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中国外券旅行 中井由紀子
特集・整理術
キーボードと日本語――室謙二さんに聞く
水牛通信の整理術 八巻美恵
死体術 津野海太郎
この家の整理術 高橋悠治
集めて整理せず 鎌田慧
キリコのコリクツ 玖保キリコ
料理がすべて 田川律
「カフカ」ノート 高橋悠治
僕はフリーのミュージシャン 坂本龍一
編集後記
中国外券旅行 中井由紀子
4月26日午後3時54分、上海空港に到着。時差一時間、東京から三時間、ほんとに近いお隣の国である。
出迎えはおケイさん、彼女は天津の南開大学に学ぶ語学留学生。そして私の連れは彼女の夫であるO君。つまり留学中の妻に会いがてらゴールデンウイークを中 国ですごそうというO君夫妻の計画におじゃま虫よろしく私が便乗したという次第。無粋といわれようとも、旅は道連れ、でありましょう。
さて、おケイさんがお金を換えに行くという。中国の通貨は、元。現在円が強く、一元約60円。10万円で我々三人が二週間すごせる予定である。ところでこ の通貨、現在中国では二種類の元が通用している。一つは、外券といわれるもので、われわれが空港や銀行で両替えするとこの券をもらう。もう一つは中国国内 で通常流通している人民元である。この外券と人民元は額面は同じであり、同じ価値であるが、通用する場所が異なる。つまり、この国では外券しか使えない場 所があって、たとえば、高級ホテル、レストラン、列車の一等、外国人相手の友誼商店等では、外券しか通用しない。日本でも有名なあの青島(チンタオ)ビー ルは外券でしか買うことができないのである。経済の理に従って、当然この国でもブラックマーケットがあり、外券は1:3ないし1:5のレートで人民元と交 換されているという。ここまでだと、外国人にはまるで夢のような国になるのだが、当然そういうわけにはいかない。中国では、二種通貨制と同時に二種価格制 がしかれていて、しっかり外人料金というものがまかり通っているのである。たとえば列車の値段、外国人が普通切符を買うのは、ホテルか旅行会社で、ここで は、一等車の切符しか買えないが、これは中国人の一等車の料金の倍である。また、非常に露骨なのは観光地の入場料で、北京の胡宮では、中国人5角に対して 外人3元、実に6倍であった。ホテルの料金はほとんど日本と同じであって、およそ1万円、私たちが泊まった留学生向けの宿舎が、5元から15元、十倍以上 である。現在中国では、外貨獲得のために、門戸を大きく開き、外国人を外賓として遇する方針をとっている。政府のこの政策と外券の威力だけが、個人でこの 国を旅しようとする私たちにとっての武器なのだ。
それでは、真赤な表紙に菊の御紋章のパスポートにわが身を託して、中国の旅をはじめよう。
到着した日の予定は、午前10時20分発の夜行で天津に向うこと、それまでの6時間余りを「今日だけはぜいたくをさせてあげる」というおケイさんのエス コートで高級ホテル・平和飯店に入り食事。4品と包子(パオズ)、チンタオビール6本で49元。チンタオビールは普通のサイズの缶1本3元である。味は淡 白、上海料理は比較的薄味だそうだ。時間があったので、ホテルのなかのカフェへ行く。ジャズの生演奏つき、お客は外人ばかりで、国籍不明の世界。水割りと カクテルで36元、高い! この時から10元以上は高いという経済観念を私たちはしっかりともつようになった。
さて天津までの夜行は、軟座つまり1等寝台車で4人用のコンパートメントである。相客は幹部とみられる男性(もっとも、おケイさんに言わせると1等に乗る 客は全員幹部ということになるのであまりあてにはならないが)。車中泊で翌日の午後8時に天津に着く予定。中国の列車には、硬座(2等車)と軟座、それぞ れの寝台車があって、各車両には絶対的な権限をもつ車掌がついている。コンピュータはもちろん電話も発達していないこの国では指定席の二重販売も珍しいこ とではないが、そういう場合でも車掌の決定がすべてに優先し、切符をもっていても涙をのんでひきさがるしかないのだ。そのかわり車掌さん、お茶をだすこと から、トイレの掃除まですべてを切り回している。そのほとんどは女性である。
さて、中国の列車事情で忘れていけないのは、走行距離の長さであって、車中泊10日などというのはザラ、したがって、旅をする人はみんな大荷物をしょって いる。駅前に座り込んで時間を待ち、改札があくと一斉に列車に向かって走り出す。この瞬間プラットホームが地鳴りして揺れるほどの勢いである。布団をかつ ぎ、食器と食料、お土産をいっぱいかかえて、猛烈な勢いで列車に突進するのだ。というのは、長旅だから座っていきたいというのはもちろんあるが、なにより も荷物の場所を取らねばならないからだ。私たちはただただあっけにとられて見ていた。時間通りに列車が動きだすとすぐに二十才くらいの女の車掌さんがポッ トにお湯をいれてもってきてくれる。サービスはお湯まで、お茶っ葉と湯のみは各自持参。たいていはふたつきの湯飲みと小さな缶にはいったお茶っ葉をもって いる。さすがにおケイさん。中国生活9カ月の経験を生かしてインスタントコーヒーにティーバック、食パンにチーズ、ハムの缶詰まで用意してあった。私たち は一等なので食事をどうするか車掌が聞きにくる。朝食と夕食をたのんだ。窓の外は真暗だ。列車はひた走りに北を目指す。
夜が明けると、外は田園風景、ただただ広い。ぼちぼち農作業をする人々の姿がみえる。何をしているのか、いずれにしろあまり勤勉にはみえない。午後になっ て黄河を渡った。このあたりになると土の色が黄色くなってくる。
食堂車の夕飯、1汁6菜とビール、中国では全国銘柄はなく、各州それぞれつくっているので車中で飲んだビールもチンタオビールとはちがっている。それぞれ おいしい。
天津着、今夜の宿舎は、おケイさんの大学、南開大学の招待所(留学生の寮)。シャワーを使って彼女の部屋へ。8畳くらいの広さで2人部屋、ベットと机、間 に毛布を敷いてカーペットがわりに。ルームメイトは西ドイツの24才の看護婦さん、その他の留学生仲間は、ポーランド、アメリカ、華僑のオランダ人、日本 人等。彼らの会話は、中国語か英語、日本人はかなりたくさんいてそこではもちろん日本語である。
この国では、外貨獲得のための門戸解放と同時にもうひとつ重要な政策がある。それは精神汚染防止法、そして汚染の源は外国人であるから、外国人をできるだ け隔離する方針でもあって、同じ大学でも留学生は宿舎も授業も中国人とは別になっている。
翌朝、子供の声で目がさめた。窓から下を見ると、招待所の前が保育所になっていてちょうど子供を預けに来る時間なのだ。中国は一人っ子政策をとっている。 二人目からは児童手当がでない、三人目は戸籍がない等、どこまで本当なのかはわからないが、かなり徹底しているらしく、ほとんどが一人っ子である。だから 子供はとても大切にされているし、甘やかされてもいる。晩婚のこの国では、死なせてしまうともう子供をもつ可能性はほとんどないのだ。
大学の構内散歩、久しぶりにアカデミックな雰囲気にひたった。綿毛が舞っていった。バスで天津の繁華街にでる。「狗不理飽子」という有名な包子(パオズ) の店に行く。お前の作るものは狗も食べないと言われて発奮したコックが腕を磨いて有名にした店だそうで、今では全国的に評判の味だそうである。ビールと3 品で34元。おいしかった。このあと、日本のテレビでも紹介された南市食品街へ行く。有名なすべてのレストランが一堂に会してるという食堂街である。とと のいすぎてなんとなく入る気がしない。疲れたので神戸餐庁という日本料理の店でコーヒーを飲んだ。冷房完備のきれいな店で18元。日本の商社マンが行くと いう。そういう値段の店だった。
一日中歩いてとても疲れた。暑さに負けて屋台のジュースを飲んだ。この時人民元がなくてやむなく外券で支払った。即座に人々が集まってきて珍しそうにお札 を回覧する。おケイさんが顔を赤くして「早く行こうよ」という。どうしてかというと、こんなところで外券を使う人はいないし、とても恥ずかしいことなのだ そうだ。
天津を歩いて、何故か人々に注目されるという体験をした。その注目の仕方が尋常ではない。頭のてっぺんから足のつま先までしっかり眺めるという感じの見方 なのだ。おケイさんに聞いてみると、この国では外人が珍しいのだそうだ。日本で人に見られるという晴れがましい経験のない私は、最初の内はなかなか気分が よかったのであるが、2時間もすると、いいかげんにしてくれ、と言いたい気持になってしまった。それほどに執ようなのである。アジア人はまだいい方なのだ そうだ。かわいそうなのは、赤毛碧眼つまり西洋人、彼らはたんなる注目にとどまらず指さして笑われ、年寄りにはこの世の名残とばかり胸ぐらをつかんで上か ら下までなめるように見られるという悲劇だそうである。
閑話休題、中華思想というのがある。この国の一般の人々の外国人に対する態度を見ていると、ほんとに世界の中心は中国だという気持ちになる。ここではほと んど英語は通じない。したがってカタコトの中国語か手まねで話すことになるが、これに対してかえってくるのは、早口の中国語だけ、相手が中国語を理解でき ないということに、信じられないくらい無頓着である。外国人が外国語を話すということをひょっとして知らないのではないかと思えるくらい、それは徹底して いる。政府にとっては外賓である外国人も一般の人々にとっては、珍しい動物のようなものなのだ。北京の天安門広場の隣に胡宮がある。ここは皇帝のすんでい たところで、この宮廷の真中に水晶の間というのがあって、そこには宇宙の中心である水晶が置かれている。文革にも破壊されなかったこの水晶を見ていると、 この国の人々にとって中国は確かに世界のみならず宇宙の中心ではないだろうかという気分になってくる。皮肉ではなくてそれほどに、彼らの自信に圧倒されて しまうのだ。
圧倒されるといえば、彼らの食欲には、ほとほと感動してしまった。たとえば、北京には、都一処という有名なしゅうまい屋があって、客が列をつくっている。 私たちもここでお昼を食べようと列に加わった。といってもここでは、客が勝手に終りそうな客の後で椅子の背をつかんで待つのである。要領のいい人は早く席 につけるが、我々のようになれない客は、どんどん割り込まれて、30分もたってようやく席につくことができた。ここで出てきたしゅうまい、日本の優に3倍 の大きさのしゅうまいが一人前およそ30個。これにスープと2品くらいが彼らの通常の昼食なのだ。レストランに入って隣のテーブルをみると、食べ散らかし た食事のあと。私はふと、歴代の中国の政府は、この膨大な人口の巨大な胃袋を満たそうとして、刀折れ矢尽きて倒れていったのではないか、と考えてしまっ た。
話がそれてしまった。ついでに行程をはしょって、一気に洛陽までくだろう。洛陽はいうまでもなく中国の古都。ここで旅行中、最初で最後のホテルに泊まっ た。50元と80元の二部屋でお風呂付き、洗濯をして部屋中満艦飾。夜テレビのニュースでソ連の原発事故を知った。翌日はメー・デー、この日から4日間お 休みだそうで、街中人で溢れている。朝、市場に行った。食べ物がおいしそう。はじめて汁そばをみた。それにチマキ、くだもの、ぎょうざ、包子、野菜に日用 品、漢方薬、ほとんどなんでも売っている。それにすごい人ごみ、人々は明るく屈託がないように見える。バスを乗りついで観光地、龍門石窟へ行った。夏のよ うな陽ざしで、人があふれていた。ここの屋台で珍しいものを食べた。米の粉をところてんのようにかためて、それをけずって辛いタレをかけたものと、それを ブツ切りにしてやはり辛いタレでいためたもの。おいしかったが冷えたビールが飲みたくなってしまった。そう、この国では冷えたビールは普通では手にはいら ないのだ。
帰りはバスが混んでとても乗れなかった。3台ほど見送ってどうしようかと思っていると、男の人が近づいてきておケイさんになにやら耳打ち、彼女がうなずく と、三輪車がやってきた。原付の自転車に荷台をつけたもの、どうみても二人しか乗れないところに三人乗り込んで出発。バスで30分くらいのところを一時間 以上かかったけれど、ほんとの農村の真ただ中をゆっくり走ってくれて最高に爽快だった。関林の市場というのがすごかった。なにしろ歩くことができないくら いの人混みなのだ。ここではそれこそなんでも売っていた。生きたにわとりも犬もそして猫も。ペット用とは思えないが、あれで食用になるのかと思うとほど ちっちゃいのが売られていた。
翌日私たちは、夜行で武漢に向う予定である。けれど、この列車の切符がとれなかったのだ。所要時間14時間。
中国に個人旅行できた外人がまず最初に耳にする言葉は、「没有(メイヨー)」である。「ないよ」という意味であって、この言葉を覚えると、これがこの国で 一番羽振りをきかせている言葉だということに気がつくことになる。駅で切符を買おうとすると「メイヨー」、ホテルで部屋をとろうとすると「メイヨー」、ひ どい時には、郵便局で切手を欲しいと言っても「メイヨー」である。ほんとにない場合もあるが、全員が国家公務員のこの国では、頑張って働くという発想がな いので、ただただ仕事をしたくなくて「メイヨー」と言う場合も多いのである。こんな時、お役にたつのがパスポートと外券なのだ。日本のある商社マンの話で は、切符を買う時は、パスポートに外券をはさんで窓口に投げ出すという。日本のパスポートはよその国に比べて大判でしかも目立つのである。一見して外国人 に見えない日本人が外国人の特権を利用するのに、この少々恥ずかしい大判なパスポートがおおいに役立つという喜んでいいのか、悲しんでいいのかわからない ような話が実際にあるという。
さて、切符を買えなかった私たちは列車に乗ってから車掌と交渉することに決めて駅に向った。(つづく)
ツノ「きみはわりと文章のスタイルについて意識的な人みたいだね」
ムロ「そう思う。ぼくは文章語らしい文章語じゃない日本語を書きたいんだ。文章語は口語のリズムと勢いを取り入れなくてはダメだと思う」
「いつごろから、そんなふうに考えるようになったの?」
「二十歳を少しすぎたころ」
「そりゃ早熟だよ。おれなんか四十すぎてからだもん」
「そのころ『思想の科学』で、カセットテープレコーダーを使って、インタビューをまとめる仕事をやらされたのね、鶴見俊輔さんに。あれがきっかけだった。 耳で聞いた話を文章に起こすと、かならずつまらなくなっちゃうよね。なんとかあの時間、勢い、リズムを再現できないものかと考えながら、テープを起こして たから」
「テレコを使った文体変革だな。そのあと、ひらがなタイプを使いはじめたんじゃなかったっけ?」
「うん、あれは梅棹忠夫の『知的生産の技術』を読んで、おもしろいと思ったから。しばらくのあいだ、テープ起こしだけじゃなく、資料整理のためのカードと か原稿の下書きに使ってた。だけど、ただかぶれて買ったんで、すぐに挫折したけどね」
「そうとばかりもいえないんじゃないの。いちど『思想の科学』の編集会議に呼ばれたことがあったけど、あのとき、きみがタイプをポンポン打ちながら会議を すすめるのを見て、びっくりしたことがあるよ」
「それは数年後に、はじめてアメリカに行ったあとのことだと思う。アメリカに行くと、どんな書斎や事務所にもかならずタイプライターがあって、文章とか文 書をつくるということが、日本とアメリカとではちがう意味をもっているということに気づいたんだ。それともう一つ――その旅行中に、IBMの電動タイプラ イターに二千語だったかの記憶装置がはいっているのを見て、いつかキーボード入力のコンピュータ日本語タイプライターができると直感した。それで日本に 帰ってきてすぐに、新しいひらがなタイプを特注したわけ」
「なるほど。そこではじめて動機がしっかりしたわけか」
「そのあと十年間は、ひらがなタイプで仕事をした。あのころ書いた原稿はぜんぶそれで下書きをしてるよ。できるだけ日本的日本語から離れたかったからさ。 日本的日本語というのは、ちょっと意味不明かもしれないけど」
「わかんないでもないよ」
「そんなわけで、ぼくのキーボード日本語についての考えは、最近ワープロで文章を書きはじめた人たちより、ちょっと年期がはいってるんだ」
「なんだ、おれに対する皮肉か?」
「いやいや」
「しようがないか。そのワープロにしたって、おれはきみに刺激されてはじめたんだから」
「それにコンピュータのことも勉強したから、コンピュータと日本語について考えざるをえなかったしね。コンピュータで日本語を書くことの問題点はたくさん あると思う。もっと論議されてしかるべきなのに、日本的日本語の保守派でさえワープロを歓迎しているんだもんな」
「山崎正和なんて人は典型的にそうみたいだな。でも、いまの学校教育では不可能になった旧仮名・旧漢字を、コンピュータによって可能にするという考え方も あるんだからな。もしかしたらワープロは日本語保守派にとって、文字どおりの機械じかけの神様なのかもしれない」
「わけもわからず批判するよりも、いまはコンピュータと日本語について、もっと知ることのほうが大切なんだろうとは思うけどね」
「きみのいうキーボード日本語というのは、どういうものなの?」
「手で文章を書くときは、日本語には漢字があるから、どうしてもスピードがおそくなるよね。原稿用紙の升目のなかで右から左に、左から右に、いろんな方向 に動かして漢字を書きつつ、それで一定のスピードを維持しなければならないから、とっても複雑な筋肉の制御が必要になる。だけどキーボードの場合は、いち ど覚えれば、あとは単純な動作の組合せと反復だからさ。それを十本の指に分担させる。指はほとんど無意識のうちに動く。頭の中に生まれたことばが、口語に ちかいスピードと勢いで、指をとおしてコンピュータの中に定着される。つまりスポーツとしての作文といったものになるんじゃないの。それからコンピュータ 相手にキーボードで対話していくようなところがあるから、無意識のうちに対話的文体が生まれてくることがある」
「無意識のうちにそうなるかどうかはわからないけど、そういう性質を意識的に利用して対話的文体をつくることは、確かに可能だと思うね」
「ジャック・ケラワックの『地下街の住人』という小説があるでしょう」
「ビートニックのな。むかし読んだ」
「あれを書くとき、ケラワックはトイレット・ペーパーみたいな長い紙を使って、一日十インチとか二十インチといった勢いで、バンバン書きとばしていったん だって。まえの日に書いたとこなんか絶対に読みかえさない。それはジャズの方法のまねだったと思う。リズムとコード進行によって即興演奏する。それとおな じことを小説でやろうとしたんだろうと思う。プロットがコード進行で、リズムはタイプライターのリズム。あるギタリストが「ある音のつぎにどの音を出すか というのは、指が出すのであってアイディアが出すんじゃない」といってたけど、訓練によってつくられた肉体の習慣があって、それが即興演奏を可能にするら しい。
おなじように、キーボードに習熱すると、「でした」とか「です」とか打つことが指の癖になるよね。そうじゃなければ、スピードなんて上がるはずがない。そ の証拠に、「だじどだかじどだばでどばずどば」なんていうムチャクチャな日本語をスムーズに打てなくなる。それはそういう指の癖がつくられていないからな んだね。だから作文もまた指の癖である、と。どういうふうに自分の指の癖をつくるか、その癖をどう反省するか……」
「それはたしかにそうだな。おれは楽器はまったくだめだけど、楽器とワープロは似たところがあるかもしれない」
「キーボードを日本語でいえば鍵盤でしょう。もともと楽器のことばなんだよね。オルガンやハープシコードからピアノ、シンセサイザーにいたるまで、指に よって音を能率的に制御するために生まれた道具がキーボードなんだからさ。そのために効果的に音をだして音楽をつくるための指の訓練体系がつくられた。こ うした鍵盤の考え方や仕組みを、文字を打ちだすために利用して、十九世紀のアメリカでつくられたのがタイプライターで、そのつづきにワープロがある。だけ ど日本ではキーボードで文字を打だす習慣がなかった」
「土台となるキーボード文化がないところに、突如、ワープロが出現したから、賛成派も反対派も過剰反応をしめさざるをえなかったということか」
「そう。ぼくのことばでいえば「日本語の工業化」という観点だけがつっ走ってる。日本語という文化を、工業が効率とお金儲けの基準によって再編成しようと している。ぼくはワープロ反対派じゃないけど、これに対しては当然の反論があっていいと思うな」
八年目ともなると、水牛通信の整理術などあってなきがごとしだ。ほとんどの情報はわたしの頭の中にゴタゴタと、それを整理といえば、整理されて いるにすぎない。
月刊になったときに事務をひきついでみたら、金銭の管理がずいぶん杜撰な感じがしたので、しばらく帳簿というものを、わりあいきっちりとつけてみた。一年 ぐらいたつと、一カ月の収入と支出がどのくらいか統計上と感覚上の両方でわかるようになった。これで帳簿をつけた甲斐があったと納得して、帳簿のたぐいは 捨ててしまった。振替貯金の残高と水牛通信用のサイフに入っている現金の合計がすべての財産で、その金額をみれば、あと何カ月黒字のままやってゆけるか、 わかる。
通信のための道具は、まずワープロ。これは整理するもしないもない。かつては食卓であった机の約半分を占領して、ある、というだけ。そのかわり、原稿用紙 の料は減った。たとえば津野海太郎の原稿はフロッピー・ディスクでもらって、ここで印刷する。たとえばデイヴィッド・グッドマンの原稿はすでに版下となっ てとどく。あの家のワープロとここのとは同じ機種だから(むこうの方がちょっと上等だけど)こういうことも可能なのさ。手書きの原稿ももちろんあるけれ ど、それらの玉稿は次の号がでたところで無断で処分させていただく。
読者の整理というのは、ひとつだけある。購読料が切れて払い忘れると、きっぱり次の号は送ることをしない。これは水牛通信の原則といえるただひとつのこと かもしれない。でも、最近は読者の名前もほとんど覚えてしまって、ながく購読している人だと特に、購読料を払い忘れているんじゃないかな、と思ったりし て、次の号だけは送ってみたりしている。
バックナンバーで、意識的に保存しているのは、各一部ずつだけ。あとは残部があるのもないのもまちまちだ。たくさん売れ残るのは気分が悪いからなるべく残 らないような部数を印刷する。できあがると、編集委員のメンバーには、頼まれなくても、何部かを送りつけておく。そうすると、編集委員会にバックナンバー がなくなっても、津野海太郎の部屋や、鎌田慧の仕事部屋などに、おのずから保存されることになるし、送ったあと、ほとんど残部がなくなって、すがすがしい 気持で次の号のことをかんがえはじめることができるという仕組みになっている。
学校をでてしばらくは六畳の下宿に住んでいた。その部屋がすこしずつ広くなり、部屋の数もふえていって四十代にはいった。そのあと、こんどはだんだん部屋 数がへり、いまは荻窪に十五畳ほどの部屋を一つだけ借りて暮らしている。
はじめ膨張し、のちに縮小した。膨張の理由は収入がふえたからだが、縮小は金のせいではない。一人でいくつもの部屋を管理するのが面倒になったからだ。
この部屋に越してくるとき、たくさんの家具や本や衣類を人にひきとってもらい、のこったものは売ったり捨てたりした。いまは机が二つと本棚が四つ、粗末な 木のベッドが一つあるだけである。その本棚も、もうすぐ二つになるだろう。鍋は中華鍋と土鍋の二つだけ。食器も二人分ずつしかない。
マヤコフスキーの「ロスタの窓」の複製が壁に貼ってある。あとはチェンマイのナイト・マーケットで買った金属の仮面が二枚。
テレビは壊れたまま、NHKと10チャンネルがはいらない。集金のおじさんにそういっても、なかなか信じてくれない。これも遠からず捨てることになる。そ のとき私は新しいテレビを買うか? たぶん買わないのではないだろうか。
職業がら、外にいると大勢の人たちと元気よく話さなくてはならない。だから自分の部屋にいるときは徹底的に黙っていたい。人がたずねてくることを積極的に は好まない。人の声だけではなく、そうじて音というものが聞きたくない。痛風のとき買ったウォークマンをのぞけば、オーディオ装置も壊れたまま、当分、買 いかえる予定はない。
なにもない部屋のなかで、黙って坐ったり寝たりしている。まるで棺桶のなかの死体だ。
したがって、いまの私に整理術というものがあるとすれば、それは不必要なものだけではなく、必要なものまでもどんどん捨ててしまって、ガランとした部屋の なかで死んだふりをする技術ということになる。死体でいることは、とくに幸福ではない。かといって不幸でもない。これは死体になったことのない人には、 ちょっとわかりにくい心境だろうと思う。
だが、気持よく死体になりきろうとしても、なかなかそうはさせてもらえない。まず電話のベルが鳴る。知人から手紙がとどく。
手紙は何日も開封しないまま、とうとう読まないで終ってしまうことがある。いやな気分になる。むかし島村抱月という人が「デカダンスとはなにか?」ときか れて、「返事をださないままの手紙がたまっていく状態のことです」とこたえたそうだ。デカダンスのはては死体である。でも、こういう死体術はいやだ。
電話にでないでいることは、もっと苦しい。そこで、よっぽどのことがないかぎり、ベルが鳴れば受話器をとることにしている。
電話では、できるだけ明るい声で話す職業的習性がついている。だから明るい声で話す。たちまち死体の境涯からよみがえってしまう。私を電話でつかまえるこ とは、あまりやさしくない。それなのに、私が部屋にいる時間をねらって、じつに的確に電話してくる少数の人たちがいる。私の不幸である。いや、私の幸福で ある。
ものを捨てるために必要なものがある。屑入れとかビニール袋とかが、その代表だ。
ワープロもそう。原稿を書くたびに書きつぶしの原稿用紙がふえるのがいやで、ワープロを買った。でも、私の部屋にペーパーレス社会は実現しなかった。紙を 捨てるための道具によって、かえって紙の使用量がふえ、ためし打ちした紙でいっぱいの屑入れや、プリント原稿を保存しておくためのファイル・ブックなどが 必要になった。
むかしデイヴィッド・グッドマンが、たくさんの資料を厚い二穴ファイルにきちんと綴じこんでいるのを見て、びっくりしたことがある。私にはそんな習慣が まったくなかったからだ。
なのにそれとおなじ二穴ファイルを、きのう私は文房具屋で五冊も買いこんだ。おもしろい。そのうち、大きなスチール製のファイル・ボックスまで買うことに なるのではないだろうか。ものも人も捨てようとすれば増える。整理が反整理を呼びよせ、棺桶の秩序が乱される。
捨てても捨てても増える人たちがいてくれるのはうれしい。死体も人間だから、そのことは否定できない。
しかし、ものの増加はちがう。空間の増加もおなじ。けっしてうれしくない。にもかかわらず、それは増える。ゆっくりと、あるいは急激に。すでに私は足もと をすくわれかけている。私の死体術に、どこかまちがったところがあったのだろうか。
二階屋の一部、二部屋プラス玄関と廊下に、二人のもちものをどう配置するか、という問題。この二部屋はこの数年間、生活と仕事のための空間すべ てだった。食卓がわりの電気ごたつの板の上に紙をひろげたり、かたずけたりをやっていたが、シンセサイザーで仕事をするようになって、ついに破綻した。食 事だからといって、電源をぬいたり、ふとんをしくからといって、楽器のセッティングを解体していたのでは何もできない。最近、近所に一部屋借りて楽器類は そこにうつしたが、ものがへったようには見えない。
整理は理想だ。そこにいたる最短距離は、ひっこすこと、住みつかないことだが、それにはおかねがいる。家族になると、共同のもちものができるのもしかたが ない。できる範囲で、家族でないふりをして、かぎられた空間のなかでものを移動させつづけるのが、せいぜいだ。
家が必要なのは、ものを置いておくためだろうか。食べたり、寝たり、仕事をするためだけなら、空間を所有していなくてもいい。家族が必要なのは、置いたも のを世話するためだろうか。話をしたり、いっしょに何かするだけなら、どこへいってもいいはずだ。とまで思ってしまうが、わざわざそうする気にもなれない のは、ほかに理由もあるのだろう。
この家では、しまいこむスペースがかぎられているのに、絶えずものを出し入れしている。主婦雑誌が特集しているような収納法でむだなくつめこんだら、さが しだしてとりだすたびに、たいへんな手間になるだろう。区切られたスペースに分類した箱を隙間なくならべるのはかっこいいと思って、やりかけたこともあっ たが、一番奥の箱に入っているかもしれない小道具をとりだすのに、手前の箱を全部とりだしてつみかさね、さて目的のものはその箱にはなかった、というよう なことをくりかえしたあげくに、これはだめだと決め、といっても、整理をやりなおすのも倍以上の手間なのでそのままにしておく。ドイツ語を高校で習った時 はじめの方にあったことわざ「目からはなれたもの、心からはなれる」は、この場合まったく正しかった。
押し入れや戸棚のなかがすべてプラスチックの箱で分類されている家もあるらしいが、あれでは火事になったら有毒ガスで死んでしまう、というようなことは、 主婦は考えないのだろうか。
この家で一番こまるのが本。教えたり、本を書くたぐいの、参考書を必要とする仕事はしないようにしているが、それでも月収の一割以上は本を買っている。本 箱三つを二人でわけて、それ以上の本は古本屋にもっていくのが追いつかなくなりそう。買った本でも3ページしか読まないのもある。むだなことと長年なやん だが、3ページだけ読みたい本もあっていい、と思うようになった。そのために買うことはない、といわれても、それではおかねは何につかえばいいのだろう。
職業がら、楽譜とレコード、テープのたぐい。これも決めた棚に入るだけしか置けないが、毎月増えつづけ、しかもそのほとんどは二度と使うことがない。こう いうものは牛乳のように、有効な日付の期限を買った時に決めるといい、と思っただけで実行はしていない。
この家に置き場所のないもの、自分の作品や記録のファイル。過去にたよらないですむ仕事のしかたをもとめているうちに、こうなった。そうなると将来もあて にできない。有効期限をこえて存在する前に処分するのは、制作者の責任だ、と思いつつ、しかし、これも徹底できないなあ。したがって、置き場所もないの に、処分しそこなったむかしの作品やレコードがいくらかのこっている。
一方、売った本を買いなおしたり、自分のレコードを借りたりすることも絶えない。そうなると、処分した時の決断そのものも迷いにすぎなかったのか。自分も 裏切りつづけないと、生きていけないのか。ある程度のむだをのこしておくことが必要だ、と最近やっとわかった。
二部屋しかないのに、いつもものをさがしている。一分前にもっていたえんぴつも、手からはなれると、たちまち消えてしまう。斜め上をみつめてあらぬことに 気をとられているせいらしいが、これがなおらない。だから、この家にあるものは、しまわないで、見えるところに出しておくのが、八巻美恵の整理術だそう だ。そうしないと、あれどこやった、と疑いの目をもった質問になやまされる、というが、そうしてもなやまされているのが現実なので、結果として、この家の 机の上、椅子の上、戸棚の上は、本とペンと衣類と皿とカバンの山であり、床の上にも本とグラスが錯乱している。だが、それほどきたなくない、と感じている 一方、二人ともきれい好きを自認し、しかもそうじはきらい。だから、この家は「わが家」とは思えない、というのが統一会見です。
土本さんは新聞のスクラップをいつも鞄に入れて歩いている。好きなんだね。おれだって一か月ぐらい新聞をまとめて、切り抜くことがあるんだよね。でも、 ちゃんと貼らないから、切ったままで留っちゃうのね。内容もおぼえてないし、結局、使えないんだ。
カメラマンの三留も、よくやってるらしいよ、新聞記事のスクラップ。女房にぜんぶやらせてるんだって。
でも、あれは必要なとき、新聞社の資料室や国会図書館に行くとかすりゃいいんだ。それを自分でやるというのは、強迫感だよ、強迫感。おれはやらないよ。だ いたい、おれは新聞記事で原稿を書くってことがないもん。必要なものは現地に行って、そこの図書館やなんかでさがす。そっちのほうが主だね。
たとえば、こんど高知県の足摺岬にカツオ漁の取材に行った。あそこは、むかし清松村清水だったんだけど、それが清水町になって、周辺と合併して清水市に なったわけね。そこの市立図書館に行ったら、市史が上下巻であったから、まずそれを買うわけよ。だいたい四、五千円で買える。
れから、それに附随する資料をどんどん集めるわけよ。市役所に行って市勢要覧とか統計表とか、県庁では事業課とか助成課に行って、どんな資料があるかと担 当者にきいて、カツオ関係の統計表やパンフレットを見せてもらう。それからカツオの組合に行って、そこの年報とかをしらべる。モチはモチ屋で、モチ屋に行 くとモチ関係の資料があるから、それをぜんぶコピーして、宅急便で家に送るわけよ。
カツオのまえは北海道の別海町にパイロット・ファームの取材に行った。香川県より大きい村なんだけどさ、ファーム何十年史とか部落ごとの歴史とか――結 構、いろいろあるもんなんだよ。たとえば青森県の六ヶ所村だったら、開拓部落が開発でつぶれると、みんな記念誌をつくってる。歌志内市史を見ると、炭鉱の 歴史がきちんと入ってるしね。いま地方史のない地方ってないんじゃないかな。どんなへんぴなとこに行っても村史がある。
ただ学者だったら、それを集めればいいんだけど、おれの場合、実際にはあまり使わない。あくまでもバック資料で中心は会った人の話だから。
ただ特殊な用語とかね――たとえばおじいさんの話のなかに分かんない言葉があったとするでしょう。古い資料を見ると、それがきちんと図解してあったりする んだよね。なまじっかな学者の文章よりも、そこで生きている人たちの作文なんかのほうがいい。こまかいところは、そういったもので裏づけをとるわけ。
自分のこと考えても、資料を集めるということにはマニアチックな面があるよ。「なんだ、あれを使ってないのか」といわれちゃうとくやしいからさ。だから現 地でも、かならず古本屋をまわるし、ふだんから神田の古本屋をまわって必要な資料を集めておく。三菱重工業の社史とかさ、尼崎造船所史とかさ、五十年史と か八十年史とかあるでしょう。社史とか市史とか町史とか村史とか部落史とか、そういうのはふだんから集めておくの。社史は、むかし三千円だったけど、いま は下手すると八千円ぐらいになっちゃう。社史と地方史は、すごく価値が上がってきてるんだよ。
たとえば『ガリバーの足跡』なんかだったら、釜石市に関係ある本はぜんぶ買う。それから製鉄関係の本とか製鉄営業者の本とか漁業とか鉱山の本とか……。 『死に絶えた風景』だって、ずいぶん本を集めたんだよ。
ただ、集めた本が文章に直接でてくるわけじゃないのね。資料を駆使して分析するとか、そんな肌合の人間じゃないからさ。本っていうのは、引用すると文章が 変っちゃうんだよ。文献の貴重さにひきずられちゃったら、文章がつまんなくなっちゃう。
現場では本は読まない。宅急便で送っちゃう。だって重いから持って歩けないじゃない。何回か行ったり来たりしながら、ときどきパラパラッとやってると、だ んだん資料が整理されてくるでしょう。本格的に読むのは原稿を書くとき。
そんなだから、いままで集めた資料はすごい量あるよ。仕事場は3K。そこに一杯になってる。本はまだいいんだよ。背文字があるし、暇なとき棚の入れかえを したりしてるから、だいたい見当がつく。こまるのは資料のコピーね。ゴミみたいな紙屑。それはぜんぶ項目別に袋に入れて、ダンボールにつめて押し入れに入 れちゃう。ただダンボールの数が多くなると、索引がないから、もうさがしようがないんだよ。ファイル・ボックスおくスペースはないし、だいいち、そんな整 理能力はないから。
いままで集めたもので捨てたものはなんにもない。紙きれ一枚捨てたことないもんね。だから労働運動史関係とか、闘争のビラとかパンフレットとか、かなり貴 重なのもがあるんじゃないかな。でも保存はしても索引がないから、ひきだしようがない。整理する時間がないし、人をやとって整理してもらう金もない。
でもね、負け惜しみじゃなく、整理した材料を使って書くようじゃまずいと思うんだ、基本的に。取材して原稿を書くときに、いちど資料は使っちゃったんだか ら。いちど使った資料は、ものとしては残っているけど、文章を書いたときに必要な十行とか二十行とかを使って、あとは捨てちゃったんだから。それをもう一 度ひっぱりだして、ほこりを払って使うというのはスジがちがう。資料に依存してしまったら、それこそブッキッシュなものになっちゃう。だから自分の書いた ものだけ整理しておけばいいわけよ。
だったら捨てちゃえばいいみたいなものなんだけど、やっぱりもったいないんだね。重い目をして、わざわざかついできたものを捨てられないという、さもしい 根性だよ。
他の連中は、みんなどうしてるのかなあ。立花隆は別として、あとのルポ・ライターは、そんなに資料は集めないんじゃないかな。他人のものを読むと、よく孫 引きしてるやつがいるよ。おれの場合は、社史や市史もそうだけど、やっぱりその前の一次資料がほしいから、それをさがす。そうすると、結構おもしろいもの があるんだよ。
こんどのカツオの取材でも、カツオ協会が新聞記者に書かせた『黒潮を追って』というような本があるんだけど、そんなのはぜんぜんつまらない。そういうの じゃなくて、たとえばカツオ漁師からの聞き書きがあるんだね。昭和十二年だったかな、いまはつぶれてしまった京都の出版社からでた本――それがすごくいい 仕事なんだよね。おなじシリーズに宮本常一の初期の仕事とか、吉田三郎が書いた『男鹿半島寒風録』とかの貴重な本がはいってる。そのなかの一冊で、聞き書 きだけじゃなく、漁具のスケッチとか、社会科学的な分析もちゃんとしてるんだ。
そういう本が町の図書館の倉庫かなんかで眠ってる。だからさ、まめに歩けば、そういう正史以外の埋もれている資料はいろいろあるんだよ。だけど、みんなが 歩かないからさ。
その点、おれは歩くのね。そうやって十年も二十年も、あっち行ったりこっち行ったりしてさ、そのたびに資料を集めては終わり、資料を集めては終わりと、お なじことをくりかえしているんだ。なんのかんのいっても、集めること自体が好きなんだろうな。ただし整理はだめ。まったくだめ。
幼い頃、「夜」はとても神秘的なものに思われた。
当時、私の両親は、しばしば子供を寝かしつけた後、近所の喫茶店にコーヒーを飲みに行っていたらしく、たまたま、私が寝つかなかったりすると、しようがな くて、私も連れていってくれたりした。
もちろん、2歳か3歳の私が、コーヒーを飲むはずもなく、テーブルの上にあるピーナッツの自動販売機に10円を入れさせてもらって、ポリポリとピーナッツ を食べていた。特にピーナッツが好きだったという記憶はないが、喫茶店以外でピーナッツの自販機を見かけることがなかったので、もの珍しかったのだと思 う。
とにかく、本当ならとっくに寝ている大人の時間に大人と大人の場所で過ごすというのは、かなり新鮮なことであった。そして、それはそうしょっちゅうあるこ とではなかったので、なおさらおもしろいことのように思われた。
昔、大みそかが大好きだったのは、それが夜明かしの許される唯一の日だったからだ。
小学生の頃は、9時には布団に入るのがキマリであった。特に躾の厳しい家庭、というわけではなかったが、とにかく9時になったら寝なければならなかった。
「火曜日の女」というのが見たくてたまらなかった私は、コタツで足を暖める、というのを口実に何とかしてTVのある部屋に居座ろうとしたが、30分が限度 だった。仕方がないので、布団に追い立てられて見ることのできない後半30分を、布団の中であれこれ想像し、翌週の前半30分を見て、自分が作った物語を 調整していた。
私の母は、とにかく徹夜をしてはいけない、という主義だったらしく、大みそか以外の夜ふかしはもちろん、たとえ、それが学校の宿題のための夜ふかしでも許 さなかった。
勉強をしていて、ふと後ろを見ると、母親がじっとにらんで立っていたりするのだ。夜中にすさまじい形相の母親が無言で背後に立つ、というのはかなりコワイ ものがある。コワイので、その勉強が翌日提出しなければならない宿題でも途中でやめてすぐさま寝た。そうしなければ、彼女は何度でも夜中私の後ろに立つの だ。
それでも徹夜をするようになったのは高校に入ってからで、倫社のレポートのための徹夜が生まれてはじめての完徹だった。テストがなく、レポートの提出のみ で点数がつけられる倫社に対して、さすがに母親が恐いから徹夜はできないとも言っていられず、夏休みの宿題を登校日の前日にやるタイプの生徒であった私 は、当然徹夜をしなければならなくなった。
子供の頃から引きずっていた神秘性も、甘美なものもなく、私の徹夜初体験は、頭痛と吐き気と共に終わった。「眠ると夜は長いのに、起きていると夜は短い」 というのがその感想で、区切りのつかない前日からの延長は、とてもきつかった。
大学に入るようになると、徹夜の量がぐんと多くなった。眠っているのがもったいないと思っていた時だ。眠るよりは起きて何かをしていたかった。眠ることが とても無駄なことのように思えた。そして、自分の若さを過信していたので、体力にまかせて、何日も寝ない日が続いた。
かなり、徹夜のし方は上手くなり、自分をコントロールできるようになった。で、何をやっているかと言うと、割とぼーっとしていたりすることが多く、決し て、その時間を有効に使っているわけではなかった。
もちろん、本を読んだり、マンガを描いたりもしていたが(この場合、マンガというのは玖保にとって有効なこととみなします。)大半は、説明するのも難し い、ぼわーっとした雑事で、あとから考えると、非常に混沌とした中で時間を費やしていた。そしてそのカオスは私にとって心地よいものであった。
大学を卒業して社会人となった私にとって、「眠り」の位置は大逆転し、オンスで売り買いしてもおかしくないほど貴重なものになった。OLになるのとほぼ同 時に、漫画の連載も始まってしまったからだ。最初はすることなすことすべて物珍しくて「ルンルンOL」していたが、さすがに二重生活が続くと、疲れもたま り、「お疲れOL」とまで言われるようになってしまった。だからこの時期、私にとって一番大切なものは「睡眠」であり、お昼休みの食事よりはお昼休みの昼 寝が体力維持に必要であった。この「睡眠黄金期」は私がOLをやめる時まで続いた。
OLをやめて3ヶ月くらいは、がつがつと睡眠を貪っていた。本当に食べたりないいじきたない子供のように、起きて食っては寝、また起きては寝というよう に、寝たきりの日々が続き、夜が夜の機能を、昼が昼の機能を果たさなくなってしまった。
生活がそういう風にめちゃくちゃになると、いくら時間的にはたくさん寝ていても、どうも疲れが体に残るという症状が起きてきた。運動不足だ。そこで、生活 に区切りをつけるためにも、健康のためにも、スイミングスクールに通うことにした。汗をかいても気にならないし、そんなに運動するつもりはなくても水中だ と運動量は多くなるというのが、ものぐさな私の理由である。
水泳はかなり気持いい運動だった。泳いだ後の心地よい疲労感は何とも言えない。ただし、正常な生活をしていれば、だ。朝8時半にスイミングスクールに出か けて行くというのは、私の生活時間帯からすればとてもつらい。「早起きをしなければ」というプレッシャーも加わって、ヘタをすると前夜眠れなくなる。必然 的に徹夜明けの状態で泳ぐことになる。
泳いだ後は、非常に疲れるのだが、疲れすぎて眠気がとんでしまう。その日の夜も眠れなくなり、次の日の夜、狂ったように、2日分の失われた眠りを取り戻そ うとするかのように眠るのだ。半日以上も眠る日が2日続き、やっと体が元通りになりかけた頃、再び、スイミングスクールへ行く日の前夜がやってくるのだ。 そして、「早起き」に興奮して眠れなくなる……。ドグラマグラのようだ。この恐ろしい悪循環。
水泳はとても健康的だと思うのだけれど、私の場合はそうではないらしい。それに徹夜明けの水泳は危険だ。「足がつったら死んじゃった」なんてことになりか ねないのでやめた。
今現在、私は「睡眠黄金期第二期」に入っている。夜の眠りはとても貴重だ。神秘のベールがはがされて、夜は私には現実のものとなっている。それでも、夜 は、隠しておいた秘密がまだ残っているかのように、私を誘うのだ。
私は夜ふかしが大好きだ。
〈ピッカピカの台所〉
もちろん、わが家のことではない。川崎の生活クラブ生協で雑談をしている時のこと。最近高島平団地で調査したところ、家の中にほうちょうとまないた、がな いうちがずい分あるという!! ハサミだけあれば充分だそうだ。そう、なんでもプラスティックに包まれていて、それを温ためさえすればいいのだ。そのプラ スティックを切るためのハサミだけあればいい。台所はいつもピッカピカ、というわけだ。この話は、棒卵の話を聞いた時よりぼくにとってはショックだった。 なるほど、ハナビシ・アチャコがカロリー・メイトをかじりながら、車を転がしてるワケだ。理なんて、今に「遺跡」になってしまうのか。
〈五倍の料理〉
その「遺跡」になりそうな料理番組の収録に出かけた。場所はテレビ局でなく、な、なんと、新宿副都心のホテル・ハイアットとつながっている褐色砂岩もどき のビルの10階。かねてより、ちらちらと時折り見るテレビの料理番組の「やらせ」とでもいうべき手順のよさには驚いていたが、いざ現場に入ってみると、驚 きを通り越して呆れるほどだ。ぼくは先月のこの欄に書いたように、トリのレモン煮をやることにしたが、それが各行程毎に用意されている。つまり、まず何の 手も加えてないトリのモモ肉。次にほかのヤサイとワインにつけ込まれたトリのモモ肉。次に皮だけキツネ色に焼かれたトリのモモ肉。最後に出来上ったトリの モモ肉。そうなのだ。ぼくがいった時には、ぼくがするはずの料理はもう誰かの手で作られている。それでもリハーサルというのがあって、本番がある。ぼくが したのは、何も手を加えてないモモ肉に、すでにオロされているニンニクとショウガをこすりつけて、ワインを注いだのと――塩、コショーは司会の庄野真代さ んがふってくれた――フライパンにバターを溶かして、つけ込まれたモモ肉をそこへ並べただけ!!
これでは、いつもこの季節になるとバカにする濠の向う、二重橋のあちらで、長靴はいて田植えの真似事をするジイさんとおんなじでゃないか。もうこれから は、あのジイさんのことを笑えないではないか。
なによりも、気になったのは、それぞれの行程のモモ肉の行方だ。係の人の話では、これだけ準備して、本番ではほんの真似事しかしないのに、それでもそこで 失敗が出た時のために、もうひと組モモ肉が用意されているとのことだ。つまり、四人前のトリ料理に二十人前のトリが用意され、オソラクハそれは全部ゴミ箱 へいくのではないか。その場には常時十人ぐらいの人が、こうした下準備のために働いているようで、誰もがぼくの料理――正確にはぼくがするはずで、献立だ けした料理なのだが――を「オイシイ」とは言ってくれたものの、それをもう一度作って食べるとは思えなかったもの。
その日は、ぼくも含めて五人の料理が予定されていたようだ。戸棚の扉の板にスケジュールが貼られていたからそう思うし、準備用の長いテーブルには、大きな 銀の皿に魚が丸ごと一匹、石膏のギブスでもはめているように、身体中をメリケン粉を練ったものらしきものに包まれて横たわっていた。ああこの魚も五匹いる のか! と思うと撫然となった。
同じテーブルの別の端には、透明なプラスティックの容器の中にオニギリが二つばかり、それも色が着いていたから山菜オニギリででもあったのかもしれない。 これはここで働いている人の昼食の残りに違いない。このアンバランス。
しかし、この番組はこれまでもずっとあったろうし、これからもずっとあるのだろう。そのたびに、毎回二十人前があたら食べられない料理、となってゴミ箱へ 消えていくのだ。
いや、でもひょっとすると、これらを専門に下取りしている業者がいるかもしれない。それが、どこか、副都心から離れたところに、レストランを経営してい て、さりげなく、この材料を使って、お客さんに出すものを作っているのではないか。
それでも、その方がゴミ箱に直行するよりずっと有益ではないか。もしまだ誰もいないなら、ぼくが申し出てみるか。毎回百人前の材料があるのだ。週に二日と かを収録にあてているというから週に二百人前か。
黒テントの諸君! ホテル・ハイアットの隣のビルのゴミ箱を狙え。きみたちの辛い旅公演の食料はもう何の心配もいらないぞ。なにしろ、数年前、この公演の 座付料理人をしていた時に、ぼくに与えられた予算は三十人前一日二食で主食の米やパンの購入費も入れて、たったの一万五千円(ひとりあたりではない、全体 で)だった。京都では一度入ったCOOPのスーパーが高かったので、途中までカゴに入れて運んでいた人参や大根をまた元に戻して手ぶらで出て来て、出町柳 の八百屋へ行ったぐらいなのだ。
〈時知らずと魚市場跡公演〉
梅雨に入る前に、梅雨を逃れると称して北海道へ行った。釧路では、「野の音コンサート」をやった公会堂から下ってきた所にかかる弊舞橋のたものにある今は 使われていない魚市場の建物の中で、大塚まさじがうたった。あちこちに鋼鉄の重い扉がついているカマボコ形の建物の中は、埃っぽかったが、ほとんど魚の匂 いはなかった。去年はそこで「千人バーベキュー・パーティ」を開いたというが、今年はささやかに、その一部を使って、四十人ほどの人を集めてコンサートを した。広い市場の中はがらんとしている。ここでやろうとした場所の上の方に、長細い板が一枚取り外すのを忘れられていて、そこにはマジック・インキらしい もので「タラコ、イクラ、トビッ子、スジコ売場」と書かれていた。
次の日、カキの町厚岸で「生活改善センター」の教室でコンサート。つい「生活保護伝ター」といいたくなったのは、こっちの年齢のせいか。主催者は漁師。そ れも魚をとらないで、カキと浅利とコンブとノリをとる漁師。中島均ちゃんといい二十八歳。コンブ漁の最中で大変だったみたいだが、四十人も集めた。打ち上 げは厚岸湖のそばにある均ちゃんのうち。友だちに貰ったという「時しらず」――季節はずれの鮭――を、ぼくがおろして、バタ焼きにした。ほかに、カキを、 生で食べ、焼いて食べ、蒸して食べた。次の朝、五時に起こされたら、均ちゃんはもうコンブ漁に出ていってしまってた。
〈ままかりとちくわと郵便配達〉
出身大学が大阪なので、関東に住んでいる級友は少ないが、そのうちのひとりが、友人の親戚から、岡山地方のままかりとちくわと海老のこうじ漬を宅急便で 送ってくれた。いっぱいあったので、あちこちにお裾分けをした。海老のこうじ漬は、国民健康保険料の集金のおじさんにあげた。ちくわは、三日に一回ぐらい 主にレコードを配達してくれる郵便局のおじさんにあげた。このおじさんは小柄でイキのいいおじさんで「ありがとうございます。車の中でいただきます!」と 帰っていった。言葉数の多い新居さん、とでもいった雰囲気のおじさんだ。もっとも年齢はおじさんの方がだいぶ上だ。
〈食い逃げ〉
今月は二度も食い逃げをした。といっても有料のレストランでなく友だちの家でだから「お縄」にはならなかったが。一度目は、グッドマン一家が間もなく離日 する、というので、和子さんにおせん別代わりに本を届けに行った時のこと。夕方で、先客もあり、忙しそうだったが、和子さんが「鮭めしでも食べて行く?」 といってくれたので、ヤエルちゃんとカイくんが先客のおばさんと遊んでいるスキにこそこそと食べた。「まるで追われてる身みたい」といったら、和子さんは 「わたし、そういう家にしたいの」とケロリとしていった。
その次の次の日は、ヨーガ教室の夏休み前最後の日だったが、仕事が送れていたので、サボってご飯だけ食べに行った。いつものように、ヨーガ参加者が、それ ぞれいろんなものを持ち寄ってオカズができる。ぼくはままかりの余りを持って行って、事実上のままかりをした。この日は美恵さんが前日作ったココナツ・ミ ルクを使ったカレー。森のぞみさんはトリの身をほぐしたものにキュウリなどの細切りを加え甘酢味にしたものを大葉でくるんで食べるもの。「先生」の平田繁 子さんはスティーム・ポークと、カイワレとゆでたもやしを、たれをつけて食べるもの。みんなおいしかった。雷雨が来る前にそそくさと逃げた。
〈アービーズとうな鉄〉
食い逃げなんかしたせいで、散財のうき目にあった。いや、ホントは順序は逆で、散財のうき目にあったので食費を節約するために食い逃げをしたのかなあ。
ことのおこりは、渋谷商店街のド真中で、いつもお世話になっている旅行代理店の友だちに会ったことだ。「やあやあ」といい、お茶でも、ともっとも安い店の ひとつ「アービーズ」へ入って、かれとその連れはアイスコーヒーとジュース、ぼくはビーフ・バーガーを買い計五百円を払った。さて食べようと窓辺に立った とたんに「ジァンジァン」の若者たち三人がやってきた。その前に「ジァンジァン」で電話を借りたりしてたので、つい「飲みに行こうか」となって、今度は四 人連れで井の頭線のガード下の「うな鉄」へ行った。串焼きのたぐいは一本三百円ぐらいなので、ついつい油断して次々にたのんで、ビールを四人で三本ぐらい 飲んで、つい「ええわ、おごったるわ」といってしまって、おあいそしてもろたら、一万円に近かった。「しもたなあ」と思ったが、あとの祭。しかしこうし て、ぼくの帳尻というのは合っているのかもしれない。
ハンバーガーはどうしたのだろう、と心配する向きもあるだろう。これはくだんのふたりにあげてきた。翌日この旅行社に電話して、タイ行きの切符の値段を聞 いたら、八月十六日からは安くなるというので、頼んでしまった。
こんなにも外で食べてるようでも、ひと頃にくらべると、家にいるということが多いので、米がしっかり減っていく。「座して食らえば泰山も空し」とはまこと によくいったもの。そういえば先月の「魚頭鶏は」は「魚身鶏は」だ。
ベンヤミンがどこかで引用している。じゅうたんのもようはどこかでゆがむ。そこで認識は跳躍できる。
どこかでよんだ。インディアンのかごはあみあげてしまわない。どこかをのこして魂の出口にする。
ワヤンの物語はおわらない。最後のたたかいのなかでしばいはおわる。
不完全が魂の行き来を自由にしてくれる。
それにくらべて「独裁者オディプス」。悲劇をはじめるのは人間の思いあがり。悲劇をおわらせるのは機械じかけの神々。この時もう、機械は神々におなじ、機 械になりたい人間は身のほど知らずの罰をうけた。
ディジタル・シンセサイザーの安定した回路で不安定な音をつくると、それはおどろくほどたくさんの情報を消費する。耳には連続変化ときこえるものも、こま かい段階変化のつみかさねでできている。それは記録して固定するには不利で無意味だが、即興には向いている。
シンセサイザーのオーケストラ的あつかい、なめらかな音、背景音、正確なビートではなく、ソロ楽器としてのシンセサイザー、コントロールをこえて変化する ノイズ、背景をはぎとられたふるえる線、ずれるリズムと幻覚のメロディー。
音色変化とコントロール度を設定する。それとむすびついた動きのプロトタイプを練習する。イメージをあたまのなかで追ったり、紙の上で構成しないで、かた ちを指におぼえさせ、あたまを自由にしてやる。作曲や演奏というより、訓練だけだ。
心でかたちをつくりだそうとしたのは、まちがいだった。からだを型のなかに解放するとあらわれるなにものかをききとることだ。
ちいさい音、たよりない声、息が音に変わる瞬間からはなれるな。きくひとのからだからちからがぬけていくような音楽だけが、魂の出口をあけてくれる。きこ える音だけでうまくやろうとすると、人間だけのコミュニケーションのレベルにとじこめてしまう。古代人はそれを人間の思いあがりと呼んだ。名人芸、それも ひとつの限界だ、とマセダが言っていた。
人間的なうた、そこからはこの魂の自由を感じられない。逆に、遠いものと語りあう音を手にするには、沈黙に耐える以外にないが、そんなことが、だれにでき るのだ。
ねずみの歌い手ヨゼフィーネのうたう前の姿勢、ふるえる胸、そらしたあまた、見上げる目。声はなかなかでてこないが、どのみちそれはよわよわしいぴいぴい 声にすぎない。沈黙のなかを、声もなく、演技力もないうたが、道をきりひらこうと、もがいている。その姿を見ると、笑いもとまる、といわれるヨゼフィー ネ、歌のいけにえ。
ザムザのめざめ――ふあんなゆめからさめると、ひっくりかえったがいちゅうが、おきあがろうと、もがいている。ちらつくたくさんのあし。まどにあたるあま だれ。ならないめざましどけい。たたくおと、とんとん。グレゴール、グレゴール、よぶこえ。こたえにならないぴいぴい。
ゆめからさめるのではない。ゆめのなかにめざめるのでもない。ゆめがめざめるのだ。
なまえはなに?
オトラーデク。
うちはどこ?
じゅうしょふてい。
そしてわらう。おちばのさらさらのようにひびくわらい、はいをつかわないでもだせるわらい。
このまちにはいつまでも、まだあけきらないあさがある。どこまでもひかりのないくもりぞら。なにもないとおりは、せいけつでしずか。とめてないどこかのひ らきまどが、ゆっくりゆれる。ひろげたシーツがどこか、てっぺんのテラスのてすりでひるがえる。ひらいたまどのカーテンが、どこかでひらひら。ほかにはな にもうごかない。
マライタ島の女たちのうたうメロディーの曲がり。なめらかな一歩から急にとびあがる、またはおちこむ。こわれた階段をとびこえたり、あしふみずしたり。
ほそい竹笛にふきこむ息のむらで、音がひっくりかえったり、急に低い音に変わったりするのをきいて、女たちの歌ものどをなにものかの息の通路に貸している のだ、とおもった。
カフカの階段や廊下も、そういえば夢のなかのように、すぐふみはずしてしまうな。
小泉文夫さんが好きだったカリンガの鼻笛トガリのことをおもいだして、夜になると練習するが、なかなか吹けない。こんなにかすかな音なのに、その音が遠く を見つめているのがわかる。
小泉さんは、いつか「トランソニック」のパーティにきて、胸ポケットにさしていたミンダナオの竹の口琴クビンをくれた。それからずっとつかっているが、 ちっともうまくならない。
世界のさまざまな場所であらゆる音楽を知ったあとで、小泉さんのような人がトガリやクビンを身のまわりにおく楽器としてえらんだ気持はよくわかる。
その後、堀田正彦がカリンガの口琴オンナをもってきてくれた。これはブロンズでポケットにもはいる。鳴らすのはもっとむつかしい。ことばをつぶやいて、そ のひびきにのせることもできる。村の男たちはそれぞれの名前をそれで鳴らし、村は音の霧につつまれる。
アストル・ピアソラだったら、すべてをタンゴであらわることができるだろう。アボリジニはあらゆる鳥の声をディジェリドゥであわらす。それは白アリが穴を あけた木の幹を吹くだけのことで、外部の人間にはそのひびきが何をあわらしているのか知る手がかりさえない。ディジェリドゥの長い筒は望遠鏡をおもいださ せる。楽器というよりは、存在のひびきをききだすためのマイクロフォンだ。
そういえば、トガリもクビンも女たちののども、みんなマイクロフォンなのだ。自分でしゃべってはいけない。生活のあちこちにしかけて、待っているだけでい い。人間の頭上を歩いていくマンモスの足音がきこえるぞ。
アイヌがレクッカラとよび、イヌイットがカタジャイットとよぶのど歌がある。女が二人、向き合って相手の口を共鳴体につかいながら、のどでさまざまな音を だす。これがなぜ女だけのものなのかわからないが、むかしシェフスキーにその話をしたら、いっしょにやろうと言われ、どうしてもその気にはなれなかった。 カタジャイットのレコードに「犬たちの歌」というのがあって、そのあえぎ声をカフカの音楽犬のためにサンプリングした。彼女たちは一曲うたってはどっと笑 いくずれているが、男二人があのように相手の口のなかへ息をふきかけあったあとで、ほがらかでいられるものだろうか。
自分におぼれる危険。何かをはじめると、そこにひっかかって、出口を見失う。ほどよくきりあげることは、一番むつかしい。びんの口をあけてやったばかり に、あらわれた悪霊につかまってしまう。のめりこむ前に風景をきりかえる外からの合図。
ジョン・ゾーンの曲は、はりめぐらされたキー・システムだけでできている。キューは視覚的なもの、手の合図やいろどりの旗、例外には2つのキーボードのた めの「テニス」のように両手がふさがっていると、番号を呼ぶこと。
合図は、音である場合もある。マライタ島のパンパイプ合奏のように、するどい一吹きで全体が転換するもの、ガーナのドラム・アンサンブルのように「さあ、 変われ」とせきたてるリズムがマスター・ドラマーから送られるものなど。
合図は、それとはっきりわからなければ用をなさない。それが音であれば、きこえた瞬間に変化は予想される。その時、音楽はおもいがけない方向にまがらなけ れば、穴に落ちてしまうだろう。
マライタ島の男たちの合唱は、パンパイプの合奏を声に写したようにきこえる。そこではホッというかけ声が変化の合図になる。そのレコードをきいておもいだ した、スラチャイが歌の合間にホッというような声をかけていたのを。あれは変化の合図ではなくて、はずみをつけるためらしかった。風の一吹き、木の実がば らばら落ちてくる。
肝臓障害をやってから、食後しばらく横になるように言われていて、ねころがってンビラであそぶようになった、ケニヤ製で、ほそい鉄の棒が9本、木箱の上に ついていて、両手の親指ではじく。棒には缶のふたをきりとったちいさい環がはめてあってシャラシャラ鳴る。モンコンがもとの調律をすっかり変えてしまった が、音があっていなくても、いつまででも鳴らしてあきない。日本でだれかがつくったものもある。この方はケニヤ製のような廃物利用ではなく、きれいにつく られていて、やわらかいひびきがするが、すぐあきてしまう。音がそろいすぎていて、サラリーマンのようだ。
何年も前から、このノートを書きつづけてきた。にたようなことばをくりかえし書きつけて。やりたい音楽に踏み切れずに、そのまわりをまわっていた年月。こ れでは、たどりつく前に死んでしまうのではないか、と思いはじめる。ノートをひらいたりとじたり、いじりまわしてぼろぼろにしたあげくに、革表紙の業務日 誌を買って、それに書き写す。こんどはノートがすり切れる前に、ことばのインクがあせていく。
今は終わって全てがギュッと圧縮されてたたみ込まれている。それを一つ一つ解きほぐすのが難かしい。原稿用紙から目を移すと一枚の写真がある。ツァーの最 後の日、ショウが始まる前にクルー・メンバー全員でとった写真だ。二階だての舞台の上から上手の方へカメラは向いていて、48人の人間がそれを見上げてい る。ほとんどの人間は笑っているように見える。人はなぜカメラに向って笑うのか。写真ってディレイされた鏡のようだ。とすると人は笑っている自分の顔を見 たいのか。又、写真って動かないプロモーション・ビデオみたいだな。すると人は笑っている自分の顔を他人に見せたいのか。この笑いは何かを共有しているよ うにも見えるし、又この48人は何かを共有しようとしてこの瞬間笑ったのだとも思える。もちろん自然な笑いではないが、数時間後に終わる自分達の仕事の記 念として笑顔を残すというのは格別変わったことではないのだろう。唯笑いには色々な種類があるし、高低もある。後ろ向きの笑いもあれば下向きの笑いもあ る。外に投げ出すものであると共に多少とも内向きさをもっている。
このツァーは色々な始まりと終わりをもっていて、それらが整理できない程からまっている。様々な線が四方八方に伸びていて収拾がつかないのだ。僕はといえ ば、8年間在籍していた事務所を辞めることになる。思えばそれはYMOの季節と共に始まったのだ。70年代のトンネルからやっと抜け出そうという頃――な んて言うと、単におまえが70年代、何もやってなかっただけだ、なんて言われそう――なんとなく、全くなんとなくミュージシャンやらスタッフが集まってき た。多分僕らの周りで周波数の高いなんらかの波を発信していたのだろう。そんな通俗的なことも言いたくなる様なノリがあったんだから。そこで何人かが集 まって変な名前のオフィスを作った。もちろん最初は小さくて、場所も他のオフィスとシェアしていた。例によって業務が増えるにつれて、人が多くなり現在の 乃木坂に移転をする頃、YMO事件が起こる。急に売れてしまったのだ。もちろんその前には、一回目の比較的楽しいワールド・ツァーというものがあり――ま だ売れてなかったし、僕にしてみれば初めて西洋人ばかりの客の前で演奏したのだ――その後には二回目の比較的苦しいワールド・ツァー――既に売れていたの でプレッシャーも大きかったし、個人的な事情でメンバー間にトラブルがあり、約2ヶ月というものがまるで監獄だった――があった。とにかく全てがYMOと いう怪物を中心に動いていかざるを得なかった。訳の分からない重苦しいものがメンバー全員にのしかかっていた。その内容は各々ちょっとづつ異なるとして も。そこで二回目のツァーの後、二枚のアルバムを作って自ら休業してしまった頃映画の話が飛び込んでくる。全てはリンクされているように見える。世界はど んどんスウィッチされ、目紛しく次元が変わっていく。その中で翻弄されている僕とそれをボーッと見ている僕、ナーンテ。映画の撮影から公開まで約一年、も ちろんその間にサウンドトラックも作る。映画が公開される頃、再びYMOの始動、怪物の最後の年の活動としてキャンペーンをやり、ラストツァーをやり、映 画を作った。もうかつての様なプレッシャーやトラブルはなかった。全員の目的は唯怪物を葬り去ることだけだった。最後の写真集を「SEALED」――封印 ――としたのもその為だ。もうお前には用はない。永久に眠りつづけ再び姿を現すことのないように。
足枷のなくなった僕は色々なことをやり出す。本本堂という出版社を作り本をだしたり、パイクと会ってビデオに興味をもったり、浅田彰と出会いイベントを企 画したり、インディペンデントのレコードメーカーをつくったり。しかしそれら一つ一つのことは、とても小さいできごとで、僕自身にも他人にとっても、とて もYMOから脱皮を決定づけるものとはならなかった。
初のツァーをやろうと決めたのは約一年前、動機はもう忘れてしまった。去年、9月15日つくば博閉会の前日ジャンボトロンで行われた「TV―WAR」が一 つの大きな刺激になったのは事実だ。ここで出されたキーワードが驚くほど、イタリア未来派に吸い込まれていったのだ。もちろん20世紀の機械文明がまさに 始まろうとしていた頃の彼らと、文明がもたらす大きな災禍を経験してしまった僕らとではノリも違うし、同じことはファシズムに対しても言える。それなのに なぜ、未来派の何が僕らを魅きつけるのか、未だに分からない。
ウーンとうとうツァー自体の総括にまで至らなかったが、やはりあのツァーはこの数年間の僕の到着点であり、次のトラックの始発点であるのだ。今の僕はフ リーのミュージシャンです。
編集後記
かれはぼくたちを見つめている/ふしぎな雪をみるようにして/二人のタイ人とカナダ人と日本の農民が/東北から沖縄まで音楽をはこんでいく/ぼくたちの日 々を結晶させる時間の詩/カラワンのキャラバンがさらっていく――と、まず自分で書いた帯のフレーズを引用し、ついでにお知らせですが、スラチャイ・ジャ ンティマトンの日本旅行記「メイド・イン・ジャパン」がやっと出版された。日本で書いた歌の歌詞や短編小説も入っている。目の前に座っていても、おなじ空 間や時間をわけあっているという気がまったくしなかったが、エイリアンの目は正確にはたらいている。新宿書房(Tel 03・263・2735)千八百円。
第二次世界大戦直前にアメリカからフィリピンに帰る船が神戸に寄港した。港を向いた街は西洋だった。坂をのぼって裏通りに出る。そこはアジアの村だった。 ――ホセ・マセダにきいた話。見慣れた場所も、たくさんのちがう場所、ちがう日々、異文化のコンプレックスだった。日本でなにもかも間にあわせる生活をし ていると、忘れそうになる。
ザミャーチンの「われら」を読んでいると、この反ユートピア単一国は、日本そのものだ。みんな制服、おなじ時間におなじことをするのが幸福。緑の壁にかこ まれて石油食品を食べている幸福。私とワタシのリズムボックス。ところで自由には、義務もなければ権利もなく、単一世界が異文化のパッチワークに分解して いくと、日本人は異文化を食べるエイリアンにすぎなかった。(高橋)