|
カラワン回想録2――解放区でのカラワン ウィラサク・スントンシー
水牛楽団のページ
水牛音楽教室のおしらせ
サンパウロのスラムのなかで モトムラ・ノブコさんにきく
ベラウの海と人 松原明美
他人の物語と自分の物語 津野海太郎
編集後記
一九七六年一〇月六日、闇夜の中、私たちを乗せた乗合用小型トラックは「独裁制」という名の道をひた走っていた。私たちの車の前後をコンケン大学生バンド 「黄色い鳥」のメンバーたちがオートバイで護衛してくれていた。彼らは危険地域を無事脱したところで、私たちに手をふって帰って行った。
私たちはすべての危険な場所を無事通り抜けて、夜中の二時頃ルーイ県ルーイ市に着き、そこで腹をいっぱいにし、一人一箱か二箱のタバコを買って再び出発し た。深い霧で道路がまるで見えなかったので、運転手は車の外へ首をつき出して見なければならなかった。約二時間ほどで車は左へ折れて、でこぼこ道に入っ た。そのまま進んで森につきあたって道のなくなるところまで来てから、私たちを案内してきた人が、とある一軒の農夫の小屋に私たちを連れて行ったのだっ た。この小屋は部落の他の家からは大部離れていたので、どんなにいい目でも見える心配はなかった。
翌日の早朝この小屋の持主は私たちに御飯を炊いて鶏や魚を煮て食べさせると、この辺の農夫たちがやって来て顔を合わせることにならないうちに、森に連れて 行って、私たちが日中は身をひそめているようにとりはからった。夜になるとまた戻ってきて小屋で寝るのだった。私たちはこのようにして三日間を過した。最 後の晩は小屋の後の竹やぶで寝ていたが、夜中になって犬が吠えるので私たちは、「森の人(コン・パー)」が迎えに来たのであろうと察した。まず私たちの前 に現れたのは女性兵士で、縦横ともに大柄でM16銃を握っていた。彼女は近づいてくると私たちと握手であいさつを交わした。「コームチャイ」楽団モットは 思わず声をあげた。「ヒェー、女性でこの大きさじゃ、男ならどうなっちゃうだろう」と、言い終わらないうちに緑色の軍服を着たやせた小柄の男が近づいてき て私たちにあいさつしたので、私たちは笑いをこらえきれなかった。彼は荷物をまとめて出発の用意をするようにと言った。私たちを迎えにきてくれたのは女性 一人と男四人ほどのグループだった。最初の晩は隠密行で靴をぬいで歩かねばならなかったし、話し声をたててもいけなかった。一番きつかったのはタバコを禁 じられたことだった。シャツも白や明るい色のものをぬいで暗い色のものに着替えた。道路を通る時がもっともどきどきした時である。月夜の晩はあまり緊張し ないで気を楽にしていられた。目的地に着く前に、スアモープの薮のトンネルを通り抜けねばならなかった。それはうまく目隠しになっていたが、腰をかがめて 入らねばならない。私たちは髪を長くしていたのでずっと頭を下げたままで通らねばならなかった。ようやく泊まる所に着くと、私たちを先導してきたやせた小 柄な人は、ハンモックから起き上がってきた森の兵士に言った。「新しい同志が着いた。歓迎してほしい」この言葉が終るか終らないうちに男も女も一斉に出て きて私たちの手をとって歓迎してくれた。
朝は夜明け方に起床だった。ここに私たちより前からいる人の話だと、今いるところは「タップ」(小屋)と呼ばれる仮設拠点で、いつでも移動できるとのこと である。つまりここでの仕事がすむか、「シアラップ(秘密がもれる)」すなわち農民に見つかったり音を聞きつけられたりした際には、急きょ移動しなければ ならないのである。それであかりや音には細心の注意を払わねばならなかった。
はじめのうち私たちは一日三回食事をとっていたが、他の同志たちが朝夕二回しか食事をしていないのを見て心苦しく思い、私たちも同じにすることに決めた。 二、三日するとそこで集会が開かれた。人は少なかった。彼らは私たちに一〇月六日に起こったことを語ってくれるようにというのだった。私たちはだれもその 日はバンコクにいなかったので、十分な説明をすることはできなかったにもかかわらず、彼らの涙をさそい、野火の如く燃えあがる憤怒に火をつけたのだった。 ただしこの場所が人家から十分離れた場所とはいえなかったので、誰も大きな声を出すということはなかっただけである。
空き時間には政治学習が始まった。いわゆる民族民主革命についてである。それから森へ連れていかれると隠してある銃を取り出して、銃の組み立てから、立っ て撃つ、坐って撃つ、伏せて撃つといった基本姿勢の練習から始めた。私たちに渡された銃は古いしろものでカールバインとかイートゥープ(PLYB88)と いった。この最初の拠点での滞在は短いもので、私たちは間もなくまた夜の行軍に出発した。今度は兵士としての訓練でもあり、それまでと違ったことは寝る場 所を自分たちで作らねばならないことだった。家を建てるのではない。屋根といっても木と木の間をひもでつなぎ、ゴム製の布をその上からかぶせるのである。 その布の四つの角にも細いひもがつけてあり、それぞれを近くの枝に結んで張ればこれで切妻風屋根の出来上がりとなる。ベッド用にはテトロンかもう少し厚い 布なら一〇〇パーセントのウェスポイズでもよい。人によっては傘用の布地が軽くて薄くて良いともいう。端を二〜三インチ縫っておく。ナイロン綱またはパラ シュート用綱で布の両端を縫い、その綱の両端は体重に耐えられそうな木に結びつけるのである。まちがってもバナナの木などにゆわえつけぬことだ。雨がひど い時は直径一インチくらいの木を切って、支柱を二本立てて、雨水がハンモックに全部流れ込まないようにする。私たちがハンモックで寝た最初の晩は、私たち が横になるとびりびりばりばり大きな音がして何枚ものハンモックが破けてしまった。友人が買い入れてきた布地が古すぎて弱っていたので、体重の重さに耐え きれず真中から裂けたのだった。そこで私たちは自分で繕わねばならなかった。森の中で生きていくには針と糸は、ナイフとライターについで重要な生活用具で ある。この「タップ」では水の供給に問題があった。ただ雨がまだ降っているので、小さい池を掘って貯水用にした。これで水浴も飲用もまかなった。水浴の際 はピドン(注1)の底を使って水を汲むのだ。飲料用にするには一度煮たててから使った。(池を)掘るときに段をつけてはあったが深くて急だったので、下り るたびに皆よくすべったものである。
何日かここにいる間に学生が三、四人やってきた。男子学生も女子学生もいた。それでささやかな歓迎会をすることになった。夕方農民が犬を一匹持ってきてく れたので、私たちは生まれてはじめて犬の肉のローストしたのを食べた。解放軍の少年兵が食べようとしないので私たちは「おや、同志は犬の肉は食べないのか い」ときくと、彼はかぶりをふりながら、田舎訛りでこう言った。「食べると遠吠え《ホーン》するようになる」私たちは皆一瞬呪われたような気分になりあい た口がふさがらなかった。冷汗を流している者もいた。その時笑いながら一人がこう言うのだった。「食べると暑く《ローン》なるって言ったんですよ」みんな の笑い声がようやくひとつになって高まった。学生たちの歓迎会は夜になってから持たれ、まず一〇・一四の英雄たちへの追悼から始まった。バンコクから来た 学生たちはタマサート大学での流血事件をつぶさに語ってくれた。誰々は逮捕され、誰々は殺されたといった消息も。「ガンマチョン」楽団の女性歌手ニタヤ・ ポーティカムバムルンも殺されたらしいということだった。最後に全員で「黄色い鳥」を合唱して閉会とした。
この「タップ」には二〇日間いて、その後雨期明けを告げる大雨の中を出発した。夜行軍して昼間は身をひそめて休んだ。なんといってもモンコン・ウトックは いたましかった。私たちの疲労度、消耗度を比べてもだれも彼に並ぶべくもなかった。彼の足は一本だけしかなくて、あとの一本は義足だからである。森へ入る 前に彼はグラドゥン山に登って、可能性を試してきて大丈夫であると確信していたのではあったが、このあたりの山はグラドゥン山より低いとはいえ、いろいろ なものが生い繁った道なき道であり、時にはずるずるすべったり、ぬかるみであったりするのだ。危険を察知した時には急いで窮地を脱するため走ることもあ る。しかし彼は走ることは不可能だった。だから私たちが止まって彼を待たねばならないことが多かった。
私たちが背中にしょった荷物は、先輩の同志たちの荷物に比べれば軽いものだった。彼らは自分の持ち物の他に米とその他の必需物資をすべて背負っていたので ある、ある地点では私たちは夜が明けるまでに川を渡らなければならなかったのだが、雨が降り続いたあとで岸まで水があふれており舟もみつからなくて、その 夜は近くの田んぼの作業小屋で休んだ。翌朝私たちが立って舟を待っているところを、通りがかった舟の上の人から見られてしまった。このあたりは政府軍支配 地区(ホワイト・ゾーン)なので危険がいつ迫ってくるか分からなかった。(それで舟がくると)私たちは大急ぎで二往復して荷物ともども川を渡りきったの だった。対岸には村があって、この村からもできる限りはやく立ち去らねばならなかった。なぜなら私たちのその時の力では身を護るのも不十分なくらいで、と ても正面から対決などできるものではなかったからだ。それに私たちの出会った住民がもう報告に及んでいたかもしれないのだ。私たちは山すその道を人をさけ ながらひたすら歩いた。食事もとらずに三時間も歩いただろうか、モンコンは失神してしまったのでハンモックに乗せて運ばねばならなくなった。プータイ族の 同志は急きょ近くの農家から米を分けてもらってきて炊いて食べさせてくれたのだった。
それから七日かかってようやくわりと安全な地域にたどり着くことができた。目的地に近づくほど私たちの体力はどんどん低下した。私たちより先に着いていた 学生時代からの友人(注2)がここまで出迎えにきていてくれた。この先まだ数時間を歩き続けてついに私たちは人民解放軍の拠点に到達した。彼らは整列し て、私たち新米者に歓迎の歌を高らかにうたってくれた。我らは四方の地方より集い来たり
この山中の森で生活を共にす
故郷あとにし 渓流のほとり
ひとつの信念のもとに
…………この歌は私たちが目頭に熱いものを感じて聴いた最初の森の歌だった。私たちは彼らと握手を交わしながら彼らの列の前を通りぬけ五分ほどでキャン プ地に着いた。
ここはひとつの民衆工作隊のセンターにもなっていた。歓迎行事はいままでと同様だった。彼らは林や薮になったところにかたまって住んでいた。ブルーやピン ク、黄色の屋根が見える。つまり市場から仕入れてきたゴム布の屋根とか、洗濯した布が干してあるのだ。
翌朝早く起きるとまず便所をさがしたのだが、彼らは行くべき方向を指さしたうえで穴を掘る鋤を渡してくれた。その場所へ行ってみると二尺《ソーク》間隔で 延々と草や土が新しく掘りかえされた跡がついているのだった。
朝九時か九時半に朝食をとる前に少年兵や農民出身の若い活動家が小屋の前に集合して政治学習が始まった。以前から解放区入りしていた学生や知識人がリー ダーをつとめた。ここで教科書にしていたのは、赤い表紙の「毛沢東語録」か、彼らが「総合的真理」と呼んでいるものだった。農民出身の兵士は一般的にあま り政治学習を好まなかった。ある者たちは意見を述べるように言われると、先生にさされて答を言わされる生徒のように、「毛主席に賛成です」と答を逃げてし まうのだ。それで政治理論問題での意見の表明は、ほんの少数の弁のたつ人間の独壇場となっていた。そしてこのことは、宣伝によって人びとの心を容易に操作 できる情況ともいえた。
その日の夜は最初の日よりももう少し正式な「新しい同志」の歓迎式が行われた。広場には薪用の竹が束ねて置いてあった。夕食がすんだ後で式が始まった。竹 の竿にハンモック用の布を張ったものが幕である。幕の真中にはスローガンが二枚の赤旗とともにはりつけてある。一枚の旗は星、もう一枚はハンマーと鎌であ る。式は党の旗と解放軍の旗に敬意を表わすことから始められた。それに続いて一〇・一四―一〇・六の英雄および人民戦争のさなかに命を落とした無名の英雄 たちに哀悼が奉げられた。そのあとはこの地域の指導的機関の代表者の歓迎演説が続いた。内容は、生命を捧げた英雄を賞讃しそれに続けということ、武装闘争 への参加を歓迎しこれが唯一の「正しい道」である、と述べた後、CPT(タイ共産党)の栄光を讃えたものだ。曰く、党の方針が正しかったことは明々白々で あり、故に多数の参加者を得てきた。無から有へ、弱者から強者へと今日まで成長をとげてきたのである。それから都市にいる人間も含めて名ざしで修正主義と 日和見主義を攻撃し、ソ連の考え方をフルシチョフ以来修正主義であると非難し、国際情勢の分析に入って、インドシナでのアメリカの敗北と地位の低下につい て述べたあと、国際情勢を分析して、タニン内閣がもちこたえられないのは明白である、という。そして最後に「既成の公式(スート・サムレト)」(注ア)す なわち「今日の状況は、我々のすばらしい成果で……」という結論で結ぶのである。それからあとは各単位を代表する者からのあいさつがあった。どれもみな最 後は「タイ共産党に栄光あれ!」をとなえた。それから握りこぶしを頭上にふりあげ、「栄光あれ、栄光あれ、アメリカ帝国主義は滅亡せよ! 反動政権は滅亡 せよ!」を三回となえると、握りこぶしを下に向けて圧しつぶすしぐさをするのだった。
プログラムの最後は余興だった。皆が一番楽しみにしているのはこれだ。とくに若者たちはそうだった。竹を切って積んだキャンプ・ファイアに火がつけられ た。司会者は私たちにラム・ウォン(注イ)の先導役を指示した。(踊りの輪に加わらない一団は)周りに坐ったり立ったりして囃子方をつとめる。楽器がたっ た一つあった。彼らが「グラルム」(注ウ)と呼んでいた太鼓である。これは一ガロンかそれ以上の石油が入っていたポリバケツで(現在のその役目は水汲バケ ツである)、竹をうめこんで作ったスタンドの上に置いてあった。ピドンの底をシンバルの代わりに使えば違った音を混ぜることもできた。太鼓をたたくばちに そのあたりから木のきれっぱしをさがしてきた。歌は、マイクもPAもない生の声だ。ラム・ウォンの歌はほとんど皆がいっしょにうたった。それが終ると司会 者が、そこの部隊に出てきて歌をうたうように言った。すると兵士たちはかけ足で集まり整列し、リーダーの音頭で「十箇条の規律」をうたい始めた。「革命兵士は覚えておくこと、
タイ人民解放軍の十箇条の規律、
第一条、 何事も司令部の命令に従って
行動すること
…………………………はじめの部分を聴いただけで私たちは「えっ、こりゃ中国の歌かい、タイの歌かい」とつぶやいてしまった。兵士の一人が言うには、「毛語録の歌と 呼ばれています」とのことだ。このあとはまたラム・ウォンだった。今度はラム・ラオ(注エ)でモーラムではなかった。ラオスの踊りと歌で、とても陽気で楽 しいもので、リズムもタイのラム・ウォンとは違うのだ。後ろへ下がったりぐるっと回ったり、踊れる人はとてもかわいらしく踊っている。しかしいったいどう して男と男、女と女を組まして踊るのか。何曲うたってもリズムもメロディーも全然変らないで、歌詞だけが変わるのである。それで私たちはこの種の歌を「一 つの節に一〇〇の歌詞」と呼ぶことにした。タイのモーラムにしてもここでうたっているのは、たとえば「ムアン村の郡長」のような古いものをうたっている。 その他にも「古舞(ラム・ボラーン)」というのがあって、これを踊るのは中年の人たちかそれぞれ責任ある役職についているような人たちである。私たちは移 動の旅をもじった寸劇をやってみせた。
この基地には一〇日足らずしかとどまらず、私たちは学校建設のため出発した。と同時に、新たに入ってくる学生の一団を待ってもいた。私たちは一人に一袋ず つ米の配給を受けた。粉袋と呼ばれている木綿袋入りで、これを運ぶのに第一日目はへとへとに疲れてしまった。米を入れてある納屋は大変近かったにもかかわ らず、である。学校を建てるとはいっても、これといった建築資材があるわけではない。運動をするための運動場をきり拓き、その辺の竹を伐り出して長いのや 短いのやベンチを作って、それにすわって勉強ができるようにするのである。寝るところは土の上だ。ゴム布をしいてその上に寝ればいい。霧でぬれたくない者 はゴム布で例の屋根を作ればいいのである。
この政治学校開校には、CPTはかなりの数の活動家を投入した。医者、看護婦、炊事係、雑役係、教師見習いなどがいた。監督役は兵役を退いてきた兵の一団 があたり、野菜や魚など見つけてくる役もつとめた。いくらも待たないうちに都市からの学生や知識人の一団が到着した。私の記憶ではウィチャイ・バムルン リットとスカンヤー・パタナパイブンがいっしょにいた。その中に一人長いもじゃもじゃあごひげをはやしたシータウ(注3)という男がいて、私にグルントー ン〔タバコの名前〕を一本差し出した。私たちはとても話が合った。彼の最後の職業は影絵芝居の巡業で、ちょうど一〇月六日の事件のさ中、彼は影絵で政府批 判をやっていて逮捕されそうになり、森へ逃げてきたのだった。それ以前に彼がやったことのある仕事は数えきれないほどある。かえるをとって売ったり、漁師 をやったり、徴兵されて兵士になったこともある。投獄されたことは一〇回以上になる。一般的にいって、CPTは個人的な話、たとえば家はどこにあるとか、 名前とか、以前の仕事とか、誰とつながりがあったかなどについて話すことを許さなかった。CPT指導下で森の生活に入った者は、自分の名前をまるっきり変えなければならなかった。一〇・六以降森に入ってきた学生や知識人についていえ ば、政治思想と関係あるものか、「太陽を象徴するようなもの」たとえば、ラウィー、タワン(太陽)、ウタイ(日の出)、セーン(光)など、または「たたか いのあり様を表わすようなもの」たとえば、ムン(意思)、ブック(拓く)、ハーン(勇気)、グラー(雄々しい)、武器と関係ある名前、たとえば、アー カー(AK)、ラブート(爆弾)など、もしくは「山とか重々しく安定感を感じさせるもの」、たとえばプー(山)、ヨート(頂)、シラー(石)、マンコン (安定)などといった名前をつけることになった。農民たちでどんな名前にしたらいいか思いつかない者は「毛語録」を開いて、カティ(格言)、ウィジャーン (批判)、ウィパーク(批判)、プラーサイ(あいさつ)などという言葉をとっては名前にした。インディアなどと国の名前をつけたものまでいたのだ(ひょっ とするとインドの映画やインドの音楽が好きだったのかもしれない)。看護婦のある者は薬の名前に慣れていたので、クロフェン、とかマイシンとか名づけたり した。ある者たちは社会一般で行われているような普通の名前のつけ方をした。そして私たちといえば、それとはまた違って他の誰とも同じにならないような名 前を選んだ。たとえばスラチャイは彼が家で飼っていた犬の名前をとって自分の新しい名前にした。
全員が揃うと、新しい班が決まった。私とスラチャイは同じ班、トングラーン・タナーとポンテープ・グラドンチャムナーンが同じ班で、モンコン・ウトックは 別だった。学習が始まる前にまず文献の準備があった。毛沢東語録の他に「林彪を駁す」といった類の文献、それからもっとも奇天烈なものは、うすっぺらな本 で「毛沢東思想で鍛えられた新しい人間」というものだった。私はこのような文献を「政治的スーパーマン」と呼ぶことにした。これらはほとんど全部中国で印 刷されたもので、私たちの学習用にはCPTの印刷センターが謄写判刷りにしていた。毛沢東語録と比較してみれば、いずれも同じ胎から出た双生児といえるよ うなものだった。
七六年一〇月からほどなくして、政治家、学生運動指導者、労働運動指導者の何人かは武装闘争参加の決意表明をタイ人民の声放送を通じて行った。私たちにも 同様の決意表明をするようにとの要請があった。この件では反対したのは私一人だった。
この最初の学校には何日もいないでまた移動しなければならなかった。次の場所は谷あいにあって川が何本も流れていた。ちょうど冬にむかっていて寒くなった ので、たき火をすることが重要な仕事となってきた。私たちはそのつどたきぎをたくさん集めておかねばならなかった。薄い毛布しかかけるものがなかったのだ から。毛布といってもほとんどが綿布で軽くて薄物だった。
寝る場所は班毎で、初めの頃私はスラチャイといっしょだった。軍事教練のための兵士もいっしょだった。彼は私たちと同年輩の若者だった。政治学習の講師の 方は六、七歳年上で、彼がこの学校の校長で管理責任者でもあった。学校のプログラムは一五日以内で終了するようになっていた。朝は五時半に小鳥の声で起 床。約一〇分かそれ以内で身支度して整列して体操する。私のように早起きが苦手の者もいた。もっとゆっくり寝ていた方が力が出る感じだった。私たちは毎晩 遅くまでパイプ(大麻用のパイプのような竹の円筒である)タバコをすって話しこんでいたのだった。朝はそれぞれ班毎に分かれて学習した。九時には全員そ ろって食事をする。食卓はだいたい腰の高さで竹でできていた。食事は立ったままでする。いつでも戦闘に出られる態勢にあるためだ。厳格に考えている者は食 事中も銃を肩からかけたままだった。ここにはどんぶりや皿はない。ゴム布を広げてその上にもち米を置く。どんぶりの代わりには大きなサーンの木の幹を使っ た。二つに割って中をくりぬいてゲーン〔スープやカレー類〕やナムプリック〔唐辛子や魚で作るタレ類を〕入れるのである。非常によく食べた料理にポンバク フンというのがある。どんなものかというと、パパイヤを煮て唐辛子と塩(ラードもナムプラー=魚醤=もなかった)をまぜ、水をたしてよく煮たものにもち米 をつけて食べるのである。もう一つは魚のかんづめ入りパパイヤのゲーンである。主な材料はまず水がメイン、その次がパパイヤ、魚のかんづめは最後である。 食事が一日二回という習慣に慣れない者は、たいていもち米のいぶしたもの(カーウ・ジー)をかくして持ってきた。蜂の巣くらい大きいのを持ってくる者もい た。
政治学習で強調されることは階級闘争と革命の話だった。なんといっても重要なのは「党について」である。社会の分析についてはだれも真剣に話さなかった。 CPTは毛沢東主義がすべてについて真理であるとみなしていたからかもしれない。この政治学校には「苦難を物語る」という慣習があった。その日は冗談を 言ったり、大声で話したり笑ったり、歌をうたったりにっこりしてもいけなかった。なぜなら階級について学んでいるところだからである。
まず各班毎で語り合い、それからその班でもっともつらい経験をした者が全員の前で話すのである。いずれにせよ、彼らはこの地区でもっとも「悲惨な人間」と いうのを見つけてくる。そして「階級愛にめざめた人間」と呼ぶ。この日の食事は「苦難の食事」といって、米にバナナの木のしんをまぜてたいた味のないもの で、これを食べた者は涙とともに階級的苦難を決して忘れないためであるという。
けれども貧しい農民たちはこれを喜ばなかった。なぜなら彼らはもうすでに十分つらい生活を味わってきたと考えていたのだから。時には苦い味をつけるため に、キニーネを入れてあることまであった。週一日二日は米の運搬と野菜や魚をとるための休みがあった。
学習を終了すると終了式があり、余興もあった。これには他の機構や軍隊からも出席者があった。学生たちはリケー、ラコン、ラムタットなどいろいろなスタイ ルの芝居を見せた。スラチャイが演出した新しいスタイルの芝居もあった。話の内容はほとんど一〇・六を扱っていた。
CPTには「女性戦士(ナックロップ・イン)」という劇団が一つあった。武器をとって踊るバレーのようなものだ。芸術性という点からいえば、まだあまり高 度なものとはいえないしろものだった。私たちは楽器を持ってきていなかったが、ピン〔東北タイの弦楽器〕が一つあったのでラム・ウォンをうたうことくらい はできた。
ここを卒業した後、それぞれがどのような隊に配属されることになるか分からなかったのだが、最終日にその発表があった。私たちもついにばらばらになるわけ だ。トングラーンとポンテープは中央軍に、スラチャイは地方軍に配属された。私とモンコンはひき続き学校をやっていくための講師グループに入れられた。私 たちの生活もそれぞれの任務と任地により変わっていく。私たちのいた政治学校では二回生が入って来た。モンコンは少年たちに政治を教えることになった。私 は職業学校生と農民の子どもたちを教えることになった。こうしてそれぞれに人間関係がひろがっていった。スラチャイはゲリラ部隊の一つに入れられたのだ が、ほとんどが一五、六歳以下の少年たちで、指導官がやさしい人だったので大変な腕白ぶりだったという。私ははじめて病気にかかった。赤痢だった。
私は兵役を逃げているという非難を受けた。幹部の医者もそれを証明した。それ以来私と彼らは出会っても顔を見合わなくなった。私たちは新たに小屋を建て た。私とナウィンがはじめに行った。雨が激しく降っている中で、ナウィンは竹を切り倒して小屋を作った。私は穴を掘って竹を運んだだけである。この頃スラ チャイの奥さんとポンテープの奥さんがやってきたので、彼らも別々の小屋に住むようになった。モンコンとトングラーンも私の小屋のすぐそばに小屋を作っ た。それでここは音楽の練習センターと化した。ちょうど八月になるところで雨がひどかったので、皆歌を作る余裕が十分できたのだった。私はしかし一曲も作 らなかった。詩をひとつ書いたがそれもなくなってしまった。この時書かれた歌はほとんどが既成の公式(スート・サムレト)にとらわれた作品だった。その中 でまともだった歌はモンコンの作った「ローンパーブン(注4)」だが、党幹部は機密保持に問題があるとして放送を許可しなかった。モンコンのもうひとつの 歌「街よ(ムアン・ルーイ)」も同様の扱いを受けた。この頃楽団はメンバーがふえていた。ピンを弾くナウィンとケーン(笙)を吹くガックである。それから 地方の音楽とモーラムをうたう時にはサラが歌手として参加した。かつて抜きん出ていたスラチャイの役割はずい分少なくなってきた。地方の音楽を演奏するこ とがふえ、彼はこの方面はあまり得意としていなかったのである。
党が次に指示してきた学習は「党の八大注意について」だった。しかしだれもあまり興味をしめさなかったし、うんざりして動物狩に行ってしまった者も多い。 スラチャイはとくにそうだった。彼は演奏でも自分の作った曲の時以外はあまりすることがなかった。八月七日(注オ)、すなわち党の創立記念日に次ぐ重要な 記念日が近づくと、この日のために皆が歌を作り、毎日練習に励んでいた。けれども私たち自身の友情にはひびが入り始めたのである。ひとつには党の執行部が 規律にこだわりすぎるからでもあった。毎日歌の練習をするのだが、歌手と曲の演奏を合わせるのが一苦労なのだった。私のように楽団を結成することに反対 だった者も、実際やるだんになれば手伝わなければならなかった。身体を使う仕事ではないから疲れたとはいえなくても、非常に神経がはりつめていた。しかし 党はいつも、「政治思想」という魔法のランプのような万能薬を持ってきて私たちに飲ませるのである。実際はすべてを治すことなどできはしない。私たちは友 を求め、理解してくれることを望んでいるのだ。それで学習や批評や自己批判のやり方は速成の感をまぬがれなかった。心をこめてやっていないのだからどれだ け根づいたか分ったものではない。
一定期間の練習を経て八月七日がやってきた。歌のバックでダンスを見せるやり方を採用するようにすすめたのは私だった。彼らの踊りはうまかったし、品位が 落ちるようなものではなかったので、私は見苦しいとは思っていなかった。けれどもこれは旧社会のファッションであると批判されてしまった。ところが彼らの ラムプルーン(注カ)ではダンスを見せるのである。これについてはだれも何も言わなかった。教宣になるようなことは党の執行部の各段階で一切監督した。弱 い点をとりあげて発表することはいけないとされた。軍全体が欠点だらけであるような印象を与えるからであるという。司令のみがあって反論は許されない。こ の時の行事以降私は政治儀式には一切加わらなかった。演奏がある時以外は与えられた任務を忠実に果たした。私はまた髪をのばし、ジーンズをはくことにし た。どんな重要な党の行事の時にでも、である。私の中の反抗心と探究心とが再び顔をもちあげ始めた。スラチャイはといえば、彼もうかぬ様子をしていた。彼 は毎日動物を追っていた。そしてだれともつき合おうとしなかった。あげくのはて腸チフスにかかり、目だってやせていった。その頃の私たちは歌の練習も思う にまかせなかった。スラチャイが治って間もなく今度は私がマラリアになってしまったのだ。演奏する時には支えてもらってやっと立ち上がる有様だった。
一〇月に入ると私たちは北部へ移動するという知らせを受ける。この地区のCPTが送別会を開いてくれたが、以前私と対立した執行部は参加しなかった。私の 心はますます彼らから離れていった。一〇月一四日には記念集会が開かれたが、この時には私たちが遠くへ移動することが確実となっていた。スラチャイはそれ で新しい歌「赤い太陽の下の長い旅路(ドゥーンターン・グライ・タイ・タワンシデーン)」を作った。彼は幸せな時つらい時を問わず、たえず歌を作っていら れるのだ。たとえどんな状態にあっても、心がおもむくままに歌にすることができる。モンコンは義足をやめて松葉杖を使うようになったので、前より早く歩け るようになった。この時の集会を最後に何人もの友人たちとわかれなければならなかったが、私たちが遠くへ出発することを知っている者はごく少数だった。秘 密にされていたのだった。集会のあと私たちはこの地区の司令センターである「タップ」に戻った。この地区の軍事面での責任者がいっしょだった。道に迷って しまったので着いたのは夜七時過ぎになった。モンコンは後のグループにいたのだが、私たちが見つからず、あまりにも長いこと飲まず食わずで歩いたのでまた 気を失ってしまった。彼は空腹になりすぎると倒れることがあった。
ここに二日ほど泊まった後、約三日の道のりの次の地区へ向けて出発した。荷物はどうしても必要なものだけにしぼった。衣類を入れるバーロー(注5)とギ ターである。私はそれにモンコンの義足をギターに結えつけてかついだ。彼には荷物を持たせないようにしていた。山菜とりやゴムの木をさがしに分け入って来 る農民に姿を見られないように歩かねばならなかった。私たちの前には前衛部隊が先導していた。今回はじめて森に入ってきた時と違って米の袋を各自が持っ た。二,三日分の米を入れた細長い袋で、肩からぶら下げるのである。この時通ったところは今までより大分高く上ったので景色が大変すばらしかった。着いた 地区に私たちがそれまでに行ったことのあるどの地区とも違っていた。着いてしばらく休むと最初の日の夕方にはもう公演することになった。ここはいろいろな 作業班とゲリラ部隊が集まって任務の総括をし、戦闘訓練をしていたので人口が多かった。私たちが着いてすぐ米が底をついてしまったので、実りすぎのとうも ろこしを一晩中ゆで「ゲーン・タレー」(水ばかりの中にバナナの幹のしんが少しばかり浮いているもの。バナナの木もほとんど食べ尽くしてしまっていた)と いっしょに食べた。コショーに似た香りのする木の皮が香料として入っていた。これを一日に二食するのである。三回小便すれば空っぽになってしまう、とある 者が言った。
森でさがしてくる食べ物には猿の他に野ねずみがあった。川の魚をとるのはむずかしくなっていた。人が多いのとずっといるせいである。大変な生活だったが夜 は楽しかった。レックという女性歌手は兵士慰問の歌をうたい続けて声がかれてしまった。私たちはここでは休養をとっていてよかったので、森へ入っては動物 をとった。ある時私とトングラーン、スラチャイそれに年輩の戦士とである木の下で寝ていた。その木の実は日除け猿(注キ)が好んで食べるものだったが、そ の夜その同志は日除け猿を一匹撃ち落とした。これをあぶり焼きにしてとうもろこしと食べたが、実にうまかった。その翌日はそれぞれ別々の方向に行き、私は 手なが猿を一匹見つけたのだが、非常に高いところにいて待てど暮らせど下りてこないのである。それでしびれをきらして撃ったが当たらなかった。スラチャイ も何もとれずに帰ってきた。以前彼はやせざるを撃ち落としたことがあるが、死んでいなかったので追いかけて首をしめて殺したのだった。一度に鳥を二羽も 撃って私が唐辛子いためにしたこともあった。この日はトングラーンが小さい手なが猿を一匹撃ち落とし私がかついで帰った。何もとれなくて、ひきがえる七、 八匹つかまえて帰ったこともある。ちょうど出会った農民(注ク)がもち米とプララー(注ケ)を分けてくれた。この時ほど米のありがたみをかみしめたことは ない。
私たちが再び出発する際に、私、スラチャイ、トングラーン、ポンテープと別の隊の兵士たちとでこっそり夜村へ入って買物をした。ずい分危険なことをしたも のだ。私たちの方にも戦力はあったのだが敵側との遭遇はなかった。買い忘れてならないものはタバコと甘いものである。農民の一人は餞別にと、私に米と大麻 の包みを渡してくれた。その夜私たちは一晩中歩き続け、夜も明けかける頃ようやく休むことができた。私たちが森に入ってちょうど一年が経過していた。私と スラチャイは、たいてい近くにハンモックをつって寝た。私が一人でハンモックをゆらゆらさせながら横になっている時に、彼は私の耳もとでギターを鳴らして いたものだ。それでできた歌が、「ゲリラ部隊の夜明け」である。このころは私たちカラワンのメンバーだけで歌の練習をしていた。それでかつてのカラワンの 演奏スタイルを思い出して懐かしく思った。あのころのテープを持ってこられなくて残念だった。このころ作った歌でまだ知られていない歌のひとつに「赤い太 陽の下の長い旅路」がある。この歌は一人ずつが独立してひくことのできるものだ。
今度の部隊の兵士たちとは大変親しくなった。私が親しくなったのはまだ一六歳で、以前はバスの車掌をしていたのだという。なぜか皆からあまり理解されてい なかった。私たちはそれぞれのグループから離れて近くで寝ることにした。彼は私に寝床を作ってくれて、私たちは毎晩ゆでとうもろこしをかじりながら遅くま で語り合ったものだ。党はあいかわらず情勢は優勢であると発表していた。
ここにもそれほど長くはとどまらずまた出発しなければならなかった。私たちの身うちの女性隊がやってきた時には、党は部隊によって私たちを監督させた。再 びわかれる時には、涙と別れを惜しむ声とが満ちあふれ、いつまでも耳をはなれなかった。私たちは道を急いでいたが、休みもとらなければならないのでけっこ う時間をとられた。谷をわたり野を越えるまでにも二日を要していたし、細心の注意をはらう必要があった。他のグループがすでに見つかったことがあったので ある。ついに最後の危険地区も通過し終えた。メコン河が近づいてくるにつれて、私たちの胸も次第に高鳴るのだった。歩く時は一列縦隊だったから、先頭から の命令が途中で違って伝えられることもあった。最後の部分では道路を歩いていて、車の来る音がきこえたので、まるで砂漠の盗賊のように一斉に走った。そし てついにメコン河畔に立ったのだった。モンコンは肩車で舟まで行った。私たちを迎えにきていたのはラオス軍のサンパンだった。政府軍の連隊駐屯地二ヵ所の 間を通って行くのだ。舟を出すまでに相当の時間をとってしまった。メコンの流れは激しく岩が多い。私たちの舟は大きな岩のひとつにあわやぶつかりそうにな り大波をかぶったが、なんとか方向を変えることができた。月夜だった。この夜私たちはメコンを渡りきった。そこからは車でひた走った。流れのうずまく淵 や、返す波がずっと見えていた。
この先私たちの前途に何が待ちうけているのか知る者はなかった。(次号につづく)原注
(1) ピドン ベトナム語で水筒のこと。底を多目的に利用する。食べ物を盛るどんぶりのかわりに用いたり、香辛料をつぶす石臼のかわりにもなり、水浴用の水汲桶 のかわりもつとめる。
(2) 学生時代からの友人 ナコン・インタニンのこと。一〇・一四革命当時の学生運動指導者。彼は一九七八年初頭待伏せ攻撃のさ中戦死した。ここに哀悼の意を奉 げたい。
(3) シータウ 彼も待伏せ攻撃の際に命を落とした。ここに哀悼の意を奉げたい。
(4) ローンパーブン ウドンタニ県内の村の名前で一九七四、五年ごろ政府軍側に全村焼打ちされた。
(5) バーロー ベトナム語でリュックサックか背のうのこと。
訳注
(ア) 「既成の公式(スート・サムレト)」 解放区から戻ってきた人々を中心に最近よく使われるようになった言葉で、日本語ではドグマとかステレオ・タイプと呼 ばれるようなことがらに対して使う。
(イ) ラム・ウォン 男女がペアになって輪になって踊るタイのフォーク・ダンス。
(ウ) グラルム 片面の太鼓。
(エ) ラム・ラオ ラオ(ラオス)式のラム・ウォン。モーラムは東北タイ調の歌謡でやはりラム・ウォンを踊る。
(オ) 八月七日 一九六五年八月七日最初の武装闘争を記念する日。
(カ) ラムプルーン ラム・ウォンのための歌謡のひとつ
(キ) 日除け猿 flying lemurももんが、むささびに似ていて木の枝から枝へ飛びまわる。
(ク) 農民 タイ語はモアンチョンで解放区内の農民(人民)をさす。
(ケ) プララー 熟鮓のようなもの。川魚を米と塩でつけこんだもの。
(注「カラワン回想録」は『カラワン楽団の冒険』として出版されました。水牛の本棚にあります。)
二月二十日にタイからモンコン・ウトクがやってきた。それから毎日のようにカラワン楽団の歌やジット・プミサクの歌の練習。水牛楽団はじまって以来こん なに練習したことはなかった。八時間もやっていた日もある。片言のタイ語と身ぶりでいっしょにくらす日々。かれのピン(タイ東北部の三弦の楽器)と歌にい つもの編成で二月二十六日(金)に「バンコクの大正琴」(中野センター)。タイの歌のほかに、日本のものとして林光の「ソングブック」を水牛楽団と作曲者 がうたい、いっしょにタイにいった中川五郎が自分のバンドと参加して、歌ばかり二十曲以上もあるにぎやかなコンサートだった。これで都市シリーズは終る。 三百五十人。
三月六日(土)日本音楽協議会の「はたらくものの音楽祭」のなかで、「音楽のひろば」として、ポーランドの歌、林光の第2ピアノソナタ「木々について」、 ブレヒト・アイスラーの「おふくろ」。共演は水木陽子、竹田恵子。七日(日)には「大音楽会」でポーランドの歌と、モンコン・ウトクといっしょにタイの 歌。
三月六日(土)、NHK・FMの三時間ドラマ「ショパン」のなかで、ポーランドの歌を何曲か演奏。
三月十五日(月)、NHK・FMのラジオ・ドラマ「家族の声」の音楽。主演、沢田研二。
三月十九日(金)、日比谷公会堂六時半。「境界線上のメッセージ」。共演は加藤登紀子と坂本龍一。
三月二十七日(土)、日仏会館二時半。「国について・歌について」コンサート。主催は、「国家を考える会」。出演は林光、小室等、水牛楽団、高史明、田中 克彦。
三月三十一日「みなと」コンサート。身近でたのしい音楽会、中野駅南口の喫茶店みなと、午後八時。ギターの丸山真治と、林光+水牛楽団。食券つき二千円。
そのほか土本典昭「南からこんにちわ」の主題歌を作曲録音する予定。
四月十日(土)、新座市の武蔵野文化センター(東上線志木)でポーランド音楽祭に参加。六時から二時間半。共演は水木陽子。六時前にペンデレツキの音楽に ついての映画が上映される。
四月十八(日)、西武スタジオ二〇〇。ブレヒトの詩「時代錯誤の行列」についてのシンポジウムに福山敦夫(歌)、高橋悠治(ピアノ)、吉原すみれ(打楽 器)がパウル・デッサウがその詩に作曲した作品を演奏する。
四月二十四日(土)、宇都宮「仮面館」七時。ポーランドの歌など。
五月十二日(水)、水牛音楽教室をはじめる。くわしくは次のページ。
五月十七日(月)、中野文化センター、七時。「光州5月」。ゲストは林光、高橋アキほか。地下出版された韓国抵抗歌集を中心に、尹伊桑の「歌楽」、林光の 「光州5月」、高橋悠治の「高銀詩集」。六時半から映画「自由光州」を上映する。協讃は韓民統。
人々のくらしのなかから生まれ、ひそかに歌いつがれる生きるためのたたかいの歌、これらの歌に耳を傾け、口ずさみ、学ぶ、そこから私たちの生活を考えなお す。第1期のテーマ
5月12・13日――(1)序論「アジアのいなかの音楽」 高橋悠治
19・20日――(2)タイ「生きるための歌」 福山敦夫
26・27日――(3)ブレヒトと3人の作曲家たち 高橋悠治
6月2・ 3日――(4)チリ「新しい歌」 福山敦夫
9・10日――(5)チリ「新しい歌(2)」 福山敦夫
16・17日――(6)楽器(1) 水牛楽団
23・24日――(7)ポーランド「禁じられた歌」 福山敦夫
30日・7月1日――(8)韓国の抵抗歌 福山敦夫
7・8日――(9)楽器(2) 水牛楽団
14・15日――(10)音楽と民衆運動 高橋悠治
ところ イメージフォーラム 四谷3丁目駅前・不動産会館ビル6F・357-8023
とき 5月12日―7月15日 水6:30-8:30 / 木10:30-12:30
授講料17,000円 資料代を含む
問い合わせ 水牛楽団
モトムラさんが待ちあわせの時間におくれた。待ちびと、きたらず。そんなときブラジルの人たちは、なにをやっているのかという話になった。同席 してもらった楠原彰さんによれば「アフリカではね、たとえばバスの停留所なんかで何時間も待つとき、知らない人たちがあつまってきて、飲めや歌えの酒盛り になっちゃう」のだそうである。「つぎは自分が待たせる番になるかもしれないから、イライラしないで待ってる」と、沖縄の友人がいっていた。
――ブラジル人もなにもしないでしょうね。みんな空をみて、ああ、きょうは空がきれいね、きょうは月があるねとかいって……でも、すごくいい気持ちです よ。ハハハ。
彼女は生まれてすぐ、家族といっしょにブラジルに渡った。若い一世である。
――大学のとき、クラスで本を読んで、セミナーをやらなくちゃならないのね。それをお芝居でやったりしたから、大学のなかにたくさん演劇のグループがある の。パウロ・フレイレやアウグスト・ボアールの考えにちかい。反対しなくちゃならないことがあると、それを演劇で見せるというか、メッセージを演劇でつた える。たとえば農業をやっているところから私の街にくれば、すごい苦労するね。そのことがひとをどれくらい抑圧しているかとか……。
たしか大学のなかで、八つぐらいグループがあった。ひとを集めて見せたり、スラムにいって見せるグループもあるの。
それから「生きている眼」という名前の、ボアールの方法でやっている有名なグループもいてね、ニカラグワにいったり、すごい上手な人たち! 私もやった けど、ちょっとの時間だけ。ただ大学じゃなくて、パべーラにいって……。パベーラって知ってるかな?
スラムでしょう?
――そう。でも私がはたらいていたスラムは、日本のスラムとはちょっとちがう。子どもたちがたくさんいるの。その子どもたちが半日は学校にいって、あとの 半日、いくところがないから、私たちのプロジェクトにきていた。そこでいろいろ活動したり、遊んだりしていたんだけど、そのなかの大きい子どもたち――十 二歳ぐらいの子たちがグループになって、自分たちの問題をいつでも話しあっていたのね。
スラムにいると、あたしたち、もっと素直に、本当の気持ちになる。みんなでちいさなところにいるから、なにもかくさなくてもいいのね。きょうはあの人のお 父さんがお母さんをぶったとか、ああ、あれがあった、これがあったということが、だれにでもすぐわかるでしょう。そういう毎日の問題から、なんでスラムが あるのか、なんでスラムにいるのかというようなことを、みんなでディスカッションするの。
そうしていると、だんだん自分のシチュエーションがわかってくるでしょう。「じゃあ、お芝居をつくって、それをお母さんたちに見せよう」ということになっ た。どうやってお芝居をつくろうかといったら、子どもたちは「わかんない」――じゃあ、みんな大きくなったらなにになりたいときくと、すぐに「あたしはタ イピストになりたい」――タイピストって人気があるのね、ハハハ。
「わたしは庭師」
「壁にペンキを塗る人」
「ぼくは社長」
「わたしは掃除をする人」
と、みんな自分できめたのね。それで、じゃあ、そのぜんぶがでてくる物語をつくりましょうか、と。
私はなにもいわない。子どもたちが自分でつくるんだけど、ホントにうまいの。「あたしがオフィスにはいっていく」と、タイピストになりたい子がいって、 「社長はあそこに坐りな」――社長が坐るのね。そしたら別の子が「ぼくは酔っぱらいになる」といって、酔っぱらってオフィスにはいってくるの。オーモシロ イ! 「なんと思ってるの、もうここで働かなくてもいい!」と社長がどなると、「ほかに働くところがない、我慢してる」と酔っぱらいがいったりね、ほんと におもしろい。で、私は、
「チョ、チョ、チョット待って。いま書くから……ハイッ、つぎやって!」
と、それをいそいで紙に書くの。
それからそのオフィスに電話がかかってきて、奥ちゃんに赤ちゃんができたというのね。「ああ、また赤ちゃんができたら、もう生きられない」――そこにペン キを塗る人や掃除をする人たちもきていて、その人たちがいうのね。「あたしたちは毎日はたらいているのに、あれもできない、これもできない」とか、「家に 帰ったら、なんとかかんとか」とか。
みんな十二歳から十四歳ぐらいの子どもたち。男と女が半分ずつ。子どもだから、いろいろな問題を口ではいえないけど、お芝居ではいえるのね。すごい見てい る。社長はどんな人か、はたらく人は毎日はたらいても苦しいということを、よく知ってる。でも、みんなでつくっているときはすごいいきいきしてるけど、お 母さんに見せるときはコチコチなの。ハハハ。でも、プロフェッショナルじゃないから、テクニックは大事じゃない。うまくやらなくてはというのが、お芝居を やる目的じゃないの。
それで芝居が終わったら?
――ディスカッションをするのね。どうしてあんなふうにやったのとか、あれはどんな人なのかとか、あそこは別のことばにしたほうがよかったとか……。
そういう活動をふくめて、モトムラさんたちはスラムでなにをやってたんですか?
――そのスラムには一万五〇〇〇人ぐらいの人がいるのね。農村で生きられなくなった人たちが町にきたら、家がない。はたらくところもない。それで、はたら きたくてもはたらけない人たちがいっしょに住みはじめたんだけど、いっぱい問題がでてくるの。そのため地域にコミュニタリティ―・センターをつくったの。 カトリックの教会と、それから市がお金をだして。
スラムにはいっぱい問題があるから、いっしょに反対しなくてはならないことがあると、その動きがすぐ政治化するでしょう。そうさせないために、市や教会が お金をだして、これをあげる、あれをあげると広告する。そのためのセンターなのね。
このセンターには託児所がひとつあって、三歳から六歳の子どもを、はたらいてるお母さんがはたらかないお母さんにあずける。私たちのプロジェクトは、七歳 から十四歳の子どもをあずかって、それで夜は大人の識字教育。だから私たちには私たちの目的がある。カトリック教会には別の目的がある。市にはまた別の目 的がある。そういうふうにしてコミュニタリティ―・センターがはじまったのね。はじめは教育というよりも、そこにくれば食べれるし遊べる……。
私たちが責任をもっていた半日には、芸術の時間やスポーツの時間、学校の勉強の時間があったけど、なんでも子どもたちに自分できめさせるというのが、私た ちのひとつの目的だった。「ここにこういうものがある、これをつかってなにをしましょう?」といって、みんなにきめさせる。たとえばね、ソルベルトがある でしょう。
ああ、アイス・クリーム。棒のついてるやつね。冷蔵庫でつくるんだ、安い材料で。それを子どもたちに売ったりする。
――うん。水とシュガーと香料で。すぐそばにサッカー場があって、そこにアイス・クリームの棒がたくさん捨ててあるの。それをみんなで拾ってくる。ほんと にいっぱいあるの! それで箱をつくったり、自分でかんがえたいろいろのもの――私たちがみるとなににも似ていないけど、子どもにはなにかに見えるかたち をつくったり。それからディスカッション。このアイス・クリームにはどんな材料がはいっているか。だれがかじったか。値段はどれくらいか。どうしてそんな に高いのか。どこで売るか……。
子どもたちもはたらいているの?
――それぞれの家庭でちがうけど、十歳くらいになると、お母さんのつくったものを売ったり、サッカー場で自動車の交通整理をやったり、ガラクタをあつめて 売ったり……そういう子どもたちは、なかなか私たちのところにはこれない。私たちのところをやめて、はたらきにいく。学校にもいけないの。だからスラムを でるチャンスがなくなる。でも、私、学校がいいっていうんじゃないけど。
女の子たちもほんとに小さいときから、お金持の家に手つだいにいって、掃除をしたり子守りをしたりするの。安い賃金で、休みもない。それから信号のとこ で、子どもたちがものを売るとか、貧乏な子どもたちの問題はたくさんあるの。
で、そういうスラムがサンパウロにはいくつくらいあるんですか?
――サンパウロには十七の区があるのね。私たちの区だけで一三六のスラムがある。全人口の半分ちかくがスラムの住人なの。公式の数字は本当じゃない。これ これのものをもっていれば、もうスラムの住人じゃないことにしてしまうから。ブラジルはいい国だから。ハハハ。
私たちは子どもの教育からはじめたけれども、はたらく人たちの組織をつくるとか、たくさん政治的な問題がある。でも、それをやるためにはセンターをでなく ちゃならない。コミュニタリティー・センターは妥協によってできているから、政治的な活動はできないようになってるの。
夜の識字教室もそう? あんまり政治的なことじゃなくて……。
――そう。MOBLAOという大人たちにブラジル語の読み書きをおしえる活動があって、それはパウロ・フレイレの方法をつかっている。市がお金をだして、 学生たちが先生になるのね。その学生のなかに、おなじ方法をつかってとてもたくさんのことをできる人もいれば、なにもしない人もいる。そんななかで、ある 人たちはフレイレの「意識化」の方法でやれるかなと考えはじめたのね。でも、ほんとにやれるのか。
たとえば、フレイレのやり方をそのままつかって、識字を社会的な意識につなげていこうとすると、もうそのインスティテユーションのなかにはいられなくなる のね。だから向こう側では、意識化のすぐまえまでやらせておいて、そこまでくると先生をかえる。
私にはフレイレの方法はつかえない。やればやれると思うけど、そのためには社会のそとにでなくてはならないの。フレイレも、むかしは「意識化」によって社 会を変えることができると考えていたが、いまはちがうといってるね。「意識化」だけでは十分じゃない。私もそう思う。
そしていちばんむずかしいのはね、政治活動になると頭だけになっちゃうの。論理だけになって、人間のこころを忘れちゃうの。私の本当にほしい変革というの は、頭だけじゃなくて、こころの面もみなくちゃ……。五年まえから、みんなレーニンとかマルクスとか、ことばだけになって、おなじ単語でみんなが別のこと を考えてる。おなじ「平等」ということばをつかっても、なかみがぜんぜんちがうの。だから私は政党には入っていない。入りたくない。ほんとに人間的に考え る党だったら、私も入る。
私はチェンジしたい。でも、ときどき、私たちがチェンジしたいと思っているやり方とおなじやり方をしなければ、チェンジすることはできないといわれるの ね。私は別のやり方でチェンジしたい。でも、むずかしい。できるかどうか、わからない。
「いまの大統領になってから」と楠原さんがいう。「雪どけになって、恩赦がはじまったんですよ。そしていままで国外追放されてた連中を、ぜんぶ国内に入れ たんですよ。そしたらひとつにまとまっていた反対勢力が四分五裂しちゃった」
――ブラジルには二つ政党があったの。反政府の党がどんどんつよくなってきたので、政府が「みんなに恩赦をあげる、一つではなく四つの反対党をあげる」と いって恩赦をしたら、ひとつの大きな力が四つに割れちゃったの。それで政府の側は「われわれはいい人間である。自由をあたえたから、デモクラチックな政府 だ」といってるのね。私たちはずっとまえから、「これはほんとの恩赦じゃない、気をつけましょう、あぶないあぶない」といってたけど、みんな失敗してね、 別れちゃったの。
そして一つのスラムのなかでも、ある政党に入った人たちが別の政党に入った人たちと喧嘩するようになってね。それで私、ほんとにイヤになって、日本に逃げ てきちゃった。ハハハ。「あんた、逃げるんでしょう」って、友だちにおこられた。
でも私の友だちが手紙をくれて、私たちの区の集会をまたやっていると書いてあったのね。私たちは二年半、毎土曜日と日曜日、スラムにいっていた。二年半、 自分のことはなにもしないで、そればっかりやってきたのに、なんにもならなかったって、それで私、おこったのね。でも、また集会をはじめたら、あつまった 人たちの眼が以前よりももっとよく見えるようになって、はっきりものをいうようになってた。みんなといっしょにいて、私たちが「ああしろ、こうしろ」とい わないで、失敗してもセンチメンタルにならず、またはじめからやりなおせばいい。私たちはそう考えていたんだけど、いま、だんだんそういう状態になってる のね。
時間と空間を確保することが、すごい大事なの。私たちがとらなければ、向こう側がさきにきて、とっちゃう。
たとえば託児所をつくったときでも、向こう側が「私たちがお金を払って、空間をつくりましょう。なんでも自由にものをいっていいです」といってくる。で も、そうすればかならずあっちの考えが入ってくる。だから「この空間は私たちが確保する」と、いまいわなくちゃだめになるときがあるのね。いつも時間と喧 嘩しているみたい。
スラムの人たちが、私たちは水道がほしい、電気がほしい、教育がほしいといったら、いっぱい役人がきて、「ハイハイ、なんでもやりますよ。みなさんはなに もしなくてもいいですよ。ハイハイ、あたしたちがみんなしてあげますよ」というのね。だから、すごくいい人に見える。あまりものを考えない人たちは、あ あ、これでもういいと思っちゃう。
「ブラジルの選挙ポスターでね、候補者の顔があって、その下にこういうスローガンが書いてあるんです」と楠原さん。「あなた方は考えなくてもいい。私が考 えてあげます。あなた方は見なくてもいい……」
――ハハハ。そうそう。「あなた方はいわなくてもいいです。私がいってあげます。あなた方は行動しなくてもいい。私が行動してあげます」――ね、いいで しょう。私たちはホワーッとしてればいいの。
ブラジルのスラムでは人種的な対立はないんですか?
――ない。でも、社会的にみたらあります。マジョリティは黒い人びとだけど、大学にはいれる人はすごくすくない。それでブラック・ピープルが組織をつくっ て、自分たちの文化を大事にしようとやっている。そこには白い人たちははいれない。
あなたが日本にきたのは去年の六月でしょう。日本ではなにをやってるの?
――あんまりなにもしてない。養護施設を勉強しにきたんです。家庭のなかで育っていかれない子どもが養護施設にはいる――その子どもたちの教育を勉強しに きたの。親たちが病気になったり、離婚したり……。
日本でいろんなとこで話すとき、あなた、困るでしょう。日本人はあんまり気持ちをそとにださないから。
――うん、困る。ブラジルの学校でね、先生が話してるとき、生徒がみんな下むいてノートとってたら、「なんで黙ってるの。このクラスじゃあたしがスターな んだから、もっと見てください!」って、先生がおこるよ。眠たくても、こーんなに大きな眼をして見ていなくちゃならない。ハハハ。本当ですよ。
だから子どもたちも、演劇をやらせたらうまいんだね。
――日本の教育は、やさしい子、かわいい子にする教育なのね。あたしは一歳のときブラジルにいったでしょう。だから友だちはブラジル人がおおいけど、日本 人の友だちもいる。でも、ぜんぜん別の日本人、日本にいる日本人とは。ひとりおもしろい友だちがいるんだけど、それはすごくオーネストな人なのね。その友 だちの両親もオーネストな、ほんとの人たちなの。どれくらいほんとかというとね、その人のお父さんは週に二回ぐらい、魚釣りにいくの。その道具を、ある 日、その家の犬がかじっちゃったのね。そしたらお父さんが、「ママがちゃんとしまっておかなかったから、こんなになっちゃったんだ!」
とおこって、食器やなんかを、みんな外にすてちゃった。そしたらお母さんも鉢うえの花をみんなぬいちゃって、二人で泣きはじめたの。それで友だちが、家か ら三〇キロはなれたところで勉強しているお兄さんを呼びにいったのね。でも、「ああ、あの二人はすぐになおる」って、きてくれなかったんだって。案の定、 夜になったらもうなんにもなかったみたいになって……ハハハ。そんな人たちなの。
でも、そんな人たちは日本の落語によくでてきたよね。これからの落語は、ブラジルから生まれてくるのかもしれないね。
――そうそう。それはいいね。日本ではエモーションを外にだすのを抑えるから、しまってしまってしまってしまうから、でるときはすごいのね。暴力的にな る。ブラジル人はいつでもすぐ外にだすから……。
なにもたまらない。でも、どちらかといえば明るいほうがいいな。
――そうだね。いつでも明るくできるのが、本当の芸術だと思う。演劇っておもしろいね。ブラジルにはプロフェッショナルじゃない劇団がたくさんある。プロ フェッショナルじゃないからなんでもいえる。さっきいった「生きている眼」もそうなのね。とても古い劇団で、一九六八年にはもうあったの。はじめは大学の なかでできて、それから外にでたのかな。農村に演劇をもっていく運動があって、その人たちはすぐに弾圧された。検閲がきびしかったの。プロフェッショナル になると、もうそういうことはできない。それでも、ときどきはすごくいいお芝居もある。
ふつうの農民が広場でおどったり、お芝居をしたりというようなことは?
――うん、あるある。作物がとれたときなんかね。インディオは……どうなのかな、よくわかんない。でも、いま私が読みおわったすごくいい本があるの。それ はインディアンが自分たちでつくってきた生活のルールの本なのね。たとえば子どもが生まれるでしょう。そうするとそれはお父さんの子どもじゃなくて、お母 さんの子ども。そして部落ぜんぶでいっしょに育てるのね。私、大すき、それ。日本の女もいまはあんまり力がない。でも、まえはそうじゃなかったんでしょ。
女の歴史って、すごい興味がある。いままでは男の歴史だけでしょう。えらいひとっていったら、男ばっかり。私の町では女の人もはたらくから、男にそんなに えばらせない。女たちの組織があって、毎年、会議をやるの。そして男たちのアーミーと喧嘩したり、日本よりもっとおんなじ、女と男が。メキシコともちが う。メヒコはスペインに植民地化されたでしょう。ブラジルはポルトガルだから。アルゼンチンもすごいの。
その差がでてきちゃったんだね。それとブラック・ピープルがおおいから――黒人は母系制だから。母親がつよいからね。大の男でも、すぐに「ママー!」っ て……。
――そうそう。本当にそうなの。ブラック・ピープルは「ママー!」って泣くの。でも私の町からでたら、やっぱりまだ男のほうがつよいね。日本の女の運動は あるの? 日本にきたとき、新聞で国際会議があるっていう記事を読んだけど、いけなかったの。それっきり。
いつまで日本にいるの?
――もうすぐ。三月二十九日まで。日本にきてからはじめて――ほんとにはじめて、齢をとったっていう気がした。日本ではみんな年齢をきくでしょう。ハハ ハ。日本もいいところがたくさんあるけど、電車のなかで、みんな黙って本を読んで、いっしょの顔をしてるの。なんにもいわない。もう、「ああ、だれかなん かいって!」っていいたくなるの。みんな見てるけど、なにもいってくれない。みんな知らん顔してるの。関係ない。ブラジルとはぜんぜんちがう。
寿町のおじさんたちもよくいうけど、電車にのるのがいちばんイヤだって。仕事がえりで、ちょっと汚れた靴をはいてると、みんながよけるんだって。「それで あばれないでいられるかよ」って。
――ほんとにそう。きれいでなくちゃイヤなのね。きれいじゃないほうがいい。でも、こんなことをいうと、ブラジルはとてもいいということになっちゃう。ブ ラジルにもよくないところが、いっぱいあるんだから。
せっせっせーのよいよいよい
歌を口ずさみ、掌をぶつけあい、子どもたちと遊ぶパラオの夜。こんどは少女が歌いだした。私も教えられるままに、手を動かす。
クライ ミソラノ ナガレボシ
ドコヘ ナニシニ ユクノヤラ……そこで口をつぐむと、少女は外に眼をやり、ちょうど通りかかったオセンコおばさんに声をかけた。オセンコさんに助けられて、もう一度。
暗いみ空の流れ星
どこへ何しに行くのやら
林の果ての野の果てに……「忘れちゃったねえ、あとは」
あけっぱなした裏口の板の間に腰をおろしたオセンコさん。しばし遠くのほうを眺めるようなまなざしだ。
「戦争が終わってから日本人はいないでしょ。三十年以上日本のことば話さないから、聞くのはわかりますけど、話すのはなんだか口にいえない」
とことわりながらも、とつとつと語ってくれた。
オセンコさんの話
――私はペリリューの人です。一九二六年、大正十五年生まれ。まだ戦争が終わらないとき、ペリリューの人はみんなペリリューに集まってたんだけどね。空襲 が終わってから、あそこはアメリカの兵隊が上陸したから、仕事がなにもなくなって、みんなここ(コロール島)へ仕事をさがしにきたの。働くためにここへき たんだよ。戦争の前はむこうに会社とか、たくさんあったから。そう、日本の会社だった……。
八歳のときから日本の学校。ペリリューで本科一年、本科二年、本科三年。そしてコロールへ来て本科四年、五年生まで卒業して、そのほかはもうない。五年間 だけ学校。先生は日本の先生。片かなだけ習ったの。それから平がなも少し。日本の子どもたちの学校は、また別だったね。コロールにきたら、ここの先生は島 の子どもたちにパラオの話はぜんぜん話さない。ここへきたら、パラオの言葉はつかわない。
五年終わってから、ほかの学校へは行かれないの。許さないからね。内地でも行かれない。アメリカの人はいま、ペラウの子どもたちをアメリカまで行かせる よ。だからそのあとは、十三歳から働くんだよ。うちへ帰ってきて。仕事は−―あるのはただメイドだけでしたね。
卒業してうちで働いてるころ、戦争がはじまった。二十歳くらいだから、わかってたよ。一九四五年三月の半ばころにはじまって、一年もかからなかった。戦争 はパラオには三月にきて、八月に終わったの。兵隊がペリリューに大きな建物たててね、飛行場のそばに。通信隊、陸軍、海軍、だんだん近くなったとき、航空 隊がペリリューにきた。その兵隊さん一人ひとりに聞いたんだ。どうして、こんなにたくさん兵隊さんがここにきたの、って。もう空襲が近いから、だからき た、といったよ。
はじまってから二週間たったら、ペリリューの人みんなロックアイランドへ避難していく。だから私たちはロックアイランドへ行った。そこにひと月いた。そし て兵隊たちが私たちのいるところへきてね、本島(バベルタオブ島)あたりへ避難していくといった。だからロックアイランドからバベルタオブへ。私たちはみ んな向こうへ行って、そしてアメリカの人がペリリューに上陸した。上陸する前に私たちを追いだしたんだよ、日本の人は。だんだんひどくなるからね。ここに いたらみんな死んでしまうから避難しろって。兵隊は兵隊の船で私たちを本島あたりまで運搬してくれたよ。夜の十一時ごろ、渡っては戻って、また渡って は……。
戦争が終わったときにアメリカの人が、この島の人みんな帰ってきてもいいといったから、帰ったんだよ。そのとき向こう行ったら、なんの仕事もない。土地が みんなダメになったよ。海だけはいいけど、弾の火薬とか落ちてから、陸の方はあまりね。タピオカとかさつまいも、一回植えたらいいんだけど、二度目はもう できない。まだ空襲のはじまらないころ、畑はよかったよ。いまはペリリュー、人、ほんとに少ない。たくさん、ここにいるんだよ。ここで子ども生んでるから ね。
一九四六年にペリリューへ戻って、一九四九年に私のお母さんが死んだの。兄弟はたくさん。七名。私は一番上。下の弟と妹はまだ小さくて、その子たちを抱く 人がいないから、私が抱いたよ。そして弟たちがここの学校はじまってるから、私がきてね、めんどうをみた。私はそのためにここへきたんだよ。いまは、その 弟妹たちがみんな卒業して、働いて、子どもがいて−―弟二人はサイパンにいて、ひとりはドクターのしごとしているよ。妹二人はハワイで、私ひとりだけここ にいるの。私の子どもとね。
結婚!? いやあ、だって、こんなにたくさんの弟妹を――子どもはひとり、独身で生んだの。もうその時は、弟妹働いていたから、みんなが学校でるまでめん どうみてくれて、あの子はハワイの大学行ったんだよ。いまはあのストアで働いてる。娘だよ、ちょうどあんたくらい。
日本の皇民化教育と、突然まきこまれた戦争。その体験を体内深く持っているのは、オセンコさん一人ではない。日本統治時代に生きたパラオ人すべてにいえる ことだ。三十数年をへだてて、いま軍服ではなくネクタイを締めてやってきた経済大国、日本。オセンコさんたちは、土を、海を、人を殺してはならないと立ち 上がった。そして、日本の民衆と手をつないでいこうと、忘れていた日本語を思いだし、かつては行くこともできなかった日本へも足をはこんだ。その晩も、す ぐとなりの寄合所で集会がおこなわれていた。
――今日はね、ことし(一九八一年)の七月に日本へ行った人たちの集まりなの。……そう、私たちが広島行ったとき、ほんとうに泣いたんだよ。広島のミュー ジアム……ほんとうに泣いたんだよ。かわいそうだよ、向こうの人たち。
私たちが行く前に、大阪の人ここへきたんだ。十名か十一名。そのときロックアイランドへ行ってね、魚と貝ひろってね。そして、毎晩ここに集まって話した よ。日本でね、アメリカの人が広島で落とした原子爆弾――あれよりもひどいものつくったって、そう話しているからね。核のゴミを捨てるなんて、このベラ ウ、ほんとにもったいない。この海、この島ぜんぶ、ほんとにもったいない。だから、いま、私たちがたたかっていくんだよ。
私たちは七月に日本に行ったんだよ。行った人は十八人。帰ってきてから、集まりをつくったよ。私たちは内地へ行ってきたから、内地でいろいろな話を知った から、見たことも聞いたこともみんな話してね。そして組になって、見たこと生かして、みんなで一緒にやるの。
そういうと、オセンコさんは腰をあげた。こんなふうに毎晩、三々五々集まっては、語ったり、歌ったり、勉強したりする。歌は口づたえでひろまり、体験は語 りつがれ、いたるところでカンカンガクガクの議論がつづく。一昨年、住民投票のさいに、こういうおばちゃんたちが村々を、家々をまわって、ミーティングを 重ねたという。そのネットワークが、世界はつの非核憲法を成立させるのに、大きな力となった。
ベンハートさんのげんこつ
ベンハートさんは戦争を知らない世代に属する。だから身ぶりと英語で語り合った。
パラオの歴史は――と、かれは私の前にゲンコツをさしだした。ずっと昔から、パラオ人はこの島で暮らしてきました。そこへ四百年ほど前、まずスペイン人が やってきました、と小指を上げる。つぎに薬指を立てて、ドイツの支配。中指を立てて、日本の統治。四番目がアメリカです、と人さし指まで四本ひらいて見せ た。そしてこれからは、パラオの人々がこのパラオの主人なんです、とかれはぐいっと親指を突きだした。
その手で網を投げ、魚をつかまえ、調理をするのだろう、大きな手。広げた五本の指で、こんどはそばにある本をつかんで、いう。指一本きりでは本も持てませ ん。包丁もつかえません。さまざまなよい働きは、たがいに助けあってこそできると思います。だから、世界の国々と対等に、そして仲良くしたいのです。クリ スチャンであるというベンハートさんは祈るように手を組んだ。
祈りの手をふたたびげんこつにするとすれば、それは人びとの願いを踏みにじるものに対してである。
完全独立への強い意志、平和の希求といったパラオの人びとの願いが、非核憲法を生みだした。
しかし、パラオの軍事基地化を執拗にねらう米国は、いま、憲法を骨抜き化するフリー・アソシエーション(自由連合協定)の補結を追っている。財政援助の打 ち切りをちらつかせながら。そして日本政府も、たまる一方の核廃棄物の捨て場として、まだ太平洋をあきらめてはいない。
ケベコールさんのうちで
すずなりの紅い実。パラオリンゴの木に見とれながら、広々とした板の間に上がる。文机にもたれているアルフォンソ・ケベコールさん、先客のフミオ・レンギ ルさんが、「よくいらっしゃいましたね」と私たちを歓迎してくれる。昨年十一月に水牛コンサートで紹介された「戦さのはげしかったころ」などの歌のつくり 手、あのケベコールおじさんだ。
――私たちの憲法は、核兵器を認めておりません。そこに立ってやらなければ。憲法にもとづいたフリー・アソシエーションでなければだめです。いま交渉中の もの(パラオの約30 %を米軍用地化する協定がふくまれている)はまったくまずいですね。
私自身としては、フリー・アソシエーションということは、まず完全に自由独立して、本当に自由になってから結ぶのが望ましいと考えております。
第二次世界大戦のとき、ペリリユーには飛行場があって、爆弾もたくさんありました。で、アメリカの部隊がたくさん、そこをめがけて行った。パラオにいた日 本兵は、パラオを守るがためにきたんじゃないんです。日本の本土を守るがために、トラックとかサイパンとか基地をつくって、敵がきた時には本土に着かない 前にここでつぶしてしまおうと、そういう考えだったんだ。いまもそうだね、アメリカは。なぜロシアが、どういうわけで強国がここへくるんです? そういう 危険な品物があるからこそくるんで、ここからロシア本国に持っていく前に、ここでつぶしてしまおう、という考えじゃないですか。ともかく、前の爆弾の何十 倍もある武器がくるんだから、ペリリューに落とされたらパラオ全島はなくなってしまいます。
大国は、私がいっても声は届きませんけど、いまのところ問題なのは軍備拡張、あれがために問題がおきてると私は思います。本当に平和が望ましいんなら、そ んなことは全面的にやめると思いますね、軍備拡張なんか。
――日本の運動も、はっきりいってバラバラなんです。
――パラオもいまのところそうなんですよ。大きな意見のくいちがいがあってね。
――悪いほうはすぐくっつくけど。いいほうはむずかしいね。
――そう、いいほうの人たちはなかなか。信頼するまでに骨が折れます。
――だって、向こうは目的が金もうけだから。簡単だから。
――そうです。向こうは金がありさえすればそれでいい。だけど、いまの危機に直面しているのは私たち反対派だけじゃないんです。だれもかれも、おなじ死に 下るんだってことを、知ってもらわなきゃね。愚かな者もいるんですよ、「なに、死んでも構わんさ。金をもらって、つかって、酒飲んで死ねばいい」っ て。……本当に悲しいよ。
――日本にいてね、一千万円あっても、昨日ロックアイランドで楽しい思いしたでしょ、あんなことは味わえないのね、もう海は汚くなってるし、一億あったっ て、きれいな海を買うことなんてできないしね。
――いちばん人間に必要なものはなんですか? 金ですか? 私がいったとおり、金は何万億ドル持っても、糧がなければ、私はその晩眠れないんですから。ネ クタイ締めても、腹がなかったら眠れませんものね。ちょっと。
――お金は天国まで持っていけないし。
――日本時代に「ルンペン節」っていう歌があったんだな。
――「ルンペン節」? 教えて下さい。青い空から札の束ふって
五両、十両、百両、千両、
使いきれずに眼が覚めたワハハハハ、まだつづきます。
金がないとてくよくよするな
お金があっても白髪が生える
泣くも笑うも五十年っていう歌があったんです。お金持ちにもお墓はひとつ。お金がある人も、私たち乏しい者も、おなじ黄泉に下るんですからね。
はたして金は、寿命を伸ばしてくれますか。金は悪の根。金持ちになるとね、人を見下げたり、人を侮ったり、虐げたりすることにもなります。罪のもとになる よりほかないんだな。私たちは三食には乏しくない。海の魚はとれるし、畑からも食物をとってこられます。そして、昔から今まで存続しているパラオの組織と いうか、ユニオンがあります。助けあいますからね、困らないよ。外国みたいに、物質文明に恵まれて心の貧乏でおられる人とはちがいますね。正直申します と。
仮にアメリカから援助を八億ドルもらうでしょ。まあ、八億ドルをもらうことに決めたとしましょう。こんど八億ドルが核兵器とともに入ってきます。海は破壊 され、基地がもうけられ、訓練の雇兵もくる。さまざまな悪事がおきてくるし、こんどは八億ドルの金が医療代、弔いの金につかわれることになるんだ。なぜ かっていうと、海から水銀中毒が与えられるし、それから核兵器の放射能にも害がある。八億ドルの金はもう病院に費やすよりほかない……なんにもならない ね。
結局、パラオに兵隊がいるからこそ敵がくるんです。腐った肉を置かなきゃ、ハエがくるわけないんだ。ハエがたかってくるのは腐った肉があるからなんです。 だからもう、アメリカであろうが、日本であろうが、どこであろうが、もうパラオは絶対、ふたたび軍隊を上陸させてはならないのです。
基地というのは、最初から戦争を背負ってくるんです。それで私はパラオの憲法を支持してます。基地を認めない、核兵器の持ち込みを認めない―――これは本 当に、われわれのいま、そして将来、子ども、孫、ひ孫のためになるんですから。
江藤淳の『落ち葉の掃き寄せ』という本を読んでみたら、戦後の日本人は自分の物語を発見することを忘れ、他人がかいた物語のなかで便々と生きつ づけてきた、とかいてあった。「なぜ日本人は、……日本側の立場に準拠して、あの戦争についての物語を語ろうとしてはいけないのだろうか。それは日本が三 十四年前に敗北したからだろうか。敗北した国の国民は、戦勝国の最高司令官や大統領の手前味噌を、永久におうむのように繰り返しつづけなければならないの だろうか」というのである。昨年十一月にでたこの本はまだ売れつづけているらしく、いまでも本屋の平台に何冊もつまれたままになっている。
日本人が、「日本側の立場に準拠して」かたる「あの戦争についての物語」とは、いったいどのようなものなのか。たとえばそれはつぎのような物語をもふくむ のだろうか。もと水上憲兵分隊の憲兵曹長だった藤本文夫という人物が、読売新聞社からでた『昭和史の天皇』第十巻(一九七〇)のなかで、かれの戦争をこん なふうにものがたっている。
一九四二年の春、日本軍がマニラに進駐した直後から、マハリカ(ビサヤ語で勝利の意味)というタイトルの反日宣伝ビラがさかんにまかれるようになった。そ こには「日本人はフィリピン人を侮辱してビンタをはる」とか、「たよるべきは侵略者日本ではなくアメリカである」といった文句がしるされていた。マッカー サーの「アイ・シャル・リターン」宣言も、はじめはこのマハリカ通信によってひろまったらしい。憲兵隊はただちに調査を開始した。ビラの文字がタイプで打 たれていたことから、まず市役所のタイピスト、つぎにチャペスという印刷業者が網にかかった。そしてかれの自供によって、弁護士や実業家など、おおぜいの マニラの有力者たちが芋づる式に検挙される。かれらはマルキンというゲリラ隊長とひそかに連絡をとり、反日宣伝をおこなっていたのである。
……チャペス情報で出てきたもう一人の大物は(と藤村もと憲兵曹長はかたる)、レオポルド・サルセドという俳優でした。これは日本でいえば、さしあたり長 谷川一夫クラスの有名な俳優ですが、占領後、日本がフィリピン向けの宣撫映画をつくったとき、彼はゲリラ役をやり、迫真の演技だと評判になった。迫真のは ずで、実際のゲリラだったのです。
彼をつかまえたのは、どこかの劇場で実演をしていたときですが、わたしは一人で楽屋へ行き、自分も日本の役者の卵だといい、話をしたいからといったら、舞 台が終わってから気軽にきてくれた。まあ、あのころは日本人というだけで幅のきく時代でしたからね。そのまま憲兵隊へ連行しました。そのころは留置場は いっぱい。はいり切れないのは両手両足をしばって、廊下にころがしてあったのですが、それをみたとたん、サルセドは黙って両手をそろえてわたしの前にさし 出しました。それで、
「お前はしばらぬ」
「なぜか?」
というので、「逃げないとわかっている」といったものです。彼は仲間の女優を日本の高官に近づけさせ、上層部の情報をさぐっていたと自供しました。
こうしてマハリカ捜査は六ヵ月ほどで落着するのだが、ゲリラ隊長のマルキンは最後までつかまらなかった。「マルキン・ゲリラはルソン島を主体にしたゲリラ で、東海岸の分水嶺をなしているシェラ・マドレ山脈に潜伏し、ウワサでは部下三十万人とかで、アメリカの潜水艦に物資の補給をしていたようです。もとは米 比軍の将校とか。年は、いまも生きているとすれば七〇代でしょうね。」と、もと憲兵曹長はかれの物語をかたりおえる。
これが「日本側の立場に準拠して」かたられたマルキン・ゲリラの物語である。ところでレオポルド・サルセドという俳優については、これとはまったく別の物 語がある。『水牛』新聞のころからの読者なら、その第三号に掲載された、日本軍占領下のマニラにおける抵抗運動にかんする寺見元恵さんの文章をおもいだし てくれるかもしれない。あそこにこのサルセドが登場していたのだ。おそらくはおなじ一九四二年、占領軍報道部があるフィリピン人劇団に、小国英雄がかいた 『夜明け』という宣撫劇を上演しろという命令をくだした。それは「一抗日ゲリラが日本兵にやさしくさとされ、いままでの無知を反省し、大東亜共栄に協力す る」という筋だての芝居だった。
……これをそのまま上演することは、劇団の監督L・アヴェリャーナ氏にとっては耐えられないことであった。いろいろ考えた末、改心するゲリラに当時もっと も人気あったL・サルセド氏を起用した。彼が舞台に現れるとやんやの喝采がわき、かれはその熱っぽさにつられ、つい、
「アメリカ軍はかならず帰ってくる。けっしてわれわれを見捨てはしない」
と口走ってしまった。
「いい役者というものは与えられた役に身も心も打ち込むもんで、つい抗日ゲリラの身になたっつもりで……」
というサルセド氏の弁解や、
「べつに抗日ゲリラに人気があったわけじゃなく、サルセドに人気があるんです」
というアヴェリャーナ監督のいいわけで、検閲官はすぐ別の俳優を抗日ゲリラ役に、サルセド氏を日本兵役に仕立てたところ、やはり抗日ゲリラの方に拍手が湧 いた。そこでこの劇はすぐさま中止。サルセド氏は例のアドリブがたたって、十三日間、フォート・サンチャゴに身柄を拘束された。
寺見さんによれば、サルセドは抗日ゲリラの輸送係で、とくに食糧と医薬品の確保にあたっていたとのことである。
こんにちのフィリピンでは日本占領下の抵抗運動についての関係がさかんにおこなわれているらしく、その研究が寺見さんのノートを背後からささえているのだ ろう。彼女はまた、トゴとブゴという二人組のコメディアンが演じて、当時のマニラの人びとにたいへん人気のあったギャグのひとつを紹介している。「ぼくが 何国人か、あててみな」といって、トゴがシャツの袖をまくりあげると、両腕に腕時計が何十個もはめられている。そこでゴブが「わかった、日本人だ」という と、すかさず客席に大爆笑がおこったというのである。この時計ギャグはいまもまだ生命力を持ちつづけているらしい。昨秋、マニュエル・バンビットという若 い劇作家が日本にやってきた。やはり有名なコメディアンを主人公にした『カナプリン』というかれの芝居にも、占領下の劇場のシーンがでてくる。そして、そ こでもコメディアンは腕に日本製の腕時計をたくさんはめていて、憲兵がはいってくると、それを派手にしめしながら日本の科学技術をほめたたえ、憲兵がいな くなると、こんどは時計にしばられた融通のきかない日本人たちをさんざんにからかうのである。そこではおそらくかつての軍服の日本人に、現在の背広の日本 人のすがたが二重焼きにされて示されているのにちがいない。
ここで注意しておかなければならないのは、最近の研究では、十年ほど前までは一般的だった侵略者ニッポンにたいする解放者アメリカという図式がうすれ、ア メリカの自己中心的なフィリピン政策への批判がつよく押しだされるようになってきているという点であろう。
その皮切りとなったのはレナート・コンスタンティーの一連の著作である。かれは『フィリピン民衆の歴史』第三巻のなかで、例のマルキン・ゲリラについても ふれ、かなりきびしい評価をくだしている。コンスタンティーノによれば、マルキンの指導者はもと米比軍の運転手マルコス・アグスティンで、バターンの戦闘 にたどりつけないまま日本軍につかまり、逃走後、一九四二年四月に中部ルソンでゲリラ部隊を組織したという。だが、かれの関心はもっぱらマッカーサー元帥 による公認ゲリラとなることにあり、そのため同地域で活動していたハンタース・ゲリラとは激しい武闘をくりかえす。「かれらは日本軍とのたたかいよりも、 相互の競争によりつよく執着していたかに見える」とコンスタンティーノはしるしている。
「他のアジア諸国の抵抗運動とちがって、フィリピン人の抵抗は、ほとんど完全といえるほどに、米軍作戦の必要性、さらには太平洋地域で指揮をとるダグラ ス・マッカーサー将軍の指令に屈従するものであった。こうした事実関係は、その後ながく余波をのこすことになる。占領下の抵抗運動の性格や行動様式に影響 を与えるだけではなく、戦後の社会とその意識にも傷跡をのこしたのである」
ゲリラの指導者たちがマッカーサーの公認をあらそったのは、日本占領軍に協力した旧体制の指導者たちにかわって、戦後のフィリピン社会でアメリカの庇護の もとに権力をにぎるためだった。戦争がおわるやいなや、共産党系のゲリラ組織フク団は弾圧され、日本帝国主義から解放されたフィリピンは、こんどはアメリ カ帝国主義の柵のなかによろこんで戻ってしまった。せっかくの機会がこうしてむなしく失われたというのがコンスタンティーノの意見である。当然、この観点 からすれば、たとえば「たよるべきは侵略者日本ではなくアメリカである」といったマハリカ通信のアジテーションや、「アメリカ軍はかならず帰ってくる」と いうサルセドのアドリブは、フィリピン人民の抵抗の伝統と同時に、アメリカへの恭順の意志をもあわせて表明するという両義的な意味をもっていたことにな る。そのようにしてコンスタンティーノは、アメリカによりそってつくられた古い物語を洗いなおし、あらためて「フィリピン人の立場に準拠した」物語をかた りはじめるのである。
とすると、このコンスタンティーノと、いまこそ日本人は自分自身の物語を自信をもってかたりはじめるべきであると主張する江藤淳とのあいだには、なんらか の共通点が存在するということになるのだろうか。戦後、マッカーサーはその本拠地をマニラから東京にうつした。そして江藤は、まさしくそのマッカーサーに よる「他人の物語」の押しつけにたいして、おくればせながら抗議の意を表明しているのだから。
江藤ははじめにふれた『落葉の掃き寄せ』という本のなかで、占領軍がワシントンにもちかえった大量の資料にもとずいて、かれのことばをつかっていえば「戦 後の日本文学に刻印された占領軍の検閲のケース・スタディ」をおこなっている。河盛好蔵の「静かなる空」や竹山道雄の「ハイド氏の裁き」といったエッセイ は、それらが占領批判の意図をもつという理由によって雑誌掲載を禁じられた。吉田満の『戦艦大和』や柳田国男の「氏神と氏子」も、検閲の眼をくらますため の改稿や削除処分によって、こんにちにいたるまで、当初のものとはまったく異質なかたちで読まれている。したがって「戦後の日本文学に原点があるとすれ ば、それはこの汚辱と抑圧のなかにしかなく、それ以外の解釈はすべて自己欺瞞と、幻想の上にあぐらをかいた自己満足にすぎない」――その汚辱を解放ととり ちがえたこと、もしくは意図的にそうしたことによって、戦後の日本文学は占領軍の意図通りに「民族の記憶」を忘れてしまった。こうした習性をたちきり、い まこそ日本人は自分の物語を「真の意味で自由に」語りださなくてはならないと江藤は主張する。
民族の精神的自立をうながす江藤のことばは、それだけをとりだしてみれば、たしかにコンスタンティーノのそれに似ていないこともない。しかし、いま私がこ の文章であつかっていることがらに即していえば、かれは日本がアメリカに占領される直前まで、コンスタンティーノの国フィリピンを占領し、フィリピン人の 「民族の記憶」をたちきろうと、いっそう暴力的な弾圧をおこなっていた事実をすっかり忘れてしまっている。あるいは忘れてしまったふりをしている。自分の 物語をとりもどすために、「戦勝国の最高司令官」が押しつけた物語を拒むのはいい。だが、かつて自分たちが暴力的に支配し、自分の物語を支配してきた他人 たち――いわば「敗戦国の民衆」がようやくかたりはじめたかれらの物語をも、江藤は、あくまでも自分たちには関係のない他人の物語として拒もうとするのだ ろうか。そうやってまで回復されなければならない自分の物語とは、いったいどんな物語なのか。それは藤本もと憲兵曹長の物語のようなものをもふくむのだろ うか。
江藤の本を読んでふしぎに思ったことがひとつある。それは戦後の日本で、かれが賞揚するような文学者たちが占領軍の検閲に、従順に、ほぼ全面的に屈従し、 たとえば日本占領下のフィリピンにおける抵抗運動のようなものを組織しようなどとは、まったく考えもしなかったらしいということだ。どうしてかれらは占領 軍によって抹殺された自分の作品をガリ版で印刷し、それをひそかに全国に配布しなかったのだろうか。かりにそうした地下出版の運動かなにかが現実に組織さ れていたとしたら、江藤の主張ももうちょっとすっきりしたものになりえたであろうに。
私の考えでは、かれらはアメリカ占領軍の権力に押しひしがれる以前に、すでに日本の国家権力によってコナゴナに背骨を叩き割られてしまっていたのである。 たとえばフィリピンを例にとってみれば、そこでは一九四二年以来、石坂洋次郎、尾崎士郎、火野葦兵、今日出海、三木清、三宅艶子といった文学者たちが宣伝 班を組織し、新聞、ラジオ、演劇、映画の検閲、宣撫劇の上演、日本語教育などの活動をおこなっていた。『夜明け』の作者、小国英雄は、黒沢明の片腕ともい うべき高名なシナリオ・ライターである。江藤があげている人びとをふくめて、日本の文学者たちのおおくが日本国家の圧力のもとで、他民族の文化的支配の最 前線にたたされていたのだ。因果応報。こんどは自分が占領軍によって検閲される側にたち、古傷をかかえて、とてもかれらには抵抗運動にまで走る気力はな かっただろう。他人の物語ぬきで、そうそう都合よく自分の物語をつくれるものではない。
編集後記
モトムラさんは日本語があまりうまくない。言葉がでなくなると、アとかウとかいいながら、でも眼をピカピカさせて、いいたいことを元気よくいいきってしま う。
話がもりあがってくると、たとえばスラムの子供劇のところなどでは、やにわに喫茶店のいすからたちあがり、手をふりまわし、テーブルをバーンとたたいたり する。ひっそりと話しこんでいた恋人や商人たちが、びっくりしてこちらをみる。私もつられて大声になる。たいへん気持ちがいい。
日本では貧乏な人たちに自分の文化がない。だから暗い。おまけに街中が、さあ、あれも買え、これも買いなさいと責めたててくるので、私にはここはとても住 みにくい、と彼女はいう。
おもしろいもようのシャツを着ていたので、「ブラジル製?」ときいたら「ちがう、カワサキで買ったの」と答えた。エリもとに、「メイド・イン・コリア」と いう文字があった。彼女はブラジル人だった。「ここの日本人とは別の日本人」だった。