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新春放談 トラの親、トラの子を語る
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埋草通信 東北の神武たち 鎌田慧
水牛かたより情報
走る・その一 デイヴィッド・グッドマン
映画時評 高橋悠治
音楽時評 坂本龍一
編集後記
津野 鎌田さんちは、お子さん何人?
鎌田 なんだよ、急に座談会の声だして。
津野 何人?
鎌田 三人。上が十九で浪人でしょ。その下が高一。その下が中一の男。
津野 高一っていうのは女の子だろ? むかし君がつれ歩いてた可愛い子だろ、仕事先やなんかに。
美恵 そうそう。腕にぶらさがっちゃって。
甲賀 うちのタンも、高一だもんね。
鎌田 悠治のとこの家族構成って?
悠治 子供は二人だけど、子供と家族構成とはちょっとちがうよな。
甲賀 生まれたんじゃないの、孫、アユオんとこ? まだ?
美恵 期待してたんだけどさ、孫が生まれる前に別れちゃったの。
鎌田 しかし、高橋悠治に孫が生まれるなんて悲惨だよな。
美恵 どうして?
鎌田 うん。だって、ねえ。なんとなくイメージが……
甲賀 おじいちゃんか。
鎌田 二人っていうのは、いくつといくつ?
悠治 待てよ、ハヤはいくつだろう。十三か。そうすると、アユオが二十五になるわけかな。
鎌田 平野さんとこは?
甲賀 年がわかんないんだよな。中三と六年生と三歳。
津野 いちばん上が生まれた時が三十五、六か。
甲賀 そんなにいってないよ。七〇年だから。あいつのおかげで結婚したんだもん。
悠治 フッフッフ。
津野 結婚式はやってないよな。悠治はやった?
悠治 えー……
美恵 ハッハッハ、どうだったんでしょうね。
津野 むずかしい質問しちゃった。
鎌田 じゃあ、津野海太郎が結婚しない理由をちょっと……
津野 またまた。ないよ、そんなの。
美恵 結婚しなくてもいいけどさ、子供ほしいとか思ったことない?
津野 そういう時期もあったね。三十代の終わりごろ、なんかジタバタしたことあったな。二、三年ぐらい。不思議な気がするよ。あのさ、 たとえば家庭アルバムなんてつくる?
悠治 いま?
津野 うん。おれが育った家にはあったわけよ、家庭アルバム。ばあさんの写真とかおやじの学生時代の写真とかがあってさ、赤ん坊のおれ がハダカでいたりとかさ……
美恵 見たーい。
甲賀 男の子は素っ裸で撮るんだよ、オチンチン出して。
津野 ふつうそういうの、あるじゃない? だけど、おれなんか自分の写真はいっさい保存してないわけよ。もし自分に家族がいたとした ら、ちゃんととっておくのかな?
甲賀 おやじの写真はあまりないんじゃないの。
悠治 そうね。子供のアルバムはつくるけど、親のアルバムなんかつくんないよ。
甲賀 むかしはそういう節目みたいなのがあった。おやじが出征する時に撮っとくとかね、髪の毛が長いうちに。そういう写真は見たことあ る。おばあちゃんといっしょに三越の写真館で撮ったやつとかさ。
津野 おれも自分の写真なんかとっておこうとは思わないけど、ここで終ってしまうおれと、このさき孫もできてくるであろうきみたちとの 差があるのかなと。
悠治 うちだってアルバムはあったんだよ。しかし、その家庭は壊れたわけだからね。
津野 なるほど。
悠治 だからアルバムはないわけよ。
鎌田 職業によるんじゃない? 炭鉱夫のとこはあるよ。つぶれた炭住にアルバムや位牌がころがってる。だから死ぬとか危険のあるところ ではつくるんじゃない? 日常化してくるとつくんない。
美恵 うちは撮ったわよ、ハヤが中学に入学するとき、写真館にいって。
悠治 そう、制服制帽でな。
甲賀 松山猛の『父親クラブ』っていう本があってさ、父親がわが子についてしゃべってて、おれと室謙二のも入ってるんだよ。室なんかは 「おやじを演じてる」とかさ、そういうふうにいうんだよ。おやじという役割を演じてるって。
鎌田 親っていう意識はいつ発生するんだろうね。おれなんか、どっかにいってる時に子供が生まれたんだからさ。
美恵 いちどもいたことないの?
鎌田 うーんと、下の女の子の時はいたのかなア。あとは病院で勝手に生んだんだけどね。
美恵 勝手にだって。
鎌田 帰ってくると生まれてるという感じなんだから。
甲賀 それも面白いかもしれないな。
鎌田 面白いったって、きみ、生まれるのは知ってるんだからさ。なんにも知らないうちに、帰ってきたら生まれてたってんじゃないんだか らさ。ウッフッフ。
津野 で、鎌田さんはいつ父親の意識が生まれたの?
鎌田 入学式の時かな。母親ってのは、あれ、入学式らしいね。桜の花が咲いてて、校門のところに子供をつれていった時、母親の感慨って のがあるんじゃないの?
津野 おれなんか自分の親を見てると、ずっと親以外の何者でもないと思ってて、親が親じゃない部分もある人間だというふうに思えるまで には、ずいぶん時間がかかったという気がするんだけどさ。
鎌田 親だって親ばかりやってるわけじゃなくて、仕事している自分がどうなるかだって、ぜんぜんわかんないわけじゃないか。
津野 そうだろ。子にとって親というだけで生きてるわけじゃないんだからさ。ところが、そういうことがなかなか子供には見えないじゃね えか。いまの子にはもっと早く見えるのかね。
甲賀 それは子供に聞いてみないとな。
津野 じゃあ、確固たる親を演じてるわけでもないんだな。
美恵 演じてみればいいのにね。
津野 理想の父親像とか?
悠治 もう信用されないよ。
甲賀 うん。やっぱり見抜かれてるんだろうな。
鎌田 高橋悠治なんか二十二か三で親になって、その時の親の意識ってどうなんだい? かなり希薄? 当然、自分の人生だってわかんない もんね。
悠治 その頃はあまり仕事がなかったからさ。子供が専門みたいなもんだからね。母親のほうが働いていたから、おむつ変えたりして、帰り をお待ちするわけよ。それをしばらくやってたから、そういうのを親の感じっていうんだったら、そういう感じはあったよね。
美恵 どういうのを親の感じっていうんですか、そういうのでなければ?
悠治 えっ? だから、必要に応じて出てくるんじゃないの。世話しなければなんない時に世話していれば親になるわけだし。だれか他にい てほっとけば、それでいいわけだし。
甲賀 月並なこといえば、女のほうが、やっぱり親になるのは早いだろうね。
津野 でも、おれの見ている範囲では、離婚した時なんか男のほうがこだわるぜ、子供に。
甲賀 うん。離婚して女のほうに子供をおいていくだろ。しかし、土日は父親面してたずねてくわけよ。
悠治 やったやった。
甲賀 ハッハッハ、おれもそうなると思うけどね。
悠治 アメリカの場合は、そういうふうに法律できまってるんだよ。離婚した場合は、だいたい母親がひきとることにきまってるわけ。そし て父親は養育費を送るの。養育費ってのはね、収入の十分の一か、あのころで百ドルかな、そのどっちか多いほう。いや、少ないほうだったかな? とにかく どっちかを選んで送る。十年前ね。それで週に一回、子供に会うことを認められるのね。権利ね。そうしなければどんどんその権利がなくなるわけだから、それ はもう一生懸命やるわけよ。日曜日ごとにつれだしにいってさ、遊園地なんかにいって、夕方につれもどすんだけど、アパートの下までいって部屋には入らな い。そういう仕組みになってるから、別れた相手とは顔は合わせないわけよ。うちはそうなってなかったけどね。再婚した相手ともつきあってたからさ。
津野 きのうテレビでやってたけど、いまアメリカで行方不明の子供が年間で十万のオーダーなんだって。それも百万に近いわけ。で、その うちの七、八十パーセントは別れた父親が誘拐したやつなんだって。
鎌田 ふーん。それで誘拐罪なのか。
悠治 そう。だから誘拐して他の州に行っちゃうの。警察っていうのは州単位だからさ、そうなると、ちょっともうわかんなくなっちゃう。
甲賀 ずいぶん父親意識がつよいんだな。鎌田さんだったらやるかね、そういうふうに?
鎌田 おれはやらないね。
悠治 日本に戻ってきて、いちばんちがうなと思ったのはそういうことだよ。離婚するじゃない? 子供は母親のとこに行くよね。そしたら 「あのお父さんは……」とかいって会わせないわけよ。それで大学入試のときになって、やっぱりなんかっていうんで何十年ぶりに会ったとか、そういう具合に なるわけじゃん。
津野 そういうこと、なかなかうまくいってないね、おれの周囲では。
美恵 でもさ、うまくいかないってのがふつうよ。それがうまくいくんだったら、なにも離婚する必要がないんだから。
悠治 そうかな?
美恵 中学生ぐらいになったら大丈夫だね、親がどうなっても。十歳ぐらいまでだと、そうとうひきずられちゃうみたい。
公子 十二歳ぐらいまでね。
鎌田 このあいだ教護院って、むかしの感化院みたいなところで非行少女に会ってきたの。小学校の時親が離婚して男親がひきとったんだけ ど、すごくまじめな親で、子供らしいかわいいものを買ってほしいっていっても、わかんなかったらしいんだ。それで万引きをはじめた。そういうこまかいと こってわかんないもんね、父親だと。
公子 でも藤本和子さんとこなんか見てるとさ、デイヴィッドがお母さんみたいよ。だから女の人だからお母さんというわけではないんじゃ ないかな。
鎌田 ああ、そうか。
公子 あたしなんか、実務的にはお母さんの仕事に慣れてるけど、あんまりお母さんみたいじゃないと思ってるわけ。女の人のほうが向いて るというのは、たんなるクセとか習慣でさ。デイヴィッドなんかには、そういう習慣を自分の生活にとりこみたいという気持ちがすごくあるから。そういうふう に意識する人ってめずらしいのよね。
美恵 そうねえ。
津野 なんだよ、鎌田さん。疲れたみたいな顔してるじゃない?
鎌田 いや、おれ、親として何をやったかって考えてみると、あんまり実感ないんだよな。家にいないんだから。いま彼女がいったみたい に、生活習慣とかクセでしょう? ふだんきちんとつきあってれば、父親らしい父親になるだろうけど。
津野 家長意識はないの? この家は自分がまとめなくちゃいけないんだという責任感みたいなの。
甲賀 それはぜんぜんないな。
津野 悠治にもないだろう?
悠治 フッフッフ。ちゃんとした家であったこともないから。
津野 すると、やっぱり鎌田さんか。
甲賀 鎌田さんとこ、あれ、自分の家でしょう、借家じゃなくて?
鎌田 うん。
甲賀 借家住まいじゃ、みっともなくて、家長なんかやってられないもん。どんどん影が薄くなる。土地問題だよ、これは。
悠治 家族をなんとかしなきゃいけないっていう感じを家長意識っていってるわけ?
津野 そういうことだろうな。
悠治 それはどっかに行った時あるな。ふだんはないけど。
津野 どっかにいった時って?
悠治 たとえばね、スウェーデンに行って食いつめて、仕事がなくて、どこかに行く金もなくて、完全にいきづまっちゃった。そこで何か月 か、ひたすら何かが起こるのを待ってるじゃない? そういう時は家族をなんとかしなけりゃって思うわけ。思ったってどうなるわけじゃないけどね。
甲賀 まあ、どこかへ逃げちゃうようなやつもいるしね。
悠治 そう。ひとりで逃げちゃうこともできる。ミュージシャンというのは流れ者にきまってるから、アメリカにいてもさ、ここは一年でお 金が切れましたっていうんで、次のお金がありそうなとこへ行くってことになるだろ。そうすると家族のほうは、つきあいもなにもかも精算して知らない土地に ついていくか、あるいは、そこで別れるということになるわけ。うちの場合は、そこで別れたのね。
鎌田 おれんとこは関係の不安性みたいなことをいうね。いまでも家に電話したら、十八のやつが今晩は帰るかどうかって聞くんだよ。それ から、おれはいったん家に帰ってから仕事場に行くことが多いから、今日は泊まってくのかどうかとか、しょっちゅう聞くね。
公子 自分が好かれてるかどうかっていうことは、すごく気になるみたい。
津野 子供がいきがいとかいうじゃない? そういうのはどうなの? 子供のためなら自分を犠牲にしてもいいとかさ。
悠治 そういう気には、ぜんぜんならないな。
美恵 にっくらしいわねえ。
鎌田 ハッハッハ、自分の仕事で精一杯だよな。
甲賀 おれはあるよ。犠牲みたいな大きなことにはならないけどね。
鎌田 九州の友人の家に遊びにいったら、下の子供が生まれたばかりでさ。取材にいっても子供のことが心配で、早くきりあげて帰ってくる んだっていってた。おれ、絶対にそういうことないな。一日遅く帰ってくることはあっても、早く帰ってくることなんかないもんね。
悠治 小さい頃はあったね。どっかに仕事に行って、飛行機かなんかで帰ってくるわけだよ。夜になるでしょ。そしたら街の灯が見えてくる じゃない。そうするとやっぱりね。
甲賀 子供にはいっぱい食わせようとか、そういうのはない? 食い物をちょっと残しておいてやるとか。
公子 それ、平野さん、あるね。
鎌田 おれ、子供はあんまり怒らないけど、女房は徹底的に怒るもんね。なんでそんなに怒るんだっていういう感じのことあるよね。あれ、 母親の安心感なの?
公子 こういうふうになってもらいたいというのが、すごくつよいんじゃないかな。私の場合、それがぜんぜんないわけ。とっても気分が悪 いことしか怒んないの、こっちが。
悠治 ふだん付き合いがあってさ、怒っても大丈夫だという安心感があるから怒るんだよ。
美恵 それはあるね。
悠治 こっちなんか、ふだん付き合ってないからさ、まったく関係が切れちゃうと思うから、怒らないな。
鎌田 怒ると関係が切れると思う?
悠治 それはだって、子供はある程度大きくなれば、親なんていなくたっていいわけじゃない? そこで怒りすぎて関係が切れるとまずいと 思うのは、やっぱり、いくらか未練があるということかな。
美恵 あるんですよ、未練が。
悠治 フッフッフ。
甲賀 怒ると恐いからね、親は。子供にとっては。いまここでガッと怒ると、こいつはかなりこたえちゃうだろうという遠慮みたいなものは あるよ。
公子 トイレに逃げこんじゃうもんね。
鎌田 はあ。おこることがないっていうのが決定的なんだな、おれの場合。おれの代わりに女房が怒ってるもんね。
美恵 代わりに怒ってるっていうのとはちがうんじゃない?
悠治 でもさ、逆にいえば、そういう人が一人いるから、もう一人が怒れるんだよ、徹底的に。
鎌田 そう。正解。
美恵 ずるいと思わない?
公子 奥さんにしてみれば、二倍しっかりしなければっていう気持ちが、どっかにあるかもしれない。
甲賀 それじゃあ漫才じゃないか。ボケとツッコミ。
鎌田 ハッハッハ、ボケーッか。平野さんちなんか、勉強どうなの?
甲賀 だめなんじゃないの。
津野 成績がいいって話は一回も聞いたことないな。インテリとか芸術家の子供で、成績がいいっていうのは、非常に例が少ないんじゃない の。
鎌田 うちもわるいよ。なんかあるのかねえ。
公子 でも、頭はいいわよ。
美恵 そうよ。頭がわるいんじゃないのよねえ。
津野 やっぱり学校がわるいのか?
平野 親の価値観だよ。
公子 勉強しなくっていいっていっちゃってるからね。
美恵 あたし、しなくていいなんていってないよ。でも、やらないもんね。たいしたもんだよ。
公子 そういうことじゃ世の中とおらないって、最近、向うがいいだしたから、うちは。
甲賀 だから親のこと心配するような子にすればいいんだよ。
美恵 うちはもうそうだわ、ちっちゃい頃から。
鎌田 ハヤ君は野球に熱中してるんだろう?
悠治 いまはサッカーゲーム。
鎌田 おれんとこは、いまボクシングジムに行ってるよ。
津野 この頃の子って熱中力あるな。釣りとかパソコンとかさ。
甲賀 でも、なりふりかまわずってんじゃないね。タンは絵を習いに行ってるわけよ、柳生ゲンちゃんとこに。でも、集中力がたりないんだ よ。絵をかく行為とかさ、まわりの雰囲気とかには熱中してるけど、四角い紙の中に絵をかくという集中力がたりない。
津野 女の子っていうのはそうだね。女の子は人間関係には熱中するけど、切手収集とか、なにか特別の対象について熱中するようにはなら ないね。だけど人間関係については、すごい熟達してるんだよ。人の情の裏を読むとか、かくしてあるものをパッと読みとるとか。
美恵 そうよ。そうですよ。
津野 男は人間関係にたいしては、どうも熱中しきれないからさ。
公子 あたしは対象にまっすぐ行くのがいいなと思うから、絵にも行かせたんだけど、そういうことも人間関係にとりこんじゃうのね。
甲賀 少しずつは集中するようになってるよ。だけど下手くそなんだ。でもさ、うまくなるとだめになっちゃうわけよ。おれなんか、それで だめになっちゃったから。
悠治 小さい頃うまいってのはだめだと思うよ。上の息子はピアノも作曲も下手だ下手だと思ってたんだけど、基準がちがうんだということ がやっとわかってきたね。こっちがうまいと思うようなことをやってんじゃだめなんだよね。できないほうがなんかになるわけ。そう思うな。
鎌田 それはそうだな。おれなんか作文かいてほめられたことなんて、いちどもないよ。それで食ってるんだからヘンなもんだよ。
公子 そしたら成績わるくてもいいってことになるじゃない。
美恵 だからね、勉強しなくたっていいと思うんだけど、成績の数字がわるくてふるい落とされちゃうと気の毒だと思うから、まあ、標準ぐ らいはまではいってたほうがいいと思う。
鎌田 しかしさ、おれなんかぜんぜん勉強しなかったけど、いまの子よりはできたなって思うよ。
公子 だから、まわりがすごいのよ。まわりがすごくできるの。
美恵 こないだ鎌田さんにさ、ハヤが勉強できないから、中学でて働いてもいいんじゃないかって相談したの。そしたら鎌田さんはね、そう いう子こそ時間をかせいで、自分がやりたいというものがでてくるまで待ってたほうがいいから、どんな学校でもやれっていった。
鎌田 そう思うよ。いま敗者復活戦っていうのはないんだもん。
悠治 むかしは学校の勉強がきらいなら野球選手になるとかさ、音楽でもやってというふうだったけど、いまはそうじゃないんだってね。成 績がよくないと、音楽もできないみたいだね。
鎌田 そうだよ。菓子職人だって、いまは国家試験があるんだからね。悠治が一生懸命お金つくってさ、息子に商店を経営させたとしたって さ、どんどん倒産してるもん商店は。
悠治 最近びっくりしたのはさ、落ちこぼれて普通の学校はついていけないということになると、養護施設にいかされちゃうんだってね。
甲賀 登校拒否した子供を精神病院に入れちゃったりな。
鎌田 ハヤ君のことなんか、そんなに心配することないって。親がそれなりにがんばってればさ、大丈夫だよ。
美恵 ていうかさ、そういうものを、あの人自身がもってるのよね。
鎌田 そうだよ。おれらが否定したって、絶対にあるんだよ。
悠治 大丈夫なもんだよね。あんなに悲惨な幼年時代を送ってきてさ。根性なかったらやってけなかったよね。フィリピンに行って便りがな くなったから、どうしてるのかなと思って行ってみたら、一日中、大学構内でタクシー乗りまわしていたな。
津野 いくつぐらいの時?
悠治 四つかな。親たちがでかけちゃって、一日中いないわけよ。それで近所の子と遊ぶとかさ、自分でタクシーを止めて乗りまわしてる の。
津野 しかし、それはハヤの根性と同時に、フィリピンのタクシーのいい加減さをものがたってるよ。
悠治 そうそう。
鎌田 天才だよ、それはもう。
美恵 でも、やっぱりね、そのあとはしばらくひどかったね。
公子 自分のこと、すごくいいなと思ってればいい。それで成功だと思うのよね。
美恵 そう、それでいいのよ。
津野 明るさっていうのは習得するものなんだよ。おれだってそうだったよ。根は暗いんだよ。だから抵抗しなくちゃなんない。それで、お れ、ボーイスカウトに入ったんだもん、小学生の時。
鎌田 だったら向上心はあるんだ。
美恵 ハハハ、じゃあ、こんどはハヤと津野さんの対談やらなくちゃね。
「玖保さん。コーンサラダ油なんかどうでしょうね」
「コーンサラダ油?」
「とうもろこし一本の値段から考えるとコーンサラダ油って、すっごく不思議だと思いませんか? あれだけの油を取るのにかなりの量のとうもろこしが必要だ と思うんですよね」
「はい。はい」
「でも、だからといって、その分のとうもろこしの代金がかかっている割には、コーンサラダ油って、それほど高くつくものでもないでしょ?」
「そーですよねー」
「そういう、こう、その仕組みが分かってしまえば、何でもないようなことでも、ちょっと考えると不思議なことってあるでしょ」
「ありますねえ」
「だから、そういうのを書いてみたらどうかと思うんですよね」
「いーですねぇ。それ、行きましょ。ゴマ油の話!」
「コーンサラダ油です!」
以上は何か? というと、水牛通信に載せるエッセイのテーマに関するやりとりである。テーマを決めて書いた方が書きやすいので、毎回、何かしらテーマを与 えてもらっている。ただしもらったテーマ通りになるとは限らない。テーマを与えられ、そのテーマでいけそうなら問題はないし、だめなら別のことについて書 くという風に、方向がはっきりするので、便宜上、私にはテーマが必要なのだ。
そうか。ゴマ油か。言われてみればゴマって決して安くはないのに、ゴマ油って言うのは、その安くないゴマが大量に必要とされる割には、そんなに高くない気 がする。確かにゴマ油は不思議だ。あれ? コーンサラダ油だっけ? まあ、原理は同じだ。探せばそういうことが世の中にもっと在るはずだ。これは、いけそ うだ。にこにこ。
テーマを与えられて、2週間いじょうたった。なのに、何も考えつかない。おかしい。そのテの不思議はあるはずなのに。確かにある。確信できる。あるのに出 てこない。頭の中で象の大群が騒いでる。彼らは出たがっているし私も出してあげたいのだが、それができない。もしくは、情報のいっぱいつまったコンピュー ターが目の前にあるのにアウトプットできないはがゆさ。
疑問に思うことを片っぱしから、「なんで? どうして?」と聞きたがっているというエジソンの話がふと頭をよぎる。
そういえば、私は生物、科学、物理というのが苦手であった。それらが好きな人に言わせると、どうしてそうなるのかと疑問に思うことが解明されていくのがお もしろいのだそうだ。
考えてみれば、私は「何故だろう」という関心を何かに対して持ったということが少ない。
不思議だと思ったことに対しても、それを丸ごと不思議のままにのみこんでしまう。不思議を不思議、変を変と思わないところが私にはあるようだ。
きっとそういう人間は、理数系が不得意なのだ。好奇心が原動力となるような学問はダメなのだ。
コーンサラダ油の類似項目が見つからないのはそのためなのだ。では、私は好奇心が全くない人間なのか?
シーン1 喫茶店。コーヒーを飲み飲み語らう友人と私。
私「この間知り合いになった○○さんてね。すーごーくおもしろいの」
友人「へー。良かったじゃない。で年は? どこの学校出たの?」(彼女は○○さんが男性である場合は必ずこう聞く。ほとんど仲人のおばさんのり)
私「……。そんな話はしなかった……」
友人「ダメじゃない。肝心なこと聞かなくちゃ」
私「……。そうか。そういうことって肝心なことなのか」
友人「そーよ! ほーんとに関心ないんだから!」シーン2茶の間。TVを見ている母と私。母、がさごそと写真の束を取り出す。
母「ねー、ほら、これ。この間の旅行のときの写真」
私「へー。ほー」
母「でね、こっちは法事のときので。ほら、ほら、これ裏の家の……」
私「ふーん」
母「こっちの△△ちゃんの結婚式のときの写真見た?」
私「……」(視線だけ投げる)
母「……」
私「……」(テレビに集中しているフリをしている)
母「もう、いい! もう、あなたなんかに写真見せてあげない! ほんっとに関心ないだから」確かに、他人に対する関心が、少々薄い気がしないでもない。
はっきり言って、冷たいと自分でも思うときがある。
しかし、こういう時、周囲が要求する関心とか好奇心というものは、お天気の話に等しい種類のものだ。
ほとんど内容のないものだ。
元気な時だったらたまにつき合ってもよい。
いかにも関心があるようなフリをして、「まあ。そうなの。それで」とか調子を合わせることもできる。
しかし、儀礼的なつき合いならまだしも、どうして、親や友人、「ほーんとにいいお天気ですねー。ほほほー」てなニュアンスのお愛想をふりまかなければいけ ないのか。
私は正直者だぞ。
本当なら、友人に向かって、「そんな会話なんか興味ない」と言いたい。
本当なら母に向かって、「誰が誰だか区別がつかない親戚に対する関心は、はっきり言ってないです」と言いたい。
言わずに曖昧にすますのは、私のやさしさなのだ。
もっとくわしく説明すると、冷たい人間だと思われたくないのだ。
一番関心があるのは自分です、なんて、あまり他人には言ってはいけない気がするが、これだけ、くどくどこういうことを書くというのは、やっぱり自分に興味 があるからなのだろう。何だか、すごくいやなところに話がそれてしまったが……。ぶつぶつ。
えー、「何故だろう」という種類の好奇心は、ちょっと思いつかなかったが、一応、私にも好奇心はあるのである。
一つは、2回もシンガポールに行ったのに、とうとう見つけることもできなかったドリアン。
もう一つは、イギリスの小説にしばしば登場するクリスマスプディング。
私は持ちえる限りの想像力を駆使して、この二つの味について、あれこれと考え、これらに対する好奇心が満たされる日を夢見ている。
<同情>
自分のやっていることに対する他人の反応というのは、時々意外なものである、という体験をした。
川崎の生活クラブ生協で、ちょっとした集まりを定期的にやっているが、そんなある日、その中のひとりの女性(生活クラブ生協で活動している人のほとんどが 主婦だ)が、十一月号の本誌のぼくの欄をパラパラと読んで、妙に感心したように「なんか、わびしいわね。わたしの老後を見ているみたい」と言った。多分、 鮭のカス汁のくだりであまったカス汁に毎日違うものを入れて食べるくだりへの発言なのだが、これにはそう聞かされたぼくの方がびっくりした。
だって、ぼくはべつにわびしい暮らしゆえに、そのように毎日残り物に少しずつなにかを加えているわけではなく、むしろ逆に楽しみとしてそうしているのだ。 “実験”というものや“練習”というものが、あまり成立しないのが食生活なだけに、実験や練習は、そのまま本番になる。だから、できるだけ大胆にかわった 組み合わせを楽しみ、その中で、いろんな発見ができれば、と思っているのだが、料理のベテランの主婦から見ると、それがひとり暮しのわびしさにうつったの かもしれない。
となると、この欄はいつも、そういう同情の眼で読まれているのだろうかと、一抹の不安がわいた。ぼく自身は一度だってそんな気になったことはない。もし、 わびしい、と思ったら、たちまちどこかの友人のところへ出かけて行くか、友人を呼んできて、複数の人間で食べることをするだろう。そんなことは、これまで 起こっていない。むしろ、少年の日々に、母親代わりをしていた時代には、さすがにまだ日の高いうちから、石油缶を改造した“カンテキ”でご飯をたかなくて はいけないかったりして、幸い思い出したことはある。
けれども、五十歳になった今、ぼくはむしろ、とても楽しく料理をしているし、後片ずけをしている。
ま、でも、ぼくの人生観からいえばどう思われてもいいけど――。<ハンバーグ>
その川崎生協で、肉類をまとめてかなり買った。挽肉、ハム、豚の塊などだ。そこでまず、ハンバーグを作った。ハンバーグといえば、かねてから不思議なの は、どうしてだ円形なのか、ということだ。三年ほど前、黒色テント68/71の関西地方ツアーに料理人としてついていった時、“つなぎ”と呼ばれる中間食 で、ハンバーグ・クレープを作った。クレープ、といっても原宿の街角でおいしそうな匂いで焼いているヤツほど本格的でなく、ぼくは昔から“マキマキ”と呼 んでいる小麦粉を卵と牛乳で薄目に溶いて焼くだけのものだが、これだけだと、まさに“つなぎ”にならないので、これでハンバーグを巻こうと思いついた。
そのためには、寸角(一寸角の棒)のように細長いハンバーグを焼くか、要するに四角い大きいハンバーグを焼いて、これを切ればいい、と思いついて、そうい うのを四十本ばかり作ったことがある。以来、ハンバーグがだ円形、というのはなぜだろう、べつにどんな形だっていい、と思っていて、今回もできるだけ奇妙 な形にした。
もっとも、そうすると、ちょっと見には、まるでお好み焼きでも焼いているように見えるのだ。<豚の角煮>
豚の塊の方は、どうしようか、またロースト・ポークにしようかと迷っている時、新聞の料理欄に豚の角煮が出ていた。じつはこないだいささか失敗をしてい る。というのも、圧力鍋で作ったのだが、ひどく焦げつかせてしまった。理由は、はじめから味付けをして、圧力鍋を使ったからだ。そこで、今回は、豚の塊を 大雑把に切り、圧力鍋に水を入れ、そこへほうり込んで、なにやかやと香辛料を加えて(この時は、コショウ、オレガノ、八角、などであった)少々塩をふって まず“水煮”をした。大成功。
それから、普通の鍋にこれを移し、サトウ、ミリン、しょうこう酒、ショウ油を加え、そこにサツマ芋の輪切りをたしてコトコトと煮た。なかなかのできの角煮 で、時々やろう、と思った。<チョコレート>
角煮を作った次の日、両国の国技館へ中島みゆきを見に行った。あと数日で海外へ行く、という時だったので、幾つかの打ち合わせをその前に大急ぎですませ、 なにしろ国技館、いつも相撲やってる時には、みんな弁当ひろげてるし、食物には事欠かないだろうと、かけつけて入った途端、食べるものはいっさい売ってな い、と主催者にいわれてガックリ。カバンの底の方に小さい板チョコが二枚だけ入っていたので、とりあえず、それでガマンすることにした。
ところが、コンサートがひどいものだった。まず、セット。まるでリヒアルト・シュトラウスか、ワグナーのオペラでもやるような大げさなもの。中島みゆき は、その大げさなセットの奥の方から、後光をうけて登場する。天の岩戸ではないか、これでは。その次に音がひどい。ステージの両側に、巨大なスピーカー・ ボックスを十個ずつ並べて、しかもそこから最大級の音を出す。サックスがソロをしても、館内全部を百フォンを越すような音が響きわたる。その上、アレンジ がどうにも古くさい。三台もキーボードを使っているが、いや三台も使っているからか、ただ大きな音を出すためにだけ弾いているような感じだ。新居さんに見 せたかったなあ。
というわけで、空腹はいよいよ激しくなった。やっと終って、一目散に大井町まで出て、ご飯を食べようと思ったら“まんの悪い”時には、まんが悪いもの。ま ず最初に入った「とんかつ屋」は「もうご飯がありませんから」と断られた。次に、寿司・鰻、と書いてある店で鰻でも食べようと入ったらこちらの服装をいち べつしてから「何にします?」と来た。「鰻を」というと「鰻はもう売り切れた」とのこと。「ホンマかいな」と思ったが、黙って店を出た。どうも鰻だけ食べ るお客さんはいらない、というような気もしたが。それでも、“拾う神”もいて、焼肉屋で、レバ刺とビビンバ、という奇妙な取り合わせを注文して食べた。<昆布茶>
お正月料理、というものにほとんど無縁である。こどもだった戦争中は立派な寺に住んでいたのだが、それでもお正月にどんな料理を食べたのかはまったく覚え がない。ただ、きまって正月には昆布茶を飲んでいたのだけははっきり覚えている。最近のように、こなになっているのではなく、たしか、だし昆布をたき出し た形の昆布茶である。それとも昆布茶様昆布、があったのだろうか。さすがにそこまでは考えなかった。
その後は、以前もここで書いたような貧乏暮しだから、正月といえばお餅があるだけでいい、というような正月が続いていた。ずっと大人になってからもだか ら、正月にいろんな料理をしたいと思わなかった。“おせち料理”は、たぶん毎日料理を作らされている主婦を台所から解放するためだ、という文章をどっかで 読んだ気もするが、ぼくなんかのような気紛れ主夫は、冷えきった芋の煮っころがしを、毎日食べるぐらいなら、なんか作った方がよほどいい、と考えてしま う。
だいたい暮になると、野菜や魚が妙に高くなる。たいていの店は三が日が済めば開いているのだから、たった三日の分だけ材料を買えばいい、それも一日目は雑 煮でもいい、となればほとんどいらないのだ。
だけど、一度だけ、おせち料理をかなり熱心に作った年がある。熱心とはいっても、せいぜい、クリ・キントン、芋の煮っころがし、鮭のマリネ、を作ったぐら い。あとはハムを切るとか、その程度のことだった。それでも、すぐに食べあきて「おせち料理は友達のうちで食べさせて貰うにかぎる」とつくづく思い、次の 年からは二度と、そんなことをしようとは考えない。<レゲエお好み焼き>
と書くと、なんのこっちゃ、ということになるが、要するにレゲエの好きな人が店でレゲエをかけながらお好み焼屋をしているだけのこと。とはいうものの、店 が二階にあるのだが、一階から二階へあがる階段は、ラスタ・カラーといわれる、赤・黄・緑の三色に塗られているし、メニューは、片面にボブ・マーリィの写 真が全面にベターッと貼ってあり、もう片面には、ラスタ・カラーと黒を使って、椰子の木のある浜辺に月が登っている“切り絵”がしてあるのだから、かなり のもの。
もっともそこへ行った日は、その直前に食事をしたあとだったので、なにも食べる気がしなくて、四十度のラム、コバルを一杯飲んだだけ。だからどんな味のお 好み焼きかは、今もってわからない。しかし、マスターに「かきとじゃがいも」のお好み焼きの作り方を教えてあげたら、面白がっていたから次に行った時に は、それがメニューにのっているかもしれない。<大食い>
学生時代は、親しい友達のうちへ行くと「バケツでお茶をわかさなくては」とか「おひつ一杯のご飯を食べた」とかいわれたのもだが、この頃は「小食だ」とよ くいわれる。
今まで聞いた話の中で、胃がとても大きいと思われた人は、佐藤さん、とかいう人のことだ。
この人の友人が佐藤さんの家へ泊りに行って、次の日の朝出勤する時、国電秋葉原の駅で、突然「牛乳でも飲んでいこう」と佐藤さんがいうと、KIOSKへ行 き「いつものヤツ」と店員にいうと、店員は黙って、牛乳を十本出したら、佐藤さんはそれをあれよあれよという間に飲んだ。そのしばらくあとで、バリウムを 飲んで胃のレントゲンをとる時、くだんの佐藤さんは三人前のバリウムを飲んで、なおかつまだ胃がうつらなかったそうだ。
もっともぼくなんか、バリウムと聞くと、胃ではなく、肺に何度かバリウムを入れた時の苦しさを思い出してゾッとする。大学五年の時に、原因不明の熱が続い て、結核の疑いで入院したのだが、いくら検査をしても結核菌が出ないので、肺のレントゲン撮影をするためにバリウムを飲まされた(肺へ飲めるわけがないか ら、注入されたと書くべきだろうか)。
喉を麻酔して、管を通して入れられるのもつらいが、撮影が終ったら、そのままにされることだ。胃の場合は、そのまま出るが、肺の場合はそうはいかない。咳 をするたびに啖といっしょに出てくる。それは何日も続き、大変つらかった。
結果は、それでも結核ではなく、最終的には気管支拡張症、という名をつけられた。そのせいか、今でも時々突然コーヒーやお茶が気管に流れ込んで、ひどくむ せたりする。それは誰にでも起こることなのだろうが、どうもぼくの場合には、その頻度がひとよりも多いという気がする。<カンタン料理>
津野さんは、会う人(女に限られているそうだが)ごとに「あなたが得意な五分以内にできる料理」というのを聞いてまわっているそうだが、最近聞いた中で は、挽肉を丸めて水の中で煮て、そのまわりに白菜を切っていれてスープ・ストックで味付けする、というのがあった。なんとなく日本にふるくからある「ド ジョウと豆腐の鍋」のような気がしないでもない。もっとも挽肉はドジョウと違って、あついからといって、白菜の中へ逃げこんだりはしないのだが――。
おかずがない時に次のように工夫した人がいるそうだ。ご飯を炊く。ふいてきたら、その中の一部をとり出す。残りはそのままご飯としてたく。こっちをおかず にして、残りでたいたご飯の方を食べるというのだ。これはカンタン料理どころか、ずい分手間がかかってはいる。<お菓子のなる木>
こどもの頃うたっていた歌で、今はどうしても見つからないし、うたわれてもいない歌、というのがある。
その中のひとつに、「お菓子のなる木」という歌がある。これがその歌の題名なのかどうかもわからない。今覚えているのは「お菓子のなる木を植えました。お 菓子のなる木を植えたなら三年三月で実がなった。ずらりと並んだチョコレート」というくだりだけである。しかも驚くべきことにこの歌は二番あるいは三番が 「お金のなる木を植えました。」というのだったという記憶がある。もっとも“お金”の方は、三年三月たったら、どんな、“お金”がなったのか、まったく覚 えていない。メロディも、ここの部分ははっきり覚えていてうたえるのだが、誰にうたって聞かせても、そんな歌は知らない、というばかりだし「日本童謡集」 のたぐいをずい分みたけれども、まだこの歌には出喰わしてない。読者の方でもし知っている人がいたら、ぜひ知らせて欲しいと思います。
それにしても大胆な歌やなあ。<精進料理>
脂っこいものばかりを毎日食べる気はしないが、さりとて精進料理、というのもぼくにはおいしいと思えない。それだけ、ぜい沢になってしまったのだろうか。 こないだも入谷の晋茶料理というものを食べさせて貰ったが、なんかどれもこれも食べた気がしない物ばかりが出てきた、という気がする。その店の自慢だとい う“こんにゃくの刺身”というのも、べつにこんにゃくが薄く切ってあるだけ、という以上の気になれなかった。でも(値は)高そうという感じだった。
懐石料理、は精進料理ではないそうだが、このあいだ大学の同級生にあったら、滋賀県の八日市市になにやら有名な店があって、そこはひとり二万八千円で、懐 石料理を食べさせるのだという。その値段を聞いただけで、もうおそろしくなる。ただいろいろ出てくる料理の種類を聞いたが、中で、ステーキの上にしば漬け を刻んでのせてあるのがとてもうまかったそうだ。なるほどなあ。その店では、料理につける柿の葉を、店の人たちがいちいち山へ出かけて形、色、などが良い ものを見つけてくるのだそうだ。ほとんど人件費を払わされている、という感じだ。<ガムを噛んで>
友人の大塚まさじの古いレパートリーにこの歌がある。七四年に、かれがグループを解散するコンサートに、一年前うちに居候していたローレンスの当時のアメ リカでの同居人、ゲイル・カタギリという日系人が来日していて見に行って、会場のみんなにガムを配って大うけしたことがある。
ついこのあいだ、ジョン・レノンがオノ・ヨーコと七二年の八月にニューヨークで開いたチャリティ・コンサートのビデオを見ていたら、なんとジョンはステー ジにいる間じゅう、ずっとガムを噛んでいるのだ。曲と曲の合い間に喋っている時には、はっきりそうとわかるが、うたっている時にはまったくわからない。そ の時はガムはどういう状態になっているのだろうか。上顎にくっつけているのか、奥歯の横にでもしまっておくのか。よくあんな器用なことができるものだと、 つくづく感心した。“ガムを噛んで”そのものだ。
もっとも大塚ちゃんの歌は、そのあと「戸口に立とう、通りを抜けるとそこは丸木橋」と続き、ガムを噛んで歌をうたう、とはひとこともいってないし、大塚 ちゃんとはこれまでずい分あちこちへ同行したが、まだただの一度もかれがガムを噛んでうたったのを見たことはない。<ネグロス>
フィリピンのネグロス島の飢餓は、このところ新聞でも大きく取りあげられている。その記事を読むたびに、二年前に訪れたネグロスを思い出す。その時のこと は以前もここに書いたような気がするが、カンソ、といえばあれほど簡素な暮らしはなかった。竹らしきものを編んで作った高床式の家は、表から裏までブライ ンド越しに外を見るかのようにすかして見える。それは家財道具らしいものが、いっさいないからだ。電気はきてないから電気製品はいっさいない。年中暖かい ので、布団の類はこれまたいっさいない。タンスも押入れもない。たまたまぼくたちはそこへ行く前に、首都のバコロドの市場で干魚を買っていったので、それ を焼いて出してくれたが、おそらく魚はかれらにとって、大変な御馳走だったに違いない。あとはご飯だけ。箸を使わず手で食べる。ぼくがこどもの頃の田舎で の生活を、ここでは村中がやっているのだ。しかもここには、八百屋も干物屋もない。
次の日、砂糖きび畑を見学しに行って、炎天下を歩いて、もうちょっとで日射病になりかけたところまで、昔と同じだった。<但馬牛を楽しむ会>
という名を大きく印刷したダイレクト・メールが来た。中を開けるとパンフレットが入っていて「本場『純但馬牛肉』の歳末特価販売のご案内」も同封されてい る。それによると、御歳暮用ステーキが1キロで二万円(!)と書かれている。安いものでも1キロで一万円である。それでいて、パンフレットには「牛肉はど うして高い?」という一文字があり「牛肉が家庭に届くまでの従来のシステムの複雑さを知ったら、まさかとお思いになることでしょう。ある生産者から売れた 牛は、多いときには十件近くの作業を経て、やっと肉屋の店頭に並びます。そして一業者を経るごとに、価格が上がるのは当然のことです。こうした複雑な流通 システムがある限り、牛肉の値は上がるばかりで、不足がちな但馬牛の肉など、途方もない価格になってしまいます。『但馬牛を楽しむ会』は、そんなばかげた 流通システムに対する、挑戦でもあるので世界一おいしい但馬牛のステーキをご家庭で、ふつうの値段でおたのしみいただけます」と書いてある。
1キロ、二万や一万が普通の値段なのか。そういえば、このところ牛肉なんか買わないから“相場”というものがわからないけど、随分高くなってるわけや。<スペア・リブ>
同じ肉でもこちらはだいぶ安い。1キロ、千四百円ぐらいではないか。これの食べ方はいろいろある。一時こっていったのは、ここにも登場した唐揚げ。オーブ ンがあるうちなら、そこで焼くのがおいしい。一番カンタンなのは、塩、コショウだけして焼くもの。タレを使ってもいいのかもしれない。ぼくは、自分でいつ ものようにええ加減なタレを作る。ニンニク、ニンジン、タマネギ、ショウガ、をかなり大量にすりおろし、そこにワイン、トマト、ケチャップ、ウスター・ ソース、一味唐辛子、などを加えてよくまぜ、ここにスペア・リブを一時間ほどつけといてオーブンで焼く。これは鶏の手羽先でやってもおいしい。<海の家>
といっても、べつに海岸にあるよしず張りの建物ではなく、高田馬場にある食べ物屋だが、これについてはすでに一度書いた気もするが、つい最近も二度ほど 行って改めて感心した。昼の定食が六百円。刺身、肉豆腐、などいくつかの種類がある。それだけならべつにふつうの定食屋と同じだが、店にはほかにいろんな ものが置いてあり、自由に食べられる。納豆、のり、ちりめんじゃこ、大根おろし、貝のつくだ煮、梅干、白菜の漬物、いかの塩辛。だいたいこれだけのもの が、たっぷり大皿にそれぞれ盛ってあり、それぞれ食べたいだけ小皿にとってきて食べればいい。早くいえば、ホテルの朝食の和食バイキングだ。
ご飯たべ放題、味噌汁のみ放題、その上帰る時に、ミカンを二個ぐらいづつデザートに渡してくれる。これでしめて六百円。一階が主に調理場、二階が二十人ぐ らいのスペース。働いている人は板前一人、お手伝い一人、お客さんの手伝い一人、それに六十近いママさんらしい人。もちろん、この種の店の多くがそうであ るように、夜は一杯のみ屋、それも“生けす”などがあるから、少し高い目のそれ。にしても六百円でやっていけるとしたら、よそがよほどもうけているか、こ こが赤字でもサービスしているのか。<椎の葉に盛る>
久し振りに徹夜で原稿を書いた。さすがの夜長もそろそろ白々と明けてくる。間もなく成田へ向かう。家にあれば、けに盛る飯(いい)を草枕、旅にしあれば、椎の葉に盛る。
これは万葉集の中で、ぼくが覚えている数少ない食べ物の歌のひとつ。もっともこれから出かけて行くところのいずこでも、椎の葉に盛ってご飯を食 べるところはなさそうだが、それでもどこか日常から離れているところはある。また、行く先々で料理してこなくちゃあ。
Sクンとは、三沢の反戦喫茶「アウル」であった。十六、七年前のことである。そのとき彼は二一、二歳だったから、もう三七、八にはなったのだろう。「こと しは結婚する!」と自信と決意をこめた年賀状がきたこともあったが、結婚を表明したのは、そのとき一度だけだった。幸か不幸か、それっきりになってしまっ たようである。「アウル」は岩国の「ほびっと」とならぶ反戦喫茶として知られていたようだが、わたしはその両方とも知らなかった。「むつ小川原開発」の取 材にいったときに、「変な青年たちがいますよ」と三沢市のローカル紙発行人に教えてもらったような気がする。覗いてみると、ベ平連が米兵相手につくった バーだった。
いまよりははるかに若かったわたしは彼らを相手に、むつ小川原開発反対闘争重要性をアジり、、ビラやパンフレットをつくるのを手伝い、ヒッチハイクの仕方 を教えてもらって開発予定地の六ヶ所村に通うようになった。やがて、共産党や社会党も遅ればせながら運動にはいりこみ、鹿島から変な右翼も乗りこんで、例 によって過激派キャンペーンがはじまった。となると、ヒゲをはやした汚れた服装の怪し気な青年たちと東京からときどきやってくるルポライター風情では歯が たたず、あっさり排除されてしまったのだった。おりしも高名なる宇井純氏までが、右翼怪青年によって会場から放逐されてしまったのだから、推して知るべし である。
たぶん、それとは別の理由だったろうが、アウルは解散した。店の責任者はいま日市連の「幹部」となり、栃木県の農家に入婿した青年は、さいきん宇都宮で 「六ヶ所村核燃料基地反対」の団体をつくって、小室等のコンサートをひらいたりしている。
結婚のチャンスを失ったSクンは、出稼ぎで生活してきた。わたしもはたらいたことのある旭硝子の船橋工場におなじころいたり、埼玉の菓子工場でわたしの知 人の出稼ぎ労働者と会ったり、その後いくつかの奇遇があった。
奇遇といえば、昨年、彼は六ヶ所村で自衛隊の兵員輸送車にはねとばされいまは治療に通いながら、自衛隊から保険金を取るチャンスを握った。反戦の奇縁であ る。
六ヶ所村の反開発闘争は、無惨にも敗退した。右翼怪青年や彼をもちあげていた大新聞の記者たちは、もはや村に入ることもない。喧伝された石油コンビナート の大工業地帯は、石油タンクを並べただけの役立たず石油備蓄基地になった。三井不動産などによって買収された膨大な農地は、荒れるにまかせるばかり。それ で焦ったのか、六ヶ所村は保守派だけの村議会でさえろくに議論することなく、受け入れを決めた、と発表している。電事連(九電力の利益調整団体)と県は、 核サイクル基地反対の漁協組会長を入院中に解任したり、反対派漁師を逮捕させたり、やりたい放題。開発反対同盟は両手で数えるまでに減っていたが、核サイ クル反対の農漁民は、またふえだした。
Sクンは東京に出稼ぎにくるたびに化学者たちに会い、現地での学習会を準備してきた。この十五年、下北半島でひらかれた原子力関係の集会のほとんどに彼が 陰ではたらいている。
昨年十二月一日の村長選は、自民党公認、電事連応援の古川伊勢松(69)と組合長を解任され、息子が逮捕された滝口作兵ヱ(59)との争いになった。Sク ンは二週間ほど泊りこんだ。手弁当で泊りこんで駈けまわったのは、Sクンばかりではなかった。
八戸に住むKクンもまた、三〇半ばの独身者である。千葉の工場で働いたあと、さいきんになって八戸に帰ってきたのだが、就職することもなく六ヶ所村に通っ ている。三沢に住むNクンも三〇すぎ。彼は教師志望で、まいとし採用試験を受けているが、いまだに浪人である。父は基地労働者だったが、若いとき死去、母 が一人息子の彼を育ててきた。いまでも彼は母のスネかじりである。もうひとりは、むつ市に住むKクンである。富山生まれの彼は、いま一人芝居をやっている 松橋勇蔵の東京時代の仲間だったが、むつ市に住みついて漁師になった。
核サイクル基地をめぐる六ヶ所村長選は、これら、無業の独身者たちと子どもの将来を心配するおっかあたちのエネルギーによってたたかわれた。
古川伊勢松は、「暗愚の帝王」と称された鈴木善幸をさらに数十倍も愚鈍にした男で、話しても何が結論なのかわからない話術の持ち主である。彼らの陣営は、 「滝口候補には千票もやらない」とナメ切っていたが、フタをあけてみると、滝口票は二千五百票と投票数の四〇パーセントを占めた。古川と核サイクルへの批 判票だが、血縁や買収で奪われた票を考えると、反対はもっと大きいと考えることができる。
開票のあと、顔見知りの独身者たちと、滝口家の二階の座敷で酒を呑み、枕を並べて寝た。六ヶ所村へ行ったときは、たいがい彼らの誰かと一緒に行動するのだ が、ときたま、Sクンから東京の自宅に命令口調の電話がかかってくる。すると、わたしは従わなければならないのである。
ひそかにわたしは、彼らを「東北の武神たち」と呼んでいる。深沢七郎の貧しくて嫁をもらえない次男(オンジ)たちに倣ってのことだが、彼らは深沢の主人公 よりもはるかに明るい。それは仕事と女性を拒否しているためなのか、拒否されているからなのか、そのどっちかはきいたこともないが、党派にも属さず、運動 からの挫折感も感じないことだけは、共通しているようである。
●カセット「カラワン・農村漁村キャラバン・ライブ84」
もう一昨年のことになりますが、カラワンののスラチャイとモンコンが来日し三カ月間かけて、秋田県本庄市から沖縄は石垣島まで農村漁村をキャラバンしまし た。このキャラバンを企画・実行した三里塚の小泉英政さんとR・リケットさんが制作した実況版カセットです。カラワンの古い曲から新しい曲まで18曲入っ て80分、ステレオ録音。送料共二千円。問い合わせと申し込み先は
(八巻)●<鳥の歌一九八六>→山谷
84年の暮、山谷で映画作家佐藤満夫が右翼やくざに殺された。亡命先からフランコの支配するスペインのためにカタロニア民謡<鳥の歌>をひいたカザルス にならって、労働者の街山野に向けてのコンサート。出演者はA−MUSIK、L−TRANS、ルナパーク・アンサンブル、梅津和時、高橋悠治、友部正人、 風巻隆、みらん、河内屋菊水丸、原爆オナニーズ、他。2月2日2時−9時、スーパーロフトKINDO、前売二千円、当日二千五百円。問い合わせは
(高橋)
妙な臭いがする。自分である。ズボン下もシャツもひどく汗臭い。ランニングスーツも臭い。このまえ、洗わないで縁側に掛けて乾かしたからだ。そういえば、 縁側にみかんを取りにいった娘はゆうべ「死ぬー!」といって、鼻をつまんで出てきたっけ。
冷たい畳のうえに横になって、身体をのばしはじめる。左の股関節がどうしてもいうことをきかない。右の膝をまげ、足を尻のほうにひっぱりながら、股が直角 になるように左の足をまっすぐのばす準備体操をやる。横になって、天井からぶらさがっている蜘蛛の巣をながめているかぎりはなんともないが、上半身をおこ して、左手で右足の爪先をつかんで足の筋肉をのばそうとすると、股関節に針がつきささったように、痛い。夏には、ほとんど歩けなくなって、三週間ランニン グをやめて、水泳に切り換えなければならないほど痛くなることもあった。
玄関の上框に腰をおろす。運動靴の中に丸めて入れてある靴下をとりだす。ああ、いやだ。湿っている。右の踝につけるサポーターもじっとり冷たい。仕方がな い。サポーターを足につけて、靴下を履く。靴はどろどろ。くつひもをゆるめて、靴をねじりながら履く。左足のほうには、小さな袋がベロのようにくつひもに ついている。名刺と千円札一枚がはいっている。名刺は、倒れて口がきけなかった場合、名前と連絡先がわかるようにだ。千円札はジュース代。
くつひもを結ぶ。指が冷たくて、うまくいかない。具合が悪かったら、すぐ帰ってもいいよ、毎回四十五分走らなければならないと決まっているわけじゃない し、と自分にいいきかせながらドアをあけて、外に出る。さあ、きょうはどっちにいこうか。ヘッドホーンからながれてくるノーナ・ヘンドリックスの唄「アイ・スエット」に歩調をあわせながら、御所のほ うに向かう。少し調子がでたかなと思いつつ、河原町通りをよこぎる。もう大丈夫だ。きょうも、なんとかいけそうだ。
「わたしのからだがうごく/頭より早くうごく/記憶はない/あんたのことで心がいっぱい/時間はどんどん過ぎるが/なにも考えられない/なにも感じかれな いが/あんたの感じが忘れられない」唄の文句を聞きながら、御所の広い敷地にはいる。なんとなく聖域を冒涜しているみたいな気持ちになる。今はやりの言葉 でいえば、ウォークマンをかたてにどしんどしん走るぼくの肉体といく記号と御所という記号とは、相容れないはずのものである。その二つの記号が意味するも のはあまりにもかけはなれているからだ。しかしいやな気持ちではない。ぼくはむしろ快感をおぼえる。ぼくは観光客としてでもなければ、ましてや皇民として ここに現れ出たのでもない。あくまでも御所の白い築地と平行に走る、同化しない存在だ。
同化か。九月にぼくは小熊秀雄という詩人が一九三五年に書いた「長長秋夜(ぢゃんぢゃんちゅうや)」という長編叙事詩を訳して、異質の存在と共存する手段 としての、日本人が同化の思想にたよったことを、ふたたび考えた。「長長秋夜」は、合併後、日本が朝鮮に対して実施した文化同化政策の一部だった「白衣着 用禁止」についての作品だ。朝鮮を占領してから日本は朝鮮人に日本名を名のらせたり、朝鮮語使用を禁じたりして、朝鮮文化を根こそぎにしようとしたこと は、漠然と知っていたが、小熊の詩を読んで、その政策が朝鮮民族にとってなにを意味したか、はじめて痛感した。
ぼくは丸太町・烏丸の交差点に向かっている。朝鮮人の息子をもつ父親として御所を走り抜ける。同化の問題はけっしてぼくたちの生活と無関係ではない。韓国 は馬山生まれの息子カイは一昨年の六月、うちの家族に加わった。カイを迎えるのは、ペルーからきたぼくらの娘の場合とはかなり違った体験であった。娘のヤ エルは生後二日にぼくらの所にきた。十七カ月できたカイはそれに比べてだいぶ歳をくっていた。ヤエルには<過去>はなかったが、カイには知られざる十七ヵ 月の<過去>があった。その間にいろいろなことがあったにちがいないし、ぼくらはその知られざる<過去>ととりくまなければならなかった。それはいまでも 続いている。
問題は、その十七カ月の、朝鮮人としての<過去>をいかにして生かすことができるか、ということである。朝鮮人のアイデンティティを少しでも残してやるこ とは無理だろうか。ヤエルとカイのために、多元多様な世界を保証してやりたい。
「アイ・スエット/びしょぬれになって/わたしはうごきつづけて」耳に轟くすさまじいビートにのって、ぼくは走りつづけている。
●タリー・ブラウン、ニューヨーク(ローザ・フォン・プラウンハイム)
からすの羽のようなつけまつ毛が重くはばたくと、ひっこんだ目がじっと見つめている。二重あご。新鮮さのない伴奏ピアノのリズムにのってほとんど無表情の 語りだし。なにかあたらしいことか起こりそうな気分。
やがてブルースのメロディーやきまりきった歌手のしぐさがあらわれ。そうか。もう60年代じゃない。あの頃はターリーもほかのみんなとおなじようにデカダ ンスを演じていたのだった。時代の波がひくと、芸能界で浮かび上がろうと努力している「その他大勢」の姿がのこった。ミュージカル女優で売出して、一時は いいところまでいったのに。舞台の事故で足を折ってから、毎日ちいさなクラブでうたい、毎月の労災保証金をうけとりにいく。
ニューヨーク・アンダーグラウンドの60年代はテレビのなかで生きているような祭りの日々だった。それが突然終ってしまうと、ひとりひとりの努力がやっと ささえている味気のないアメリカの現実が顔を出す。
あの頃のこどもたちがおとなになって、60年代をおもいだす。それは年をとってから青春をふりかえるのとはちがって、幼年時代をとりまく「物のおし え」(パゾリーニ)に帰るのだ。デカダンスもこれからが本番だ。決して目覚めることのないテレビの夢だ。●そして船は行く(フェリーニ)
電子的編集技術がビデオに映画的時間をとりもどしたとすれば、映画の方は最先端のテクノロジーを手放さずに無声映画の原点にもどろうとしてオペラになる か。それともオペラかにかかわる映画はそれ自体がオペラにならずにはいないのか。フェリーニのテーマが過去へのたびであるからには、映画という媒体自体も サイレント時代を通りこしてそのひとつ前の大衆娯楽であるオペラにまでさかのぼらずにはいないのか。この映画はメディア相互のたわむれを内容としているよ うに見える。
最初の波止場のシーン。モノクロームのサイレントでの映画の撮影を撮影している。だれもがカメラを見ながら演技している、その自然さ。やがて画面にうすく 色がついてくるが、しばらくはカメラを気にしながらの演技はつづく。
ビニール製の海と空の間に浮かぶ船のなかで貴族、音楽家、ボイラーマンと難民。階級対立も歌手ののど自慢と難民の踊り、甲板の大合唱の輪になって。ヴェル ディ風スペクタクル。
にわとりに催眠術をかけるバス歌手の声。クリスタル・グラスで「楽興の時」を合唱する老音楽家たち。機関室の機械音さえも圧倒するテノールのアリア。みん な過ぎさった日の芸だ。最後に、沈む船のなかで半分水につかりながら、手動映写機でいまは亡きプリマドンナのフィルムをまわす男。
映画音楽もヴェルディやロッシーニのコラージュとまがいものでできていた。フェリーニの演出はいつもながらたいへん音楽的。●ノスフェラトゥ(ヴェルナー・ヘルツォーク)
深い山の中、日没とともに幻のように浮かびあがる古城。吸血鬼の剃りあげた頭、毛細血管の浮いた、かびのような頭、とがった付け耳、おくらされたなめらか な身のこなしが、陰の方で白く。それに対してこの世の代理人はピンクの皮膚をして、毛深くて、デリカシーを欠いた衝動的なうごきが、不安とあせりをかくし て、光のあたる側にとどまっている。
近代世界の表側から追放されて貧血症にかかったエロスが、こんなにみじめな姿で「愛をわけてください」と哀願してるのに、健全な市民は不動産の取り引きに しか関心がないのだ。
だが見よ。こうもりやねずみなみにおとしめられても、闇の力は文明の中心に喰いこんでいた。ひとりのドラキュラが心臓を杭で打ち抜かれても、もうひとりの 化身が世界を変えるために砂漠へ乗りだしていく。愛の永続革命のおはなしでした。
ところで、ドラキュラ城に近づくにつれて「ラインの黄金」のはじめの部分がきこえてくるのが、たったひとつの和音のゆらぎだけでできているこの音楽にも闇 の力がそなわっているにちがいない。そのわずかなゆらぎが、とてもゆたかなものにきこえる。
こんなテーマがヴァーグナーの音楽もろとも現在のものとして生きているドイツというところは、同じ地球の上とはおもえないほど遠い。たぶん向こう側でもお なじ思いでこちらの背中を見ていることだろう。同時代という概念も近代の神話にすぎなくて、顔をあわせていてもそれぞれはちがう星の上のちがう時間に生き ているのかもしれない。
そうおもいながらも、異質な文化を平然とたのしんでいられるのは、いきていることとテレビを見ることとの間にそれほどのちがいがなくなってきたからにちが いない。
<コンサート>
1 「ヒューイ・ルイス」のコンサートを武道館で見た。チケットを他人に頼んでおいたので、行ってみたら2階席の一番奥でした。チケットは他人まかせにし たらダメだと反省した。周りの若者達が楽しそうに踊っているのが不思議でしたし、元気な蟻のようにヒューイがこちらの方に顔を向けるだけでキャーっと悲鳴 をあげているのも驚きでした。今年、僕もツアーを予定していますし、皆こんな風に楽しむんだなと思うと、とても参考になります。2階席の奥の一人一人まで ちゃんと一体感をもっている、素晴らしいコンサートだった。バンドのアディショナル・ブラス・セクションがとても上手いので後で聞いたら、昔有名だった 「タワー・オブ・パワー」というバンドのメンバーでした。現在はレコード会社との契約もなく、のんびり寂しく活動している様です。
2 「ショコラータ」を草月ホールで見た。ボーカルのかおりさんはとても美しく、又某音大の声楽科に行っているので、とても歌が上手い(ピッチが良い、技 巧的だ)。前のヒューイなんかと違い、去年、日本に定着したアートやパフォーマンス・ブームを真面目に継続して凝った舞台を見せてくれました。一部はレト ロっぽいキャバレー・ミュージック風、パントマイムやコントの様なことも演っていた。多分、音大の仲間風な室内オケが居た。舞台上から吊り下げられた譜面 灯りが暗い舞台でお星様みたいに光っていて、とてもキレイ。ピアノの娘がオケのアレンジしているのだけど中々それ風。二部はロック・アンサンブル。変拍子 あり、ファンクありのダイナミックな演奏。しかし歌詞がほとんどイタリア語なので分からない。聞きに来ている子達はほとんどメーカーズ・ブランドを着てい て、オシャレだけれど黒っぽい。皆文化服装学院の学生っぽく見える。客席とステージも何となくおともだち感覚。かおりちゃんはニューウェイブの宝塚なのか な……?!
3 クリスマス・イブの晩に「R・Cサクセション」を武道館で見る。ここ2年ぐらい事務所問題などで混迷を続けていた清志郎達が、自分達で事務所を作り、 レコード会社も変わり、とても元気になった。新しいアルバム「ハートの・エース」は好き。ジャケットも好き。一万人の「武道館ベイビー」達も元気。やはり 肉体的なものは強い。十何年も同じメンツで音楽をしているというのは異常だが美しい。思わず涙ぐんでしまったのだ。
4 矢野顕子の「ブローチ」コンサート・ツアーを演った。矢野の独特な反骨精神と流行感覚がミックスされた企画だ。立花ハジメのビデオ・モニターを使った 舞台に2台のピアノ、矢野顕子・高橋悠治・坂本龍一だけが居るという簡素な設定。踊るコンサートにしかいったことのない子達はとまどって、どうしていいか 分からなかったんじゃないかと思いますが、そこが矢野の狙い目でもあるので「静かに聴きなさい」と一喝。久しぶりに地方都市を回ったんですが、驚くべき整 備のされ方ですね。これはもう僕の知っていた日本の姿ではない。大変リッチな国になっちゃっていたんですね、日本って。それとOAの普及もすごい。ウチの 弱小プロダクションやレコード会社も、ワープロ・パソコン・ファックス・Eメイル等々ありますものね。どの地方都市に行っても必ず大手家電メーカーのOA ショップがありました。<レコーディング>
相変わらずスタジオ奴隷です。ソロ・アルバムをレコーディング中ですがメンバーの居ないバンドという設定。4月のツアーまでにはメンバーを決めます。或る 日、来日中のガタリ氏が遊びに来ました。フェアライトの代理店の人の様に色々説明・実演してあげたのでとても喜んで頂けました。サンプリング・ミュージッ クにおける再属領域化ということを熱っぽく語っていました。哲学者らしいりっぱな人だと感心しました。<DJ>
NHK「サウンド・ストリート」で初めて公開録音をしました。クリスマス・イブのオン・エアーなのでサービスに清志郎と「きよしこの夜」を歌い喜ばれまし た。<BOOK>
「音楽機械論」吉本隆明さんと音楽についてあれこれ話をし、フェアライトで曲もつくりましたので、ソノシートをつけました。菊地信義さんの装丁が気に入っ ています。<VIDEO>
「TV WAR」今や懐かしいつくばの万博のジャンボ・トロンを使って RADICAL TV とパフォーマンスした、その記録です。時間がなかったので録音を三日であげた記録的なものです。<CLUB>
東京にはロンドンやニューヨークの様なクラブ・シーンがないので子供達はコンサートであんなに踊るのでしょうか?!?!?!?!
編集後記
年があらたまる直前に原稿はそろった。原稿をわたしてしまい、はれやかに新年を祝っているであろう執筆者たちのかおをおもいうかべると、元旦からワープロ を打ったりしてはたらくのは、なんだかおもしろくないので、それはやめ。はれやかに遊んでからにしよう。「トラの親、トラの子を語る」は、トラ年の父親だ けの座談会の予定ではじめたのだが、なぜか話が一般論へと拡散しがちで、オブザーバーの母親ふたりがついつい口をだしてしまった、という結果になった。そ うそう、このなかでお母さんみたい、と言われているデイヴィッドとは、今月から連載をはじめたデイヴィッド・グッドマンその人のこと。ふたつを重ねて読む と、錯綜する現実が錯綜したままに垣間見えてきて水牛的だなと、わたしは第一番目の読者としておもうのだった。
半ば冬眠しているような水牛楽団は、春になるのを待っている。桜の花の咲くころに、あたらしいメンバーとなった吉原すみれの入団記念コンサートをひらく。 ゲスト多彩。PAの新居章夫さんがPAしながら演奏もしてしまうというように、コンサートをつくっている人がみんなステージに顔をみせるようなものをかん がえている。
水牛からのお年玉。おいしいタイ料理の店を紹介しましょう。十二月に開店したばかりの「バンタイ」。歌舞伎町の一番街道りを靖国通りから入った左側。食べ 物とはこういうものだと深く認識できます。甘い辛さをどうぞ。(八巻)