人はたがやす 水牛はたがやす 稲は音もなく育つ

1986年11月号 通巻88号
        
入力 桝井孝則


ワープロ筆談・編集会議
 高橋悠治 津野海太郎 鎌田慧 八巻美恵 藤本和子 デイヴィッド・グッドマン
PETAがくる  津野海太郎
人とミミズ  小泉英政
山がない(2)  巻上公一
料理がすべて  田川律
「カフカ」ノート  高橋悠治
走る・その十  デイヴィッド・グッドマン
キリコのコリクツ  玖保キリコ
編集後記



ワープロ筆談・編集会議

高橋悠治 津野海太郎 鎌田慧 八巻美恵 藤本和子 デイヴィッド・グッドマン

高橋 水牛通信もこれで通巻88号になった。かんがえてみると、8年やっている。 結局40代はこれをやっていたとしか言えないところがあるのね。だけど、来年の11月には百号になるわけで、そろそろ次の局面にいってもいいんじゃない か、と。それにはいろいろ意見があるだろうから、ひとつ筆談でもしてみよう、というのが始めのことばです。ワープロ筆談というのは、一人ずつ、しゃべるか わりにワープロで打っていくのね。打ち終わったら「どうぞ」って、無線みたいにやる。では、津野さん、どうぞ。
津野 はいはい。いまトイレにいっていましたので、ご返事がおくれてしまいました。
鎌田 演技過剰だよ。
津野 じつは、十日間ほどまえに、おなじテーマの座談会をやったのですが、お酒がはいっ たのでメロメロになってしまった。今日はそのことの反省の意をこめて、こういうことになったらしい。発案者は八巻美恵さん。彼女はいま鼻唄をうたいなが ら、調理台で、お刺身らしきものをつくってる。
 この号をふくめて、あと十三号で百号です。いままで百号などという単位でなにかをやったことがない。その意味では、おもしろかった。マンネリにはマンネ リのよさがあるということが、はじめてわかったという気がする。したがって、せっかくのマンネリズムを断固打破してしまうというのはもったいないと思うん だけど、どうですか、鎌田さん?
鎌田 そうですね。ぼくはかねてから疑問があったんですけど、なんでみんなトラ年なの に、水牛なのかしら? まあ、それはいいですけどね、つぶすよりもつぶされるほうがカッコいいと思っていたわけ。きょうの夕刊を見ると新興宗教の教祖が死 んで、七人の信者があとおい自殺してますけど、水牛はだれも死んでいないのに、一年後に集団自殺を予告してますから、やっぱりラジカルなのかなと思ったり しています。まあ、でも百号で集団自殺すれば「老牛通信」はつくらなくてもすむというサバサバした気持もないわけではありません。つぎは若い人の声という ことで、ミエさん、どうぞ。
八巻 べつになんにも言うことはないんだけど……。わたしは水牛をつづけることにもやめ ちゃうことにも感慨はとくにないんです。いまはあと十三号をひとつまたガンバッテみよう、と、あらたな可能性がひらけるかもしれないじゃないか、と、たの しみにしてるとこですね。ワープロ筆談はそのはじめのアイディアかな。
鎌田 なるほどね。しかし読者はきっとなにかをいってくるでしょうね。
津野 しょうがねえな。なんか意見はないの?
鎌田 一年でやめるということはどういうことかと考えると、やっぱり時代も影響してるの かな。早く打って、打って。(注――鎌田さんだけは自分でうってないのです)……あっ、なにか言わないと打てないのか!
 ぼくがはじめてこの水牛と出会ったのは、大阪の田中機械の集会のとき。福山敦夫が、まだ新聞だったころの水牛を売ってた。八年まえというと、少数派労働 運動とか地域闘争のイメージがパッと思いうかぶんです。で、さっきの今日の夕刊のことですけど、教祖が国鉄職員だったということを知って、やっぱりこの八 年間の落差というのをつらつら考えるのであります。
津野 鎌田さんは感慨派で、それはそれでよくわかるけど、今日はこれから先の話をしま しょう。おとといの朝の電話で、「きょうの座談会はワープロでやろう」という提案をきいて、おもしろいと思ったんだけど、やってみると意外にむずかしい ね。ワープロを打たない鎌田さんだけが、イキイキとしゃべってる。座談会のテープ起こしでは、「水牛通信」は美恵さんを中心に、無手勝流というか、無手勝 流と見えるような技術革新(!)をいろいろやってきたわけだけど、ワープロ座談会というのも、なにか遊ぶための工夫がいるかもしれないね。
高橋 と、ここまではだれも決定的なことを言わずに様子をうかがっている感じで、文体も 決めかねている。筆談はやはり、おてがみさしあげます、と似たことじゃないのかな。
 それはさておき、水牛通信は、集団としてひとつのスタイルをつくってはきた。だけど、これからは仕事のスタイルで乗り切れるのかどうか、いくらかの疑問 もあるね。水牛楽団のほうはスタイルが身についたところで、どのようにやってもなんとかできる、という感じになって、じつはこれも限界だった。では、スタ イルを超えるのは何か、となると、これはむしろ個人の問題だ、という気もする。まあ、そういう年齢になったわけかな。
津野 仕事ね。むずかしい問題がでてきた。悠治とか鎌田さんは一人でやる仕事でしょう?  といってしまってはまずいか。まずいとしても、このままつづけさせてもらうとして、おれの場合は、ほかの人たちといっしょになにかをやるという場合がお おいわけです。水牛通信で役にたったのは、その点だね。いろいろな性質をもった複数の人たちがあつまって、そこに、たんにみんなが貧しくなるという仕方で はなく水平的な関係をつくる方法が、すこしわかってきた気がするのね。
 スタイルを超えるものというのはなんなのかな? ぼくの場合はスタイルだけでいけてしまうような面があって、にもかかわらず、スタイルだけじゃいけない んだという気持がつよくありすぎた。その気分に対しては水牛通信でうまくゆさぶりをかけてもらったと思うんだけど、もちろん、それだけじゃすまないよな。
 ただ、おれの希望としては、通信がなくなったとしても、これ以後も、なんらかの仕方で、おれが一人じゃなくて生きるスタイルをつくるハズミをつくってく れるようななにかがあってほしいとは思うね。個人でやる仕事を仕事というなら、その仕事とは間接的なつながりしかなくてもいいと思う。
鎌田 そうだよね、うん。やっぱし水牛通信っていうのはさ、はじめにマニフェストや綱領 があったわけではなくて、それとはちがったかたちでなにかをやろうというのではじまったんだと思うんだよね。だから個人の力というんじゃなくて、おたがい の関係、環境のなかでなにかがでてくるんじゃないか。そういう面があとからの水牛通信にだんだんでてきたんじゃないかと思うわけ。だから、なにをやったの かというのは、いまはまだわからないよね。終わったあとにわかるんじゃないか。
八巻 じゃ、結局、わからないわよ。
鎌田 いや、そうじゃないよ。あとからゼッタイにわかると、おれは思うんだ。だから、 いったん潰して、それからどうするか。そこんとこで自分たちの生きかたが問われるんじゃないかと思うね。
八巻 えっ? 生きかたを問われるんですか? わたしは水牛で生きかたまで問われたくな い。四十代後半の人たちの発想だなあ。うん、だからやめどきだという感じはするんですね。生きかたが問われるんじゃなくて自分で問うんでしょ、鎌田さん?
鎌田 若いといったのはオセジでね、きみだって、たいして若いわけじゃないんだよね。年 齢がちがうから、これからの行く末について考えなくてもいいってもんじゃないんだよ。
 ぼくがいいたいのは、それほど深刻な気持でやったんじゃないけど、八年間もやったんだから、なんかやったと思うわけ。それは自分のほうにも返ってくるし ね、それから八年間購読したごく少数の人も、やはり、なんかいいたいことがあるんじゃないかと思うわけ。そういう意味で、そのあとのスタイルも問われると 思うんだよ。いや、ほんと。これから生きかたを、自分と読者の両方から問われる。
津野 おれ、こないだ『歩く書物』という本をだしたわけだよ。そしたら今日、出版元から 図書カードを送ってくれた。なかに一通、民衆文化運動からの撤退宣言みたいで、ちょっとイヤだったという批判があったね。鎌田さんのいう「これからの生き かた」というのは、そういうこと?
鎌田 ああ、撤退なんてことは考えてないんだよ、ぜんぜん。前進するからちがったかたち で考えようとしているんだよ。
高橋 生きかたというと、すごく深刻になる。スタイルというと、へんに軽い。でも、おな じことを言っているだけね。スタイルを超える、ということは何か、それはまず、そう口でいっただけで答えを知っているわけじゃないし、質問として正しいか どうかもわからない。とりあえず言えるのは、ただ方向さえ正しければいい、というのではなくて、スタイルをもって何ごともしなければならない、という感じ があった。スタイルは一人でやっててもだめで、だれかがうけつぐことを前提にしている。では、一人ひとりは、そこで何をしているのか。スタイルにまかせて いられない何かが、そこにあるみたい。水牛で言えば、なりふりかまわない運動体をいろいろ見ていて、いやだなあ、と思っていたあたりからの発想だからね。 だけど、スタイルというのもある種の反体制文化をつくるわけだから、やがてそれが足かせになる時がくる。すると、個人の役割は、別な文化をつくるのではな くて、反文化となるしかない、という風に思えてくるね。
津野 こんど新日本文学とかイイダモモさんたちが「民衆文化フォーラム」という催しをや る。ぼくはそれに反対なの。理由の一つは、もし万が一にも、これからさき「民衆文化」というものが成立しうるのだとしたら、それは「全国大会」とか「全地 球フォーラム」というようなかたちとは反対のものになるほかないんじゃないかと思う。もう一つは、もしも「民衆文化」ということをいうんだとしたら、かつ ての共産党文化に対する否定としてしか成立しないんじゃないか。その二つ。おれたちの年代の連中もふくめて、全状況に責任をもちたがる、そうでないと生き ている甲斐がないと感じてるような人々が「民衆文化」などというと、なんかウソっぽい気がする。
鎌田 おれなんかも、「民衆文化」という言葉は使ったことがないよ。「労働者文学」だっ て、垣根をとっぱらってしまわなければいけないんだと思ってるんだから。
 おれたちは別に「民衆文化」をどうしようかとか、やったわけじゃないし、たんに自分たちの関係のなかでなにかができていくんじゃないかと思ってやったわ けでしょ? いろんな人がいろんなとこで勝手に雑誌をつくればいい。この雑誌だってその一つでしかないわけでしょ? 問題は、あと一年しかないなかでなに をするかということで、やっぱり、いままでとちがったことをやってみたいよね。一号を一人にゆだける一人編集長主義というのは失敗したと思う。ああいうん じゃなくて、いろんな人がいろんなかたちでいろんなことをやってる、そのことがあらわれるような雑誌として水牛通信はあった。だから、この一年はもっとい ろんな人のすがたが見えてくるような方法を考えられないかな。
津野 さて、これからの水牛通信ということだけど、なんであれ具体的な手を考えて苦境を こえてきたというのがわれわれの伝統なので、そこに話をうつそうか。きょうはいろいろ苦しんでワープロ座談会をやってるんだけど、編集長、もっと苦しまな いですむいい手はないですか?
八巻 いつの間にかわたしのことを編集長と呼んでいるけど、その地位をひきうけたつもり はありませんよ。苦しまないでいい手といわれても、わたしにはみなさんが苦しんでいるようにも見えない。自分をふりかえってみるとたしかにはじめのころは 読者のことをおもんばかったりした記憶はあるけれど、今は基本的に自分が読みたいような雑誌をつくりたい、しかも不当な困難を避けて、ということでね。た とえばきょうのこのワープロ筆談にしてもちょっとした思いつきでもちかけると、苦しんでいるみなさんが、即のってくださるわけですからね。それと、誌面を 開放したいというふうにはずっとおもってきたけれど、その具体的な方法がよくわからないんですね。待っていても投稿はまったくこないでしょう。だから、も しかすると水牛という集団は投稿を待っていたりはしないのかもしれない、ともおもうんですね。かなり閉鎖的なのかもしれない、とね。
津野 いま勘定してみたら、これでやっと五ページ分です。かかった時間はやく三時間。こ れを座談会でやれば十五分ですむ。ただしテープ起こしの時間はのぞく。ぼくが「苦しむ」といったのはそういう意味です。
 また、この雑誌の編集は本来であれば編集委員会のメンバーである三人のトラ年の男がやるべきなのだが、実際には、美恵さんが中心になっているわけで、編 集長といったのは、たんなる事実の報告にすぎない。そこに三人のトラに対する美恵さんの批判があるのであれば、あまんじてそれは甘受せざるをえないでしょ う。
 以上は、のちの歴史家に対する名目と実際のあいだのギャップについてのあらずもがなの注釈。
 ワープロ座談といっても自然体ではできない。できるけど、時間や気持のロスがおおすぎる。ワープロ座談のかたちで、ワープロじゃない座談より自由な、そ れでなければいえないなにかをいうためには、なんらかの方法がいるみたいだ。ちなみにいうと、われわれはいまクルト・ワイルの曲をルー・リードとかジョ ン・ゾーンが勝手きままに、かつ魅力的にうたったCDをききながら、この座談をやっているわけです。鎌田さんは寝てしまった。なんでだかわからんが、悠治 はまだ寝ていない。つまり、ある種の緊張があるわけ、ワープロ座談には。
 思惑もあります。きょうのメンバーはみんな相当に古いつきあいなのだけど、それにしては、ぎこちない。みんながいる場所で、しゃべるのではなく書くとい うのは、おたがいの関係をぎこちなくする。あらためて、あいつはホントはなにを考えているんだろう、なにを考えてるのかわかんないやつにむかって、こんな ことを書いていいんだろうか、などとおもんばかりたくなる。この思惑を超えるためには、なんらかの型というか、複数の人間がその場で自由になった気になれ るようなきまりがいる。いってみれば、散文による連歌の規則ね。
高橋 さて、スタイルを超えるどころかワープロ筆談のスタイルをつくるべく苦しみながら ページ数をかせごうとあせっているところで、ひとあしさきに最終イベントにいきましょう。
 水牛最後を記念しての大イベント。この雑誌は基本的に黒字経営なので、残金を全部使って、といってもたいしたことはないだろうが、ポイントは全部使いき るところにあって、そのための企画をかんがえる、という話もこの前の、記録されなかった座談会にでたので、まず場所をとる、それから出演者とスタッフを決 める、そんなことをやっていれば、すぐ一年たってしまうよ。カラワンの歓迎コンサートなどでもやった、手をかけないもちよりパーティみたいなのではなく て、手がかかっていて、でもやることはみんなバラバラのような、そんなのを何時間もつづけて、見るひとたちもつかれきって、でも最後までなぜか帰れない、 ブニュエルの映画にあったけど、どうしても外へでられない、とかね。そういうのを一度やってみると、おもしろいかもしれない。一度だけね。その後は、あつ まって、いっしょに遊ぶことしかしない。
 すこし前までは、やはり自分でなんとかうごかせるサイズのメディアをもつ必要がある、とおもっていた。今もそうおもっていないわけじゃないが、読者のこ とをかんがえたりするより、自分たちでおもしろく遊ぶほうが、よいコミュニケーションになるような気がしてきた。ひとが何かに熱中しているのを見ることか らはじまって、それぞれの場所でちがうおもしろさをはじめればいいってね。
 今の日本ほど、みんながおなじことをおもしろがろうとして無理しているところはない、とおもうな。ほんとは何もかもあきているくせに、いろんなことが次 から次に起こっている、という錯覚のなかで生きている。まったく離れたところに何かを見つけること、しかもそれを人にふれまわったりしない、そういう場所 をそれぞれもつ、ということでなりたつコミュニケーションはどんなものか、という興味があるね。
津野 と書きおえて、高橋悠治さんは寝てしまったのだね。その最終イベントの話ですが ね、美恵さん、お金はいくらぐらい残るんですか?
八巻 現在高から計算すると約百万円ぐらいですね。
津野 たったそれだけ!
八巻 たったそれだけって、あなた、百万円といえば大金よ。
津野 そりゃそうだ。よくもまア、百万ものこったよな。百号だして百万のこるだろうとい うことは、一号あたり一万円の黒字ということになる。これはわれわれみたいなセコイ雑誌としては画期的なことよ。
 ただ、最終イベントはそういった当家の家計の水準じゃなく、べつの数字で考えたいね。百万が千万でも、たったそれだけ、なの。千万が一億でも、とはいわ ないけど、なんかそういうプランは考えられないかね。
八巻 実はもうあるんだよねえ。(とアメリカに電話をかける。もう十二時をすぎているか ら、国際電話通話料金は安くなっている。ちなみにイリノイ州は朝の九時)
藤本 百万はたいしたお金じゃない。つかってしまえばあったいうまだ。それはいいけど、次の百号までどうすればいいのかわからないのよね。
グッドマン この電話で百万すっとんじゃうよ。まずアメリカにおける編集会議を開いて、 こういうことを真先に考えるべきだ!
藤本 残りの12号に関しては、座談会はやめたほうがいいんじゃないか。誌面をいっぱい とるわりには実りがすくないんじゃないの?
津野 ゆっくり考えながら言ってください。なにしろ百万あるんだから。
グッドマン うちから三時間半行ったところにマーク・トウェインが生まれた町があるの。 ぼくたちもトム・ソーヤーとハックルベリー・フィンと黒人のジムがミシシッピー河を下ったように、ドンブラコッコと河を下りながら編集会議をしたらどう か。そういうハウスボートがあるわけよ。
藤本 百号おわったら二本だてにしたらどうですか。季刊とニューズレター。
グッドマン でもさ、みんなに会いたいね。
八巻 どうもありがとうございました。(と、電話を切って)さて、鎌田さん、眼がさめた ようね。
鎌田 ああ、よく寝た。だいたいワープロ打てないやつが発言できなくなるっていうのはコ ンピュータ・ファシズムがここでも始まったということじゃないのかな。
津野 無茶いうなよ。きみがいちばんしゃべってるじゃないの。おれなんかあなたの話を打 つだけで、もうなにも考えられないよ。その奴隷労働について、どう考えるんだよ、あなたみたいなインテリは?
鎌田 しかし、アメリカもいいね。せっかくの提案だし、行ってみようか。
八巻 もう行くことにはなってるのよ。だからアメリカも行く! 最終イベントもやる!  百号の次のかたちもかんがえる!
鎌田 来年はいろいろやろう。
津野 あんたはいいなア。いままで気持よく眠っていてさ。でも、おれはそれを非難しない よ。それが鎌田さんの鎌田さんたるゆえんなのだから。わっはっは。
 最終イベントはね、おれは悠治がホセ・イタービ(?)みたいなピアニストとして真中にいて、そのまわりでいろいろやるというふうに考えていたのね。ホ セ・イタービというのは、イタルビと書くのかな、とても派手なアメリカの商業ピアニストなの。もうなんというか、スター中のスターなの。そういう派手なイ ベントをやってみたらどうかと思ったんだけど、でも、これはおれの芸能趣味にすぎないみたい。よし、もっと前衛的にやろう。でも、前衛的といったって、芸 能からそんなに離れてるわけじゃない。いま思い出した。むかしブレヒトが『処置』を書いたとき、あるマジメな人が「あんた、それでマジメなつもりなんです か?」ときいた。ブレヒトが答えた。「もちろんマジメです。でも、芝居ですからね。芝居というのはフマジメなもんなんです」
鎌田 これさ、やってる連中だけの関係がね、だんだん親密になっていって見てる人たちが 入りにくくなっていくような懸念がないわけではないが、しかし、門戸を閉ざしていたわけではないのだ。まだ一年あるんだから、なにかしたい人はどんどんド アをたたいてほしい。
八巻 たたくのは鎌田さんちのドアのことですね。
鎌田 いや、どこでもいいんですけど、やはり直接には編集委員会だと思います。ちなみ に、ぼくの電話番号は0424・94・××××です。津野海太郎は……
津野 おれはいいよ。電話してもらってもいないんだから。さて――なんでだか、きょうは 「さて」ばかりみたいだけど――おれは思うのね。
鎌田 そんなに思わなくても、だらだらと終わればいいんじゃない? でもおもしろかった ね。人が発言してるのが全然きこえなくて、そのあいだは寝たり本を読んだりしていても間にあうんだから。この座談会というのは気にいったね。ただ、アメリ カの電話代は……
津野 きみが払うか?



PETAがくる  津野海太郎


十一月のカラワンの再々来日につづいて、十二月にはフィリピンの劇団PETAがやってくる。PETAというのは「フィリピン教育演劇協会」の略称で、「ペ タ」と読みます。

一月ほど前、黒テントの山元清多さんと会ったら、「PETAの連中、弱ったよ」という。「なんで?」「いつ来るという正確な日程を、なかなかいってこない の」「もう時間がないじないか?」「そうなんだよ。やつら、だらだらしやがって」――カラワンのスケジュールもなかなか決らないのがつねだが、なんといっ ても男だけの四人組。だが、こちらは男女とりまぜて二十五人の大所帯。生活計画にしても公演場所の確保にしても、準備する側は楽ではないのだ。

――とジタバタ悩んでいた日程がやっと決って、大いそぎの公演準備がはじまったところ。だしものは『昨日・今日・今日』。とりあえず、東京の公演データだ けをしるしておく。

 十二月十六日 六時三〇分
 労音会館(アールエヌ・ホール)
 十二月二十三日 六時三〇分
 都市センターホール
 連絡先 68/71黒テント
 

このほかに、八王子、甲府、松本、千葉などでも公演をおこなう可能性がある。以下は、黒テントがだしたプレス・シートから。

     *

――PETAは1968年に、英語ではなくタガログ語(国語)で芝居を上演する劇団として発足しました。以来、マニラのフォート・サンチャゴ国立公園のな かにある野外劇場「ラハ・スレイマン」を本拠に活動をつづけてきました。代表者のリノ・プロッカはフィリピンを代表する演出家であり、『マニラ・光る爪』 などの映画監督として国際的にもよく知られています。かれらはタガログ語による書下ろし作品を中心に、ブレヒト、ギリシャ悲劇、シェークスピアなどの作品 を、「ラハ・スレイマン」野外劇場だけではなく、大学、町や村の広場、バスケット・コートなどで、かれら独自の方法で上演しています。その方法は、たとえ ばマクベス夫人にマルコス夫人をかさねあわせるといった激しいもので、当然、マルコス政権の憎しみの対象となり、政治的にも経済的にも、さまざまな仕方で 妨害をうけてきました。

――舞台上演以外にも、かれらは演劇専門家ではない普通の人々(農民、学生、労働者、少数民族、子供たち)などと、共同で即興劇をつ くる運動をしています。それぞれの地域でおこったできごと、まだ報道されていないできごとを、参加者が取材したり討論したりしながら一つの芝居にまとめて いくのです。同時に、かれらはインド、スリランカ、インドネシア、マレーシア、パプアニューギニア、シンガポール、韓国、日本などの演劇人に呼びかけて、 「アジア民衆演劇会議」(ATF)という集まりを組織しました。その2回目の会議は1983年8月、黒テントなどの主催によって日本でおこなわれました。

――『昨日・今日・今日』はマルコス追放の「2月革命」の経験にもとずく、PETAの最新作です。もともとの題はタガログ語で「自由 への誓い」――この舞台は、すでに1年以上前から準備がすすめられ、その途中で「2月革命」が起こったため、大幅な改定が加えられました。PETAが得意 とする「ゴッタ煮」劇で、ブレヒトの『アルトゥロ・ウイの興隆』にヒントを得た『フェルナンド・マルコスの興隆』とか、学生たちの街頭芝居、かれらがかか わってきた民衆演劇の成果、少数民族たちの伝統文化などが、激しく、陽気に、かつ自在にあつめられています。マルコス政権下で押しつぶされてきた人々の夢 を、はたしたて新政権のもとで実現することができるのか? この終わりのない問に答えるべく――
第一部では、まずヴォードヴィル――アメリカ渡来のケバケバしい大衆演劇のスタイルによって、「民衆の充たされない希望」が表現されます。第二部では、あ らたに獲得された自由に対する不安と混乱――とくに新政府と軍部とのあいだに横たわる矛盾の中で、むたたび「民衆の充たされない希望」というモチーフがく りかえされます。

――この芝居の上演のために、ソクシー・トパシオなど250人の劇団員が来日します。ソクシーは有名なコメディアンで、テレビに「ソ クシー・トパシオ・ショー」という自分の番組をもっています。街を歩くと、「セクシー・ソクシー!」と声がかかるほどの人気者でありながら、同時に、民衆 演劇ワークショップなどの活動にも積極的に参加するPETAの演出家でもあるのです。デッサ・ケサダはフィリピン版「セサミ・ストリート」の司会もやって いて、子どもたちにも人気があります。また彼女は歌手でもあり、昨年来、日本でも何度か、ネグロスの飢えた子どもたちを救うキャンペーン・コンサートをひ らいています。

     *

かれらは「2月革命」のさい、大きな人形を街頭にもちだして、さかんなパフォーマンスをおこなった。そのすがたが日本のテレビにも映った。このときの経験 を芝居にしくんで、この夏からPETAは欧米班とアジア班の二手にわかれて世界ツアーをはじめた。日本にくるのは、そのアジア班のほうである。東南アジア の現代演劇集団が日本で公演をおこなうのは、これがはじめてだと思う。以下は、かれらが日本の観客にむけたメッセージ。

     *

こんにちのフィリピン情勢は国際的な関心をあつめています。今年2月の政権交替と、それ以後のフィリピンがどこへ行こうとしているのかという問題は、日本 の方々にとっても大きな意味をもっているはずです。来る11月10日には新大統領のコラソン・アキノ氏が渡日し、日本とフィリピンとの新しい関係がはじま ろうとしています。まさしくその時期に、私たちは日本を訪問します。私たちは、あの2月の「民衆の力」にもとずいて書き下ろした私たちの作品を、日本の観 客の方々に、ぜひ見ていただきたいと思います。

2月には、じつにさまざまな人々が、さまざまな仕方で行動を起こしました。もちろんPETAも街頭にでて即興劇をしたり、集会やデモでコンサートやパ フォーマンスをおこないました。アキノ政権が誕生してからは、政府が提供する民主的な空間を利用して文化活動をはじめました。国内の地域文化を支援して、 民衆に根ざした新しい演劇を発展させようとしています。私たちは今回の日本公演や「演劇ワークショップ」を、日本の方々と、こうしたフィリピンの新しい活 動とのネットワークをつくる基礎作業にしたいと願っています。


人とミミズ  小泉英政

ボクはたがやさない
ミミズはたがやす
ボクはみみずにすべてをまかせ
種をまいて
草をとるだけ


ワラを敷こうよ
はたけのうえに
ワラはミミズの家となって
そしてミミズの米になるのさ


肩を組もうよ
大地の神たちと
あったかな日ざし
さわやかな風
人よりたくさん
獲る気もないよ


ボクは酒のむ
ミミズはたがやす
ボクはミミズにすべてをまかせ
きょうは酒のむ
秋のおまつり

(86・10・13)


山がない(2)  巻上公一


まわりに残されたいくつかの残木の中には、セロファンテープでマーキングされた木がある。
「切ろうと思っていた木だな」
父は目を細めて、マーキングされた木に手をやる。
小さな堰堤の先に、鈍い青のビニールシートで水の流れる方向が示してある。そして、その水の行き先は、わが家の脇を通って川へ流れ込むのだ。
「遠くから眺めてみようか。すっぽりと山がなくなった様子がよくわかるから」
ぼくと父は、川を隔てて反対側の山並を一周する事にした。途中、道路沿いの石垣に大き過ぎる木があった。
「この木は切るべき木だな」
 自らうなづくように父は言う。
「木の根の巨大な力が石垣を崩してしまうよ」
ぼくは元林業従事者としての父を再認した。切るべき木と、切ってはならない木があるのだ。それは底知れぬ力を持った「自然」とうまく渡りあってゆく人間の 知恵を感じさせてくれた。しかし、長年の林業従事で得た知識も、廃業した今となっては使うべき道はない。大学を出た土木業の現場監督の青年たちにとって は、会社の方針を邪魔するうるさいオヤジにしか映らないだろう。

父が木こりを辞めた理由は、不意の事故による右足の大腿骨の複雑骨折が引き金となった。不自由な片足を使っての重労働は当然無理だろうという判断からだっ た。もちろん、ぼくはそれだけではない事を知っている。政府のでたらめな林野行政によって、原木は急激な値下がりをみせていてた。国鉄よりもひどいと言わ れる林野庁の赤字は、このところひとしきり話題になっている北海道の自然ブナ林がクローズアップされる事によって、ようやく一般にも知れ渡ってきた。仕事 をすればする程赤字を生むために、各地の営林署は、なるべく仕事をしない方向にあったようだ。わが家のすこし上の方にある営林署では、たくさんの人が転職 しているようだった。

原木の値下がり傾向は、外材との関係ではある事は、さすが素人のぼくにもおぼろげながらわかる。フィリピン、東南アジアで、商社はビシバシ木を切って輸入 をしている。「開発」とか「人材活用」とかいう名目のもとに、急激な自然破壊を他国に対して行なっている国が日本なのだ。そして、そんな事をしているか ら、日本で林野の人材がダブついてしまった。そこで、同じような「開発」とか「人材活用」なる名目で、北海道の素晴しい自然を破壊しようとしている。そこ には、何のヴィジョンも感じられないのだ。

反対側の山並に立ち少し足をひきずる父を見た。そうすると何故か、父の心にゆっくりと穴があいていくようで、ぼくはその心の穴を覗き見るように、向こう側 にすっかり剥ぎとられてしまった山を見つめた。

ぼくはその日のうちに、テニスコート計画を話してくれた友人の事ム所に行った。
「どう思う」
ぼくの質問に友人は眉をへの字にして答えた。
「直接、県の土木課に行った方がいいよ。下に言っても上に伝わるのには役所仕事だからとてもめんどうなんだ。県に言えばすぐ見にくると思うよ。それに、土 木の認可はすべてそこに提出するようになっているし」
友人は、地図で場所を確認し、コピーをとって問題の個所に赤丸印をつけてくれた。

翌日、父はそのコピーを持って、県の土木課へ行った。そして、帰ってくると、「まったくあいつらはバカヤローだよ」と憤慨している。「人をたらいまわしに して、小一時間待たせるんだ。確認はどのように出ているのかと言っても、さあとかわかりませんとかとぼけてやがるから、怒鳴ってやった。そしたら、やっ と、ああここの事ですか。出てます、出てます、とほざきやがる。それに、きょうはもう遅いですから、近いうちに見に行きますだとさ。人をバカにするのもい い加減にしろってんだ。まだ午後の三時だぜ。一緒に見にくればスグじゃねえか。たいした仕事をしている様子もねえし、ふざけたバカヤローだよ」
「で、きちんと認可されてたわけ?」
「うん。ちゃんと近隣のハンがあるっていうんだ。だから、うちは押した覚えはないって言ってやった」

その場所は、風致地区に指定された古くからの別荘地なのであるが、どうやら近くの農家と一緒の町内会を嫌って、まるで異空間のように、かなり離れた町内会 に加わっていたようなのである。だから、近隣とはまるで関係のない住民のハンによる認可なのだ。

(つづく)



料理がすべて  田川律

バラバラになったトリの丸焼き
どういうわけだか、作曲家でピアニストの萩京子さんとこで十何人前の料理を作ることになった。集まったメンバーも不思議だったが、ぼくが作ったのもかなり 妙なもの。というよりは、急拠予定変更して作ったもの。というのも、萩さんのうちは立派なうちだから、電子レンジかガス・オーブンのどちらかはあるだろう とこちらが勝手に思い込んで、しかも下北沢の市場で買い出しをしている時、つい、いつもの「荒井鶏肉店」へ、挽肉を買いにいって「久し振りやのに、挽肉だ けではわるいし、そや、鶏の丸焼きでも作る」と思ったのが、そもそものつまずき。もっとも帯広から送って貰ったメイクインを持って出たのだから、こうなる とは予想されたが――
そのほかにも、イカやらエビやらニンニクやらトマトやら、レーズンやらくるみやらを買って、つつじが丘の萩さんのとこへ着くなり「オーブンありましたよ ね」ときいたら、「それがないのよね」とのこと。以前に何度かお邪魔していたのに、それに気づかなかった当方が悪い。「ほなら、べつべつに作ればいいか」 といつもの“応用癖”が出て、トリは白蒸し、中に詰めるはずのイモのサラダはサラダにして出すことにした。

トリの白蒸しは久し振り。そもそもは十年近くも前、横浜のテレビ神奈川で、男の料理とやらで、イモとベーコンとトマトの重ね煮を作った時、同じワイド番組 で中華街から来たプロの人が、これを作っているのを見て“盗んだ”のがはじまり。トリを水の中に入れて蒸す。はじめからこれを作るつもりだったから丸ごと 蒸した。いやゆでたのだ。あの番組の時のプロは、これを短冊のように細くこまかく切ったが、そこはそれ、いつもの田川流。身をほぐす。そこへ長ネギを細く 刻んで乗せる。この時トリに塩、コショウをするのをすぐ忘れる。おまけにこの日は忘れたが、ショウガも刻んで乗せる。さらにタカノツメを刻んで乗せる。フ ライパンにたっぷりのサラダ油とゴマ油をまぜたものを入れ火にかけ、煙りがあがった頃をみはからってこの油をくだんのトリにジューッとかける。それでオシ マイ。熱くても冷たくなってもおいしい。

イモのサラダは、とりたてて変哲ではない。イモの皮をむいて輪切りにして、ゆでて、ボウルの中で潰し、ここへレーズンとくるみをなるべく細かくしたものを 加え、塩、コショウ、マヨネーズで味つけをする。イモがおいしかったせいかとてもおいしいのができた。キュウリを入れないので、水もでないし。べつべつに して大成功かな。

ほかには、ヤリイカの肉詰め。これはヤリイカの中を抜き、そこへ挽肉を詰め蒸す。これはゆでないで蒸すところが大事みたい。これを輪切りにしてナンプラー とスダチかカボスか沖縄のカラマンシーに似た実、それらがなければレモンを絞った汁をまぜ、そこに一味唐辛子か、カイエンペッパーを入れた調味料をつけて 食べる。イカと挽肉という組合せに意表をつかれる。だけどやってみるとこれがなかなか合う。

長靴で作ったコロッケ
この時、当然のように、たくさん作ることの難しさみたいなものが参加者からいろいろ出されたが、中でもケッ作なのは、こんにゃく座のバリトン歌手、こない だ“信じられないほど”観客が来た林光作曲家のオペラ「セロ弾きのゴーシュ」のゴーシュ役をした大石哲史くんの話。

かれは京都山科の大きな寺の息子。そのかれが、学生の頃、山科駅前のコロッケ屋でアルバイトをしていた。
「よう売れるコロッケ屋でやな。一個十五円やねんけど、いつも買う人が列作ってはんね。そやし、ちょこちょこ作ってたら間に合わひん。そやからタライで材 料まぜんねけど、まぜんのがすごいで。長靴はいて踏むねん。まええけどな。オソロシイのはその長靴がそれ専用とちゃうことや。終ったらそれはいて、調理場 の床掃除すんねんで。次の日またその長靴はいてコロッケの材料まぜんねやん。もちろん、長靴洗うで。そいでも、それからそこのコロッケもうよう食べんかっ たかな」

一回行ってみて、見てみたいな。食べたいとは思わんけど。よう売れてる、というのはそれだからどこかオソロシイ。やっぱり材料買うてきて自分で作るのが安 心や、と思うが、その材料が似たように作られていたり、着色剤や防腐剤いっぱい使われたりしたりするからな。ここでもぼくらは“逃げられない”のではない か。

舞台の上の豆腐お好み焼
その次の週の日曜日、川崎の鷺沼公園のど真中で、お好み焼きを焼いた。川崎生活クラブ生協の「生き活きまつり」の行事の一環として、ステージで何かやっ て、と頼まれて、ほんならお好み焼きでも、と引受けた。その打合せをしている時、祭の担当者のひとり神戸出身の佐藤さんが「うちは、お豆腐入れてお好み焼 作るんよ」というので、これは面白そうと、早速それもとり入れることにした。関西では、長芋をすって入れるのが有名だが、豆腐ゆうのは初めて。あらかじ め、前々日にうちで作ってみた。なかなかおいしい。そこで、三種類のお好み焼を作ることにした。長芋を入れるヤツ、豆腐、それにジャガイモ。長芋にはイカ を、豆腐にはブタ肉を、そしてジャガイモにはカキ。こらなかなかオモロイ組合せだ、とやる前から本人も楽しんでいた。

さて、朝の十一時半に会場について一番予測してなかったのは、公園全体に渦巻いている砂埃。「そうか、野外やねんな」。以前、ATF(アジア演劇会議)の イベントで、世田谷の羽根木公園で「ホンコン揚げ」というのをやったことがあるが、この時は前日が雨だったし、あの公園はしっかり雑草が生えてて、しかも 調理するところはテントの中だった。だから、砂埃は計算に入ってなかった。舞台といっても、公園の真中に一尺ぐらいの高さの台を組んであるだけで何のおお いもない。“袖”は地面。そこへ机を出し、そこでキャベツを刻み、長芋、ジャガイモをおろし、粉をまぜ、イカをさばき、卵を割る。産地直送の野菜や、豚 汁、おでん、石鹸、古着などをあさるのに忙しい人たちは、べつだんこちらに何の注意も払わない。ステージでは専修大学の学生がカントリーをやっている。

鉄板を口がふたつあるレンジの上にのせ、プロパンガスで熱くしておく。さて、時間がきて、机をステージの上に運び、マイクで「ほならこれから関西風お好み 焼を三種類焼きます」といった途端に、こどもたちが大勢集まってきて、次々にステージの上に上ってくる。その中には親たちもまじり、まず鉄板に広げた、長 芋とイカのお好み焼きに群がる。十人前のつもりだったので、直径五十センチぐらいのサイズ。とても一度にひっくり返せない。その上、フライ返しも小さいの で、幾つにもわけてひっくり返したが、親たちが続々と手伝ってくれる。
「こっちの方が火が強いから、もういいんじゃない」「もっと小さくした方がひっくり返しやすいよ」「もうこれ焼けたみたい」の間に、こどもたちが「これた だ?」「わたしも食べたい」と次々に叫ぶ。

気がついたら、ステージで焼いているというより、少し高いところで「お好み焼屋」さんをやっている雰囲気になってきた。しかも、食べる人も参加して焼く “店”だ。三十枚用意した紙皿はあっという間になくなる。
「食べた人はお皿返してね。また次の人が使うから」と、“助手”してくれた生協の小野さんも、ソースを出したり、青のりをかけたり大忙し。ちらっと時計を 見ると、一枚焼くのに十五分。持ち時間は三十分だから二枚しか焼けない。次は豆腐とブタのお好み。目の前で豆腐を砕き、粉とまぜてすぐに、鉄板にのせる。 今度はじめから、二枚にわけて焼くことにするが、あちらこちらから手が出てきて、見る見るうちに刻まれて焼ける。まさに獣がえものの肉に群がっているの 図。もう説明なんかしている暇はない。ただひたすら焼くのに忙しい。それもみるみるうちになくなっていく。三枚目は、“袖”におろしてから焼いた。不思議 なことに、“袖”に来たとたん、誰も寄ってこない。もう終った、と思われたのかな。この最後のジャガイモとカキ。おいしかったが、ジャガイモはすらずに、 ゆでてからカキといっしょに、まず焼いて、そこへ普通のお好みの具をのせて焼いた方がおいしかったみたい。あっという間に終わったライブ。

シャケをおろす
帯広から、生のシャケをまるまる送ってきた。生だから大急ぎで、とこの原稿の合い間におろした。腹の中にはスジコがたっぷり。これをまずていねいに出し て、しょうちゅうと醤油で漬ける。次に残りの内臓と血を抜いて、背中から二枚におろし、それぞれを三つぐらいに切りわける。同居人の大谷くんに「ちょっと 会社の人にもお裾分けしたら」と、ビニールでくるんで持っていって貰う。冷凍庫を開け、そこへなにはともあれしまう。ルイべにしたらおいしそう。それにし ても、大きな魚をさばいたのは久し振り。小さなまな板ではどうしようもないので、ステンレスの流し場全体を使ってやった。

先日「朝日新聞」に「ほかほか弁当」が大もてと書いてあったが、それよりはやっぱり、こうして苦労して自分で作っていく方が、おいしいのは明らかだと思う けど。世の中そんなことをしている間もないほど忙しいのか。しかし六本木に何軒もあるといわれる「スナック」では、昼間OLをし、夜これらの店で働く女の 人が大勢いるとか。ひとりで暮す“楽しみ”が見つからなくなってきているのか?





「カフカ」ノート  高橋悠治


――ブゾーニ「新音楽美学のスケッチ」(一九〇七)最終章より
「善悪の彼岸」のなかでニーチェは言う。「ドイツ音楽については、いろいろな点で用心が必要だとおもう。魂と感覚の健康のために最大の努力をもった訓練場 としての南国を、何ものにもたよらない独立した種族の上に惜しみなく降りそそぐ陽光の洪水とその魅惑あふれる南を(わたしと同じように)愛する人ならば ――そうだ、その人はドイツ音楽に対して多少とも警戒するようになるだろう。それは出会う度ごとに興をそぐだけでなく、人の健康を害するからだ。
このような(生まれによらず、信条による)南の人がもし音楽の未来を夢みるとすれば、かれは同時に北方からの音楽の救済を夢みるはずだ。その時かれの耳に はもっと深く、力強く、おそらく不吉で、ふしぎな音楽への前奏が鳴りひびく、これこそ超ドイツ音楽であり、あらゆるドイツ音楽とはちがって、あの青く官能 的な海や地中海の空の前に生気をうしない、枯れしぼむものではない――これこそ超ヨーロッパ音楽であり、砂漠の黄土色の日没のなかにもすっくと立って、 しゅろの木と魂を通わせ、偉大でうつくしく孤独な獣とともにさまよい、その心をなぐさめることができる音楽なのだ。
わたしのおもいえがく音楽のたぐいまれな魔力のもとは善悪からの完全な離脱にある――その表面は、船員の郷愁にも似たもの思いにより、また、さまざまな黄 金の影とやさしいはかなさによってかき乱されることがあるとしても――そのような芸術のもとへ逃れてゆくものには、滅びゆく道徳世界ははるかに色あせて、 ほとんど見分けもつかない。それは行き暮れた逃亡者もあたたかくむかえ、ふところ深くかくまってくれるような芸術だろう。」

またトルストイは「ルツェルン湖」のなかで、風景の印象を音楽的印象に変換する。「湖にも山にも空にも一本の直線、一つの原色、一個所の静止点もない―― いたるところに運動、不規則性、気まぐれ、変化、影と線の絶え間ない戯れ、そしてそのなかに美のやすらぎ、やさしさ、調和と必然性のすべてがある。」
この音楽が実現される時ははたしてあるだろうか?

ブゾーニの、このパンフレットには「音楽は生まれながらに自由だ。自由をかちとるのがそのさだめだ」ということばも見える。生まれながらの自由には何の問 題もない。自由をとりもどすのは、まったく別なことだ。かんたんなようで、これほどやりにくいことはない。

四つの音しか知らなくても、そこから無限の変化をつくりだすことができる。ピアノの鍵盤全体を使ってつくりだせる変化は、それ以上のものにはならないだろ うし、じっさいにはそれよりはるかにすくない。88のキーをあつかうためには、幾重にもつみかさなった組織が必要になり、音が増えるにつれて制約もおおき くなってゆく。そして、88を知ったあとの四つの音は、それ自体が制約であり、この意図的な貧しさほど自由から遠いものはない。はじめにあった四つの音は 見えるものと見えないものとの境界をかたちづくっていた。後のは、おおくの音のなかから否定を通じてえらばれたもので、文化的な価値をもたされている。 じっさいの音楽としても、起原への回帰というよりは、過去や異文化からの借用として実現することがおおいだろう、ミニマリズムがそうであったように。

千年王国、夢の時、夜の時間などとして、それぞれの文化の枠のなかでおもいえがかれた自由は、時間の外、善悪の彼岸、文化の外側にありながら、日常の裏側 の、すぐ手のとどきそうなところにあって、秩序の破れ目から一瞬こちら側にはみだしてくることもある。音楽にもそれを捉えるためのくふうが、さまざまなか たちをとって存在する。

だが、それらのくふうは技術や方法となって人に伝えられるようなものではなかった。技術や方法は文化のなかにある。そうではなくて、そのすぐそばにありな がら、個人のなかにとどまるもの、だれにでもわかるようにおもわれるのに、やってみると伝達不可能なものが問題なのだ。「心から心へ」ではない。心を超え たものに突然めざめる瞬間がある。その瞬間にむかってひらかれているための、ほとんどむだとしかおもえないほどの長い準備、日常のいたるところに永遠を釣 り上げるわなをしかけておくこと。(カフカ、ベンヤミン、エルンスト・ブロッホに共通する、ちいさなものへの関心。)

音楽を通じてそれをしようとおもうなら、あたらしい音のイメージによってではなく、手の訓練によって、ひとつの音型のかすかなゆらぎをくりかえし、変化を 加速しながら、またたきの間に全体の色合を転換することができるまでに、さらにそこに手のコントロールできない透かし模様が浮かびあがるまでの訓練によっ て近づくのだ。


走る・その十  デイヴィッド・グッドマン


やわらかい闇に包まれてぼくは走っている。少しばかり欠けた満月の光でやっと道が見える。空には無数の異なった世界がひしめきつつ共存し、たがいに照らし 合いながらきらめいている。走る足が落葉をふむ。足が車輪のように回転して、意識は次第に瞑想に近い状態に沈んでいく。

     *

子供たちには本を読ませたり、外で遊ばせたりして、なるべくテレビを見せないように努力している。テレビを見すぎると、怪物のように機嫌が悪くなるから だ。ブラウン管から切り離されることがほとんど生理的な苦痛らしい。だが、家族そろって観るテレビ番組もある。「コズビー・ショウ」がその一つ。コメディ アンのビル・コズビー扮する産婦人科の医師、弁護士として活躍しているその妻と、彼らの五人の子供たちの喜劇ふうホームドラマだが、一昨年から放映されて いるこの番組は、アメリカで視聴率のもっとも高い番組である。教育学の博士号をもつコズビー氏が著した『父親術』という書物もベストセラーで、売り上げは すでに二〇〇万部を突破したという。コズビーはもはやアメリカの父親の模範である。ところで、コズビー一家は黒人である。

九月から始まった「トゥゲザー・ウイ・スタンド」という番組も大好きになってきた。これも家庭劇だ。父親は引退したバスケットの選手で、目下スポーツ用品 店を経営している中年男。バーブラ・ストライサンドの前夫で、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の映画に出演したエリオット・グールドと いうユダヤ系アメリカ人がこの役をやっている。妻はほがらかな金髪の美女で、子供が四人。夫婦の間に生まれた、十五の娘と十三の息子の他に、養子として家 族に加わってきた四才の娘と、やはり十二、三才の息子がいる。養女は目に入れても痛くない、といった類の黒人の子で、息子は東南アジア出身の難民の子だ。 三十分番組で、その短い時間に兄弟喧嘩など、さまざまな事件が起こるが、皆力を合わせて(これが番組の題名の意味だが)それらと取り組んでいき、解決して いく。

この二つの番組なら、子供はいくら観てもかまわない、というのがわが家のテレビ方針だ。

     *

八月二十一日、教職員がストライキに突入する前に、ぼくたち全員はウエストヴュー小学校を訪ねた。ヤエルの入学手続きをすまし、学校を見物するためだっ た。体育館にテーブルが置かれ、テーブルに向かって坐っている小母さんたちは入学願書を配ったり、受理したりしていた。ふたたび学校が変わることにかなり の不安を感じていたらしいヤエルが体育館を走り回って母親を困らせていた間に、ぼくは書類に記入した。「さ、できたよ」と合図すると、全員が集合して、書 類を提出しにいった。

入学願書を受理した小母さんはヤエルを見て、カイを見てぼくたちを見て、そして書類の「人種」区分の箇所に数字の「四」を書き入れた。「四というのはなん ですか」とぼくは聞いた。不信に思ったからではなく、ヤエルの顔を見れば、「人種」が判るのかどうか、知りたいと思ったからだ。「四というのはアジア系で す」と小母さんは答えた。「へえ」とぼくは思った。「白人とアジア人を掻き混ぜれば『アジア系』ということになるのか」小母さんは明らかにヤエルがぼくた ちの間に生まれ、両親に似ている子だと思ったのだから、ぼくとしては異議はべつになかった。「すみませんが、スペイン系というのは何番ですか」とぼくは聞 いた。「三ですけど」と小母さんは不思議そうにぼくの顔を見て答えた。「それなら、うちの子は三です」とぼくはいった。「ああ、そうですか」といった小母 さんは、誤りを訂正した。

あとで調べてみたが、学童の人種を記録することは連邦政府によって義務づけられているという。アファーマティヴ・アクション(少数民族に対する差別をなく すための積極的措置)のためにその統計が必要だそうだ。

     *

一昨年の夏、カイをつれて韓国から帰ってきた直後、シャンペンの市営プールにつれていった。幼児用の浅いプールでばちゃばちゃ遊んでいると、三才ぐらいの 黒人の養女がよつんばいになってむこうからやってきた。髪の毛は「コーンローズ」、つまりとうもろこし畑のように、いくつもの平行線に編んであり、彼女の 黒にちかい濃い褐色の顔は日に焼けて輝いていた。「どうしたの、この子?」と彼女はカイの顔をじろじろ見つめながら訊ねた。「どういう意味?」「だって、 ぺっちゃんこにつぶれてるじゃないか、顔が」

ぼくは唖然とした。幼い彼女の目には、目の細い、鼻の低いカイの東洋人の顔はつぶれたようにみえるらしい。彼女の黒い顔は、アメリカに着いたばかりのカイ の目には、どのように映っているのかなと思いながら、「べつにどうしてもないよ、ただこういう顔なの」とぼくは答えた。だが、その子は納得しない。近くま できて、カイを細かく調べ、そして考え深そうに反省してから、結論を出した。「わかった! この子はイギリス人だ!」

     *

「あたしはブラウン・パーソンだからアフリカにいけるんだ」とヤエルは以前からいっている。ぼくたちには一度もいわれていないが、ヤエルは自分の皮膚の色 を意識しているらしい。「お父さん、お母さんは白いからだめだけど、あたしはだいじょうぶ。いまは、まだなんでも口にいれて、病気になるかもしれないから まだだめだけど、もう少し大きくなったらアフリカにいきたい。あたし褐色人種だからいけるんだ。お父さんもお母さんもカイくんもつれてってやる。あたしと いっしょなら大丈夫だからね」
「ねえ、お母さん、ほんとうは、肌の白い、金髪の子供がほしかったのとちがう?」

     *

四十五分ぐらい走って家に帰ってくると、いわし雲がうすむらさきの空に漂っているのが見えるところまで明るくなっている。庭に植えた菊の花びらはその光を 浴びて無数の色に変色している。ぼくはうちのイギリス人とブラウン・パーソンの朝一番の顔を見に、急いで家にはいる。


キリコのコリクツ  玖保キリコ


くくられた風景は私を非常に魅きつける。

仕事の合い間に、仕事から逃れるようにして見るテレビで、たまたま美しい自然の風景なぞ目にしてしまうと、「テレビの中の世界はこんなに日の光の元で美し く輝いているのに、何故自分は閉じ込められた室内で仕事をしなければならないのだろう。ああ、太陽の光が欲しい!」と、ついついぼーっと、その画面の前で 呆けてしまう。アシスタントの「玖保さんたら」という鋭い視線で、はっと我に返り、「いけない、いけない、いけない」と自分に言い聞かせるためにぶつぶつ とつぶやき、私は仕事に戻るのだが、頭の中はもう「光り輝く風景」で一杯になっており、その風景の場所に行けなくても、せめて光の中さえ歩ければ幸福な気 持になるはずっ! と決め込むのである。

さて、次の日になって原稿も上がり私はそれを編集さんに渡さなければならないので、念願の日の光の中をいやでも歩かなければならない状況になるのである が、実際外に出てみると、眠たいわ、まぶしいわ、頭がぼーっととしているわで、思ったほど幸せな気持になることができない。私はちょっぴり淋しくなって、 「まー、ねー、体調が悪いせい。きっと」と自分を慰めながら、とぼとぼ駅に向かって歩いていくのである。当然、そのセリフの中には、「体調が良かったら、 幸せなはず!」という気持ちが含まれているわけだが、冷静に考えてみると、漫画家にそんな朝が来るわけがない。いわば、架空の光景に憧れているようなもの である。

また、雑誌やテレビ等で、自分の行ったことのある場所がでていたりする。そうすると、私は「そう、そう。本当にここはいい所だった。また行きたいものだ」 と、その誌面やら、画面に対して、相づちを打つのであるが、その時の自分の状況をよーく思い出してみると、素直にその経験は楽しかったとは言いかねること もある。

確かに、写真や画面の海は美しい。

しかし、その海で泳いでいるときの自分の気持ちというのを思い浮かべていると、塩水が鼻に入って苦しいとか、目に入って痛いとか、のどに入ってひりひりす るとか、結局、蘇ってくるのは苦しい思い出が多い。
私はいつも、苦しいとかつらいとか思いながら海で過ごす自分に対して、ある種の不思議な感覚を覚える。

全く楽しくないわけではない。しかし、こうして塩水や強い日ざしに苦しむ自分というのも確かに存在している。楽しさで苦しさがなくなるわけではない。つら いのは私だけなのだろうか。他の人々は苦しみが無く、楽しいだけで済んでいるのだろうか。遊んでいながら、こういうことを考えてしまう私が変なのだろう か。

つまり、私にとって、リゾート地に行くということは、思いきった行動なのである。冷静に自分を見つめれば、自分が実際、海に行ってどうなるかということが 想定できるからだ。苦しむとわかっていて、行ってしまうのだ。何故、それでも行くのかと言えば、それは人に誘われるからである。

山にしたって、街中にしたって同じことが言える。実際、登ればつらいし、歩けば疲れる。(自分でも、持久力のない人間とつくづくいやになるほど)

それでも、その風景を目にした途端思うのは、海の青さとか、山の風のさわやかさとか、街の活気なのである。区切られた空間としてのそれらの風景は、経験を 経てある程度のその場の自分の行動もわかっている私を、屈伏させてしまう力があるのだ。「それはつまり、苦しかったといっても結局はその体験が楽しかっ たっていうことでしょう?」と言われてしまうかもしれないが、そういうわけでもないと思う。

先にも述べたように、つらいと思うと同時に全く楽しくなかったというわけではないのだ。もちろん、その体験が楽しいものであったことを私はきちんと認め る。ただ、その楽しさがわたしにその時同時に存在するつられを全く忘れさせてくれるほどの力が無かっただけだ。

だから、私を魅了する風景というのは、私が知っている風景と同じであって同じでない。どこが違うのかというと、それがくくられているかくくられてないかの 差であると思う。

本をめくるとか、テレビを観るとかで得られるくくられた風景に自分を置いた場合、「私」という駒はいくらでも好きなように動かすことができる。自分を動か す力は想像力だけですむことなので、それは映画を見ているような気楽さがある。

しかし、その同じ風景がくくられた風景ではなく、自分をとり囲む風景となったとき、まず感じるのは重力である。くくられた風景の中にいる自分は、無重力と まではいかなくとも、限りなく行動できるパワーがあるような気がするのだ。ところが、実在の自分は、足を一歩動かすにしても、全て自力でおこなわなければ ならない。
自分で動くということは自分の体の重さを感じることである。無限に思われた自分の行動力に、当然限りはある。くくられていたときは無かった疲労感が出てく る。

私はあれほど憧れていた風景の中で途方に暮れる情けない自分を発見するのだ。こんなに自分の体は重かったのか。こんなに自分の体は疲れやすかったのか。こ れが現実の重みというものなのだ。現実とは重さなのだ。

現実にのしかかられている私をそ知らぬ顔でとり囲む風景は、くくられた風景より近いはずなのに、遠く感じられてしまう。もちろん、「引き寄せておいて冷た くするなんて」と恨むつもりは毛頭ない。ちょっぴり、「あわれ」と思うだけでその「あわれ」も予想していたことなのだ。わかっていながらも、私は今日も、 くくられた風景に架空の幸福を思い浮べながらもついついぼーっとしてしまうのである。


編集後記

●一応決めてある締め切りの日を過ぎてから座談会をやり、その録音テープをおこすのは、あまりにも手間と時間がかかりすぎる。なにか省ける部分はないかと 考えておもいついたのがワープロ筆談だった。どうすれば簡潔にできるか、と何事につけ、つい考えてしまう。とくべつ忙しい暮らしをしているわけでもないか ら、クセのようなものであるらしい。
新しもの好きなトラたちはニコニコしながら当編集委員会へやってきた。11月1日夕方のことである。ワープロはテーブルの上に置いてあって、その前に椅子 がひとつ。そこにこしかける人以外はすぐとなりの(せまい部屋なので、すべては隣接しあっているのだ)食卓のまわりの座布団にすわり、何か食べたり飲んだ りしゃべったり寝たりしている。指名されたら腰をあげ、ワープロの前で孤独に作業をする。下から冷やかしの言葉がかかったりする。仕事と宴会の二重の空間 が錯綜してしまってどうも簡潔とはいいがたい。ならば次からはどうするか。
たとえば、ワープロの前にこしかける時間の制限をするとか、ひとつの話題(?)を引き継ぐのは二人までとするとか、ゲームの規則をいくつか決めてみたら?  そうすれば、自分の番がくるまで、みんな沈思黙考して策を練るにちがいないから、宴会なんかやってはいられないだろうな。
中華料理の円卓みたいなのにワープロを置いて、参加者がぐるりと座り、ワープロをそれぞれの位置に回転させるようなのも、一度はやってみたい気がする。

●「人とミミズ」は、ご存じ、カラワンの「人と水牛」の替え歌。楽譜つきですが、これは大体こんな節で、という目安にすぎません。もともとカラワンの歌に 楽譜はないのだし、詩をじっくり見て、うたいたいように適当にメロディーにのせてください。

●このたびは友部正人さん、豊田勇造さんたちの招きで、カラワンの来日が予定されています。ペタにせよ、カラワンにせよ、かれらを呼んで日本で公演する主 催者になるのは、ほんとうに楽なことではありません。来る? と聞けば、行く行く、とふたつ返事が返ってくる。それでは、とはりきってさまざまな準備をす るわけですが、必要な連絡事項にたいする返事など、こちらは当然折り返し返ってくるとおもって待っていても、あちらはまた当然のごとく返事を書いたりはし ないのですから。来るというのはほんとなのかどうか、実際に顔を見るまで、すべては霧の中での準備作業といった感じです。そんなふうで、ことしも不安な材 料はあるようですが、きっとかれらはやってくるでありましょう。
いま決まっている公演スケジュールは次のとおりです。念のため、会場時間や入場料など電話で問い合わせてからおでかけください。
12月7日(日)法政大学学館大ホール 1時会場 問い合わせ・03・264・9470
12月9日 青山スパイラルビルB1CAY  問い合わせ・03・498・5790
12月13日 大阪豊中解放会館ホール  問い合わせ・06・332・4980
12月16日 名古屋東別院青少年ホール  問い合わせ・052・671・8373
12月22日 盛岡教育会館 問い合わせ 0196・51・7202
12月31日 梅田コマ劇場
かれらと会って「人とミミズ」を日本語のまま、伝授するのを楽しみに、待つことにしたいとおもいます。

●早稲田奉仕園コーヒーブレイクに津野海太郎さんが登場します。林郁さんとの対談で、テーマは「日本人の占領、戦時・戦後」 12月6日(土)午後6時30分から。場所は早稲田奉仕園セミナーハウス・ロビー。 Tel 202・6039、6040。コーヒーつきで五百円です。

●巻上公一さんは土地問題研究にめざめてしまったようだけど、本職はミュージシャン。一九八一年十一月の国連パレスチナ・デー記念コンサート「パレスチナ に愛をこめて」で共演したのが、たぶん最初の出会いだったとおもう。それからおたがいのコンサートを見に行ったりするようになった。水牛楽団はもう実際の 活動をしなくなったが、かれのほうは、そのときもいまもヒカシューというおかしな名前のバンドのボーカルとして活躍している。曲はロックといっていいのだ とおもうが、かれの声はなんだか演歌みたいに聞こえたりすることがある。一度そう意識してしまうと、ますます演歌に聞こえてくる。
  キリンの舌は黒い
  キリンの首は長い
  キリンのような夜に
  黄色いまだらの夢
  どうして私を見る
  私はキリンじゃない
  スフィンクスの謎に今夜も眠れない
   …………
かれの作ったこういう詞が演歌に聞こえるとは、いったいどういうことか。ミス・マッチだな。ミス・マッチといえば、巻上公一クンが女になると、とてもかわ いい。キャリル・チャーチル作「クラウド・ナイン 銀色の雲の上で」という青い鳥の芝居で、若い母親と、革ジャンひっかけたゲイの恋人の二役を演じたのを 観たが、不思議にも母親役のほうが現実味もあり、なによりかわいいのだった。部分カツラはつけていたけど、お化粧なんかほとんどしていない(ように見え た)のに、ミス・マッチどころか、とてもマッチしていた。

●ワープロ筆談による編集会議であきらかになったように、「水牛通信」は百号までで現在のかたちをやめることにしました。最終大イベントをどのようなもの にするのか、また、百号後の水牛はどうするか、忘れてならない水牛倶楽部計画のことなどに関しては、残りの一年の誌上をつかって少しずつ決めていくことに なるとおもいます。百号までぜひ、おつきあいください。
直接購読していらっしゃる方には、いまお預かりしている購読料が切れた時点で、百号までの購読料の額を個別におしらせするという方法をとることにします。 大イベントのために、購読料はやはり最後まで請求します!
と、書いて、休憩がてら、今日配達された郵便振替の払い込み通知票を開封したら、二年分まとめて送金してきた人がいるのでした。うーん。(八巻)




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