1980年3月号 通巻9号
入力 大河原哲
現代狂言 嗚呼皇室典範御夜継合戦
御経野の子守唄
投稿 信州より編集部へ 志間耕治
詩 永登浦散調 梁性佑
ペトリカメラ保育園訪問記 高橋悠治
〈朝鮮語〉の学び方III 声にひびかせると見えてくる〈ことば〉の世界 李銀子
サトウキビ畑の即興劇 堀田正彦
編集後記
(げんだいぱろでい・ああこうしつてんぱんおよつぎがっせん)
現代社会・文化研究所
登場人物――
ナレーター
おはやし
天皇
大平
皇太子
浩宮
中曽根
美智子
経団連会長
労働組合委員長
民衆
ナレーター(女性、テレビレポーター風スタイル)、ギターを持ったおはやしと二人、舞台下手前に立っている。ナレーター ある日ある日のことでおました。天皇陛下サマが網を持って、いつものように狩りにでかけはったのだ す。
舞台上、誰もいない。しだいに明るくなる。
ギター鳴る。(おはやし、「ユメカシーラ」を歌う)天皇(探検家スタイル)、捕虫網を持って、上手から登場。ナレーター 愛妻家でおます陛下サマは、腰痛で倒れはった皇后サマを元気にしてやろうおもうて、新鮮な獲物を夢中 になって、あちらこちらと捕虫網をふりおろしてつかまえはりました。けどポーズを崩さんと、つかまえはったのです。
天皇 アイヌはとうにとらえてカゴのなか。昭和二十二年には各地を回って、人民をつかまえてもった。朕が国体をま もったんや。勤務評定で教師もつかまえたった。あ、そうそう、昭和四十六年六月二十二日には日韓条約で韓国もつかまえたぞ。高度成長で労働者もつかまえ、 漁村もつかまえ……昭和四十五年も忘れられへん、あの時は学生もつかまえたさかい、それに沖縄も朕のもとに帰ってきよった。一辺戦争で負けたけど、なあ に、朕は不死身やわい。新しい大東亜共栄圏ができよる。さあ、次は何をつかまえたろうか。
ナレーター そんな時だした。ご高齢であったさかいやろ、巌(イワオ)の石につまづいて、苔ですべってひっくり 返ってしまいはりました。陛下サマは腰が痛い痛いというて、捕虫網をかついで、皇居へ帰って行きよった。
天皇、腰をさすりながら、上手へ退場。ナレーター ところは突然変わって、皇居の中のことだす。ギター、鳴りひびく。ナレーター 大平丸の巡航が思わしくなく衆議院の総選挙に負けて危なかったのでっけど、なにかひとつ事を起こさな あかんと思案しもって、大平はんが陛下サマを捜しとおったのですわ。
大平首相(三つ揃)、下手から登場。
大平 うーん、どこかで戦争でもしよらんかいな、やりよらへんかったらわが大平丸も沈没や。アメリカもそうそう頼 りになれへんし、韓国も地響きしとおるし。まあ、あそこは大丈夫やと思うけど、反日運動も激しくなってきとおるし、慎重に事を運ばなあかんな。大平、舞台中央に立って思案気な様子。そこへ皇太子(背広)、ニコニコと登場。そして、にこやかに大平に声をかける。皇太子 あれ、大平はん、どないしはったんでっか?
大平 いや、これは皇太子殿下、ハァハァホーホーヒーヒー
皇太子 ちょうどええ、聞きたいことあるんや。
大平 靖国法案でっか。
皇太子 うん、それもあるけど、成田のことや。成田空港は第二期工事もでけて完成するんやろな。安全になった成田 から飛んでヨーロッパやアメリカに行きたいんや。はよ天皇になって、世界を股にかけな。それには絶対安全な成田が必要なんや。
大平 大丈夫だす。成田完成は時間の問題ですさかい。ギター、大きく響き、皇太子と大平の会話、小さくなる。ナレーター 波乱万丈、疾風怒濤、驚天動地の陰謀渦まく皇居に、じわじわと押し寄せる迅雷の影がひとつ。そうだ す、ほんまにそれは浩宮サマの姿でおました。浩宮(科学実験用白衣)、皇太子と大平の話を盗み聞きするように上手から登場。二人、浩宮に気づく。皇太子 どないしたんや浩宮?
浩宮 うん、それがねパパ、おじいちゃんが倒れよったで。
皇太子 なんやて……? そうか、そら、いよいよわいの時代やな。
浩宮 そうだす、あんたはんの時代だす。皇太子、舞台中央に堂々と立ち、右手を高くかかげる。大平 で、陛下のご容態は?
浩宮 年が年やさかいな、ねえ、パパ。
皇太子 うん、長すぎたんや、あの人の時代は……
大平 皇太子殿下、それでは早速、元号を変える手はずをととのえまひょ。次の元号も決まってまっさかい、国会へ 行ってきまひょ。その方が急務でっさかい。
皇太子 もちろん、その通りや。大平はん、そっちは頼んまっせ。
大平 よっしゃよっしゃ。(手をあげて振る)大平、下手へ退場。ナレーター そうだ、皇太子サマははよ天皇になりとうてなりとうて。ボンクラ皇太子といわれ、結婚式では石を、沖 縄では火炎ビンを投げつけられて、評判がよくなかったさかい、皇太子サマは平静さを装とったど、忿懣やるかたなかったんや。けど、時は急変を告げ、新しい 天下の到来を、皇太子サマは、今、つかみかけはったんだす。
皇太子 親父は二十五で天皇になりよったのに、わいはもう四十七やないけ。このままでは浩宮が天皇になってしまい よる……皇太子、前へ進み出て、ゆっくり歩く。皇太子 浩宮、掃除機を持って来なはれ。
浩宮 へーい。浩宮、舞台奥から掃除機を運びだす。皇太子 ええか、浩宮。これからわいの人民虫のとり方を教えたる。親父は捕虫網でやりよったけど、わいはちゃう で。よーくみとけよ。(掃除機を手に持つ)方法その一、一般民衆虫は、この大きいやつで(畳・床用の幅の広い吸口を掃除機につける)いっぺんに吸いとって まう。(舞台の上を掃除する)方法その二、隅にかくれて不穏な策動をたくらむド虫けらどもは、これで(刀型の吸口をとりつける)しらみつぶしに吸いとった るのや。浩宮、意地悪そうにそれを見ている。皇太子 (掃除機をおいて)息子よ、パパは偉い人なんやぞ。韓国に別荘を買うたる。東南アジアにはプールをつくっ たる。これからはパパの時代や。パパがなんでもやったる。
浩宮 ちゃん!ギター、派手に鳴る。中曽根 陛下が亡くならはったそうで……
皇太子、なおも威勢のいいポーズをとっている。
浩宮、皇太子から離れ、上手に立ち、仕方がない奴だという表情で見ている。
中曽根(軍服)、上手からそっと浩宮に近づき、そして皇太子に話しかける。
皇太子 いや、まだやけど、またどうしてそんなによう知っとんのや?
中曽根 なにしろ情報が早いですさかいな、先のことまで判りま。殿下の掃除機のことまで耳に入っとりまっせ。
皇太子 まだ秘密やんけ、あれは。
中曽根 それは分っとりま。情報が入るのは早いでっけど、こちらのことはひとつももらしまへん。当然だっせ。それ にしても掃除機では音が大きすぎまんな。これからは秘密裏にすべての人民をつかまえんと。その準備は完璧に整っとりまっせ。
皇太子 すぐにでも狩りはできるのけ?
中曽根 もちろんだ。皇太子、浩宮が盗み聞きしているのに気づく。皇太子 浩宮、おとなの話やさかい、あっちへ行っときなはれ。浩宮、再び上手へ。大平 こらこら中曽根はん、情報がはよおまんな。
同時に大平、下手より登場。
中曽根 ハハハハ、簡単だすわ。
大平 ちょっと失礼しまっせ、皇太子殿下と話がおましてな。
中曽根 どうぞ、どうぞ。どうせすぐ私の耳に入りまっけど。中曽根、浩宮に近づく。大平 今、国会に靖国法案をだしてきました。例の打ち合わせ通りだす。
大平と皇太子はひそひそと下手で話しだす。
皇太子 (うなずく)舞台、上手(浩宮と中曽根)と下手(皇太子と大平)の二つにわかれる。照明、両派を交互に照らす。ナレーター さてさて、皇居内は複雑怪奇な色に染まり、ナレーターこと私どもも、陰険に展開する芝居に目をまわす 思い。あれ? 浩宮クンが何やら実験器具を取りださはりました。そうだす。浩宮クンは実は、皇太子サマよりも本当は自分が天皇になる番だと思とったのです わ。それで、それはどうなりまんねやろ……?
ギター、強烈に鳴りわたる。浩宮、実験台を前に出す。いろいろな実験器具をとりだす。浩宮 中曽根はん、わいはおじいや親父とは根本的に違いまっせ。網で獲ったり、掃除機を使ったりなんかせへん。そ んなんではらちがあかへん。これからは中性子爆弾や。これをみてみ、このビーカー一つで人民なんか一発で終りや、全部支配できるで。
その間、皇太子と大平は密談中。
中曽根 中性子爆弾とJCIAのすき間のない情報網があったら、浩宮サマの意のままですわ。ほんまにこれからはミ サイルとコンピュータの時代で……
浩宮 そうやんけ、そやからわいに任せればええんだ。舞台、上手・下手で互いの密談をゼスチャーでする。ナレーター そんな時だした。美智子サマが、それはそれはうつくしうしてやって来いやりました。まるで皇居に咲く パンの花だすわ。
ギター、ロマンチックに鳴りはじめる。美智子(胸が大きくあいたドレス、胸毛がのぞいている。頭に派手なターバン)、上手より浩宮らの背後を通って登場。ボールを 持ち、パン粉をこねている。美智子 殿下、でけましたわ。日清製粉特製の粉《こな》でこねたパンでおます。これさえあれば、ニューファミリー のおひとらの心は完全に私たちのものでっせ。美智子、こねた粉を皇太子の顔に塗りたくる。ナレーター この混乱、この奇怪!(絶叫する)
ギター、激しくなる。
皇太子 天皇になってもうたら、美智子、日本はこのわいに任してくれ。
美智子 あんた、すてき!美智子、皇太子に抱きついて、頬にキスをする。浩宮 天皇にはぼくがなるんや。このメスとハサミで人民の腹をひき裂いたる。最新の化学兵器を使うて、失敗なんて せえへんわい。それに自衛隊がついとおる!
皇太子 いや、わしが平和の象徴たる天皇になって、大東亜共栄圏を平和スマイルで強化するんや。
浩宮 いや、わいがなるんやわーい。
皇太子 いや、わしや。
ナレーター 危機一髪! 風前のともしび! アギャーギャー!突如、天皇が舞台奥から中央へ登場。天皇 死んどらへん、死んどらへん、朕はまだ死んどらへんぞ。ギター、ピタリと鳴り止む。大平 これはこれは陛下、お体はいかがでっか?
天皇以外の全員、態度豹変する。
皇太子 おとうはんの元気なお姿を見て安心しました。またはよ、狩りにでかけなはれ。
中曽根 たいしたことない、との情報がありましたんで、安心しとおりました。
浩宮 おじいちゃん、長生きしてや。日本はおじいちゃんのもんやさかい。
天皇 しいていうたらな、柳に雪折れなしのことわざのように、自然のまま、あまり無理せんことが大事なんや。皇太 子みたいにマイホームの真似してもあかん。浩宮みたいに、ことをあらだててもあかんのや。朕みたいに、自然に、自然にふるまうのが一番や。
ナレーター ところが偶然というものはおそろしいもんでんな、ちょうどそこへ、経団連会長と労働組合の委員長が見 舞いにきよったのです。これぞまさしく偶然の一致だすわ。経団連会長(高級三つ揃)と労働組合委員長(ジャンパー姿)、上手・下手から登場し、握手しながらぐるりと入れかわる。会 長、浩宮側に立ち、委員長は皇太子側に立つ。大平 まあまあ、落ち着きなはれ、落ち着きなはれ。成田空港完成もせまってますがな。靖国法案の成立ももうすぐ でっせ。
突然、音楽「黄金の腕」流れる。
両派、緊迫感に満ち、にじり寄る。
大平、双方の間に割って入る。
天皇 そうや、成田空港の完成や。靖国法案も成立や。舞台奥の壁の草が落ち、成田空港となる。大平 それでは、ただいまより、成田空港を完成させ……
大平、成田空港の完成宣言を行なおうとする。大平の完成宣言の途中で、客席から、「成田空港反対」「靖国法案阻止」のプラカードを持った民衆多数があらわれ、反対を叫び ながら、舞台へかけあがる。
民衆、大平、中曽根ら全員を袋叩きにする。
ナレーターもまきこまれる。
天皇、うまくのがれて、「朕はまだまだ生きたるぞ」と叫ぶ。
――溶暗、幕――
御経野の子守唄
奈良の北川進氏にきく
聞き手 太田恭治
太田 ギターを弾くようになったのはいつから。
北川 高校一年の時。知っている人が岡林信康の歌をうたっていて。
太田 ああ「手紙」とか「チューリップのアップリケ」とか。
北川 そうです。ガツンときてね、やりたい、いうんで安物《やすもん》のギター買《こ》うてきて、ギターいうても 箱かギターかわらんようなやつ。そればっかりです、二年ぐらいやね。(笑)
太田 コード習うて、それだけ練習。
北川 そうそう。手がはれてきてね。根性です。(笑)
太田 自分のまわりの状況を知ってたんで、よけいガツンときた。
北川 うん、絶対そうですわ。僕より一つ年上の子が中心になって、僕の村(奈良の被差別部落小林)で青年部つくろ うとしてね。僕が高一のときに「こい」いわれてわからんなりに行ってたでしょう。だから岡林の歌よけい感じたんでしょう。
太田 みんなたいがいあの歌はくぐってるんやね。
北川 それから徐々に指も動くようになってきたんで、高三のときにグループつくったんです。卒業して、浪人してる 時にまだやってて、そのときはちょうど、八木一男さん(前衆議院議員・部落解放同盟中央委員・社会党)の運転手してたんです。
太田 運動もしてたわけやね。
北川 そうです。それと奈良労音のコンサートで東京のグループの前歌でだしてもうたりしてたんです。
太田 オリジナルもあったわけ。
北川 そこへいくまでにやめました。そのグループは、労音の十周年の式典が奈良ホテルであってね、そこで奈良労音 が採譜した「紙すき唄」(吉野)をうたえいうことになりまして。
太田 奈良労音はそういう活動してはるんやね。
(奈良労音には理想として採譜キャラバンをつくろうという話が四年前からある。奈良は宝庫だから。だけど実際会社休んで泊まりこんでやらないとできない仕 事なので、困難が多い。しかし、そういう提案がたまっていうのでなにかをバネにすすめられる。それが「紙すき唄」であった。奈良労音の吉野の活動家が採譜 して、後藤悦次郎さんがひろうした。)
北川 後藤さんのテープを聴いて、僕楽譜も読んしまれへんしね、耳でおぼえて、グループにもってかえって、女の子 の声なんかいれてやりましたん。だから「紙すき」ってどんなんかぜんぜん知らんと最初は歌うとったんです。でも去年の二月に現地へ行って、寒い時期です、 川の中に入ったりしてね。それからは仕事みせてもらったりして、やっとわかってきた。
なんの因果で 紙すきなろたこんな詞です。それに、
こんなおとろし 商売をよ
見ては楽そで すいては地獄よ
お寺奉公か 紙すきかよ
私ゃ紙すき 汝イカダ乗りよ紙すきはつめたい川でその原料をほぐす仕事やるんですけど、そのとき沖に吉野杉をはこぶイカダ乗りがやってくる。それに声かけるような歌ですね。
同じ水職 つめたかろよ
太田 イカダ流し歌もあるわけ。
北川 イカダ流しは仕事としてはもうない。今ではテープに歌だけのこされています。
紙すきも今は観光化しててね。
太田 こういう奈良労音の地域に根ざした活動があって、北川君の活動のバネになっていったわけ。それと同時的に部 落解放同盟の県連の仕事もしてたわけやね。あの御経野の子守唄との出会いというのはそれから。
北川 御経野支部の中村ハルさんから、全国婦人集会で中村さんが発表せんならん、何を発表するか考えていて、うち の支部にはこんな歌があるんや、そやから、支部にきて採譜してくれへんか、いわれたんです。
仕事おわってからテープレコーダもって御経野へ行ったのがはじめてです。
(御経野支部というのは、奈良県天理市御経野町にある、被差別部落の部落解放同盟奈良県連の一支部である。明治後期から大正初期、百三十戸―現在三百八十 個―あって、自作農がニ、三軒、小作農が四、五軒といったところだった。この苦しい生活のなかでうたわれた子守唄が御経野の子守唄である。)
太田 中村さんたちがうたったのかな。
北川 中村さんはきかされたらしい。
太田 ああ、おぶさる側。
北川 そうです。ですからかなり前です。中村さんは六十歳ぐらいかなあ。
太田 そうすると七十歳位以上の人かな、この歌をうたったのは。それでこの歌の背景みたいなもんは?
北川 ここにそれを説明できるような資料があります。これは、昨年の奈良同和教育研究集会の時に発表したもので、 僕がうたって、婦人部の人たちがジョリ(草履)作りをして、ナレーションとちょっとした寸劇を組み合わせてつくったものです。
太田 へえ、だれがつくったの。
北川 伊藤駿之介さんといって天理大学の演劇の先生です。
『御経野の子守唄』台本
伊藤駿之介編
ギターのソロ(歌なし)B・Gナレーション1 奈良県天理市の一隅に「御経野」という被差別部落があります。その昔、聖徳太子が、お経を納めた お堂があったとかで「御経納」というところから今の地名が生まれたとかいわれていますが、戸数三百八十戸、住民千二百人のこの部落に、いつの時代にできた のかひとつの子守唄がありました。
いまではラジオやテレビの影響で、あまり若い人はうたわなくなりましたが、村で育った中年以上の人は、みんな、この子守唄で大きくなったものです。
ナレーション2
ねんねしてくれ 寝た子は可愛い
起きて泣く子は 面憎《つらにく》い
面《つら》が憎《にく》けりゃ たんぼに棄てろ
起きて出てくりゃ また棄てよ
雨よ降れ降れ 川に水溜まれ
この子流して 花咲かす
私ゃめしたき 妹は子守り
おかんわら打ち 草履《じょり》作り
足が冷《ち》みたい 足袋《たび》買《こ》うておくれ
兄貴ゃもうけたら 買うてはかす
兄貴ゃもうけるまで 死んだらどうする
お前死んだら 足袋ゃいらぬ
私ゃこの家の 濁りの水や
私ゃいなけりゃ 後はすむ
儂が死んだら 誰が泣いてくりょな
墓でカラスが泣くばかり
お前言うの鳥 わしゃ聞くの鳥
山でカラスが啼くの鳥
いたら見てこい 名古屋の城は
金のシャチホコ 雨ざらし
ナレーション1 この歌は、今ではほんとうに、部落の中年以上の人にしか知られていませんが、しかしたんなる子守 唄ではないのです。
お聞きになっておわかりと思いますが、子守唄の中に「ねぬ子の面憎《つらにく》い」という表現の子守唄の歌詞は、他の地方にもあります。たぶん、それは、 子守りの娘が、なかなか寝つかない「主人の子」を早くねかして、一刻《とき》でも早く自分も休みたい……という気持ちを、こうした子守唄にしたのでしょ う。
でも……「御経野の子守唄」は、その歌詞の中に「面《つら》が憎けりゃ たんぼに棄てろ」という残酷な一節があり、「起きて出てくりゃまた棄てよ」という 過酷な表現があります。これは子守唄としてうたわれたものでありながら「この部落」の「差別の歴史」が、生活の歌である子守唄の中に盛りこまれていること を如実に物語るものなのです。
この子守唄の中には、「御経野の差別」の実態が、ありありとうかがえます。
それは、たとえばこんなふうな生活の中の歌だったと思われるのです。
ギター(物悲しく)A おっかあ、おっかあ、またチビが起きたよ。
B それどころじゃないよ。こうしておとうが集めてきた藁を打って草履を作らないと、明日は粉米も買えないよ。
A だって……。
B うるさいわね。おまえも手を休めると、それだけ……草履の数がへるだけさ。さ、早くおし!
A けど、チビだってかわいそうだ。今夜はお乳はやってないんだろ。
B お乳が出ないんじゃ、しょうがないだろ。ああ、いっそ死んでくれたほうがましさ。
A そんな……むごいことを!
B むごいこともいいたくなるじゃないか。私のちいさい頃は、寝ぬ子は「たんぼに棄てろ」といったもんさ。粉米の 汁を飲ませてあるんだ。放っておおき。
A あれ? 雨が降ってきたようだよ。明日もまた、おとうらは仕事があぶれるね。
B 雨では藁も拾えなくなる。仕事があぶれたらに、藁も拾えなくなるとすると……明後日はまた、水だけですごすこ とになるね。
A 水だけでは、またチビが一日中ひもじくて、びいびい泣いてばかりいるよ。
B あああ、いっそ雨がどんどん降ってくれたほうがいいさ。どうせ降るならね。
A どうして?
B 雨がどんどん降れば川に水が溜まる。その水の中に、この子を流しちまえば、その分だけ食いぶちが、助かるって もんさ。花を咲かせることができるってもんさ。
A そんな悲しいこと言わないで。明日は、めしたきの仕事を終えたら、ご主人様におねがいして、おこげのところを いただいてくるから……
B 「私ゃめしたき妹は子守り、おかんわら打ち草履《じょり》つくり」ってわけか。
A 「草履《じょり》」ってのは「草履《ぞうり》」と言うんだって。
B 知ってるよ。「おかん」というのは「おっかさん」という意味もね。この部落の方言じゃないか。
A それよりね、おっかさん。足が冷《つ》めたいんだ。そろそろ足袋をこうてほしいんや。
B 足が冷《ち》みたくても、足袋を買う金もないことくらいわかりそうなもんだ。
A でも、赤ぎれで、足の指が痛いんだ。
B 兄貴がもうけてきたら、買ってはかすさ。おかんだって考えてないわけじゃない。
A 兄貴が金をもうけてくるまでに、うちが死んだらどうするのや。
B お前が死んだら、そのときゃ足袋はいらん。そのほうが、いっそ金がかからんでええわな。
A そんな悲しいこと、いわないで。
B 悲しいこと、つらいことはお前だけが味わってるんやない。私がこの家に嫁にきてから、私は一度だって楽しいと 思ったことはないさ。結局私はこの家の濁りの水だったのさ。
A 濁りの水?
B そうさ。濁りの水だったのさ。つまり食いぶちがひとりふえたって、姑にはいびられっぱなし。いっそ私がいなけ りゃ後はすむって思ったもんさ。それが、この部落の嫁の宿命さ。
A でもね、おっかさん、私が死んだら誰が泣いてくれるだろう。ね、おっかさん。
B さ、誰も泣きはしないだろう。墓でカラスが啼くばかりさ。
A そんなものなの? そんな……
B だって、仕方がないだろ。それが、この部落に生まれ育ったものの宿命さ。そう思ってあきらめないことには……
A どうしようもないってことなのかしら?
B だから死んだおばあちゃんは、よく言ったもんさ「おまえ言うの鳥、わしゃ聞くの鳥、山でカラスが啼くの鳥」っ てね。ただ黙ってグチをきく以外、手はないってわけさ。
A 悲しいな。お金がほしいな。お金が……。
B でも、死んだおばあちゃんは言っていたよ。「一度でも名古屋城の金のシャチホコを見ておいで。あのシャチホコ は金でできているが、雨ざらしだ」ってね。
A つまり……「どんなに金がありあまっていても雨ざらしではね」って意味?
B そうさ。金があったって、金のシャチホコは雨ざらしだって。
A そういって、おばあちゃんは、お金のないことのあきらめをいったってわけね。
B おばあちゃんだけじゃないさ。みんなそういってあきらめてきたんだ。「金のシャチホコ雨ざらし」ってね。
ナレーター1 この子守唄は、そういった生活のみじめさ、悲しさを子守唄に托してうたっているものなのです。いっ てみれば「差別された歴史」の中から生まれた「生活の歌」だったわけです。それでは、この元唄《もとうた》を、御経野支部婦人部のみなさんによってうたっ ていただきましょう。
「御経野の子守唄」(婦人たちによって)ナレーション1 ほんとうの元唄は、こうして「藁打ち」や、夜なべ仕事をしながら、女たちがうたってきたものなの です。この歌の中に、歴史的社会的につくられた悲しくつらい差別の実態を汲みとっていただけたことと思います。
では、最後に、これを現代風にアレンジして「ギターによる語りうたい」を北川さんにおねがいして、しめくくりにさせていただきます。
ギターひき語り(北川さん)太田 こういう新しい創造活動というのは大事やね。それでこの部落、今はどんな仕事が多いいん……
ナレーター1退場し、北川さんのソロで幕。
―〈終〉―
北川 日雇いが多いようです。
太田 僕らでもこういう歌ときどききくわけやけど、これは、友人の山本君ていう大阪の解放運動で、文化活動やって る人やけど、彼がこんな歌について、「子守唄」いうのんはちがうんで、「守子歌」やゆうんや。つまり子を守りする歌やのうて、ちいさな子どもが子守の仕事 をする労働歌や、そやから守子の歌やというんです。それにしても、この詞には強烈な生活が出てるんやね。
北川 そやから、最初ビビッたですよ。
太田 竹田の子守唄はきれいにされてしもてるけど。赤い風船の歌ったのはね。
北川 あれにもあるんでしょう。
太田 そりゃあると思う。解放同盟のだした「兄弟」というLPの中では、四番のとこでは、村のたべたメシのことが でてきてるけど、またも「竹田のモンバメシ」といってね。
北川 商品化されてきれいにされてしまうんやね。最初、御経野の子守唄をきいたとき、強烈すぎてね。きれいに抜す いしようかと思ったんです。でもちょっとまてよ、それやったら意味ないと。
太田 歌をほりおこすのんいやがられるいうことなかった?
北川 ほんとうに婦人部の人々の生活のとこまで聞きだせたか、いうたらもうちょっとできてないと反省はしてます。 けど歌をみんなの前でうたったとき、涙ながしてくれて、僕にいわれんかった部分で思い出されてね。そのとき、やってよかったのだと思いました。支部のおば ちゃんや、その他に寝ている人のとこまでいってね。けどきくたびに歌詞がちがうんや。
太田 ようある、ようある。(笑)
北川 そやから自分で創ろかなとも思ってたんです。でも、そのままにしたから涙ながしてくれたんやと思う。これは 寝たきりのおじいさんにきいたのが一番まとまってて、これにちかい歌をうとうてくれて、それをそのままおこしたんです。
「足がつめたい」というとこあるんですけどね、「足がつめたい」ちがう「足がちみたい」や、いわれてね。(笑)
太田 何歳ぐらい?
北川 八十歳ぐらいかな。
太田 ところで、その近くで同じメロディーでのこってない?
北川 僕は御所市。天理市なんでよくわからんのですけど。
太田 というのは、この種の歌ってメロディーは、よく当時世間でうたわれてたもんとか、どこからかつたえられたっ て場合があるんよ。
北川 そういえば、たたかいの祭り(部落解放同盟中央本部主催・七八年)にでたあと、和歌山県連の人がきはって、 うちにもよくにたのがあるって。
太田 そうやろ。メロディーが伝わってるってこと多いねん。歌詞も一部分だけね。それさぐると、また部落のつなが りがわかってきたりしてね。
北川 これをうたってから、おまえよそでやるけどおまえとこの支部ないんかってよくいわれてね。僕の支部(御所市 小林)の西口敏夫さん(前全国同和教育研究協議会委員長)にきいたんです。そしたらありまんねん。いっぱい。ところが節がぜんぜんのこってへん。西口さん 若い時にオープンリールに録音してあっちこっち持ってあるいたそうです。ところがそのあいだになくしてしもて、今ぜんぜんおぼえてないいうことです。
太田 残念やね。そやけど、えらいね。そんな時分に、オープンリールでとって持ってまわったいうのは、西口さんや からその歌のたいせつさに目つけはったんやろう。尊敬するね。でも、歌詞だけでものこしてたほうがええよ。
北川 歌詞はありますよ。うちの青年が全同盟学生集会で報告しています。
それからね、“この街コンサート”いうんで一年かけて、奈良北部やらまわったんです、労音の主催でね、四十数回かな。あるとき、御経野支部の子ども会がき きにきてくれたんです。それでおかえしに、子ども会の歌を創っておくったんです。
太田 オリジナルもやってるわけやね。
北川 まだまだですけど、それを集団同盟登校の時歌うてくれてね。
太田 ええなあ、そうして運動の中でどんどん生まれてけえへんとね。それで、その“この街コンサート”はいつまで つづけたん。
北川 去年の八月でひとくぎりです。それからも、いろんなとこへは行きますけど。
太田 労音の活動があるからめぐまれてたんやね。
北川 ええ、ところが支部ではまだとりくめなくて、さっきの歌のこともそうですが、村かえってしまうとかたくなっ てしまう部分があってね。青年部長ですから。(笑)かたい話ばっかりするオッサンや、思われとるみたいです。よその支部にはホイホイ行くんですけど、自分 とこなると本能的に堅物になる。(笑)
太田 「オイ、なにしてんや」いうてふんぞりかえっとる。(笑)
北川 子どもにはきいてもらいたいんですけどね。
太田 今後は、やわらかんなってもうてやってもらわんとね。
北川 また、いろんな音楽活動をやっていこう思いますけど、これから定期的に、旅ちゅうか、いろんなとこへ入って いきたいです。それから、うちの村はヘップサンダルの仕事が多くてね。ノリをぬりながらメシ食べる。朝早ようから、晩遅うまで仕事しているオッチャン、オ バチャン、うちの両親もですが、みんな結局ラジオかけっぱなしなんです。ラジオからながれてくる音楽と、いつもいっしょなんです。村の人は、「音楽活動が んばれよ」っていわへんけど、「ラジオに出えや」いわれるんです。ラジオからの音楽が生活の一部分ですからね。そのへん、さみしい思いがするんです。それ と、反面それも必要かなとも思うんです。夜も昼も、ジッとヘップの仕事でしょう。なにかでこたえたいという気がふっとすること、あります。
太田 まあ昔やったら、仕事しながら歌ができたやろけど……御経野の子守唄とかイカダ流し唄とかいうのは、そんな とこから生まれてきてる。そやから、今仕事場でうたう歌をつくるいうたらなんやろね。それがとわれてるんかもしれんわな。
投稿 信州より編集部へ 志間耕治
なんか、ずいぶんとアッサリ、スッキリとした誌面になってしまったなあ、という第一印象で「水牛通信」創刊号を受け取りました。「水牛新聞」の 時は、いろんな記事が、そして紙や文字がワッと並んでいる感じで、ちょっと読みづらいなと思ったりしましたが、今になってみるとあれはあれでなかなか良 かったのでは、と思います。あのつめこみは、編集側の心意気が感じられたし、実際迫力があった。それに、「本」のような、各ページ毎に区切られてしまう形 式にくらべ、一種の視覚的な「カクテル・パーティー効果」があり、読む側に注意力、集中力を自然に要請していた。そしてなによりも、個々の記事、内容を越 えて、紙面に独特な雰囲気があり、そこになにやら新しい世界を感じさせてくれたのですが……。
つまり、「水牛新聞」を始めて見た時「ウン、何やら〈異〉なものがある」とぼくの嗅覚をくすぐった「何か」が、「通信」になって薄らいでしまったという感 じなのです。もっとも、「新聞」の形式は割り付けだけでも大変だったのだろうと推察しますが……。
高橋さんの文章を読んでいてちょっと思ったことを述べたいと思います。
ぼくらは日々にある「場」に生きている。ぼくらの日常の表現は、いつもその「場」に支えられている。それゆえ、言葉による表現にしても、それが一体何を切 り取ってきているかをいちいち証明せずに済んだりしている。
運動の中で生まれた身振りや言葉なども同様ではないでしょうか。その場の気圧の中で始めて息づいている、また、いけるものなのでは……。僕は日本の民衆の 運動も、その中に運動の文化を持っていないはずはないと考えるのです。ただ、運動と文化が密着しすぎていた。それは一瞬流れをとどめて、自らをとらえかえ すこと、外へ向って呼びかけてゆくことを忘れていたということでもあると思います。
「団結しろ!」「たたかえ!」と声高に叫ぶことより、ぼくらの身近に、日々のなに気なさの中にある、ぼくらの真の状況を地道に探りだしてゆくべきではない か。問題は、日常性の中にそれが見えにくくなっていること。そこに光を当ててゆきたい。
先日、長野で「たまごの会」という、農業問題で活動しているグループが自らの手で制作した映画「不安な質問」の上映会を開きました。運動家このように自ら の表現を持ち、全国のさまざまな地の人々と手を結び、自らの運動を紹介してゆく、そして、そこからさまざまな批判を受けたりして、ふたたび自らの運動へ持 ち帰ってゆくことの意義を非常に感じた次第です。この上映会のおかげで、県内的な結びつきも生まれ、市内のいくつかの運動が出逢うことにもなりました。 「水牛通信」も、新しい人々の手に渡すことが可能となりました。そして現在、この上映会を中心的にになった人たちと、新しい動きが始まろうとしています。
泊りの勤務の最中、いくつものTVの画面、ボタンとランプの群の前で、これを書いています。ただ今、23時53分34秒。もうじきNHK教育終了。こんな に遅くまで誰が見ているのか? 民放TVはさらに続く。そして電話は一晩中。コンピューターが明日のプログラムを打ち出してきました。確認作業に移りま す。
(投稿)
詩 永登浦散調 梁性佑《ヤン・ソンウ》
一
君をおもい 私は 目を開き
血を流し 魂を失い 刃先の上に伏して
くさった水 砂場で 子らが泣くと
不吉な雨 風の中に 君は去り
私は 君の足跡に 唇あわせ
愛の歌をうたう
二
だれが 知ろう、
血の涙でなければ だれが知ろう、
隠すことのできない 深い傷あと、
錐のように さしこまれる 終りをしらない 痛みの上に
ああ、私がこらえる数千数万の
夜を
血の涙でなければ
だれが 知ろう
三
やり場のない反骨の私の胸に
杭を打ち
私は鳥のように 小さな羽 ばたつかせ
君の名を呼ぶ
飢えた子どもをおぶい つまずき
そこここの 石ころに ころがりながら
君の 悲しく せつない名を
声はりあげて 呼ぶ
四
君よ、語ってくれ。愛する人よ。
風のまにまに ひとこと 君よ語ってくれ
殻は死んでも 中身だけは死なず
その どこか 雑木林の中に 隠れていると
夢にでも ひとこと
君よ 語ってくれ
五
深い夜 病んだ子どもの 枕もとで
体中に 燃える炎 両手でおさえ
猛々しく 吹きあれる 暴雨のもとでも
かえって野草よりも 長く耐え
死なず やっとの思いで 生きているのは
命より 君を 愛するがため。
六
君をおもう 深い懸念 私の胸を
削ぎ
子らの泣く声 死んだ者たちを 呼びおこすとは
どうしよう。君は来ず。
子らの泣く声
死んだ者たちを呼びおこすとは。
冬鳥 鳴く 夜半の丘の上には
乾いた樹木ばかりだ、
乾いた樹木ばかりだ、
愛する 人よ
七
君の 去った 茨の道
私も行こう。
千年さらされ 寝静まった 土地をあとに
呪詛の海を越え
私も行こう。
不吉な雨 風の中に
愛の歌を うたい、
君の去った 茨の道
私も行こう。
ペトリカメラ保育園訪問記 高橋悠治
東武伊勢崎線、梅島駅にちかづくと、左側にペトリカメラ工場がみえる。灰色の屋根に赤旗がひるがえっているから、すぐわかる。さびれた裏道を高 架線路の下にそってもどる。工場の門にも守衛はいない。がらんとした事務室のとなりの応接室でしばらくまつ。保育園の昼寝時間になって、保母さんの手があ くまで。
中庭のむこうの建物の一番はじが保育園になっている。いつか、もちつき大会にたずねたときは、この中庭に子どもがたくさんあそんでいた。むかしの学校の宿 直室みたいな四畳半に赤ちゃんが二人ねているだけの保育園は、まったく予想とちがっていた。わかい保母さんがひとり、ぐずる子をねかしつけている。
はばたき保育園は、一九七八年五月にできた。ペトリカメラ倒産から約半年。五人の子はみんな0歳児。保母さんは三人だった。
公立保育園は、区によってちがうが、0歳児のめんどうはみない。私立となると月四、五万円はかかる。倒産企業の組合員がはらえる額ではない。工場内保育に ふみきり、一歳以上は公立に送りこむようにした。
こんなことを、ゆりかごをゆすりながら、保母さんがはなしてくれる。戸だなから資料もだしてくれた。保育園運営委員会教宣「はねっこ」の、のこりすくない 何部か。内部用に百五十部ほどつくっていたもの。
七八年度は毎週でていた。おかあさんたちのなかに、ビラつくりの名人がいて、さっさとつくってしまった。十月になって生産がいそがしくなったので中断。七 九年度は、九月と十月に復刊しただけで、いまやまぼろしの「はねっこ」になった。
一号がのこっていないのが残念だが、二号からみていくと、保育園はちいさいが、自主生産のなかで、だいじな位置をしめていることがわかる。
「毎月一千件をこえる倒産が続く中でしわ寄せを受けるのは婦人であり、その中でもパート、子持ちには容赦もない。」(一九七八年六月十四日、二号)
全金ペトリ支部には、女のひとがおおい。くみたてをやっているパートの方は、平均年齢四十代後半。このひとたちが脱落しないでやっていくには、たたかいを 家族ぐるみにすることが必要なのかもしれない。
保育園は独立採算だ。組合に負担をかけるわけにはいかない。カンパをあつめ、バザーをやる。親の負担金は月二万円。行政にも、保育園をはじめるとすぐ、援 助を要求した。
「一、区はペトリカメラ支部の産休明け乳児の保育を保障するため、社内保育所の施設整備費三〇万円、月々の運営費二七万円を直ちに援助すること。
二、区は、ペトリカメラ支部の生後六ヵ月以上の子供について優先的に公立保育園に入園させること。
三、区はペトリカメラ支部の社内保育園に嘱託医を保障せよ。」
区役所にいって厚生部長や福祉課長とかけあった。組合からは副委員長、書記長、子ども三人をふくめた十人がいく。「企業内保育所には援助できない」とか、 「都の労働局にいけ」とか、区の態度はつめたい。都の労政局にも交渉にいき、いくらかよい見通しがもてた。
九月になって、家庭福祉員制度をとりいれることで、はなしがつく。資格をもつ保母がいないから、家庭でよその子を保育することについて、いくらかの援助を もらうのが、いまの制度のなかでの、ただひとつの道だということだ。保母の資格は国家がきめる。教育心理学のようなもの以外、ピアノがひけることも必要。
保育の必要がまずあり、自分たちの力でつくりだした保育園だ。そこに行政の援助を要求することは、まったくただしい。労働する女の存在を社会にみとめさせ ることだし、ペトリの場合、倒産した工場にふみとどまった労働者をみとめさせることにもつながるにちがいない。
要求は有効でもある。じっさいに保育を必要とする子どもがいて、たてまえからいえば、区に責任があるはずだ。自主的な保育はもうはじまっている。既成事実 のまえに、行政は受け身になる。
三人の保母に三万二千円ずつをひきだすためにも、これだけのねばりづよい交渉が必要だった。しかし、保育の自主性は保証されたのではないか。公立保育園を しばっている規定のこまかさをかんがえれば、自力ではじめたことのよさもわかってくる。
嘱託医については、組合かかりつけの医師が、みてくれることになった。ペトリのたたかいを支援している人だ。ふだんは、保育園だけで子どもの健康管理はで きる。ちょっと熱があって、ふつうの保育園では家へかえす子も、ここではあずかってせわする。あたりまえのようだが、制度の枠にはいった保育では、めどう な子どものせわはしないし、できないしくみになってもいることをわすれてはいけない。
「はねっこ」をひろいよみし、はなしをきいているうち、子どもたちがおきてきた。四ヵ月のまいちゃんは、ひっきりなしによだれをたらしている。歯がかゆい のか。しかし、歯があったっけ。六ヵ月のまあちゃんはきげんがわるい。天井からひもでさげたあみのようなものにいれて、両足が床にとどくようにしておく と、ひとりではねて、やっときげんがなおった。このしかけは輸入品で、デパートでかったそうだ。ほかのあそび道具は、みんなカンパされたもの。
ただ一人の男の子が、となりのベッドのあるへやからでてくる。やすくん。一歳近い。あるけるし、片言もしゃべる。はめこみつみ木であそぶ。ちえのはじまり だ。
この三人が今年の全員。昨年の五人はみんな、公立保育園にいった。三人だった保母さんも、いまは一人。週二回の夜間保育のときだけは、おかあさんたちがて つだいにくる。
夜間保育は五時から七時半まで。これは、保育園のはじめからやっている。工場のしごとのあとでの集会などに、おかあさんたちが出席できるのも、そのおかげ だ。ここには、公立にいっている子どももみんなくる。小学校一年生が最年長だということだ。組合委員長の息子だが、委員長はこの工場にはたらく男たちのな かでは最年長者で、それでも三十代のなかばだ。あとは二十代と十代の少年たちだから、全体の印象がわかいのもあたりまえだ。女の人たちはパートのなかに六 十代の人もいるらしい。女の平均年齢の方が上だということになる。これもふつうの職場とはちがうことではなかろうか。
一人で三人の幼児をみるのはたいへんだ。森さんは、それをなんとかこなし、片手では記録をとっている。三鷹の保育園にいたときに、ペトリのことをしって、 支援するようになった。保育園がはじまったときは立川に住んでいたから、朝八時二十分にペトリにくるためには何時におきたことだろう。いまは、この近所に ひっこした。畑がのこっているような立川とちがって、ここはまったくの下町だ。くらし方もちがう。
三時半。おかあさんたちがきて、授乳の時間。授乳といっても、補乳びんからのませるだけ。やすくんはビスケット三枚とバナナ一本。コップにいれた牛乳には みむきもしない。
おかあさんたちのおしゃべり。話題になっているのは、デパートの大安売りのチラシにでているホットカーペットというもの。しごとがおわって家にかえると、 床がつめたい。石油ストーブをつけるあいだに、足をあたためたい。たぶん、あまりひろくない家に、そんな間にあわせの機具がひしめいているところが頭にう かぶ。
これが下町のくらし方だろうか。子どものころ、東京のこの辺で雑貨屋をしていたおじいさんをたずねたことをおもいだす。店につづいた一間の家はガランとし て、皮ジャンがくぎにひっかかっていた。それをきこんで、オートバイにのって、ハナをすすりながら、おじいさんは配達にゆく。ふるびた家なみのなかに、最 新の小道具がちょっとだけあるのだ。三十年も前のことだ。
授乳時間は三十分。朝十一時半にもあり、これは昼休みとつながっている。
四時すぎ。男の子がひとりはいってきた。道のむこうの私立保育園から、おかあさんがつれてきたのだ。「ぼくのおうちも道をわたったところ。」三歳。紙ヒ コーキをつくって、それをとばしはじめる。それから二時間も、この子はそれだけをやっていた。
五時すぎ。ドラエモンの絵かき歌がきこえてくる。五、六人なだれこんできた。夜間保育の日だ。てつだいのおかあさんたちがくる。
保母さんは、闘争委員会にでるので、かえる。赤ちゃん二人も、おかあさんがつれてかえる。ねんねこにしっかりくるまって。
おおきなへやにちいさなストーブがはいる。ここは一番保育園らしい。室内すべり台があり、ブロックがあり、子どもの絵がかべをかざっている。
ブロックにのぼったり、おりたり。男の子たちは紙ヒコーキをとりあって泣く。そのさわぎのなかで、絵本をじっとみつめている女の子がいる。
いままでのちいさいへやはかたずけて、食堂にかわる。
六時、夕ごはん、カレーライス。みんなよくたべる。おかわりする子どももいる。 おかあさんたちは、工場内保育は子どもが近くにいるから安心だ、という。この子たちにしても、親のしごと現場に、すくなくとも週二回あつまることの意味は おおきいだろう。ふつうの保育園では、親は子どもをおいて、どこかへ消えてしまう。子どもは親がはたらいていることの実感をもつことはないだろう。
この保育園での集団生活は、ほかの保育園のように子どもだけの世界ではない。おかあさんたちといっしょに、生産の場の空気がながれこむ。労働者の子として の階級教育は、自然にできていくだろう。
争議団で保育をやっているところは、ほかにしらない。台東区の全逓東京貯金支部では一九五三年からあって、ペトリからも保育園初期に交流をもった。しか し、最近の倒産企業では、食堂をやっても、保育園をやったはなしはきかない。ペトリの労働者がわかく、カメラ生産と同時に、マルクスのいう人間の再生産も おこなわれているなかで、必要になってきたこともあるだろう。
ここが下町工場だということもある。家と職場は近く、工場内保育は、店のおくに子どもをねかしておくのと、そんなにかわらない。
保育園があることで、行政の目からもペトリ労働者が「存在している」ことは、もうかいた。保育園は、工場と地域をむすぶものでもある。資金づくりのための バザーは、地域にひらかれた工場の窓になる。
地域をまきこむことで、争議団はやっていける。下町工場ではあっても、カメラをつくるペトリの場合、地域ぐるみの運動をつくるのは、カメラ販売ではないだ ろう。カメラは部分生産を下請けにたよる技術集約産業であり、技術開発にのりおくれたことが、ペトリ倒産のきっかけのひとつだったはずだ。
ペトリは争議団でありながら、生産をつづけている。このかねあいはむずかしいところだ。生産が安定すれば、運動としてはどうしてもパターン化するだろう。
保育園は、安定した生産体制を保証するためのものにみえるが、じつは運動としてたえず活性化しなければ生きのこれない部分ではないだろうか。初期の「は ねっこ」は、当時の熱気をつたえている。なれない保育にとりくみながら、外にもどんどんでかけ、保育園運営とペトリ闘争はひとつになって発展していた。 「はねっこ」は子どもたちをまきこんだ闘争日記だった。それがだんだんと、ふつうの保育園でだす連絡帳のようなものにかわってゆく。保育にもなれ、生産体 制もととのってきたころには、「はねっこ」はまぼろしの存在になっていたのだ。
何もしないでいれば、工場の片すみにある保育園は、わすれられそうになる。昼間はたった三人でも保母さんはもう一人はほしい。取材にいって、はなしをきく というより、子どものあそび相手をしながら、そうおもった。これは保育園というよりは、保育運動であるべきだ。はばたき保育園は、その名のとおり、はばた いていなければ、とべない鳥になってしまう。
争議は十年かかったとしても、一時的なものだ。争議団は勝利した日に解散する。だが、勝利とはいったい何だろう。団結以外に保証は何ひとつなかったあのあ らしのような日々にあじわった解放感をうしなわないことが、ほんとうの勝利ではないだろうか。
資本主義のなかで、労働者の自主生産が永続することは、まずありえない。いつかは、「解決」の日がくるだろう。闘争勝利は、その意味では敗北とよべるかも しれない。それが二歩前進のための一歩後退であるように、運動の速度をおとさずに、その地点をのりきれるかどうか。
はばたき保育園は、来年度には五人はいる予定だときく。人手も必要だろうし、バザーもひらかなければならないだろう。四月はもう近い。はばたく時だ。
〈朝鮮語〉の学び方III 声にひびかせると見えてくる〈ことば〉の世界 李銀子《イ・ウンジャ》
(ハングル多用のため掲載を省略)
サトウキビ畑の即興劇 堀田正彦
六、“バゴ・クリスト”
「実践教室」の参加者の年齢には、十四歳から三十四歳までとかなりの幅がある。職業も、農民、プランテーション労働者、漁民、家事手伝い(失業中)、学校 の先生、聖職者などなど、きわめて多様である。しかし、聖職者と学校の先生をのぞけば、職業の差は貧困という大きな圧力の下でほとんど目立つことはない。
このひとたちは、自分たちの属する協会の「教区」を代表して参加している。国家の行政組織の最小単位が「バランガイ」と呼ばれる部落(都市では町内会にあ たる)であるとすれば、「教区」はカトリック教会によって組織された最末端の生活単位である。
フィリピン国民の九十四パーセント近くがカトリック教徒であり、民衆の日常生活を律する強力な背景として教会が存在していることはすでによく知られてい る。そのフィリピン社会に、マルコス大統領の「新社会」建設のための行政単位である「バランガイ」と、伝統的な生活単位である「教区」とが並存していると いうことは、取りも直さず、民衆生活のレベルに政治と宗教という対立し合う二つの権力構造があるということだ。
カトリック教会は、本来、民衆の現世からの超越をこそ司るべきものだ。だが、八年間にわたる戒厳令下の独裁政権のもとで、増大に増大を重ねてきている諸矛 盾は、教会そのものをも、グイグイと現世の直中に引きずり込む圧倒的な力として働いている。
たとえば、世界銀行や外国資本によって「安定」した投資環境づくりをせまられたマルコス政権は、新人民軍鎮圧を目的とするフィリピン全島の「軍事化」を進 行させている。この「軍事化」に伴い、各地で民衆に対する暴行・虐殺が頻発している。軍隊の暴力に追われた民衆を公然と援助できるのはバチカンを頂点とす るヒエラルキーに支えられた教会以外にはない。しかし、その教会ですら、先進的な神父、尼僧の逮捕、拷問という真正面からの弾圧を受けることが多くなって きている。ここにおいてフィリピンのカトリシズムは、自らの宗教としての本質を問い返す形でのきびしい試練に立たされているといえる。つまり、政府=軍隊 の抑圧に抗して、貧困と暴力にあえぐ民衆を現世の直中において救わなければならない、社会正義を現実に体現する機能を政治にかわって果たさなければならな いという緊急の課題を背負わされているのだ。
「教区」を預かる神父たちが、その最前線に立つことになる。軍隊によって拉致された農民の探索。虐殺に抗議する葬列デモの組織化。インチキな政府の農民組 合に対して、農民自治の協同組合を結成させ、運営を指導し、資金を援助する活動。あるいは、理想の共同体の建設を目ざして、農民とともに密林を開墾する若 い神父など。各地の状況によって、それらさまざまな活動が行なわれている。そして、それらの最前線で活動する聖職者たちは、進行する抑圧によって、よりラ ディカルな方向へと向いつつあるように思える。
この動きは、第三世界に芽生えた新しいカトリシズムという形をとり始めている。「解放神学」と呼ばれるそれは、抑圧者の宗教としてこの地にもたらされたカ トリック教を、被抑圧者の側から取り戻し再生させようとするラディカルな運動として、とくに「地方」において活発化している。
ある若い神父は、
「全カトリック聖職者の三十五パーセントは、われわれのこの運動の側に立ち始めていますよ。しかも増えつつある」
と語っていた。
「実践教室」において上演されたある即興劇は、この「解放神学」が生み出した新しいキリストの姿を余すところなく伝えている。
この即興劇には次のような課題があった。
〈フィリピンの民衆劇の伝統的な形態を模倣しながら、題材としては自分たちが現在直面している問題を取り上げること〉
ここでいう「伝統的なフィリピン民衆劇」というのは、〈シナクロ〉、〈サルスウェラ〉、〈コメディア〉という三つの劇様式のことである。〈シナクロ〉は十 七世紀のスペイン人が持ち込んだ「住民教化」のための宗教劇である。キリストの生涯の一場面を荘重に演じるもので、現在でも年一回、四月の感謝祭の期間中 に各地で上演されている。〈サルスウェラ〉はスペイン歌劇のフィリピン化したもの。千九百年代のアメリカ統治時代には「反米」のメッセージを反スペインに 置きかえて演じ、民衆に圧倒的に支持された歴史がある。〈コメディア〉はその名の通り民衆喜劇である。これもスペイン統治時代の演劇形態が大衆劇化したも のである。
この教室では、民衆に馴染み深いこれらの劇様式を、現在の地域文化活動の中に復活させ、利用していこうという積極的な意図で前記のような課題を提起してい るのだ。
「解放神学」の精髄を見事に即興劇化したのは、〈シナクロ〉を課題として与えられたグループだった。
〈シナクロ〉の主役はもちろんイエスである。イエス役の俳優は、巷間に流布している伏し目がちで、細面の、ひ弱そうなイエスの似顔絵とそっくりの、スペイ ン系混血《メスティーソ》の二枚目でなくてはならない。内容的には、さまざまな苦難や迫害をじっと耐え忍ぶイエスの気高さを示す逸話が題材になっている。 “右の頬を打たれたら左の頬を出せ”ということばそのものがテーマなのだ。
「解放神学」では、この“耐え忍ぶ、ひ弱なイエス”に象徴される超越的忍従こそ、三百年の植民地支配の歴史の中で、支配者たちがその支配を貫徹するために フィリピン人に押しつけ続けてきた作為的な教義であると批判している。〈シナクロ〉は、まさにそのイデオロギー教育の道具そのものなのだ。
この、いわば征服者の道具をつかって、闘う民衆のための芝居を作れという課題を与えられたグループは、まず、徹底的に〈シナクロ〉の様式を模倣することに した。
彼らは、白いシーツや黒いカーテン、果てはミサ用の金襴の布を借用して、ローマ時代のユダヤの衣裳を見事にこしらえあげた。
だが、劇のすじ立てが全く違った。
主役は貧しい農民の夫婦である。この夫婦が父祖伝来の土地を、勝手に登記をし所有権を主張する金貸しに乗っ取られてしまうことからこの劇は始まる。夫婦は 裁判官に訴え出るが、裁判官は文字すら読めぬこの夫婦の所有権を頭から認めず、二人は土地を取り上げられることになる。取られた土地になお居坐り続ける農 民の所へ、金貸しが軍人を連れて現われる。立ち退きを拒む農民は、軍人によって無残にも虐殺される。
この劇は、ギリシャ悲劇を思わせる荘重な調子で演じられたのだが、この虐殺のシーンを演ずる時、彼らは、ローマ軍人の服装をし短剣を持った登場人物に、 “ダダダッダダダダッ”と機関銃の口真似をさせて、農民を撃ち殺させるという演出をこらしたのだ。
〈シナクロ〉風の荘重な様式の中に、突然登場したこのシーンは、思わず息を飲むようなリアルな衝撃を、われわれ観ているものたちに与えた(この劇に限ら ず、参加者たちが演ずる軍隊の暴行・虐殺のシーンには共通して、リアルな衝撃力がある)。
埋葬のシーン。悲嘆にくれる妻の前に殺された農夫が、手に剣を持ち再生する。彼は自らを“イエス”と名乗る。
「私がイエスだ。暴虐の弾丸に射ぬかれた農夫は、ここに剣持つイエスとして再生した。圧制の前に立ちすくむ貧しきひとびとよ。頭を上げ、わたしを見よ! わたしはお前だ。わたしはイエス。闘うお前だ!」
再生した“バゴ・クリスト”つまり新しいキリストは、手に持った剣で軍人の胸を刺しつらぬき、自らの家族と共同体を守るために、いつでも闘う用意のあるこ とを厳かに宣言してこの劇は終わった。
その時だった。
バタバタと喘ぐようなバイクの音がして、誰かが「教室」の建物の中に入ってきた。
「芝居を止めて!」
という金切り声がした。リーダーのひとりだった。皆、緊張してバイクの乗り手の方を見た。
M16を肩に背負った兵士が、バイクを止めて「教室」の中を覗き込んでいる。
皆がゴクリと息を飲むのがわかった。
この施設の責任者の神父が表に出て行ってその兵士に語りかけている。
リーダーのひとりが、緊張をほぐすように屈託のない声で、
「さあ、みんなで歌をうたおう!」
と呼びかける。「教室」の中は、たちまち流行歌の大合唱になった。
「あの兵士は、この裏の家の息子でね。休暇で里帰りしたらしい。」
神父が汗を拭きながら戻ってきた。
多分、大丈夫ということになってホッと緊張がゆるむ。だが、その夜の他の劇の発表は大事をとって中止することになった。
外国人のぼくには、彼らの緊張と心労がはたしてどれだけ深いものか、かならずしも理解できたとは思わないが、それから二日ほど、リーダーは外を見張ること をやめなかった。
この劇を演じたグループは、参加者たちの中でも、特に軍隊の暴虐行為の激しい地域から来ているひとびとだった。そして、登記証明をしていなかったために土 地を追われる農民の話は、まさに彼らの土地で現実に起きている問題だということだった。
もちろん、このラディカルな劇はそのままひとびとの前で演ずることはできない。しかし、〈シナクロ〉と全く同じスタイルで演じられるこの劇が、いつかの感 謝祭の日、どこかの教会で、さり気なく演じられる可能性はきわめて大きい。
その時、この劇は確実に、計り知れぬ力をもってひとびとの心を解き放つかもしれない。“バゴ・クリスト”は、フィリピンのひとびとの中をすでに歩き回って いるのだから。
編集後記
二月十七日(日)日比谷公会堂で行なわれた「はたらく者の音楽祭」(日音協主催)で「工場のともしび」が上演されました。韓国の東一紡績の女子労働者たち のたたかいをえがいたミュージカルで、これは「水牛新聞」第5号に脚本が掲載されています。
雑誌と呼ぶにはささやかな「水牛通信」ですが、おかげさまで第1号は残部わずかとなりました。読みやすくなったとの声も耳にしますが、いかがでしょうか。(J)
2号の訂正。3ページ下段4行目「二回ほどで完成した」は「二日ほどで」の誤りです。「嗚呼皇室典範御夜継合戦」は大阪の現代社会・文化研究所の人たちに よって実際に上演されたものです。年に一度開催されるその祭りでは天皇のでる寸劇が恒例になっています。
雑誌はふつう取次店を通して書店にならびますが、それをしない「水牛通信」には別の方法が必要です。あなたの回りに読者をひろげてください。「水牛」を 売ってみよう!という人を探しています。5部以上送る場合には送料を編集部で負担、10部以上だと10部につき1部さしあげます。連絡を下さい。(M)