黙をやぶった。「物わかりのいい」N検事も権力に踊らされてい たに違いない。が、悲しいことに、どこかで、気がつかないうちに、ゆずらないつもりでいたぼくも権力の猿芝居に巧妙にのせられ、検事とともに加瀬さんのい う「モンキーダンス」を踊らされてしまった。

芝居の一幕と二幕は熱烈に演じられたが、最後は滑稽な幕引きとなった。ごく短い期間だったのに、釈放されてからも、拘留所の垢はなかなか落ちず、しばらく は気も荒くなった。そのためか、一月中旬に起訴状と罰金三万円の「略式命令」が届いたところで、拘留中にお世話になった弁護士を通じて、異議申し立てを し、苦手な正式裁判をすることにした。去年暮の「勧善懲悪」は権力側の舞台で行われたが、六月半ば頃にはじまる予定の裁判は、色々な人たちの知恵や力を借 りて、少しでも民主側の土俵に引き寄せられればいいと思う。


火種となるまで  富山妙子

一九七〇年秋、韓国へ旅行にゆこうと思ったとき、画家の友人がいった。
「韓国……(いぶかしげに)いったい何しに、気味悪くない、変っているなあ」

当時まだアジアは画家の視野にはなかった。またやさしいサヨクの友人がいった。
「南朝鮮……まあいいでしょう。しかし逮捕されないように気をつけてくださいよ」

画家の脱アジアと、政治の冷戦構造は朝鮮半島の上に凍りついていた。旅行手続きで行った大韓航空の事務所で見た新聞は薄気味の悪いもので「北韓の間諜」だ とか「共匪」というような文字がとびこんできて、ひとり旅の私の不安をかきたてた。

かつて植民地支配をしてきた日本人にとって、韓国は胸の痛む土地である。在日朝鮮人・韓国人と一杯のんだ席上「あんたたち、日帝は!」とやられ、首をうな だれた経験が何度かあるのでこんどもそれを覚悟しての旅だった。

こうしておっかなびっくり、おそるおそる出かけた韓国で、のちに私の人生を変えるような、いろんなできごとに出会いはじめたのである。

画学生だったころ、東京から朝鮮経由でハルビンにあった自宅に帰るとき、車窓から見た朝鮮半島の風景がいまだに焼きついている。それを思いだすとき、疼痛 が胸に走って、朝鮮半島や中国大陸の土を踏むことが日本人植民者の子としてためらわれた。しかし私の原風景ともいう、大陸にふれたいという思いはつのり、 ためらいと葛藤の結果、この旅行となったのである。

さて、三十数年ぶりで見る韓国と、日本統治下の朝鮮とを重ねながら、私が見た風景やハルビン女学校で一緒に学んだ朝鮮人の同級生との再会。韓国の知識人と の出会いなどを、当時出ていた『展望』という雑誌に発表した。

それを読んでカタイ、サヨクが批判した。「韓国政府はしたたかですね。たった一回旅行したくらいで、あなたを親韓派にしてしまうのだから。南朝鮮をほめす ぎてるんじゃあないですか。これは非常に危険なことだ」と、当時の日本の知識人の多くは政権の顔しかみえていなかったようである。

翌年も私は韓国にゆき、西大門刑務所で火傷を受けてまもない、ケロイドで焼けただれた在日韓国人留学生、徐勝君に面会した――日本植民地統治下と同じ刑務 所で見た政治犯の姿は私の胸に焼つき、東京に帰るとすぐにそれを白黒のリトグラフで描き『良心の捕囚』と題して、その秋の展覧会に出品した。

韓国で私が出会ったことを絵で伝えようとしたとき、そのイメージの導き手のように現れたのが、金芝河の詩との出会いである。その翌年、金芝河は諷刺詩『蜚 語』を発表してまた逮捕されてしまった。

韓国は深い夜の闇にあり、少女の頃私が中国東北で見てきた革命前夜のような状況にある。あのころ日本人は中国民族の苦しみに心を馳せることもなかった。そ の体質はいまも続いていた。

画家の世界は、韓国のことや、キム・ジハなどということばさえ言いだしにくいほど、ここは「純粋芸術」の無風地帯である。そうした画家の世界で孤独感を味 わうより、もっと別な共感しあえる人たちのところへゆこう。

キム・ジハとか、韓国の政治犯釈放などを絵のなかに持ちこんだところから、いろんなことがおこってきた。

まずメッセージを伝えるのにふさわしい形式。誰に訴えるか、それにふさわしい場所と発表の形式はどういうことか。

そういうことを模索しているうちに行きついたのが、絵をスライドにすることで、そこで高橋悠治さんと出会ったのである。それから十年、火種プロという名を つけて制作したり、映像化するすべての作品の音楽を高橋悠治さんが担当してくださった。そこでこの十年を振り返り、芸術と民衆運動と表現者が抱えているい ろんなことを語りあい十周年の記念としたわけである。
どうぞよんでください。

 火種・十周年記念
 「振りむ記十年――絵と音楽と民衆運動」
 絵・富山妙子
 音楽・高橋悠治


律とまち子のふぁっしょん読本3
文・田川律 え・柳生まち子



四月半ばに韓国を訪れた。従兄弟の娘の結婚式に出席するためだ。従兄弟とはいうものの、ぼくとの関係はかなりややこしいのだが、早い話が、どちらの祖父も 同一人物だということ。そして、従兄弟は黄大鎔という名で、ぼくのほうは祖父が母方なので、日本名というわけだ。

そのことについての説明は今はさておいて、ともかくここ三年ほど、かなり親しく付き合っている。そして、去年の秋にこの結婚の知らせを受けて、一も二もな く列席させて貰うことにした。なによりも、隣の国の結婚式はいったいどんな風にするのか、というきわめて素朴な興味があったから。

それに、黄さんのうちは李王朝の時代からの両班(ヤンパン)つまり日本流にいうなら貴族である。今は王朝もないし貴族もないのだが、かれの気持ちの中には 今も貴族の矜持のようなものが生きていて、同じ従兄弟でありながら、その辺はぼくとはだいぶ違うという気がする。

当然、娘の結婚式もいわば「古式ゆかしく」やるのだろうと予測されたが、まったくその通りだった。まち子ちゃんのイラストを見ていただけばわかるように、 日本でこれに一番近いものを探すとすれば、平安時代の公家の服装ではないだろうか。黄さんの説明ではこれは「儒教式結婚」というスタイルだそうで、今の韓 国でも、ほとんどやらないそうだ。この国でも、最近はホテルや教会を使って「モダン」にやるのが普通だという。

出席した女性の晴れ着には「チマ・チョゴリ」が目立った。もちろん花嫁の衣装もそれなのだが、その中でもいっとう上等なのだ。それにくらべれば男性のほう は、ごく普通の平服で黒いスーツを着ている人なんか誰もいなかった。事前に黄さんに「何を着ていけばいいでしょうか」と訪ねた時、「洋服なら何でもいい」 と返事が来た理由がよくわかった。

ぼくなんか、この前初めて黄さんを訪ねた時、いつもの「派手」な恰好をしていって「あの人はきっとヒッピーなのだ」といわれたものだから、今度はすっかり 緊張して、下北沢の古着屋「シカゴ」で上下二千九百円也のスーツを新調(古着だから新調とはいえないか)して、おまけに行く前に乗る筈の飛行機がエンジ ン・トラブルでとばなかったために一晩泊められた成田のホテルの売店で、礼服用の白地に鶴のすかし模様の入ったネクタイまで買っていったのに黄さんには 「鶴はおめでたい鳥ですからね」と一言いわれただけ。日本では男のほうが、余程格式ばっていると思わされた。

式場になっている昔の「大学」跡の敷地内で開かれた「披露宴」は、野外パーティ。親戚はもちろん、新婦の両親の古い友達から、近所の人々まで、およそ二百 人が、てんでにテーブルに座って、さっさと用意された食べ物と飲み物をたいらげて「ハイ、さようなら」という感じ。本人たちは姿も見せない。終り近くに着 替えを終わって洋服で現れたと思うと「今から新婚旅行です」とあっさり消えてしまったのだ。

日本のホテルでの結婚式のほうが、よっぽど「形式的」な気がした。これは「古式ゆかしい」のだが、どこか自然で野放図なところが残っていた。



ぬきがきうた  木島始


グくりかえしに耐えられる
梃子 枕や机 紙 御飯
日夜 愛咬のしあわせに
偉さなど忘れられている

  *  *

ほどけてくる時間の帯か
羽ばたく翼が刻もうとする曲線か
自由な抱締めか 木目や瑪瑙に
縞模様に ひかれるわたし

  *  *

張り紙より広告の名文句より
うるさい電話や懐しい手紙より
いや放送の臨時ニュースよりも
きみの内部回路に深く割りこむのは?

  *  *

心のあんまをば
お手のものにし
足ふみだそうや
この夜明けから







みちのく旅日記  鎌田慧


4月28日。三沢着14時10分。この空港は、四〇日ぶり。八戸の久保クンが待っている。心臓の手術を寸前で中止したので、相変わらずの傷つきやすいハー トでの出迎えである。これから、彼のクルマで下北半島をまわる予定。

核燃料処理工場と濃縮ウラン工場などの予定地をみる。ダンプカーが走りまわって、造成工事がすすめられている。施工主は三菱地所と三井不動産。工事の請負 業者は、鹿島や大成などの中央大手。地元土建業はホンの手伝いていどである。

久保クンと相談の結果、六ヶ所村と東通村は素通りして、まずむつ市へ直行、県議選で当選したばかりの菊池漁治元むつ市長宅を訪問することになる。

夕食をすまして、七時から雑談。若い頃の話などを伺っていると、中村亮嗣さんや大邑登喜夫先生などがやってきて九時もすぎ、放出クンの自宅で酒の支度をし て待っていたひとたちは帰ってしまい、ついに待きれなくなった放出くん自身が迎えにくる。

4月29日。二階から降りていくと、コタツに大きな腹をだして放出クンが寝ているのを発見。不審に思ってたずねると、さいきん二階に寝ていると、呼吸の仕 方を忘れて息苦しくなる。焼場(火葬場)の跡地だったせいだろうか、と真顔でいう。たしかに、いまでも彼の借家の周辺は一面の墓地なのだが、小生にはなん にも感じられない。

お寺の境内にある川島雄三の記念碑をみる。「花に嵐のたとえもあるが、サヨナラだけが人生だ」の井伏鱒二の訳詞が森繁久弥の筆跡で刻まれている。学生の 時、「生協ニュース」に「幕末太陽伝」について書いてもらった記憶がよみがえった。

久保、放出の三人で、津軽海峡に沿って大間まで。ここで電源開発の「新型転換炉」に反対している沖本征雄さんと蛯子久二郎さんと雑談。昼食は松橋勇蔵さん の妹さんが嫁いでいる家へ押しかけ、採りたてのうにや山菜のわさびなど。それから衆議一決。露天風呂へ入ろうとなって、奥薬研へ。川沿いの混浴。旅館の庭 なのだが、料金取り立て所はなく、無料。先客はバイクできた青年ふたり。のんびりあっちこっちの温泉の品定めをしている。これが最近の青年の趣味のよう だ。

夕方、六ヶ所村泊の坂井さん宅に到着。まもなく、杉山、林両クンのコンビがあらわれ、泊部落のひとたちも集まってきた。五月十七日に予定されている泊漁協 の理事選挙の旗揚げ集会である、五、六〇人は集まって、十二時まで踊ったり歌ったり。

4月30日。六ヶ所尾駮の寺下力三郎さん訪問。昼食後、庄内開拓部落の白畑友蔵さん宅。彼は青森の歯医者へ行って不在。奥さんと「満洲開拓」時代の雑談。 中国人やソ連軍よりも、日本人のほうがはるかに冷たい。それが死線を超えた彼女の総括である。牛肉と漢方薬をもらって帰る。

小泉金吾さん宅に寄る。両手をふりまわしての熱弁はいつもの通り。彼の話にはいつも圧倒される。向中野勇さん宅で酒を御馳走になって寝る。久保クンは酒の 呑む量がたりないと、不眠で心臓が苦しくなるのである。

5月1日。小泉さん宅に寄って、また熱弁をきく。三沢市郊外のみちばたで森弘太と落ち合い、彼の寓居へ。五目寿司を御馳走になる。そこで久保クンと別れ、 森弘太のジムニーに乗り移って、弘前へ出発。十和田湖の山腹には雪が残っていた。道ばたでバッケ(ふきのとう)を採って、今晩の宿泊先の福田家へのお土産 とする。

夕食後、酒を呑まない福田隆一と酒が強い森弘太の三人で弘前城の花見。本丸はどこもかしこも円陣で、タイコや歓声がひびいていた。オートバイの曲乗りや蛇 娘を見物したあと、「石中屋」へ寄る。石中先生行状記のモデルの娘がママ。記憶力がいいのにはいつも感心させられる。

5月2日。森弘太は岩木山にむかって出発。福田は市役所へ出勤。午後一時「放射能から子どもたちを守る母親の会」の集会。主催者の中屋敷さんからついでが あったら寄ってくれ、といわれていたので、その返済である。六ヶ所村の歴史の話をする。観客は三〇人。

四時。小学校のクラス会。三橋先生の定年記念。男女半々で十六人が集まった。北海道白糠と神奈川県から女性が各一人。三六年ぶりである。すでに男三人が世 を去っている。同級生の現住所を割りだしたのは、市役所職員の福田と田村。戸籍からどこまでも追跡できる管理社会である。「なんの仕事をしているの」と何 人かにきかれる。

5月3日。福田のクルマに奥さんと高2の長男、小1の次男と同乗。青森空港へ。山を登っていくと、濃霧がはいあがってきて、不吉な予感。到着すると、全便 欠航。一時から早稲田のキリスト教会館で山谷の集会がはじまっている。あわてて右へ迂回して三沢空港へ。二五年間無事故、無違反の福田のハンドルさばき で、一時三五分三沢発の便に間に合う。早稲田についたのは、四時半。六時までしゃべって、そのあと高田馬場の居酒屋で打ち上げ。運転できなくとも、これだ け移動できたのは、地元出身者の強みである。


可不可(その三)  高橋悠治


ここで、一つの楽器をバックに、机の男が物語を朗読する。

――ペーターは、となり村の金持娘と婚約していた。ある晩、かれは彼女を訪ねた。結婚を一週間後に控えて、話しあうことがたくさんあった。話しあいは、う まくいった。すべて、かれの満足のいくようにまとまった。(ここから、他の二人による活人画。)上きげんで、パイプを口に、かれは十時頃家に向かった。よ く知っている道なので、気にもしなかった。ところが、小さな森のなかで、なぜかよくかわらないうちに、かれは飛びのいた。すると二つの金色にかがやく目が 見え、声がした。「おれは狼だ」(狼を演じるのは女でもいいな。)「何が欲しいんだ?」と、ペーター。興奮のあまり、両手をひろげて立ちすくみ、片手にパ イプ、片手に杖をにぎりしめて。「おまえだ」と、狼。「一日中喰い物をさがしてたんだ」「狼さん」と、ペーター。「今日はかんべんしてください。一週間後 に結婚式なんです。それまで生かしてやってください」「いやだ」と、狼。「待って何の得があるんだ?」「ぼくと妻と、二人とも食べてください」と、ペー ター。「それじゃ、結婚式までどうしてくれる?」と、狼。「それまで飢えたままじゃいられない。今だって空腹で気分がわるいんだから、もうすぐ何かにあり つけないと、そのつもりでなくても、今おまえを喰ってしまいそうなんだよ」「ねえ」と、ペーター。「いっしょにきてください。家は遠くないんです。今週は 兎を餌にしてあげます」「それと、すくなくとも羊一匹は欲しい」「はい、羊ですね」「それからにわとりを五羽」

 第六の歌――
しっかり、石を手がにぎりしめる
しっかり、遠くへ投げるために
そこまでならば道もある

手のなかに答えをかくすと
頭はかるく立ち上がり
つかれた手は重くたれる
ちいさな手
みじめにわかれた五本指
それでも手は二つある
あててごらん
どっちの手に答えがあるか

やせた男が壁ぎわに立っている。じっと自分の手を見下ろして。机の男がその手をさして言う。「荒れた手だ。しわだらけ。ふくれあがった静脈の網 にしめつけられている。五本も指がある」

やせた男は頭をあげて、ひとりごと。「ひとりだ。あこがれていたように、妻が戸をあけることもない。来月は結婚するはずだったのに」
「きみが望んだことだろ?だからこうなったのさ」
「痛いことばだ」
男は壁にむかって自分の身体を押しつける。手がまがって痛いので、こわごわ手を見下ろす。
机の男「手はしっかり、きみを支えている。いいしごとのためには一度だって使ったことがない力でね」
そう言われて、また頭をあげる。
机の男「頭をあげれば、またおなじ苦しみさ」
壁に身体を押しつけ、手を見下ろし、それから頭をあげて壁ぎわに立つ。この上下運動のくりかえし。音楽にあわせて、だんだん自動化する。

ここで、第三の男が(これは役割交換でベッドに投げ倒されたままになった若い男であるはずだ)この場を救うように登場し、やせた男を監視している机の男の 肩にそっと触れて、気づかせる。魔法がとけて、机の男は机にもどり、こんどは若い男がそれを監視する。置き去りにされたやせた男は、しばらくは壁にもたれ て、さなぎのようにじっとしている。だれの視線からもはずれていることを確認し、この場から逃れる。

若い男は、机の男のするべきことを口述する。「ぼくの二つの手が闘いをはじめた。手はぼくが読んでいた本をぱたっと閉じて、じゃまにならないように、脇に おしのけた。ぼくに敬礼し、ぼくを審判に指名した。そしてもう、指を互いに組み合わせて、机の端まで追いつめはじめた。右に左に、力のつよい方が。ぼくは 一瞬も目をはなさない。両方がぼくの手だから、公平な審判でなければならない。そうでなければ、まちがった判定の責めを負うことになる。だが、場所がわる い。掌の蔭でつねったりしているのを見逃すわけにはいかない。そこで、あごを机に押しつけて、さあこれでよし。いままでずっと、左手がきらいだというわけ じゃないが、ぼくは右手を優先してきた。もちろん左が一度でも何か言ってきたら、軟弱で実直なぼくのことだ、すぐに乱用をつつしんだはずだ。ところが、左 は不平も言わずに、ぼくのそばにたれさがって、たとえば右が横町で帽子を振っている時は、不安そうにぼくの脚をまさぐっていた。あれは、今のこの闘いには よくない前触れだったな。左手くん、どうやって右の暴力にもちこたえようっていうんだ?

その女の子みたいな指が、五本の指で締め上げられてる。これはもう闘いじゃない、左の自然死だ。それはもう机の左端ぎりぎりに追いつめられて、その上に右 がピストンみたいに規則的に上下運動する」(ここでストップモーション)

「この緊急事態を前にぼくが救済の思想にめざめなかったら、ここで、闘っているのはぼく自身の手であり、かるいひと突きで引き分ければ、この闘いも緊急事 態も終わるのだ――と、思いいたらなかったら、左は手首からひきちぎられて、机から投げとばされ、抑えがきかなくなった勝利者の右手は、たぶん五つの頭を もった地獄の番犬みたいに、見守っているぼく自身の顔に跳びかかってきたことだろう。そうならずに今(両手の身振りは再開する)、両手は折り重なって横た わり、右手は左手の甲をなでている。不正な審判であるぼくが、それにうなずいている」

この時、さっき目立たずに退場した男が、大きなパンとパン切りナイフをつかんで、勢いよくもどってくる。そして、パンを机の上に置く。他の三人 (二人の男と一人の女)は、こどもたちになって、まわりをとりまく。

さて、父はナイフでパンを切ろうとするが、おどろいたことに、ナイフの刃が通らない。ナイフはしっかりして、よく切れる。パンはやわらかすぎず、かたすぎ ず。何度もやってみる。全身の力をかけてもパンは切れない。

こどもたち「どうしたの? おとうさん、パンが切れないの?」
父「何をおどろくことがあるんだ? だいたい、何かがうまくいく方が、うまくいかないことよりは、ふしぎじゃないか。もう寝なさい。たぶんうまくやれると 思うから」

こどもたちは横になり、眠る。時々そのうちの一人が目をさまし、頭をあげてのぞき見る。父は、長い上着をきたまま、脚をふんばり、ナイフをパンにあてて、 全身の力をこめて押している。

朝になった。こどもたちは、いっせいに起きる。「おとうさん、おはよう」父はナイフを置く。「見てごらん。まだできないんだ。じつにむずかしい」
「ぼくたちにも、やらせてよ」
「いいよ。やってごらん」
「わあ、おとうさん、このナイフ、熱いねえ。にぎれないよ」
「一晩中にぎっていたからね」
「どうしようか?」
「ほっておきなさい。おとうさんは、これから町まで行ってくる。今晩もう一度切ってみよう。パンなんかにばかにされるわけにはいかないよ。結局は切れるに きまってるが、抵抗することはできるんだから、せいぜい抵抗すればいい」
「あ、おとうさん。パンが縮んでいくよ。あーあ、すっかり縮んじゃった。なんだか、がまんして口をぎゅっとむすんだみたいだ。ほんとに小さなパンになっ ちゃったねえ」
ここで全員が、夢を追いはらう例のしぐさ。

 第七の歌――
さあ忘れよう
窓をあけよう
部屋をからにする
風が吹きぬける
目にうつるのは、からの空間
さがしても、さがしても見つからない

秋の道
掃いても掃いても
枯葉がつもる

机のむこうに坐る男。右手にペンをにぎって、ちょうど何か書き終えたところ。左手は、きらきらする時計の鎖をつけたチョッキのところをいじっていて、頭は そちらに深く傾いている。頭巾で顔までかくれた掃除女が、その必要もないのに、床を掃いている。

若い男がはいってくる。机に気づき、それから掃除女を見る。近づいて、頭巾をめくると、昔なじみの少女の顔が、かれに笑いかける。
「え? きみなの? ここでコメディーでもやってるのかい?」
「そう、ちょっとだけね。よくわかるのね」そして、机の男を指して「行って、あいさつしていらっしゃい。ここの御主人よ。そうしないと、ほんとはお話もで きないわ」
「あの人、だれ?」
「フランスの貴族よ。ドゥ・ポワテンっていうの」
「なんでここにいるのさ?」
「それはわからない。ここはめちゃめちゃになってるの。だれかがきちんとしてくれるのを待ってるところ。それできたの?」
「ちがう、ちがう」
「それももっともね。じゃ、あいさつしていらっしゃい」

若い男は、机の前へ行っておじぎをする。反応なし。「今晩は」と言って斜め下を見つめたまま。「すみません。じつは――」
「もういいのよ」と、うしろから上着にさわって、少女がささやく。
二人は腕を組みあわせて、歩いていく。ほうきが邪魔になる。
「ほうきなんか捨てたら」
「ごめんね。これはもたせておいて。ここでは掃除はちっともいやじゃないのよ、わかるでしょ?」(つづく)



走る・その十四  デイヴィッド・グッドマン


まだ噛まれたことはない。だが、はしっていると、犬が突然飛び出してきて、ぼくにけたたましく吠えることがある。
「ワンワン、カミコロスゾ! ジンニクダイスキ! ワンワンワンワン!」といワンばかりにだ。

そうすると、ぼくは反射的に飛び退く。腹部を地面に擦りつけながら、よたよた歩くダックスフンドでも、稲妻のような速さで大邸宅の広大な芝生をよこぎって とんでくるテリアでも、やはりおっかない。

野放しになっているのは、小さい犬だ。大きい犬は飼い主の家につないであるか、垣根に囲まれているか、なんらかのかたちで抑制されている。それでも、高さ 一メートルちょっとの垣根づたいに走っていて、向こう側には巨大なドーベルマンピンシェルがいて、歯をむきだしにしておっかけてくると、恐れ入ってしま う。なるほど、これだから郵便屋さんは必ず催涙ガスの噴霧器を腰につけてでかけるんだな、とひらめく。

恐いのは犬だけではない。一度だけだが、とおりがかりの小型のトラックからビールの空き瓶を投げつけられたことがある。当たらなかったが、ぼくはびっくり した。小型トラックに乗る犬畜生もいるんだな、と思った。

走ると標的になる。無防備で、傷つきやすい。標的になりたくないから走らないという人もいる。あるいは、身の安全を考えて、屋内のコースを選んで走ると か。気持ちはわかる。走る標的を狙う畜生は確かこの世の中に存在するから。だが、ぼくは屋内のコースはいやだ。とりわけ勇気があるからではない。むしろ、 鈍感なのだ。いままでたいして傷ついたことがないから、危険を感じない。だが、走りながら傷ついた人が大勢いる。ぼくもその一人になる可能性は充分ある。

         *

ぼくは独りで走る。独りで走り、独りで考え、独り言を頭の中でブツブツいいながら駆けていく。相棒がいなければ走れないという人もいるけれど、 ぼくは独りで。人から離れ、独りになる。そうすると自然に、自分と対話がはじまる。

「まいったよ」
「またかいな。どうしたの今度は?」
「べつに、ただなんとなく……」
「こだわってるな、また。そんなにこだわるなよ」
「そんなこといったって、いらいらしてるんだよ、ぼくは」
「でもね、きみ、こだわっちゃだめだよ。そのぐらいわかってるだろう? こだわったって、なんにもはじまらないじゃないか」
「こだわってないよ、べつに」
「こだわってる」
「こだわってない」
「る」
「ない」
「る」
「こだわってないってば。でもねきみ、なんでぼくがこだわってるかどうかってことにそんなにこだわるのかよ、気になるなあ」
「あたりまえだろう、そんなこと」
「ちっとも。わけをいえよ、わけを」
「わけなんかないよ」
「そういうやつなんだな、きみは」
「そういうやつって、どういうやつだ」
「きみみたいな、そういうやつ」
「はっきりいえよ。ケンカだよもう」
「ま、ま、そんなに怒るなよ。いろんなことにこだわるぼくはきっと業が深い。『業』というのは、そもそも『こだわる』ことなんだからね。前世に拘束され て、現世に生まれたんだ。そうだろう。こだわっては、涅槃も天国も無理だ。もっと頑張らにゃならん。当分のあいだ輪廻転生をつづけなければならないよう だ、わはは。でも、煩悩即菩提だよね。こだわるがゆえにわれ存すってこと。エーエーオー!」

     *

仲間と走るのがいやだというわけではない。仲間がいたほうが楽しいし、断然心強い。だが、仲間と走ることにしてしまうと、走れなくなる場合もあ るだろう。朝の五時に目がさめて走りたいが相棒がまだ寝ているから走れないとか、知らない町に泊まっていて、走りながら探検したいが、相棒がいないからだ めだとか。走ることは、やはり独りの運動だ。

慣れ親しんだ自分の町はともかくとして、よその町、よその国で走る場合、人前に身をさらすことも、必ずしも愉快な気持ちではない。見られている、というこ とを意識して、気が散ってしまう。そうすると、走ってもスピードがでないし、途中で息が切れてしまう。

そもそも必要不可欠なのは信用だ。信抑といったほうがいいかもしれない。走っていると、いつだってぼくのなかに、どことなく祈っている部分がある。

「願わくは、犬に噛みつかれませんように、人前に身をさらしても、ビール瓶を投げつけられませんように。そして、あんまりこだわらないように、させてくだ さい。」



編集後記

リケットさんの「逮捕された」連載は今月で完結しました。リケットさんは日本語で原稿を書く困難さからはやっと解放されたわけですが、さらに困難な裁判は これから始まることを忘れてはなりません。「ロバート裁判の会」(リケットさんの名前のRはロバートのRなのです)という外国人管理体制における日米共同 責任を追求する会もできました。趣旨に賛同して、年会費三千円を払えば、だれでも会員になれるそうなので、趣旨(これはもう分かっていますよね)や申し込 みの方法など、もう一度リケットさんに登場してもらって、詳しくきいてみたいとおもいます。
バンコクにいる友だちからの手紙によると、今年タイでは二十年に一度の大干ばつだということです。干ばつの年の四月に降るのは“マンゴー雨”。水がないの で、育ちきることのできなかった小さなマンゴーの実がボタボタと降る。
デイヴィッド・グッドマンが走っている街シャンペンの四月は春たけなわだそう。小さな実のなるりんご(ひめりんごではないかな、とおもいます)の花が、あ る日、狂ったように咲きだすのだと聞きました。白やピンクだけでなく、濃い紅色の花もあるらしい。
百号記念コンサート室内オペラ「可不可」は、台本そのものがまだ連載中という段階ではあるのですが、「購読者の特典」として、チケット発売前に予約だけ先 に受け付けます。申し込みは本文にもあある通り、アート・フロント・プロデュース、Tel 03・461・3172まで、どうぞ。(八巻)




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