水牛通信

人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1987年8月号 通巻97号
        
入力 桝井孝則


オンライン雑誌WENETをはじめた  室謙二 松岡裕典 市川昌浩 粉川哲夫 津野海太郎
マイ・ホビー その(3)  高橋茅香子
任意の一日  山川枯草木
ぬきがきうた(その三)  木島始
実現されなかったシベリア旅行  高頭祥八
異土の傍居にならない人たち  田川律
走る・その十七  デイヴィッド・グッドマン
編集後記



オンライン雑誌 WENETをはじめた
室謙二 松岡裕典 市川昌浩 粉川哲夫 津野海太郎


津野――室さんたちがWENETというパソコン・ネットワークをつくっていて、こんど、 そこに粉川さんがくわわった。そのうちおれもまぜてもらおうと思ってるんだけど……。
――もうずいぶんまえに、津野さんとやろうと話してたんだよね。
津野――四、五年まえ、水牛通信で粉川さんと自由ラジオの話をした。あの直後だよ。で も、あのころは、まったく非現実的な話だったよな。いま企業としてのネットワークはいつぐらいあるの?
松岡――企業としては、ひとつも成立していない。
津野――じゃあ、企業として成立することをめざしているのは?
市川――十ぐらいですね。いちばん大きいといわれているのがNECのPC-VANですけ れども、それでも三万人程度。
津野――もっと小さなやつは……?
市川――たぶん三〇〇ぐらいあるんじゃないですか? ただ、パソコン・レベルのネット は、二、三か月でつぶれちゃうのが多い。
松岡――あと第三セクター的な地球ネットがある。大分のコアラとか仙台のコミネットとか ね。
粉川――住民運動とむすびついた電子村っていうのもありますね。
津野――で、松岡さんは、いつコンピュータにかかわりだしたんですか?
松岡――まえから興味はあったんだけど、自分で買って使うまでにはいかなかったんです。 雑誌なんかを読むと、ファイルに相互性がないとか、プログラムが変っちゃうとデータが使えなくなるとか、いろいろ書いてあるでしょう。これはダメだなと 思ってたら、そのうち、プログラムがMS-DOSで走るようになってきた。これならそろそろ大丈夫かなと思って、やっと買ったのが一昨年の十一月。そして 去年の三月、市川さんがバッジ・ファイルというのをつくったわけ。
津野――バッジ・ファイル?
松岡――あのね、ふつうは、いまいったMS-DOSっていう、コンピュータの入力を制御 する、いちばん基本的なプログラムがあって、その上にワープロなんかのアプリケーション・ソフトをのっけて、コンピュータを使ってるんですね。
 ところが、MS-DOSの中にいろんなコマンドがあって、それを組み合わせると、ある程度、自分に必要なプログラムをつくることができる。
――それがバッジ・ファイル。うーん、これは説明がむずかしいな。
市川――コンピュータには、もともと外部との通信のための端子がついているんですよ。そ の端子を使ってコンピュータ同士をつなげると、こっちのコンピュータから遠くのコンピュータをコントロールできる。
――という簡単なプログラムを、あるとき市川がつくったわけ。それをぼくが見て、こう いう簡単なやり方で通信のホスト・プログラムができるはずだと勝手に思いこんだ。
津野――ホストというのは、要するに通信ネットワークの拠点だね。放送局みたいなもの か?
――うん、センター。で、かならず簡単なやり方があるはずだと信じて、毎朝三時間、二 週間ぐらいかかってプログラムをつくったの。一種の冗談プログラム。
市川――まだ電話にもつないでなかった。こういうふうにやれば動くはずだぞというシミュレーションね。
――そう。ぼくはシロウトでしょ。シロウトとして、アスキー・ネットという大ネットを モデルに、それを簡単なプログラミング言語でコピーしてみたわけ。かならずできるということを証明したくてさ。それに、まア、おれの人生にもいろんな問題 があるからさ、毎朝三時間、必死になって……
津野――そっちに逃避したと。
――うん、逃避したの。それで、やっとできあがって、それを市川プロに見せたら笑うん だよ。
市川――たいへんおもしろかったね。
――おかしかった。でも、それでほとんどのことができるわけさ。あれがはじまりだった ね。同じ部屋の中で、「おい、こんどはおまえが打てよ」なんてやってた。
津野――『水牛通信』のワープロ座談会みたいなもんだな。
松岡――そしたら去年の夏、室さんが突然、電話線につなぐモデムをアメリカから二台買っ てきた。日本で九万か十万してたのを、三万五〇〇〇ぐらいで買ったのかな。
 そいつで渋谷にあった室さんの事務所と下北沢のここをつないで、とにかく通信の実験をやってみようということになった。室さんが向こうの――ホストの入 出力を外から電話線でコントロールできるようにしておいて、それをつけっぱなしにしたまま、渋谷から急いで走ってくるわけ。
粉川――自由ラジオをおんなじだ。
――実験というより、やっぱりシミュレーションだね。世の中が何千万、一億もかけて やっていることを、どうやったらぼくらが簡単な方法でコピーできるかという……。
津野――なるほど。それで?
松岡――それで去年の十一月、室さんが「シンプルなほうがつかいやすいし、まちがいが起 きない」といって、さっきの冗談プログラムを、うんとシンプルなものにしたんだよね。
――それは市川がやったの。
松岡――たった三行のプログラム。そうしておいて、室さんがまたアメリカに行っちゃった あと、それを市川さんとぼくとで改造していった。
――おれがアメリカから国際電話でアクセスするたびに、やり方がちがってるんだ。
津野――わかりやすくいうと、どんなふうに変えてったの?
松岡――たとえばね、いつくかの部屋をつくった。
津野――部屋?
松岡――コンピュータというものを、そこにぼくらが入っていっていろんなことをする電子 的な空間だというふうに考えたわけ。
――コンピュータを空間イメージで考えなくちゃいけない、と市川がいいだしたんだよ な。
 コンピュータのスタイルというのは階層ファイル――だんだんこまかくなっていく逆ツリー構造になってて、そういうふうにネットワークもつくられてる。と ころがアメリカで、あたらしく電子会議という概念がでてきた。会議はファイルではなく会議室という概念でやらなくてはいけないと。それやこれで、市川の主 張を聞いた瞬間、あとの二人も、そうだ、これからは空間メタファでコンピュータを考えなくちゃいけないと思ったわけ。
 松岡は一時、メニューを地図でつくったりしたんだよね。
松岡――メニューがビルの図面になってるの。まず入口にはいる。そこにメイル・ボックス があって、自分あての手紙を読める。そのさきに、みんなが書いた原稿をあつめておく資料室とかがある……。コンピュータの原理、コンピュータの言葉でうご いているものを、もっとふつうの人間の生活に近づけようと考えた。
津野――頭の中のイメージを、ふつうに暮らしているときと切り換えなくてもいいようにし たわけだ。
――そうそう。ドアをあけて、なかに入って、そうすると部屋の図面があって、それを指 でさすと行きたい部屋に行ける。で、その部屋に行くと、壁にいろんな文章が貼ってある。
粉川――最初にぼくがアクセスしたときは、ロビーまでは入れた。おもしろいのね。ふつう のコンピュータというのはインデックスばっかりで抽象的なんだけど、WENETには身体性がある。ある意味で、そういうのはすでにゲームではあったよね。
――アドベンチャー・ゲームの感覚なんだな。空間を移動していって、ものを発見してい く。
粉川――アップルのコンピュータがそうでしょ? 抽象的なものが身体をもつとか、ものが 立体性をもつとか、そういう意味だよね。
――コンピュータを使うには、どうも右とか左とか、そういうような感覚のほうがいいん じゃないかな。
 テレビでバックミンスター・フラーと宇宙飛行士が対談したんだって。そのとき宇宙飛行士が「上になにが見えた、下になにが見えた」といったら、フラーが 「それはえらく地球的だな」といった。宇宙空間に上と下はない。だって重力という概念がないかぎり、上も下もないんだからさ。で、フラーいわく、「宇宙に あるのは右と左だけだ」って。フラーって、あんまり好きじゃなかったけど、その話をきいて、えれえやつだと思った。
 つまり右と左というのは人間にとって最後までのこる空間認識なんだよ。だから、われわれのネットもそういうふうに――モニター上で「右に行く」とか「左 に行く」とかやったら、抽象的なコマンドなしでもいけるんじゃないかと……。
津野――そこまできて、やっとWENET第一期のスターとか。
――なんでWENETかというとね、おれがアメリカでWest East Interfaceという会社をやってて、それにWhole Earth Catalogue をひっかけて……。
松岡――全地球通信。それに「われわれのネットワーク」という意味もひっかけて……。
津野――ふんふん。
松岡――そうこうしているうちに、ぼつぼつ市販のホスト・プログラムがではじめた。
市川――その一つが、いまここで使ってる「ネットメーカー」という技術評論社からでたソ フト――いままでのものとぜんぜんちがっていて、それ自体で電話を三回線サポートできるの。ふつうの安いやつは一回線しかサポートできない。で、これはい いんじゃないかと思ったんだけど、構造がすごくシンプルなのね。はっきりいって機能不足のところがある。
――それでずいぶんもめたんだけど、結局、これで行こうということになったのが今年の 三月。
津野――それからが第二期だね。第二期の方針はなんだったの?
松岡――電子出版。仲間だけでメールをやりとりするだけじゃなくて……。
 コンピュータ通信による出版だったら、最初は何部ぐらいでるだろうから何部刷らなくちゃいけないとか、それをストックしておくための倉庫がいるとか、そ ういうことを考える必要は一切ない。コンピュータのなかにデータとして入れておいて、それを必要な人が必要なときにプリントアウトして、そのぶんだけお金 を払えばいい。そうすれば、ものすごく少部数の出版も可能になる。
――そのさい、いちいちプリントアウトしなくても、どうやったらモニターで読める文章 が書けるかという問題があったな。改行とか行間のあけ方で、読みやすさがまったくちがってくる。モニターのための文体論というのは、まだアメリカにもない ね。
松岡――もう一つ、そのとき問題になったのは、ネットそのものが編集装置にならないかと いうことね。ふつうのパソコンなら検索機能があるでしょう。たとえば「ネットワーク」という文字列をふくむ原稿をぜんぶひっぱりだすことができる。そうい う機能をもったホスト・プログラムがあれば、それで編集ができるんだけど、実際には、そういうものはどこにもないわけ。
 つまりね、BBS(電子掲示板)に書いたものはだれも原稿だと思ってない。ちょこちょこっとモニターに書きこんで、読んで、それで終わっちゃうんです よ。それらを一つの流れのなかで構成して、あたらしい意味をもったのもとして読ませるという発想がどこにもない。
――たとえば、いま日本で最大にちかいネットであるアスキー・ネットなんかだと、みん なからの意見をあつめて、それをベタベタ貼りつけておけばいいという考え方なのね。それにくらべると、ぼくらのは、もうちょっと編集志向型なんだ。
松岡――バーッとあつめておいて、なにか見えるでしょう? といわれてもね、見える人に は見えるけど、みえない人には、たんなるひとりごとの集積としか見えない。それを本当にみんなに返すというのであれば、ある種の編集作業がいる。
粉川――それもなかなかむずかしい問題だねえ。
――そう。それで、そういう問題をいろいろ議論してた。あとオープンにするかクローズ ドにするかという問題もあったしね。ぼくらは最初からオープンにしようとは思わなかった。その時点では、ほとんどのネットがオープンだったんだけど。
津野――なんでオープンにしないの?
市川――いままでのネットをずっと見てくると、オープンにしている人たちのばあい、器を 貸すから勝手にやってくれという考え方なんですよね。ぼくらはそうじゃなく、まず中身をつくりたいという考え方でやってますからね。ある程度クローズドに しておいたほうがいい。
――もう一つ、コピーライトの問題も考えた。パソコン通信を二年ぐらいやってわかった んだけど、あそこに書いた途端に、みんな、コピーライトはなくなったと思っちゃうんだな。原稿用紙とちがって、ワープロで書いてると、みんな平気でうしろ からのぞくでしょう。それとおなじで、いちどBBSにのっちゃうと、そこからとってきて原稿にしちゃったりというようなことが、平気でやれちゃうのね。
松岡――むかしアメリカのコンピュサーブであったんだけど、BBSにストックされた原稿 をひきだして、自分の本かなにかで使っちゃった。あとね、どっかのネットにおもしろい原稿がのってると、それを他のネットに勝手にのせちゃう。つまりルー ルが、ぜんぜんないんですよ。
――コピーライトというのは、おおやけと個人という概念があって存在するんだけど、 ネットワークになるとそれが消えちゃう。
松岡――自分で書いたという感覚がなくなる。と同時に、他人が書いたという感覚もなくな る。だれのものでもない原稿という感じになっちゃうね。
津野――それは実際にやってみないとわかんない感覚だろうな。で、そのことがなんで問題 になるの?
――たとえばね、去年、アスキー・ネットが、なんでもいいから新しいことを書いてくれ と、さかんにみんなにいったわけ。ただし、そのコピーライトはアスキーにある、アスキーで本にすると……。
松岡――日経ネクストもそう。みんなに書かせて、その原稿は自分とこの雑誌に自由に転載 できると書いてある。
――これはいったいどういうことかと、そのことを議論したわけ。
松岡――で、ここは本当に読ませたい人以外には読ませない、と。
 自分の書いたものが自分の書いたものじゃなくなるような気がしたり、他の人が書いたものが他人の書いたものじゃなくなるような気がしたり――そのことを 逆にうまく使えば、そこに自分の頭の中身がどんどん流れこんでいって、だれかの頭の中身も流れこんできて、つまり、複数の人間たちの頭脳の共有といったこ ともできなくはない。ただ、それは、お互いに、この人ならキチンとわかってくれるし、ほかのネットに流したりしないというクローズドな信頼関係があって、 ようやくなりたつことなのね。
津野――それはわかるんだけど、電子出版も出版という以上、不特定多数にむけて成り立っ てるわけでさ。本のばあい、かりに五〇〇部しかだせないとしても、原理としては何万もの読者に対してオープンになってる。それ以外にやりようがないんじゃ ない?
――そうすると、そこでどうコピーライトを発生させるかという……。
粉川――コピーライトというのは、もともとパブリックな領域にかんする問題だから、 ちょっとちがうんじゃないかな。つまりオープンにした部分で、はじめてコピーライトの問題がでてくるんでしょう?
津野――コピーライトがあやふやになるからオープンにできないというのは理屈としては成 立しないんじゃないかな。オープンにした上で、どうやって別のコピーライトの考え方を成立させることができるか、というふうに考えるしかないんじゃない の?
――ゼロックスができて、コピーライトの観念が変った。でも、ゼロックスとちがって、 こっちは、いちいち機械の上にブツをのっける必要もない。フロッピーにダウンロードすれば、そのものが手に入る――つまり、目で読むそのことがゼロックス とおなじになっちゃう。
粉川――ゼロックスの場合だと、いちど活字になったものをコピーするのと手書きの文章を コピーするのとではちがうよね。あとのほうは、盗む、という感じになるわけよ。文章が活字になると、そのぶん一人だけものじゃないという部分ができてくる でしょう。それが電子文字になるとどうなるのかということだね。
――あたらしいメディアだから、まだ、みんなの考えがきちんと成立していないんだ。
松岡――うん。だからね、WENETのばあい、最初からのメンバーしか入れない部屋が あって……。
津野――つまり、きみたちのベッド・ルームだ。
松岡――そのほかに、だれでも入れる空間をつくることにしたの。クローズドのほうは、そ のための市販ソフトはなにもないから、なんとか自分たちで工夫してやっていこう。オープンのほうは、なるたけ簡単に使えて、いろんな人がアクセスできるよ うにしたほうがいいと私が独断的に決めて、さっきいった「ネット・メーカー」を使うことにしたわけ。
 その場合、オープンな部分は雑誌とおなじだと考えたわけ。コピーライトは書いた人にある。ネットにはない。
津野――それで、いくつぐらい部屋をつくったの?
――十五だったかな。
市川――それが三つのレベルに分かれている。システムからお知らせ、オープン・レター、 BBSが第一のレベルで、これはだれでも入れる。その上にぼくらが書いた原稿を入れておく図書室や、お互いの原稿を批評しあったり、どこかでこんな文章を 読んだけど面白かったとかいう部屋や、噂話とか悪口の部屋なんかがあって、ここはある程度オープン。
松岡――というような微妙な空間があるんだよ。
市川――その上に最高会議というか、みうちだけで会議する完全にクローズされた部屋があ るのね。
――その四月の段階でも、仲間内だけにするか外に拡げるかということで、ぼくら、 ちょっと躊躇したんだよ。オープンの部分もあったけど、依然として仲間内の部分のほうが大きかったからさ、それだったら電話でしゃべったっておなじじゃな いかと。
 それで、こんどはオープンな部分を強化して、コンピュータのことをなにも知らない人をも積極的にふくめていこうと思って……。
津野――それがいまの段階――つまり第三期ね。松岡さんの呼びかけを、このモニターから 引用しておこうか。「WENETは87年7月15日をもって、試運転の第3期に入りました。今期の目標は会議室の数を大幅に整理して、それぞれの性格を明 確にすることで、会議室に「電子雑誌」的な性格をもたせることを目標としています。まぁ、「電子雑誌」とはいったい何だ? ということもありますが、それ はそのうちなんとなく形になるのではないかと思います。(楽観)……」
――これもね、やっぱり市川がいいだしたんだよ。この程度であれば、WENETはもっ と小さくしたほうがいいと……。
松岡――実際、アクセス数がすごくすくないんだよ。
――一日に二、三回。
松岡――で、クローズドの部分は最小限にして、あとはできるだけみんなに勝手気儘に使っ てもらおうと。そのために、WENETの中に小さなネットをいっぱいつくることにした。
――みなさん、なんでも書いてください、というだけではだめだと。で、一つのボードと いうか、一つの小ネットごとぶディレクターをつくる。それで粉川さんにも呼びかけて……。
粉川――WENETの中に「東京アンダーグラウンド」というボードをつくらせてもらった のね。
松岡――それで粉川さんのとこがここで手狭になってきたら、ほかのところで自分ではじめ てもらってもいい。それまで実験をやってもらおうということにしたわけ。
津野――それで、今日までに以下のようなネット内ネットができた。

 ○お知らせ
 ○全地球通信 BBS
 ○北米西海岸通信
 ○東京アンダーグラウンド
 ○WENET文書館
 ○ペントハウス

 この最後のやつが、きみらだけのベッド・ルームなのね。
――最初のが、松岡さんと市川さんが書くシステムからのメッセージ。そのほかにも、た とえば津野さんがでばってきて、「水牛通信」つくってくれてもいい。で、こういう人たちにIDをだしてほしいといえば、ぼくらのほうでそうする。その人た ちは主として粉川さんや津野さんのボードに入るんだけど、同時にぼくらの部屋に入ってきてくれることもできる。そういうかたちを、とりあえず半年やってみ ようと。
津野――粉川さんのとこはもうはじまってるんだね。以下、粉川さんの最初のメッセージ。
「日本で最もフリーなコンピューター・ネットワークが誕生しました!
 ほかにWENET BBSがあることだから、ここではメディアを意識したトークやダイアローグをひろげていければと考えています。
 このセクションに対してぼくがいだいているイメージは、誰でも気軽に入っていってタダで(つまりフリーで)おしゃべりのできるスペースです。
 WENETの近くにある自由ラジオ局〔ラジオ・ホームラン〕も、そんなスペースのひとつだとおもいますが、〔東京アンダーグラウンド〕は、〔ラジオ・ ホームラン〕のもつフィジカルな空間的・時間的制約を受けないのがひとつの特徴です。〔ラジオ・ホームラン〕の放送は、facking郵政省の時代錯誤的 規制のため、たかだか一、二キロのサービスエリアしかもてませんが、WENETでは、そのままで地球規模のエリアをわれわれのスペースにできるわけです」 うんぬん。
粉川――まだぼくだけなんですよ。IDもだしてないし。最低限、持続的に議論に参加した い、参加できるという人をもとめているところ。
津野――かりにさ、今年のすえに「水牛通信」が百一号をだして終わったあと、こんどはパ ソコン・ネットでやりたいとなったとするよね。そのときはどうすればいいの?
――津野さんが「水牛通信オンライン」というのをやりたいといってくれればいい。いま すぐにでもはじめられますよ。
津野――読者というか、そこにくわわって、読んだり書いたりしたい人にIDをだすとき は……?
松岡――そういってくれれば、こっちからだす。
津野――五十人でも? 百人でも?
――うん。ただ、パソコンにしろ通信機能つきのワープロにしろ、機械をもっててくれな いとな。
津野――そりゃそうだ。でさ、そうやって「水牛通信オンライン」ができたとして、そのな かをまた、いろいろな部屋に分割することもできるの?
松岡――いまはまだできない。
――つまりさ、コンピュータの連中は、いまネットをやってるやつにしてもね、編集とい う概念がまったくなわかってないんだよ。
津野――でも、コンピュータにも編集の概念があるだろ。それが本や雑誌における編集方法 を変えていくということだってあるんじゃないの?
――あるだろうけど、コンピュータ関係者はだれもわかってない。
松岡――はじめから編集の仕事をやってて、それからコンピュータにかかわればわかるんだ けど……。
津野――それをきみらがやろうとしているわけだな。



マイ・ホビー その(3)  高橋茅香子


私のコレクションのひとつに「レイチェル」がある。RACHEL。とくに気にして集めているわけではないけれど、出会うたびにかすかに心にひっかかって は、たまっていく。

まずは映画『許されざる者(The Unforgiven)』の主人公であるレイチェル。
テキサスで牧場を営む一家に拾われて育てられたインディアンの娘。奪い返しにきたカイオワ族と一家の闘いとの中で長男ベンとの愛情を深めていく。一九六〇 年作の西部劇で、おさだまりのインディアンの扱いが悲しいのだけれど、忘れられないシーンが数々ある映画だ。たとえばインディアンが打ちならす太鼓にこた えて、母親が川岸でピアノを弾く。誰の曲かと聞かれて、背をぴんとのばして答える。「ウォルフガング・アマデウス・モーツアルトよ」白い馬に乗って疾走す るレイチェルが美しい。扮するのはオードリー・ヘップバーン。ほかにベンがバート・ランカスター、母親がリリアン・ギッシュという顔ぶれで、監督はジョ ン・ヒューストン。

それからダフネス・デュ・モーリア作『My Cousin Rachel』のレイチェル。
ほとんど『レベッカ』だけで有名なデュ・モーリアの一九五一年の作品。(三笠書房・大久保康雄訳では『愛と死の記録』)このレイチェルは美しく、神秘的な ベールをかぶっている。夫のアンブローズを亡くし、その従弟フィリップの心をとらえ、無実であったのか、有罪であったのか、謎のままこの世からもいなく なってしまう。手をふれたものがことごとく悲劇になる、そういう女だったのかも知れない。

哀しいのは、コールドウェルの短編『Rachel』で出会ったレイチェルだ。
“ぼく”はもう数か月、毎晩、レイチェルと会っている。ぼくが新聞配達をして貰う二十セントで、映画をみるかアイスクリームをたべるか、どちらかにする。 十時になるとレイチェルは路地の奥にある家へ帰っていく。でも父親がうるさいからと言って、けっして家までは送らせてくれない。暗い路地の入口で、ふたり は強く抱き合い、おやすみのキスをする。だからぼくはレイチェルの家も、本当の名前も、家族のこともなにも知らない。貧しいことは想像できた。毎日同じ、 青い木綿の服しか着てこなかったから。でもそれはいつも洗いたてだった。ぼくはその服が着古されて、やがて擦り切れてしまうのではないかと心配した。
ある日、出かける間際になって母から用事をいいつかった。外の麈箱にねずみがはいって困るから、粉をまくようにと箱を渡された。急いでいたぼくはそれをご みのうえにいい加減にまいて、レイチェルに会いに大通りを走っていった。レイチェルはすこし遅れてやってきた。映画にいくことにして歩きだすとレイチェル が水をのみたい、と言う。我慢ができないほどのどが乾いているの、というのでドラッグ・ストアにはいった。水をはやく、というレイチェルが真向かいの大き な鏡の中で輝くように美しいのに、ぼくは茫然とした。レイチェルは店員がさしだすコップを奪いとるように水をのみ、もっと水をと叫んだ。その目は吊りあが り、店員が駆け寄った。「遅かった」「遅いってなにが?」「毒をのんでいる」ぼくは泣きながら、さびしい道を歩いて帰った。ぼくの家の麈箱にかがみこんで いるレイチェルの姿が、あの大きな鏡にうつっているかのように、はっきりと見えた。胸が痛かった。レイチェルの美しさがぼくの胸の中で燃えているようだっ た。

ロバート・パーカーの『Looking for Rachel Wallace』に出てくる女性解放運動家もいるけれど、作られたレイチェルではなく、実際のレイチェルもいい。
『On City Streets』という小さな詩集がある。白黒の写真とカール・サンドバーグやラングストン・ヒューズ、グェンドリン・ブルックスなどの詩が都会をうたっ ていて、ときどき手にとりたくなる。レイチェル・フィールドの詩を知ったのもこの詩集でだった。うまく訳せないけれども、好きなのは彼女の〔マンハッタ ン・ララバイ〕。

 暗闇の中を明かりのともった窓は
  のぼる、高く高く
 街路は茫と浮かぶ、雪の中に
 タクシーが這う、のろのろと
  琥珀色の目をしたかぶと虫のよう
 鋼の洞窟に車の咆哮がひびく
  鋭い響きはサイレン
 そして
 ひとびとは踊る、死ぬ、結婚する
 そして
 お前のような子供が生まれてくる

この詩にひかれるんは副題のせいかも知れない――〔生まれて一日のリチャードへ〕。

最後にレイチェル・カーソン。アメリカの海洋生物学者であの『沈黙の春』の著者。この本を私は違った訳のタイトルで初めて読んだ覚えがある。た しか『鳥はふたたび鳴かない』というような書名だった。一九六四年に五十六歳で亡くなっている。一九〇七年生れなので、今年は生誕八十周年ということで日 本でも大がかりな記念のシンポジウムなどが開かれているらしい。
でも私がレイチェル・カーソンにひかれているのは別の一冊の本のため。『The Sense of Wonder』という本だ。彼女が死ぬまで書きつづけていたこの本は、地球や海や空に満ちている自然の神秘に触れることの素晴らしさを語っている。書き出 しはこうなっている。

「雨と風がいりまじるある秋の夜、私は一歳八か月になる甥のロジャーを毛布にくるみ、ぬれそぼる闇の中を浜辺へとおりていった。そこでは、定かには見きわ められない波打ち際にほのかに白い大きな波が響きをたてて打ち寄せ、鳴り響き、叫び、こまかな泡をいっぱい私たちの方へと押しやってきた。私たち二人は、 心の底からこみあげてくる喜びに、声をたてて笑った――子供は生まれ初めて海の精の荒々しい激昂に出会って、私は人生の半分以上愛しつづけてきた海の塩味 を感じて。けれども私たち二人は同じように背中がぞくっとするような思いをしていたに違いない。広大な海はうなり声をあげ、私たちを荒々しい夜がとりまい ていた。」

主としてメイン州で撮影された写真の数々に自然への郷愁をさそいだされる。メイン州はレイチェル・カーソン自身が夏に住んでいたところでもあって、今も まったく人の手が加えられていない場所が多いとか。海を埋め立てて造られた土地の上に住む私としてはこの本を読んだり写真を見て、子供のころの感触を思い だしたりする。たとえば多摩川で泳いだこと。寒さにぶるぶる震えながら岸にあがってくると河原の石はやけに熱くて、そのひとつにおなかを当てて腹ばいにな り、あたたまる。太陽に背中や手足をじりじり照らされて起き上がると、おなかの下にあった石が濡れていて、それが見るまに周りの方からすーっと乾いてい く。

この本の最後は次のように書かれているけれど、レイチェル・カーソンはもっと続けるつもりでいたという。

「先日受け取った、一通の手紙は、知りたいという気持は一生持ち続けられることを雄弁に語ってくれるものだった。一読者からの手紙で、休暇を過ごすための 海岸をどこか選んでほしいという頼みだった。文明に毒されていない海岸を散策したり、古くてしかもたえず新しい世界を探究したりして幾日かを過ごしたいと いう。
 残念ながら北部の荒々しい海岸は避けたいとのこと。以前はどこにもまして気に入っていたのだけれども、メイン州の海岸の岩をよじ登るのは無理ではないか と思うから、と彼女は書いていた。もうすぐ八十九歳の誕生日を迎えるので。
 その手紙を読み終えたとき、私はほのぼのとした思いに包まれていた。」

レイチェルという名前にこだわる理由はまったくない。なんとなく、としか言いようがない。とくに好きというわけでもない。でも娘の名前を私の父がつけてく れたとき、それはフランスの画家のミレーからとって美礼にしようということになったのだけれど、私は「お、ここにもレイがはいる」などと思ってしまった。
コレクションというのは集めている本人以外にとってはくだらない場合がほとんどだから、言い訳しなくてもいいようなものだけれど。


任意の一日  山川枯草木

選挙の日。折たたみの椅子とサンドイッチ、マホービン、ミルクを入れたビン、ホーローのコップ、傘、りんご、ばなな、寺山修司の歌集、びらを 持って、バーリン投票所会場、リッチモンド高校の入口につく。ヤラ川のほとり。まだうすぐらい。午前八時ちょっとまえ。あいていない。風雲が急を告げてい る。とても寒い。外套を着れば失う何かあり豆煮る灯などに照らされてゆくのである。

やがて、もう一人、おなかの出具合、鼻の赤らみ具合からすると労働党だろう。遠くから、“Coldy!”と声をかけてくる。イエースと返す。こういうのは はじめてだが、“How do you do?”を“Howdy?”とやって親しみを出すことがあるし、カーディガンをカーディー、ビスケットをビッキーというのは幼児語だし、と二分位考えて、 対立候補支援者同士の敵対ではないものとする。それから自由党、サーブに乗ってきた。若づくりの女性。娘と息子をつれている。もちろん私立。

八時からの投票にくる人をまちうける。国会下院メルボルン・ポート区の各候補に優先順位をつけたビラを配るのである。びらには、無所属アラン・ブラウンが 1と書いてある。2は民主党訪ソ帰り反核候補、3が労働党現職原住民問題相、4が自由党候補。アラン・ブラウンを支持する人には、そのような優先順位で投 票してもらうように。勿論、どう順番をつけようと当人の勝手である。各党のびらはその候補を1としている。小選挙区制、各選挙区の定員は一名。

本日の第一番は男の人、これから仕事にでかけるらしい。かばんをもって、各党から一枚ずつびらをもらった。アラン・ブラウン、みんなの候補、といって手渡 す。アランはクーリー(オーストラリア南東部の原住民はじぶんたちのことをそういう)で、労働党原住民問題のやり方に反対して立ったのだけれど、それは弱 い立場にある人みんなのためというわけで、そういうのである。

投票者はたまにしかこない。イスをひろげ、しかし坐らずに歌集を開いてみる。六時までたっぷり時間があるから、はじめから読もうかと思うが、やはり、そん な、読めるものではない。仕方なくコーヒーをいれる。向こうの岸のユーカリの何本かが目につき、あいさつをおくる。明るくなってきたから幹の色も明るい。 まだ風である。大きな雲が流れているが、西の空にはつねに青い層があり、長く雨が降ることはない。自由党のひとからびらをみせてといわれ、一枚わたす。か れらのをみると、アランの順位は2。

やがて、われわれの地区世話人ケイティがまわってくる。コーヒー、サンドイッチはどうかときかれるが、もってきたので。九時すぎ、ヴィッキー。今日は五時 までびらを配る。初対面。シェパードを連れている。名前はベア。妊娠している由。カルシウムをちゃんととっているかとか、重いものを持たせないようにして いるか、出産には立ち合うのかをきく。ビデオでとりたいのだそうである。選挙運動は学生自治会の時したことがある。そう、74年だった。東京か、いってみ たいわね。

民主党は人が足りないらしく、候補その人がきて、ポスターをはり、びらをたばねておいていった。女心理学者。

十時(なんだろう)、自由党の交代。おばさん二人。シェパードをほめ、ひとしきり犬のはなし。一人は「前の時は労働党に入れたけど、まあ今じゃ労働党も自 由党も同なしようなもんね」と、しかし組合に文句をつける。看護婦さんなんだそうである。二人はしゃべりつづけ、ヴィッキーはこちらに目くばせしてほほえ みかける。

やがて、アランのバス。原住民の旗の色、黒と黄と赤をあしらった選挙用横断幕をつけている。アランと、そのアイスクリームをもった二人の子ども。参謀ビ ル、名前をしらないクーリ二人。一人はあのイスに腰かけ、足を組み、タバコに火をつける。子どもたちはベアに吠えられ、川の方へ遊びに行ってしまう。アラ ンは大声で呼びもどし、はげまし合って、つぎの投票場へ。またケイティがきて、別のところで手がたりないというのでのせてってもらうことにする。

そこは大通りの教会で、入口のすぐソバに立ってびら配りをはじめると、たった一人の民主党が、「あんたたちは四人だけど、ここはぼく一人だからそこに立た れると困るんだなあ、配りきれない」という。「それは気がつきませんで」

二杯目のコーヒーを飲みながら、チーズ、ピーナッツバタとほしぶどうのサンドイッチ。りんご一つテリーにあげる。アメリカの黒人女性らしいけど、アランの 応援にきている。こちらも、二週間前に手伝いましょうか、といったら、じゃあたのむ、という具合。そこに知っている人はだれもいなかった。

またケイティがきて、もう一つのところが手うすだというので、そこへ。大島渚氏によれば、こういうのは「芸者と同じ」なんだそうだ。ほんとそうなんだ。お 座敷がかかれば行くのである。こんなとき、メガネドラッグのコマーシャルソングなんか思い出してしまうのは悲しいけれど、それでもおしまいまで唄う。日本 で仕入れた最新の唄なものだから。

今度の投票場は丘の上のカトリック教会で、風が冷たい。冬至がすぎて日脚はのびているのに、もう日がかたむいている。地声でびらを渡したが、そろそろのど も疲れているらしい。労働党の若いびら配りと目があうと、アラン・ブラウンが勝つとおもしろいね、という。トイレが近くにあるので、よろしい。ここでは、 おしっこが近いというのを、日本人の袋(ボーコー)だね、というのであるが。

五時に丘からおりて川のほとりにもどると、もうくらい。イスの礼をいってヴィッキーは帰る。おしまいの一時間はよく人がくる。タクシーでかけつける。罰金 をとられないように。

六時ちかく、キャシー。これも初対面。二人がアランの開票立会人である。各候補は開票者一人につき一人の立会人を出せる。アメリカ人かと思ったら、旅のス エーデン人。「無起用で冷た」くない。英語を話すのが楽しいようす。ジャーナリストになるコースを大学でとっているという。ほう。放送局につとめたいとい う。そうですかな。ところでエケレーブはもう死んでたかしら。知らないかな、詩人でしょう、エケレーフかな。ああ、エーケレーフ(あたたかくてくらいし めった者)。ええっ、どうして知ってるの。知ってますわさ。日本語で読んだもん。しかし、内容はおぼえていない。ほらを吹いたのと同じになってしまう。

六時ちょっと前に投票場に入り、腰をおろしてため息。湯沸場にお茶とコーヒーがあるといわれて、コーヒーとお茶を飲む。投票場の扉が閉められ、簡単な説 明。ダンボールの箱(新しい)を封している白いプラスチックのひもが鋏できられ、開票が始まる。開票者の四人のおばさんたち。労働党票の山にのせられた自 由党票を、立合人の一人(もちろん自由党の)がみつけ、注意した。労働党302。自由党121。アラン39。民主党39。無効48。

茶わんを洗って外へ出る。キャシーはアランのパーティへ。こちらは市電で労働党支持の友人宅のTV開票速報パーティへ。イスをもってマホービンをぶらさげ る。もうすっかりくらい。夜のユーカリの匂い。そばに川がながれているはずだ。じゃあまた。

(七月 メルボルン)


ぬきがきうた(その三)  木島始



ことばが闇にふれるとき
どんな顔をするのだろうか
にっこりひどく恐がりつつ
虚空に飛びこむのだろうか



さしみのさみしさ めにしみる
さかなのせなか さかないでと
ふいうちひっしな かなかなぜみに
ちょいとほりちょう ちょうしくるう



しがないし試験など きっぱり消える
なぎさから波は あきない青さだ
とおい友だち カラスのからまわり
娘にはむりやり 泳ぎを教えよう



いびき ひびきわたらせ
ねころぶ のらねこには
いつのまにか つのひめっこ
むりしないよ かたつむりは



みるからに色艶のいい言葉さがせたら
きっと生きがよくて味もすてきだろうな
すばらしい肌ざわりで向ってこられたら
響きが光るたびに舌なめずりしちまう







実現されなかったシベリア旅行  高頭祥八



「ぼくのシベリアのおじさん」長谷川四郎さんが四月十九日に亡くなった。

長谷川さんはもう六年前から病院で寝たきりだったし、その後はぼくはいなかへ移り住むことになって、しょっちゅうお会いするわけにはいかなくなったが、東 京へ出たときは、できるだけ病院へお見舞いに行くことにしていた。しかし長谷川さんの病状は予期していたより悪化が急で、病院を出るときはいつも、あの頑 丈だった長谷川さんがと、暗たんとした気持になったものだった。

俳優座の槍よしえさんの経営する神田の槍画廊で、長谷川さんと開いた「二人による三人展」やブレヒトの「子供の十字軍」の出版をはじめとして、長谷川さん のことなら、ぼくの頭の中には思い出がいっぱい詰まっている。その中のひとつに、実現しなかったシベリア旅行の思い出がある。

あるとき上北沢の長谷川さんの家でぼくは一冊の本を見せられた。それはなんとかいうアメリカ人が帝政時代の末期に考えた、アムール川にミシシッピーのよう なショーボートを浮かべてひと儲けしようという、一大観光プロジェクトの顛末を書いた本だった。

その本のことから話はシベリアの大地の上を広がって、アムール川から長谷川さんがシベリア抑留時代に、森林伐採の筏を流したインゴダ川へ、そしてアムール の街ハバロフスクと、そこで出会った詩人スモリャコフのこと。戦前、日本を愛しながら日本から追放された、盲目の詩人でエスペランティストだったエロシェ ンコと、彼の書いた北極海へ流れるコリマ川のこと。「コルイマの女たち」という詩を書いたヤクートの詩人で、バクーとベイルートのAA作家会議で会ったダ ニーロフのこと。そして彼の住むヤクーツクの街と、そこを流れるレナ川のことまで話は広がっていた。

しばらくして、長谷川さんはひざを打っていった。「ダニーロフに手紙を書こう。彼はヤクーツク作家同盟の講長をしているはずだから、彼から招待状を出させ てヤクーツクへ行こう。君も一緒に行かんかね。」これが実現すれば、ぼくにとってもしばらく振りのシベリア旅行、ノーであろうはずがない。さらに長谷川さ んいわく、「山崎昌夫にも話してみよう。彼は旅の作家だし社会党だから、こういうときには役に立つはずだ。」

それから数日後、長谷川さんとぼくは新宿のコーヒー店で山崎昌夫と会った。しばらく振りで会った山崎昌夫はずいぶん頭が白くなっていた。彼は即座に提案を 受け入れた。

歯車の回転は早くなった。長谷川さんはダニーロフ宛の手紙を書き、それを島崎扶美子さんがロシア語に翻訳してくれた。彼女はアドバイスとともにタイプされ た手紙を渡してくれた。長谷川さんはそれをロシア文字でサインして、手紙は投函された。

その手紙にはこう書かれていた。


ヤクーツク作家同盟
詩人 ダニーロフ セミョーン ペトロヴィッチ宛
一九七七年一月二九日 東京

敬愛するセミョーン ペトロヴィッチ!
その後いかかですか。お元気のことと思います。私は一九六六年ベイルートにおけるアジア・アフリカ作歌会議であなたにお目にかかった日本の詩人長谷川四郎 です。あなたから詩集「北はおれのもの」と「鉄砲をもったウサギ」をもらいありがたく思っています。あなたの詩をとても良いと思いました。
バクーから日本へ帰りましてから、私は「シベリアの旅」という本を出して、中でヤクーティヤについても少し書きました。またアンソロジーを出しまして、あ なたの作品「チャチャアニ」と「コルイマの女たち」を訳してそのアンソロジーに入れました。
私はかねてヤクーティヤという国にとても興味を抱いております。ヤクーティヤは多くの異なった民族が独特の文化、風俗習慣を残して生活している、非常に面 白い国という印象をもっております。それで今回、私と同様ヤクーティヤに深い関心を寄せている友人二〜三人とヤクーティヤを訪れまして、いろいろ見学いた したいと思っております。とくにヤクーツクではNigoun Bootour を勉強したいと思います。
友人の一人は高頭祥八と申しまして、一九六五年バイカル湖での日ソ青年友好祭に、文化代表団の団長として訪れた画家です。彼はその後ベロルシア、ウクライ ナに行き、一九六七年にもカザン、カフカーズ、アゼルバイジャンを訪れております。そしてそれぞれの印象を、日本の知識層にとって代表的な週刊誌である朝 日ジャーナルに書き、また東京でシベリアを描いた絵の展覧会を開きました。
またもう一人の友人は山崎昌夫と申しまして、日本社会党機関紙局に勤務していますが文学者であり旅の本を出しております。
つきましては、旅行に必要な費用は私たちが負担いたしますが、ヤクーツクに六月か七月の二〜三週間を滞在するための便宜を計っていただけないでしょうか。 具体的には招待状をお送り願えればと思います。私たちが聞くところでは、ソビエトへの旅行にはまず招待状が必要不可欠ということですのでお願いいたしま す。
あなたのお力添えで私たちの希望が実現できれば、こんなに嬉しいことはありません。まずはお返事をお待ちしております。
ご健康と仕事の成果を祈って。

 敬具
長谷川四郎



しかしヤクーツクからの返事はなかなか来なかった。長谷川さんは「なにそのうち来るさ。もうすこし待って来なかったら、山崎昌夫から社会党に話してもらお う」といっていたが、そのようにしたかどうかぼくは知らない。

やがて手紙にかいた旅行の月六月も過ぎ七月になった。この頃から長谷川さんは、前の年の秋におこなった金芝河の芝居、「金冠のイエス」上演のあとで起こっ たアクシデントで、足もとがおぼつかなくなって病院へ通うようになってしまい、ぼくたちのシベリア計画は、招待状の来ないままうやむやになってしまった。

考えてみれば、一九七〇年代というのは、ソビエトではソルジェニツィンの追放、サハロフへの弾圧、ロストロービチ、アクショーノフ、シニャフスキーなどの 出国事件があいついで起き、体制批判派Dissidentyに対する抑圧の時代だった。そしてソビエト文化人に対する、ソビエト政府の抑圧に抗議していた われわれに、招待状は来るはずもなかったということだろう。

やがて七〇年代も終わりに近い一九七九年一二月一日、山崎昌夫が清瀬の病院で死んだという知らせが来た。

長谷川さんは病院へ通うようになったすこし後で、「これは君にあげるから、好きなようにしてくれ」といって、みかん箱三個ぶんくらいの本をぼくに手渡し た。それはベルリンで買った本や、チェコ文学のアンソロジー、キューバ作家同盟で出したカルペンティエールの「時との戦い」をはじめとした何冊かの業書、 「アンガラ」など東シベリアや極東シベリアで出された文芸誌と、何人かのシベリアの詩人たちの詩集、それに一九七〇年から七三年までの、AA作家会議の 「ロータス」などだった。

いまこれらの本を見ていると、それはそれぞれドイツ語、スペイン語、ロシア語、英語で書かれていて、これらの中から詩や散文を訳した長谷川さんの語学力に は敬服のほかないが、病院へいくようになってしばらくしてから、これをぼくに渡したということは、もうこの本たちと付き合うことはないだろうことを、何か が知らせたのだろう。

入院生活のはじまるすこし前、ある雑誌に書いた「チタ」という一文の中で長谷川さんは、捕虜という制限つきだったが、五年の生活を過ごしたチタの町は、自 分にとって「忘れえぬ町」になってしまった、と書いている。一九六六年、ソビエト作家同盟の招待で行ったシベリア旅行のときも、まっさきに行ってみたかっ たのはチタだった。そのとき長谷川さんを迎えたのはグラウビンという詩人だったが、最後に長谷川さんは「私はもう一度、チタへ行きたいと思っている。こん どは前触れなしに行きグラウビンをびっくりさせてやろう。」と書いている。そして長い入院生活のすえ長谷川さんは死んだ。

こうして旅に出ることのなかった三人の小旅行団は、ぼく一人だけを残してどこかへ旅立ってしまった。

いまぼくはこの原稿をワープロで打っているが、すこし前に津野海太郎がぼくに、「ワープロ、パソコン、ファクシミリなど、この情報化の時代に四郎さんが元 気だったら、きっと面白いことをやっただろう。」といっていた。われわれのまわりに急速に張りめぐらされた情報の時代は、きっと長谷川さんの何かを触発さ せたことだろうとぼくも想像する。状況を見て何かをたくらみ、やおら立ち上がって動きはじめるのが長谷川さんだった。

長谷川さんがいなくなったいま、長谷川さんを触発させたであろうこの状況と、誰がどのように取り組むか、これが問題だ。

ワープロのキーを人差し指でボツリボツリ叩きながら、「これはやっぱり俺の使う機械じゃないよ。」といって笑っている長谷川さんの声が聞こえてくるような 気がする。

ところで長谷川さんからダニーロフの年を聞かなかったが、彼はヤクーツクでいまも元気でいるのだろうか。もし彼が元気なら、シベリアがあれほど好きだった 長谷川四郎が死んだこと、長谷川さんが生涯最後に計画してついに実現しなかった、シベリア旅行計画の顛末を知らせたいものである。それからチタの詩人グラ ウビンにも。


異土の傍居にならない人たち  田川律


今月は、律はアメリカへ行き、まち子は引っ越しで忙しいので「ふぁっしょん読本」はお休みを戴いて、久し振りで訪れた「西海岸」の「生活読 本」を少々書くことにした。

72年に初めてアメリカへ行ったのがサン・フランシスコだったせいか、ぼくにとっては、そこはアメリカでの「ふるさと」という感じが強い。日本にいても感 じる「帰って来た」という感覚が、そこにある。それに、そこには数多くの友だちがいて、すでに知り合ってから十何年もたっていて、ついつい「その後」が気 になる。

最後にそこを訪れたのが五年前のこと。その時、あの、多くの若者たちが「骨を埋むるは、あにただ青山のみならんや」と思ってかどうか、やたら「軽やかに」 アメリカへ行った、その若者たちが、ひとつの転機にさしかかっていた。それは、簡単に書いてしまえば、「どうやって生活の糧を得るのか」というテーマで、 日本にいる時に、とりたてて特殊な技能も持ってなかったかれらの誰もが直面したテーマ。

70年代の始めには、それはいともカンタンに見えた。多分に「情報」に振り回されていたところもあるが、まるで、あの国でかつてあった「ゴールドラッ シュ」が再来したかのように、そこへ行ったのだ。「まあ、なんとか生きていけるやろ」と。

そして、たいていの人は「てきや」をやった。かっこよくいえば「ストリート・ベンダー」つまり、青天井の下で手作りの物を売る商売をしたのだ。ゴールドな らぬシルバーを加工して、装飾品を作って、やって来る世界中の「おのぼりさん」を相手に「金」を手にしようと考えた。いや、正確には、それしかなかった。

そして、当時はまたそれでやっていけもした。しかし歌の文句ではないが「なあお前、世の中、そんな甘いものやおまへんで」は、すぐに現実のものとなり、曲 り角はすぐ目の前に来てしまった。

おさだまりの苦痛が、そしてこれまた、それまでも今と変わらぬ「道」がその先にあった。ひがな一日拵えて一個三ドルや、せいぜい十ドルといった物を売るよ りも、もっとてっとり早い「金」の儲け方があるのではないかというわけだ。古くは映画「ハーダー・ゼイ・カム」にあり、最近ではテレビの「マイアミ・バイ ス」に出てくるやつ。わかる人にはわかるプッシャーというヤツだ。

かれら自身もキライではなかったから、それはいっそうカンタンな「道」だった。その点では、それよりも、何十年も前に日本政府の「棄民政策」でそこへ移住 して行った人たちとは、いささか違っていた。同じなのはどちらもが、もはや日本へ帰ることが出来ないということ。もちろんかれら全員がそうだったというの ではない。しかし、五年前にはそういう人がかなりいて「これからどないなんねやろ」と、気掛かりだったのだ。

ゴーシは、そんな中で一番マジメといわれ、ひたすら「てきや」稼業にいそしんでいる。それでも日本をたつ時の連れ合いとは早くに別れた。ふたりいた子供 は、おたがいで育てていた。そのうち、連れ合いのメイはトルコ系アメリカ人と結婚した。五年前にはゴーシは、ほとんど「アル中」寸前だった。「今でも『て きや』をやってるかな」と、真先に訪れたフィッシャーマンズ・ワーフでは、仲間のひとりが、「今日は休み」だといい、親切に家の電話を教えてくれた。五年 前に中がよかったのは、ぼくも知っていた、そのアメリカ人と結婚したという。

「ハイ! ゴーシイル?」
「ハイ! タガワサン、ヒサシブリネ。ゴーシハイマ、メイノトコロニイッテイルヨ。ベビーシッターニ。デンワハ・・・」
「はい、田川さん、今どこ? 今日は駄目だけど、明日はまた売りに出てるから来れば」。

八月のサン・フランシスコは朝どんなにくもっていても雨が降るなんてことはない。午後にはきまって青空が拡がる。風は爽やかで、冷たいくらい。帆をおろし たヨットがところ狭しともやってある入江が、フィッシャーマンズ・ワーフで、ケーブル・カーの終点でもあり、シスコきっての観光名所である。しかし、もう 随分前から、ぼくにとっては、そこは「馴染みの喫茶店か、スナック」とでもいった「場」である。歩道にずらりと並んだ「大通商人」たちは、訪れるたびに顔 触れが変わるけれど、日本のどこかの「祭り」の夜店の「大道商人」たちよりも、身近に感じてしまう。「見知らぬ人々」という気がしないのだ。

いたいた。
十何年間、着る物はそれしか持ってない、というスタイル。黒いジーンズにカーキー色のジャンバー。サングラスにバンダナ。長い髪とぼうぼうの髭。小柄なか れは、アメリカで「オレハ、ニホンノサムライダ」と自分にいいきかせてきたみたいだ。そのくせ、かれほど、他人に優しく、面倒見がいい人は日本でもなかな かいないほどだ。

抱き合い、歳月の容赦ない流れを、互いの髪や顔の皺に認めた上で、誰それの消息を次々に確かめあって、それからやっと、落ち着く。「ゲンが今年大学に入っ たんだ」「え、あのゲンが大学?」「そうよ、もう十七だよ」

財布から大事そうに取り出して見せてくれたスナップには、あの頃の面影などはほとんど見られない、ひとりの若者が写っている。初対面の時、ぼくの足の皮膚 が象みたいに固くておかしいと何度も触った子供とは、似ても似つかぬ「青春の懊悩」をたたえた若者。そしてもう一枚。今度はこまっしゃくれた双子の女の子 の写真。「今五つなんだよ。メイの子だけど、すごく可愛いんだ」。

そのゴーシ、今年四十六歳。五年前に会った時には、ほとんど「アル中」になりかけていたのが、今は酒を止めているという。周りでみんなが飲んでも平然とし ている。

その周りのひとりにシュウチョウがいる。かれもまたストリート・ベンダーのひとりだったが、五年前には「ディーラー」になる危険なところにいたのが、今は JFCという名の日本の食品を取り扱う会社に勤めている。そして、近くアメリカ人と結婚するそうだが、ぼくがずっと逗留していたローレンスの部屋へきて は、かれとふたりんで「おないどし」ということで、意気投合しては「おたがい歳をとった」と妙に感心している。どちらも間もなく四十の大台に乗るのだ。

そういえば、日本人だけでなく、同じストリート・ベンダーのアメリカ人もやっぱりマジメになっていた。夜な夜な、売り場の近くのバーにたむろして、酒を飲 んでおだをあげていたあの頃は、遠い昔になってしまったようだ。ぼくが一番変わらないで「アホ」をしているような気になってしまうほどの、かれらの変貌ぶ りだ。

それは、ある面では嬉しくもあり、ある面では寂しくもある変貌。「堕ちる」ことは悪いことには違いない。いつまでも同じような「アホ」なことをしているの も、これまたどうしようもない。にもかかわらず、それを止めた時になる「マジメサ」とでもいうものが、なにもわざわざアメリカにいてなくてもやれる類のも のだとしたら、という気がしたりする。

「あの時代」に、日本を棄てることさえも、論議の余地はあるだろうが、そしてもはや、かれらは日本に帰っても、日本的な社会生活には適応出来ないだろう、 と思うのだが、結果的には日本にいるのと変わらない「暮らし」の絆にしっかり縛りつけられていく、ということに寂しさを感じるのか。それとも、そんな風に 他人の生き方に干渉するなんてだいそれたことは出来ないのか。抜けるような青空の下で賑やかに行き交う観光客を見るともなく見ながら、そんなことを考えて いたものだ。

「生き方」について悩むには、もう充分に歳をとっているかもしれない。「四十にして惑わず」という諺は そのことを指しているのだろう。悩まなくなってし まうのは、選択の余地がどんどんなくなるからかもしれない。あるいは、ひとつの仕事にまつわるもろもろのことが、多くなってきて、それを処理するのに忙し くて、今更「生き方」のなんのといってる暇はなくなってしまうのかもしれない。

そういえば、もう十何年も前、藤本和子さんがデイヴィット・グッドマンさんと、ぼくの家のすぐ近くに住んでいた頃、井の頭線の電車の中で、和子さんが「わ たしたちの悩みなんか、しょせんはプチブル的な悩みなのよ。明日、生きるか死ぬかの瀬戸際にたたされたら、こんなこと悩んでいられないわよ」と言ったこと を、とても鮮やかに思い出す。その時の「こんなこと」が具体的に何を指していたかは、あまり定かではないけれど、なんか今書いていることに共通していたよ うな気がしてならない。

なんも考えないで、起きて、食べて、寝る、という暮らしと、ぐちゃぐちゃ考えても結局のところ、なんも出来ないで、起きて、食べて寝て、という暮らしに なっているというのの間に、どれだけの差異があるのだろう。「下手な考え休むに似たり」というではないか。それとも、こんなことをぐちゃぐちゃ書くことこ そ「プチブル的」なのかもしれない。

ジョン岡田の「ノー・ノー・ボーイ」という本を読んで以来、アメリカで生きる日本人というのが、いつも気にかかるのだ。日本へ帰れる日を夢みながら、旅費 を作る余裕もない日々に追われ、それはついに夢で終る人たちの物語。なにも日本へ帰らなくてもいいのだが、故郷というものは、犀星ならずとも「帰る所にあ るまじき」点が多々あるけれど、どこかこの小説に描かれているのは「決してこない聖者の日」の歌を思い出させるし、ほかのどんなことよりも「挫折した夢」 の典型のような気がするのだ。

結局、とても感傷的になっているだけのことかもしれない。あとひと月もしたら、忘れてしまうことなのかもしれない。だけど、そう思いながら十年は経った、 という気もする。あと十年経っても、そう思っていそうだ。



走る・その十七  デイヴィッド・グッドマン



私家版ハシル豆辞典
くちばし・り【口走り】口で走ること。また、その人。「口走りの靴底は減らない」
くちばし・る【口走る】走らないのに、走ることについてやたらに喋り、ランニング・ウエアに高額の金をかけたりしていて、いかにも自分がランナーであるか のように見せかける。

          *

ぼくは一日置きに走っている。週に三、四回。一回に四五分から五〇分かけて、およそ一〇キロを走っている。全然走らない人には、長く、遠く走っ ているように聞こえるかもしれないが、そんなことはない。中ぐらいというところだろう。

ぼくよりはるかに長く、遠く、速く走っている人はいくらでもいる。たとえばマラソン(四二・一九五キロ)は距離的にも時間的にも、ぼくには無理だ。まして や、友人がこのあいだ走ったというダブル・マラソン(文字どおりマラソンの倍の距離)はまったく夢のような話、考えただけでも呆然とする。

走りはじめた八一年の時点では、一〇分間走れといわれただけでぼくは腰が抜けそうになった。当時カンザス大学で教えていたが、早朝のジョギング・クラブに 参加してみた。週に三回、朝六時にフィールド・ハウスという巨大な体育館に行き、体育学の博士課程の学生に正しい準備体操や走り方を教えてもらった。

じつにいろいろなランナーがフィールド・ハウスの屋内コースを走っていた。疾風のようにぼくを追い越す二〇歳の娘、家族ぐるみで走っている親子、心臓発作 のリハビリ療法としてゆっくり歩いている老人など、さまざまの人がいた。ぼくはマイ・ペースで走ったが、二〇分以内に三キロを走ったとき、飛び上がるほど 嬉しかった。

ぼくは適当に走っている。走りすぎて怪我をしたり、あるいは走るのに飽きてしまったりするランナーはたくさんいる。最近パーティで、右半身がカサブタだら けになっている男に出会った。話を聞いてみると、砂利道を自転車で走っていると突然鳥が舞い降りて頭をつっ突いた。驚いてころんでしまった、といった。

「だが、そもそも自転車に乗っていたのは、走れなくなったからだ」と彼はくやしげにいった。「毎日休まずに九マイル(一四・四キロ)を走ることにしていた が、膝の関節の中の軟骨をつぶしてしまって、手術をうけたところでさ。乗っていた自転車は女房に買ってもらったやつだった」と彼は隣に座っていた奥さんに 苦笑してぼくにいった。

怪我したり、飽きたりして走らなくなった人は大勢いる。一年ほど前に新聞に載った世論調査はその印象を裏づけている。

「アメリカ人のジョギング熱は、一九八四年のジョガー(ジョギングする人)一八%をピークに、八五年一五%、ことしが一三%と減少傾向にあることがわかっ た。しかも、三十代以下の若いジョガーは、数では最も多いとはいえ、減少ぶりが目立つ。
最近の調査だと、ジョガー一三%のうち、毎日ないしはほとんど毎日走るという人たちは二一%で、八四年の同三四%に比べて大幅減。一週間に一回以下という 人たちは、八四年の五%から一四%へと増加した。ジョギングの距離は三マイル(一マイルは一・六キロ)以下という人たちが三四%(八四年の調査は同三 九%)、二マイル以下という人たちは四〇%(同三二%)で、ジョギング回数、距離ともに減少傾向をみせている。
男性、高学歴、若い人にジョギングは人気があるようで、年齢別では、とくに一八歳から二五歳の若いジョガーが二七%と高い比率。五〇代以上四%と大差をみ せている。地域別では東部の人気が高くなっている。」(一九八六年九月十日『読売新聞』)

ぼくは、とにかく走りつづけたいと思ってきた。走る回数、時間、距離を、怪我をしない、飽きもしない程度に決めてきた。そうすれば、走ったことによる肉体 的、精神的効果を長く保つことができるのではないかと思ったからだ。

レースに参加しないのも同じような理由による。毎年レースの数が増えているような感じがする。八四キロ余りのダブル・マラソンから六キロのファン・ラン (楽しく走ろうレース)まで、だれでも参加できるようになっている。だが、ぼくはいままで一度も参加したことがない。あるレース、たとえばマラソンに参加 することにして、そのために二、三カ月トレーニングをつづければ、ずいぶん効果はあるだろうとは思うが、しかし競争というのはどうも性に合わない。人が決 めたルールに従って、人が決めたコースを、人が決めた時間に、人に急かされて走るのは、ぼくが走っている目的からすれば、およそ無意味に近い。



編集後記

もちろん水牛のために行ったわけではないけれど、アメリカ合衆国イリノイ州シャンペン市の藤本和子・デイヴィッド・グッドマン家をたずねた記念に、ミシガ ン湖のほとりで録音機をまわしてみんなでしゃべってみようかということになった。もちろん子どもたちも交えてである。そして、ミシガン湖では……。うちの 息子は知り合いになった男の子とミニチュア・ゴルフなどやりに出かけてしまって不在。デイヴィッドと和子さんはお客(とはつまりわれわれのこと)の面倒を みるのに疲れたのか、よい天気のせいなのか、ひと泳ぎしたあと、うらうらと昼寝。ヤエルはせっせと私の脚を砂にうめている。突然、オシッコ! とカイが叫 ぶ。両親は寝ている。わたしは脚がうごかない。じゃあ、と矢川澄子さんがカイの手をひいてトイレに連れてゆく。悠治はみんなのいる砂浜からずっと離れた芝 生でひっくりかえって本を読んでいるらしい。だあれも録音機のことはおもいださなかった。
東京に帰ってみると、先月はワープロがこわれて難儀をした津野さん、今月は自分の足が故障して、また難儀をしていたのでした。
で、今月号はちょうど一カ月遅れてしまったことになりますので、9、10月号は合併号にして、来月発行します。シャンペン支部責任編集のページもあり、増 ページ確実です。
室内オペラ「可不可」のチケットは9月15日に発売開始です。12月の一夜を水牛とともにすごしましょう!申し込みはアート・フロント・プロデュース tel 03・461・3172。(八巻)




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