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上野駅・サーカス・筑豊で会った人たち 本橋成一
水牛楽団のページ
光州5月 コンサートプログラム
光州5月 コンサート解説
楽譜
小さな蓮池
その日
農民歌
奪われし野に春は来るか
自由なる労働者
女性人権の歌
編集後記
どこにでも坐って待てるというのが、上野駅を撮りはじめていちばん感じたことですね。東京駅や新宿駅には、こういう人、いないでしょう。あのネ、上野駅に も正式な待合室があるんだけど、五十坪ぐらいのひとつだけ――それだけなんですよ。それで、日に七十五万人いるのかな、乗降客が。
去年の暮れ、あれは二十八日だったかな、コンコースのすみっこのとこにいってみると、おととしいた連中とおんなじなんですよ。「なんだ、また会ったじゃな いか」というと、「お前まだ撮ってんのか」なんていって……。それはおなじ土地からきている連中なんですね。東京ないしは東京近郊にでかせぎにきている連 中が、毎年二十八日、バラバラに切符を買ってあつまって、そこでお酒をのんだりして、またバラバラに列車に帰っていくんです。
駅が広場になっている。つまり管理する側がつくった駅じゃないんですよね。駅を管理する側から合理化しちゃうと、空間がせまく入りくんできてしまって、案 内板だけがバカでっかくなる。そういうんじゃなくて、ぼくの友だちの建築家がいってたんだけど、上野駅のコンコースのまんなかに立つと、どこで切符が買え て、どこが改札口か、そのホームでどっちの方角に帰るかが、すぐわかるでしょう。この広い東京のなかで、自分の位置がはっきりわかる唯一の場所――それが 上野駅なんじゃないですか。
いま、十九番線側の地下四階に新幹線の駅ができてるんです。もっと天井が高く、明るくなるわけですよ。そこではたして、このおばあさんが新聞紙をひいて坐 れるかどうかですよ。だめだと思うんですけどね。
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これが「棒おじさん」――ぼくが名づけたアダ名なんだけど。上野駅には何人か、ぼくも顔みしりの住人たちがいるわけだけど、そのなかの名物男ですね。
年齢は六十前かな。でも見た目よりは若いのかもしれないな。この棒は、ぼくがはじめて会ったころは木の棒だったんだけど、それがプラスチックになって、最 近はアルミの棒になった。それでコーラの販売機とか、そういうとこの下におちてる硬貨を、ピッピッとはじいて拾うんです。最初、いっしょについてまわった けど、かなり神経をつかってるんですよ。駅員や公安におこられたりするから。
この「棒おじさん」が、去年の十二月十七日かな、つかまっちゃったんです。終電がでたあと、シャッターをおろすと同時に、そのへんにたむろしていた住人た ちを、江東区の区役所の職員と公安とおまわりさんと、それから地元の町内会と駅の関係者と――総勢二十何人かでつかまえて、施設に送りこむんです。ところ が情報がつたわるのがすごく早いんですよね。駅員がシャッターをしめようとすると、住人たちが「今日、やるんだろう?」って……駅員は一所懸命とぼけるん だけれど、みんないなくなっちゃった。
結局、とっつかまったのは「棒おじさん」と、もうひとり、太った中年の女性だけ。それが可愛いんだな。駅のそばの映画館のわきで、看板のかげにフトンをし いて、二人でだきあって寝ていて、それでとっつかまっちゃった。だから、ひょっとして、おじさんも手入れのあることはわかっていたんだけど、おばさんとの 約束がその日にあたっていたんで、とっつかまるのを覚悟であいびきしてたのかもしれません。
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これは十三番線ですね。津軽三号。青森県の中津軽からきた坊やたちで、毎年あつまって帰るんですって。左の子、頭にソリを入れていて、髪の毛を茶色に染め ているんですよ。それで、「カッコいいね、いくらかかったの?」と話しかけたら、「何千円もかかったんだよな。でも、おふくろ、びっくりするだろうな」っ て――ハッハッハ。
十七か十八かな。吉田君っていったけど、写真を送ってやったら、もどってきちゃった。中学をでたか、高校中退か。そのどちらかでしょうね。
上野駅の構内でよく見かける光景なんだけど、カバンや靴をとりかえて帰るんですよ。あそこらへんのデパートの靴屋さんで新品にはきかえて、古いやつをとっ といてもらうんですよ。そして正月あけにもどってきて、それをひきとっていく。ハレのスタイルなんですね。このカバンだってそうかもしれない。ピッカピッ カですもんね。
上野駅をきちんと撮りはじめたのは、おととしの十月からです。さっきもいったけど、ぼくは上野駅は東京で最後にのこされた広場なんだと思う。その広場をど うして失くしてしまうんだろうというのが、次のページの写真です。
十九番線のいちばん奥のところなんですけど、風がはいってこない。だからこの新幹線駅の看板が立つまえは、みんな新聞紙やビニールをしいて、酒をのんで 待ってた、とてもいい場所だったんですよ、改札口のなかでは。それがこの看板ができたら、とたんにみんな立って待つようになっちゃったんですよ。ふしぎな もんですよね。この完成図ひとつで、居心地がわるくなった。まァ、かんぐりすぎかもしれませんけどね。
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ぼくがサーカスを撮りはじめて、最初に仲よくなったのがこの千代子姐さんなんです。はじめのうち、緊張して「写真を撮らせてください」ともいえないでいた ら、彼女のほうから話しかけてくれて、自分が可愛がっているプードルをうつしてくれというんです。それがきっかけです。肩芸のすばらしい芸人ですね。
千代子姐さんの生い立ちや半生記といった話がおもしろかったな。二歳のとき母親と死に別れて、二十歳でサーカスにはいったけど、十年たって、ようやく肩芸 の稽古をやらせてもらえるようになったとか、男とのゴタゴタとか、足抜きとかリンチとか、ホステスをやったときの話とか、いろいろあるんです。
ところが、その話が日によってちがうんですよ。たとえば、千代子姐さんがいちばん想っていた男が病死したという話を、もう涙をながさんばかりに話すわけで す。ところが何日かたっておなじ話をきくと、こんどは、その男が千代子姐さんを捨てたということになってる。「へん、あんな男なんて」というわけですね。 ききがきをつくるために、いっしょに話をきいていた鎌田忠良さんなんか、そのたびに「このあいだとちがいます。どっちがホントなんですか!」といきりたつ んだけど、ケロッとしている。千代子姐さんにとっては、どの話もホントなんだろうな。はじめは驚いたけど、だんだんそう思うようになりましたね。
その後、彼女は年下の運転手といっしょに別のサーカス団にうつって、そのゴタゴタで半年間かな、舞台に立つことができず、そこでの初舞台で、差していた竹 を足の指の上におとして、結局、サーカスをやめちゃったんです。いまは甲府にすんでいますよ。
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Yさんは奥さんと子どもと三人で、二十五歳をすぎてから、サーカスにとびこんできた。サーカスがすきだからというよりも、要するに食えなかったんでしょう ね。それでブランコをテントの空間いっぱいにふる芸をマスターした。これは単純だけど、なかなか派手な芸なんです。
この写真では見えないけど、かれの左腕にちっちゃな刺青があるんですよ。なんか花の刺青でしたね。かれもあんまり気にしていないらしかったし、あんまり手 ぬきの刺青なんで、ぼくも「こういうものは値切っちゃいかんよ」とからかったりしてた。
ところが、ある日、楽屋にいくと、アルバイトで道化をやってる役者たちのドーランで彼がその刺青を塗りつぶしているんですね。肌色のドーランで、高いブラ ンコの上の芸なんだから、小さな刺青なんか見えるはずがないのに、いやな歴史があったんだな。それを見てから、ぼくはかれと刺青の話ができなくなったんで す。
この子どもがサーカスがすきでね、はじめは客席にいて、チャレンジ・コーナーとかいって、司会者が「さア、元気よくでてきてください」と呼びかけると、と びだしていく役をやってたんです。サクラですかね。四、五歳のころで、トランポリンをやるんです。ところがあまりうますぎるんで、すぐにバレちゃうように なって、そのあとはこういうメイクをして、一輪車ショーにもチョコッと顔をだすようになった。だけど児童保護法というのがあるでしょう。小学校にいくよう になって、はたらけなくなっちゃった。歌舞伎の御曹子は堂々とやってるのに、サーカスはダメなんです。
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須磨子さん。彼女はもうつぶれた山根サーカスの末娘で、お姉さんたちといっしょに、契約芸人として矢野サーカスにでていた。そのとき、チェコから熊をつか う芸の一家がきていて、そこのアシスタントの青年と仲よくなって、求婚されたわけです。
お父さんは古い人間ですからね、サーカスの。「赤い国のやつなんか」と、ぼくのとこに電話がかかってきた。「お父ちゃん、いまは赤いもなにもないよ」と説 得して、たまたまチェコ人のチハコーバさんを知っていたんで、彼女に通訳してもらって話しあいをしたんですよ。須磨ちゃんのほうは、「日本に骨を埋める覚 悟はあるか」の一点ばり。チハコーバさんもうまく通訳できないで、頭をかかえていたな。
骨を埋める覚悟があるなら、あたしもチェコにいってもいい――そのことを一所懸命かれにつたえようとするんだけど、なかなかかれにはわかんないわけです よ。ことばのせいもあるし、あまりにも日本的すぎて。
彼女はあまり芸をもっていないんです。山根サーカスがつぶれたとき、彼女はまだ子どもでしたからね。そのあと、家族といっしょにキャバレーでフロア・ ショーをやっていましたから、アクロバットとか、お父さんのハシゴ芸のアシスタントとか、そんなもんじゃないかな。
結局、二人はいっしょになって、いまも矢野サーカスにいるはずですよ。かれのほうは、東ドイツからきている猛獣芸のアシスタントとか、そういうことをやっ てるんじゃないかな。仕事はいくらでもありますよ。ましてやかれは猛獣をあつかってたから……日本にはちゃんとした猛獣芸がないんですよ。その意味では、 ぼくらはかれに期待しているんです。
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これは一九六五年ごろかな。筑豊の鞍手郡中山の悟平さんの一家です。父さんは「俺が死ぬまえに鉱山(ヤマ)が死んじゃったからのう」といって、焼酎のんで 生活保護をうけていた。まえのページは三菱のボタ山のてっぺん。もうすっかり崩れてましたけどね。息子の静夫くんと妹の和代ちゃんですね。お母さんもいい お母さんでしたね。
いちど感激したことがあるんだけど、お父ちゃんはいつも静夫をぶん殴る。でも静夫はお父ちゃんが大すきなんです。お父ちゃんは金がはいると焼酎をのんで、 炭住の売店なんかで寝こんじゃうんですよ。それをこの兄妹が一所懸命つれもどすんだけど、なかなか家にはいらないでしょう。そのうちに長屋の人たちがあつ まってくる。そうするとね、静夫は洗面器に水をいれてきて、「行けーッ、見るなッ!」と、それをぶっかけるわけです。あのシーンは劇的だったな。ぼくだっ てきっとそうすると思いますよ。いくらしょうがないお父ちゃんでもね。
お父ちゃんが小便したいといってね。それでぼくがチャックをあけてやって、おチンチンつまんでやって――男のひとのおチンチンさわったの、こんときははじ めてだったな。「ホラッ、東京のお兄ちゃん、チンボコもたんと、小便がズボンのなかにはいっちゃうから、ホラッ、もて!」といって、――まァ、かなりの男 だったな。
カンラク(陥落)といってね、地盤がさがって池になっているとこに、春になると、鯉が卵をうみにくるんです。それを、父ちゃん、長い棒で刺すわけですよ。 それの名人なんですよ。早朝、でかけていくんだけど、ぼくもついていったことがある。ホントにうまいもんでしたね。
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酒をかっくらってないときは、万年ブトンにくるまって、一日中、本をよんでいる。それが大三菱の鉱夫だった悟平さんの現在の生活だったわけです。
あのネ、古本屋があって、一冊十円だったかな、少年週刊誌を売ってるわけです。それを静夫に買ってこさせる。その本のなかに、たとえばタイタニック号の沈 没の話なんかがあって、それを読んで、船が沈んでも人が死なない方法なんかを懸命に考える。桜島の軽石で船室をつくれば、船が沈んでも船室だけは浮くだろ うとかね。その特許を役所に申請しにいくんだけど、どうもいつもダメだったみたいですね。
ぼくは九州には夜行列車でいくでしょ。それで朝つくと、眼がマッカなわけ。そうすると、お父ちゃん、「お前、このごろ肉くってないだろ」と。「どうして だ?」ときくと枕もとの本をさがして、「どれだったかな」とかいいながら、ライオンの話をひっぱりだしてくる。アフリカでは、年よりのライオンは狩りがで きないから、食いのこしの肉か、それもなければ草をくう。眼を見ればすぐわかる――ってそこに書いてあるわけ。ハッハッハ。それとおんなじだって。
それで、つぎにいったら、カゴのなかにニワトリを一羽飼っていて、「今日はお前に肉をくわしてやろうと思って、待ってた」というわけですよ。「どうしたん だ?」ってきいたら、「おっこってたから拾ってきた」って。ハッハッハ。魚をとりにいったかえりに、養鶏場からもってきたにきまってるんですよ。でも、う れしいですよね。「拾ってきた」だってさ。
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このとき静夫は中学一年か二年ですね。当時、筑豊に児童センターというのがいくつかあって、いまでいく「落ちこぼれ」の生徒を集めていた――そこにいたん です。この静夫が、つい最近、川崎で死んだ。公園の鉄柵に頭をガンガンぶつけて、そのあと包丁を買って、それで首と腹を切って自殺したそうです。割腹自殺 ですね。川崎の路上で。
直接の原因はだれにもわからないらしいです。川崎では覚醒剤の売人をやってたらしいですね。組織にはくわわらないで、何人か仲間ができたとき、つかまっ ちゃって、刑務所からでてきたら、その仲間たちが裏切っていたとかいってました。
中学をでたあと、浜松にとってもいい私塾があって、しばらくそこにいたんです。そのころは大工になって、父ちゃんに酒をのましてやりたいなんていってまし たね。そこをでて、あとはなにをしていたのかな。ともかくも、駐車場にとめてあった車から仲間とサングラスをぬすんで、ぬすまれた連中とケンカになって、 強盗ナントカ罪で四年間、牢屋にいれられてしまったんですね。犯罪といえないくらいの小さな事件ですよ。それで四年間。
死んだあと、静夫の遺体は葬式がだせないんで、解剖実験用に冷凍されていたようです。小さな箱のなかに、子どものころの教科書なんかがつめてあって、そこ からお父ちゃんの写真が二枚でてきた。ぼくがとったものでした。
はじめの兄妹のこの写真を一九六八年にだした『炭鉱』という写真集の最後に入れたんです。そしたら「子どもたちの明るい笑顔にすくわれる」といった人たち がいました。笑顔の裏にあるものがわからなかった。ぼくだってそうです。
モンコン・ウトックは五月なかばまで滞在することになったので、水牛楽団はその間は六人で演奏している。
三月二十七日(土)「国について・歌について」コンサートでは、林光のソングのほか「里子にやられたおけい」と「いぬふぐり」それに新作「祖母の歌」をか れのピンをくわえて演奏。
土本典昭の映画「こんにちはアセアン」の音楽も、ひとつのメロディーを中心に、なかば即興でつくる。
四月二十二日(木)にヤマハ渋谷店で30分ほどデモンストレーション。四月二十四日(土)には宇都宮「仮面館」でポーランドの歌とタイの歌(モンコンの作 品)を中心に。
四月中には、タイの歌12曲のカセットをつくる。これはタイで発売するためのもの。日本でいつだすか未定。二月のコンサート「バンコクの大正琴」での数曲 と、モンコンが森のなかでつくって発表の機会がなかった数曲。
かれの音楽は頭のなかにあって紙にはかかない。それといっしょにやるためにメロディーを数字譜でかき、それにあわせて自分のパートを即興でつくりだすやり かたをとる。
3月号のこのページにかいた予定以外に、四月一日お茶の水YWCAの三里塚・ラルザック連帯集会にでて、三里塚の歌とタイの歌をうたった。
五月三日(月)「大地の唄・心のさけび」愛知勤労福祉会館。ここではタイの歌、日本の歌のほか、名古屋にいるわれわれの友人戸島美喜夫の「バナナ食民地」 と「フィリピンの抵抗詩より」(エドガル・マラナン・詩)を演奏する。
五月五日(水)三里塚労農合宿所五周年をむかえての行事に参加。
五月十日(月)新宿安田生命ホール、午後六時半から「新宿反核集会」。間にピアノ演奏をまじえて日本の歌、ベラウの歌、タイの歌。反核の歌は替歌か一九五 〇年代の歌で、いいものがまだすくない。アメリカの反核コンサートも歌手のもちよる歌でなければベートーヴェンだったりするのだ。
五月十七日(月)中野文化センター「光州5月」。このコンサートはゲストの部分をのぞいて、五月二十九日(土)神戸と三十日(日)大阪でもくりかえされ る。内容は本文。
先月号の編集後記にかいたポーランド「連帯」再生基金については国外にいる「連帯」の人たちとも相談して、日本の国内でできるいちばん有効な活動にあてる ことになるだろう。近いうちにその活動について、また基金をあずかりうごかしてゆく委員会のメンバーを発表できるとおもう。カンパのあて先は郵便振替で口 座名・連帯再生基金実行委員会、口座番号・東京三−×××××。基金はいまのところ水牛楽団コンサートの収益六十六万五千九百八十円をこえていない。収支 報告は基金自体の通信ができるまで「水牛通信」の誌面のどこかをかりてつづける。
5月17日(月)午後6時半開演 中野文化センター
5月29日(土)午後2時半 神戸学生・青年センター
5月30日(日)午後2時半 大阪バナナホール
映画「自由光州――1980年5月」(★)
鳥よ鳥よ
涙にぬれし豆満江
帰りたくて(★)
他郷ずまい
奪われし野に春は来るか
小さな蓮池
ソウルへゆく道
その日
農民歌 女性人権の歌
自由な労働者
林光「光州5月」
高銀「故郷」「臨終」
尹伊桑「間奏曲A」(★)
モンコン・ウトック「ロンバーブン」(★)
高橋悠治「まわれまわれ糸車」「さまよう風の痛み」「光州1980年5月」(○)
出演者 水牛楽団 林光(★)水木陽子(★)高橋アキ(★)モンコン・ウトック(★)
(曲目・出演者の★印は東京のみ、○印は神戸・大阪の み)
一九八〇年五月の10日間、自由をもとめて軍隊とたたかった人びとのためにコンサートを計画した。最近出版された「韓国抵抗歌集(地下出版復刻 版)」からえらんだ曲を中心にして。この歌集には百八十曲がはいっている。民謡、賛美歌、歌曲、歌謡曲、童謡とさまざまなかたちで過去百年の抵抗史を歌で 表現している。
鳥よ 鳥よ 青鳥よ
緑豆の畠に 下り立つな
緑豆の花が ホロホロ散れば
青餔《チョンボ》売り婆さん 泣いて行く (金素雲訳)
東学農民軍が日本軍の介入で敗北し、朝鮮半島の近代がはじまる。この「鳥よ」の歌は民衆の抵抗の主題歌となった。
一九三〇年代、日帝の植民地政策のために故郷をすてて移住し、亡命する人たちが中国との国境にある豆満江をわたっていった。「いとしのあなたよ いとしの あなた いつまたかえる」と「涙にぬれし豆満江」の歌声があとを追った。
あのかもめあの友は 故郷にいるのに
何故私は 離れてくらさねばならぬ
いっそ何もかもみな捨て 帰ろうか 帰ろうか (金慶植訳)
「帰りたくて」というこの歌は、一九三〇年代につくられた芸術歌曲だった。北の放浪者が南の故郷をしのぶ歌は、いままた民族統一へのお もいのなかで、あたらしい意味をもった。
他郷でも 住めば都 故郷となるのに
どうでもいい この身はいつも他郷ずまい
一九三〇年、北海道から間道まで流行した「他郷ずまい」の根は、まだ過去のものとならず、深まるばかりだ。
しかし、いま野を奪われ
春すらも 奪われてしまった
一九二〇年代の詩「奪われし野に春は来るか」が金民基《キム・ミンギ》の歌でよみがえる。一九七〇年代のはじめに大学生だった金民基の歌は 学生街でうたいつたえられ、ただ一枚のこしたレコードのコピーが手から手にわたっていった。
「小さな蓮池」はその頃の歌――
山奥のすその小さな蓮池に
いまは汚れた水だけたまり
何も住んでいない
「ソウルへ行く道」――
老いた父母の 病気はながい
裏山の薬草は とりつくしちまった
でてゆくおいらのかわりに
父母だれを見る
ソウルへゆく道 なぜほそくながい
「その日」――
花園にひと房の花もなく
今日がその日か その日はいつ
陽が沈む日 星が沈む日
沈んで再び昇らぬ日は
これらの歌は、若い人たちのおかれていた社会状況を諷刺し、内心の矛盾をいいあてていたのだろう。だが、金民基自身は、そうした根のないなやみにとどまっ てはいなかった。生活現場で抑圧された人びとといっしょにくらしながら、現実の矛盾とたたかう道をえらんだ。工場や建設工事現場ではたらきながら、夜学で おしえる日々をへて、農村に住むようになった。そのなかから農民の歌やミュージカル「工場のともしび」がうまれた。
かれがあゆんだ道は、韓国労働運動がおこり、タルチュムやマダンクッのような民衆の広場の芸術があたらしい社会的意味をもってよみがえった時代と方向をひ とつにしている。
幾世代もの重石だった恨をとかす日が近づいてくる。労働者たちが目ざめ、歴史の主人は自分たちであるという認識にたって、生きるためにたたかう。作者不詳 の三つの歌は、最近の運動のなかからうまれた。「農民歌」、「女性人権の歌」、「自由なる労働者」。
以上が、コンサートの中心になる韓国抵抗歌集の部分。
民衆の生きるための運動は孤立してはいない。国外からの支援の声にはげまされ、また運動自体が国外の民衆運動を勇気づけてもいる。このおたがいの関係のな かで、いくつかの歌や音楽もうまれた。
林光の「光州5月」は80年11月に発表された。白玲と野村修のことばによる歌とピアノのための曲。
忘れるな 屋根から投げ落とされた兄を
乳房を突き刺されて死んだ姉
腹を裂かれた身重の母
詩人高銀は獄中で光州事態を知り、赤い囚人章を供養の花とする。
そして風すさぶ日
われら倒れるところ
そこが故郷だ 「故郷」
きょうだいよ 私は西方浄土にはいきたくありません
死んでも死んでも この国にいたいのです 「臨終」
そして尹伊桑の最新作、ピアノのための「間奏曲A」で、こまやかな音の網目細工のなかに見えかくれするA音は何を意味するのか。われらすべてがそれらをめ ざしながら、これほど到達しがたいあるものをか。
モンコン・ウトックの「ロンパーブン」はタイ政府軍によって焼きうちされた村を歌う。
あたたかい心 母よ だれがはなれていくものか
生まれ育ったふるさとをあとに
アジアの民衆のこころは、こうしてひびきあうのだ。
小さな蓮池
ふかい山奥 小さな蓮池
いまはよごれた水ばかり 何も住めないが
昔ここには きれいな鯉二匹
住んでいたということさ この小さな池に
ある晴れた日に 池の鯉二匹
あらそいのはてに 水に浮かび
その肉は腐り 水もやがてにごり
池には何も住めなくなったのさ
ふかい山奥 小さな蓮池
いまはよごれた水ばかり 何も住めない
青い木の葉は のこらず落ちて
小舟のように蓮池に 浮かんでは沈む
家のない小鹿 山道さまよって
蓮池の水をのんで 静かに去りゆく
陽は西におちて しずかな山
舞いあがる 一羽の蝶々のあとに
黒い水をたたえ 長い年月
なにも言わないで 蓮池はのこる
ふかい山奥 小さな蓮池
いまはよごれた水ばかり 何も住めない
花園に花 一房もない
今日がその日か その日はいつ
陽が沈む日 星が沈む日
沈んで再び昇らぬ日は
戦場に罪人がひとりもいない
今日がその日か その日はいつ
陽が沈む日 星が沈む日
沈んで再び昇らぬ日は
わが胸にもう帰らぬ人よ
今日がその日か その日はいつ
陽が沈む日 星が沈む日
沈んで再び昇らぬ日は
三千万眠るとき 我らは目覚め
祖国農民の 兄弟は集う
指切り誓い 立てたあの日
真理叫ぶ 兄弟たちよ
明るい太陽が 歴史開く
三千里に翻る 農民の旗
輝く勝利の その日まで
踊り闘う 兄弟たちよ奪われし野に春は来るのか
ふりそそぐ 陽を浴びて
青空が野の中に とける果てまで
一筋のあぜ道を 夢のように
あてもなくさまよい歩いた あの日
だけど今は 野を奪われ
春さえも 奪われてしまった
草いきれに つつまれて
微笑までも 青く染まる
蓮の精にまどわされ 日暮れまで
足ひきずってさまよい歩いた あの日
だけど今は 野を奪われ
春さえも 奪われてしまった
蝶よ 燕よ 飛び立つな
けいとう咲く村に 立ち寄って
椿油つけた 草刈娘
あの娘にも 一目会いたいな
だけど今は 野を奪われ
春さえも 奪われてしまった
自由なる労働者
われら自由なる労働者
権力はなくとも勇敢で
財産なくとも清潔だ
われら歴史のまことの主人
われら自由なる労働者
権力はわれらをねたみ
闇はわれらを恐れる
われらこの世のまことの主人
われら自由なる労働者
変わらぬ真実掘り起こす
権利生きる権利は神聖だ
われらこの世の改革者
女性人権の歌
胸ふかく しずむ恨(ハン)
その鎖をとかそう
ひとの持つべき権利 女性になぜない
ほほえむ顔に勝利のさけび
われらきっとたたかい勝とう
女性よつどえ 人権の旗のもと
「わたしねえ、姉が結婚した時、まだ中学入ったばかりでしょ。学校でも先生から、あんたの姉さんは、って皆の前でいわれてね。ずい分恨んだものですよ。で も、こうして会えると、あのれがミエコさんだった。戦後、日本に駐留していたアメリカ兵と結婚して、大陸にわたった日本女れと闘わなくてはならない。もっ ともやり切れないのは、自分と違う道をえらんだ人間に対する
て見せている彼女は、まったくのお嬢さん育ち。品のいい奥さんである。それでも、彼と知り合った頃、日本の街を歩けば変な目で見られた。もしそうでも、精 一杯自分の責任で生きてきて、どこが悪い? さまざまなくやしさを、自ら笑いに転じて見せている彼女たち――私は、告発を受けている気持ちになった。
編集後記
十年まえの「復帰」後、沖縄をでる若者たちのかずが激増した。「ゆうなの会」は、在関東の沖縄青年たちのあつまりである。かれらは政治集会をやるかわり に、休日にアルバイトをして、そのカネで東京の各所に寄りあいの場所を確保する。デモではなく、原宿の竹の子族たちにまじって、エイサーを踊る。東京にき て、はじめてサンシンをひき、エイサーを踊ったという連中がおおい。沖縄にいたときは、東京のほうを見ていた。
沖縄からきた女の子たちが、東京でいちばんつらいのは電車にのることだという。ブラジルからきたモトムラさんが、本誌のインタビューで、電車にのっている 人がみんな黙りこくっている、「だれか、アタシに話しかけて!」と叫びたくなる、と語っていたのを思いだした。
「ゆうなの会」の会則をよむと、本会は沖縄出身者のあつまりだが、その趣旨に賛同する人であれば、だれでもうけいれるという条項があった。事実、若い非沖 縄人のかけこみ参加がおおい。「沖縄世」への希望をささえるつよい考えかただと思う。